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いろんな数がある

 
 次にかけ算の話が始まるんです。今回の主要な目的は割り算にたどりつくことにあるので、さっさとかけ算に行きたいのです。
 けれどその前に、書き忘れていた大切なことをここにはさみこんでおきます。
 さっき、「あえて無視した」ところの説明の残りです。
 数は、基本、同じものを比較する時に使う。けど、同じじゃない時にも使うんじゃないの? という、そういう疑問の説明を残してきてしまったのでした。
 答えは、「同じものしか扱わない」です(比較する時と、足し算引き算の時に限る)。
 ただし、「同じもの」という考え方に、もうちょっとふくらみをもたせてやらなくちゃなりません。
 ものには、いろんな性質があるのだ、という話はさっきしました。おいしいとか毒だとか、そういうやつですな。それは、あるひとつのものに、さまざまな性質がくっついてる、ってことなのです。数も同じ。たいていの物には、いろんな数え方がくっついています。いろんな数で表現されます。それが普通なんです。その上で、「同じ数え方」をした数同士しか比較(や足し算)には使えないのです。
 たとえば、重さとか質量とか呼ばれる数は、たいていのものにくっついてますな。これは比較するのが簡単。
 
 ここで問題です。鉄1キログラムと綿1キログラム、どっちが重いでしょう?
 
 子ども向けのお勉強系クイズに、わりと見かけるタイプの問題ですな。
 こんなもん知ってるよ、と思うでしょう。答えは「どちらも同じ」。
 ま、そうでしょうとも。
 これは「重さ」という数が既に書かれていて、そこしか比較する手がかりがないのだ、と思えば当然の結果です。
 間違って「鉄」とか答えてしまうと、
「どっちも同じ1キロじゃん。やーい、だまされたー」
 的な言葉を、いじめっ子(かなり古風なタイプ)が叫んだりするのでした。
 けれど子どもの頃の筆者は、この答えでは、どうも釈然としなかったのです。
 つまり「重い」ってどういうこと? という疑問がはりついてしまったのでした。はかりで量って出た数字だけで「重い」という感覚的なものを処理していいのだろうか、と。大人になった今ならそういう文章にして明確にできます。子どもの頃はただ「重い」かどうかは「重量」だけじゃ決まらない感じがする、ってだけでしたが。
 これは「重さ」を生活実感として持っているために出てくる疑問です。
 重さというのは、形や状態によって、ずいぶん違うもんなんだ、ってことです。たとえば同じひとりの子どもを運ぼうという時、上手に背負われてくれる時と、むずかって背中にくっついてくれない時とではまるで違います。長い棒を、中心近くで持つのと端の方で持つのでは、まるで感じる重さが違います。重心うんぬんという話、テコの原理うんぬんという話、あれこれありますが、説明はどうでもよし。重いかどうか、という感覚の話です。
 だから、鉄と綿というのも、実際に持ってみたらずいぶん違うんじゃないか、と思えてくるんですよね。運びやすさが、まるで違うはずなんです。
 イソップ童話にありましたっけ。塩を運ぶロバが、ある時、川で転んだら急に荷物が軽くなったことに気づいて、その後しょっちゅう転ぶようになる。そこで荷主は、綿を運ばせてやった。川で転ぶとてきめん重くなってロバは困ったことになった、とかいう話。
 あ、これはちょっとたとえが違いましたかね。
 ためしに、鉄と綿がどちらも百キロあるとしたら、と考えてみましょう。すると、運搬方法はまるで違うものになるはず、です。綿百キロって、ちょっとイメージしにくいですが。
 いや、つまり、実際の生活の中では、「重さ」というのは輸送方法に関わってくるってことです。輸送コストが関係してくる問題なのです。
 というわけで、「たぶん綿の方が重い」というのが、生活の中では正解に近いことになるんじゃないかと思います。あるいは、鉄百キロをひとりで運ぶのは大変だけれど、綿なら何回かに分けて運べるぶん楽だ、という正解になる場合もあるかもしれません。
 子どもの頃の筆者の疑問は、そのあたりまで考えれば自分なりに納得するでしょう。
 それでも、数として明記されているのは重量だけなのだから、(周辺状況についてはまるで分からないのだから)、やはりここは「同じ」を正解にするべきなのだ、と。大人になった筆者は子ども時代の筆者に言ってやりましょう。
「だいたい、運ぶなんてこと言ってねえだろ」
「でもでも、重さを量るのだって、鉄と綿じゃ違うし、綿の方が面倒だ」
「いいんだよ。どっちも、巨大な上皿天秤に、もう乗せてあるんだ。しかも真空状態で湿度や風の影響も無視できる。これで比べてるんだ」
「ずりいや。そんなこと言ってねえじゃん」
「そうじゃない、とも言ってねえだろうが。つうことはな、「重さ」を量るのに、余計な条件が入らない、いわゆる理想的な条件でやる、っつうことなんだ。条件によって答えが変わるような問題は、問題って言わねえんだよ!(強引)」
 大人になった筆者の力をもってすれば、子どもだった頃の筆者のやり口なぞ分かりきってますから。これでぐうの音も出ないことでしょう(笑)。「ちきしょう、俺はこんな大人なんかになるもんか」なんて思ったりして。いやぁ、なっちゃうんですけどねえ。
 
 ともかく、なにかを数にするには「数え方」が重要である、ということはお分かりでしょう。数え方によって別のイメージが出てくるのです。しかも、同じひとつの物に、複数の数え方があるので、そこいらを混乱させちゃいかんのだろう、と、そういうふうに思えてくるはずです。
 いやいや、そういうふうに思ってください。大人になっても、このへんが混乱してる人ってけっこういます。気をつけましょう。
 

