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「え、引っ越すの?」
 相変わらず家出をしている樹は、我が家のようにソファでくつろいでいる。
「うん」
「ここ、いいのに」
「仕事場が遠いから」
「それ、ここを選んだ理由じゃん」
 紅茶を入れながら、その時のことを思い出す。両親とはほとんど会話もできなくなっていて、家を探すときは全部樹についてきてもらった。心細かったのもあるし、その方が不動産屋が安心するということもあった。女流棋士という仕事はなかなか理解されなかったし、実際にまだ収入がなかった。悔しいことだが、自由業よりもフリーターの方が信用がある。
「事情が変わったんだよ。仕事も増えたし」
「事情? 情事じゃなくて?」
「怒るよ」
「真面目な話。このまま将棋だけで生きてくわけ? 男か女かは知らないけどさ、支えてくれる誰かとかさ、そういう人のこと考えたったいーだろ。ここにさ、俺以外の人来た? 引越しには賛成だよ。けど、将棋のためって言うんなら反対」
 樹は、世界で一番僕のことを理解している。それだけに、彼の本音は世界一痛い。
「……将棋以外のこと、考えてるよ。好きな人が結婚して、目標としてた人が惨敗して、自分は今後どうしていいか分からなくなって。せめて、みんなとおんなじ環境だったら、って思った。遊んだり、研究会したり、そういうこともしていいかなって。まだ、そんな資格はないと思ってたんだ……。でも、もういいかなって。普通のもの、欲しがっても」
「最初っからいーだろ。姉ちゃんは、特別な悩み抱えてんだ。普通に持てるものぐらい、求めろよ」
「だけどね……今より弱くなるのだけは嫌。将棋の成長まで普通になってしまったら、そうしたら……」
「それはそん時考えればいいだろ。姉ちゃんはさ、女流の一流になったんだからさ、自分を卑下すんのやめなよ。男だったらとかさ、いいじゃん別に。俺だってさ、バイトじゃいけてる方だけど、プロから見たらすっごい下手だと思うよ。けど、金くれるっていう人いるから、ありがたくもらってるよ。普及とかさ、聞き手とか、強い女流に需要があるんだから、ありがたく色々受け取っちゃえばいーんだよ。自分探しは暇な時にしろよ。で、将棋強くなるためには、あんま暇ないんだろ?」
「……ありがとう、樹」
「なんだ、照れるな」
「女の子だったら、抱きしめてあげるのに」
「なんだそりゃ」
 胸のペンダントを握りしめ、僕はしっかりと決意をした。
 もう、自分をいじめない。
 樹の手を握った。眉をひそめるが、振り払われたりはしなかった。
「今度、男性棋士との対局があるんだ。ネット中継もあるし、結構注目されると思う」
「そっか。頑張れよ」
「……勝つ。勝つよ」
「初めてだろ。そんな意気込まないで、頑張ればいいんじゃねーの」
「……うん」
 本当に、抱きしめたかった。僕は幸運にも、樹のおかげで本当の孤独にはなったことがない。それがどんなに大きなことか、実感していた。
「よくここまで来たよ。本当は、もっと早く挫折すると思ってた。姉ちゃんは、すごいよ」
「ありがと。樹もそろそろ、頑張りなよ」
「そのつもりだよ」
 この温かさは、今だけのものかもしれない。僕は、次の勝負を本当に大きなものだと考えている。その結果によっては……
 紅茶が冷めて、少し苦くなっていた。


 山手線の内側は、切ない。
 思ったよりも静か。皆、仕事をしているのだろうか。なかなか道を憶えられない。香りが、ないから。
 引っ越して実感するのは、僕は本当に趣味が少ない、ということだった。本やCDなどはほとんど持っていない。パソコンも対局にしか使わないので、中身もほぼ空っぽ、プリンタもない。もちろん、植木鉢も水槽もない。
 生きているか、将棋をしているかの人生だった。
 どこにいても一緒だと思っていた。どこにいても、将棋はできるし、できないことはできない、と。
 それでも、わかってしまったことがある。僕は将棋だけでなくて、将棋の世界が好きだ。将棋に携わる人々や、将棋の仕事が好きだ。
 だから、孤独に逃げるのは、やめなければいけないと思った。心地よいけれど、やめなければ。
 午後四時。僕はカーディガンを羽織り、家を出た。将棋会館までは、二十分かからない。


