閉じる


<<最初から読む

6 / 16ページ


 外は雨。強く窓をたたく音。
 さっき、沖縄から帰ってきた。
 住み慣れたこの街の方が孤独だなんて、それを知ってしまうのも少し辛い。
 けれども、孤独になるのを知ってここを選んだ。
 テーブルの横に置かれた将棋盤。脚付きの立派なものだ。
 もうすぐ、最終局。
 盤上には、海が広がっていた。砲弾の飛び交う、青い青い海。


 そのニュースを知ったのは、兄弟子からのメールだった。
 そして、続けて本人からもメールが来た。
 要さんが、結婚する。
 それは別に不思議なことではないし、喜ばしいことのはずなのだ。
 要さんへの返信の言葉を何度か打って、消した。
 棋譜をどこまで並べたのか分からなくなった。気が付くと窓の外が暗くなっていた。ベランダに出て、遠くを見た。星の見えない夜だった。
 思い出せない。僕はどういう風に思っていたのだろうか。
 実は、なんてことがないのだ。
 最初から、何もありはしないのだから。


 眠ったのだろうか。
 よくわからないままにこの日を迎えた。
 着付けをしてもらってる間も、いつも通りにできたような気がする。何を話したかは覚えていないが、おめでとうは言えた気がする。
 泣けなくても笑えなくても、この勝負は今日で終わる。今の僕にできることをするしかないと、思っている。
 鏡を見ると、少し頬の細くなった、僕が映っていた。目じりも口元も、少し下がっている。
「悔いを残さないようにね」
 要さんの言葉に、小さくうなずいた。心が波立たない。いや、心に何の潤いもなかった。悔いを残したことなどないし、悔やまない日はなかった。
 対局室に入り、盤の前に正座する。木目の入った、白い盤を見つめる。黒い線が引かれていて、四つの丸い点。海もなければ、絵も描かれていない。
 少し経って、先輩が入室してきた。二局目までとは異なる、落ち着いた麻色の着物を着ていた。将棋祭りでも見たことがない、初めて見るもの。
 駒袋から解き放たれる駒たち。流れるような華麗な書体。見た目でいえば、僕は「銀将」が特に好きだ。
 再びの振り駒で、僕は先手になった。角の右前の歩をつかみ、一つ前に突き出す。指先へとレンズが向けられ、いくつものシャッターの音が聞こえる。
 目を閉じた。真っ暗だった。驚くほどに何も浮かばず、吐き気どころか緊張感すらなかった。
 指し手が進んでいく中で、僕は少しずつ鼓動が遅くなるのを感じていた。盤面と駒台だけが視界の中にある。ふと顔を上げた。対局相手、記録係、立会人、ちゃんといる。風の音、水の流れる音、ふすまの開閉する音、聞こえる。そして盤上に視線を戻すと、世界が木製になる。ああ、これが欲しかったものだ。
 世界に、黒い線が走る。前髪だった。きちんとセットしたはずなのに、束になって落ちてきた。かき上げたが、また落ちてきた。
 立ち上がり、部屋を出た。トイレに入り、鏡を見ながら髪を整える。これぐらいならば、ぼくだけでもなんとかできそうだ。
「もう、連絡しないって言ったじゃないですか」
 個室の中から、嗚咽の混じった声が聞こえてきた。誰か入っているとは思っていたが、電話をしているようだ。
「……あたし、結婚するんですよ。わかってくれたじゃないですか。……あたし、彼と幸せになるんです」
 それは、まぎれもなく要さんの声だった。立ち去らなければと思うのに、体が硬直してしまう。
「……先生とは、もう……」
 めまいがした。そしてそれは、決して要さんのせいだけではなかった。
 頭の中が重たくなったり、軽くなったりする。
 くらくらとして、どろどろとした。
 ……予定より、三日早かった。
 洗面台に手をつき、深く息を吸った。まだ始まったばかりだ、なんともない、と自分に言い聞かせる。けれども、この事態への対処は全くできていなかったのだ。一応、ものは用意してあった……けれども、心構えは。
 トイレを出て、控室まで走った。なんだか、色々とよく分からなくなっていた。それでも、今は立ち止れない。


