目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
第2回「『資本論』を読む会」の報告
第3回「『資本論』を読む会」の案内
第3回「『資本論』を読む会」の報告
第4回「『資本論』を読む会」の案内
第4回「『資本論』を読む会」の報告
第5回「『資本論』を読む会」の案内
第5回「『資本論』を読む会」の報告
第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第9回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第45回「『資本論』を読む会」の案内

『資本論』 を 読 ん で み ま せ ん か 

                                    

                                      

 

 前回(第44回)の報告の最初にも紹介した、大阪府教育委員会による、教育労働者への不当な思想弾圧は、とうとう、教育労働者の解雇にまで発展しました。

 

 前回も紹介したのですが、勤務日ではなかったが、卒業式当日、校門前で生徒と保護者に日の丸・君が代の強制に反対するビラを配布し、そのあと式場にも参列して、斉唱時に起立しなかったという教師がその対象者です。今回の不起立者17名全員が訓戒処分を受け、うち8名が再任用の内示が保留されたままであったのが、彼だけがその内示を取り消されたというのです。

 

 この不当な処分を受けた教育労働者について、『朝日新聞』(3月30日)は、かなり詳しい紹介記事を掲載しています。

 

 

今回、処分を受けた教諭(3月30日「朝日」から)

 

 

 まず「不起立は人から職を奪うほどの大きな罪だろうか」と疑問を呈しています。まったく同感です。

 

  府教委は今回の処分の理由として「勤務実績が良好でない」としています。しかし、この新聞記事によれば、この教諭の同僚は、昨春、定年を迎えたこの教諭を生徒たちが胴上げしたのを見たと書いています。そして「あんなに慕われる先生はいない。生徒を尊重し、決して馬鹿にしないから、どんなワルも心を開く」とその同僚の言葉を紹介しています。また職場では処分取り消しと再雇用を求める署名が同僚の間で行われ、8割を超える署名が集まったのだといいます。そればかりかこの教諭は、堺市の伝統産業であるタタラ製鉄を教育実習に取り上げ、その教育実践によって、昨年3月、当の教育委員会から表彰までされているというのです。何が「勤務実績が良好ではない」でしょうか。

 

 この教諭の「勤務実績」のどこをみても、再任用の内示を取り消さなければならない理由はないのです。おまけにこの教諭は卒業式当日は、勤務日ではなく、校長も「休みの人間に職務命令は出せない」と述べているのに、府教委は、「事前の校長からの指示を口頭での職務命令とみなした」と強引に解釈して、職務命令違反として訓戒処分にしているのです。

 

 しかし府教委が処分の根拠とした地方公務員法第32条は「職員は、その職務を遂行するに当たって」と断っており、だから勤務日ではないものが「職務を遂行する」立場にもないことは当然であり、よって当の教諭に、この法律を適用することそのものがそもそも出来ない話なのです。

 

 こうしたことを考えると、今回の処分は、府教委が、この教諭が校門前で配布したビラの内容まで処分の理由の一つにしていることをみても、明らかに思想的な弾圧であり、統制であると言わざるを得ません。これは、教育労働者全体への思想統制を強めるために、一つの見せしめとして、今回の処分が行われたことを物語っています。

 

 私たちは、こうした教育労働者への攻撃を断じて許すことは出来ません。それはやがては、国民全体に対する思想統制と弾圧が開始される兆しを意味するからです。

 

 マルクスは『共産党宣言』において、「教育を支配階級の影響からひきはなす」べきことを次のように述べています。

 

 〈社会が教育にはたらきかけるのは、なにも共産主義者が発明したことではない。共産主義者は、ただこのはたらきかけの性格を変えるだけである。ただ教育を支配階級の影響からひきはなすだけである。〉(全集4巻492頁)

 

 教育への不当な思想統制を断じて許さない闘いを!

 厳しい闘いを強いられている教育労働者へ支援の手を!

 『資本論』を学び、闘いの武器として鍛え上げよう!

 


第45回「『資本論』を読む会」の報告

第45回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎桜も終わり・・・・

 

 あっというまに桜は終わり、今はツヅジが満開です。

 

 第45回「『資本論』を読む会」が開催された4月15日には、会場の堺市立南図書館の3階の窓からは、散り急ぐ桜がまだ僅かに残っていました。

 

 しかし5月のゴールデンウィークも終わりました。つまり報告はずいぶんと遅れてしまったわけです。せっかくの連休はどうしたのか? 言い訳はしません。遊ぶのに忙しく、また雑用もあって、無駄に過ごしてしまった次第です。面目無い。

 

 というわけで、とにかく遅ればせながら、第45回の報告を行わなければなりません。今回から、ようやく第2章に入りました。今回は三つのパラグラフを進んだだけでしたが、この章もなかなか難しく、それも報告が遅れた一因ともいえます。しかし、とにかく、テキストを徹底的に読み込んで、その解読を試みることにしましょう。

 

◎第1章と較べた第2章の課題

 

 まず第2章にとりかかるにあたって、やはり第2章の課題について、論じる必要があります。つまり第2章では、何が問題になるのか、また何が新しく考察の対象にならなければならないのか、ということです。以前にも一度紹介したことがありますが、もう一度、第2章の課題を確認するために、初版のいわゆる「移行規定」と『経済学批判』の「交換過程」の分析が始まる冒頭部分とを、紹介しておきましょう。

 

 〈商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一である。だから、商品は直接的な矛盾である。この矛盾は、商品が、これまでのように、分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、観察されるのではなくて、一つの全体として、現実に、他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえなくなる。諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。〉(初版、江夏訳69頁)

 

 〈いままで商品は、二重の観点で、使用価値として、また交換価値として、いつでも一面的に考察された。けれども商品は、商品としては直接に使用価値と交換価値との統一である。同時にそれは、他の諸商品にたいする関係でだけ商品である。諸商品相互の現実的関係は、それらの交換過程である。それは互いに独立した個人がはいりこむ社会的過程であるが、しかし彼らは、商品所有者としてだけこれにはいりこむ。彼らのお互いどうしのための相互的定在は、彼らの諸商品の定在であり、こうして彼らは、実際上は交換過程の意識的な担い手としてだけ現われるのである。〉(『批判』全集13巻、26頁)

 

 これらの文章を検討すると、第1章に対する第2章の特徴、あるいはそこでの課題、つまり、そこでは何が解明されなければならないかが明らかになります。

 

 (1) まず第1章では商品は、二重の観点で観察され、ある時は使用価値の観点のもとに、他の時は、交換価値の観点のもとに、分析されたのですが、しかし第2章では、商品はひつの全体として、すなわち使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるということです。つまり第1章では、その限りでは商品は抽象的に取り上げられたのですが、第2章では、商品はより具体的なものとして取り上げられることが分かります。だから諸商品の相互の現実の関係、つまり諸商品の交換過程が考察の対象になるというわけです。

 

 (2) そしてそうすると、商品はそうした使用価値と交換価値との直接的な統一物としては、直接的な矛盾だとも指摘されています。第1章では商品の二要因である使用価値と交換価値(価値)とは、互いに対立するものとして考察されました。これに対して、第2章では、そうした対立物の直接的な統一として商品は考察されるために、諸商品は直接的な矛盾だというのです。矛盾ということは、諸商品が、使用価値として存在する場合、あるいは交換価値として存在する場合、それらは互いに前提し合いながらも、同時に排斥し合う関係にもあるということです。第2章では、現実の諸商品の相互の関係が、こうした直接的な矛盾として分析されることが指摘されています。そしてその矛盾が現実に解決されていく過程こそが、すなわち貨幣の発生過程でもあるというわけです。だから第2章は現実の諸商品の交換過程において、如何にして商品は貨幣へと転化するのかを解明するものでもあるといえるでしょう。

 

 (3) そしてまた商品の現実の関係である交換過程においては、互いに独立した諸個人、すなわち商品所有者が入り込む社会的過程でもあると指摘されています。つまり商品は第1章に比べてより具体的に考察されるわけですが、それは使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるだけではなく、第1章では捨象されていた、それらの諸商品の所有者が新たに考察の対象に入ってくるということです。

 

 とりあえず、こうしたことを確認して、テキストの解読に取りかかることにします。いつものように、テキストの各文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)、・・・・の記号を打ち、それぞれについて解読していくことにします。

 

◎第1パラグラフ

 

 【1】〈 (イ)諸商品は、自分で市場におもむくこともできず、自分で自分たちを交換することもできない。 (ロ)したがってわれわれは、商品の保護者、すなわち商品所有者たちを探さなければならない。 (ハ)商品は物であり、したがって人間に対して無抵抗である。 (ニ)もしも商品が言うことを聞かなければ、人間は暴力を用いることができる。 (ホ)言いかえれば、商品を持っていくことができる(37)。 (ヘ)これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分たちの意志をこれらの物に宿す諸人格としてたがいに関係しあわなければならない。 (ト)それゆえ、一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする。 (チ)だから、彼らはたがいに相手を私的所有者として認めあわなければならない。 (リ)契約をその形式とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても経済的関係がそこに反映する意志関係である。 (ヌ)この法的関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。 (ル)諸人格は、ここではただ、たがいに商品の代表者としてのみ、したがってまた商品所有者としてのみ、存在する。 (ヲ)われわれは、展開が進むにつれて、諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず、諸人格はこの経済的諸関係の担い手としてたがいに相対するということを、総じて見いだすであろう。〉

 

 (イ)、(ロ) 諸商品は、物であり、自分で市場に行くわけでもなく、自分で自分たちを交換することも出来るわけではありません。だからわれわれは、商品を市場に持って行く人、つまり商品の所有者を問題にする必要があるわけです。

 

 第1章では諸商品の交換は前提されていました。つまり現実に交換されている諸商品の、商品そのものに注目し、それらの交換関係だけを純粋に取り出し、分析したのです。だから第1章では、あたかも諸商品は主体的に互いに関係し合うものとして取り扱われ、だから商品所有者は捨象されて登場しませんでした。しかし第2章からは、第1章では捨象されていた、商品の所有者が登場します。第2章では、使用価値と交換価値の統一物としての商品が主体となります。そうしたものとして、他の諸商品との現実の関係、すなわち交換過程が問題になるわけです。そして現実の交換過程では、現実の商品の運動が問題になるわけですが、その運動を商品の意を体して担うのが、商品の保護者である商品所有者というわけです。つまり商品を市場に持って行き、その交換を行う商品の保護者であり監督者である、商品所有者が登場しなければならないというわけです。

 

 (ハ)、(ニ)、(ホ) 商品は単なる物ですから、人間に対して無抵抗です。もちろん、商品が言うことを聞かないとなれば、人間は暴力を用いてでも、それを市場に持っていくことが出来るわけです。

 

 ここには〈もしも商品が言うことを聞かなければ、人間は暴力を用いることができる〉という一文があります。学習会では、ここでマルクスは何を言いたいのか、ということが問題になりました。これは、注37で〈当時のフランスの一詩人は、ランディ〔パリ近郊の町〕の市場に見られた商品のうちに、服地、靴、なめし革、農具、皮革類などと共に、「“みだらな遊び女 femmes folles de leur corps ”」をあげている〉と指摘されているように、マルクスは、商品の一つとして娼婦を想定して、このように述べているのではないかということになりました。つまり例え商品に意志があって、市場に出て行くことを拒んでも、しかし商品としては例え娼婦や奴隷のように意志を持った人間であっても、彼ら(彼女ら)は単なる「物」として扱われ、無理やり暴力を持ってでも、市場に引っ張りだされて売りに出されるというわけです。

 