「木田」
 その日の朝、会館の玄関で。
「川崎」
「おはよう」
 振り返ると、スーツ姿の青年。
「いよいよだな」
「別にたいしたこと、ないよ」
 こんなに早くから、こんな格好。川崎も対局なのだ。知らなかった。
「でも、初めてだろ」
「うん。まあ、これからどんどん増える予定」
 階段を上がる。いつもと変わりはない、と思う。特に気合を入れたりはしなかった。服装もたいして凝ったものではない。化粧も薄いし、髪も軽く結ってきただけだ。
 それでも、胸が痛い。血液が、速すぎる。
 対局室に入ると、相手はすでに盤の前に着座していた。ひょろりとした体を、ゆっくりと左右に揺らしている。
 夏川四段。歳は僕より二つ上、プロになったのは去年。彼は、僕と同じ時に奨励会を受験し、合格していた。
 運命、とまでは言わない。それでも、意識せざるを得なかった。スタート地点では、僕が負けた。その後、異なる道を歩んできて、今日、対峙する。
 隣の部屋には、川崎がいる。タイトル戦は惨敗だったが、それでも調子を落としたりはしなかった。ひょっとしたら、結果はただの実力通りだったのかもしれない。これからまた、彼は活躍するだろう。
 僕が手を伸ばしたいのは、あそこなのだ。夏川四段は、通過点にしなければならない。
 ベテラン観戦記者が、僕と夏川四段に挨拶をしにきた。女流が男性棋士と対戦した棋譜は、だいたい新聞に載る。ときには悲惨な棋譜が、全国にさらされてしまうことになる。それは、当たり前の悲惨として、受け止められる。
 僕らは、いい棋譜を作るため参加させてもらっているのではない。多くのファンに興味を持ってもらうことが大事なのだ。判官贔屓で僕を応援してくれる人は多いのだろうが、僕が勝たなければならないと思っている人はいない。負けて当たり前。勝てば話題になる。その程度のことだ。
 とんでもない。
 ここにたどり着くまで、どれだけの苦労をしてきたか。同じ屋根の下で、同じことを生業としてきた。夏川四段が遊んでいるときも、僕は将棋をしてきた。女であるということを除けば、僕が負けていい理由なんて見当たらない。そして、僕は女ではない。
 振り駒で、後手になった。前髪が少し邪魔だったので、かき上げた。
 相手は振り飛車党。静かな手つきで、角道が開けられた。僕はそれに対し、飛車先を突いた。矢倉にも角換わりにもならないが、何となくこちらの方が気合が入ると思った。
 持ち時間の短い将棋では、知っている形になった方が随分と安心する。だからこそ、どのような戦型を選ぶかで、相手が僕の力量をどのように考えているのかが分かる。特に夏川さんは、相手によって指し方を変えるタイプだ。ベテランの先生や成績の悪い若手にはゴキゲン中飛車で軽快にさばき、上位の先生や元気のいい若手にはじっくりと四間飛車で指す。相振り飛車になりそうなときは最初から様子見のような手を指す。
 三手目、1六歩。予想外だった。これではまだどちらとも言えない。僕は、角道をあける。夏川四段は、5六歩と付いた。ゴキゲン中飛車だ。
 細かいことを気にしている余裕はない。僕は、5二に右の金を上がる。ゆっくりはしない。このまま超急戦と呼ばれる変化に誘う。そして、予想通り避けられる。研究で差が出るような変化には持ち込まないのだ。それが勝ちやすいのだと夏川さんは知っている。
 抑え込めるかどうか、そういう勝負だ。夏川さんは顔色一つ変えず、時折首をかしげている。別に、困っているわけでも疑問に思っているわけでもない。子供の頃からそうだったが、彼は盤上で考えることが苦手なのだ。頭の中の駒は自由に動くが、盤上の駒はじっとしている。盤上を見つめていると、現状の局面に思考を引き戻される、と語っていたことがある。
 僕は、いつになく盤上に没頭していた。元々僕には、はっきりとした盤面が見えていない。そこには様々な絵が混入し、ときにはキャンバス自体が消失する。見ているけれど、見えていない。
 駒がどんどん前進し、思い通りの展開に持ち込めていた。このままいけば、何も問題がない、そう思っていた時だった。首をかしげたまま、夏川四段は大きくうなずいた。そして、細い右腕が、盤を横切る。7七の桂馬が、8五の歩を取った。それは、すぐに僕の飛車に取り返される桂馬だ。しかしそのあと飛車をぶつけられる。こういう戦型ではよく出てくる筋だが、今されるとは思ってもみなかった。
 こんなものは、取るしかない。僕の駒は抑え込むために前に出ているので、玉の固さというものはないに等しい。飛車角を好きに動かされたら、終わりだ。飛車交換されても、先手先手で受けに回れば、何とかなりそうな気がする。それ以外に活路はない……
 桂馬を得しても、受けには効かないし、すぐに攻める手もない。相手は陣形も低く、飛車の打ち込み場所はない。だから、選択肢はこれしかなかったのだ。決して、これで有利だとは思わない。それでも、他の手ではどんどん苦しくなる。
 8二飛車。取ったばかりの飛車を、元居た場所に打ち直す。あの時とは違う、切ない自陣飛車だ。
 それでも。このような展開が、なんとなくいけると思っていたからこそ、あの桂馬が見えなかったということでもある。夏川も読み切っているわけではないだろう。何となく攻めが続く、そう考えるタイプだ。そして、何となくで押し切れる相手にだけ、彼はこの戦法を選ぶ。
 色々な歩が突き捨てられ、角が出てきたり引いたり。こちらはもう使える駒がないので、耐えるしかない。持ち時間もなくなり、秒読みの声が頭蓋骨を揺らしているようだ。
 駄目だった。途中で気が付いた。夏川さんは全てを読み切っていた。僕の力、僕の性格、僕の気合、僕の空回り。決して強い若手ではないが、何度も何度も勝負の一局を勝ってきた彼には、色々なものを見切る力が付いているに違いない。振り回されてふらふらになった僕には、少しの優勢を維持しきるだけの余裕などありはしなかった。
 僕は、ずっと相手のことを見ずに戦ってきた。ほとんどは勝って当たり前の対局で、間違えないこと、当たり前のことをし切ることを考えてきた。そして強い相手と指すときは、もっと強い相手のことを考えてきた。そこを超えた先にあるもの。ライバル、頂。その一局を勝っても、先につながらなければ意味がないと思っていた。
「こうか」
 小さな声だった。でも、決定的な一言だった。ついに僕の陣内に飛車が打ちおろされ、そしてそれは捕まえることができなかった。食い破られた。僕の将棋とともに、僕の心構えを。
 負け惜しみではなく、読みとかそういう部分では差がない、とよく感じる。けれども勝つための技術に関しては、彼らとの間にはっきりとした差がある。
 作業のように、終盤が過ぎて行った。体から熱が逃げていくのが分かった。僕は今日はじめて戦場に立ち、そこでの礼儀を叩きこまれた気がした。
「負けました」
 その言葉を発するのに、何の躊躇いもなかった。完敗だった。笑いたくなるほどの、惨めな負けだった。


