目次
はじめに
第1回「『資本論』を読む会」の案内
第1回「『資本論』を読む会」の報告
第2回「『資本論』を読む会」の案内
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第3回「『資本論』を読む会」の案内
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第4回「『資本論』を読む会」の案内
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第5回「『資本論』を読む会」の案内
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第6回「『資本論』を読む会」の案内
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第7回「『資本論』を読む会」の案内
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第8回「『資本論』を読む会」の案内
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第50回「『資本論』を読む会」の報告(補足)

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第4回「『資本論』を読む会」の報告

第4回「『資本論』を読む会」の

 

 

 

◎夏真っ盛り、とにかく暑い!(@_@)

 

 関西地方も梅雨が明け、第4回「『資本論』を読む会」が開催された20日も、お日さんがカンカンと照りつける好天日でした。こんな日には、若い者なら海や山に、あるいはプールへと、老人たちは静かに家でクーラーの効いた部屋で昼寝でもやりたいものです。何が因果かこのクソ暑い中、昼日中にノコノコと出かけなければならないのか、などと愚痴をこぼしながら、とにかく出かける羽目に相成りました。

 

 泉が丘駅から会場の図書館までほんの2~300m歩道橋を歩いていくのですが、途中から日差しを避けるものが何もなく、私は持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、照り返しの強い歩道橋を汗をタラタラ流しながら歩きました。

 

 しかしこんなに暑くても、ありがたい事に会場はクーラーが効いていました。私たちは第2集会室を利用したのですが、この部屋も4~50人規模の大きな部屋。それを私たちはたった4人で利用しました。こんな大きな部屋をたった4人で、しかもクーラーを効かせて、タダで使用するのは何となく気が引けるというか、後ろめたい気持ちが否めません。私たちはもっと小さな部屋があればそれで十分なのですが、あいにく図書館に併設されている集会室にはそうした適当な大きさのものがありません。もっとも私たちの隣の第1集会室(これも4~50人規模の大きな部屋だが)を利用しているグループもたったの3人ほどのようでしたので、まあ何というかその後ろめたさがやや和らいだというか、私たちだけが罪深いことをしているのではないという安堵感のようなものがあった次第です。

 

 こんな大きな集会室ですが、部屋を借りてくれているピースさんの話では、案外に土日は空いているのだそうです。平日の夜はさまざまなサークルで一杯のようですが、土日は誰もが休みたいのか、利用者は少ないといいます。それに図書館に併設されていることから、その利用目的が制限されている(「読書会」や「読み聞かせ会」、「お話し会」等々のグループの利用が多いよう)ことも、会場が案外空いている理由のようです。いずれにせよ、とにかくありがたい事です。

 

 ◎「価値」を導き出すややこしい論理

 

 さて、いよいよ私たちの『資本論』を読む会も佳境に入り、これまで多くの人達が議論し、論争してきた部分にさしかかってきました。まずその部分を全文引用しておきましょう。

 

 《使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

 

 そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。

 

 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。……》(全集版51-2頁)

 

 何とも複雑な論理で、頭がこんがらがってしまいそうです。

 

 ピースさんは、「どうして、マルクスはこんなに回りくどい説明をしているのかなあ、“諸商品を互いに質的に区別している諸使用価値を捨象したら、あとに残るそれらの共通物がすなわち価値である”とスッキリ説明したらどうしてアカンのやろ」と疑問を出しました。

 

 実際、マルクスも引用文の最後のパラグラフでは《実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、……それらの価値が得られる》とスッキリ説明しています。

 

 もっともこれだと価値の実体が説明されたことにはならないのですが、だからマルクスはそれを説明するために色々と工夫したのではないか、ということになったのでした。

 

 そこで初版では、ここはどのように説明していたのかを見てみました。次のようになっています。

 

  《交換価値の実体が商品の物理的な手でつかめるある存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、それがただ正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。

 

 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現われる場合の形態からは独立に、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。

 