 (ヘ) これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分の意志をこれらの商品に宿す諸人格として互いに関係し合わなければなりません。

 

 ここで学習会では、「諸人格(Person)」という用語が出てきますが(全集版では単に「」と訳されています)、これは(ハ)や(ニ)に出てくる「人間(Mensch)」とどのように区別されるのか、ということが問題になりました。第1版序文には、次のような一文があります。

 

 〈起こるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。私は決して、資本家や土地所有者の姿態をバラ色には描いていない。そしてここで諸人格(Person)が問題になるのは、ただ彼らが経済的諸カテゴリーの人格化(Personifikation)であり、特定の階級諸関係や階級利害の担い手である限りにおいてである。経済的社会構成体の発展を一つの自然史的過程ととらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個々人に社会的諸関係の責任を負わせることはできない。個人は主観的には諸関係をどんなに超越しようとも、社会的には依然として諸関係の被造物なのである。〉(10-11頁。頁数は全集版ですが、訳文は新書判から。全集版では「諸人格」ではなく、単なる「人」と訳されています。)

 

 つまり「人格」というのは、経済的な関係を反映し、それを代表している人間のことを意味しているのにたいして、「人間」というのは、この場合は「物」に対峙するものとして述べられていることが分かります。

 

 (ト) それゆえに、一方は他方の同意のもとにのみ、つまり両者に共通な一つの意志行為にもとづいて、彼らは自分の商品を譲渡する代わりに、他人の商品を自分のものにします。

 

 (チ) だから、彼らは互いに相手を私的所有者として認め合わなければなりません。

 

 ここには〈私的所有者〉という言葉が出てきます。「私的所有」とはそもそもどのように理解したら良いのでしょうか。マルクスは『剰余価値学説史』において〈「社会」そのものが--人間は「社会」のなかで生活するのであって、独立独歩の個人として生活するのではないということが--所有の根源なのであり、この所有に立脚する法律と不可避的な奴隷制度との根源なのである〉(26巻Ⅰ431頁)と述べています。そして『資本論』第1部「第24章 いわゆる本源的蓄積」「第7節 資本主義的蓄積の歴史的傾向」の最初のところで、次のように述べています。

 〈社会的・集団的所有の対立物としての私的所有は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応じて、私的所有もまた異なる性格をもつ。一見したところ私的所有が示している無限にさまざまな色あいは、ただこの両極端のあいだにあるいろいろな中間状態を反映しているにすぎない。〉(『資本論』23巻b-993頁)

 

 つまり私的所有とは「私人」の所有ということです。人間の「社会」が人間自身の関係として、すなわち彼らの相互の意識的で自覚的な関係として存在するのではなく、彼らから疎外されたものとして、第三者(個人あるいは共同体組織や諸物象)によって代表され、支配されるものとして存在するようになることによって、人間が「公人」と「私人」とに分裂する結果、私的所有は社会的・集団的所有の対立物として生まれてくるということです。だから私的所有は社会が諸階級に分裂し、対立する、階級社会の発生と同時に生まれるものでもあるわけです。

 

 (リ) 契約をその形式とするこの法的関係は、法律的に発展していても、いなくても経済的関係がそこに反映している意志関係です。

 

 ここで〈契約をその形式とするこの法的関係〉とありますが、〈この〉というのはその前に述べていること、すなわち〈これらの物を商品としてたがいに関係させるためには、商品の保護者たちは、自分たちの意志をこれらの物に宿す諸人格としてたがいに関係しあわなければならない。それゆえ、一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする。だから、彼らはたがいに相手を私的所有者として認めあわなければならない〉という全体を指していると思います。つまり〈一方は他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする〉ということを商品所有者は互いに「契約」という形式で法的関係として結び合うということです。これは民法のような法律として明文化されていようが、いまいが、商品所有者の間では、互いに結び合わなければならない関係だということです。あるいはそれが契約書という文書になっていようが、口頭によるものであっても、やはり「契約」なわけです。

 

 因みに民法第555条は「売買」について、〈売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる〉とし、売買契約が成立する要件としては次のように定めているのだそうです。

 

 〈契約は法律行為であるから、総則の意思表示の規定が適用される。すなわち、効果が発生するには以下の要件を満たす必要がある。
 1.成立要件
  1.申込みと承諾(521条~528条)
   2.売買契約は諾成契約であるので、意思表示の合致のみで成立する。
    3.売買契約は不要式契約であるので、書面の作成は必須でない。口頭の合意でも成立する。〉(以上、ウィキペディアから)

 

 (ヌ) この法的関係、あるいは意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられています。

 

 (ル) 諸人格は、ここでは、ただ互いに商品の代表者としてのみ、だから商品所有者としてのみ存在しています。

 

 (ヲ) われわれは、展開が進むにしたがって、諸人格の経済的扮装はただ経済的諸関係の人格化にほかならず、諸人格はこの経済的関係の担い手として互いに相対することを、総じて見いだすでしょう。

 

 つまり「資本家」=「資本の人格化」というのは、こうしたことを意味しています。例えば次のように説明されています。

 

 〈単純な商品流通--購買のための販売--は、流通の外にある究極目的、すなわち使用価値の取得、欲求の充足、のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、このたえず更新される運動の内部にのみ存在するからである。したがって、資本の運動には際限がない。……この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の人格、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通〔G-W-G〕の客観的内容--価値の増殖--は彼の主観的目的である。そして、ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限り、彼は資本家として、または人格化された--意志と意識とを与えられた--資本として、機能するのである。〉(『資本論』23a198-200頁)

 

 〈資本家としては彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。〉(同23a302頁)

 

◎注37と注38

 

 なおこのパラグラフには注37と注38が付いています。それらも紹介して起きましょう。

 

 【注37】〈(37) その敬けんさで聞こえた一二世紀にも、これらの商品のうちに、しばしば、はなはだか弱いものが出現する。たとえば、当時のフランスの一詩人は、ランディ〔パリ近郊の町〕の市場に見られた商品のうちに、服地、靴、なめし革、農具、皮革類などと共に、「“みだらな遊び女 femmes folles de leur corps ”」をあげている。〉

 

 これは特に説明は不要でしょう。ここで〈当時のフランスの一詩人〉というのは、ギヨーの風刺詩『ランディ物語』を指しているのだそうです。

 

 【注38】〈(38) プルードンは、まず正義、“永遠の正義 justice eternelle ”という彼の理想を商品生産に照応する法的諸関係からくみ取る。ついでに言っておけば、このことによって、商品生産の形態は正義と同じように永遠であるというすべての素町人にとってはなはだ好ましい証明が与えられるというわけである。彼は、今度は反対に、現実の商品生産とこれに照応する現実の法をこの理想に従って改造しようとする。もしも物質代謝の現実的諸法則を研究してこれらの法則に基づいて一定の課題を解決するのではなく、「“自然状態 naturalite ”」や「“親和力 affinite ”」という「永遠の理念」によって物質代謝を改造しようとする化学者がいたとしたら、この化学者を何と考えたらよいであろうか? 「高利」は「“永遠の正義”」や「“永遠の公正 equite eternelle ”」や「“永遠の相互扶助 mutualite  eternelle ”」やその他の「“永遠の真理 verites  eternelles ”」と矛盾すると言う時、人が「高利」なるものについて知るところは、教父たちが高利は「“永遠の恩寵 grace  eternelle ”」、「“永遠の信仰 foi  eternelle ”」、「“神の永遠の意志 volonte eternelle de dieu ”」と矛盾すると言う時に彼らが高利について知っていたものよりも、はたしてより多いであろうか?〉

 

 この注は〈この法的関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。〉という一文に付けられています。つまり法的関係や意志関係の内容というのは、経済的諸関係を反映したものに過ぎないということを理解しない一例としてプルードンの主張が紹介されているわけです。こうしたプルードンの観念的な主張の特徴をより分かりやすく説明したものとして、マルクスのアンネコフへの手紙(1846年12月28日ブリュッセル)があります。そこから少し紹介しておきましょう。

 

 〈歴史の現実の運動を追跡することができないで、プルードン氏は幻覚をつくりだしている。それは弁証法的幻覚である、と言いはっている。彼は17、18、19世紀のことを述べる必要を感じていない。というのは、彼の歴史は霧ふかい想像の国でおこっており、時間と場所をはるかに超越しているからである。一言でいえば、それはへーゲルふうの古いがらくたであり歴史ではない。それは一世俗的な歴史──人間の歴史──ではなく、聖なる歴史、すなわち観念の歴史である。彼の見方によると、人間というものは、観念または永遠の理性がそれを利用して展開するための道具であるにすぎない。プルードン氏のいう進化は、絶対的観念の神秘的な胎内でおこなわれるような進化だと考えられている。この神秘的な言語からヴェールをはぐとしたら、それはプルードン氏が彼の頭のなかで経済的範疇がならんでいる順序をわれわれにしめしているということである。〉(全集第4巻564-5頁、但し訳文は文庫本から、以下同じ)

 

 〈このようにプルードン氏は、主として歴史の知識が欠けているために、人間がその生産諸力を発展させるとともに、つまり生活するとともに、相互のあいだの一定の関係を発展させること、この関係の仕方がこれら生産諸力の変化と増大につれて変化することを、見なかった。彼は、経済的範疇がこれらの現実の関係の抽象にすきないこと、これらの関係が存するかぎりでこれらの範疇が真理であるにすぎないことを、見なかった。こうして、彼は、これらの経済的範疇を永遠の法則とみとめ、生産諸力のある一定の発展にだけあてはまる法則である歴史的法則とみとめないブルジョア経済学者の誤謬におちいった。そこで、政治的=経済的範疇を、現実の、暫時的な、歴史的な、社会関係から抽象されたものとして観察するかわりに、プルードン氏は、神秘的に転倒したために、現実の諸関係をこれらの抽象の具象化だとみとめている。これらの抽象そのものは、天地開闢以来、神のふところでまどろんでいた公式なのである。〉(同上567-8頁)

 

 〈プルードン氏は、その物質的生産様式に応じて社会関係をつくりあげる人間が、観念範疇をも、すなわちこれらの社会関係の観念的・抽象的表現をも、つくりだすということは、なおさら理解しなかった。したがって、範疇は、自分が表現する関係とまさに同じように、永遠のものではない。範疇は歴史的・暫時的な産物である。プルードン氏にとっては、これとは正反対に、抽象、範疇が第一原理である。彼の意見にしたがうと、歴史をつくるのはそれであって、人間ではない。抽象、範疇それ自体、つまり人間およびその物質的行動と切りはなしてとりあげられた範疇は、もちろん不死、不変、不動である。それは、純粋理性の一つの有である。それは、抽象それ自体は抽象的である、というだけのことである。すばらしい同語反復
 このように範疇の形でみられた経済関係は、プルードン氏にとっては、起源も進歩もない永遠の公式である。
 別の言いかたをしてみよう。プルードン氏は、ブルジョア的生活が彼にとって永遠の真理であると直接に主張しているわけではない。彼は、ブルジョア的関係を思想の形で表現する範疇を神化することによって、間接にそう言っている。〉(同上570頁)

 

◎第2パラグラフ

 