 高いけれどたいしたことのないランチを食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。
 気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。
 無理だ。
 ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。
 酔いが苦しみを麻痺させると同時に、僕の中の僕が、鮮明にこちらを見つめているのが分かった。本当は、こんな日は来ない方がよかったのだ。女流の中でも一番になれなくて、苦しくて苦しくて、そっちの方がよかったのだ。今日の苦しみは、一刀両断された苦しみだ。心の隙間は埋められるが、完全に分離してしまったものはなかなかくっつかない。
 盤の上に、座布団を置いた。今は、見たくない。
 いつかの記憶が、脳裏をかすめた。
 電話を手にした。
 ダイヤルする。呼び出し音が三回、四回、五回……
「あ、どうしたの?」
 不安定な声。寝起きなのだろうか。
「いまどこ」
「え、家だけど」
「来て」
「え」
「ここに来て」
「ここってどこ」
「私の家」
「それ、どこ」
「メールで地図送るから。三十分で」
「いや、ちょっと待てよ、おい」
 電話を切った。喉がからからになり、ワインを飲み込んだ。
 地図とマンションの名前、部屋番号を記載してメールを送る。そして僕は、ベッドに飛び込んだ。とめどなく流れてくる涙を、シーツでぬぐった。
 女だ。今僕は、女だ。
 何故こんなことをしてしまったのか。
 自分の中の色々なものが、僕の中から飛び出そうとしているようだった。
 わかっていた。届かないものは、届かない。それでも、目指していたかった。近づいていたんだ。けれども、遠すぎた。タイトルを獲ったぐらいで、何かが変わったと思い込んでいたのか。あの日から、一度だって距離が縮まったことはなかった……
 目をあけられなかった。自分のもの、自分の姿、何も見たくなかった。
 四十分ほどして、ドアホンが鳴った。起き上がり、頬を叩いてから玄関に向かう。のぞき穴の向こうには、不安げな顔の川崎がいた。
「ごめん」
 口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「どうしたの。入っていい?」
「うん」
 しわくちゃのシャツにジーパン。髪の毛はべったりとしていて、多分急いで家を出てきてくれたのだろう。僕は、初めての来客を招き入れた。
「酔ってるの」
「うん」
「今日、対局あったんだろ」
「うん」
「それで飲んでたの」
「……それだけじゃない、と思う」
 新しいコップにお茶を入れようとしたら、川崎はそれを手で制した。そして、ワインボトルを手に取る。
「こういうのは、酌み交わしながら語るもんでしょ」
「じゃあ、注がせて」
「おう」
 冷蔵庫から、チーズを取りだした。僕は、何も食べずに飲んでいたのだ。
「なんか作ろうか」
「え」
「木戸ってさ、料理しないだろ。台所見てわかった」
「材料ないよ」
「なんかあるだろ」
 川崎は台所で勝手に料理を始めた。大したものはなかったが、卵とポテトチップス、鰹節で一品作ってしまった。盛り付けにもこだわっているようで、見た目がさっぱりしている。
「昔よく作ったんだよ」
「これを?」
「みんなうちで遊んで、お菓子を置いてくんだよね。だから次の日、こんな風にしてさ。ネギとか入れてもいいよ」
 食べてみると、とてもやんわりとした味がした。しけりかけたポテトチップスなのに、ちょっとおしゃれな食べ物みたいだ。
「よく料理するの」
「まあね。それが東京出てくるときの約束だったから。将棋で失敗しても、ちゃんと一人で生きていけるように、ってことだったみたい」
「そうなんだ」
 川崎の意外な一面を知った。まあ、ほとんど私生活のことなんて知らなかったのだけれど。
「で、どんなんだった」
「え」
 川崎は、盤から座布団を取り上げた。そして、駒を整列し始める。
「ちょっ……」
「将棋のことは、将棋で解決。それがプロっしょ」
「待って」
「木田?」
 僕は、川崎の手を握っていた。川崎の瞳が、直線的にこちらに向いている。
「プロ……じゃない」
「何言ってんだ」
「私と、川崎たちは別の世界にいる。同じ理屈では語れない」
「将棋で食ってんだろ、同じプロだよ」
「わかれよ!」
 僕は川崎の手を離すと、盤の反対側に座った。歩を五枚取り上げ、絨毯に転がす。と金が五枚だった。
「川崎が先手」
「……わかった」
「絶対、手を抜かないでね」
「……待って」
 川崎は、コップを手に取り一気にワインを飲みほした。
「条件は、一緒だ」
「……うん」
 二人、無言で頭を下げた。川崎の体はフラフラと揺れていた。僕も、おかしくなっているのかもしれない。初手、7六歩。僕は、3四歩。
 涙がこらえられなかった。何故かわからなかったが、手が進むにつれてその理由が理解できた。僕が思いだしているのは、小学生の時のあの日。そう、川崎と将棋を指すのは、あの時以来だったのだ。
「木田……大丈夫か」
「わかんない。わかんない……」
 川崎が、僕の背中をさすってくれた。それでも、次の手を指した。目の前がぐるぐると回っていた。それでも、次の手を指した。
 儀式のように、淡々と指し続けた。何を指しているのかもよくわかっていないけれど、本能がちゃんとした手を選んでいるようだった。川崎も、目がうつろになっている。元々お酒に強くないのかもしれない。
「あ……」
 いつの間にか川崎の王将に、詰めろがかかっていた。何だ、勝ちじゃないか……そう思ったけれど、全く僕が読めない順で、こちらの玉が詰まされた。
「負けました……」
「なんか、詰んじゃったね……」
悔しくもなんともなかった。知っていたことだから。川崎は僕よりうんと強いし、どんな時でも手を抜いたりしない。それでいて、誇らしげにすることも、卑屈さを見せることもない。
涙が止まり、目の前が真っ暗になった。本当に、安心してしまった。もう、何も考えることなんて、ないんだろう。