かけ算はまとめる

 
 さて、本当は、ここで0(ゼロ)の発見っていう話を入れるべきなのかもしれません。たぶん、すごく大切なところです。が、引き算の話と一緒にパスしちゃいます。
 なんだか面白くなさそうだから、勘でパスするんです。
 ま、実のところ0は便利ではあるんですよね。0,1,2,3,4,5,6……。こういう文字を使って数を表すやつをアラビア数字とか呼ぶわけですが、ここでは(複数桁の)特定の桁にゼロを入れることができるってことが、いろんな点で便利になってるんです。日本語で五万八千九百四十二とか書くと、数の塊はイメージしやすいんです。けれど、五万九百四十二なんて場合に、千の桁が抜けていることを後から考えないといけません。五万零千九百四十二って、あえて書けばいいのかもしれませんが、それも鬱陶しい。足し算するのも面倒だ。あんなことこんなこと、ゼロはとっても便利なのです。でも、その話はこれくらいでパス(この後、ちょこっと出てきますけどね)。それだけで一冊の本になってたりもしますし、興味がある人はそういうのを探しましょう。
 
 で、かけ算です。
 こいつがどうやって出てきたのか、よく知りません。
 推測ですが、最初は気づかずに使ってたんじゃないか、と思うんです。
 変な話ですけどね。最初のかけ算は、それと知らずに使っていたのだ、と。たぶん、ですが。
 どういうこと?
 つまり、数の数え方(えーと、並べた物に言葉を対応させてゆく、という意味の「数え方」のことです)の限界突破についての話になってゆくんでありますよ。
 つまりです。
 並んだ物に順番に言葉を対応させてゆく、ってやり方だけだと、今の数の概念で使われているところの「桁」とか「位」って方式が含まれないんですよ。これ、すげえ不便です。つまり、たとえば一万まで数を数えようと思って、桁の概念がないとしたら、すべて異なる別々の言葉を、順番ごとに全部覚えておかなければならないんですよ。
 そんなん覚えられっこない。たとえ作った自分が覚えても、他の人が覚えてくれなかったら役に立たない。
 英語なんかだと、そのややこしさが残ってます。
 わん、つー、すりー、ふぉー、ふぁいぶ、しっくす、せぶん、えいと、ないん、てん、いれぶん、とぅえれぶ、さーてぃーん……。
 なんか、「めんどくさっ!」って感じ。十でひとまとまりになってない言葉なんですよね(かわりに最初だけ十二でひとまとめにしてる)。その点日本語は、桁ごとに言葉が整理されてますなあ。じゅういち! とか、ごせんさんびゃくにじゅうはち! とかね。漢字にします。「十」「百」「千」「万」ここで一区切りで、「十」から「千」までは再利用。「千万」の上が「億」、「千億」の上が「兆」とどんどん続くのが論理的で嬉しい(これは中国のやり口?)。
 ちょっと本論から話がずれました。
 
 これが「かけ算」とどう関係しているかというと、つまり、「桁が上がる」というのは、数をひとまとめにして処理した、ってことだからなのです。
 この、「ひとまとめにして処理する」というのが、そもそものかけ算の基本的考え方になるのですね。
 だから、桁上りがかけ算より先にあった、という保証はないのですが、考え方の根っことしては同じであるわけ。漠然と思うのは、数の数え方の拡張として桁の概念が発生して、そこにかけ算の基礎が隠れていた、ってことなんじゃないのかな、って感じです。
 
「やあゲンちゃん、ひま?」
「それがヒマじゃねんだよ。相談にのってくんねえ?」
「なになに」
「数ってやつさ。どうも言葉の並びじゃ面倒だからさ、いいこと考えたんさ」
「いいことって?」
「指だよ。指。言葉じゃなく、指で数えたらいいんじゃねえかと思ってさ。数えたぶんだけ指を曲げてくと、その場所で数ってことになるべえよ」
「おお。そうだなあ」
「けどよお、これだと指の本数と同じだけしか数えられねえ。な、ここにある栗を指で数えべえと思ったんだけど、足りねえのさ」
「そりゃそうだ」
「なにかいいこと、お、そうだゴンちゃん、おめえの指を貸してくれや」
「いいよ。それで足りるかねえ」
 原始人のゲンちゃんとゴンちゃんには、よく分かってないでしょうが、ただ単純に指を借りるんではふたりで二十までしか数えられません。しかし現代人の我々はもう知ってます。そのやり方で、ふたりで百(本当は百十)まで数えられるんです。
「うわー、ふたりぶんの指じゃ数えられない」
「お、そうだ。いいこと思いついた」
 つまり、ゲンちゃんが十まで数え終わったら、ゴンちゃんに指を1本折ってもらいます。ゲンちゃんの指はリセット。また最初から指折り数えてゆきます。それが数え終わったらまたゴンちゃんの指をひとつ折ってもらう、という感じですね。で、これが現在の数字の作り方。十で桁上りするので十進法と呼ばれますな。
 もし指じゃなくて腕でやったらどうなるでしょう。2まで数えたら隣のゴンちゃんの腕に桁上り。ということで、二進法と呼ばれるようになるのです。これはコンピュータの基礎の……なんて話はまあいいや。パス! このへんにはややこしい問題も隠れてます。本によってはそっちを大切にしなくちゃならない場合もありますが、ここではそれもパス。
 
 なんとか数をまとめる、ということの意味は分かったかと思います。
 あとは、いくつごとにまとめるかを変えてやるだけで、かけ算という考え方にたどりつきます。
 この、まとめて数える方式は、並べ方として考えてやることもできます。つまり、
 