 諸使用対象または諸財貨としては、諸商品は物体的に違っている諸物である。これに反して、諸商品の価値存在は諸商品の統一性をなしている。この統一性は、自然から生ずるのではなくて、社会から生ずるのである。いろいろに違う諸使用価値においてただ違って表わされるだけの、共通な社会的な実体、それは--労働である。

 

 諸価値としては諸商品は結晶した労働よりほかのなにものでもない。(以下、価値の量の考察に移っている)》(岡崎訳・国民文庫24-5頁、注は省略しました)

 

  なるほど、初版では全体に簡潔だし、ここにはまだ「抽象的人間労働」といった言葉もでて来きません。ただ「共通な社会的実体」としての「労働」が指摘されているのみです。そして論理としてはむしろスッキリしているような印象を与えます。

 

 しかしこれが第二版のための『補足と改訂』(1871年12月-1872年2月執筆)だと次のようになっています。

 

  《そこで,諸商品体の使用価値を度外視すれば,諸商品体にまだ残っているのは,一つの属性,労働生産物という属性だけである。しかし,労働生産物もまたすでにわれわれの手によって変えられている。もしわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば,われわれは,労働生産物を有用にしている,すなわち使用価値にしている肉体的諸成分と形態をも捨象しているのである。それはもはや,テーブル,家,糸,等その他なんらかの使用対象ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。したがって,それはまた,もはや,指物労働,建築労働,紡績労働,あるいはその他何かある一定の有用的生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用的性格も消えうせ,したがってまた,ある労働がなにかある一つの使用対象を生産するときの,一定の具体的形態も消えうせる。

 

 そこで,これらの労働生産物にのこっているものを考察しよう。いま,一つの商品は他の商品と同しようにみえる。それらはすべて,何かあるものの同じまぼろしのような対象性以外の物ではない。何のか? 区別のない,人間的労働の,すなわち,その支出の特殊な,有用的な,規定された形態にかかわりのない人間的労働力の支出の対象性である。これらの物が現わしているのは,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が堆積されている,ということ以外のなにものでもない。それらに共通な,この社会的実体の結晶として--これらの物は価値である。

 

 われわれは次のことを見てきた。--諸商品の交換関係あるいはそれらの交換価値の形態そのものは,交換価値を使用価値の抽象と,特徴づけた。使用価値の抽象が現実に行われ,いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。(以下、略)》(小黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5・7号56頁)

 

 これは現行版にかなり近くなっていますが、まだ「抽象的人間労働」という用語そのものはこの範囲では出て来ません。しかしこの『補足と改訂』にはそのすぐあとに次のような注目すべき言及があります。

 

 《労働生産物を,それらの非常に多様な使用対象性とは異なる,同し種類の価値対象性に還元するさいに,一つの状況を見過ごしてはならない。すなわち,諸労働生産物が価値対象性を持つ,あるいは価値つまり単なる労働凝固であるのは,それらのなかに実現されているさまざまな具体的諸労働が,すべて抽象的人間的労働に還元されているからに他ならない,ということである。》(同)

 

  第二版ではこの二つが合わさって現行のような敍述になったと考えられるのではないでしょうか。

 

  さて、この部分については、戦前から今日に至るまで多くの議論がなされてきたのですが、それについては次回の報告の時にでも検討することにして、今回はこのぐらいにしましよう。


第5回「『資本論』を読む会」の案内

第5回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 総務省が7月25日に発表した6月の全国消費者物価指数は、前年同月比1.9%も上昇し、9カ月連続のプラスとなった。

 

 消費税率引き上げの影響で物価が上がった1998年1月以来、10年5カ月ぶりの高い伸び率だという。ガソリンの高騰や、穀物価格上昇に伴う食品の値上げなどが影響したなどと言われている。

 

 

 実際、身の回りの生活必需品を見回しても、値上げラッシュである。パンやスパゲッティ、チーズ、インスタントラーメン等々、食料品はいうに及ばず、電気やガスも値上げが予定されている。テレビのニュースでは教育費やPTAの会費まで値上げしているなどと報じていた。そして唯一労働者の賃金だけが低下し続けている、と。