 視界が固定できない。
 初めてではないのだ。一ヶ月に一回は訪れるもの。だから、対局と重なることがないわけではない。それでも……正直、ほとんどは力ずくで勝ってきた。この世界に入った時点で、ほとんどの仲間は僕より弱かったのだ。そして、僕が本当に勝負しなくてはならない人とは、年に数回しか当たらない。四年間、僕は幸運にも体調の良い日に勝負の時を迎え、さらに運の良いことに、タイトル戦に出るまでの実力はなく、大切な勝負が増えることはなかった。
やっと、つかんだのに。
 運悪く、僕はもっとも大切な勝負のさなかにいる。
 左手で腹部をさする。温かくなると、少し楽だ。それでも、そんなことを考えさせられるだけで困っている。ただひたすら盤上に没頭できていた数時間前は、いったいなんだったのか。条件は同じなのだと頭ではわかっても、それでも僕は悔しくてたまらない。この痛みと、この痛みの意味が、胸の芯まで締め付けてくるようだ。
 平べったい駒が、自己主張を隠さずに僕に訴えかけてくる。どれもが玉なんか放棄して、どんどん前に出て行きたがっている。女流は攻めることしか考えない、なんて陰口を思い出す。体が脳を支配して、僕の将棋を邪魔してくる。ああ、攻めてしまいたい。相手は絶対に攻めてくる。ここで殴りあえなくて、これ以上、上を目指せるというのか。
 混乱が混乱を助長している。こんな混乱は困難な懇願を懇請させる。
「ああ……」
 思わず声が出た。心が漏洩した。
「う……」
 目を閉じた。息を吸った。大きく吐いた。
 舌を噛んだ。
 耳の後ろの方で、きらきらと光るものがあった。僕はそのきらめきを追いかけて、包み込んだ。研修生の頃、初めてその戸惑いに襲われた時のことを思い出す。僕は必死に、それがなかったことにして盤上の絵画を見つめ続けていた。どんどん渦巻いていく模様。次第に、将棋の内容について忘れ始めた。僕は、その棋譜を覚えていない。ただ、将棋が終わるなり涙があふれ、気が付くと知らない公園にいたことを憶えている。
 ごまかしのきかない事実の前に、僕はうろたえるしかなかった。どろりとしたものとともに、希望までもが流失していった。子供の頃の僕は、いつか体が心に追い付くのではないかとか、そんなことを思っていた。そんなはずはないのだけれど、願っていた。
 局面は、動き出している。中盤の難しいところで形を整えていくのが、僕の持ち味だった。定跡の影響が薄れ、対局者の力が試される場面。それなのに僕には、うっそうと茂る樹海のようなものが見えているばかりだった。これから歩む道どころか、これまでの足跡も見失っていた。それでも、必死に頭を働かせ続けた。考えるのをやめたら、何かが消滅してしまう気がした。今後、何度もこのような状況は訪れるだろう。そのたびに立ち止まらないためにも、今こそ前に進まなければならない。
 三時になり、おやつが出された。シフォンケーキとストロベリーティーだった。甘い香りが、僕の頭を少し柔らかくしてくれるようだった。ケーキを口にすると、気分もちょっと落ち着いた。
 視線を上げると、相手はおやつなどに目もくれず、盤面を睨みつけて読みふけっている。長年女流棋界を引っ張ってきたこの人は、いつだって手を抜かない。時には男性棋戦でも活躍し、世間の目を向けさせることもした。若い世代が台頭してきても、トップはいつだってこの人だ。僕も、尊敬している。この世界にいることが不本意だとしても、この人と真剣勝負ができることはとても嬉しいことだ。
 イチゴの甘ったるい味が、喉元を過ぎたとき。とにかく僕は、決断した。長い長い勝負でも、乗り越えていかなければならない。焦らされるような局面に対して、喜びさえ覚えなければならない。体内から排出される血と引き換えに、僕はこの勝負を肉に変えてみせる。今まで積み上げてきたもの、我慢してきたことを、体を言い訳にして無駄にしたくなんてない。
 駒台から、銀をつまみ上げた。さっき交換したばかり、宿舎に入って一息つけたばかりの銀を、玉の上に置いた。8七銀打ち。相手の突き捨てを咎めに行く、強情でリスクの大きな手だ。自玉は固くなるが、攻めは細くなる。ひたすら相手のパンチを受け続けることを、覚悟しなくてはならない。
 それでも、これが僕の棋風だから。
 川崎の顔が浮かんでいた。彼との差は、こんなところで立ち止まっては埋まりようがない。僕はまだ、あきらめたくない。男として生きられないのならば、一人の棋士として生きたい。そしていつか、一流の人間がいる場所へ……。
 思ったよりも早く、応手が指された。受けたところをこじ開けようとする、剛直な一手だった。予想通りだ。これを乗り越えなければ、次のステージには進めない。僕は、一分と経たないうちにその攻めを真正面から受け止める一手を指した。選択肢はたくさんあったが、流れからは一つしか手はなかった。盤上に赤い川が流れている。敵の兵隊が溺れながらも、こちらの岸に向かって必死に進んできている。僕は、それを岸辺で撃退する。笑いながらできたらいいけど、泣きそうになりながら。スカートの裾を引きずって、銃を撃つ。
 どれだけ受けても、相手はひるまなかった。もちろんだ。そうやっていくつものタイトルを守ってきたのだ。僕も、ひるまない。相手にも、体にも負けたくない。
「すいません、お茶を」
「はい」
 いつもペットボトルの飲料水を持参しているのだが、体を温めなければならないと思った。そして、蓋を空けるのも面倒だった。少し苦いぐらいが、今はいい。記録係が運んでくれたお茶を、一気に飲み込む。少年は、目を丸くしていた。
「もう一杯」
「あ、はい」
 エネルギーが足りない。出ていく以上に補給しなくちゃ、頭が働かない。二杯目を飲み干すと、黙って三杯目を注いでくれた。
 時間が残り少ない。僕は立ち上がり、トイレまで走った。出せるものは全て出し、代えられるものは代え、最後の戦いに向けての準備を整えた。
「もう、やるしかないよ……」


