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 高いけれどたいしたことのないランチを食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。
 気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。
 無理だ。
 ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。
 酔いが苦しみを麻痺させると同時に、僕の中の僕が、鮮明にこちらを見つめているのが分かった。本当は、こんな日は来ない方がよかったのだ。女流の中でも一番になれなくて、苦しくて苦しくて、そっちの方がよかったのだ。今日の苦しみは、一刀両断された苦しみだ。心の隙間は埋められるが、完全に分離してしまったものはなかなかくっつかない。
 盤の上に、座布団を置いた。今は、見たくない。
 いつかの記憶が、脳裏をかすめた。
 電話を手にした。
 ダイヤルする。呼び出し音が三回、四回、五回……
「あ、どうしたの?」
 不安定な声。寝起きなのだろうか。
「いまどこ」
「え、家だけど」
「来て」
「え」
「ここに来て」
「ここってどこ」
「私の家」
「それ、どこ」
「メールで地図送るから。三十分で」
「いや、ちょっと待てよ、おい」
 電話を切った。喉がからからになり、ワインを飲み込んだ。
 地図とマンションの名前、部屋番号を記載してメールを送る。そして僕は、ベッドに飛び込んだ。とめどなく流れてくる涙を、シーツでぬぐった。
 女だ。今僕は、女だ。
 何故こんなことをしてしまったのか。
 自分の中の色々なものが、僕の中から飛び出そうとしているようだった。
 わかっていた。届かないものは、届かない。それでも、目指していたかった。近づいていたんだ。けれども、遠すぎた。タイトルを獲ったぐらいで、何かが変わったと思い込んでいたのか。あの日から、一度だって距離が縮まったことはなかった……
 目をあけられなかった。自分のもの、自分の姿、何も見たくなかった。
 四十分ほどして、ドアホンが鳴った。起き上がり、頬を叩いてから玄関に向かう。のぞき穴の向こうには、不安げな顔の川崎がいた。
「ごめん」
 口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「どうしたの。入っていい?」
「うん」
 しわくちゃのシャツにジーパン。髪の毛はべったりとしていて、多分急いで家を出てきてくれたのだろう。僕は、初めての来客を招き入れた。
「酔ってるの」
「うん」
「今日、対局あったんだろ」
「うん」
「それで飲んでたの」
「……それだけじゃない、と思う」
 新しいコップにお茶を入れようとしたら、川崎はそれを手で制した。そして、ワインボトルを手に取る。
「こういうのは、酌み交わしながら語るもんでしょ」
「じゃあ、注がせて」
「おう」
 冷蔵庫から、チーズを取りだした。僕は、何も食べずに飲んでいたのだ。
「なんか作ろうか」
「え」
「木戸ってさ、料理しないだろ。台所見てわかった」
「材料ないよ」
「なんかあるだろ」
 川崎は台所で勝手に料理を始めた。大したものはなかったが、卵とポテトチップス、鰹節で一品作ってしまった。盛り付けにもこだわっているようで、見た目がさっぱりしている。
「昔よく作ったんだよ」
「これを?」
「みんなうちで遊んで、お菓子を置いてくんだよね。だから次の日、こんな風にしてさ。ネギとか入れてもいいよ」
 食べてみると、とてもやんわりとした味がした。しけりかけたポテトチップスなのに、ちょっとおしゃれな食べ物みたいだ。
「よく料理するの」
「まあね。それが東京出てくるときの約束だったから。将棋で失敗しても、ちゃんと一人で生きていけるように、ってことだったみたい」
「そうなんだ」
 川崎の意外な一面を知った。まあ、ほとんど私生活のことなんて知らなかったのだけれど。
「で、どんなんだった」
「え」
 川崎は、盤から座布団を取り上げた。そして、駒を整列し始める。
「ちょっ……」
「将棋のことは、将棋で解決。それがプロっしょ」
「待って」
「木田?」
 僕は、川崎の手を握っていた。川崎の瞳が、直線的にこちらに向いている。
「プロ……じゃない」
「何言ってんだ」
「私と、川崎たちは別の世界にいる。同じ理屈では語れない」
「将棋で食ってんだろ、同じプロだよ」
「わかれよ!」
 僕は川崎の手を離すと、盤の反対側に座った。歩を五枚取り上げ、絨毯に転がす。と金が五枚だった。
「川崎が先手」
「……わかった」
「絶対、手を抜かないでね」
「……待って」
 川崎は、コップを手に取り一気にワインを飲みほした。
「条件は、一緒だ」
「……うん」
 二人、無言で頭を下げた。川崎の体はフラフラと揺れていた。僕も、おかしくなっているのかもしれない。初手、7六歩。僕は、3四歩。
 涙がこらえられなかった。何故かわからなかったが、手が進むにつれてその理由が理解できた。僕が思いだしているのは、小学生の時のあの日。そう、川崎と将棋を指すのは、あの時以来だったのだ。
「木田……大丈夫か」
「わかんない。わかんない……」
 川崎が、僕の背中をさすってくれた。それでも、次の手を指した。目の前がぐるぐると回っていた。それでも、次の手を指した。
 儀式のように、淡々と指し続けた。何を指しているのかもよくわかっていないけれど、本能がちゃんとした手を選んでいるようだった。川崎も、目がうつろになっている。元々お酒に強くないのかもしれない。
「あ……」
 いつの間にか川崎の王将に、詰めろがかかっていた。何だ、勝ちじゃないか……そう思ったけれど、全く僕が読めない順で、こちらの玉が詰まされた。
「負けました……」
「なんか、詰んじゃったね……」
悔しくもなんともなかった。知っていたことだから。川崎は僕よりうんと強いし、どんな時でも手を抜いたりしない。それでいて、誇らしげにすることも、卑屈さを見せることもない。
涙が止まり、目の前が真っ暗になった。本当に、安心してしまった。もう、何も考えることなんて、ないんだろう。