 目が覚めると、ベッドの上だった。少し頭が痛い。体を起こし部屋の中を見回すが、誰もいない。
 テーブルの上には、水の入ったコップと、サンドウィッチがあった。手にとって見てみる。近くのコンビニで売っているものだ。
 将棋盤には、見覚えのある局面が。夏川との将棋の、投了したところだった。その横には、広告の裏に書かれた棋譜が。中盤以降、一手一手に検討の結果が書き込まれていた。
 トイレにも風呂にも、川崎はいなかった。靴もない。
 部屋に一人きり。こんなにも独りを実感したのは、初めてだった。


 癖になりそうだった。
 日差しが照りつけても、全然不快ではない。秋の沖縄は、何もかもがちょうどいい感じだった。
 また、来てしまった。
 今度は、仕事のスケジュールをきっちりと確認して、一か月前からチケットを取った。宿も、美鶴に聞いた、旅人と会話しやすい安宿を取った。
 空港に着き、まずはバスで北谷に向かった。那覇を抜け、海沿いの道を走る。
 バスを降りると、左手にはショッピングセンターと大きな観覧車、右手には基地が見えた。
 ホームページに載っていた地図のコピーを頼りに、宿を探す。左手に基地を眺めながら、海から離れて進む。屋根の低い沖縄の住宅と、芝生にぽつんと立った基地内の住宅の違いがとても印象的だ。
 二階建てのほぼ民家、そこが今日の宿だった。
「こんにちは」
「あ、こんちは」
 中に入ると、カウンターにキャミソールを着た女の子が座っていた。右手にはうちわ、左手には缶ビール。
「あの、予約してたものです」
「ん、はいはい。えっと、女性一人は……木田さん?」
「はい」
「じゃ、説明とかするから。あ、お金は前払いだから。一泊だから……2000円ね」
 素泊まりでこの値段は、沖縄の安い宿では当たり前らしい。
「まず、こっち来てくださーい」
 宿の中を色々と案内される。後ろを着いていくが、短パンから赤い下着がはみ出て見えているのが気になった。
 風呂場やトイレを案内された後、共同スペースに。そこでは何人かの若者がくつろいでいた。
「飲食はここでね。あ、こちら今日から泊まる木田さん」
「こんちはー」
「こんにちは」
 みんな僕と同じぐらいの若さに見える。マンガを読んだりゲームをしたり、旅人とは思えないリラックス具合である。
 そのあと、今日のベッドに案内された。二段ベッドが二つ並んだ奥の下、それが僕のスペースだった。
「ここ女部屋だけど、男入ってきたら叫んでね。私かオーナーが飛んできてぶち殴るから」
「はあ」
「じゃあ、なんか質問あったら聞きに来てくださいね」
 むしろ女性と同じ部屋で寝る方が緊張するのだが、そんなことを言っても仕方がない。僕は荷物を足下に置き、とりあえず寝転がった。
 前に来た時よりも、風通しが良かった。部屋も、心も。もやもやとしたものは抱えたままだけれど、沖縄を楽しめそうな気がした。


 原付を借りて、思いつくままに走った。何となくだけれど、ガイドブックに載っていないようなものを感じたかった。
 砂浜で泳ぐ人たちが見える。バーベキューを楽しむ人たちも。アメリカっぽいお店が並んでいて、現地の人、観光客、軍の人、いろんな人が行き交っている。
 空気が僕の中に入ってきて、色々なものをくっつけて出ていく気がした。まあ、気がするだけだ。本当は何も解決していない。
 あの日以来、将棋と向き合えなくなった。研究もしないし、棋譜も並べない。対局も他の仕事も漠然とこなしてきた。引っ越したのに、会館にも行かなかった。人ともほとんど会わなかった。
 自分のことが嫌いになる。
 何かをしなければ、僕は何もかも失ってしまう、と思った。
 女ならば。あのまますがりつけばよかったのかもしれない。
 太陽が海へと落ちていく。
 このまま走り続けたかった。何日かすれば、またここに戻ってくるのではないか。でも、そんなことはできない。
 僕は感情を無にして、宿へと戻る。