 

 すでにインフレは明らかになりつつある。6月に大阪で開かれたG8財務相会合でも世界インフレが指摘され、「警戒を怠らず、共同で適切な行動を」などと訴えていたが、インフレは世界中で広がろうとしているのである。

 

 世界的なインフレは、サブプライム問題などによって、オイルマネーなど世界的な投機資金が金融商品を回避し、石油や穀物など現物商品の先物市場に流れ込んでいるからだとも言われているが、しかしその背景にはドルの“タレ流し”による過剰な貨幣資本があることは明らかである。

 

 こうした国家信用で膨れ上がった架空な貨幣資本は、為替や有価証券などに向かっている限りは、ただ剰余価値の上前をハネルための権利のやりとりでしかないし、物価に対する影響はほんどないのだが、しかし一旦、現物商品に向かうと、たちまちその架空性が暴露されて(というのはこうした架空な貨幣資本は現実資本に対する直接な請求権を代表していないから)、物価の騰貴を引き起し、結果として、その貨幣“価値”の下落、すなわちインフレをもたらすことになるのである。

 

 だから今日のインフレは国家的な信用膨張と深く結びついた現象であり、なかなか複雑ではあるが、しかしインフレそのものは、直接的には貨幣的現象であり、それを解明するためには、やはり『資本論』で明らかにされている「貨幣論」が必要なのである。

 

 だから貴方も是非、今日の複雑な経済現象を理論的に読み解くためにも、共に『資本論』を読んでみませんか?

 


第5回「『資本論』を読む会」の報告

第5回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎暑かった夏もおさらば

 

  8月も終わりに近づくと、急に涼しくなりました。

 

 私は友人夫婦と一緒に19~21日にかけて恒例の2泊3日の旅行に出かけ、標高1000m近くの高原の宿舎で過ごし、さすがは高原は涼しいなあ、などと言っていたのですが、帰ってくると、何のことはない、大阪の方が涼しくて、夜は窓を開けて寝ていると風邪を引きそうなほどでした。これでは何のための避暑旅行かといった次第でした。

 

 それほど今年の夏は短く、秋は早足で訪れつつあるようです。 これを喜ぶべきか、それとも悲しむべきか、子供達にとっては、楽しい夏休みが終わり、学校が始まるという何とも言えない複雑な気持ちではあるでしょうが、年寄りには、まあ身体が楽になるという点では、喜ぶべきなんでしょう。

 

 “実りの秋”と言います。しっかり『資本論』を研究して、実り多い秋にしたいものではあります。

 

◎「抽象的人間労働」と「同等な人間労働」

 

  最近は秋雨前線が停滞して、天気の悪い日が続きますが、わが「『資本論』を読む会」も、やや停滞気味で、ほとんど“移動”がありませんでした。

 

 といっても、何も議論もせずに終わったということではありません。問題が難しく何度議論してもなかなか埒が開かなかったからです。

 

 「抽象的人間労働」を如何に理解するかが問題でした。これは戦前から多くの学者が議論してきたものですから、私たちがたった数時間議論したからと言って埒が開くような性格のものではないと言えばそれまでですが、とにかく議論になった点を紹介しましょう。まず当該パラグラフを全部引用しておきます。

 

  (14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。

 

 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 

  これはパラグラフで言うと、14と15パラグラフです(いま便宜的に引用文にパラグラフの番号を記してみました)。この二つのパラグラフの論理的な関係が今一つよく分からないのです。

 

 まず最初に気付くのは、14パラでは「抽象的人間労働」という用語が使われていますが、15パラではそれが見当たらないということです。「価値の大きさ」が問題になると、どうして「抽象的人間労働」(の量)ではなく、15パラで問題になっている「同等な人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」とか「同一の人間労働力」とか「社会的平均労働力」「社会的平均労働」「社会的に必要な労働時間」等々が問題になるのか、前者と後者とはどのように関連しているのか、が問題になったのです。

 

◎まず最初は15パラグラフから

 

 15パラグラフでは、さまざまな用語がでてきますが、それらは次のような展開になっています。

 

