閉じる


<<最初から読む

6 / 8ページ

割り算が始まる

 
 さて、さっきの話に、こういう疑問を持った人はいないでしょうか。
 つまり「面積を1個2個って数えるのはいいけど、かけ算にするんなら縦が4個で横が5個だから、面積は20平方個になっちゃうんじゃねえの? でも平方個ってなんだよ」って。なるほど、個数をかけても長さをかけても同じ数になっちゃう、みたいな話でしたっけ。
 うん、なにはともあれ、そんなふうに思うようだったら、あなたは子どもの頃の筆者と同じくらいひねくれ者ですな。よろしい、そこは通ってきた道です。
 実はここで、割り算の考え方が必要になってきちゃうのですよ。
 まさか、ここで割り算が関わってくるとは思わなかった、ですかね。
 なぜ割り算?
 ちょいと遠回りすることになりますが、おつきあいあれ。
 
 まずは、割り算ってなんだろう、ってところから始めなければなりません。
 一般的には、「分ける」っていう印象で扱われることの多い「割り算」ですね。
 たとえば「お菓子が五十六個あります。これを八人で分けます。ひとりいくつお菓子がもらえるでしょう」なんて問題。
 そういう問題でイメージ作って、計算方法を覚えて、あとは「こういう時に割り算を使いなさい」っていう状況をひとつひとつ覚えてゆく。
 たとえば「速度」ですな。
 速度=距離÷時間
 あるいは「濃度」ですな。
 濃度=溶質の質量÷溶液(溶質と溶媒を合わせたもの)の質量 に、百をかけて%にする。
 あるいは電流とか電気抵抗ですな。オームの法則ってやつですな。
 電流=電圧÷抵抗  抵抗=電圧÷電流
 最後の例は、ちょいと微妙な問題をはらみますが、とにかくこんなふうに、なんにも関係のないように思えるいくつものケースで割り算ってのが使われます。ですから、それぞれのケースで覚えてやらなくちゃいけなくなります。
 速さを求める公式とか覚えて、なにをなにで割るんだっけ、という混乱がよく起こるので、覚えやすいようにあんなふうにこんなふうに呪文を作って、それを唱えたりします。
 大変に面倒な上、間違ったら訂正がききにくい方法です。おすすめできません。割り算とはなんであるか、どのように使えばいいかが分かれば、あとはおのずと導けるものなのです。
 だいたいにおいて、「分ける」ことで割り算を作るのはいいんですが、その後で本質的な考え方をとりこぼしてしまうからいかんのです。
 その考え方が、「割合」です。
 
 お菓子を分ける問題に戻りましょう。
 五十六個のお菓子を八人で分けましょう。すると、答えは七個、ですよね。小学生ならみんな、意気揚々と「こたえ 7こ」とか書くことでありましょう。
 ぶっぶー 不正解です。少なくとも、今までの話を踏まえて求められる答えは「7個(こ)」ではありません。小学生なら許しても、大人のあなたは許しません。
 正確な答えは「答え 7個/人」とすべきなのです。さもなければ「答え ひとりあたり7個」です。
 だまし討ちみたいなやり口ですな。だいたい問題に「ひとりあたり何個でしょう」とあるのだから、「ひとりあたり」という表現はいらんだろう、という反発が予想されます。まあ、おっしゃるとおりではあります。問題文がいかんのです。こういう問題文だから、答えが混乱するのです。数字であるところの7さえ正しけりゃいいだろう、と思ってしまうのです。
 でも、そんなことだから大切な部分が見えなくなってしまうのです。その7個には、大事な意味があるのだ、ということを声を大にして言いたい。文字だから声を大きくはできませんが。
 こだわっているのは「ひとりあたり」という言葉です。もっというなら「あたり」の部分です。
 この「あたり」という部分にくっついている思想、考え方、技巧が、「割合」という、ここで重要視しているものだったのでありました。
 つまり、元にある数字を別の数字で割るわけですね。で、問題は、なにで割ったのか、です。数字じゃありませんよ。どういう意味を持っている数なのか、どういうふうに「数えた」数なのか、という点を問題視しているわけです。
 ここでは「人数」ですよね。8という「人数」で割ったのです。人数で割ったから、得られる答えは、「ひとりあたり」の数になるのです。
 当然ですか? 大丈夫ですか?
 じゃあもう一押し。単位のある数で割ったら、答えの単位も元の単位が割られた状態になる、ということ。納得できるでしょうか。非常にあたりまえのことなんですが、ここのところが分かっていない子ども、けっこういるんじゃないかなあ。そういうふうに教えられてない気がするんですよねえ。
 