 多くの子供は、父から将棋を教わった、と言う。僕は、自分で学んだ。将棋の本を買って、こっそりとルールを覚えた。
 そのころ僕は病院に連れら れて行ったから、なんとなく、自分がどう思われているのかを分かり始めていた。僕は泥んこになって遊んだり、ヒーローのまねをしたり、野球に夢中になって はいけなかった。母は可愛いスカートを買ってきて、かわいい、かわいいと何度も言った。僕は反抗しなかった。自分がどういう存在なのか、ずっとずっと前か ら分かっていた気もする。我慢していれば、いつか変わることができる。そう、例えば将棋で一番になれたら。
 教室では何も問題がなかったし、すぐ に一番になることができた。学校の中でも、負けることはなくなった。そして、さびしくなった。女の子に負けたくないからと、相手も少なくなった。学校から 帰ると、一人きりの部屋の中で、「僕対僕」で将棋を指した。強くなっているのか分からない。
 それは、遠足の帰りだった。家の近くだけれど、普段は行かない場所を通った時、「将棋道場」の文字を見つけた。僕は立ち止り、しばらくその看板を見上げていた。
「木田さん、どうしたの」
 先生の声に、しばらく考えてから僕は答えた。
「私……」 
 ここに行きたい、という言葉を飲み込んだ。誰にも言ってはいけない、と思った。僕は、いつかここに行く。誰にも止められないように、こっそりと。
 すぐには決行しなかった。ばれたら、将棋自体を取り上げられてしまう、と思った。そして、ついにその日は来た。母が祖母のお見舞いで実家に戻り、父が帰ってくるまでの時間、僕は自由を得ることができた。父はだいたい、八時までは帰ってこない。
 いったん家に帰り、ランドセルを置いた。高ぶる気持ちを抑えながら、しばらくじっとしていた。みんなが下校を終えてから、僕は道場に向かった。
 ビルの二階。暗い階段を上って、重たい扉を開けた。畳の上に、脚付きの分厚い盤が並んでいた。対局している人はいなかった。
「お譲ちゃん、どうしたね」
「あ……ここ、将棋……指せますか?」
 目の前に、大きな大きな手が現れた。視界から消えたかと思うと、頭をなでた。
「もちろん。お譲ちゃんは将棋指すんね」
「……はい!日本一強くなりたいんです!」
 それが、師匠との出会い。僕を見守ってくれる人……