 《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》               

                        

 《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》  

                       

  《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

                       ↓

  《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 

 ここでは、まず《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働、同じ人間労働力の支出である》との命題が述べられ、だから個々の労働は諸価値に現される限りは、《同一の人間労働力として通用する》こと、そして《同一の人間労働力として通用する》ということは、個々の労働が《社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用》する限りにおいてであること、というのは、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と言えるからだ、とされています。

 

 つまりここでは「価値の実体をなす労働」と「個別の諸労働」との関連が明らかにされているように思えます。個々の労働はその総計によって「社会の総労働力」の一部を構成しますが、しかし個々の労働それ自体としては価値を形成する労働としては通用しないこと、それが価値の実体をなす労働として通用するためには、それらが社会的な平均労働力として作用しなければならず、《したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて》価値を形成すること、というのは、それらはそうしたものとしてのみ、「同等な人間労働」として通用するのであり、よってまた価値の実体となることができるのだからである、等々。

 

 だからここでは「諸価値の実体をなす、同等な人間労働」が量的に、より具体的により深くその内容が規定されているように思えます。

 

 ◎14パラグラフと二つのパラグラフの関連

 

  まあ、15パラグラフはこの程度でよいとして、それではそれが14パラグラフとどのように関連しているのか、それが問題です。次に14パラグラフを考察してみましょう。 14パラグラフで問題になったのは次の一文です。

 

 《では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。》

 

  ここでマルクスは《「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によって》と書いていますが、ここに出てくる「労働」は、その前の分節--《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない》--に出てくる「抽象的人間労働」と同じなのか違うのかが問題になりました。

 

 ピースさんは同じではないかというし、亀仙人は「同じならどうして単に『労働』ではなく、『抽象的人間労働』という言葉を使わないのか」と疑問を呈したのですが、結論はでませんでした。

 

 この両者は同じと言えば同じですし、違うと言えば違うと言えます。明らかにマルクスはここで単に「労働」とのみ述べているのは、その次の15パラグラフとの絡みからだと思います。両者の違いは、「抽象的人間労働」は諸商品に対象化された労働であり、いわば「過去の労働」ですが、「価値を形成する実体」としての「労働」は、これから価値を形成する労働、つまり「生きた労働」という点にあるように思えます。「抽象的人間労働」は諸商品の交換関係から、それらの諸商品に共通なものとして、諸生産物に対象化され結晶している「社会的実体」として、抽出されたものです。それはもちろん、価値の実体をなすわけですから、社会的に共通な質に還元された労働であり、その具体的姿態が捨象された、一般化・抽象化された労働です。しかしわれわれが「価値を形成する実体」として捉えている「労働」は、これから価値を形成する労働として、その内容が問われています。それは「価値を形成する実体」とマルクスが説明しているように、すでに個別の労働とは異なる、何らかの社会的実体になった労働なわけです。だからそれは単に個別の労働から、その具体的姿態を捨象して、単なる労働一般として捉え、その継続時間を問題にすればよいというものではないわけです。

 

 商品に対象化された労働の場合、それはすでに商品のなかに物質化されたものなのてすから、その具体的姿態を捨象して「抽象的人間労働」に還元すれば、それはすでに一つの「社会的実体」ということができます。それは諸商品の交換関係、という一つの社会的関係から抽出されたものでもあるからです。つまり具体的な労働からその具体性を捨象し、抽象的人間労働に還元して、そのことによってその労働が社会的に共通な質を獲得するということのなかには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として捉えられるということが含まれているのです。だからその労働は個別に支出された労働とはすでに異なるものなのです。個別の労働の具体的姿態をただ捨象しただけでは不十分であり、そうした抽象された労働がその抽象性によって社会的な共通の質を獲得するためには、その労働が「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」として通用するものに変わっていなければならないわけです。そこから第15パラグラフの説明に繋がって行くわけです。

 