 目が覚めると、ベッドの上だった。少し頭が痛い。体を起こし部屋の中を見回すが、誰もいない。
 テーブルの上には、水の入ったコップと、サンドウィッチがあった。手にとって見てみる。近くのコンビニで売っているものだ。
 将棋盤には、見覚えのある局面が。夏川との将棋の、投了したところだった。その横には、広告の裏に書かれた棋譜が。中盤以降、一手一手に検討の結果が書き込まれていた。
 トイレにも風呂にも、川崎はいなかった。靴もない。
 部屋に一人きり。こんなにも独りを実感したのは、初めてだった。


 癖になりそうだった。
 日差しが照りつけても、全然不快ではない。秋の沖縄は、何もかもがちょうどいい感じだった。
 また、来てしまった。
 今度は、仕事のスケジュールをきっちりと確認して、一か月前からチケットを取った。宿も、美鶴に聞いた、旅人と会話しやすい安宿を取った。
 空港に着き、まずはバスで北谷に向かった。那覇を抜け、海沿いの道を走る。
 バスを降りると、左手にはショッピングセンターと大きな観覧車、右手には基地が見えた。
 ホームページに載っていた地図のコピーを頼りに、宿を探す。左手に基地を眺めながら、海から離れて進む。屋根の低い沖縄の住宅と、芝生にぽつんと立った基地内の住宅の違いがとても印象的だ。
 二階建てのほぼ民家、そこが今日の宿だった。
「こんにちは」
「あ、こんちは」
 中に入ると、カウンターにキャミソールを着た女の子が座っていた。右手にはうちわ、左手には缶ビール。
「あの、予約してたものです」
「ん、はいはい。えっと、女性一人は……木田さん?」
「はい」
「じゃ、説明とかするから。あ、お金は前払いだから。一泊だから……2000円ね」
 素泊まりでこの値段は、沖縄の安い宿では当たり前らしい。
「まず、こっち来てくださーい」
 宿の中を色々と案内される。後ろを着いていくが、短パンから赤い下着がはみ出て見えているのが気になった。
 風呂場やトイレを案内された後、共同スペースに。そこでは何人かの若者がくつろいでいた。
「飲食はここでね。あ、こちら今日から泊まる木田さん」
「こんちはー」
「こんにちは」
 みんな僕と同じぐらいの若さに見える。マンガを読んだりゲームをしたり、旅人とは思えないリラックス具合である。
 そのあと、今日のベッドに案内された。二段ベッドが二つ並んだ奥の下、それが僕のスペースだった。
「ここ女部屋だけど、男入ってきたら叫んでね。私かオーナーが飛んできてぶち殴るから」
「はあ」
「じゃあ、なんか質問あったら聞きに来てくださいね」
 むしろ女性と同じ部屋で寝る方が緊張するのだが、そんなことを言っても仕方がない。僕は荷物を足下に置き、とりあえず寝転がった。
 前に来た時よりも、風通しが良かった。部屋も、心も。もやもやとしたものは抱えたままだけれど、沖縄を楽しめそうな気がした。


 原付を借りて、思いつくままに走った。何となくだけれど、ガイドブックに載っていないようなものを感じたかった。
 砂浜で泳ぐ人たちが見える。バーベキューを楽しむ人たちも。アメリカっぽいお店が並んでいて、現地の人、観光客、軍の人、いろんな人が行き交っている。
 空気が僕の中に入ってきて、色々なものをくっつけて出ていく気がした。まあ、気がするだけだ。本当は何も解決していない。
 あの日以来、将棋と向き合えなくなった。研究もしないし、棋譜も並べない。対局も他の仕事も漠然とこなしてきた。引っ越したのに、会館にも行かなかった。人ともほとんど会わなかった。
 自分のことが嫌いになる。
 何かをしなければ、僕は何もかも失ってしまう、と思った。
 女ならば。あのまますがりつけばよかったのかもしれない。
 太陽が海へと落ちていく。
 このまま走り続けたかった。何日かすれば、またここに戻ってくるのではないか。でも、そんなことはできない。
 僕は感情を無にして、宿へと戻る。