 盤面に集中していたのに、気配を感じた。来ないと言っていたのに、あの人は現れた。僕に見つからないように襖の陰に隠れているけれど、半分以上見えてしまっている。
 顔を合わせるのは半年ぶりぐらいだ。プロになってからは、ほとんど会っていない。
 あの人がいなければ、僕はこの世界に入ることができなかっただろう。
 僕が本当に心を許している人は、世界に二人しかいない。血がつながっていないのは、あの人だけだ。
 自分の頬が緩んでいるのに気が付いた。昔のことを思い出して、存外に楽しくなったのだ。辛いこともあったけれど、僕はここまで将棋をやめずにこれた。今日の結果がどんなふうになっても、やめることはないだろう。
 局面は、終盤に差し掛かっている。


「さくらを迎えに来ました」
 扉の前に、母が立っていた。僕には、連行しに来た警察官に見えた。
「さくらちゃんのお母さん?」
「はい」
 恐る恐る、母の顔を見た。両目がいつもの半分ぐらいの薄さになっていた。怒っているときの特徴だった。
「そうですか。いやあ、さくらちゃんは強くなりますよ」
「やめさせます」
「え」
「将棋なんて、やめさせます。さくらは女の子なんです」
 母は、僕の手をつかんだ。体が硬直して、唇も震えていた。
「……将棋なんて、ってことはないですよ。頑張ってる女の子もたくさんいます」
「いいえ。何と言われようとやめさせます」
「それに、さくらちゃんは男の子でしょう」
「……何を言ってるんですか」
「気付かないはずがない。さくらちゃんは体以外全部男の子だ。だから、将棋を好きになってもおかしくないでしょう」
 母はそれ以上何も答えず、僕の手を引っ張って道場を出て行った。
 家に帰ってからも、二人とも黙ったままだった。食事の時間が近付いても、母は椅子に腰かけてぼんやりとしていた。
「たっだいまー」
 沈黙を破ったのは、樹だった。
「あれ、準備は?」
 母は樹にうつろな視線を向けたあと、首を横に振った。
「何かあったの」
 僕も、すぐには声が出せなかった。樹はそんな僕を子供部屋まで手招きして連れて行った。
「姉ちゃん、母さん怒らせたの?」
「……うん」
「悪いことした?」
「……わからない」
「ちょっと待ってて」
 部屋から駆け出て行った樹は、大きな四角い箱を持って戻ってきた。
「じゃーん」
 机の上に置かれたのは、白くてまん丸いケーキだった。最初意味がわからなかったが、四角いチョコレートに「おめでとう」と書かれているのを見てわかった。僕の誕生日だったのだ。
「って、みんなで言う予定だったんだけど」
「……ごめん」
「謝んなよ。なんか、理由も想像つくし」
「……ご……ありがとう」
 それからしばらく、樹以外の家族とは口をきかなかった。道場にも行かなかったし、将棋も指さなかった。