 色々なところを回って、那覇に戻ってきた。
 いろんな人に会い、語り、突然予定にないところに出かけ、泳いだり、走り回ったり。独り旅のだいご味を味わった。
 それでも、僕は結局、同じところをぐるぐると回っていた。布団の中で瞼を閉じると、将棋のことを思い出した。
 弱いけど、好きなんだ。どうしようもない。
 国際通りをぶらぶらする。ごった煮になってはいるけれど、実は一番沖縄で薄味。お土産は他のところで買ったし、人込みは相変わらず苦手だ。
 気づくと僕は、島崎さんの店の前にいた。暖簾は下りている。
「こんにちは」
「いらっしゃいませー。ん?」
 中には、島崎さんしかいなかった。
「さくらちゃん?」
「はい。お久しぶりです」
 島崎さんは、僕が座る前にカウンターに泡盛を注いだコップを置いた。
「一杯目はサービスね」
「一杯で帰るかもしんないですよ」
「そん時はお通し代千円ね」
「あ、お通しいらないです」
 腰をかけると、肩から空気が抜けていくような感覚に襲われた。色々な場所を回ってきた結果、ここが一番落ち着くという不思議。
「なんか、変わったね。最初気付かなかったよ」
「髪切ったんですよ」
「それだけじゃなくてさ。大人っぽくなったっていうか。恋した?」
「惜しい。失恋」
「おっと、傷心旅行ですか」
 僕は、島崎さんと他愛のない話を続けた。普段どんな生活をしているのか、将棋のプロってどんなものかも話した。島崎さんの恋の話、親の話、特技の話を聞いた。
「沖縄来るとさ、なんかみんな三線したくなるんだよね。でもおんなじことやるの嫌だから、俺は太鼓やろうって。あの、エイサーで叩いてるやつ。でさ、じゃあやってみるかって言った人が持ってきたのがウフデークーっていう一番でかいので。二時間でやめたよ」
「そのあと楽器は何もしなかったんですか」
「うん。俺には向いてないなって。俺は、沖縄の酒に惚れたから、酒のこと極めよっかなって」
「それも楽しそうですよね」
 島崎さんが楽しそうなのは、誰とも競っていないからだ、と思った。自分のやりたいことを、やりたいだけやる。辞めたくなったら、すぐに辞める。仕事は、生きていくのに必要なだけやる。
 僕の生き方は、全く違う。
 思うことがある。僕より強い人がみんな死んだら、僕は強くなる必要があるだろうか。僕は強くなりたいのではなく、負けたくないだけではないか。
 純粋に将棋を楽しんだのは、あの日までだった気がする。あの日以来僕は、彼の幻影を追い続けている。
「あっついぞー」
 入り口から元気な声が。
「おう、いいところに来た」
「え、いいところ?」
「久しぶり」
「……さくら?」
 Tシャツに短パン、首にはタオルをかけている。まるで、我が家に帰ってきたかのような様子だ。
「また来ちゃった」
「どーしたの、髪切っちゃって。失恋?」
「みたいなものかな」
 美鶴は、僕の横に腰かけた。
「すっごーい。美鶴も沖縄に居ついちゃう?」
「うーん、連盟から交通費出ればいいけど」
 僕は、バックから細長い箱を取りだした。それを、美鶴の前に置く。
「なになに」
「会えたら、渡そうと思って」
「これ……あけていいの?」
「うん」
 蓋を取って、美鶴は中身を取り出す。そして、棒状になっていたそれを広げた。まっ白いキャンバスに、黒い文字。
「これ……」
「私の扇子が出たんだ」
「美鶴の?」
「そう」
「……在心……って書いてあるの?」
「うん。なんか書けって言われてね、私の場合無心にはなれなくて、心在る状態で必死に戦おうって意味から。かっこいい言葉がよかったんだけど、思いつかなかったし」
「なんかいいと思う。それに、こうやって見ると木田桜っていい形の名前だよね。いいもんもらっちゃった、ありがとう」
「ううん、そんなものしかないけど。私こそ、ペンダントありがとう」
「いやいや、あんなものでよければいくつでも」
 美鶴は、本当にうれしそうな顔をしてくれた。自分の作ったものを褒められるのは、誰だってうれしいものだ。僕も、あの二枚飛車を褒められると、自然と頬が緩んでしまう。
 そして、彼女は気付いているだろうか。この髪も服装も、ペンダントに合わせて選んだということを。
「本当にさ、プロになるって大変だよね。私よりうまい人なんていっくらでもいるんだから、びっくり。でもまあ、ただであげるにしてはいい出来かなって」
「ほんとに、これ気にいってるよ。それにね、プロって、維持するのが本当大変。アマだったら明日の対局さぼれるのになあ、って思うこともある」
「そうなんだ」
 昔は出たいときだけ大会に出て、行きたいときだけ道場に行けばよかった。今僕はタイトルを取って臨時収入が確定しているし、もう少し夏休みを取ったってお金がなくなることはない。でも、タイトルを取れば対局も他の仕事も増えるのだ。明後日には対局がある。プロとして、指さない選択肢はない。
「美鶴も、いつかなんかのプロになったらわかるよ。なんかおばさんの小言みたいになっちゃった」
「ははっ、お小言ありがたく頂戴しときます」
 夜は長く、僕はその甘さに溶けていった。それでも、強く心に誓った。もう、ここに逃げない。この心地よさは、僕にプロであることの意味を忘れさせる。
 深夜、宿に戻った。旅人たちはまだ起きている。僕はしばし、最後の余韻を分けてもらった。


