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割合から

割合から

 
 さあ、今回の最終フェイズに突入です。
 前の節で書いたのは、主に、ある単位を持つ数をそれとは異なる単位の数で割った時の話、でした。そういうふうにして、新たな概念の数を作り出すことにしたのでした。
 代表選手が「速さ」でした。
 しかし実は、「割合」には、もっとよく使われるタイプのやつがいます。それは、ある単位を持つ数を、同じ単位を持つ別の数で割って作るやつです。
 単位を同じ単位で割ると、消滅してしまいます(ということに、ついさっき決めましたよね)。
 で、残ったのは純粋な、ただの数、です。
 でも、なぜ割ったりするのでしょう?
 それは「数」の基本に立ち返ります。比べるため、なのです。
 単位が同じ「数」は同じ意味を持ちます。「重さ」とか「金額」とかですね。これを比べる時に使うわけです。どちらがどれくらい多いとか少ないとか、を比べるわけですね。しかも引き算じゃありません。こういう比べ方をするのは、基本、小さい方の数(のまとまり)をいくつ集めたら大きい方の数に追いつくだろうか、というタイプの比較をする時に使う計算方法だったのです(「分ける」って考え方が最初なら、小さいのを大きく分けることはできません)。
 大きい方は小さい方の「何倍」なのかを調べます。「割合」が出てきますが、単位は出てきません。ま、それでいいような気がするんですが……。
 しかし、大きい数と小さい数の間に、特別な関係がある場合があります。
 それは、小さい方の数が、大きい方の数の一部分であった、という場合です。
 たとえばいろんな色の石があるとします。全部で100個。その中に、白い石が20個ふくまれているとしましょう。
 こういう時に、「いろんな色の石は白い石の5倍である」というふうに言うと、なんとなくですが、白い石はいろんな色の石とは別にあるような感じになっちゃいます。あくまで白い石は、いろんな色の石に含まれているのに、です。
 そこで、いろんな色の石の中に白い石が含まれている「割合」という考え方をします。もうこの段階では「分ける」ことじゃありません。ただ、こうすると便利になるのです。「ある部分が全体に対してどれくらいの割合で含まれている」っていうふうに表現することになるんですね。
 
 ただ、ここで出てくる「割合」、多少の例外はありますが、非常に特徴的なある性質を持つことになってしまいます。
 それは、「基本的に0と1の間におさまる」という、実にとんでもない性質なのです。なぜかというと、ここで扱う「割合」はいつでも、小さい数(部分)を大きい数(全部)で割って作るからです。大きい数を小さい数で割る、の逆、です。小さい数は大きい数の1倍より小さいのです。
 あー、やばいですねえ。
 もう「数える」こと、できませんねえ。0と1の間ですもん。数えようとしたって数えられるもんじゃない。だいたい、1より小さい数ってなんだろう。0じゃないようだけれど……。
 実は、ここんところを処理するためには、「分数」か「小数」が最低限必要になるのです。そういうのはふつう数えることができません。イメージしにくいことはなはだしい。
 だから、なんでしょうかねえ。なんとかもうちょっとイメージできるようにという工夫なのか、はたまた、「同じ単位同士で割った」ことを分かりやすくしようということなのか、無理に100なんてかけちゃって、その100に%っていう単位なんてつけちゃうのであります。そういう強引なことをやっちゃうので、「数える」ことはほぼ不可能です。
 おかしな習慣なんですが、それなりに意味がないわけじゃありません。ここで扱うことになるのは、実は「全部」と「部分」の関係で、部分が0から100の間に収まっていることにできるからです。円グラフとか帯グラフってのがありますが、そういうふうに、全体と部分の関係を視覚的なイメージにできると、なんとなく分かった気になりやすいですね。分かったような錯覚、ってこともありそうですが、ま、そんなもんです。ヒマならいいけど、忙しい時には、分かったことにして先に進むことだって必要なんですから。
 また、割合の話では「1」が全部を意味することになります。ですが、「1」ってのは、主に基準で使われる数ですよね。イメージとしては「いちばん小さい『部分』」です。そいつは混乱しやすいだろうから別の数に、って配慮もあるでしょう。
 でも、計算する時にはパーセントの意味を考慮するぶん余計な手間がかかっているとも言えそうです。それが理由で混乱しちゃってる子どももけっこういるんじゃないかと思いますねえ。分からないまま大人になって、そのことをごまかしている大人もいるんじゃないかなあ。大人はごまかすのが上手ですから、あまり目立ちませんけれど。
(たとえば「食料自給率」っていうパーセント表示。みんなが分かってるように扱われてるけど、けっこう分かってなかったりして)
 