 割り算をする(最大の)目的は、「1~~あたり」を求めることにあるのです。ここで「~~」は、割る数(割られる数でない方)の、基準になる単位。逆に、そのような数を求めなければならない時には、必ず割り算をすることになるのです。
 たとえば、典型的なのが「速さ」です。学校の問題では「あたり」の表現はあまり使わずに、分かりにくくしてあります。けど、これは典型的「あたり」です。
 たとえば「時速何キロメートルでしょう?」という問題は、「1時間あたりどれくらいの距離(キロメートル)進むでしょう?」というふうに質問されてるのと同じです。ちゃんと「あたり」が入っていますよね? 「速度」を問われているので、そもそも「速度」とはなんなのかを考えてやれば、ちゃんと「あたり」が出てきます。速度とは、一定時間あたりに進む距離のことなんですから。1分あたりに進む距離は「分速」で、1秒あたりに進む距離は「秒速」で、1時間あたりに進む距離は「時速」だと。みんな「あたり」がくっついてます。秒速なら秒数で割ればいいし、分速なら分数で割ればいい。なんか、そんな感じです。
 考え方としては、ですけどね。数学のテストだと、「1時間6分で11キロ進んだ、この時の時速を求めよ」、みたいに回答者を混乱させるためのテクニックを使ってきますから、そういうところに目配りができないと正解にたどりつきません。ま、そこを見破る訓練ってのも、たぶん必要なんでしょうねえ。つまらん受験テクニックだけで終わってないといいのですが。
 
 なんだか目的地からどんどん離れているような気がしてきました。
 えーと、□の個数を数えるのと、長さをかけ合わせて求めた面積では、そもそも単位が違うではないか、という話でしたっけ。
 ああ、そうそう。違うんです。違うけど同じなんです。
 また混乱した話向きになってますが。
 まずは、数の数え方からゆきます。□の数を数える時に、4個と5個をかけた、つもりだったんですよね。そうすると、20平方個なんておかしな数になっちまう。変だなあ、と。
 しかし、ここでかけ合わせた数は、本当に「個」でしたか?
 実はそこのところが間違っていたのです。かけ合わせた一方の数は「列」という単位だったんですよ。ひとまとまりで数える時に、たとえばさっきのケースでは、4列あった、のです。
 じゃあ、もうひとつの数はなんだったのか。
 それは、「1列あたりの個数」だったのです。それが5個/列となります(全部で20個あるのを4列に分けた時の1列あたりの個数、ということでも求められますし、単純に、1列にいくつ並んでいるかを数えても(実は1で割る)求められます。なので、単位は「個」を「列」で割った個/列になるってわけです)。
 で、1列あたりの個数と列の数をかけると、個数が求められます。
 
 おっと、説明なしに大変なテクニックを使ってしまった。
 単位についても約分ができる、ってことなんですが。うん、分数の話をする前にやったらフライングってことになりますよね。ま、これ読んでるのは子どもじゃないだろうからかまわんのかもしれません。
 でもできればきちんとやりたいので、これも一応パスしときます。
 ま、とにかく現段階では「1~~あたり」ってのが出てきたら、「~~」の単位を持っている数字をかけてやると、なにか求められる。その時に「~~」っていう単位は消えてくれるもんらしい、ってことにだけしておいてください。「1時間あたり50円」だったら、たとえばそこに「2時間」をかけてやって、100円っていう答えが出る(時間という単位は消える)。「1ドルあたり50グラム」だったら、そこに「5ドル」をかけてやれば「250グラム」という答えが出る(ドルという単位は消える)。逆に「1グラムあたり300円」だったら、そこに「7グラム」かけてやれば「2100円」という答えが出る(グラムという単位が消える)。ま、そんな感じです。
 