 【2】〈 (イ)商品所有者を特に商品から区別するものは、商品にとっては他のどの商品体もただ自分の価値の現象形態としての意味しかもたないという事情である。 (ロ)だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、他のどの商品とも、たとえそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけでなく体までも取り替えようとたえず待ちかまえている。 (ハ)商品所有者は、こうした、商品には欠けている、商品体の具体性に対する感覚を、彼自身の五感およびそれ以上の感覚でもって補う。 (ニ)彼の商品は彼にとっては何らの直接的使用価値をも持たない。 (ホ)さもなければ、彼はそれを市場に持っていきはしなかっただろう。 (ヘ)それがもっているのは他人にとっての使用価値である。 (ト)彼にとってそれは、直接的には、ただ交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値をもっているだけである(39)。 (チ)だからこそ、この商品を彼は自分を満足させる使用価値をもつ商品と引きかえに譲渡しようとするのである。 (リ)すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとっては使用価値である。 (ヌ)したがって、これらの商品は、全面的に持ち手を交換しなければならない。 (ル)そして、この持ち手の交換が諸商品の交換なのであって、またそれらの交換が諸商品を価値としてたがいに関係させ、諸商品を価値として実現する。 (ヲ)したがって、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない。〉

 

  (イ) 商品の所有者を商品そのものと区別するものは、商品にとっては他のどの商品体(使用価値)もただ自分の価値の現象形態としての意味しかもたないということです。

 

  第1パラグラフで、第1章では商品そのものが分析の対象であったのに対して、第2章では、さらに商品の所有者が分析の対象として加わることが指摘されましたが、では、商品そのものを分析の対象にするのと、より具体的に商品所有者をも分析の対象として加えることで何が問題になるのかが次に問われているわけです。そして、まず、第1章の場合は、商品にとって、他の商品の使用価値は、ただ自分の価値の現象形態、つまり自分の価値を相対的に表す材料という意味しか持たなかったと指摘されています。

 

  (ロ) だから、生まれながらの水平派であり犬儒学派である商品は、他のどの商品とも、例えそれがマリトルネスよりまずい容姿をしていても、魂だけでなく体までも取り替えようとたえず待ち構えています。

 

  水平派というのは、新日本出版の新書版の注によれば、〈17世紀イギリスのピューリタン革命期にリルバーンたちに指導されて活躍した左翼民主主義的平等主義者たち〉のことであり、犬儒学派というのは〈ディオゲネスたち古代ギリシアの一学派で、禁欲的自然主義者。礼儀、慣習を無視した〉との説明があります。またマリトルネスというのは、セルパンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中のことだそうです。つまりどちらも相手の風采は気にせずに、誰彼とも無く相手にするということでしょうか。つまり第1章では商品リンネルは商品上着と交換すると前提されていましたが、もちろん、リンネルと交換されるのは、上着に限らず、コーヒーでも鉄でも金でも何でも良かったわけです。とにかく商品であれば任意のものを想定して、われわれは考察することが出来たのでした。

 

  (ハ) 商品所有者は、こうした商品には欠けている、商品の使用価値に対する具体的な感覚を、彼の五感、あるいはそれ以上の感覚で補うことになります。

 

  ところが、商品所有者が分析の対象に加わってくる第2章では、商品所有者の欲望が問題になります。つまり交換の対象になる商品の使用価値は、何でもよいというわけでは無くなるわけです。そうしたことが第2章では、新たに問題になってくるということが分かるわけです。

 

  ここで〈彼自身の五感およびそれ以上の感覚〉とありますが、〈五感〉は、視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚ですが、〈それ以上の感覚〉というのは、内面的な欲望にもとづく感覚ということでしょうか。

 

 (ニ)、(ホ)、(ヘ) 彼にとって自分の商品は直接的な使用価値ではありません。つまりそれは彼の欲望の対象ではないのです。なぜなら、もしそれが彼の欲望の対象であれば、彼はそれを市場に持って行く代わりに、自分の欲望を満たすために消費してしまうでしょう。だから、それは商品にはなりえません。だからそれが彼の商品であるということは、それは彼にとっては直接的な使用価値ではないとういことです。彼の欲望の対象は、彼が交換しようとする他人の持っている商品であり、だから彼の商品の使用価値も、それが商品である限りは、他人にとっての使用価値で無ければならないわけです。

 

  すでに第1章「商品」の第1節「商品の二つの要因--使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)」において、次のように説明されていました。

 

  〈自分の生産物によって自分自身の欲求を満たす人は、たしかに使用価値を作りだすが、商品を作りだしはしない。商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。{しかも、ただ単に他人のためというだけではない。中世の農民は、封建領主のために年貢の穀物を生産し、僧侶のために十分の一税の穀物を生産した。しかし、年貢穀物も十分の一税穀物も、それらが他人のために生産されたということによっては、商品にはならなかった。商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役立つ他人の手に、交換を通して移譲されなければならない(エンゲルスの追加)。}〉(全集版55-6頁)

 

  ただ、ここでは商品所有者の欲望と商品の使用価値との関係が問題になっています。商品所有者にとって彼の商品は何らの直接的な使用価値を持ちません。それは彼の生産物のうち、彼の欲望を満たしたあとに残った余剰物のようなものでなければならないわけです。だからそれは他人にとっての使用価値、つまり社会的使用価値を持たねばならないのです。社会的使用価値を持つということは、その商品に支出された労働が、社会的な分業の環をなしているということです。

 

 (ト)、(チ) 彼にとって、それは直接的には、ただ交換価値の担い手であり、したがって交換手段であるという使用価値を持っているだけです。だからこそ、この商品を自分の欲望を満足させる使用価値をもつ商品と引き換えに譲渡しようとするわけです。

 

 (リ)、(ヌ)、(ル) すべての商品は、その所有者にとっては非使用価値であり、その非所有者にとって使用価値です。だからこそ、これらの商品は、その持ちを手を全面的に交換しなければならないのです。そしてこの持ち手の交換が、すなわち諸商品の交換なのであって、またこれらの交換が諸商品を価値として互いに関係させ、諸商品を価値として実現するのです。

 

 (ヲ) したがって、諸商品は、みずからを使用価値として実現しうる前に、価値として実現しなければなりません。

 

  ここでは〈価値として実現する〉、〈使用価値として実現〉という用語が出てきます。ここで〈価値として実現する〉とは、「価値の実現」とは同じではありません。商品の価値の実現とは、貨幣の存在を前提した上で、商品を貨幣に転換すること、つまり商品の販売のことです。だから商品を〈価値として実現する〉とは、商品が他の諸商品と質的に同じものとして関係するということです。つまりそれが抽象的人間労働の対象化されたものとして妥当するということではないかと思います。また〈使用価値として実現する〉とは、「使用価値の実現」とは違います。「使用価値の実現」とは商品が交換過程から出て、消費過程に入り、その使用価値が消費されることです。しかし〈使用価値として実現する〉というのは、交換過程内の問題であり、だから商品に支出された具体的な有用労働が、社会的な分業の環をなしていることが示されることにほかなりません。つまりそれが社会的使用価値であることが実証されることです。

 

  さて全体としてのこのパラグラフを理解するのに役立つと思える『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

 

  〈商品は、使用価値、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械等々であるが、しかし商品としては、同時にまた使用価値でない。もしそれがその所有者にとって使用価値であるならば、すなわち直接に彼自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。彼にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品は交換価値としてだけ使用価値なのである〔*〕。だから、使用価値としては、それはこれから生成しなければならないのである。しかもまずもって他の人々にとっての使用価値としてである。商品はそれ自身の所有者にとっての使用価値ではないのであるから、他の商品の所有者にとっての使用価値である。そうでないとすれば、彼の労働は無用な労働であったし、したがってその成果は商品ではなかったわけである。他方では、商品は所有者自身にとっての使用価値にならなければならない。なぜならば、彼の生活手段は、この商品以外に、他人の諸商品の使用価値として存在しているからである。使用価値として生成するためには、商品は自分が充足の対象であるような特殊の欲望に出会わなければならない。だから諸商品の使用価値は、商品が全面的に位置を転換し、それが交換手段である人の手から、それを使用対象とする人の手に移ることによって、使用価値として生成するのである。諸商品のこのような全面的外化〔*〕によってはじめて、それにふくまれている労働は有用労働になる。使用価値としての諸商品相互のこのような過程的関係においては、諸商品はなんら新しい経済的形態規定性をうけない。それどころか、商品を商品として特徴づけた形態規定性が消え去る。たとえばパンは、パン屋の手から消費者の手に移っても、パンとしてのその定在を変えない。反対に、それがパン屋の手中では一つの経済的関係の担い手であり、一つの感覚的でしかも超感覚的なものであったのに、消費者がはじめて、使用価値としての、こうした一定の食料品としてのパンに関係するのである。だから、諸商品が使用価値としてのその生成中にはいりこむ唯一の形態転換は、それがその所有者にとって非使用価値、その非所有者にとって使用価値であった、その形態的定在の揚棄である。諸商品の使用価値としての生成は、その全面的外化、それが交換過程へはいることを予想しているが、しかし交換のための商品の定在は、交換価値としてのその定在である。したがって、使用価値として自己を実現するには、商品は交換価値として自己を実現しなければならない。

 〔*〕 アリストテレス (本章の冒頭に引用した個所を参照)が交換価値を把握したのは、この規定性においてである。
 〔*〕 「外化」の原語はEntäuβerung。あるものが自分自身をある状態から自分にとって外的な状態に移すことであり、またあるものを自分の手から外部の者の手へ移すといった意味である。 前者の意味では、Entfremdung「疎外」ということばと同義と解してよく、同じ現象を「外化」は過程として把握し、「疎外」は結果の側からみたものといえよう。ここでは諸商品が全面的な位置転換によってそれぞれそれを使用対象とする人の手に移ることをさしている。日常用語では「譲渡」、「移譲」の意味に用いられる。 本書で「外化」とある場合も、以上の意味がふくまれている。〉(全集13巻27-8頁)

 

◎注39

 

  第2パラグラフには、注がついています。それも一応紹介しておきましょう

 

  【注39】〈(39) 「なぜなら、どの物の用途も二通りあるからである。--一方は物としての物に固有であり、他方はそうではない。たとえば、靴には、靴としてはくという用途と交換されうるという用途とがある。両方とも靴の使用価値である。なぜなら、靴を、自分にないもの、たとえば食物と交換する人でも、やはり靴を靴として用いているからである。もっとも、これは靴の本来の用法ではない。なぜなら、靴は交換のために存在しているのではないからである」(アリストテレス『政治学』、第一巻、第九章〔山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、岩波書店、二三ページ。同訳、岩波文庫、五一~五二ページ〕)。〉

 

  この注は特に解読の必要はないと思いますが、ほぼ同じような注は『経済学批判』では冒頭の〈一見したところでは、ブルジョア的富は一つの巨大な商品の集まりとして現われ、一つ一つの商品はその富の基本的定在として現われる。ところがそれぞれの商品は、使用価値交換価値という二重の観点のもとに自己をあらわしている〔*〕〉(同前13頁)に付けられています(引用文の最後に〈他の物についても同じことが言える。〉という一文が付け加わっている)。そして先に紹介した一文--〈商品は、使用価値、小麦、リンネル、ダイヤモンド、機械等々であるが、しかし商品としては、同時にまた使用価値でない。もしそれがその所有者にとって使用価値であるならば、すなわち直接に彼自身の欲望を満足させるための手段であるならば、それは商品ではないであろう。彼にとっては、それはむしろ非使用価値であり、すなわち、交換価値のたんなる素材的な担い手、またはたんなる交換手段である。交換価値の能動的な担い手として、使用価値は交換手段となる。その所有者にとっては、商品は交換価値としてだけ使用価値なのである〔*〕〉に付けられている注では、この冒頭の注を参照するように指示して、〈アリストテレス・・・・が交換価値を把握したのは、この規定性においてである〉と指摘しています。

 

◎第3パラグラフ

 