 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ を、
 
 ○○○○○○○○○○
 ○○○○○○○○○○ こう並べてやる。十がふたつ並んでるわけですね。
 でも、十ずつ並んでるのは、人間が直感的に見分けるには多いような気がします。そこで、
 
 ○○○○○
 ○○○○○
 ○○○○○
 ○○○○○  こんな風に並べてやる。
 
 同じ二十でも、なんとなく直感的になってきました。ただしもちろん、これはかけ算九九を知っているからこそ、二十という数がすぐに分かるのです(分かるというのとは本当は違うんです。実は単に、答えを知ってるだけ)。
 まとめてやる、という話はこのへんにしておきます。
 あとはかけ算というのをいかに効率的にやるのか、という計算技術になります。ま、基本は「覚えておく」だったりします。うわあ、なんだか泥臭い。でもまあ、九九ってのを覚えてなきゃどうにもならんわけですよ。かけ算なんてものは。極端な話、どこまでだって答えを覚えておけば、本当の意味で計算なんてしなくてかまわんのです。それは無駄すぎるので、なるべく少なく覚えておくようにしよう、というのが九九の基礎ですな。
 しかし正直なところ、九九も半分くらいは覚えるの無駄な気もしますね。
 
 ということでかけ算が終わり、になるといいんですが、実はいよいよここからが本番。
 かけ算は、まとめて数える方法として考案されたには違いないのですが、ここでとても大切な考え方が出てきているのです。
 ここのところ、すごく混乱しやすいところなので、間違ってはいけないのでていねいにやってゆこうと思います。
 では、節を改めましょう。
 


かけ算を使って作る新しい概念

 
 実は、かけ算には二種類あります。(そんなものは分け方しだいですがね)
 このへんのこと、たぶんあまり学校じゃ教えていないんじゃないかと思います。
 その二種類とは、
 
 ・ 考え方に割り算が含まれている
 ・ 考え方に割り算が含まれていない
 
 この二種類です。(強引にそう分けます)
 割り算が含まれているというのがどういうことか。そういうかけ算がなんなのかについては、この後で改めてやります。ですから、考え方に割り算が含まれていないかけ算について、ここでは先に書き進めてゆきます。
 まず、代表的なものを紹介しましょう。
 面積! です。
 わー! パチパチぃ!
 
 あれ?
 なんだか盛り上がってないなあ。
 当然ですけどね。面積とか言われたって、面白くもなんともない。小学校の最初の頃に計算の仕方を教えられて、後は覚えた通りにできるかどうかの勝負。底辺かける高さ割る2とかって、呪文のように覚えさせられて、なにが底辺でなにが高さで、縦かける横とどう違うのか、なんてことも分からなくなってくる、ってわけ。
 まあねえ、ここのところの深遠な思想性については、ガキにゃ分からんでしょう。
 面積(に関わるかけ算)というのは、「長さ」という大きさを、「広さ」という新たな大きさに変化させるための、考え方のジャンプ台なのですよ。
 
 まず最初に、「広さ」をどう比べるかを考えてやりましょう。
 面積という概念がまだなくても、感覚的に広いか狭いかはありますよね。で、それを比べるのに、すでに数にする方法を見出した「長さ」を使えそうだ、ってくらいの勘は働くでしょう。
 そこで、長さを測る方法で広さを導こうとするわけですが、さて、これはなかなか簡単じゃない。だいたいにおいて、比較したい「広さ」は、それぞれの形からしてぜんぜん違うものであるだろうからです。
 これじゃ比べようがない。さあ、どうしましょう。
 
「で、どうするんだいゲンちゃん?」
「こいつを使うんさ」
「へ? その板っぺらがどうかしたのかい?」
「見りゃあ分かるだろ。こいつは同じ大きさに作った板っきれさ。夜なべしていっぺえ作ったからよお、こいつを並べてみようってのよ」
「お、相変わらずあったまいいねえ」
 長さを比較する時にも、基準になる長さをいくつ並べられるか、というのが大切でありました(本当はここで直線とか平面とか、そういう細かい話が入るんですが、あえて無視)。ですから、広さを比べる時にも、同じ広さ(基準)を、いくつ並べられるか、というのが比較に使える方法だろう、ってことになるわけですな。
「並べたねえゲンちゃん」
「並んだなあゴンちゃん」
「ところどころはみ出したり、隙間になったりしてるなあゲンちゃん」
「まあ、どっちもどっちで、いいことにしようやゴンちゃん」
 これで「広さ」を比べられるようになった、と。
 