 さて、1列あたり5個で4列。これをかけ合わせて「20個」になりました。
 おやおや、まだ「面積」じゃありませんねえ。
 しかしここで長さから面積を導く考え方が適用されます。つまりここでの「1個」は、ある一定の広さを持っているものなんですね。ということは、ここに「1個あたりの広さ」という考え方が発生してくるのです。
 これまでの考え方では、この「□1個あたりの広さ」は取り決められていませんでした。だから、さらに言えば、この□の一辺の長さが1センチであるかどうかも、どうでもいいことでした。でもまあ、ここでなんらかの広さの単位が決まっていれば、そいつをかけて「面積」が求められる、ってわけです。
 □一個の広さって? 一辺が1センチの正方形だとしたら、1×1平方センチってことでいいじゃないですか。「□一個あたり1平方センチ」をかけて、20平方センチという答えにようやくたどりついたのでした。数としては1をかけても同じ。でも、意味は変わるのでした。
 
 かけ算九九で、そういえば1の段ってのもやりましたっけ。いんいちがいち、いんにがに、いんさんなじけんですなけいぶ。なんだか無駄なことやってんなあ、「1はかけても元の数と同じ」でいいじゃねえか、と思ってました。思ってましたよねえ。きっとあなたも。
 実は別の意味が発生するのだ、なんてこと思いもしませんでした。教えてももらわなかったように思います。
 それとも、教えられたけど忘れたりスルーしたりしてたんでしょうか。
 たぶん最初はそういう思想、あったんでしょう。でも、教えなくちゃならない現場ではそんなことやってられない。パス。ま、そんなところだったんじゃないですかね。相手は小学校低学年で、物事の道理なんて分かっちゃいないんですから。たいてい分かろうとさえしませんな。大人になってもそのまんま、ってやからもけっこう……。いや、まあ、それはいいや。
 いろんな人が、いるもんなんです。
 それこそある「割合」でいるもんなんです。
 
 あれ?
 ここで言ってる「割合」って、単位はどうなってましたっけ?
 


割合から

 
 さあ、今回の最終フェイズに突入です。
 前の節で書いたのは、主に、ある単位を持つ数をそれとは異なる単位の数で割った時の話、でした。そういうふうにして、新たな概念の数を作り出すことにしたのでした。
 代表選手が「速さ」でした。
 しかし実は、「割合」には、もっとよく使われるタイプのやつがいます。それは、ある単位を持つ数を、同じ単位を持つ別の数で割って作るやつです。
 単位を同じ単位で割ると、消滅してしまいます(ということに、ついさっき決めましたよね)。
 で、残ったのは純粋な、ただの数、です。
 でも、なぜ割ったりするのでしょう?
 それは「数」の基本に立ち返ります。比べるため、なのです。
 単位が同じ「数」は同じ意味を持ちます。「重さ」とか「金額」とかですね。これを比べる時に使うわけです。どちらがどれくらい多いとか少ないとか、を比べるわけですね。しかも引き算じゃありません。こういう比べ方をするのは、基本、小さい方の数(のまとまり)をいくつ集めたら大きい方の数に追いつくだろうか、というタイプの比較をする時に使う計算方法だったのです(「分ける」って考え方が最初なら、小さいのを大きく分けることはできません)。
 大きい方は小さい方の「何倍」なのかを調べます。「割合」が出てきますが、単位は出てきません。ま、それでいいような気がするんですが……。
 しかし、大きい数と小さい数の間に、特別な関係がある場合があります。
 それは、小さい方の数が、大きい方の数の一部分であった、という場合です。
 たとえばいろんな色の石があるとします。全部で100個。その中に、白い石が20個ふくまれているとしましょう。
 こういう時に、「いろんな色の石は白い石の5倍である」というふうに言うと、なんとなくですが、白い石はいろんな色の石とは別にあるような感じになっちゃいます。あくまで白い石は、いろんな色の石に含まれているのに、です。
 そこで、いろんな色の石の中に白い石が含まれている「割合」という考え方をします。もうこの段階では「分ける」ことじゃありません。ただ、こうすると便利になるのです。「ある部分が全体に対してどれくらいの割合で含まれている」っていうふうに表現することになるんですね。
 