 色々なところを回って、那覇に戻ってきた。
 いろんな人に会い、語り、突然予定にないところに出かけ、泳いだり、走り回ったり。独り旅のだいご味を味わった。
 それでも、僕は結局、同じところをぐるぐると回っていた。布団の中で瞼を閉じると、将棋のことを思い出した。
 弱いけど、好きなんだ。どうしようもない。
 国際通りをぶらぶらする。ごった煮になってはいるけれど、実は一番沖縄で薄味。お土産は他のところで買ったし、人込みは相変わらず苦手だ。
 気づくと僕は、島崎さんの店の前にいた。暖簾は下りている。
「こんにちは」
「いらっしゃいませー。ん?」
 中には、島崎さんしかいなかった。
「さくらちゃん?」
「はい。お久しぶりです」
 島崎さんは、僕が座る前にカウンターに泡盛を注いだコップを置いた。
「一杯目はサービスね」
「一杯で帰るかもしんないですよ」
「そん時はお通し代千円ね」
「あ、お通しいらないです」
 腰をかけると、肩から空気が抜けていくような感覚に襲われた。色々な場所を回ってきた結果、ここが一番落ち着くという不思議。
「なんか、変わったね。最初気付かなかったよ」
「髪切ったんですよ」
「それだけじゃなくてさ。大人っぽくなったっていうか。恋した?」
「惜しい。失恋」
「おっと、傷心旅行ですか」
 僕は、島崎さんと他愛のない話を続けた。普段どんな生活をしているのか、将棋のプロってどんなものかも話した。島崎さんの恋の話、親の話、特技の話を聞いた。
「沖縄来るとさ、なんかみんな三線したくなるんだよね。でもおんなじことやるの嫌だから、俺は太鼓やろうって。あの、エイサーで叩いてるやつ。でさ、じゃあやってみるかって言った人が持ってきたのがウフデークーっていう一番でかいので。二時間でやめたよ」
「そのあと楽器は何もしなかったんですか」
「うん。俺には向いてないなって。俺は、沖縄の酒に惚れたから、酒のこと極めよっかなって」
「それも楽しそうですよね」
 島崎さんが楽しそうなのは、誰とも競っていないからだ、と思った。自分のやりたいことを、やりたいだけやる。辞めたくなったら、すぐに辞める。仕事は、生きていくのに必要なだけやる。
 僕の生き方は、全く違う。
 思うことがある。僕より強い人がみんな死んだら、僕は強くなる必要があるだろうか。僕は強くなりたいのではなく、負けたくないだけではないか。
 純粋に将棋を楽しんだのは、あの日までだった気がする。あの日以来僕は、彼の幻影を追い続けている。
「あっついぞー」
 入り口から元気な声が。
「おう、いいところに来た」
「え、いいところ?」
「久しぶり」
「……さくら?」
 Tシャツに短パン、首にはタオルをかけている。まるで、我が家に帰ってきたかのような様子だ。
「また来ちゃった」
「どーしたの、髪切っちゃって。失恋?」
「みたいなものかな」
 美鶴は、僕の横に腰かけた。
「すっごーい。美鶴も沖縄に居ついちゃう?」
「うーん、連盟から交通費出ればいいけど」
 僕は、バックから細長い箱を取りだした。それを、美鶴の前に置く。
「なになに」
「会えたら、渡そうと思って」
「これ……あけていいの?」
「うん」
 蓋を取って、美鶴は中身を取り出す。そして、棒状になっていたそれを広げた。まっ白いキャンバスに、黒い文字。
「これ……」
「私の扇子が出たんだ」
「美鶴の?」
「そう」
「……在心……って書いてあるの?」
「うん。なんか書けって言われてね、私の場合無心にはなれなくて、心在る状態で必死に戦おうって意味から。かっこいい言葉がよかったんだけど、思いつかなかったし」
「なんかいいと思う。それに、こうやって見ると木田桜っていい形の名前だよね。いいもんもらっちゃった、ありがとう」
「ううん、そんなものしかないけど。私こそ、ペンダントありがとう」
「いやいや、あんなものでよければいくつでも」
 美鶴は、本当にうれしそうな顔をしてくれた。自分の作ったものを褒められるのは、誰だってうれしいものだ。僕も、あの二枚飛車を褒められると、自然と頬が緩んでしまう。
 そして、彼女は気付いているだろうか。この髪も服装も、ペンダントに合わせて選んだということを。
「本当にさ、プロになるって大変だよね。私よりうまい人なんていっくらでもいるんだから、びっくり。でもまあ、ただであげるにしてはいい出来かなって」
「ほんとに、これ気にいってるよ。それにね、プロって、維持するのが本当大変。アマだったら明日の対局さぼれるのになあ、って思うこともある」
「そうなんだ」
 昔は出たいときだけ大会に出て、行きたいときだけ道場に行けばよかった。今僕はタイトルを取って臨時収入が確定しているし、もう少し夏休みを取ったってお金がなくなることはない。でも、タイトルを取れば対局も他の仕事も増えるのだ。明後日には対局がある。プロとして、指さない選択肢はない。
「美鶴も、いつかなんかのプロになったらわかるよ。なんかおばさんの小言みたいになっちゃった」
「ははっ、お小言ありがたく頂戴しときます」
 夜は長く、僕はその甘さに溶けていった。それでも、強く心に誓った。もう、ここに逃げない。この心地よさは、僕にプロであることの意味を忘れさせる。
 深夜、宿に戻った。旅人たちはまだ起きている。僕はしばし、最後の余韻を分けてもらった。