 ちょっと脱線します。
 ここで使った「板きれ」について、どういう形をしているのが好ましいか、ということを考えておくべきなんです。
 面積について正しく扱えるようになっている人ならば、「それは正方形だろう」とすぐに答えにたどりついてしまうでしょう。けど、正方形である必要がどこにあるのだろう、と考えたことはありますか?
 長さを元にして広さを作る時に使う形について、考えられる条件は「隙間なく埋められる」「形が安定している」「そもそも広さという大きさを持っている」といったところです。で、実はこの考え方で最も適しているのは、ひょっとして「正三角形」なんじゃないかと思えるんですよ。
 実は正方形という形には、きわめて面倒な条件がひとつ含まれています。それは、内角が(すべて)直角であること、です。一方、正三角形の方は、同じ長さをみっつ組み合わせて作れば勝手に正しい形が出来上がります。圧倒的に簡単です。たとえば一辺が1センチの正三角形の面積を1トリセンチとか決めちゃって、あとはそれがいくつ並べられるかで広さを決めたらどうでしょう?
 原始時代的には、たぶんそれでもいけたはずです。
 なのに現実の「面積」は、正方形を基準にして作られる数値なのです。
 理由はいくつか考えられるのですが、……こんな感じじゃないでしょうか。
 広さを比較したいと思った最初の動機は、田畑の広さの問題だったのではあるまいかと想像しています。狩猟生活だったら、あまり広さを比較する場面には遭遇しません。農耕で生活するようになって初めて、具体的な広さの比較が必要になったのです。
 そうなった時に、きっと畑は四角形を基本としたものになったでしょう。苗を真っ直ぐ植えていって、その列の数が広さに対応していたかもしれませんし、もしそうなら、畑は細長い四角形を積み上げていった形になるでしょう。正三角形を基準とするやりかたでは、必要とする広さとイメージ的にもうまく合わせられません。
 苗を植えた列の数と、一列に植えた苗の数が、広さを測る目安になるでしょう。それは、四角形を元にした広さの考え方です。だからきっと、四角形同士の広さを比べる方法が必要とされることになるのです。
 それが、正方形を基本とした「面積」の求め方として発達していったのではないでしょうか。
 あくまで想像に過ぎませんけれど。
 さらに四角形にして良かったことが出てきます。それは、「かけ算を使えば数えやすい」ということなのです。ちらっと並べてみましょう。順番に数えるより、数を知るのが楽ですよね。
 
 □□□□□
 □□□□□
 □□□□□
 □□□□□  4×5=20 これを20□(にじゅっしかく)と呼ぶことにしよう。
 
 さっき○だったのを□にしてみました。面積を考えるのなら本当は互いの□がくっついてなくちゃいかんのですけど、諸般の事情によりこんなもんで。くっついてるつもりでお考えあれ。
 さて、面積なんですが、すでに書きましたとおり、本当は基準になる広さがいくつあるかを「数える」のが考えの基本です。たとえば日本では、広さを測る基準に「坪」っていう単位がありますよね。これはまさしく、一坪の大きさの板なりなんなりが、いくつ並べられるかを表したもの、ということになります。
 で、さらに言えば一坪は、一間(いっけん)と呼ばれる長さで作った正方形のことだったりするんですが、あまりそんなふうには思わないんじゃないですかね。長さと広さは、まったく別のものなのですからして。
 ん?
 いや、まったく別ってことないんじゃないの? と思っちゃいますよね。
 □が二十個並んださっきの図を眺めてみると、あることに気づきます。それは、□の個数を数えている時に、□の並んだ辺の長さと同じになってること、です。つまり、□ひとつの一辺の長さを基準として、それを1なんちゃらと考えるなら、横は5なんちゃらで、縦は4なんちゃら。それは個数といっしょ。縦の個数と横の個数をかけるのと、縦の長さと横の長さをかける、どっちも同じ答えが出てきます。
 ただ「なんちゃら」じゃ分かりにくいかな。ここは大人の事情でセンチということにします。
 で、4センチと5センチをかけて出た答えが20平方センチ。
 おっと、いきなり「平方センチ」とか出てきちゃいましたねえ。みんな小学校で教わっている広さの単位「平方センチ」。なんじゃそりゃ。cとmを並べて肩の上に小さい2をくっつけた、あの「平方センチ」。なんじゃそりゃ。意味不明?
 さあ、ここがキモですぞ。
 センチという単位を持つ「長さ」をふたつかけ合わせて作られた新たな数、実はこの時に、長さから広さへの、意味の変化が生じたのです。そうして、そのことを表すために、ただの「センチ」じゃなくて「平方センチ」という新しい言葉に変わったのです。そうして「平方」ってのは、「同じものを二回かけ合わせた」っていう意味だったのです。センチとセンチをかけたから平方センチということであったのです(さらに言うなら、「方」ってのは直角を意味してもいます。互いに直角な長さを二回かけたわけですな)。
 こんなふうに、なにかとなにかをかける時には、単位が変わるのです。それぞれの数字が持っている「単位」同士もかけ合わさらなければならないのです。
 つまりかけ算によって、新しい意味が生じます。
 面積ではなくて体積もありますよね。体積は、一辺が1の立方体がいくつ並べられるかを数えることで求めます。これもかけ算で数えるので、単位は「立方センチメートル」とかになるわけですね。立方ってのは、三回同じものをかけた、っていう意味。cとmを並べた肩に小さく3ってくっつける、その3が「立方」です。
 長さから面積ができて、さらに体積ができる。こんな具合に、数をかける時には、新たな概念が必要なのですね。面積みたいに同じ単位をかけ合わせるだけでなく、別の単位をかけ合わせるケースも出てきます。そのたびに、新たな概念が登場してくるってわけです。
 ただし……。
 
 さあ、割り算が関係したかけ算の話に踏み込んでゆきますぞ。
 やれやれ、であります。
 


割り算が始まる

 
 さて、さっきの話に、こういう疑問を持った人はいないでしょうか。
 つまり「面積を1個2個って数えるのはいいけど、かけ算にするんなら縦が4個で横が5個だから、面積は20平方個になっちゃうんじゃねえの? でも平方個ってなんだよ」って。なるほど、個数をかけても長さをかけても同じ数になっちゃう、みたいな話でしたっけ。
 うん、なにはともあれ、そんなふうに思うようだったら、あなたは子どもの頃の筆者と同じくらいひねくれ者ですな。よろしい、そこは通ってきた道です。
 実はここで、割り算の考え方が必要になってきちゃうのですよ。
 まさか、ここで割り算が関わってくるとは思わなかった、ですかね。
 なぜ割り算?
 ちょいと遠回りすることになりますが、おつきあいあれ。
 