 つまり「諸価値の実体をなす労働」である「同じ人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、より具体的にその内容をみると、「社会的平均的労働力の支出」という意味を持ち、だからその継続時間というのは、「社会的に必要な労働時間」なのです。それは「現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である」とも規定されています。

 

 だから「価値を形成する実体」としての「同じ人間労働」とか「同じ人間労働力の支出」、あるいは「社会的平均的労働力の支出」、さらには「社会的に必要労働時間」というのは、「価値の実体」としての「抽象的人間労働」をより具体的にその内容を展開したものということができるのではないでしょうか。 

 

 一応、不十分ながら、結論らしきものとして、以上のことを述べておきます。もし、異論があればどしどし出してください。歓迎します。


第6回「『資本論』を読む会」の案内

第6回「『資本論』を読む会」の案内

 

 

 

 福田首相があっさりと政権を投げ出し、自公政権は混迷を深めている。  もはや、さっさと解散・総選挙でも行い、政権交代でも何でもやってもらいたいものだ。

 

 景気後退が顕著になるなかで、政府は小泉政権が掲げた「構造改革路線」を転換し、財政膨張に依存した“景気浮揚策”へと後戻りしつつある。福田内閣が8月末にまとめた「総合経済対策」(事業規模11.7兆円、08年度補正1.8兆円)がそれだ。

 

 もし福田首相の後を、麻生太郎自民党幹事長が引き継ぐなら、財政の膨張はより一層野放図になるであろう。麻生氏は、幹事長就任後、「景気がその気になるまで、財政出動以外に手はない」(『朝日』9月2日)などと公言してきたからである。

 

 しかし日本の国家的債務は国・地方合わせて約1000兆円(実質GDPのほぼ倍!)と言われ、平成20年度の公債残高は約553兆円(国民一人当たり約433万円)である。これではほとんど国家的破産に近いといわなければならない。

 

 マルクスは国債制度は資本主義が歴史的に生まれてくる上で重要な役割を果たした、と次のように指摘している。

 

  《公債は本源的蓄積の最も強力なテコの一つとなる。それは、魔法の杖を振るかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、そのためには貨幣は産業的投資や高利貸し的投資にさえつきものの骨折りや危険を犯す必要はない。国家に対する債権者は現実には何も与えはしない。というのは、貸しつけた金額は、容易に譲渡されうる公債証書に転化され、それは、ちょうどそれと同じ額の現金であるかのように、彼らの手中で機能し続けるからである。しかも、このようにして生み出される有閑金利生活者の階級や、政府と国民とのあいだに立って仲介者の役割を演じる金融業者たちの即製の富を別としても……国債は、株式会社やあらゆる種類の有価証券の取り引きや株式売買を、一言で言えば、取引所投機と近代的銀行支配とを、勃興させたのである。》(『資本論』第1部第24章、全集23b984-5頁)

 

 そして今日の公債制度、すなわち国債制度は、今度は、資本主義延命の「最も強力なテコの一つ」である。資本はさまざまな経済危機を国家に依存して、その財政や信用の膨張に依存して切り抜けてきた、その結果が、今日の膨大な国家的債務の累増なのだ。

 

 そしてその行き着く先は、国家の破綻か戦争か、それとも猛烈なインフレか、あるいは国民への徹底した重税かに帰着するしかない。いずれにしてもすべての負担は国民に転嫁される!

 

 だから労働者はこうした無責任な“景気浮揚策”などは御免である。この社会のより深い理解を得るためにも、是非、貴方も『資本論』を読んでみませんか?

 


第6回「『資本論』を読む会」の報告

第6回「『資本論』を読む会」の報告

 

 

 

◎すでに冬近し?