 驚くほど、気持ちは落ち着いていた。
 純白のドレスに身を包んだ要さんは、いつもより魅力がないように見えた。花嫁という枠に収められたら、個性は輝かないのかもしれない。
 そして。要さんが時折見せる、泳ぐような目つき。僕は、その理由を知っている。そして、その原因も察しが付いてしまった。祝福する人々の中で、一人だけ明らかに異なる顔をしている男がいた。緩んだ口元と射るような目つきで、新郎には目もくれず新婦だけを注視し続けている。
 見たくなかった。中沢九段のそんな姿を、一生見たくはなかった。
 凛として美しい対局姿。柔らかい物腰。そして何より力強くかっこいい指し手。将棋界にとって、これほどの柱はない、という人だった。定家四冠が強さの象徴であるとすれば、中沢九段は正しさの象徴なのだ。
 それが。要さんにとっての「先生」だったなんて。思いすごしであってほしい。
 けれども、残念ながら「女の勘」は鋭いのだ。僕の体は、確信している。
 披露宴が終わり、二次会会場までの移動のとき。どうしても、前を歩く中沢九段のことを目で追ってしまう。要さんのあの時の言葉からして、二人はまだ関係を持っているのだろう。
 中沢九段は師匠の弟弟子で、僕や要さんにとっては叔父のような存在だ。面倒はよく見てもらったし、将棋を教えてくれたこともある。けれども僕には、とても冷たい人に見えていた。ほとんどしゃべらないし、将棋以外のことは全くしなかった。テレビもラジオも、雑誌さえ全く見ない人だった。
 独身のはずなので、要さんとの関係が特に不適切というわけでもないのかもしれない。だが、二人が恋人同士という姿は思い浮かばない。あの時、要さんは「先生」と呼んでいた。それが全てのような気がする。
 僕の予測にすぎないし、事実だったとして首を突っ込むような問題ではない。けれども。僕の中で恐怖の感情が湧きあがってくるのだ。僕も、そのような対象として見られていたのだろうか、と。
 狭い世界だ。僕だって、誰かの標的になったことはある。その度に、悲しくなるのだ。勝負の世界で、それ以外のものを求めてどうするのだ、と。そして反省する。僕は要さんに対して、何を求めていたのだろう、と。
 この世界以外のことは知らない。だから、この世界が他と比べてどうなのかもわからない。それでも、なんとなく、不思議な世界なんだと実感する。
 地下鉄を乗り継ぎ、また少し歩く。二次会の会場は、地下のおしゃれなバーだった。こういうところは少し居心地が悪いうえに、目の前には知らない人が。そもそも新郎が将棋関係者でないので、会場の半分は別世界の人間なのだ。
「木田さん……ですよね」
 向かいに座った男性が声をかけてきた。長くウェーブした茶髪、きらきら輝くブレスレット。まあまあの顔立ちだが、自己メンテナンス方法が僕らとは少し違う世界のお方のようだった。
「はい」
「見ましたよ、ニュース。タイトル初挑戦で初獲得、すごいっすねえ」
「ありがとうございます」
 注文していたジントニックが届いた。男は乾杯しようとするそぶりを見せたが、僕は気付かないふりですぐに口を付けた。
「あれ、お酒飲めるの」
「好きですよ」
「いや、もっと若いのかと思って」
「まだまだ幼いんですよ」
 司会が何やら話しているが、ざわついていてよく聞こえない。ゲームが何やらかんやらということらしいが、興味がない。何となく会場を見渡し、かわいい女の子を探す。二次会は出会いの場だと言うけれど、今の僕には眺めるだけで精いっぱいだ。
 結婚式というものは、新郎新婦は大忙しで、二次会でもテーブルを練り歩き挨拶をして回っている。僕らのところにも来たが、新郎の落ち着いた表情に比べ、新婦のいかにも幸せですという顔が痛々しかった。要さんはいつでも頑張りすぎる。そこに付け込まれるということも、あるはずだ。
 面倒くさい。色々と。
 トイレに立ったついでに、席を移った。普段はあまり仲良くしているわけではないけれど、それでも女流棋士の輪に入ると落ち着いた。僕は、この世界の中で何とかやっていく方法は、身に着けていたようだ。
 二次会が終わり、もうこれで役目は終わりだ、と思った。早くこの息苦しい正装から解かれたい、というのが僕の気持ちだった。
「木田さん、この後予定どうなの」
 けれども、すんなりと日常に帰ることはできなかった。先ほどの茶髪が、話しかけてきた。
「予定は……」
「ああ、木田君。一門で集まる話だっただろ」
「中沢先生……」
 いつの間にか隣にいた中沢九段が、僕と男の間に割って入っていた。男は何か言いたそうだったが、中沢九段の貫禄の前に引き下がった。何事もなかったかのような顔を作って、去っていく。
「ああいうのと付き合ってちゃいかんよ」
「いや、私は別に……」
「君は一流の実績を作ったんだ。一流の振る舞いを見せて生きていかなけりゃならない」
「……はい」
 その姿は、棋士の鑑だった。やはり凛としていて、ブレが感じられない。そう、これが僕の見ていたいつもの姿だ。
「先生」
「何だね」
「先生は、結婚しないんですか」
 僕は、確かめたかった。中沢九段の、尊敬される棋士の実態を。
「ははは。まあ、僕は家庭を持てない人間でね。浮気性な女が好きなんだ」
「それは意外です」
「ははは。もちろん、そんな風には見せていないから。僕も一流と呼ばれていた時があるから」
「今でも大活躍なさってるじゃないですか」
「いや、僕は五段に負けるような男ではなかったんだよ」
 胸に突き刺さってくる言葉だった。本当は、この人はプライドの固まりに違いない。そして、それは女性と幸せな家庭を持つのに邪魔になるだろう。
 要さんとの関係とか、そんなものはどうでもよくなった。この偉大な棋士に、将棋以外のことを求めても仕方がない、とすら思えてくる。
「でも、五段の頃の先生はすごい強かったでしょう」
「そうだね。あの頃は勢いがあった。川崎君もこの先活躍してくれれば、僕も救われるわけだ」
 色々とむなしくなった。何人かに三次会を誘われたが、全て断った。何となくだが、海に向かおうと思った。


 東京湾は、まっすぐで狭い。
 沖縄の海を見てきたからだろうか。同じ海だというのに、全く違うものに感じる。
 それでも、嫌いではなかった。
 山の中で長い間過ごしたので、海というだけで最初ははしゃいでいた。押し寄せては引いて、それを繰り返す波。流れ去り下っていく川とは全く違う水の様相に、僕はひどく感動したものだ。
 防波堤に何度もぶつかり、それでも決して動きをやめない。意味や目的などではなく、意地を張っているかのようだ。
 結婚式の後はむなしい。自分は絶対できないだろうし、むなしい。
 ポケットの中で、携帯が震えた。メールが来ていた。
 川崎からだった。
 タイトルはなかったし、本文も短かった。

「今度はそっちが先手ね。じゃ、一手目どうぞ」
 
 唐突過ぎて、吹き出してしまった。僕にとって大事だと思っていた彼との再戦が、一回目は泥酔状態、二回目がメールだなんて。
 僕は、深呼吸してから、その場に正座した。携帯電話を地面に置き、「お願いします」と一礼してから、ボタンを押す。

「初手私 7六歩」

 膝がゴリゴリとして痛かったので、正座はすぐに崩した。風が耳の後ろを通り抜け、髪を崩していった。
 五分後、返信が来た。

「二手目俺 3四歩」

 気が付くと僕は、声を出して笑っていた。こんなこと、もっと早くできたじゃないか。川崎は、何故今、こんなことを始めたのだろう。
 それでも、僕は楽しいから、川崎は正しかったのだろう。
 何の指定もないから、次の手はすぐに返さないでおこうと思った。このゲームみたいな対局を、必死に考え抜いて戦おう、僕はそう誓ったのである。