 まずは、割り算ってなんだろう、ってところから始めなければなりません。
 一般的には、「分ける」っていう印象で扱われることの多い「割り算」ですね。
 たとえば「お菓子が五十六個あります。これを八人で分けます。ひとりいくつお菓子がもらえるでしょう」なんて問題。
 そういう問題でイメージ作って、計算方法を覚えて、あとは「こういう時に割り算を使いなさい」っていう状況をひとつひとつ覚えてゆく。
 たとえば「速度」ですな。
 速度=距離÷時間
 あるいは「濃度」ですな。
 濃度=溶質の質量÷溶液(溶質と溶媒を合わせたもの)の質量 に、百をかけて%にする。
 あるいは電流とか電気抵抗ですな。オームの法則ってやつですな。
 電流=電圧÷抵抗  抵抗=電圧÷電流
 最後の例は、ちょいと微妙な問題をはらみますが、とにかくこんなふうに、なんにも関係のないように思えるいくつものケースで割り算ってのが使われます。ですから、それぞれのケースで覚えてやらなくちゃいけなくなります。
 速さを求める公式とか覚えて、なにをなにで割るんだっけ、という混乱がよく起こるので、覚えやすいようにあんなふうにこんなふうに呪文を作って、それを唱えたりします。
 大変に面倒な上、間違ったら訂正がききにくい方法です。おすすめできません。割り算とはなんであるか、どのように使えばいいかが分かれば、あとはおのずと導けるものなのです。
 だいたいにおいて、「分ける」ことで割り算を作るのはいいんですが、その後で本質的な考え方をとりこぼしてしまうからいかんのです。
 その考え方が、「割合」です。
 
 お菓子を分ける問題に戻りましょう。
 五十六個のお菓子を八人で分けましょう。すると、答えは七個、ですよね。小学生ならみんな、意気揚々と「こたえ 7こ」とか書くことでありましょう。
 ぶっぶー 不正解です。少なくとも、今までの話を踏まえて求められる答えは「7個(こ)」ではありません。小学生なら許しても、大人のあなたは許しません。
 正確な答えは「答え 7個/人」とすべきなのです。さもなければ「答え ひとりあたり7個」です。
 だまし討ちみたいなやり口ですな。だいたい問題に「ひとりあたり何個でしょう」とあるのだから、「ひとりあたり」という表現はいらんだろう、という反発が予想されます。まあ、おっしゃるとおりではあります。問題文がいかんのです。こういう問題文だから、答えが混乱するのです。数字であるところの7さえ正しけりゃいいだろう、と思ってしまうのです。
 でも、そんなことだから大切な部分が見えなくなってしまうのです。その7個には、大事な意味があるのだ、ということを声を大にして言いたい。文字だから声を大きくはできませんが。
 こだわっているのは「ひとりあたり」という言葉です。もっというなら「あたり」の部分です。
 この「あたり」という部分にくっついている思想、考え方、技巧が、「割合」という、ここで重要視しているものだったのでありました。
 つまり、元にある数字を別の数字で割るわけですね。で、問題は、なにで割ったのか、です。数字じゃありませんよ。どういう意味を持っている数なのか、どういうふうに「数えた」数なのか、という点を問題視しているわけです。
 ここでは「人数」ですよね。8という「人数」で割ったのです。人数で割ったから、得られる答えは、「ひとりあたり」の数になるのです。
 当然ですか? 大丈夫ですか?
 じゃあもう一押し。単位のある数で割ったら、答えの単位も元の単位が割られた状態になる、ということ。納得できるでしょうか。非常にあたりまえのことなんですが、ここのところが分かっていない子ども、けっこういるんじゃないかなあ。そういうふうに教えられてない気がするんですよねえ。
 
 割り算をする(最大の)目的は、「1~~あたり」を求めることにあるのです。ここで「~~」は、割る数(割られる数でない方)の、基準になる単位。逆に、そのような数を求めなければならない時には、必ず割り算をすることになるのです。
 たとえば、典型的なのが「速さ」です。学校の問題では「あたり」の表現はあまり使わずに、分かりにくくしてあります。けど、これは典型的「あたり」です。
 たとえば「時速何キロメートルでしょう?」という問題は、「1時間あたりどれくらいの距離(キロメートル)進むでしょう?」というふうに質問されてるのと同じです。ちゃんと「あたり」が入っていますよね? 「速度」を問われているので、そもそも「速度」とはなんなのかを考えてやれば、ちゃんと「あたり」が出てきます。速度とは、一定時間あたりに進む距離のことなんですから。1分あたりに進む距離は「分速」で、1秒あたりに進む距離は「秒速」で、1時間あたりに進む距離は「時速」だと。みんな「あたり」がくっついてます。秒速なら秒数で割ればいいし、分速なら分数で割ればいい。なんか、そんな感じです。
 考え方としては、ですけどね。数学のテストだと、「1時間6分で11キロ進んだ、この時の時速を求めよ」、みたいに回答者を混乱させるためのテクニックを使ってきますから、そういうところに目配りができないと正解にたどりつきません。ま、そこを見破る訓練ってのも、たぶん必要なんでしょうねえ。つまらん受験テクニックだけで終わってないといいのですが。
 