 ただ、ここで出てくる「割合」、多少の例外はありますが、非常に特徴的なある性質を持つことになってしまいます。
 それは、「基本的に0と1の間におさまる」という、実にとんでもない性質なのです。なぜかというと、ここで扱う「割合」はいつでも、小さい数(部分)を大きい数(全部)で割って作るからです。大きい数を小さい数で割る、の逆、です。小さい数は大きい数の1倍より小さいのです。
 あー、やばいですねえ。
 もう「数える」こと、できませんねえ。0と1の間ですもん。数えようとしたって数えられるもんじゃない。だいたい、1より小さい数ってなんだろう。0じゃないようだけれど……。
 実は、ここんところを処理するためには、「分数」か「小数」が最低限必要になるのです。そういうのはふつう数えることができません。イメージしにくいことはなはだしい。
 だから、なんでしょうかねえ。なんとかもうちょっとイメージできるようにという工夫なのか、はたまた、「同じ単位同士で割った」ことを分かりやすくしようということなのか、無理に100なんてかけちゃって、その100に%っていう単位なんてつけちゃうのであります。そういう強引なことをやっちゃうので、「数える」ことはほぼ不可能です。
 おかしな習慣なんですが、それなりに意味がないわけじゃありません。ここで扱うことになるのは、実は「全部」と「部分」の関係で、部分が0から100の間に収まっていることにできるからです。円グラフとか帯グラフってのがありますが、そういうふうに、全体と部分の関係を視覚的なイメージにできると、なんとなく分かった気になりやすいですね。分かったような錯覚、ってこともありそうですが、ま、そんなもんです。ヒマならいいけど、忙しい時には、分かったことにして先に進むことだって必要なんですから。
 また、割合の話では「1」が全部を意味することになります。ですが、「1」ってのは、主に基準で使われる数ですよね。イメージとしては「いちばん小さい『部分』」です。そいつは混乱しやすいだろうから別の数に、って配慮もあるでしょう。
 でも、計算する時にはパーセントの意味を考慮するぶん余計な手間がかかっているとも言えそうです。それが理由で混乱しちゃってる子どももけっこういるんじゃないかと思いますねえ。分からないまま大人になって、そのことをごまかしている大人もいるんじゃないかなあ。大人はごまかすのが上手ですから、あまり目立ちませんけれど。
(たとえば「食料自給率」っていうパーセント表示。みんなが分かってるように扱われてるけど、けっこう分かってなかったりして)
 
 えー、「全部」と「部分」の関係っていう話でした。
 つまりここで言う「割合」というのは、「全部の中に含まれる部分の程度」を表すために発明された概念です。
(先にやった「速さ」みたいなものは、本当は後から考え出されたものなのかもしれません。それをきちんと捉えるには「比例」という考え方を導入してやる必要があるからです(とぼけて飛ばしちゃいましたけどね)。)
 で、「全部」の中の「部分」を表すのに、なぜだか「割り算」を用いてしまったのです。なぜか「部分」を「全部」で割ってしまうのです。そういうふうにして導き出されたのが「割合」なのです。
 
 あー、なんだか伝わってない気がするなあ。
 もうちょっと具体的なケースで考えてみましょうか。
 
「やあゲンちゃん、ひま?」
「ひまじゃねえよ。山にクルミを取りに行ってきたんだ。ゴンちゃん、おめえはどうよ」
「ああ、おれは柿を取ってきた」
「いいねえ、柿かい」
「そっちはクルミかよ。それもいいな」
 ふたりは収穫したものを袋に入れて背負っております。しばらく互いの顔を見ていましたが、ふいにこう提案します。
「なあ、お互いの収穫を、分けっこしねえ?」
 さあ、分けっこすることにします。いろんな方法がありそうですが、ひとつ問題があります。それは、互いの収穫物は袋に入っており、まだ中の様子が見えないということ。
「クルミ1個と柿1個じゃ交換できねえよ」
「じゃ、いくつとだったら交換できるんさ」
「いくつだったらいいかなあ……」
「そうだこうすべえ。おいらの取った柿を、おいらとおめえで同じだけにする。おめえの取ったクルミも、おいらとおめえで同じ数にする。そうすりゃ、どっちも同じだけ柿もクルミも持って帰れることになるべえよ」