 それは、突然過ぎた。
 夏になると、いくつも将棋祭りが開催される。若手女流棋士はどこの会場でも重宝される。特に今年はタイトルを獲ったということもあり、僕の出番も多かった。
 将棋祭りの楽しみの一つは、普段実現することのない対局が席上対局で実現するというところにもある。たくさんのお客さんの前で指し、解説の声も聞こえるということで、自然と対局も魅せることを意識した内容になる。
 僕も関西の先生との対局で、勝敗は気にせず楽しく指しているところだった。お客さんの様子も見ながら、盛り上がりそうな手を選ぶのも大事だ、と先輩には言われた。だから、時折会場を見回していた。子供も結構いるが、やはりおじさんが多い。
 いつもの光景だ。そう思っていた。しかし、ある一人のおじさんの姿を見て、そこから視線を動かせなくなってしまった。青いジャンパーに身を包んだ、白髪の目立つ、五十過ぎの男性。僕の知っている姿からはかなり歳を取っていたが、間違いなくそれは父の姿だった。
 十年ぶりの再会が、こんな形になるなんて。僕は動揺を隠し、何とか対局の方に集中しようとした。対局はできているが、どこかふわふわしてしまった。
 対局は、僕の負けだった。けれども、そんなことはどうでもよくなっていた。再び会場を見回した時には、父の姿は見つからなかった。
 将棋に全く興味のない父がここに来た理由なんて、たった一つしか思い浮かばない。おそらく、僕がプロになったことすら最近まで知らなかったのだろう。そしてニュースか何かで見て、娘の現状を知ったに違いない。そして僕がまだ「木田」を名乗っていることも。
 追いかけて行くほどの未練は何もない。泣くほどの感動もない。それでも僕の心は、平静ではいられなかった。
 僕の半分は、あの人でできている。
 見なければ、どうだっていい存在のままだったのだ。それが、僕を気にかけているなんて思ったら……
 人生には波がありすぎる。ああ、もう……


 意地で、盤上には並べなかった。メールの履歴だけが、勝負の舞台だと思った。
 中盤を過ぎ、局面は複雑を極めている。相手は一直線の勝ちを目指してくるだろう。だからと言って受けだけの手を指してはいけない。より複雑に、予測のできない局面に引きずり込む。うんざりするような、そんな状況に。僕は、それが好きなのだ。
 一筋の光が頬を打ち、はっとしてカーテンを開けた。朝になっている……。どうやら僕は一晩かけて、次の一手を考えていたのだ。
 ベランダに出て、外を見る。太陽はまだ出たばかりで、ふらふらとしているようにも見えた。ジョギングをしている人や、ゴミを出している人、もう出勤をする人。こんなに早朝だというのに、案外人びとは活動的だ。
 最近、部屋にものが増えた。誰か来るかもしれないと思うと、見た目が気になってきたのだ。テレビを買った。コンポも買ってみた。積みあがっていた雑誌をラックに入れてみた。
  そういえば、僕は自分の部屋をどうにかしたことがなかった。子供部屋にはいつも、樹の好きなものが置いてあった。僕は何かをねだることがなかったし、お小 遣いもほとんど貯めていた。唯一、将棋にだけはお金を使った。こっそりと買った盤と駒、棋書。そして道場代。後から知ったことだが、小学生は百円、という のは師匠の嘘だった。
 自分のしたいようにする、というのがこんなに難しいことだとは知らなかった。そして、こんなに楽しいことだとも。

「六十三手目 4八銀打ち  おはよう」




「どうだっ」
「何それ」
 いつも通り急にやってきた樹は、靴を脱ぐなり鞄からTシャツを取りだした。白地に黒く細い線がごにゃごにゃと書きこまれている。森のような湖のような、よくわからない絵だ。
「俺のデザインが採用されたんだよ。全国で発売!」
「何円」
「2880円」
「買わない」
「いや、売りに来たんじゃなくて」
「自慢しに来たの」
「当たり」
 相変わらず家にはあまり帰っていないようだが、樹も彼なりに将来を見据えて生きているようだった。僕の家に来ても食糧を持ちかえるようなこともなくなった。
「それにしても、変わったね」
「部屋?」
「うーん、それも含めて」
「まあ、お金もあるしねー」
「うわー、やな女」
 その時、メールが鳴った。これはおそらく、着手の着信音だ。
「あっ」
「なに、デート誘われたのか」
「もっと嬉しいこと」
 そこには、僕が最も待ち望んでいたことが書かれていた。樹がいなければ、叫んでいたかもしれない。

「投了 負けました」

 心地よかった。もちろんただの練習将棋にすぎない。対局の多い川崎の方が時間的な不利もあっただろう。それでも一局の将棋に勝ったこと、あの川崎に勝ったことがとても嬉しかった。
「なんか食べにいこっか」
「おごってくれるの」
「任せなさい」
 肩がとても軽くなった。返信文を送る。