 なんだか目的地からどんどん離れているような気がしてきました。
 えーと、□の個数を数えるのと、長さをかけ合わせて求めた面積では、そもそも単位が違うではないか、という話でしたっけ。
 ああ、そうそう。違うんです。違うけど同じなんです。
 また混乱した話向きになってますが。
 まずは、数の数え方からゆきます。□の数を数える時に、4個と5個をかけた、つもりだったんですよね。そうすると、20平方個なんておかしな数になっちまう。変だなあ、と。
 しかし、ここでかけ合わせた数は、本当に「個」でしたか?
 実はそこのところが間違っていたのです。かけ合わせた一方の数は「列」という単位だったんですよ。ひとまとまりで数える時に、たとえばさっきのケースでは、4列あった、のです。
 じゃあ、もうひとつの数はなんだったのか。
 それは、「1列あたりの個数」だったのです。それが5個/列となります(全部で20個あるのを4列に分けた時の1列あたりの個数、ということでも求められますし、単純に、1列にいくつ並んでいるかを数えても(実は1で割る)求められます。なので、単位は「個」を「列」で割った個/列になるってわけです)。
 で、1列あたりの個数と列の数をかけると、個数が求められます。
 
 おっと、説明なしに大変なテクニックを使ってしまった。
 単位についても約分ができる、ってことなんですが。うん、分数の話をする前にやったらフライングってことになりますよね。ま、これ読んでるのは子どもじゃないだろうからかまわんのかもしれません。
 でもできればきちんとやりたいので、これも一応パスしときます。
 ま、とにかく現段階では「1~~あたり」ってのが出てきたら、「~~」の単位を持っている数字をかけてやると、なにか求められる。その時に「~~」っていう単位は消えてくれるもんらしい、ってことにだけしておいてください。「1時間あたり50円」だったら、たとえばそこに「2時間」をかけてやって、100円っていう答えが出る(時間という単位は消える)。「1ドルあたり50グラム」だったら、そこに「5ドル」をかけてやれば「250グラム」という答えが出る(ドルという単位は消える)。逆に「1グラムあたり300円」だったら、そこに「7グラム」かけてやれば「2100円」という答えが出る(グラムという単位が消える)。ま、そんな感じです。
 
 さて、1列あたり5個で4列。これをかけ合わせて「20個」になりました。
 おやおや、まだ「面積」じゃありませんねえ。
 しかしここで長さから面積を導く考え方が適用されます。つまりここでの「1個」は、ある一定の広さを持っているものなんですね。ということは、ここに「1個あたりの広さ」という考え方が発生してくるのです。
 これまでの考え方では、この「□1個あたりの広さ」は取り決められていませんでした。だから、さらに言えば、この□の一辺の長さが1センチであるかどうかも、どうでもいいことでした。でもまあ、ここでなんらかの広さの単位が決まっていれば、そいつをかけて「面積」が求められる、ってわけです。
 □一個の広さって? 一辺が1センチの正方形だとしたら、1×1平方センチってことでいいじゃないですか。「□一個あたり1平方センチ」をかけて、20平方センチという答えにようやくたどりついたのでした。数としては1をかけても同じ。でも、意味は変わるのでした。
 
 かけ算九九で、そういえば1の段ってのもやりましたっけ。いんいちがいち、いんにがに、いんさんなじけんですなけいぶ。なんだか無駄なことやってんなあ、「1はかけても元の数と同じ」でいいじゃねえか、と思ってました。思ってましたよねえ。きっとあなたも。
 実は別の意味が発生するのだ、なんてこと思いもしませんでした。教えてももらわなかったように思います。
 それとも、教えられたけど忘れたりスルーしたりしてたんでしょうか。
 たぶん最初はそういう思想、あったんでしょう。でも、教えなくちゃならない現場ではそんなことやってられない。パス。ま、そんなところだったんじゃないですかね。相手は小学校低学年で、物事の道理なんて分かっちゃいないんですから。たいてい分かろうとさえしませんな。大人になってもそのまんま、ってやからもけっこう……。いや、まあ、それはいいや。
 いろんな人が、いるもんなんです。
 それこそある「割合」でいるもんなんです。
 
 あれ?
 ここで言ってる「割合」って、単位はどうなってましたっけ?
 


割合から

 
 さあ、今回の最終フェイズに突入です。
 前の節で書いたのは、主に、ある単位を持つ数をそれとは異なる単位の数で割った時の話、でした。そういうふうにして、新たな概念の数を作り出すことにしたのでした。
 代表選手が「速さ」でした。
 しかし実は、「割合」には、もっとよく使われるタイプのやつがいます。それは、ある単位を持つ数を、同じ単位を持つ別の数で割って作るやつです。
 単位を同じ単位で割ると、消滅してしまいます(ということに、ついさっき決めましたよね)。
 で、残ったのは純粋な、ただの数、です。
 でも、なぜ割ったりするのでしょう?
 それは「数」の基本に立ち返ります。比べるため、なのです。
 単位が同じ「数」は同じ意味を持ちます。「重さ」とか「金額」とかですね。これを比べる時に使うわけです。どちらがどれくらい多いとか少ないとか、を比べるわけですね。しかも引き算じゃありません。こういう比べ方をするのは、基本、小さい方の数(のまとまり)をいくつ集めたら大きい方の数に追いつくだろうか、というタイプの比較をする時に使う計算方法だったのです(「分ける」って考え方が最初なら、小さいのを大きく分けることはできません)。
 大きい方は小さい方の「何倍」なのかを調べます。「割合」が出てきますが、単位は出てきません。ま、それでいいような気がするんですが……。
 しかし、大きい数と小さい数の間に、特別な関係がある場合があります。
 それは、小さい方の数が、大きい方の数の一部分であった、という場合です。
 たとえばいろんな色の石があるとします。全部で100個。その中に、白い石が20個ふくまれているとしましょう。
 こういう時に、「いろんな色の石は白い石の5倍である」というふうに言うと、なんとなくですが、白い石はいろんな色の石とは別にあるような感じになっちゃいます。あくまで白い石は、いろんな色の石に含まれているのに、です。
 そこで、いろんな色の石の中に白い石が含まれている「割合」という考え方をします。もうこの段階では「分ける」ことじゃありません。ただ、こうすると便利になるのです。「ある部分が全体に対してどれくらいの割合で含まれている」っていうふうに表現することになるんですね。
 