 

 急に冷え込んできました。

 

 今回、報告を行う第6回「『資本論』を読む会」が開催された9月21日はまだ気温も高く、午前中はよい天気でした。天気予報は「雨」とありましたが、こんなよい天気だから予報は外れだな、と思いながら、傘も持たずに図書館に行ったのでした。ところが学習会が終わりに近づくと天気は一転し、土砂降りの雨になりました。私たちは、帰ろうにも帰ることができず、しばらく図書館で雨宿りをしていましたが、少し小降りになったところで、私はショルダーバッグを頭に乗せて、ピースさんやクミさんなどは持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、一散に駅まで走りました。さすがピースさんはフルマラソンをやっているだけあって、軽快でしたが、太っている私などは走っているつもりでも、現実には早足で歩いている程度で惨めなものでした。しかしそれでもなんとか駅にたどり着き、私などはかなり雨に濡れましたが、しかしまだ気温は温かかったので気にならなかったのです。何しろピースさんやクミさんはまだ汗ふきタオルを持っていたぐらいなのですから。

 

 ところがその日から一週間余りたっただけなのに、この寒さはどういうことでしょう。歳をとると時の経つのは早く感じるものですが、これはどう考えても早すぎます。これもやはり異常気象の一つなのでしょうか。この急激な気温の変化で体調を崩し、この報告もやや遅れることになりました。都合のよい言い訳ですが、ご容赦、ご容赦。

 

◎「抽象的人間労働」の議論を継続

 

 学習会はテキストのパラグラフとしてはまったく進まず、前回議論になった問題をもう一度議論することになりました。

 

 というのは、前回の議論に関連して、亀仙人から資料が配布され、その資料をもとにもう一度議論が再燃したからです。

 

 その資料というのは、埼玉の「『資本論』を読む会」の第110回の報告(http://shihonron.exblog.jp/9470612/)の中に、久留間鮫造氏や宇野弘蔵氏などが参加した研究会の記録をまとめた『資本論研究--商品および交換過程』(河出書房1948年)の中から引用されているものです。まずその議論になった引用文を紹介しておきましょう。

 

 〈相原   一寸、その前に、生産力と必要労働時間との関係を分かり易く教えていただきたいのです。

 

 労働生産力が大であればある程、或る品物の産出に必要とされる労働時間は小となり、価値も従って小となる。逆の場合は逆になるといって、必要労働時間は直接労働生産力の凡ゆる変化につれて変化する、ということが書いてある。ところが少し先には、労働の生産力は、労働の具体的な有用的な形態に属しているから、それは、労働の具体的な有用的な形態が抽象されるや否やもう労働には関係しない、云々、と述べられている。

 その間のつながりというのはどういうことになるのか。価値の大きさを定める社会的必要労働時間は直接に生産力の変化に逆比例して変化するようにも云われ、次にこの生産力の変化がそういった価値を作る抽象的な労働とは直接関係がない様にも云われていること、この点は生産力の増減が使用価値の増減であって、それを媒介としてつまり商品の単位当たりにすればそこに含まれている労働が増えたり減ったりするものだと理解していいのか、何かそこに品質と分量とのむずかしい関係がある様でもあり櫛田さんのものも読んだが、よく読まないせいか未だ安心ができない節があります。

 

 久留間  その疑問は価値の大いさに関する二つの異なった問題をはっきりと区別しないことから来るのではないでしょうか。いま引き合いにだされたマルクスの二つの命題はいずれも価値の大いさに関するものではあるがそれを問題にする視角が全然異なっていると思う。すなわち、生産力と無関係だといっている場合には、価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。即ちこの観点からすれば、等しい人間労働力の支出は、それがどのような種類の使用価値のどれだけの分量に結果しようが、常に一定の価値を造り出すということになる。即ち労働の生産力には無関係だということになる。これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。

 

 相原  必要労働時間の労働と、品質の方の時にいっている労働とは違いますか。

 

 久留間  必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間、例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉(110-111頁)

 

 ここで久留間氏が説明していること、すなわち〈価値の大いさに関する二つの異なった問題〉が〈区別〉して論じられているのが、すなわち14パラグラフと15パラグラフの違いであり、また両者の関連でもあるのではないか、というのが亀仙人の問題提起でした。

 

 つまり第14パラグラフ--

 

 《(14)したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》

 

 で述べていることは、久留間氏が次のように説明していることを含意しているのではないか、

 