 驚くほど、気持ちは落ち着いていた。
 純白のドレスに身を包んだ要さんは、いつもより魅力がないように見えた。花嫁という枠に収められたら、個性は輝かないのかもしれない。
 そして。要さんが時折見せる、泳ぐような目つき。僕は、その理由を知っている。そして、その原因も察しが付いてしまった。祝福する人々の中で、一人だけ明らかに異なる顔をしている男がいた。緩んだ口元と射るような目つきで、新郎には目もくれず新婦だけを注視し続けている。
 見たくなかった。中沢九段のそんな姿を、一生見たくはなかった。
 凛として美しい対局姿。柔らかい物腰。そして何より力強くかっこいい指し手。将棋界にとって、これほどの柱はない、という人だった。定家四冠が強さの象徴であるとすれば、中沢九段は正しさの象徴なのだ。
 それが。要さんにとっての「先生」だったなんて。思いすごしであってほしい。
 けれども、残念ながら「女の勘」は鋭いのだ。僕の体は、確信している。
 披露宴が終わり、二次会会場までの移動のとき。どうしても、前を歩く中沢九段のことを目で追ってしまう。要さんのあの時の言葉からして、二人はまだ関係を持っているのだろう。
 中沢九段は師匠の弟弟子で、僕や要さんにとっては叔父のような存在だ。面倒はよく見てもらったし、将棋を教えてくれたこともある。けれども僕には、とても冷たい人に見えていた。ほとんどしゃべらないし、将棋以外のことは全くしなかった。テレビもラジオも、雑誌さえ全く見ない人だった。
 独身のはずなので、要さんとの関係が特に不適切というわけでもないのかもしれない。だが、二人が恋人同士という姿は思い浮かばない。あの時、要さんは「先生」と呼んでいた。それが全てのような気がする。
 僕の予測にすぎないし、事実だったとして首を突っ込むような問題ではない。けれども。僕の中で恐怖の感情が湧きあがってくるのだ。僕も、そのような対象として見られていたのだろうか、と。
 狭い世界だ。僕だって、誰かの標的になったことはある。その度に、悲しくなるのだ。勝負の世界で、それ以外のものを求めてどうするのだ、と。そして反省する。僕は要さんに対して、何を求めていたのだろう、と。
 この世界以外のことは知らない。だから、この世界が他と比べてどうなのかもわからない。それでも、なんとなく、不思議な世界なんだと実感する。
 地下鉄を乗り継ぎ、また少し歩く。二次会の会場は、地下のおしゃれなバーだった。こういうところは少し居心地が悪いうえに、目の前には知らない人が。そもそも新郎が将棋関係者でないので、会場の半分は別世界の人間なのだ。
「木田さん……ですよね」
 向かいに座った男性が声をかけてきた。長くウェーブした茶髪、きらきら輝くブレスレット。まあまあの顔立ちだが、自己メンテナンス方法が僕らとは少し違う世界のお方のようだった。
「はい」
「見ましたよ、ニュース。タイトル初挑戦で初獲得、すごいっすねえ」
「ありがとうございます」
 注文していたジントニックが届いた。男は乾杯しようとするそぶりを見せたが、僕は気付かないふりですぐに口を付けた。
「あれ、お酒飲めるの」
「好きですよ」
「いや、もっと若いのかと思って」
「まだまだ幼いんですよ」
 司会が何やら話しているが、ざわついていてよく聞こえない。ゲームが何やらかんやらということらしいが、興味がない。何となく会場を見渡し、かわいい女の子を探す。二次会は出会いの場だと言うけれど、今の僕には眺めるだけで精いっぱいだ。
 結婚式というものは、新郎新婦は大忙しで、二次会でもテーブルを練り歩き挨拶をして回っている。僕らのところにも来たが、新郎の落ち着いた表情に比べ、新婦のいかにも幸せですという顔が痛々しかった。要さんはいつでも頑張りすぎる。そこに付け込まれるということも、あるはずだ。
 面倒くさい。色々と。
 トイレに立ったついでに、席を移った。普段はあまり仲良くしているわけではないけれど、それでも女流棋士の輪に入ると落ち着いた。僕は、この世界の中で何とかやっていく方法は、身に着けていたようだ。
 二次会が終わり、もうこれで役目は終わりだ、と思った。早くこの息苦しい正装から解かれたい、というのが僕の気持ちだった。
「木田さん、この後予定どうなの」
 けれども、すんなりと日常に帰ることはできなかった。先ほどの茶髪が、話しかけてきた。
「予定は……」
「ああ、木田君。一門で集まる話だっただろ」
「中沢先生……」
 いつの間にか隣にいた中沢九段が、僕と男の間に割って入っていた。男は何か言いたそうだったが、中沢九段の貫禄の前に引き下がった。何事もなかったかのような顔を作って、去っていく。
「ああいうのと付き合ってちゃいかんよ」
「いや、私は別に……」
「君は一流の実績を作ったんだ。一流の振る舞いを見せて生きていかなけりゃならない」
「……はい」
 その姿は、棋士の鑑だった。やはり凛としていて、ブレが感じられない。そう、これが僕の見ていたいつもの姿だ。
「先生」
「何だね」
「先生は、結婚しないんですか」
 僕は、確かめたかった。中沢九段の、尊敬される棋士の実態を。
「ははは。まあ、僕は家庭を持てない人間でね。浮気性な女が好きなんだ」
「それは意外です」
「ははは。もちろん、そんな風には見せていないから。僕も一流と呼ばれていた時があるから」
「今でも大活躍なさってるじゃないですか」
「いや、僕は五段に負けるような男ではなかったんだよ」
 胸に突き刺さってくる言葉だった。本当は、この人はプライドの固まりに違いない。そして、それは女性と幸せな家庭を持つのに邪魔になるだろう。
 要さんとの関係とか、そんなものはどうでもよくなった。この偉大な棋士に、将棋以外のことを求めても仕方がない、とすら思えてくる。
「でも、五段の頃の先生はすごい強かったでしょう」
「そうだね。あの頃は勢いがあった。川崎君もこの先活躍してくれれば、僕も救われるわけだ」
 色々とむなしくなった。何人かに三次会を誘われたが、全て断った。何となくだが、海に向かおうと思った。


 東京湾は、まっすぐで狭い。
 沖縄の海を見てきたからだろうか。同じ海だというのに、全く違うものに感じる。
 それでも、嫌いではなかった。
 山の中で長い間過ごしたので、海というだけで最初ははしゃいでいた。押し寄せては引いて、それを繰り返す波。流れ去り下っていく川とは全く違う水の様相に、僕はひどく感動したものだ。
 防波堤に何度もぶつかり、それでも決して動きをやめない。意味や目的などではなく、意地を張っているかのようだ。
 結婚式の後はむなしい。自分は絶対できないだろうし、むなしい。
 ポケットの中で、携帯が震えた。メールが来ていた。
 川崎からだった。
 タイトルはなかったし、本文も短かった。

