目次
1)鄭成功の生い立ち
2) 混乱の時代
3)清軍との対立
4)鉄人部隊の創設
5)鉄人部隊の装備
6)中国刀と日本刀
7)鄭成功と江戸幕府
8)秘密組織・火水木金土
9)日本刀の製法1
10)日本刀の製法2
11)たたら製鉄と中国の製鉄
12)宋代ルネサンス~石炭の利用1~
13) 宋代ルネサンス~石炭の利用2~
14)藤牌部隊1
15)藤牌部隊2
16)北伐1
17)北伐2(清1)
18)北伐3(清2)
19)北伐4(清3)
20)北伐5(清4)
21)北伐6(清5)
22)北伐7(第一次北伐1)
23)北伐8(第一次北伐2)
24)北伐9(第二次北伐1)
25)北伐10(第二次北伐2)
26)北伐11(第二次北伐3)
27)北伐12(第二次北伐4)
28)北伐13(第二次北伐5)
29)北伐14(第二次北伐6)
30) 台湾占領1(清軍来襲)
31) 台湾占領2(オランダよりの使者)
32) 台湾占領3(台湾の情勢)
33) 台湾占領4(清朝情勢1)
34) 台湾占領5(清朝情勢2)
35) 台湾占領6(オランダ艦隊の撤退)
36) 台湾占領7(台湾攻略の決定)
37) 台湾占領8(台湾攻略1)
38) 台湾占領9(オランダ事情1)
39) 台湾占領10(オランダ事情2)
40) 台湾占領11(オランダ事情3)
41) 台湾占領12(台湾攻略2)
42) 台湾占領13(台湾攻略3)
43) 台湾占領14(台湾攻略4)
44) 台湾占領15(台湾攻略5)
45) 台湾占領16(台湾攻略6)
46) 台湾占領17(台湾攻略7)
47) 台湾占領18(台湾攻略8)
48) 台湾占領19(台湾攻略9)
49) 台湾占領20(台湾攻略10)
50) 台湾占領21(台湾攻略11)
51) 台湾占領22(台湾攻略12)
52) 鄭成功というひと1
53) 鄭成功というひと2
54) 鄭成功というひと3
55) 鄭成功というひと4

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1)鄭成功の生い立ち

さて、初めに鄭成功の生い立ちを簡単に紹介しよう。

鄭成功の父の名は鄭芝龍。福建省泉州出身の海商・海賊であるが、時には明朝の招聘で明官になり、時には明に離反して海商や海賊になるという、一筋縄ではいかない人物であった。

芝龍は中国近海をまたにかけて活躍しており、日本では九州・平戸に根拠地をかまえていた。そしてそこで平戸藩士・田川七左衛門松蔭の一人娘・松をめとった。

やがて松は一子をなし、福松(帰国後に”森”と変えた)と名づけられた。後の鄭成功である(1624年)。

福松は母のもとで育てられ、7歳(1631年)の時、初めて父のいる福建・泉州へ「帰国」することになった。しかし当時 、江戸幕府は婦女の出国を許さなかったので、母の松は同行できず、福松は単独で泉州へ到着した。

そこで福松は勉学を修め、童試の秀才を受けて合格し、なおその後に廩膳生(てんぜんせい)の資格も得た。童試とは科挙の予備試験で、これに受からないと科挙は受験できなかった。また童試の成績が良かったものは、政府から奨学金が与えられたが、その学生を「廩膳生」と呼んだ。 つまり福松は優れた成績で、科挙の第一段階を突破した、のである。

福松は、後に文武両全の優れた才能を開花させるが、それは当代一流の文学家である銭謙益に文章を学び、また元海賊であった父・鄭芝龍に軍事を学ぶという恵まれた環境によるところが大きい

その後、南京人大学(現在の「大学」ではなく、役所)で勤めながら、高官になる進士の科挙を準備していた矢先に、事件は起こった。


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2) 混乱の時代

福松(鄭成功)は1644年に成人するが、この年、反乱軍を率いて北京に突入した李自成が崇禎帝を自殺させ、明朝は滅亡。その李自成も清軍に滅ぼされるという、混沌と混乱の時代が幕を開けたのである。