 二か月ぐらいたった時だった。
「姉ちゃん、明日街行かない?」
「え?」
「将棋の大会があるんだ。お母さんにはさ、買い物って言っとく」
「……でも」
 それまで、樹とは将棋の話をしたこともなかった。それなのに樹は、僕に足りないもの、欲しいものを知っていたのだ。
「なんで我慢するのさ。いい子にしてたって、何にも貰えないよ」
「……うん」
 次の日、自転車で行くからとうそをついて、朝早くバスで街に向かった。地図を頼りになんとか大会会場を見つけ、二人で建物に入って行った。
「受け付けはこっちだよ」
 ひげのおじさんが声をかけてくれた。
「おや、お姉ちゃんは付き添い?」
「何言ってんだ、桜が参加するんだよ」
「ああ、それはごめん。B級でいいかな」
「Aに決まってんだろ、なあ」
「え、私は……」
「男ならてっぺん目指すもんだろ。Aに一人、木田桜っと」
 樹は勝手に参加の手続きをして、自分の財布から参加費を支払った。
「ごめん」
「いいんだよ。ここまでしてやったんだから、活躍しろよ」
 会場に女の子は一人だけだった。それでも将棋の大会に参加できるということで興奮して、周りの目は気にならなかった。言われるがままに着席し、最初の対局が始まった。そして驚くほどあっさりと、勝ってしまった。正直、話にならなかった。
「すげーじゃん! よくわかんないけどさ、圧勝だってみんな言ってたぜ」
「……うん。うまくいった」
 次の将棋も簡単に決着が付いた。相手は定跡も関係なく、思いついた手をポンポンと指してくる感じだった。日頃師匠に教えられていたことを実践して、落ち着いて相手の手を咎めていくと、簡単に必勝の局面になった。知らない間に僕は、かなり強くなっていたようだった。
 そのあとも、順調に勝っていった。次第に、みんなが注目しているのが僕にもわかってきた。誰にも知られていないうえに、女の子なのだ。負けた中には、泣きだす奴もいた。少し、快感だった。
 そして、ついに決勝戦まで来てしまった。相手は、見るからにおとなしそうな細面の少年だった。小学生らしくない落ち着きがあり、ゆっくりと駒を並べる動作を見て、それまでの子とは違うということが感じられた。
「川崎です。よろしく」
「え、あ、木田です」
 僕たちの周りには人だかりができていて、急に緊張してきてしまった。とんでもないことをしてしまったのではないか、そんな気がしてきた。前日まで、僕は大会のことも知らなかったのだ。普通に行われるはずのものを、かき乱してしまったのではないか。
 勝負は淡々と進んでいった。定跡通りの、がっちりとした相矢倉。それまでの相手とは全く違う、本格的な将棋になった。初めて、ちゃんとした勝負をしているのだと思った。
  けれども、相手にとって僕は「ちゃんとして」はいなかっただろう。中盤以降、力の差が如実に局面に反映され始めた。駒が抑え込まれて、突破口がなくなって くる。無理に手を作ろうとして、丁寧に対応されてなお悪くなる。師匠に指導されているときのような、圧倒的な差を感じていた。それでも、あきらめたくはな かった。やっと、将棋を本当に楽しめる相手と出会った、そんな気がしていたから。
 僕の囲いは全く崩れていない。それでも、もう勝負はどうしようもなくなっていた。
「負けました」
 僕がそう言った時、周囲はざわめき、相手は意外そうな顔をした。普通はもう少し指すものなのか、ぼんやりとそう思った。