 【3】〈 (イ)他面では、諸商品は、自分を価値として実現しうる前に、自分が使用価値であることを実証しなければならない。 (ロ)というのは、諸商品に支出された人間労働が、それとして認められるのは、この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからである。 (ハ)ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその生産物が他人の欲求を満足させるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることである。〉

 

  (イ)、(ロ) 他方では、諸商品は、自分たちを価値として実現しうる前に、自分たちが使用価値であることを実証しなければなりません。というのは、諸商品に支出された人間労働が、そういうものとして認められるのは、それらの労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られるからです。

 

  ここで〈それとして認められる〉というところは、初版では〈数のなかにはいる〉となっています。またフランス語版では〈それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである〉となっています。だから商品に支出された人間労働が、社会の総労働量の一部分として、社会的・平均的に必要な量だけ支出される限りで、それが価値として認められるのであり、それは価値として他の諸商品と関係することが出来るのだということではないかと思います。

 

  またここで〈使用価値であることを実証しなければならない〉というのは、先に出てきた〈使用価値として実現〉するということと、同じだと思います。というのは、〈使用価値であることを実証〉するとは、〈この労働が他人にとって有用な形態で支出された場合に限られる〉とも述べているように、社会的使用価値であることを実証するということと同義だからです。つまり社会的な分業の総体の一分肢であることを示すことだと思います。

 

  (ハ) ところが、この労働が他人にとって有用であるか、だからその生産物が他人の欲求を満足させうるかどうかは、ただ諸商品の交換だけが証明できることなのです。

 

  このパラグラフの場合も、その理解に役立つと思える『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

 

  〈個々の商品は、使用価値の観点のもとでは、本来独立した物として現われたが、これに反して交換価値としては、はじめから他のすべての商品との関係で考察された。けれどもこの関係は、ただ理論的な、思考上の一関係にすぎなかった。この関係が実際に証明されるのは、ただ交換過程においてだけである。他方では、たしかに商品は、一定量の労働時間がそれについやされており、したがってそれが対象化された労働時間であるかぎり、交換価値である。しかしそれは、直接そのままでは、特殊な内容の対象化された個人的労働時間であるにすぎず、一般的労働時間ではない。だからそれは、直接ものままでは交換価値ではなく、これからそれにならなければならない。まず商品は、一定の有用なしかたで用いられた、したがってある使用価値にふくまれた労働時間をあらわすかぎりでだけ、一般的労働時間の対象化でありうる。商品にふくまれた労働時間が、一般的社会的労働時間として前提されたのは、こういう素材的条件のもとだけであった。だから商品は、交換価値として実現されることによってはじめて使用価値として生成しうるのだが、他方ではその外化において使用価値としての実を示すことによってはじめて交換価値として実現されうるのである。〉(前掲28頁)

 

  さて、この第2、第3パラグラフで分析されている交換過程の矛盾をどのように理解したらよいのでしょうか。ここでは、以前、大阪で行っていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースから、それについて論じた部分を紹介しておくことにします。

 

 【マルクスが最初に問題にしている矛盾とは、「諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない」ということと「価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない」ということです。つまり使用価値も交換価値もその実現のためには相手の実現を前提し合う関係にあるということです。ということは現実には商品交換は不可能だということになります。『経済学批判』ではマルクスはこれを「悪循環」とも述べています。

 

  問題はこれはいったいどういう現実を言っているのだろうか、ということです。しかしこれはそれほど難しいことではなくて、現実の生産物の物々交換(つまり貨幣がまだ現われていない交換)を想定してみれば分かります。私が魚をとって市場で野菜と交換したいと考えても、たまたま野菜を市場に持って来ている人が、魚をほしがっているならば交換可能ですが、そうでなければ交換できません。両者の欲求が一致するのはまったく偶然であって、実際にはなかなか一致せず、だから交換も出来ないのです。マルクスが明らかにしている矛盾はまさにこうした現実を示しているのではないでしょうか。

 

  交換過程を問題にするときには、商品は使用価値と価値の統一物であり、商品所有者の欲求が分析の対象にならなければなりません。だからまたこうした矛盾が生じるのです。第一章では20エレのリンネルは上着一着と交換されましたが、しかし等価形態に上着が来るか、鉄がくるかコーヒーが来るかは問題ではありませんでした。それは何でも良かったのです。というのは第一章では商品が交換されている現実を前提にしてそれを直接分析の対象にしていたからであって、そこでは商品所有者も彼の欲望も捨象されて問題にはされなかったからです。しかし第二章では商品交換はより具体的に分析され、商品は現実の商品としていわば運動するものとしてとらえられているともいえます。】(「学ぶ会ニュース」No.27)

 

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【付属資料】

 

●表題

 

《初版本文》

 

 〈「諸商品の交換過程」〉

 

《フランス語版》

 

 〈「諸交換について」〉

 

●第1パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈諸商品は、自分たち自身で市場に行くととができないし、自分たち自身を交換しあうこともできない。だから、われわれは、それらの番人である商品所持者たちを探し出さなければならない。諸商品は、物であり、したがって人間にたいしては無抵抗である。それらが従順でなければ、人聞は暴力を用いることができる。言い換えれば、それらをっかまえることができる(32)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志がこれらの物においてある存在をもつところの諸個人として、互いに関係しあわなければならない。したがって、各人は、自分の意志と他人の意志とをもってのみ、つまり、双方が共通の意志をもってのみ、自分たちの商品を譲渡することによって他人の商品を取得しなければならず、そしてまた、他人の商品を取得するためには自分の商品を譲渡しなければならない。だから、彼らは互いに、私的所有者として認めあわなければならない。法的に表示されていようといまいと契約という形式をとる、この法的関係は、経済的関係がそのなかに反映しているところの意志関係にほかならない。この法的関係または意志関係内容は、経済的関係そのものによって与えられている(38)。諸個人は、ここでは、自分たちがなんらかの諸物を商品として互いに関係させることによって、互いに関係しあっているにすぎない。だから、この関係のあらゆる規定は、商品としての物の規定のなかに含まれている。ここでは、一方の人は、他方の人にたいし、商品の代表者として、したがって商品所持者として、存在しているにすぎない。叙述が進むにつれて、諸個人の経済的な諸扮装は経済的な諸関係の擬人化にすぎず、彼らはこれらの関係の担い手として互いに相対しているということを、われわれは一般的に見いだすであろう。〉(江夏他訳70頁)

 

《フランス語版》

 

 〈諸商品はけっして自分たち自身で市場に行くこともできないし、自分たち自身を互いに交換しあうこともできない。したがって、われわれは商品の保管者や監督者、すなわち商品の所有者のほうに眼を向けなければならない。商品は物であり、したがって、人間に少しも抵抗できない。もし商品に善意がなければ、人間は暴力を用いることができる、換言すれば、商品をとらえることができる(1)。これらの物を商品として互いに関係させるためには、その保管者たち自身が、これらの物自体のうちに意志を宿す人として、互いに関係しあわなければならず、したがって、一方の意志は他方の意志でもあり、個々の保管者は共通の意志行為によって、自分の商品を手ばなして他人の商品をわがものにすることになる。だから、彼らは互いに私有者として認めあわなければならない。合法的に結ばれようとそうでなかろうと、契約という形式をとるこの法的関係は、経済的関係を反映する意志関係にほかならない。その内容は、経済的関係そのものによって与えられている(2)。人々はここでは、数々の物を商品として互いに関係させるかぎりでのみ、互いに関わりあっているのである。人々が互いに相手として存在するのは、彼らが所有する商品の代表者としてのことでしかない。われわれはさらに、よりいっそう詳述を進めてゆく過程のなかで、人々が状況に応じてかぶるさまざまな仮面が、彼らが互いに相手にたいして維持する経済的関係の擬人化にほかならない、ということを知るであろう。〉(江夏他訳61頁)

 

●注37と注38

 

《初版本文》

 

 〈(32)敬虔で聞こえた12世紀には、これらの商品のなかには、しばしば、非常にやんわりした物が見いだされる。それだから、当時のフランスのある詩人は、ランディの市場内に現われた諸商品のなかに、服地や靴や革や農器具や毛皮等々のほかに「浮気な女」をも数えあげている。〉(同71頁)

 

 〈(33)プルードンは、まず、正義すなわち永遠の正義という彼の理想を、商品生産に対応する法的諸関係から汲み取っているが、ついでに言っておくと、このことによって、商品生産という形態も正義と同様に永遠であるというすべての俗物にとって大いに慰めになる証明も、提供されているのである。次いで、彼は、逆に、現実の商品生産とこれに対応する現実の法律とを、ニの理想にのっとって改造しようとする。物質代謝の現実の諸法則を研究しこれらを基礎として特定の諸課題を解決せず、「自然的性状」や「親和力」という「永遠の理念」にのっとって物質代謝を改造しようとするような化学者がいれば、人はこの化学者をどう思うだろうか? 人が、高利は「永遠の正義」や「永遠の公正」や「永遠の相互扶助」やその他の「永遠の真理」と矛盾している言うとき、その人が「高利」について知っていることは、教父たちが高利は「永遠の恩寵」や「永遠の信仰」や「神の永遠の意志」と矛盾していると言ったとき、彼らが高利について知っていたことよりも、いくらかは長じていることになるのだろうか? 〉(同71頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(1) 敬度なことであれほど評判の高い12世紀には、往々にして商品のなかにきわめてなよやかな物が見出される。たとえば、当時のフランスの一詩人は、ランディの市場で見た商品のなかに、布地や靴や皮や農具のほかに「浮気な女」をあげている。〉(61頁)

 

 〈(2) 多くの人々は彼らの正義理想を、商品生産に基礎を置く社会から生まれた法的関係から汲みとっている。ついでに言っておくが、このことは、この種の生産が正義そのものと同じくらい長持ちするであろうという証拠を、彼らに快く提供しているのである。次いで彼らは、現在の社会から引ぎ出されるこの理想のなかに、この社会とその法とを改良するための支点を置く。物質化合の法則を研究もせず、この基礎の上で一定の課題を解決もせずに、「親和力や自然的性情という永久的理念」にしたがってかこの化合を変えようとする化学者がいたら、人はこの化学者をどう考えるであろうか? 例えば、人が「高利」は「永遠の正義」や「永遠の公正」と矛盾すると言うとき、この人が高利について知っていることは、教父が、高利と「永遠の恩寵や永遠の信仰や神の永遠の意志」との矛盾を宣言して同じことを行ったとき、この教父が高利について知っていたことよりも、どこか長じているところがあろうか?〉(61-2頁)

 

●第2パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈商品所持者を特に商品から区別するものは、商品にとってはどの他商品の使用価値も自分自身の価値の現象形態としてしか認められない、という事情である。だから、生まれながらの平等派であり犬儒学派である商品は、絶えず、どの他商品とでも、たといそれがマリトルネス〔セルパンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕よりも体裁が悪かろうと、魂だけでなく体までもとり交わそうとしている。商品には欠けている、商品体という具体物にたいするこういった感覚を、商品所持者は、自分自身の五感およびそれ以上の感覚で補うのである。彼の商品は、彼にとっては直接的な使用価値をなんらもっていない。もっていれば、彼はその商品を市場にもってゆきはしない。彼の商品は、他人にとって価値をもっている。彼にとって、それは直接的に、交換価値の担い手でありしたがって交換手段であるという使用価値のみを、もっている(34)。それだから、彼は、自分を満足させる使用価値をもっ商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それの所持者にとっては非使用価値でありそれの非所持者にとっては使用価値である。だから、これらの商品は全面的に持ち手を変更しなければならない。ところが、この持ち手の変更が、これらの商品の交換を形成しており、これらの商品の交換が、これらの商品を価値として互いに関係させ、これらの商品を価値として実現するのである。だから、諸商品は、それらが使用価値として実現されうる以前に、価値として実現されていなければならない。〉(71-2頁)