この混乱に乗じ、鄭芝龍は唐王・朱聿鍵を擁立。隆武帝として明政権を再興し、清軍と対立することになる。


そして息子を隆武帝に拝謁させるが、帝は福松の偉丈な風貌に驚き、彼の背中を擦すりながら、「惜無一女配卿、卿当尽忠吾家、無相忘也」(=朕に娘がいればお前に娶らせるのだが、残念だ。我が家のために忠誠を尽くしてくれ、お互い忘れまいぞ)と言って大事にあつかったという。


そして1645年には明皇帝の姓である「朱」と、名「成功」を授かり、征討大将軍印と尚方寶剣を賜った。後の人が、彼のことを「鄭成功」、「国姓爺(Koxinga:クォシンヤ)」と呼ぶようになった所以である。


しかしその後、鄭家をたて続けに不運が襲うことになる。まず鄭成功授姓の翌46年、隆武帝は北伐を敢行するも大敗し、隆武帝自身も殺されてしまう。


これを見た鄭芝龍は清朝に投降する決意を固めるが、息子はこれに苦諫。清は投降者を冷遇すると反対したのだが、父は聞く耳をもたずに投降した。根っからの海賊商である父には明朝への忠誠心は乏しく、利が清朝にあると見るや、さっさと旗色を変えたのである。


この父とは逆に、成功は反清の志を固めた。


それには、母の死が絡んでいた。その年の暮れ、母は福州にいたが、市街に乱入して来た清軍に強姦され自殺したという。消息を聞いた成功は憤怒の末、抗清復明を誓い、故郷の福建に戻り、廈門を根拠地として徹底抗戦の準備を始めたのである。


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3)清軍との対立

時は、清軍が呉三桂の引導で山海関から入関し、中国本土に乱入、至る所敵なしの絶頂期である。


清軍は出身部族をもとに四旗に分かれ、各旗はそれぞれ正、[金+襄]の二つがあったので、一般には「八旗」と呼ばれる八部隊に分かれていた。初期の頃は満人のみの組織であったが、後に投降した漢人からなる「漢八旗」を設立して、兵力の不足を補っていた。


占領地区が拡大につれて、緑営(清の入関以前に帰属した漢人の部隊)や雑兵集団も加わったが、特に先遣攻撃部隊である、満人の正三旗 ― 正黄、正紅、正白旗の騎馬部隊 ― は極めて獰猛・勇敢、精鋭中の精鋭と言われ、給金も一般の部隊よりも極めて高く、運送、武器等の装備も特別に補強されていた。


また機動力も優れているので、迅速に目的地に急行して敵を蹴散らして殲滅する。鄭軍はこれをどうすることも出来ず、大変恐れていた。元来が海賊でしかない鄭軍は烏合の衆で、清軍に連戦連敗、各個撃破される所だったのである。


特に鄭芝龍が下ったあと、頭目を失った鄭軍は各部隊が勝手な行動をとる有様で、軍隊としての呈をなしていなかった。だが、幸いにして鄭成功の帰郷で鄭軍は指揮系統が一本化され、次第に戦力が強化されることになる。


成功は万暦帝の孫である朱由榔をかついで永歴帝とし、これを奉じて抗戦を続け、1658年には念願の北伐軍を組織するまでなったが、そこには大きな懸念があった。


それは鄭軍には、漢、満八旗に対抗するだけの戦力はもちろん無かったし、歴戦の雄である清朝の近衛部隊=正三旗には、同兵力でも敵わないと言うことであった。


なるほど、鄭軍は小規模なゲリラ的戦闘や、海戦ではたびたび勝利をおさめた。だが本格的な陸戦では正三旗には敵しえず、散々苦杯を舐めさせられていたのである。


そこで鄭成功は16583月、思明で(廈門(アモイ)の郊外の地。「明」朝を「思」って名づけた地名である)、諸将を集めて軍議を開き、方策を練ることにした。


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4)鉄人部隊の創設

その席上で、耳目をひく一つの報告があった。去年の護国嶺の戦役で、鄭軍は正三旗の筆頭武将・河格商(満人)を倒したのだが、彼の身につけていた鎧や兜等を点検すると、驚いたことに全身のほとんどが鉄で纏われていたと言う。