 ただ、ここで出てくる「割合」、多少の例外はありますが、非常に特徴的なある性質を持つことになってしまいます。
 それは、「基本的に0と1の間におさまる」という、実にとんでもない性質なのです。なぜかというと、ここで扱う「割合」はいつでも、小さい数(部分)を大きい数(全部)で割って作るからです。大きい数を小さい数で割る、の逆、です。小さい数は大きい数の1倍より小さいのです。
 あー、やばいですねえ。
 もう「数える」こと、できませんねえ。0と1の間ですもん。数えようとしたって数えられるもんじゃない。だいたい、1より小さい数ってなんだろう。0じゃないようだけれど……。
 実は、ここんところを処理するためには、「分数」か「小数」が最低限必要になるのです。そういうのはふつう数えることができません。イメージしにくいことはなはだしい。
 だから、なんでしょうかねえ。なんとかもうちょっとイメージできるようにという工夫なのか、はたまた、「同じ単位同士で割った」ことを分かりやすくしようということなのか、無理に100なんてかけちゃって、その100に%っていう単位なんてつけちゃうのであります。そういう強引なことをやっちゃうので、「数える」ことはほぼ不可能です。
 おかしな習慣なんですが、それなりに意味がないわけじゃありません。ここで扱うことになるのは、実は「全部」と「部分」の関係で、部分が0から100の間に収まっていることにできるからです。円グラフとか帯グラフってのがありますが、そういうふうに、全体と部分の関係を視覚的なイメージにできると、なんとなく分かった気になりやすいですね。分かったような錯覚、ってこともありそうですが、ま、そんなもんです。ヒマならいいけど、忙しい時には、分かったことにして先に進むことだって必要なんですから。
 また、割合の話では「1」が全部を意味することになります。ですが、「1」ってのは、主に基準で使われる数ですよね。イメージとしては「いちばん小さい『部分』」です。そいつは混乱しやすいだろうから別の数に、って配慮もあるでしょう。
 でも、計算する時にはパーセントの意味を考慮するぶん余計な手間がかかっているとも言えそうです。それが理由で混乱しちゃってる子どももけっこういるんじゃないかと思いますねえ。分からないまま大人になって、そのことをごまかしている大人もいるんじゃないかなあ。大人はごまかすのが上手ですから、あまり目立ちませんけれど。
(たとえば「食料自給率」っていうパーセント表示。みんなが分かってるように扱われてるけど、けっこう分かってなかったりして)
 
 えー、「全部」と「部分」の関係っていう話でした。
 つまりここで言う「割合」というのは、「全部の中に含まれる部分の程度」を表すために発明された概念です。
(先にやった「速さ」みたいなものは、本当は後から考え出されたものなのかもしれません。それをきちんと捉えるには「比例」という考え方を導入してやる必要があるからです(とぼけて飛ばしちゃいましたけどね)。)
 で、「全部」の中の「部分」を表すのに、なぜだか「割り算」を用いてしまったのです。なぜか「部分」を「全部」で割ってしまうのです。そういうふうにして導き出されたのが「割合」なのです。
 
 あー、なんだか伝わってない気がするなあ。
 もうちょっと具体的なケースで考えてみましょうか。
 
「やあゲンちゃん、ひま?」
「ひまじゃねえよ。山にクルミを取りに行ってきたんだ。ゴンちゃん、おめえはどうよ」
「ああ、おれは柿を取ってきた」
「いいねえ、柿かい」
「そっちはクルミかよ。それもいいな」
 ふたりは収穫したものを袋に入れて背負っております。しばらく互いの顔を見ていましたが、ふいにこう提案します。
「なあ、お互いの収穫を、分けっこしねえ?」
 さあ、分けっこすることにします。いろんな方法がありそうですが、ひとつ問題があります。それは、互いの収穫物は袋に入っており、まだ中の様子が見えないということ。
「クルミ1個と柿1個じゃ交換できねえよ」
「じゃ、いくつとだったら交換できるんさ」
「いくつだったらいいかなあ……」
「そうだこうすべえ。おいらの取った柿を、おいらとおめえで同じだけにする。おめえの取ったクルミも、おいらとおめえで同じ数にする。そうすりゃ、どっちも同じだけ柿もクルミも持って帰れることになるべえよ」

 つまりこういうことです。お互いの袋に、いくつか分からない柿やクルミが入っている。どっちも1袋、です。それを、中を見ないまま「はんぶんこ」しようってんです。
 袋を開けてみます。柿は12個入っておりました。クルミは54個入っておりました。ゲンちゃんもゴンちゃんも柿は6個、クルミは27個持ち帰ることができるようになりました。
 つまり、これが「割合」です。柿の数とクルミの数は、互いにぜんぜん違う(関係ない)のに、どちらも同じ「半分」だった、ってことなのです。
 ここでいう「全部」は、「1袋」です。これをふたつに分けた、という点ではゲンちゃんゴンちゃん同じこと。日本語で表現するなら「半袋」ですよね。
 まず最初に、「全部」をまとめてしまうのです。中にどれだけ入っていようが構わず「1袋」に入れてしまうのです。あくまでも頭の中の想像なので、この袋にはなにを入れてもどれだけ入れてもかまいません。全人口でも1袋、すべての水素原子の数でも1袋、ふられた女の数でも1袋、矢吹丈がホセ・メンドーサにくらったパンチの数でも1袋。なんでも「全部」を1袋に入れてしまうのです。だから「全部」は「1」なのですね。
 で、それを「ふたつに分けました」という割り算が発生します。これを「半分」と呼ぶのです。が、ふたりならいいけど何人かで分けることもありますから、いくつに分けたのか分かるようにしよう、ということにして言葉を作ります。それが「2分の」という言葉です。2つに分けたぞ、と書いてあるわけです。で、なにを分けたかというと、「1袋」ですから「2分の1袋」という表現が出てくることになります。もし5人で分けたのなら「5分の1袋」となります(そう。分数です。けど、今はまだそっちに行きません)。今のところは、表現のルールに過ぎません。
 で、それが「割合」でありました。
 