 

《フランス語版》

 

 〈交換者を彼の商品から特に区別するものは、この商品にとっては他のどの商品自体の価値の現象形態にほかならない、ということなのだ。この商品は、生まれながらにして放蕩で厚かましいから、他のどんな商品とでも--たとえそれがマリトルネス〔セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』に出てくる醜い女中〕と同じくらい魅力に乏しかろうとも--、自分の魂やさらに肉体までも交換しようと、いつも身構えている。この商品は自分の姉妹の具体的な側面を評価する感覚を欠いているが、この欠落を、交換者は五つ以上もある自分自身の感覚で補い、発達させるのである。彼にとっては、この商品はどんな直接の使用価値ももっていない。そうでなければ、彼はこれを市場にもってゆかない。彼がこの商品に見出す唯一の使用価値は、この商品が他人にとって有用な価値の担い手であり、したがって交換手段である、ということである(3)。だから、彼は、自分を満足させることのできる使用価値をもつ別の商品と引き換えに、この商品を譲渡しようとする。すべての商品は、それを所有する人々にとっては非使用価値であり、それを所有しない人々にとっては使用価値である。したがって、すべての商品は一方の持ち手から他方の持ち手へと全面的に移行しなけれぽならない。ところが、この持ち手変更が商品交換をなすのであって、この商品交換が商品を価値として互いに関係させ、商品を価値として実現する。したがって、商品は使用価値として実現されうる以前に価値として現われていなければならない。〉(62頁)

 

●注39

 

《初版本文》

 

 〈(34)「なぜならば、どの財貨の用途も二重であるからである。--一方の用途は物としての物に固有であり、他方の用途はそうではない。たとえば、サンダルは、はき物として役立つし、また交換可能でもあるというように。両方の用途ともサンダルの使用価値である。というのは、サンダルを自分がもっていない物、たとえば食物と交換する人でも、やはり、サンダルをサンダルとして利用するからである。といっても、サンダルの本来の用い方ではないが。なぜならば、サンダルは交換のために存在するものではないからである。」(アリストテレス『国家論』、第一巻、第九章。)〉(72頁)

 

《フランス語版》

 

 〈(3) 「なぜかというと、どの物にも二種の用途があるからである。その一方は、物としての物に固有であり、他方はそうでない。たとえばサンダルは、履物としても交換手段としても役立つ。この二つの観点のもとで、サンダルは使用価値なのである。自分に欠けているもの、たとえば食糧と引ぎ換えに、サンダルを交換する人も、サンダルをサンダルとして用いるからである。だが、このことはサンダルの生来の用い方ではない。サンダルはまさに、交換のためにそこにあるわけではないからである」(アリストテレス『政治学』、第1巻、第9章)。〉(62-3頁)

 

●第3パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈他方では、諸商品は、それらが価値として実現されうる以前に使用価値として実証されていなければならない。というのは、諸商品に支出された人間労働は、それが有用な形態で支出されたかぎりでのみ、しかも他人にとって有用な労働であるかぎりでのみ、数のなかにはいるからである。ところが、その労働が他人にとって有用であるかどうか、したがってその労働の生産物が他人の必要をみたすかどうかは、諸商品の交換だけが証明しうるところである。〉(72頁)

 

《フランス語版》

 

 〈他方では、商品が価値として実現されうる以前に、その使用価値が確認されていなけれぽならない。商品の生産に支出された人間労働は、それが他人に有用な形態のもとで支出されるかぎりでしか、計算に入らないからである。ところで、この労働が他人に有用であるかどうか、すなわち、その生産物が他人の必要をみたすことができるかどうかは、商品の交換だけが証明しうることなのだ。〉(63頁)

 

 

 

 

 


第46回「『資本論』を読む会」の案内

 『 資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か 

                                    

                                      

 

 日本銀行は2月、4月と立て続けに追加金融緩和措置を講じてきたが、5月8日に公表した資料によれば、同行が保有する長期国債の額が、今年度末には同行が内規として定める上限額を突破する見通しだという。その内規というのは「国債保有は世の中に出回るお札(銀行券)の量まで」というものらしい。

 

 今年3月末の時点で、銀行券発行残高80.8兆円に対し、長期国債(発行時の満期が2年以上)の保有残高は70.7兆円と下回っていたが、年末には長期国債が92兆円にふくらみ、銀行券残高の83兆円を超えるのである。

 

 

 

  この「銀行券ルール」と称する内規については、日銀サイトの2001年の「新しい金融調節方式Q&A」を見ると、「日本銀行はこれまで、長期国債買い切りオペの増額に反対してきたのではないですか」という質問に、「今後も、国債価格の買い支えや財政ファイナンスを目的として長期国債買い切りオペを増やすということは考えていません。このような趣旨を明らかにするため、今回、これまでの『長期国債買い切りオペは銀行券に対応させる』という考え方を守り、銀行券発行残高を長期国債保有残高の上限とする明確な歯止めも用意しました」と答えている。

 

  しかし、この「歯止め」なるものも今ではほぼ有名無実化しつつあるというわけである。白川総裁は、日銀の国債買い入れは「金融政策の目的遂行のために行っている」「財政ファイナンスを行わないという、私どもの言葉を信用してほしい」と述べているが、しかし、市中銀行からの国債の大量購入は、事実上の日銀の国債引き受けと同じであることは明らかである。

 

  ところで日銀がルールとして定めている銀行券の発行残高と国債保有高にはどういう関連があるのであろうか。

 

  この両者を関連づけているということは、日銀には両者に何らかの関連があると考えているからであろう。実は、それは日銀券が銀行券という性格から来ている。銀行券はもともとは銀行が自らの信用にもとづいて発行する手形であり、その限りでは発券銀行にとっては債務なのである。だからかつては銀行券の発行のためには、発券銀行は、同行が保有する何らかの債権や金などを担保として、その発行の保証としなければならなかったのである。だから保有国債を日銀券の発行高と関連づけることで歯止めにしようと日銀は考えたのであろう。

 

   しかし、今日の日銀券はこうしたかつてのような手形流通に立脚して流通するようなものとはすでに異なっている。日銀券は手形流通に立脚する商業流通においてはまったくと言ってよいほど流通はしておらず、もっぱら一般流通のなかて通貨として流通しているからである。そして通貨としては貨幣流通に立脚し、貨幣の流通法則に規制されるのである。

 

  だから今日では、日銀券と日銀の有する国債などの債権との間には、理論的には直接的な関連はないのである。日銀が市中銀行から国債を購入するということは、利子生み資本(貨幣資本moneyed Capital)を貸し出すことである。つまり日銀の信用を拡大して、潤沢な貨幣資本を市中銀行に供給するわけである。しかしこの貨幣資本は、当面は、市中銀行の中央銀行にある当座預金の積み増しとして現れ、それが直ちに市中銀行の産業資本や商業資本への貸し出し増加に繋がるとは限らない。むしろ現実には、市中銀行は、その増加した預金を使って、新たな国債購入に充てているというのが現実である。だからいくら金融緩和をしても一向に景気が上向かないのはそのためでもある。

 

  他方、銀行券の発行残高というのは、一般の商品市場における通貨の必要量によって規定されており、日本銀行によってその増減を左右できるようなものではないのである。実際、日銀券の発行残高は、この間、日銀が買いオペによって国債や社債、株式まで購入しているのに、ほぼ80兆円前後を推移している。

 

  日銀は「デフレ脱却」を掲げ、「物価上昇率1%」を目標に金融緩和策を行っていると説明しているが、こうした主張は通貨と貨幣資本(moneyed Capital)との区別を混同した間違った理論に立脚しているわけである。マルクスはこの両者について、次のように述べている。

 

  〈このような場合(恐慌時--引用者)のほかは、通貨の絶対量は利子率(つまり貸し付け可能な貨幣資本の増減--同)には影響しない。なぜならば、この絶対量は――通貨の節約や速度を不変と前提すれば――第一には、諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており・・・・、また最後に信用の状態(諸支払の相殺度合い--同)によって規定されているが、逆にそれが信用の状態を規定するのではけっしてないからである。また、第二には、商品価格と利子とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉(『資本論』第3部第33章全集25b680頁)

 

  貴方も、現在の政府や日銀の財政・金融政策を科学的に分析するためにも、『資本論』を読んでみませんか

 


第46回「『資本論』を読む会」の報告

第46回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

◎大飯原発再稼働

 

  野田首相は、何がなんでも大飯原発の再稼働を考えているようです。

 

  しかし、福島原発事故の原因はいまだ究明されたとはいえません。国会の事故調査委員会の最終報告も出ていません。原子力規制庁の発足もまだなのです。大飯の安全が確認できたと言いますが、しかし政府の安全基準なるものは、いまだ暫定的なものでしかなく、事故が起きた場合の拠点となる免震棟もありません。放射能の拡散を防ぐフィルター付きのベントもない有り様なのです。にも関わらず、野田首相は、この夏の電力事情が関電管内では逼迫しているとの理由で、「私の責任で最終判断したい」というのです。

 

  しかし、「私の責任」と言いますが、一体、事故が起こった場合に、どういう「責任」をとるというのでしょうか。福島原発事故で、誰かがその責任をとったということは聞いたことがありません(むしろ事故のために故郷を追われた福島の人々こそがその責任を押しつけられ、尻拭いを強いられているのではないでしょうか)。原発事故の「責任」を云々しても始まらないのです。起こってしまえば、取り返しがつかないのが原発事故です。

 

  それをただ目の前の電力需給の逼迫を理由に、なし崩し的に再稼働に向けて突っ走るなどということは許されるものではありません。そもそも関電が夏の電力需要に対応するために、原発以外の手段を動員する十分な対策をとったといえるでしょうか。原発を動かしたいがために、休眠中の火力発電所を動かそうともせず、それに必要な設備投資を怠ってきたのではないでしょうか。原発事故が起こった時点で、今日の事態は十分予測できたことであり、そのための対策をとる期間も無かったとはいえないのです。実際、東電は短期間に火力発電所を再稼働させ電力需要に応じています。やる気さえあればできるのです。

 

  関電の狙いは、停電を脅しに強引に再稼働に持ち込もうということではないでしょうか。そして野田政権は、その電力資本の言いなりなのです。

 

  結局、野田民主党政権は消費税増税にしても、原発推進にしても、これまでの自民党と何一つ変わることなく、資本のいいなりの政権でしかないことがハッキリしたわけです。

 

  とにかく腹の立つことばかりですが、しかし、まあ、本来の学習会の報告に移りましょう。今回は、第2章「交換過程」に入って二回目です。第4~6パラグラフをやりました。さっそく、その報告を行います。

 

◎第4パラグラフ

 

  報告はこれまでのように、まずパラグラフ本文を紹介し、文節ごとに記号を付して、それぞれの解読を行い、そのなかで学習会での議論も紹介していくことにします。

 

【4】〈 (イ)どの商品所有者も、自分の欲求を満たす使用価値をもつ別の商品と引きかえにでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。 (ロ)その限りでは、交換は彼にとって個人的な過程でしかない。 (ハ)他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。 (ニ)すなわち、彼自身の商品が他の商品の所有者にとって使用価値を持つか持たないかにはかかわりなく、自分の気にいった、同じ価値をもつ他のどの商品ででも価値として実現しようとする。 (ホ)その限りでは、交換は彼にとって一般的社会的過程である。 (ヘ)だが、同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であると共にもっぱら一般的社会的であるということはありえない。〉