 えー、「全部」と「部分」の関係っていう話でした。
 つまりここで言う「割合」というのは、「全部の中に含まれる部分の程度」を表すために発明された概念です。
(先にやった「速さ」みたいなものは、本当は後から考え出されたものなのかもしれません。それをきちんと捉えるには「比例」という考え方を導入してやる必要があるからです(とぼけて飛ばしちゃいましたけどね)。)
 で、「全部」の中の「部分」を表すのに、なぜだか「割り算」を用いてしまったのです。なぜか「部分」を「全部」で割ってしまうのです。そういうふうにして導き出されたのが「割合」なのです。
 
 あー、なんだか伝わってない気がするなあ。
 もうちょっと具体的なケースで考えてみましょうか。
 
「やあゲンちゃん、ひま?」
「ひまじゃねえよ。山にクルミを取りに行ってきたんだ。ゴンちゃん、おめえはどうよ」
「ああ、おれは柿を取ってきた」
「いいねえ、柿かい」
「そっちはクルミかよ。それもいいな」
 ふたりは収穫したものを袋に入れて背負っております。しばらく互いの顔を見ていましたが、ふいにこう提案します。
「なあ、お互いの収穫を、分けっこしねえ?」
 さあ、分けっこすることにします。いろんな方法がありそうですが、ひとつ問題があります。それは、互いの収穫物は袋に入っており、まだ中の様子が見えないということ。
「クルミ1個と柿1個じゃ交換できねえよ」
「じゃ、いくつとだったら交換できるんさ」
「いくつだったらいいかなあ……」
「そうだこうすべえ。おいらの取った柿を、おいらとおめえで同じだけにする。おめえの取ったクルミも、おいらとおめえで同じ数にする。そうすりゃ、どっちも同じだけ柿もクルミも持って帰れることになるべえよ」

 つまりこういうことです。お互いの袋に、いくつか分からない柿やクルミが入っている。どっちも1袋、です。それを、中を見ないまま「はんぶんこ」しようってんです。
 袋を開けてみます。柿は12個入っておりました。クルミは54個入っておりました。ゲンちゃんもゴンちゃんも柿は6個、クルミは27個持ち帰ることができるようになりました。
 つまり、これが「割合」です。柿の数とクルミの数は、互いにぜんぜん違う(関係ない)のに、どちらも同じ「半分」だった、ってことなのです。
 ここでいう「全部」は、「1袋」です。これをふたつに分けた、という点ではゲンちゃんゴンちゃん同じこと。日本語で表現するなら「半袋」ですよね。
 まず最初に、「全部」をまとめてしまうのです。中にどれだけ入っていようが構わず「1袋」に入れてしまうのです。あくまでも頭の中の想像なので、この袋にはなにを入れてもどれだけ入れてもかまいません。全人口でも1袋、すべての水素原子の数でも1袋、ふられた女の数でも1袋、矢吹丈がホセ・メンドーサにくらったパンチの数でも1袋。なんでも「全部」を1袋に入れてしまうのです。だから「全部」は「1」なのですね。
 で、それを「ふたつに分けました」という割り算が発生します。これを「半分」と呼ぶのです。が、ふたりならいいけど何人かで分けることもありますから、いくつに分けたのか分かるようにしよう、ということにして言葉を作ります。それが「2分の」という言葉です。2つに分けたぞ、と書いてあるわけです。で、なにを分けたかというと、「1袋」ですから「2分の1袋」という表現が出てくることになります。もし5人で分けたのなら「5分の1袋」となります(そう。分数です。けど、今はまだそっちに行きません)。今のところは、表現のルールに過ぎません。
 で、それが「割合」でありました。
 