「ありがとうございました。 ありがとう」

 実感。


 驚くほど負けなかった。
 そんなに頻繁に対局があるわけでもないので、自分でも気付いていなかった。しかし、僕は勝ち続けていた。今日勝てば、二回目のタイトル挑戦。もしタイトルを取れば、二冠と二冠、本当の意味で女流のトップになれる。
 対局の朝だというのに、全く緊張しなかった。自信があるというわけではないが、勝負の結果については全く興味がなかった。多分、僕はこの先何度かこういう大事な対局を迎える。これは、そのうちの一つにすぎない。
 相手は外野女流三段。タイトル経験もある、中堅の先生だ。かつて対局したときは、終盤にひっくり返されて負けた。何があっても顔色を変えず、淡々とミスを待つタイプの将棋。若手は、その余裕に惑わされる。
 人が多いのが気になった。長年女流棋界では、同じ世代がタイトルの多数派を占めていた。もし僕がこのタイトルを取ることになれば、久しぶりに世代交代が起こるきっかけにもなるだろう。外から見れば、それは非常に興味のあることのようだ。
 僕は、自分が一番になりたいだけだ。相手の世代なんて、気にならない。
 僕が入室すると、まだ外野三段は来ていなかった。少し迷ったが、上座に腰を下ろした。温かいお茶の入った水筒を二本、鞄から取り出した。
 数分後、外野三段が部屋に入ってきた。びっくりした。和服だった。
 紫地に、薄い桃色の花が描かれた、とても美しいものだった。同じ部屋にいた先生たちも見とれている。
 僕は、黒と白のチェニックブラウスに水色のロングスカート、とても地味だった。
 外野三段はちらりと僕の座っている座布団を見てから、一礼して下座に腰かけた。僕に対しては一切視線を向けなかった。赤い唇、白い肌、長い睫毛、全てが美しかった。
 僕は、少しずつ事の重大さを飲み込み始めた。外野三段にとって、チャンスは何度もないのだ。そして、倒さなければならない相手は、今まで彼女を負かしてきた相手ではない。
 今からすぐに、気合が入るものでもない。僕は、将棋に勝つことを考えるしかない。
 歩が四枚出て、先手になった。急がないように、焦らないように。僕は、自陣の駒を一つ一つ眺めた。
 王将が、小さく見えた。
 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。傘を持ってきていない。
 湿気の多い日は、駒が重たい。7七にある歩を何度かつついた。そして軽く持ち上げ、1マス前に進める。駒が盤に吸い込まれていくようだった。
 奥歯が痛んだ。どうにも、乗れない。


 昼食を食べ終わった後、鏡を見つめていた。
 特に華がある顔ではない。勝負師のにおいはしない。
 対局をなめ過ぎていた。簡単に勝てる将棋を、簡単に勝ちすぎた。内容はまだ互角だが、完全に僕は呑まれていた。
 鏡の中に、背広が映った。振り返ると、定家五冠(最近新たにタイトルを獲得した)がいた。
「木田君。その顔では勝てないね」
「え……」
「君の頂は、終わってしまったのかな。到達者の顔をしているよ。私もまだ到達していないのに」
「……」
「君の将棋には、粗削りだが先に進もうという姿勢が感じられる。でも、今日の将棋はどうだろう。下界を眺めてまどろんでいるようだ」
「……」
「つまらない将棋に価値はない。それは男も女も、棋力も関係ない。プロならば、自分の枠にとらわれないことをお勧めするよ」
 それだけ言うと、定家五冠は控室を出て行った。
 奥歯が痛いわけが分かった。唇は緩んでいるのに、奥歯は噛み締めていたのだ。いつもとは全く違う意味で、心と体が一致していなかった。そして、超一流は下っ端のそんな状態など一目で見抜いてしまえるということを知った。
 それでも、心の奥歯は噛み締められなかった。


 覚悟をした。この将棋は、次の一手で決まる。
 夕方、少し日差しが戻っていた。駒も軽くなっている。
 僕の細かい攻めがぎりぎりつながり、相手玉に受けがなくなってきた、かに見えた。しかし、歩切れの僕は大駒での王手に対して逃げるしかない。合い駒をすれば受けられるが、それでは攻めが完全になくなってしまう。逃げて逃げた先に、王手と金取りがかかる。取られるのは歩一枚だが、こちらにとっては大事な攻めの拠点だ。と金を取られて投了なんて、それは惨め過ぎる。
 だから、角で王手されたら投了するしかない、そう思っていた。もう駄目だ、そう思っていた。
 けれども、次の一手はなかなか指されなかった。外野三段の左のこめかみから、汗が流れている。眼は血走り、口は空いたままだった。そして、右手が桂馬をつまんだ。桂馬のただ捨てから詰みそうな筋があるのだが、途中もらった桂馬を合い駒して詰まない順があることはすでに読んでいた。桂馬で詰めろをかけても、王手王手で上部を開拓していけば詰めろは解ける。
 相手も焦っている。確かに、完璧に指し続けられるならば、もっとタイトル戦に出られるはずなのだ。
 もう僕は、待つしかない。多分、どの手を指されてもこちらが間違えるということはないだろう。
 その時、偶然外野三段と目があった。しまった、と思ったが遅い。おそらく僕の顔色から、自分が負ける筋があるのを感じ取ってしまったのだろう。外野三段は、桂馬から指を離した。
 到達者のまどろみ。確かに、そうだ。
 駒台の角が、摘みあげられた。僕はお茶を口に含み、唇をなめた。
 角が、遠く王将をにらむ。
「負けました」
 その瞬間、視界が開けるのが分かった。下山を覚悟したときに、初めてもっと高い山のことを考えることができるのだろう。


 単純なことをしてみようと思った。
 朝六時に起きて、コーヒーを飲んだ。そして体操をして、少し休む。詰め将棋を十問解いたらトーストを焼き、朝食。十時からは自転車で一時間ほど外出。買い物をしたり、公園に行ったり。
 帰ってきて、ネット対局を二局指す。負けても二局で終える。
 昼食の後は読書。今は樹からもらった小説を読んでいる。樹は絵だけでなく芸術全般に興味があるようで、持っている本の数も桁外れだ。もちろん二桁の僕に比べて、だが。
 文字ばかりの本は疲れるが、将棋から頭を切り離す時間も必要だった。将棋のことを考えていると、それだけで強くなっていく錯覚に陥る。頭自体を鍛える時間を作りたかった。
 夕方は、気が向けば将棋会館に向かう。そうでないときは、研究をする。時折昔の先生の全集を引っ張り出して、盤に並べる。その時見える絵を、頭の中に焼き付ける。
 高く険しい山に、近道などない。そんなことは、わかっているつもりだった。それでも意識してみると、僕にはまだまだできることがあった。
 定家五冠は、僕の中に何を見たのだろうか。女流としての可能性か、それ以上のものか。それともただ、からかっただけなのだろうか。
 夜、十時には布団に入る。そして、将棋には関係のない夢を見るのだ。