 

  (イ)、(ロ) どの商品所有者も、自分の欲しい商品とでなければ、交換しようとしません。その限りでは、交換は、彼にとっては個人的な過程でしかないでしょう。 

 

  この場合も、商品所有者の立場から、交換過程を考察しています。これまでのパラグラフでは、商品所有者と商品そのものとの相違ということで、第2章の第1章との相違を見ていたのですが、ここでは問題をもう少し具体的に交換過程そのものを対象にして、商品所有者が商品を交換するというのは、どういう問題意識と観点からか、という形で問題を見ていることが分かります。そしてその場合の交換過程の矛盾を見ているわけです。


  これまでは商品所有者と商品との関係が考察の対象でしたが、ここでは商品所有者同士の関係が問題になっています。そしてその上で、商品所有者にとって、交換は、まずは個人的な過程であることが指摘されているのです。交換が、商品所有者にとって、「個人的な過程」であるというのは、それは商品所有者の個人的な欲望と密接不可分だからです。直接的な生産物の交換の場合、交換者は自分の欲しいと物とだけ、交換しようとします。だから相手も自分の持っているものが欲しい場合にだけ、偶然的にそれは交換されるわけです。それはまったく偶然的で個人的な過程なのです。

 

  (ハ)、(ニ)、(ホ) 他方で、彼は自分の商品の価値を実現しようとします。つまり、彼は自分の商品が他の商品所有者にとって使用価値を持つかどうかに関わりなく、自分の気に入った同じ価値を持つ商品とであればどれとでも交換しようと思うわけです。だからこの限りでは、交換は彼にとっては、一般的社会的過程であるわけです。

 

  ここでは先の場合とは違って、〈彼は自分の商品を価値として実現しようとする〉とあります。つまりこの場合の交換は、決して偶然的なものではなく、個人的な欲望には関わりなく、交換を行うということです。だからすでに交換されるものは、それ自身の使用価値や個人的欲望とはかかわりのない価値として、つまり自身に対象化されている労働の一般的社会的な妥当性を示そうとしているわけです。つまりこの場合、この商品の所有者は、次々に他の諸商品と交換することを望んでいるわけです。だからこの場合は、交換は、彼にとっては社会的な過程なのです。〈交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする〉(117頁)と後にマルクスは述べていますが、自身の商品を次々に別の諸商品と交換しようとするということは、それ自体、交換の一定の社会的な発展を想定しています。マルクスは「展開された価値形態」(第二の形態)について、次のように述べています。

 

  〈第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。〉(全集23a86頁)

 

  つまり次々と諸商品と交換しようとする場合、すでにその商品所有者にとっては、交換は一般的社会的な過程なのです。

 

  (ヘ) しかし、同じことはすべての商品所有者にとって言えることです。だから同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であると共にもっぱら一般的社会的であるということはありえません。

 

  つまり、次のようなことではないでしょうか。ある部族の一人の有能な猟師が毛皮を求めて狩猟をしながら森を移動したとします。そしてその行き先々で彼はたまたま接触した幾つかの部族と彼の獲物の毛皮を、それぞれの部族の産物と交換したとします。この場合、その一つ一つの交換は偶然的なもので、互いに欲望が互いの物を欲する限りで行われるに過ぎません。その限りでは交換は個人的な過程なのです。


  しかしその有能な猟師は、それまで一定の定着農耕の農閑期に限っていた狩猟を、生活の中心に置くようになります。つまり彼は獲物を求めて、一年を通し、この季節にはこの森に、この季節にはこの谷に、どういう動物がいるのかを知るようになり、季節によって、年々、同じルートを巡回して、獵を行い、毛皮を生産しつつ、それをそのルートで接するある程度決まった部族と交換するようになります。つまり猟師にとって、獲物の毛皮を交換して歩くことが彼自身の生活になってきます。だから彼の毛皮は最初から交換を目的に生産されることになるわけです。そうすると、猟師が遭遇する部族との交換は、ある獣の毛皮一枚はジャガイモ二袋としか交換しないというように、その交換は一定の規則性を帯びてきます。つまり猟師は、彼の毛皮を価値として交換しようとするようになります。


  しかしやがて猟師だけではなく、猟師がそれまで接触してきた部族のなかにも、交換が発展してきます。しかしすべての部族の生産物が同じように彼らの生産物を価値として実現しようとしても決してできないのです。こうした交換の発展が、それらに内包する矛盾を発展させる過程が、ここでは分析されているのではないでしょうか。

 

◎第5パラグラフ

 

【5】〈 (イ)立ちいってみてみると、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品の特別な等価として意義をもち、したがって、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価として意義をもつ。 (ロ)しかし、すべての商品所有者が同じことを行うのだから、どの商品も一般的等価ではなく、したがってまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較しあうための一般的相対的価値形態をもってはいない。 (ハ)だから、諸商品はおよそ商品として相対しているのではなく、ただ生産物または使用価値として相対しているにすぎないのである。〉

 

  (イ) 少し詳しく考えてみると、どの商品所有者にとっても、他の人の商品はどれも自分の商品の特別な等価として意義を持ちます。だから自分の商品は他のすべての商品に対しては一般的等価として意義を持つわけです。

 

  先の過程をより立ち入って考えてみましょう。〈どの商品所有者も、自分の欲求を満たす使用価値をもつ別の商品と引きかえにでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。・・・・他方では、彼は・・・・彼自身の商品が他の商品の所有者にとって使用価値を持つか持たないかにはかかわりなく、自分の気にいった、同じ価値をもつ他のどの商品ででも価値として実現しようとする〉ということは、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品に対する特殊的等価物として意義を持つということであり(展開された価値形態)、だから他方では、自分の商品は他のすべての商品に対して一般的等価物として意義をもつという関係にあるわけです(一般的等価形態)。

 

  つまりここでは先の「展開された価値形態」に対応する交換過程が、それ自身が内包している逆の関係、つまり「一般的価値形態」に対応する交換過程へと発展することが論じられているように思えます。

 

  (ロ) しかし、すべての商品所有者が同じことを行うわけですから、どの商品も一般的等価ではなく、したがってまた、諸商品は、それらが自分が価値として等置し、価値の大きさとして比較し合うための一般的相対的価値形態をもっていないことになります。

 

  しかし、すべての商品所有者が同じことを行い、自分の商品を一般的等価物にしようとしても、それは不可能なことです。なぜなら、ある商品の所有者が、自分の欲する諸商品と次々と交換し、だから他の諸商品を自分の商品の特殊な等価物にし、それによって自分の商品を他のすべての商品に対する一般的等価物の地位に置くということは、自分以外のすべての商品を一般的等価物から排除するということでもあるからです。しかし、すべての商品所有者が同じことをしようとするなら、すべての商品が一般的等価とはなれず、だから諸商品は、互いに自分たちを価値として等置し、価値の大きさとして比較し合うための一般的相対的価値形態をもっていないことになります。

 

  (ハ) だから、諸商品はおよそ商品として相対しているとは言えず、ただ生産物あるいは単なる使用価値として相対しているに過ぎなくなります。つまり交換は不可能になるわけです。

 

  ということは、商品は価値形態を持たないことになり、価値形態を持たないということは、それれらは商品形態を持たないということ、すなわち単なる現物形態を持っているだけになり、そうした形で相対しているだけになるわけです。つまり交換は不可能になります。

 

  この三つ目の矛盾は、初版本文に出てくる「価値形態IV」の場合と類似しているように思えます。初版からその部分を紹介しておきましょう。

 

  〈とはいえ、われわれの現在の立場では、一般的な等価物はまだけっして骨化されていない。どのようにしてリンネルがじっさいに、一般的な等価物に転化されたのであろうか? リンネルが自分の価値を、まず一つの単一の商品で相対的に表し(形態Ⅰ)、次には、すべての他商品で順ぐりに相対的に表わし(形態II)、こうして反射的に、すべての商品が自分たちの価値をリンネルで相対的に表わす(形態III)、ということによって。単純な相対的価値表現は、リンネルという一般的な等価形態がそこから発展してきた胚種であった。この発展のなかで、リンネルは役割を変える。リンネルは、自分の価値量を他の一商品で表わすことで始まり、すべての他商品の価値表現のための素材として役立つことで終わる。リンネルにあてはまることは、どの商品にもあてはまる。リンネルの発展した相対的価値表現(形態II)は、リンネルの単純な価値表現の多数のあつまりからのみ成り立っているのであって、この形態IIでは、リンネルはまだ一般的な等価物として現われていない。むしろ、ここでは、他の商品体はどれも、リンネルの等価物になっており、したがってリンネルと直接的に交換可能であり、それゆえにリンネルと位置を取り替えることができる。
 だから、われわれは最後に次の形態を得ることになる。

 形態IV
 20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 1着の上着=20エレのリンネル、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 u量のコーヒー=20エレのリンネル、または=1着の上着、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 v量の茶=等々

 ところが、これらの等式のどれも、逆の関係にされると、一般的な等価物としての上着やコーヒーや茶等々が生じ、したがって、すべての他商品の一般的な相対的価値形態としての上着やコーヒーや茶等々での価値表現が生ずる。一般的な等価形態は、つねに、すべての他商品に対立して、一商品にのみ属している。だが、それは、すべての他商品に対立して、どの商品にも属している。ところが、どの商品もが、自分自身の現物形態を一般的な等価形態として、すべての他商品に対立させるならば、すべての商品が、自分たちをことごとく一般的な等価形態から排除し、したがって、自分たち自身を、自分たちの価値量の社会的に認められている表示から、排除することになる。〉(江夏訳56-58頁)

 

◎交換過程の三つの矛盾

 

  これまで検討してきた交換過程の三つの矛盾について、それらの相互関係を如何に理解するかが、さまざまに議論されてきました。それについて、少し考えてみることにしましょう。まず三つの困難としてマルクスが述べているものについて、簡単に復習してみます。

 

  1)〈諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない(価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない)〉〔第2・3パラグラフ〕。

 

  2)〈同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であるとともにもっぱら一般的社会的であるということはありえない〉〔第4パラグラフ〕。

 

  3)〈どの商品も一般的等価物ではなく、それゆえまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較しあうための一般的相対的価値形態をもってはいない〉〔第5パラグラフ〕。

 

  この三つの事態について、これらを相対的に独立した「三つの矛盾」と見るか、それとも「一つの矛盾」を三つの側面から考察したものと見るべきか、ということが論じられて来たのだそうです。

 

  しかし、これらの三つの矛盾の相互の関係を論じるまえに、そもそもどうして交換過程では、こうした矛盾が論じられているのでしょうか。まずそれから考えましょう。

 

  それを考えるためには、もう一度、第1章「商品」との関連で、第2章「交換過程」の課題を明確に掴む必要があります。

 

  これについては、一度詳しく論じたことがあります(第44回報告)。そこでは次のように説明しました。

 

  第1章「商品」は、商品とは何かを明らかにすることでした。確かに第1章ではリンネルや上着やコーヒーや鉄や金など、さまざまな商品が登場してそれらの関係が考察されたのですが、しかしこれらはあくまでも商品とは何かを明らかにすることが目的なのです。もちろん、商品とは何かを明らかにするということは、その商品がリンネルであろうが、上着であろうが何でも良かったのですが、しかし問題は、あくまでも商品とはそもそも何かを明らかにすることでした。そしてその商品の何たるかを解明するためには、商品は自らの価値を具体的に表す存在でなければならないこと、それを商品は貨幣形態、つまり価格という形で表していることをマルクスは明らかにしたのです。だからリンネルと上着との価値関係やリンネルと他の諸商品との展開された価値形態など、さまざまな諸商品との関係が考察されたのも、そもそも商品にはどうして価格が、すなわち値札が付けられているのか、そうしたことを明らかにするために商品の価値の表現形態としての貨幣の発生を論証したのでした。