 少し、こちらが指しにくい局面だった。それでも目に見える差があるというわけではない。きっちりと受け続ければ、絶対にチャンスはあるはずだ。
 持ち時間はほとんど残っていない。終盤は秒読みで乗り切らなければならない。ここで差をつけられたら終わってしまう。
 盤面は四角い。時に、それを忘れてしまうことがある。けれども今はっきりと、八十一マスが視界に入っている。腹部が煮えたぎるような気持ち悪さも、脳味噌が痙攣するような苦痛も、すでに受け入れている。勝負なんだ。あの日、わけもわからず大会に参加したときとはもう違う。たった二週間に一回、死に物狂いになるだけでいい。将棋棋士とは、そういうものだったのだ。明日からは寝たいだけ寝ればいいし、笑いたいだけ笑えばいい。けれども今は。ここに答えを。一つでいい、答えを。
 玉頭付近のごちゃごちゃした勢力争いを、何とか乗り切る一手。できれば、攻めにもなるような一手。攻防にも効く一手というのは、角が活躍する場合が多い。駒台には角が二枚。自玉にも利き、相手にもプレッシャーを与える場所。
 一か所、ある。何ということだろうか、そんなところにスペースがあったなんて……。3四角。自玉のと金に当たっており、放っておくことはできない。また、次の2四歩が相手玉に迫る厳しい一手となる。ただ、問題は3三に相手の歩があることだ。この角はただなのだ。けれども角を取ると、4四角が王手飛車取りになる。飛車を取るとやはり2四歩が厳しい。
 うまそうな手には気をつけなければならない。相手に角を渡しても、自玉が安全なのか。先に2四歩の方がいいのではないか。
「残りは」
「三分です」
 山場は、もう一回来るはずだ。この三分は、残しておきたい。
 僕は角をつまみ上げ、ゆっくりと打ちおろした。
 一瞬、部屋の中の空気が澄み渡り、全ての音が遮断されたような気がした。ふと顔を上げると、相手もこちらを見ていた。笑っているような困っているような、よくわからない顔だった。
 五分も経たないうちに、応手は指された。打ったばかりの角が、相手の駒台に置かれた。王手飛車をかけさせる、挑発的な手だ。そして、それは予想通りの手だった。
 問題は、飛車を取った後の猛攻をしのげるか、ということになった。2四歩が入れば、こちらの攻めが切れることはない。
 また、湯呑みが空っぽになった。
「お茶を」
「はい」
 渡したばかりの角が、今度はこちらの陣に打ち込まれた。ついに、本当の決着の時が近づいてきている。


 僕にとっては運が良かったのか悪かったのか。
 両親が別居して、僕たちは母の実家に住むことになった。親戚はみんな優しく、母は僕たちに全く無関心になっていった。
 転校した先では一切将棋を指さなかった。全く学校には愛着がわかず、僕は女の子らしく振る舞うことで注目されないようにと努力した。そして家に帰ると、ネットの将棋を指し続けた。誰も、僕にそれをやめさせようとはしなかった。かわいそうな僕から、何かを取り上げようとする勇気のある人がいなかったのだ。
 将棋に勝ち続けて、ふと虚しくなることがあった。きっとまだ川崎には勝てないのだろう、何度もそんなことを考えた。再戦したい。勝てなくてもいい、せめて、ライバルと思われるぐらいの勝負をしたい。
 県すら違う状況では、顔を合わせることさえできはしないのだ。僕は決意した。県代表になって、川崎と当たるところまでは負けない。不思議と、川崎が代表にならない可能性については全く考えなかった。すでに、彼からは特別な空気が流れているのを、感じ取っていた。
 強くなりたい。それだけが生活の全てになった。詰め将棋もするようになった。そして、将来のことも考えるようになった。このままずるずるとこの体を引きずって歩くよりも、盤上に委ねる生き方をするべきではないか……
「笑いなよ。ゲームなんだから」
 ある日、樹は僕に言った。
「勝ってるじゃないか」
 僕は、弟の目を見ることができなかった。
「姉ちゃんは、どうなりたいのさ」
「……日本一になりたい」