 つまりこういうことです。お互いの袋に、いくつか分からない柿やクルミが入っている。どっちも1袋、です。それを、中を見ないまま「はんぶんこ」しようってんです。
 袋を開けてみます。柿は12個入っておりました。クルミは54個入っておりました。ゲンちゃんもゴンちゃんも柿は6個、クルミは27個持ち帰ることができるようになりました。
 つまり、これが「割合」です。柿の数とクルミの数は、互いにぜんぜん違う(関係ない)のに、どちらも同じ「半分」だった、ってことなのです。
 ここでいう「全部」は、「1袋」です。これをふたつに分けた、という点ではゲンちゃんゴンちゃん同じこと。日本語で表現するなら「半袋」ですよね。
 まず最初に、「全部」をまとめてしまうのです。中にどれだけ入っていようが構わず「1袋」に入れてしまうのです。あくまでも頭の中の想像なので、この袋にはなにを入れてもどれだけ入れてもかまいません。全人口でも1袋、すべての水素原子の数でも1袋、ふられた女の数でも1袋、矢吹丈がホセ・メンドーサにくらったパンチの数でも1袋。なんでも「全部」を1袋に入れてしまうのです。だから「全部」は「1」なのですね。
 で、それを「ふたつに分けました」という割り算が発生します。これを「半分」と呼ぶのです。が、ふたりならいいけど何人かで分けることもありますから、いくつに分けたのか分かるようにしよう、ということにして言葉を作ります。それが「2分の」という言葉です。2つに分けたぞ、と書いてあるわけです。で、なにを分けたかというと、「1袋」ですから「2分の1袋」という表現が出てくることになります。もし5人で分けたのなら「5分の1袋」となります(そう。分数です。けど、今はまだそっちに行きません)。今のところは、表現のルールに過ぎません。
 で、それが「割合」でありました。
 
 と、こう書いたらごまかしが混じっています。実は「2分の1」と言ってまとめてしまう時に、ズルをしたんです。
 ちょっとややこしい話なんですが、書いてみます。
 最終的にゴンちゃんやゲンちゃんが持ち帰る柿やクルミは、どちらも「2分の1袋」です。これは、「1袋を2つに分けた」という意味でもあります。けれど、「1袋を2人で分けた」と考えることもできます。後者の考え方だと「1人あたり」を求める方式です。この場合、単位をつけると「2分の1袋/人」となります。ただし、これを「1人」が持ち帰るので、「1人」をかけ合わせてやって「人」の単位が消え、ゲンちゃんとゴンちゃんはそれぞれ「2分の1袋」持ってゆくことになるのでした。
 前者の場合、「1袋を2つに分けた」だけ、です。この段階では、「2分の1」という、単位のない「割合」を「1袋」にかけ合わせただけです。量が求められていますが、ただそれだけです。同じことのように見えますが、「人」が介在して求めたのかどうかという、経緯についての情報は最初からありません。
 つまり、最初からないものと、途中で消えてしまったものがあるんです、が、数学ではというか、最終的に出た答えでは、そんなのは見えなくなってしまいます。どんな感動的な物語があっても、くだらないストーリーがあっても、なんの意味もない直感的な数であっても、区別がつきません。
 そうして、そういうところこそが、数学で物事を処理しようとする大きなメリットでもあるのです(もちろんデメリットでもありますけどね)。いろんな複雑な事情をすっとばして、ゲンちゃんだのゴンちゃんだのは無視して、計算で結果を手に入れる。それは、大きな効率化につながってゆきます。限られた時間の中で簡易化の方法を利用して、おそらく人は、現代のように余裕のある暮らしを手に入れられるようになったのです。
 
 細かい事情を考えずに、ただ計算してゆく。あるいは、事情を加味して状況判断できるようにする。本当はどちらも重要です。この両方のやりかたを併用することで、物事の理解の幅が広がることにもなるでしょう。どちらかを馬鹿にしたり軽んじたりするのは、それ自体が愚かしいことだと思うんですよね。
 