 

  しかし重要なことは、そうした一連の諸商品の価値関係や価値形態の考察も、あくまでも、そもそも商品とは何かを解明するためであったということです。だから第1章では、商品はそれ自体として存在するもの、つまりその姿においてだれもが商品として分かる物的存在として、すなわち一つの現存在として把握されたのでした。あとはこの商品が一つの自立的存在として、今度はそれ自身の運動する過程をわれわれは分析するのですが、しかし、マルクスはその前に、商品そのもの歴史性を暴露する節を設けていました。それがすなわち第4節です。

 

  つまり第4節の商品の物神性というのは、商品そのものの歴史性を暴露し、商品の発生、発展、及び消滅の必然性を明らかにするのが、この節の課題でした。

 

  だから第2章は、第1章で明らかにされた商品をもとに、今度は自立した商品の運動が、すなわちその交換の過程が分析の対象になるのです。そして商品の運動とは、すなわち他の諸商品との交換過程そのものです。そして運動を分析するということは、その運動として現れている矛盾を解明すること、つまり交換過程に潜む矛盾を解明することでもあるのです。

 

  これは例えば、ある物質が運動している場合、その運動する物質を規定しようとする場合、論理的には、ここに「ある」と同時に「ない」としか説明できません。しかしある物が「ある」と同時に「ない」というのは矛盾そのものです。しかし運動しているものは、すべてこうした矛盾した規定的存在なのです。もう一つの例を上げると、古代ギリシアの哲学者ゼノンの有名なアキレスと亀の話があります。アキレスが亀に追いついたと思ったら、亀はその分だけ前に進んでおり、さらにその分の距離を追いついたと思ったら、やはり亀は、その時間だけ前に進んでいて、いつまで経ってもアキレスは亀に追いつけないという話です。これも実際にはアキレスは亀をあっというまに追い抜くという運動をしているのですが、しかしその運動を分析し規定しようとすると、こうした「悪無限」という論理的には矛盾した状態が明らかになるのです。

 

  交換過程は、現実の商品の交換が行われる過程であり、諸商品は実際に交換されているものとして運動しているのですが、こうした運動を分析するということは、その運動を運動たらしめている矛盾を明らかにすることになるのです。これが交換過程では矛盾が最初に問題にされている理由なのです。

 

  最初の矛盾(商品は使用価値として実現する前に、価値として実現していなければならず、価値として実現するためには、使用価値として実証していなければならない)は、価値形態では最初の「単純な価値形態」に対応するものですが、そのことは同時に、商品の交換そのものに内在する矛盾を明らかにしたものでもあるのです。その限りではその矛盾は、抽象的な形で交換を捉えたものであり、交換一般に潜む矛盾を明らかにしたものともいえるでしょう。

 

  それに対して、第二の矛盾(商品の交換は個人的過程であると同時に一般的過程であるということはできない)は、価値形態の「第二の形態」に対応していますが、今度は、交換一般ではなく、商品がより多くの諸商品との交換過程に入るなかでの矛盾です。一つの商品が、それ以外の他の多くの諸商品と交換過程に入るなかで生じる矛盾なのです。

 

  それに対して、第三の矛盾は、諸商品が相互に交換し合う社会的な関係を想定しています。それは一つの商品が、それ以外の他の多くの商品と交換するだけではなく、すべての商品が自分以外の多くの諸商品と交換し合う過程を想定して、その矛盾を見ているわけです。

 

  交換過程は現実の商品が実際に交換されている過程の分析ですが、しかし諸商品が交換されるということを分析すると、だからこうした矛盾が見いだされ、現実の商品の交換の発展は、こうした矛盾を解決する過程として捉えられることになるわけです。

 

  私たちは第1章第3節では、諸商品の交換関係の中に潜む価値の表現形態の発展を跡づけました。そこでは価値形態の発展は、商品形態の発展であり、商品の交換関係そのものの発展でもあるとの指摘がありました。次のように指摘されていました。

 

  〈労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表わすような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。〉(全集23a83頁、下線は引用者)

 

  またマルクスは価値形態のそれぞれがどのような交換過程を前提しているかについても、次のように述べていました。

 

  〈第一の形態--この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。〉(同前89頁))

 

  〈第二の形態--展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。〉(同)

 

  〈第三の形態--新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表わす。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。〉(同)

 

  つまり私たちが第1章で跡づけた価値形態の発展(単純な価値形態→展開された価値形態→一般的価値形態)は、いわば現実の商品交換の発展を前提して、そのうえで、そのそれぞれの発展段階の交換過程から、諸商品の交換を前提した上で、交換される諸商品そのものに注目して、それ以外の現実の商品交換に付随する商品所有者やその欲望等を捨象して、純粋に諸商品の交換関係だけを取り出し、商品の価値関係そのものに潜む、価値の表現形態の発展段階を分析してきたといえるのです。だからこそ、そうした商品の価値形態の発展の前提としてあった交換過程そのものが、今度は、第2章の分析の対象なのですから、諸商品の交換過程の発展が、こうした交換過程の三つの矛盾に対応していると言いうるのではないかと考えられるわけです(だからまた、当然、交換過程の三つの矛盾は、価値形態の三つの発展段階にも対応しているとも言えます)。

 

◎第6パラグラフ

 

【6】〈 (イ)わが商品所有者たちは、当惑してファウストのように考えこむ。(ロ)はじめに行動ありき。 (ハ)したがって、彼らは考える前にすでに行動していたのである。 (ニ)商品の性質の諸法則は、商品所有者の自然本能において確認されたのである。 (ホ)彼らは、彼らの商品を一般的等価としての他の何らかの商品に対立的に関係させることによってしか、彼らの商品を価値として、商品として、たがいに関係させることができない。 (ヘ)このことは、商品の分析が明らかにした。 (ト)だが、もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価にすることができる。 (チ)だから、他のすべての商品の社会的行動がある特定の商品を排除し、この排除された商品によって他のすべての商品はそれらの価値を全面的に表示するのである。 (リ)これによって、この排除された商品の現物形態が社会的に通用する等価形態となる。 (ヌ)一般的等価であるということは、社会的過程によって、この排除された商品の特有な社会的機能となる。  (ル)こうして、この商品は--貨幣となる。
(ヲ)「“この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣(ケモノ)にゆだねる。 (ワ)この刻印のあるものでなければ、だれも物を買うことも売ることもできないようになった。 (カ)この刻印とはあの獣の名、あるいはその名を表す数字である Illi unum consilium habent et virtutem et potestatem suam bestiae tradunt. Et ne quis possit emere aut vendere, nisi qui habet characterem aut nomen bestiae, aut numerum nominis ejus. ”」(ヨハネ黙示録)。〉

 

  (イ)、(ロ)、(ハ) 商品所有者は、困り果ててファウストのように考え込みます。はじめに行動ありき。つまり彼らは、考え込む以前に行動していたのです。

 

  〈はじめに行動ありき〉というのは、ゲーテ『ファウスト』第1部「書斎」でのファウストの言葉ですが、この部分については、所沢の「『資本論』を読む会」の資料を紹介させて頂きます。それは次のようなものです。

 

【●《太初(はじめ)に業(わざ)ありき》について、NHKドイツ語講座のテキストで以下のように述べられていることが紹介されました。
 聖書(ヨハネによる福音書Ⅰ章1節)の「Im Anfang war das Wort はじめに ことばがあった」について《ここで言われているdas Wort「ことば」は、おしゃべりの言語や話し言葉といういみではなく、ギリシャ語の言語ではLogos ロゴス、つまり神の意志、理念、力、神の行動とそのことば、イエス・キリスト、といった複雑な意味を込めた語です。》
 《ウルフィラがロゴスをそのままの音で使わず、「ことば」と訳したのが、現代までの聖書訳の原型になっています。》《ゲーテは、ルネサンス的行動の巨人ファウスト博士に、このロゴスをこう訳させています。「誠実な心で 神聖な原文を わが愛するドイツ語に訳そう。 こう書いてある、「太初(はじめ)にことばがあった」。 ここで俺はもうつまずく、よい知恵はないものか。 ことばというものを、そう高くは尊重できぬ。・・・・霊の力だ! 俺にはよい知恵がありありと見える。 そして安んじて記す、はじめに行動があった、と。 [注]Tat:行為、行動。ここでは人間の行動、そして神の行為という意味も込められています。》】

 

  (ニ) つまり商品の性質の諸法則は、商品所有者の自然のおもむくままにその行動によって確認されたのです。

 

  (ホ) 彼らは、彼らの商品を価値として、互いに関係させようとするなら、他の何らかの商品に対して、共同して、それを一般的等価として対立的に関係させることしかないのです。

 

  (ヘ)、(ト) こうしたことは第1章における商品の分析があきらかにしたことです。しがしどの商品が一般的等価物になるかということは、ただ社会的行為だけが決めることです。理論的考察によって決まることではないのです。

 

  諸商品の交換関係が、価値形態としては一般的価値形態にまで発展せざるを得ないことは、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」のなかで明らかにされました。しかし、現実の商品の交換過程のなかで、如何なる商品が商品世界からはじき出されて、一般的等価物として登場するかは理論的に明らかになるものではないのです。それは実際の歴史的・社会的過程によって、すなわち諸商品の社会的行為だけが決めるものなのです。

 

  (チ)、(リ) だから、他のすべての商品の社会的行動が、ある特定の商品を排除し、この排除された商品によって、他のすべての商品が、自分たちの価値を表現することになります。こうして、この排除された商品の現物形態が社会的に通用する等価形態になるわけです。

 

  (ヌ)、(ル) 一般的等価であるということは、社会的過程によって、この排除された商品の特有な社会的機能となり、こうしてこの商品は貨幣になるわけです。

 

  (ヲ)、(ワ)、(カ) (「ヨハネ黙示録」からの引用)
 
  これは書き下し文は不要と考えます。この「ヨハネの黙示録」からの引用は、このパラグラフの最初のファウストの言葉に対応させていると考えられます。

 

   ところでこのパラグラフの最初に出てくる〈はじめに行動ありき〉については、以前、大阪で開催していた「『資本論』を学ぶ会」のニュースで次のように論じたことがあります。参考のために紹介しておきましょう。

 

 【〈◎「はじめに行為ありき」とは理論的破産?