 と、こう書いたらごまかしが混じっています。実は「2分の1」と言ってまとめてしまう時に、ズルをしたんです。
 ちょっとややこしい話なんですが、書いてみます。
 最終的にゴンちゃんやゲンちゃんが持ち帰る柿やクルミは、どちらも「2分の1袋」です。これは、「1袋を2つに分けた」という意味でもあります。けれど、「1袋を2人で分けた」と考えることもできます。後者の考え方だと「1人あたり」を求める方式です。この場合、単位をつけると「2分の1袋/人」となります。ただし、これを「1人」が持ち帰るので、「1人」をかけ合わせてやって「人」の単位が消え、ゲンちゃんとゴンちゃんはそれぞれ「2分の1袋」持ってゆくことになるのでした。
 前者の場合、「1袋を2つに分けた」だけ、です。この段階では、「2分の1」という、単位のない「割合」を「1袋」にかけ合わせただけです。量が求められていますが、ただそれだけです。同じことのように見えますが、「人」が介在して求めたのかどうかという、経緯についての情報は最初からありません。
 つまり、最初からないものと、途中で消えてしまったものがあるんです、が、数学ではというか、最終的に出た答えでは、そんなのは見えなくなってしまいます。どんな感動的な物語があっても、くだらないストーリーがあっても、なんの意味もない直感的な数であっても、区別がつきません。
 そうして、そういうところこそが、数学で物事を処理しようとする大きなメリットでもあるのです(もちろんデメリットでもありますけどね)。いろんな複雑な事情をすっとばして、ゲンちゃんだのゴンちゃんだのは無視して、計算で結果を手に入れる。それは、大きな効率化につながってゆきます。限られた時間の中で簡易化の方法を利用して、おそらく人は、現代のように余裕のある暮らしを手に入れられるようになったのです。
 
 細かい事情を考えずに、ただ計算してゆく。あるいは、事情を加味して状況判断できるようにする。本当はどちらも重要です。この両方のやりかたを併用することで、物事の理解の幅が広がることにもなるでしょう。どちらかを馬鹿にしたり軽んじたりするのは、それ自体が愚かしいことだと思うんですよね。
 
 もう少し、数をこねくりまわしてみましょう。
 たとえば「柿は1袋に12個入っていた」という事実に着目してみます。これ、表現を変えると「1袋あたり12個の柿」となるんです。あれれ、ここにも「割合」が入っておりました。
 面積の時に考えたように、1なんとかあたり、というのが出てきて、数を数える時には、かけ算するといいのです。1袋あたり12個×「2分の1袋」は、結果からみて6個になるはずです。
 それって、2つに分けた、ってのと同じことのはずですよね? ということは、「2分の1」をかけてやることと「2で割る」のは同じことじゃなければならない、ということです。
 もうひとつの袋(クルミ)でやります。54を2で割っても、54に2分の1をかけても、同じ「ひとりぶんのクルミの個数、27個」が求められる。求められますよね。
 ひょっとして、あらゆるかけ算と割り算が、「表現方法」や「手続き」が違うだけで、実は同じことをやっているんじゃないだろうか、なんて、感じてきませんか?(いや、もう、大半の人がそういうもんだと「知って」いるんでしょうけどね。でもその知識って、たぶん、「教えられた」ってだけの知識じゃありませんか?)
 違う道を通って、同じひとつの答えにたどりつく。数学は、どういう道を通っても、同じ答えにたどりつくようにするための考え方なのかもしれません。
 実際の生活では、道が違うと違う答えにたどり着く方が普通なんですけどね。
 そんな理由から、数学みたいな考え方が「絶対的真理」っぽく思えてくる人と、そんなもの生きてゆく役に立たないと主張する人、に分かれるのでしょうか。
 え? 分かれてない?
 分かれると思うのが数学的、分けられないと思うのが日常的。どちらも正しいんじゃないでしょうかね。
 
 おっとっと。この節は、単位のない「割合」についての話だったはずなのに、徐々に脱線しておかしなところに迷い込みました。
 でも考えてみたら、この原稿の本来の目的はそっち方面にあるような気がします。そういうふうに脱線してきたんじゃないでしょうか。
 ただ覚えて使うだけの知識に裏があること。ただの数が、意味を持ったり、意味のあるなにかがただの数に変わったりすること。そんなところをながめて、もし、面白がってもらえるなら、とても嬉しいと思います。
 
 本当は、「割合」を拡張して、「比率」の話や「確率」の話もするつもりだったのです。が、この調子で続けたら話がぐじゃぐじゃになって、ひたすら長く伸びてゆきそうなので、今回はまとまった感じのしてきたこのあたりでおしまいにしてしまいます。
 これまでの話を元に、これを読んだ皆さんが自分なりに考えてみてもいいかもしれません。
 比率って、なんだろう?
 確率ってなんだろう?
 どんな意味があるのだろう。どんなふうに計算方法が作られているのだろう。中学校までに教わる知識で充分ですから、考えてみてください。