 と、こう書いたらごまかしが混じっています。実は「2分の1」と言ってまとめてしまう時に、ズルをしたんです。
 ちょっとややこしい話なんですが、書いてみます。
 最終的にゴンちゃんやゲンちゃんが持ち帰る柿やクルミは、どちらも「2分の1袋」です。これは、「1袋を2つに分けた」という意味でもあります。けれど、「1袋を2人で分けた」と考えることもできます。後者の考え方だと「1人あたり」を求める方式です。この場合、単位をつけると「2分の1袋/人」となります。ただし、これを「1人」が持ち帰るので、「1人」をかけ合わせてやって「人」の単位が消え、ゲンちゃんとゴンちゃんはそれぞれ「2分の1袋」持ってゆくことになるのでした。
 前者の場合、「1袋を2つに分けた」だけ、です。この段階では、「2分の1」という、単位のない「割合」を「1袋」にかけ合わせただけです。量が求められていますが、ただそれだけです。同じことのように見えますが、「人」が介在して求めたのかどうかという、経緯についての情報は最初からありません。
 つまり、最初からないものと、途中で消えてしまったものがあるんです、が、数学ではというか、最終的に出た答えでは、そんなのは見えなくなってしまいます。どんな感動的な物語があっても、くだらないストーリーがあっても、なんの意味もない直感的な数であっても、区別がつきません。
 そうして、そういうところこそが、数学で物事を処理しようとする大きなメリットでもあるのです(もちろんデメリットでもありますけどね)。いろんな複雑な事情をすっとばして、ゲンちゃんだのゴンちゃんだのは無視して、計算で結果を手に入れる。それは、大きな効率化につながってゆきます。限られた時間の中で簡易化の方法を利用して、おそらく人は、現代のように余裕のある暮らしを手に入れられるようになったのです。
 
 細かい事情を考えずに、ただ計算してゆく。あるいは、事情を加味して状況判断できるようにする。本当はどちらも重要です。この両方のやりかたを併用することで、物事の理解の幅が広がることにもなるでしょう。どちらかを馬鹿にしたり軽んじたりするのは、それ自体が愚かしいことだと思うんですよね。
 
 もう少し、数をこねくりまわしてみましょう。
 たとえば「柿は1袋に12個入っていた」という事実に着目してみます。これ、表現を変えると「1袋あたり12個の柿」となるんです。あれれ、ここにも「割合」が入っておりました。
 面積の時に考えたように、1なんとかあたり、というのが出てきて、数を数える時には、かけ算するといいのです。1袋あたり12個×「2分の1袋」は、結果からみて6個になるはずです。
 それって、2つに分けた、ってのと同じことのはずですよね? ということは、「2分の1」をかけてやることと「2で割る」のは同じことじゃなければならない、ということです。
 もうひとつの袋(クルミ)でやります。54を2で割っても、54に2分の1をかけても、同じ「ひとりぶんのクルミの個数、27個」が求められる。求められますよね。
 ひょっとして、あらゆるかけ算と割り算が、「表現方法」や「手続き」が違うだけで、実は同じことをやっているんじゃないだろうか、なんて、感じてきませんか?(いや、もう、大半の人がそういうもんだと「知って」いるんでしょうけどね。でもその知識って、たぶん、「教えられた」ってだけの知識じゃありませんか?)
 違う道を通って、同じひとつの答えにたどりつく。数学は、どういう道を通っても、同じ答えにたどりつくようにするための考え方なのかもしれません。
 実際の生活では、道が違うと違う答えにたどり着く方が普通なんですけどね。
 そんな理由から、数学みたいな考え方が「絶対的真理」っぽく思えてくる人と、そんなもの生きてゆく役に立たないと主張する人、に分かれるのでしょうか。
 え? 分かれてない?
 分かれると思うのが数学的、分けられないと思うのが日常的。どちらも正しいんじゃないでしょうかね。
 
 おっとっと。この節は、単位のない「割合」についての話だったはずなのに、徐々に脱線しておかしなところに迷い込みました。
 でも考えてみたら、この原稿の本来の目的はそっち方面にあるような気がします。そういうふうに脱線してきたんじゃないでしょうか。
 ただ覚えて使うだけの知識に裏があること。ただの数が、意味を持ったり、意味のあるなにかがただの数に変わったりすること。そんなところをながめて、もし、面白がってもらえるなら、とても嬉しいと思います。
 
 本当は、「割合」を拡張して、「比率」の話や「確率」の話もするつもりだったのです。が、この調子で続けたら話がぐじゃぐじゃになって、ひたすら長く伸びてゆきそうなので、今回はまとまった感じのしてきたこのあたりでおしまいにしてしまいます。
 これまでの話を元に、これを読んだ皆さんが自分なりに考えてみてもいいかもしれません。
 比率って、なんだろう?
 確率ってなんだろう?
 どんな意味があるのだろう。どんなふうに計算方法が作られているのだろう。中学校までに教わる知識で充分ですから、考えてみてください。
 



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