 もう少し、数をこねくりまわしてみましょう。
 たとえば「柿は1袋に12個入っていた」という事実に着目してみます。これ、表現を変えると「1袋あたり12個の柿」となるんです。あれれ、ここにも「割合」が入っておりました。
 面積の時に考えたように、1なんとかあたり、というのが出てきて、数を数える時には、かけ算するといいのです。1袋あたり12個×「2分の1袋」は、結果からみて6個になるはずです。
 それって、2つに分けた、ってのと同じことのはずですよね? ということは、「2分の1」をかけてやることと「2で割る」のは同じことじゃなければならない、ということです。
 もうひとつの袋(クルミ)でやります。54を2で割っても、54に2分の1をかけても、同じ「ひとりぶんのクルミの個数、27個」が求められる。求められますよね。
 ひょっとして、あらゆるかけ算と割り算が、「表現方法」や「手続き」が違うだけで、実は同じことをやっているんじゃないだろうか、なんて、感じてきませんか?(いや、もう、大半の人がそういうもんだと「知って」いるんでしょうけどね。でもその知識って、たぶん、「教えられた」ってだけの知識じゃありませんか?)
 違う道を通って、同じひとつの答えにたどりつく。数学は、どういう道を通っても、同じ答えにたどりつくようにするための考え方なのかもしれません。
 実際の生活では、道が違うと違う答えにたどり着く方が普通なんですけどね。
 そんな理由から、数学みたいな考え方が「絶対的真理」っぽく思えてくる人と、そんなもの生きてゆく役に立たないと主張する人、に分かれるのでしょうか。
 え? 分かれてない?
 分かれると思うのが数学的、分けられないと思うのが日常的。どちらも正しいんじゃないでしょうかね。
 
 おっとっと。この節は、単位のない「割合」についての話だったはずなのに、徐々に脱線しておかしなところに迷い込みました。
 でも考えてみたら、この原稿の本来の目的はそっち方面にあるような気がします。そういうふうに脱線してきたんじゃないでしょうか。
 ただ覚えて使うだけの知識に裏があること。ただの数が、意味を持ったり、意味のあるなにかがただの数に変わったりすること。そんなところをながめて、もし、面白がってもらえるなら、とても嬉しいと思います。
 
 本当は、「割合」を拡張して、「比率」の話や「確率」の話もするつもりだったのです。が、この調子で続けたら話がぐじゃぐじゃになって、ひたすら長く伸びてゆきそうなので、今回はまとまった感じのしてきたこのあたりでおしまいにしてしまいます。
 これまでの話を元に、これを読んだ皆さんが自分なりに考えてみてもいいかもしれません。
 比率って、なんだろう?
 確率ってなんだろう?
 どんな意味があるのだろう。どんなふうに計算方法が作られているのだろう。中学校までに教わる知識で充分ですから、考えてみてください。
 


まとめ

 
 足したり引いたり比べたりする「数」は、同じ種類であるのです。違うものを比べる時も、同じ性質の部分を引っ張り出して足したり引いたり比べたりするのです。
 自転車と新幹線を比べる時にも、重さだの速さだの、同じ種類の数で比べれば特に問題はないのです。逆に、違う種類の数を比べても意味はありません。完熟マンゴーの糖度と、太陽の南中高度を比べてもしょうがありません。
 でも、違う種類の数でも、かける場合はあります。あんまりないけどあります。ある場合の多くは、一方が「割合」であるケースです。
 割合にもいろいろあるけれど、「全体における部分の大きさの程度」として使われることはけっこう多いみたいです。それは「部分を全部で割った、0と1の間にある数」になります。
 分数が分からないと困るのは、さあ、これからです。
 
 ……なんて具合の話を、してきましたっけ?
 してきたような気もしますし、全然違う別の話をしていたような気もします。
 すごく分かりにくいような、誤解させるような、微妙な話だったかもしれませんが、ここまで読んでいただいてありがとうございます。
 面白く読んでいただけたのなら、それで充分ではあるのですがね。
 ここまで書いてきて思うのは、結局、一般的な数学教育、算数教育は、それはそれでよく考えられた、隙を見せない手順で出来ているのだろうなあ、ということでした。この原稿なんて、そういう意味ではあちこちほころびている隙だらけの代物です。
 でも、こうも思うんですよ。
 隙だらけでほころびだらけの方が、考えるきっかけにはなるんじゃないのか、ってこと。
 ついでに、「考える」ことは面白い、とも思うんです。
 
        (フェードアウト)
 
 あれ? 1+1が分からなくて学校に行けなかったのって、エジソンじゃなくてアインシュタインでしたっけ?
 

この本の内容は以上です。


読者登録

斎藤肇さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について