 そして、一年ぶりの大会。再び、誰も僕のことを知らなかった。そして、僕は淡々と指し続け、優勝した。自分でも強くなっているのが分かった。
「全国大会、行くよ」
「ええ、よかったね」
 母はまるで関心がなく、虚ろな眼をしたままうなずいた。付き添いが必要だったが、頼める気はしなかった。そんなことまで考えていなかったので、途方に暮れた。
 次の日、来客があった。家には僕しかおらず、ネット対局を中断して玄関に走った僕は、扉をあけた瞬間に、泣きそうになってしまった。
「さくらちゃんが代表になったと聞いて」
 そこには、師匠が立っていた。
「樹君から住所は聞いていたんだ。将棋を続けていると知って、嬉しかったよ」
「……ずっと続けます」
 涙がこぼれ始めていた。生まれて初めて、自分は運がいいのだと思った。
「そうか」
「だから……師匠になってください。日本一になりたいんです」
「子供の、ではなくて?」
「プロになりたいです」
「そうか」


 鼓動の音が脊髄から染み込んできた。
 単純に疲労が蓄積するうえに、全く予想外の一手を指された。飛車の頭にただ捨ての2七桂。取れば横利きがなくなるが、取らなければ3九が拠点になってしまう。頭の中が沸騰しそうになっている。
 ここだ。ここで、三分だ。
 奨励会試験に落ち、悩み、迷い、無力感に襲われ、それでも食らいついてここまできた。望んでいた世界にはまだ遠いけれど、今ようやく初めての「日本一」が手に届くところまで来ている。多分、次の一手で決まる。
 この手は、僕が放った角のただ捨てが誘引したものだ。意地とプライドが、ひねった手を見せつけようとさせるのだ。最善手ではない。冷静な一手が、決め手になる、はず。目を閉じた。青い海が……
 もう、持ち時間はなくなった。そして、必要なかった。きっとこの一手で、相手も時間を使い切らなければならなくなる。お互い秒読みで、最後の殴り合いだ。
 駒台から飛車をつまみ上げた。角を犠牲にして取った飛車だ。敵陣に打ちおろして、攻め合いを期待されていた飛車。僕はそれを、自陣の飛車の横に置いた。
 3八飛車。二枚の飛車が、ぴったりとくっついている。見たことのない受けだったが、自信があった。3九などからばらして桂馬がいなくなれば、2八の飛車が縦に利き、攻めが続く。放っておけば、次に桂馬を取ることができる。
 これ以上の手があるとしても、今の僕には届かないだろう。
 五分経ち十分経ち、相手の持ち時間もなくなった。これからは二人とも一分以内に次の手を指さなくてはならない。脳味噌から乳酸がこぼれおちそうだ。
 飛車の力が強く、自玉は絶対に詰まない。その代わり、相手玉も今のところは安全だ。駒をもらわなければ、こちらが攻め勝つということはない。
 そんなわけで、指された手は2五香だった。
 桂馬を取らせず、攻め味も見せた強情な一手。善悪なんて考えてられない。言い分を通すわけにはいかない。
 すぐに、三十秒が経過する。ここで、だいたいの指し手は決まっている。それでも、延々と読み続ける。終盤の失着は、負けに直結する。特に僕の飛車は、どちらも相手の人質になっているような状況だ。どんな危ない筋が出現するか、わからない。
 喉がからからになる。肺が痛くなる。子宮が嘆く。全てのものを受け入れて、勝負に没頭する。
 四角い盤が、時折形を崩すようになった。駒台に乗っている駒の文字が見えなくなってきた。頭の中の盤で再現するしかない。
「ああっ」
 思わず声が出た。古いものを全部吐き出したのかもしれない。
 何分ぐらい戦ったのだろう。よくわからないが、負けにはなっていない気がする。しかし、全く勝ちにはなっていない。これが、女流棋界を支えてきた力。これが、将棋にまっすぐ取り組んできた力。