 

  さて、マルクスは先に紹介したように、交換過程に潜む三つの矛盾を明らかにした後に、突然、第六パラグラフで〈わが商品所有者たちは、当惑してファウストのように考え込む。はじめに行為ありき。彼らは考えるまえにすでに行動していたのである。・・・・もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価物にすることができる〉と述べています。この部分は久留間鮫造氏によれば、〈マルクスはここで、理論的に解決不可能な問題を商品所有者の行為が解決するものとして説明しているのだ〉と主張し、〈そういう「説明」は説明ではなく、理論的破産を意味するものでなければならぬとして、ここにマルクス批判の一つの根拠を見いだそうとする試みがあらわれ〉(『価値形態論と交換過程論』24頁)たのだと述べています。もちろん、久留間氏はこうした批判が根拠のないものであることを論証しているのですが、それによれば、〈貨幣は--商品生産のすべてのその他の関係と同様に--自然発生的なものであって反省の産物ではないということ、ブルジョア経済学者がしばしばいっているように「発明」されたものではないということを、いささかしゃれたいい方でいっているものにすぎない〉と説明しています。

 これはこの限りでは、正しく異論はないのですが、ただマルクスがこの第六パラグラフと、さらにこれまでの分析の結論部分と考えられる第七パラグラフに続いて、第八パラグラフから貨幣発生の歴史的考察に移っていることを考えると、こうした説明だけで果たして十分なのだろうかと考えます。

 ここではマルクスは、久留間氏がいうように貨幣は「発明」品ではなく、自然発生的な産物だというだけでなく、〈だが、もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価物にすることができる〉とも述べています。つまりどの商品が貨幣になるかは、理論の問題ではなく、現実の社会的過程によって決まるのだ、ともいっているように思えるのです。だからマルクスは第八パラグラフから商品交換の歴史的な発展を分析的にあとづけて、まず最初の一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会的接触とともに発生し、それとともに消滅すること、しかしそれはすぐに商品交換の発展につれて、特殊な種類の商品に固着し、貨幣形態に結晶すること、しかしさしあたりそれが何に固着するかは偶然的であるが、しかしますます商品交換が発展していくにつれて、最終的には貴金属に移っていくことが明らかにされています。つまり貨幣形態が最終的に貴金属に固着するには理由はあるが、しかしそれがそうなるのは社会的行為によってなるのだとしているのです。

 このようなマルクスの歴史的考察の挿入は、『資本論』では他にも多く見られます。例えば、絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産に移る間に、労働日をめぐる階級闘争の長い歴史的考察が見られます。マルクスは「第八章 労働日」の第一節の最後で次のように述べています。

 〈かくして、資本制的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸限度をめぐる闘争--総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級との間の一つの闘争--として現われる

 そして第二節から、長い歴史的考察を始めているのです。つまり絶対的剰余価値の生産を限界づける労働日の標準化そのものは、一つの社会的行為、すなわち現実の階級闘争そのものが決めるのです。そしてそうした歴史的な闘いによって制限された労働日を前提にして、資本は今度は生産様式の変革による相対的剰余価値の生産に移行すると展開していくのです。

 マルクスは『経済学批判要綱』では、〈われわれの方法が、どのような点で歴史的考察がはじまらなければならないかを、・・・・指し示している〉(高木訳Ⅲ396頁)とか〈叙述の弁証法的な形態は、自己の限界をしっているばあいにのみ正しい〉(同Ⅴ1069頁)と述べています。交換過程のこの部分についても、マルクスはそうした歴史的考察を指し示すものとして、「ファウストの当惑」を挿入しているのだと思うのですが、どうでしょうか?】(同ニュースNo.28)

 

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【付属資料】

 

●第4パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈どの商品所持者も、自分の商品を、自分の必要をみたす使用価値をもっている他の商品と引き換えにのみ、譲渡しようと思う。そのかぎりでは、交換は、彼にとっては個人的な過程でしかない。他方、彼は、自分の商品を、価値として実現しようと思う、つまり、自分自身の商品が他の商品の所持者にとって使用価値をもっていようといまいと、それを、他の気に入った同じ価値の商品でありさえすればどの商品においてでも、実現しようと思う。そのかぎりでは、交換は、彼にとっては一般的・社会的過程である。といっても、同じ過程が、どの商品所持者にとっても同時に、たんに個人的であるとともにたんに一般的・社会的である、ということはありえない。〉(72-3頁)

 

《フランス語版》

 

 〈各々の商品所有者は、自分の必要をみたす使用価値をもつ他の商品と引き換えにしか、自分の商品を譲渡しようとしない。この意味では、交換は彼にとって個別的な仕事でしかない。おまけに、彼は自分の商品を、価値として、自分の気にいる同価値のどんな商品のうちにでも実現しようとする。このばあい、自分自身の商品が他の商品所有者にとって使用価値をもっているかどうかは、問わない。この意味では、交換は彼にとって一般的な社会的行為である。だが、この同じ行為がすべての商品交換者にとって同時に、たんに個別的であるとともにたんに社会的、一般的でもあるということは、ありえない。〉(63頁)

 

●第5パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈もっと詳しく見ると、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれち自分の商品の特殊的な等価物と見なされ、したがって、自分の商品はすべての他商品の一般的な等価物と見なされる。ところが、すべての商品所持者が同じことを行なうから、どの商品も一般的な等価物ではなく、したがってまた諸商品は、それらが価値として等置され価値量として比較されあうところの、一般的な相対的価値形態を、もっていない。だから、諸商品は、一般的には、商品として相対するのではなく、生産物または使用価値としてのみ相対することになる。〉(73頁)

 

《フランス語版》

 

 〈もっと細かく事態を考察してみよう。各々の商品所有者にとって、他人の商品はどれも自分の商品の特殊な等価物であり、したがって、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価物である。ところが、すべての交換者が同じ状態にあるから、どの商品も一般的等価物ではなく、諸商品の相対的価値は、これらの諸商品が価値量として比較されることのできる一般的形態を、なんらもたない。要するに、諸商品は互いに相手にたいして商品の役割を演じるのではなく、単なる生産物、あるいは使用価値の役割を演じるわけである。〉(63頁)

 

●第6パラグラフ

 

《初版本文》

 

 〈わが商品所持者たちは当惑のあまりファウストのように考え込む。初めに行為ありき、と。だから、彼らは、考えるよりも以前にすでに行為していたのだ。商品の本性の諸法則は、商品所持者たちの自然本能において実証されている。彼らが、自分たちの商品を、価値として、それゆえに商品として、互いに関係させることができるためには、彼らが、自分たちの商品を、一般的な等価物としてのなんらかの別の一商品に対立的に関係させる、という手段にたよるほかない。このことは、商品の分析が明らかにしたところである。ところが、社会的な行為だけが、ある特定の商品を一般的な等価物にすることができる。だから、すべての他商品の社会的な行為特定の一商品を排除し、この商品のうちに、すべての他商品が自分たちの価値を全面的に表わすことになる。このことによって、この商品の現物形態が、社会的に認められる等価形態になる。一般的な等価物であるということが、社会的過程によって、この排除さされた商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は--貨幣になるのである。「彼らは心を一つにしておのこうして、がちからと権威とをけものにあたう。このしるしをもたぬすべての者に売り買いすることを得ざらしめたり。そのしるしはけものの名、もしくはその名の数字なり。」(ヨハネ黙示録。)〉(73頁)

 

《フランス語版》

 

 〈われわれの交換者たちは困り果てて、ファウストのように考える。初めに行為ありき、と。したがって、彼らは考えるよりも前にすでに行動していたのであって、彼らの自然本能は、商品の性質から生ずる法則を確認するにすぎない。彼らが自分たちの物品を価値として、したがって商品として比較できるのは、もっぱら、彼らが自分たちの物品を、これにたいして一般的等価物として置かれる他のなんらかの商品と比較することによってのことである。このことは、上述の分析がすでに証明したところである。だが、この一般的等価物は、社会的行為の結果でしかありえない。だから、特殊な一商品が、他の諸商品の共同行為によって除外されて、他の諸商品の相関的価値を表示するのに役立つわけである。このようにして、この商品の自然形態が、社会的に有効な等価形態になる。それ以後は、一般的等価物の役割がこの除外された商品の独自な社会的機能になり、この商品が貨幣になる。「彼らは心を一つにしておのがちからと権威とをけものにあたうこのしるしをもたぬすべての者に売り買いすることを得ざらしめたりそのしるしはけものの名もしくはその名の数字なり」(ヨハネ黙示録)。〉

 

 


第47回「『資本論』を読む会」の案内

『 資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か 

                                    

 

                                      
  野田政権は消費税増税のためには、社会保障改革で同党が公約したものをことごとく捨て、自民・公明案を丸飲することも辞さない構えのようである。

 

  与野党の協議では、すでに消費税を14年に8%、15年に10%と二段階で引き上げるとした民主党案を自民・公明が受け入れ、基本合意に達したとされている。

 

  あとは社会保障改革であるが、自民・公明は民主党が掲げる最低保障年金制度や後期高齢者医療制度廃止の撤回を求め、自民党の社会保障基本法案の丸飲みを要求しているという。そして野田首相は、13日、自民党案へ歩み寄る姿勢を示した。

 

  もはや「税と社会保障の一体改革」は有名無実化し、民主党が選挙で掲げた社会保障改革は置いてきぼりをくらい、ただ消費税増税論議だけが突っ走っていると言ってよい。しかし、これでは本末転倒も甚だしい。そもそも消費増税が必要なのは、少子高齢化社会の到来によって、現行の年金制度等がこのままでは立ち行かなくなる、だから社会保障制度全体を見直し、改革する必要がある。しかし、そのための財源が必要、だから消費増税だ、というのが同党の説明ではなかったのか。もっとも、同党の選挙向けのマニフェストでは、当面は消費増税は不要で、行政の無駄を徹底的に省けば、改革に必要な財源などはいとも簡単にひねり出せるなどとも主張してきたのではあったが。

 

  しかし、いまでは、その肝心要の社会保障制度の抜本的な見直しが棚上げされ、ただ消費増税だけが先走りしている。これでは国民に対する二重三重の裏切りではないか。そもそも消費増税は当面はやらないというのが民主党の約束だった筈である。にも関わらず、それを持ち出してきたことがまず一つの裏切りであり、その増税の根拠としてきた社会保障制度の改革さえ棚上げするとなれば、さらなる裏切りだからである。

 

  少子高齢化社会の到来とともに、社会保障費が増大していることは一つの事実である。しかし、それらはすでに何度も述べてきたように、現在の社会が資本主義の社会であるが故である。例えば年金にしても、資本が一定の年齢に達した労働者を機械的に退職に追いやる制度から不可避に必要となっているものである。高齢者の大半は、それぞれの年齢に応じた仕事を与えられるなら、幾らでも働く能力も意志も持っている。本当に社会から保障されなければならないほどの高齢に達しているような人は、決して多くはないのである。

 

 

  マルクスは一定の年齢以上のすべての子供たちや高齢者にも、それぞれの年齢に相応しい適切な労働が必要であること、例えば子供たちの場合は、教室に缶詰になって一方的に知育を押しつけられるより、教育と生産的労働とを結合した方が、教育への子供たちの意欲を引き出し、全面的に発達した個性を作り出すことができることや、さまざまな年齢層の男女の労働者が職場で共同して働く方が、生産力を高めうるだけでなく、人間的発展の源泉になりうることを次のように指摘している。

 

  〈ロバート・オーエンをくわしく研究すればわかるように、工場制度から未来の教育の萌芽が芽ばえたのであり、この未来の教育は、社会的生産を増大させるための一方法としてだけでなく、全面的に発達した人間をつくるための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童に対して、生産的労働を知育および体育と結びつけるであろう。〉(『資本論』第1巻、全集23a629-30頁)

 

  〈結合労働人員の構成が、両性のきわめてさまざまな年齢層の諸個人からなっていることは、労働者が生産過程のために存在し生産過程が労働者のために存在するのではないという自然成長的で野蛮な資本主義的形態においては、退廃と奴隷状態との害毒の源泉であるけれども、適当な諸関係のもとでは、逆に人間的発展の源泉に急変するに違いない。〉(同上、全集23a637-638頁)

 

  いずれにせよ、社会保障の抜本的改革は民主党の公約である。消費増税なしでそれが可能としたのが同党の約束であったが、いまではそれは公然と反故にされ、そればかりか社会保障制度の改革まで棚上げされて、消費増税一本槍では、国民は納得できない。民主党は国民との約束を守れないなら、さっさと政権から身を引くべきではないか。

 

  「税と社会保障の一体改革」の欺瞞を暴くためにも、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか。

 

 



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