 〈価値の大いさは本質的にはなんの大いさによってきめられるかを問題にしているのであって、それに対してマルクスは、専ら価値を形成する実体の大いさによって、即ち支出の態様の如何を問わない単なる人間労働力の支出としての労働の分量、即ち抽象的人間的労働の分量によってきまるのだと云っているのです。……これはもともと、価値の大いさの問題とは云っても、価値の大いさをその実体の大いさに還元する問題に外ならないのであるから、本質的には価値そのものの問題、云わば価値の品質の問題と見ることができる。〉

 

 また次の15パラグラフ--

 

 《 (15)一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。たとえば、イギリスで蒸気織機が導入されてからは、一定の量の糸を織物に転化するためには、おそらく以前の半分の労働でたりたであろう。イギリスの手織り工はこの転化のために実際には以前と同じ労働時間を必要としたが、彼の個人的労働時間の生産物は、今ではもう半分の社会的労働時間を表すにすぎず、したがって、以前の価値の半分に低下したのである。》

 

 は、やはり久留間氏がもう一つの価値の大きさの問題として述べている説明--

 

 〈これに反して今ひとつの問題は、価値の大いさをその実体である労働分量に還元した後に生じる、云わば固有の意味においての価値の大いさの問題に関するのであって、ある特定の使用価値を生産するために社会的に必要な労働時間そのものが何によってきめられるかを問題にしているのである。だからそれは生産力に逆比例してきまると云って答えられるのが当然である。なぜかと云うに、この場合にはある特定の使用価値の生産に必要な労働時間が問題とされているのであり、人間の労働力のある特定の態様における支出が問題にされているからです。〉

 

 に該当するというわけです。

 

 つまりこの二つのパラグラフ(14と15)の関連は、14パラグラフではそもそも価値の大きさは何よって決められるかを問題にし、15パラグラフはある特定の商品の価値の大きさは何によって決められるかを問題にしているということができます。

 

 特定の商品の価値の大きさというのは、当然、その商品が何であるかということを不問にしては論じることはできません。つまりその商品の使用価値を無視しては論じられないのです。価値の大きさは対象化されている抽象的人間労働の量によって決まるが、しかしそれがどれだけの大きさであるか、つまりその限度は、結局、使用価値によって決まってくるわけです。もともと抽象的人間労働は現実の労働の一つの側面にすぎません。現実の労働は具体的有用労働と抽象的人間労働という二つの契機を持っており、両者を切り離すことはできません。抽象的人間労働の量の限度は、まさにそれが統一している他のもう一つの契機である具体的有用労働によって決まってくるのです。だからその量の限度は、具体的有用労働に関連する生産力によって規定されることになるのだと思います。


 他方、この具体的有用労働というのは、個人的にはまちまちです。特定の使用価値を生産するために支出される具体的有用労働は、その限りではその具体性も有用性も同じ質を持ちながら、やはり個別にはまちまちでしかありません。だから一律同一である抽象的人間労働の量的限度もやはり個別的にはまちまちなわけです。だから15パラグラフでは「個人的労働力」と「社会の総労働力」や「社会的平均労働力」との関連を説明しているのだと思います。

 

◎「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質において現われる」

 

 次に議論になったのは、もう一つは久留間氏の説明に関連してでした。

 

 久留間氏は「必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない」とか「必要労働時間という場合は、労働は同時に二重の性質によって現われる」と述べ、必要労働時間を歴史貫通的なものとして捉えています。果たしてこれは正しいのかどうかが議論になりました。

 

 これを検討するために、前回の15パラグラフにおけるマルクスの考察をもう一度、再現してみましょう。そこでは次のような命題が展開されていました。今それぞれの命題に便宜的に番号を打ってみます。

 

(1)《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》

(2)《商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する》

(3)《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》 

(4)《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である》

 

 このようなマルクスの展開と、久留間氏の次のような説明とを比較検討してみましょう。

 