この報に接した成功も、「自分が幼児時に見た日本の武士達も、鉄で纏われた重装備の騎士は、勇猛果敢に見えた」という話を紹介して、「我が軍でも、このような鉄に纏われた『鉄人部隊』を創設したら、清軍の重装騎馬部隊に対抗できるかもしれない」、と提案した。


しかし言うは易く、行う難し。騎兵が鉄の鎧をまとうことができるのは、馬に跨って自分は動く必要はないからである。騎兵と同様に30斤(=20キロ弱)もある鉄の重装備を、一人の兵士に架せられて作戦行動を取るのは到底無理と、諸将は異論を唱えた。


だが鄭軍きっての勇将・甘煇(後の北伐・総司令官)が次のような提案をした。「兵士に平素から両足腿にそれなりの重さの砂袋を縛り付けて訓練して、慣れさせたらどうか」。この発言に鄭成功もなるほどと思い、早速実行に移した。


鉄面を被り、鉄衣を纏った鉄人部隊を最初は5千人組織し、訓練させてみると、思いのほかうまく行ったので、後には一万人規模に拡大した。徴募した兵員の中には、日本からの浪人も混じっていたという。


(上の画像はオランダ国立図書館収蔵のもの。後に鄭軍と対立したオランダは、鉄人部隊の画像を多数残した。)


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5)鉄人部隊の装備

 その手には日本に委託鍛造した特殊な長刀を装備していたが、これは清軍騎兵の馬脚を切るのが主な目的であった。日本に委託したのは、中国刀は切れ味が悪く、馬脚切断には向いていなかったからである。その点、日本刀は鋭利だったし、島原の乱も終わって太平が続き、不要になった刀剣・刀工も多かった。


鎧そのものは槍や刀にはもちろん傷つけられないし、兜や心臓部分には、鉄砲の弾丸や砲弾の破片でも容易に貫通しないように、鍛造された鉄板で緊密に覆われていたために、防御は極めて強固であった。


優秀な防御と、鋭利な長刀。この二つの武器が、強力な野戦部隊を作り上げたのである。


オランダ国立図書館の文献には、次のような記載が残っている。


----これら(鄭成功軍を指す)の兵士は三種の武器を所有する。一部隊は弓矢を背負い、左手に盾、右手に重い剣を持つ。また別の一部隊は両手に蛮刀を付けた長い棍棒(=長刀のこと)を持ち、両腕と足以外には全身鉄甲で保護され、上身は魚鱗のような鉄片に覆われている-----盾を以って身を援護しながら敵陣中へ勇猛果敢に突進し、たとえ仲間が横で倒れても、狂犬のように暴れまわって敵陣を崩すまで後を振り向かない、極めて凶暴な軍隊であった-----.


ここで述べられている「盾」とは、藤の木で作った「藤盾」で(藤牌部隊のこと。後に詳述する)、重い剣とは「雲南斬馬刀」と称して、刃部分は主に日本から輸入か技術移転で造ったものと言われている。


ここに鄭成功は、漳州の大激戦、北伐、台湾の獲得戦、その他幾多もの激戦の主戦力となる精鋭部隊を手に入れたのである。


なお後日のことになるが、康熙帝は投降した鄭軍を、黒龍江近くの辺境に移動させて、帝政ロシア軍と戦わせた。この鉄人部隊、およびに藤牌部隊の見事な活躍ぶりを見せ、ロシア人は勿論のこと、当時の世界の人々をも驚かせたのである。



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