 師匠が入院した。
 最近は体調を崩すことが多く、しばらく様子を見るための入院だ、と奥さんは説明してくれた。本当かどうかは分からない。
 病室のベッドに寝る師匠の姿は、本当に普通の老人だった。勝負師は勝負をやめると、一般人に戻れるのだろうか。
「なんかいるものありますか」
「酒もたばこも止められとるからなー」
「人生の前半で飲み過ぎたんですよ」
「ははは。後半の分も取っとくんやったね」
 声は少し細くなっているが、それほど弱っているわけではなかった。
「お久しぶりです」
 聞き覚えのある声だった。振り返ると、そこには小ぶりなスイカを持った中沢九段がいた。
「おお、中沢君」
「思っていたよりお元気そうですね」
「なんだ、死にそうだとでも思ったのか」
 この二人は、いつも平坦に語り合う。長い長い戦友なのだ。
「木田さんも大活躍ですしね。師匠としては嬉しいでしょう」
「ははは。この子はもっとできるよ」
「そうですね」
 十分ほどして、中沢九段は「では、そろそろ」と言って部屋を出た。僕も「じゃあ私も」と言って、そのあとに続いた。
「そういえばこの間」
 少し後ろを歩く僕に、中沢九段は振り向いた。
「はい」
「結婚のことを聞いたけれど、君はどうなんだい」
「私ですか。私は相手がいないから」
「そうなんだ。でも、言い寄ってくる男はいるだろう」
「いないですよ。ネクラなんです、私」
「そんなことはないだろう」
「好きな人はいましたけど」
 何故そんなことを言ったのか分からない。いや、原因は分かっているのだが。
「ほほう」
「その人、結婚しちゃいました。しかも、他にも相手がいたみたいで」
「ふうん。それは大した男だ。しかし君も浮気性な人が好きなのかもしれないね」
 そりゃあ、同じ人が相手なんだもの、とは言わなかった。中沢九段と自分の似通っているところを感じて、少しむなしくなっていた。
「でもいいんです。恋して将棋が強くなるわけじゃないですから」
「なるほど。そういう考え方もあるか」
 それきり、中沢九段は黙り込んでしまった。恋について、真剣に悩んでいるのかもしれない。
 病院を出て、中沢九段はタクシーに乗った。僕は、地下鉄だ。
 去り際、彼はこう言った。
「でもね……恋はしたいよ」
 ニヒルなような、恰好悪いような。走り去るタクシーを見ながら、自分には母性本能がないことを確認した。


「これはいかん……」
 普段ふざけてばかりの先生が、モニターを見て呟いた。僕らも言葉を失った。こんなことが……
 挑戦者リーグ戦最終戦。この対局に勝てば、川崎は紅組一位で挑戦者決定戦に進出という大事な一局だった。
 序盤から積極的な動きを見せた川崎は、見事な指し回しで優位を拡大していった。あとは仕上げるだけ、誰もがそう思いあまり検討していなかった。
 しかし、突然局面は乱れ出した。飛車取りを放置して寄せに行ったが、なかなか詰めろがかからない。取られた飛車が攻防に利く位置に打ちおろされ、川崎の方が受けに回る展開になってしまった。しかし相手も時間に追われ、自陣に手を戻したりと流れが落ち着かない。時間は零時を回り、泥仕合の様相を呈してきた。
「こりゃ、わけがわかんないな」
「川崎君、焦ってるね」
 もう、最善手がどうこう言う人間はいない。こうなると、大悪手を指さない方が勝つのだ。
 終電の時間は過ぎている。控室に残った人間は対局と心中する覚悟だ。
 画面の中で、川崎の手が震えていた。指し手もなかなか伸びてこない。何を恐れているのかと思ったが、だんだんと僕にもわかってきた。
 川崎は、頂点へと伸ばした手を、完膚なきまで叩き落とされた。タイトルに一度だけ挑めた者になるのか、常連になるのか。その差は果てしなく大きい。今川崎は、多くの若手が蹴落とされてきた関門へと挑んでいるのだ。一度表舞台に立った以上、善戦では意味がない。
 端の方でごちゃごちゃした戦いが続く。とりあえずどんな駒でもいいから打ち合っている感じだ。一分将棋に突入し、継ぎ盤の検討も追いつかなくなってきた。いつの間にか皆正座してモニターを見つめていた。
 次第に、川崎に勝ちがないことが分かってきた。手持ちが桂二枚、玉頭の戦いには向かない駒だ。両取りの筋も見つからない。
 一時過ぎ、ついに川崎の玉に受けがなくなった。
 川崎は負けた。順位の差でリーグ二位。挑戦者決定戦には出られない。
 二時前。感想戦が終わった。
 勝者も敗者も疲労困憊といった様子だったが、川崎は意識的に笑おうとしていた。それが、余計に悲壮感を感じさせた。
「木田……こんな時間までいたのか」
「川崎のせいだよ」
 将棋会館を出て、二人並んで歩いた。電車はもう、とっくにない。
「あれ勝てなきゃ、しょうがないよなあ」
「川崎」
「ん?」
「お腹すいてない?」
「ああ、そういえば」
「おごるよ。この前のお礼」
「あ……ああ」
 僕は、川崎を連れて夜もやっているファーストフード店に入った。若者やサラリーマンなど、深夜だが案外お客さんがいる。
「好きなの頼んで」
「一年ぶりぐらいに来たよ」
 二人ともセットを買い、二階へと上がった。奥の二人がけのテーブルに、向かい合って座る。
「なんか変な感じだね。飲みに誘われることはあるけど」
「二人とも、あんまりお酒飲むのは上手じゃないみたいだし」
「俺は……まあ、そうかな」
 それからしばらく、二人は黙々とバーガーやポテトを食べた。将棋を指していた人はもちろん、見ていた方も案外エネルギーは使っているのだ。
「悔しかったよ」
 川崎は、コーラを口に含んだ後、そんな言葉を吐きだした。
「さっきの?」
「いや、木田との将棋」
「え、あれが?」
「途中までこっちが良かったと思うんだ。時間もあったし、勝ちたかった」
 僕は、思わず吹き出してしまった。あんな大事な勝負に負けた後に、この人は何を言っているのだろう。
「いつでもリベンジの機会は受け付けているんだよ、君」
「……今はやめとく」
「ほほう、私を恐れてるわけね」
「……木田」
「何」
「……やっぱ、今はやめとく」
 僕も、アイスコーヒーを口に含んだ。
 こういう時間を、今まで過ごしたことがなかった。そして、川崎とこんな時間を過ごせるようになるなんて、想像したことがなかった。
「私ね、ずっと悔しかった」
「何が」
「奨励会」
「……そうだね」
「でも、今から思うとやっぱり力が足りなかった。そんな私にもチャンスがあったのは幸せだったのかも、って思う」
「うん、木田は強くなってるよ。きっと、まだまだ勝っていく」
「いつか、挑戦するから」
「ああ」
 あの日から変わらない想いを、純粋に持ち続けていく自信を持てそうだった。どれだけ川崎が高く昇って行こうと、僕も同じ頂を目指していけばいい。そして川崎も、どこかで腰かけ休んでいる。いつか追いついたら、二人で登っていく事もできるだろう。
「……楽しそうだな、それ」
「え」
「俺と木田のタイトル戦とか。まあ、木田の方がタイトル戦は慣れてるのか」
「もっと慣れるよ。女流は、全部獲る」
「いい顔だな。うん、俺も全部獲ろうかな」
 二人で、大きな欠伸をした。とても幸せな、ビバークだった。