「今度はそっちが先手ね。じゃ、一手目どうぞ」
 
 唐突過ぎて、吹き出してしまった。僕にとって大事だと思っていた彼との再戦が、一回目は泥酔状態、二回目がメールだなんて。
 僕は、深呼吸してから、その場に正座した。携帯電話を地面に置き、「お願いします」と一礼してから、ボタンを押す。

「初手私 7六歩」

 膝がゴリゴリとして痛かったので、正座はすぐに崩した。風が耳の後ろを通り抜け、髪を崩していった。
 五分後、返信が来た。

「二手目俺 3四歩」

 気が付くと僕は、声を出して笑っていた。こんなこと、もっと早くできたじゃないか。川崎は、何故今、こんなことを始めたのだろう。
 それでも、僕は楽しいから、川崎は正しかったのだろう。
 何の指定もないから、次の手はすぐに返さないでおこうと思った。このゲームみたいな対局を、必死に考え抜いて戦おう、僕はそう誓ったのである。


 それは、突然過ぎた。
 夏になると、いくつも将棋祭りが開催される。若手女流棋士はどこの会場でも重宝される。特に今年はタイトルを獲ったということもあり、僕の出番も多かった。
 将棋祭りの楽しみの一つは、普段実現することのない対局が席上対局で実現するというところにもある。たくさんのお客さんの前で指し、解説の声も聞こえるということで、自然と対局も魅せることを意識した内容になる。
 僕も関西の先生との対局で、勝敗は気にせず楽しく指しているところだった。お客さんの様子も見ながら、盛り上がりそうな手を選ぶのも大事だ、と先輩には言われた。だから、時折会場を見回していた。子供も結構いるが、やはりおじさんが多い。
 いつもの光景だ。そう思っていた。しかし、ある一人のおじさんの姿を見て、そこから視線を動かせなくなってしまった。青いジャンパーに身を包んだ、白髪の目立つ、五十過ぎの男性。僕の知っている姿からはかなり歳を取っていたが、間違いなくそれは父の姿だった。
 十年ぶりの再会が、こんな形になるなんて。僕は動揺を隠し、何とか対局の方に集中しようとした。対局はできているが、どこかふわふわしてしまった。
 対局は、僕の負けだった。けれども、そんなことはどうでもよくなっていた。再び会場を見回した時には、父の姿は見つからなかった。
 将棋に全く興味のない父がここに来た理由なんて、たった一つしか思い浮かばない。おそらく、僕がプロになったことすら最近まで知らなかったのだろう。そしてニュースか何かで見て、娘の現状を知ったに違いない。そして僕がまだ「木田」を名乗っていることも。
 追いかけて行くほどの未練は何もない。泣くほどの感動もない。それでも僕の心は、平静ではいられなかった。
 僕の半分は、あの人でできている。
 見なければ、どうだっていい存在のままだったのだ。それが、僕を気にかけているなんて思ったら……
 人生には波がありすぎる。ああ、もう……


 意地で、盤上には並べなかった。メールの履歴だけが、勝負の舞台だと思った。
 中盤を過ぎ、局面は複雑を極めている。相手は一直線の勝ちを目指してくるだろう。だからと言って受けだけの手を指してはいけない。より複雑に、予測のできない局面に引きずり込む。うんざりするような、そんな状況に。僕は、それが好きなのだ。
 一筋の光が頬を打ち、はっとしてカーテンを開けた。朝になっている……。どうやら僕は一晩かけて、次の一手を考えていたのだ。
 ベランダに出て、外を見る。太陽はまだ出たばかりで、ふらふらとしているようにも見えた。ジョギングをしている人や、ゴミを出している人、もう出勤をする人。こんなに早朝だというのに、案外人びとは活動的だ。
 最近、部屋にものが増えた。誰か来るかもしれないと思うと、見た目が気になってきたのだ。テレビを買った。コンポも買ってみた。積みあがっていた雑誌をラックに入れてみた。
  そういえば、僕は自分の部屋をどうにかしたことがなかった。子供部屋にはいつも、樹の好きなものが置いてあった。僕は何かをねだることがなかったし、お小 遣いもほとんど貯めていた。唯一、将棋にだけはお金を使った。こっそりと買った盤と駒、棋書。そして道場代。後から知ったことだが、小学生は百円、という のは師匠の嘘だった。
 自分のしたいようにする、というのがこんなに難しいことだとは知らなかった。そして、こんなに楽しいことだとも。

「六十三手目 4八銀打ち  おはよう」




「どうだっ」
「何それ」
 いつも通り急にやってきた樹は、靴を脱ぐなり鞄からTシャツを取りだした。白地に黒く細い線がごにゃごにゃと書きこまれている。森のような湖のような、よくわからない絵だ。
「俺のデザインが採用されたんだよ。全国で発売!」
「何円」
「2880円」
「買わない」
「いや、売りに来たんじゃなくて」
「自慢しに来たの」
「当たり」
 相変わらず家にはあまり帰っていないようだが、樹も彼なりに将来を見据えて生きているようだった。僕の家に来ても食糧を持ちかえるようなこともなくなった。
「それにしても、変わったね」
「部屋?」
「うーん、それも含めて」
「まあ、お金もあるしねー」
「うわー、やな女」
 その時、メールが鳴った。これはおそらく、着手の着信音だ。
「あっ」
「なに、デート誘われたのか」
「もっと嬉しいこと」
 そこには、僕が最も待ち望んでいたことが書かれていた。樹がいなければ、叫んでいたかもしれない。

「投了 負けました」

 心地よかった。もちろんただの練習将棋にすぎない。対局の多い川崎の方が時間的な不利もあっただろう。それでも一局の将棋に勝ったこと、あの川崎に勝ったことがとても嬉しかった。
「なんか食べにいこっか」
「おごってくれるの」
「任せなさい」
 肩がとても軽くなった。返信文を送る。