 〈必要労働時間というのは。いうまでもなく。一定の使用価値を作るのに必要な労働時間、例えば米一升を作るのに必要な労働時間、糸一斤を作るのに必要な労働時間、等々であって、従ってそれは、一定の使用価値との関連なしには、従ってまた労働の有用的具体的な性質に即することなしには考えられない。だからこそ、それは労働の生産力に逆比例することにもなるのである。ところで単にこの面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎないのであるが、商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 

 久留間氏の説明をマルクスの展開と同様に、命題化して、番号をつけてその展開を見てみると次のようになります。

 

[1]〈必要労働時間というのは。……一定の使用価値を作るのに必要な労働時間……であ〉る。

[2]〈この面のみから見るならば、必要労働時間なるものは生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉

[3]〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉

[4]〈だから必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない。それは有用的・具体的性質においては一定時間内に一定の使用価値を作り、抽象的性質においては一定時間内に一定の価値を作る。だから一定時間内に作られた一定の使用価値が一定の価値をもつと云うことになる。〉

 

 この久留間氏の説明の展開は、[1]、[2]は必要労働時間が歴史貫通的なものであることの説明であり、[3]はそれが商品生産社会では価値の大いさを規定するものとして現れることを指摘し、[4]では、この両者を統一した説明になっています。

 

 これをマルクスの展開と比較すると、マルクスの(4)は久留間氏の[1]に該当します。またマルクスの(1)は久留間氏の[3]に該当すると思われます。ただマルクスの展開の場合は、あくまでも価値の大きさの説明として一貫しているように思え、(4)の説明からはそれが直ちに歴史貫通的なものとして理解することできないように思えます。

 

 マルクスの説明は、《諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である》から始まり、その「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」とはそそもなにかを個別労働との関連から説明するものになっています。すなわち《これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》と。すでにここでは「社会的に必要な労働時間」が説明されており、(4)はそれをさらに厳密に言い換えたに過ぎないと言えます。

 マルクスの説明は、価値を形成する労働は同一の人間労働であり、それは個別の労働とは異なる。だから価値を形成する労働としては個別の人間労働は、他の労働と同一の人間労働力として通用しなければならない。それは一つの社会的平均的な労働力という性格をもち、そのようなものとして作用し、一つの商品の生産に社会的に、平均的に必要な、労働時間のみを用いる限りにおいて、そうしたものとして認められる、というものです。

 

 このようにマルクスの説明はあくまでも一商品の価値の大きさを説明するものとして終始しているように思われます。

 

 もしマルクスの命題の(4)が歴史貫通的なものであるという久留間氏の説明が正しいのであれば、このマルクスの展開にそって遡及すると、マルクスが「諸価値の実体をなす労働」として説明している「同等な人間労働」「同じ人間労働力の支出」もやはり歴史貫通的なものとして理解すべきではないでしょうか。なぜなら、マルクスの(3)の命題から考えるなら、ここで「同じ人間労働力」というのは、「一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて」とらえられた労働であり、だからそれは抽象的人間労働の契機だけではなく、具体的有用労働の契機からも捉えられており、久留間氏によれば〈生産の社会的形態には無関係な、人間と自然との交換の関係を云い現すものに過ぎない〉と言えるように思えるからです。ところが久留間氏は[3]では次のように述べています。

 

 〈商品生産社会においては、この必要労働時間は同時にまた価値の大いさを規定するものとして現れる。そしてこの場合には労働は、有用的・具体的な性質を捨象された、単なる人間労働力の支出としてゲルテン(gelten)するのである。〉。

 

 つまりこの久留間氏の説明だと「単なる人間労働力の支出」、つまりマルクスのいう「同一の人間労働」「同じ人間労働力の支出」というのは、有用的・具体的な性質を捨象されたものだというのです。しかしマルクスによれば、個別労働が「同じ人間労働力」として認められるのは、それが社会的平均労働力という性格を持つからであり、《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる》から、つまり「社会的必要労働時間」である限りにおいてなのです。ところが久留間氏によると〈必要労働時間と云う場合には、労働は同時に二重の性質において現れるものと考えなくてはならない〉というのです。つまり具体的・有用的な性質も含んだものだというのです。これでは一体どう理解したらよいのでしょうか?

 



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