 外野三段が完膚なきまでに負ける姿を確認して、少し嬉しくなった。意地が悪いのかもしれない。しかし、峰塚三冠に諮ってほしいのだ。たまたま衰えてきたときに僕がタイトルを獲ったと思われるのは、嫌だ。
 ブラウザのタブを閉じて、しばらくボーっとした。このままずっと、こんな感じなのか、などと考える。全てが中途半端で、心地よかったり、苦しかったり。
 タイトルを獲って、僕は次の目標を見つけなければならないのだ。出来るだけ、実現可能なものを。残りのタイトルを全て獲るとか、男性棋士から一勝を上げるとか。きっと、頑張れば何とかなる範囲のこと。けれどもその次はどうすれば、と思ってしまう。川崎は、本気ではないだろうが、二人でタイトル戦を、と言ってくれた。定家さんも、まだ先に進めると言ってくれた。私は一人で戦っているのではなく、将棋界の中で期待されてもいるのだ。
 けれど。僕が目指していたのは、そんなことだっただろうか。沖縄に行ったとき感じた、一瞬透明になる感覚。あれは、僕自身が偽り続けてきた想いを、剥ぎ取られた瞬間だったように思える。
 子供の時の方が純粋なのは、痛みを受け入れられるからだ。負けても負けても這い上がろうとする時の痛みを、耐えられるからだ。けれども大人になって、多くのことに気付いてしまう。痛みに耐えられず、まどろみを選んでしまう。
 ビバーク。立ち止まり過ぎると、そこから抜け出せなくなってしまう。誰かが負けるのを見て喜んでいても、僕だけのこの問題は解決なんてしない。
 化粧台の前に座り、じっと自分の顔を見つめた。何年も、共に過ごしてきた。女性であることの全てが嫌だから、どこがどうだっらとか、思ったことがなかった。もう少し顎が細かったらとか、もう少し瞳が大きかったらとか、もう少し眉毛が細かったらとか。むしろ整った部分さえ傷つけるように、僕は汚い女を塗りつけようとしていたかもしれない。けれども、今冷静になって向き合ってると、それは何と言うあさはかなことだったろう、と思うのだ。僕は向き合いたくなかっただけだ。男とか女とかではなく、その顔を他人と思いたかっただけだ。
「初めて出会った」
 無意識に呟いていた。口は笑っているが、両目から涙が流れていた。鏡の中のその表情に驚いて、僕は自分の顔を撫でた。鏡の中の顔も、細くて白い手に触れられていた。
 狭い狭い意識の中で、いつももがいていた。この心と、この体のこと。けれどもそれは、その二つが対立しているとの思い込みだったのかもしれない。樹の言葉を思い出す。体は体で欲しているもの。それは決して、女になりたいとか、そんなことだけじゃなかったはずだ。
 将棋を強くなりたい自分と、男になりたい自分。それを重ね合わせたり、混ぜ合わせたり。けれども結局、将棋では中途半端だし、男にもなれない。だから、女である自分と、女流棋士である自分の中でまどろみ続けている。
 この苦しみは、今の自分が居場所を得てしまっている苦しみだ。このどっちつかずの状況でも、僕は何とか生きていける。もがいてもがいてたどり着いた場所なのに、それとは関係のないところで、僕の心を支えているものがある。
 この感情には、名前を付けることができないだろう。名前を付けてはいけないのだ。
 上着のボタンを外した。肩が空気に触れる。小さくて、弱々しい骨格。ブラのホックも外す。露わになる、曲線。これを直線にする夢を何度も見たけれど、本当にそうしようと思ったことはなかった。僕は一度でも、無理矢理に変えてしまおうとしたことはなかったのだ。
 綺麗だった。僕の体は、綺麗だった。
 それは、誰のものだろう。僕はずっと、いらないと思っていた。けれどもこれがなければ、僕は将棋を続けられなかったのだ。
 隠れ蓑にしながら、嫌っていた。
 両手で、胸を包み込んだ。温かさを感じているのは僕で、与えているのは僕だ。
 唇を右手の指でなぞった。左手で乳房を撫でた。心に近い部分まで、僕の体は僕を感じることができた。この手が僕以外だとしたら、どのようになるだろうか。
 灯りを消した。僕だけでなく、世界から目を逸らしたかった。



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