「ありがとうございました。 ありがとう」

 実感。


 驚くほど負けなかった。
 そんなに頻繁に対局があるわけでもないので、自分でも気付いていなかった。しかし、僕は勝ち続けていた。今日勝てば、二回目のタイトル挑戦。もしタイトルを取れば、二冠と二冠、本当の意味で女流のトップになれる。
 対局の朝だというのに、全く緊張しなかった。自信があるというわけではないが、勝負の結果については全く興味がなかった。多分、僕はこの先何度かこういう大事な対局を迎える。これは、そのうちの一つにすぎない。
 相手は外野女流三段。タイトル経験もある、中堅の先生だ。かつて対局したときは、終盤にひっくり返されて負けた。何があっても顔色を変えず、淡々とミスを待つタイプの将棋。若手は、その余裕に惑わされる。
 人が多いのが気になった。長年女流棋界では、同じ世代がタイトルの多数派を占めていた。もし僕がこのタイトルを取ることになれば、久しぶりに世代交代が起こるきっかけにもなるだろう。外から見れば、それは非常に興味のあることのようだ。
 僕は、自分が一番になりたいだけだ。相手の世代なんて、気にならない。
 僕が入室すると、まだ外野三段は来ていなかった。少し迷ったが、上座に腰を下ろした。温かいお茶の入った水筒を二本、鞄から取り出した。
 数分後、外野三段が部屋に入ってきた。びっくりした。和服だった。
 紫地に、薄い桃色の花が描かれた、とても美しいものだった。同じ部屋にいた先生たちも見とれている。
 僕は、黒と白のチェニックブラウスに水色のロングスカート、とても地味だった。
 外野三段はちらりと僕の座っている座布団を見てから、一礼して下座に腰かけた。僕に対しては一切視線を向けなかった。赤い唇、白い肌、長い睫毛、全てが美しかった。
 僕は、少しずつ事の重大さを飲み込み始めた。外野三段にとって、チャンスは何度もないのだ。そして、倒さなければならない相手は、今まで彼女を負かしてきた相手ではない。
 今からすぐに、気合が入るものでもない。僕は、将棋に勝つことを考えるしかない。
 歩が四枚出て、先手になった。急がないように、焦らないように。僕は、自陣の駒を一つ一つ眺めた。
 王将が、小さく見えた。
 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。傘を持ってきていない。
 湿気の多い日は、駒が重たい。7七にある歩を何度かつついた。そして軽く持ち上げ、1マス前に進める。駒が盤に吸い込まれていくようだった。
 奥歯が痛んだ。どうにも、乗れない。


 昼食を食べ終わった後、鏡を見つめていた。
 特に華がある顔ではない。勝負師のにおいはしない。
 対局をなめ過ぎていた。簡単に勝てる将棋を、簡単に勝ちすぎた。内容はまだ互角だが、完全に僕は呑まれていた。
 鏡の中に、背広が映った。振り返ると、定家五冠(最近新たにタイトルを獲得した)がいた。
「木田君。その顔では勝てないね」
「え……」
「君の頂は、終わってしまったのかな。到達者の顔をしているよ。私もまだ到達していないのに」
「……」
「君の将棋には、粗削りだが先に進もうという姿勢が感じられる。でも、今日の将棋はどうだろう。下界を眺めてまどろんでいるようだ」
「……」
「つまらない将棋に価値はない。それは男も女も、棋力も関係ない。プロならば、自分の枠にとらわれないことをお勧めするよ」
 それだけ言うと、定家五冠は控室を出て行った。
 奥歯が痛いわけが分かった。唇は緩んでいるのに、奥歯は噛み締めていたのだ。いつもとは全く違う意味で、心と体が一致していなかった。そして、超一流は下っ端のそんな状態など一目で見抜いてしまえるということを知った。
 それでも、心の奥歯は噛み締められなかった。


 覚悟をした。この将棋は、次の一手で決まる。
 夕方、少し日差しが戻っていた。駒も軽くなっている。
 僕の細かい攻めがぎりぎりつながり、相手玉に受けがなくなってきた、かに見えた。しかし、歩切れの僕は大駒での王手に対して逃げるしかない。合い駒をすれば受けられるが、それでは攻めが完全になくなってしまう。逃げて逃げた先に、王手と金取りがかかる。取られるのは歩一枚だが、こちらにとっては大事な攻めの拠点だ。と金を取られて投了なんて、それは惨め過ぎる。
 だから、角で王手されたら投了するしかない、そう思っていた。もう駄目だ、そう思っていた。
 けれども、次の一手はなかなか指されなかった。外野三段の左のこめかみから、汗が流れている。眼は血走り、口は空いたままだった。そして、右手が桂馬をつまんだ。桂馬のただ捨てから詰みそうな筋があるのだが、途中もらった桂馬を合い駒して詰まない順があることはすでに読んでいた。桂馬で詰めろをかけても、王手王手で上部を開拓していけば詰めろは解ける。
 相手も焦っている。確かに、完璧に指し続けられるならば、もっとタイトル戦に出られるはずなのだ。
 もう僕は、待つしかない。多分、どの手を指されてもこちらが間違えるということはないだろう。
 その時、偶然外野三段と目があった。しまった、と思ったが遅い。おそらく僕の顔色から、自分が負ける筋があるのを感じ取ってしまったのだろう。外野三段は、桂馬から指を離した。
 到達者のまどろみ。確かに、そうだ。
 駒台の角が、摘みあげられた。僕はお茶を口に含み、唇をなめた。
 角が、遠く王将をにらむ。
「負けました」
 その瞬間、視界が開けるのが分かった。下山を覚悟したときに、初めてもっと高い山のことを考えることができるのだろう。



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