 二枚の飛車が、いつまでもその力を保っていた。そしてやっと、僕に攻める手番が回ってきた。戦いは二筋へと移った。攻めるといっても、渡す駒によってはこちらが急に危なくなってくる。読まなければいけないことが多すぎて、頭の中の盤がくるくると回転しているようだ。しかし、一筋の道も見えている。この勝負は、この道がどこに続いているかによって決まる。
 後手玉に詰めろがかかった。それに対し、詰めろ逃れの詰めろが放たれた。ここまでは、プロならば誰でも読める手順だ。問題は、ここでどう受けるか。一見よさげな手は、全て罠が待っている。玉を動かすのは、と金に迫られて無効。中合いをすると、香車を打たれて厳しい。だが、一つだけ、駒を使わず、玉も動かさない手があった。絶対にこれで勝ちという確信はないが、それでも何となくやれそうな気がした。
 3八の飛車へと手が伸びる。その時、袖が駒台に引っ掛かった。歩が二枚、こぼれ落ちる。
「七、八……」
 しかし、秒読みは待ってくれない。この手だけは絶対に指さなければならない。僕は飛車の後ろに指をかけ、何とか一マス、押し出した。
 3七飛車。
 攻めに利かせ続けながら、玉の逃げ場所を増やした一手。王手は続くが、こちらの玉に詰みはない。これで、ぐっと勝ちが近づいたはずだ。相手から有効な手が少ない。と金が動く手には、2七飛車寄りが決め手になる。これが、詰めろ逃れの詰めろ。受ければ、2五の香車まで取れる。勝ちになった……
 けれども、意識が遠のいていく。駒台からまた歩が落ちた。駒を拾わなければならないが、右手は床についたまま動かなくなっている。首に力が入らず、腰から下しか見えない。読みにない手を指されたら、もう対処できないかもしれない。ああ……
「負けました」
 その声を、僕はすぐには理解することができなかった。最後の力を振り絞って頭を上げると、そこには深々と一礼する峰塚女流四冠の姿があった。
 そしてこの瞬間、峰塚女流三冠になったのだ。
 僕も、精一杯頭を下げた。
「これで、手がないもんね」
 いろんな人が対局室になだれ込んできた。フラッシュがまぶしかった。
「ありがとうございます」
 そして僕は、涙が止まらなかった。泣く予定なんかなかったのに。今一番うれしいのは、峰塚さんが僕を認めてくれたことだった。ここから逆転なんて、いくらでも起こることだ。僕相手にはそれがないと思い、投了してくれたのだ。
 師匠が肩を叩いた。どんな顔をしていいかわからなかった。要さんが笑っていた。僕も笑おうとしたが、笑えているだろうか。
 一つ目の日本一を、やっと手に入れた。けれどもまだ、まだまだ遠い。女流の一番にも、若手の一番にも、将棋の一番にも、とても遠い。
 掌の中にある歩を見つめながら、僕は誓った。まだまだ、立ち止まらない。

 多くの祝福を受けても、家に帰ってくると一人だった。
 いつも通りの自分の部屋を見て、僕はまだ道の途中なんだと実感させられる。将棋盤に棋譜のコピー、ネット対局にしか使わないパソコン。強くならなければ、言い訳のできない生活。
 家を空けている間に、ポストにもいろいろと溜まっていた。その中に、青い封筒があった。差出し人には、築山美鶴と書かれていた。
 中には手紙と、銀色のペンダントトップが入っていた。細長くて、剣の形をしている。

「木戸桜様へ
 この前は本当にありがとうございました。助かったし、面白かった!まだまだ話したいことあるし、また来てね。
 ほんとはね、アクセサリー作って食べてく予定だったんだ。でも、一年で二万円しか売れなかったんだ。今は趣味で作ってるよ。
 桜には、これが似合うかなと思って。あ、将棋頑張ってね。
返事待ってるぞ!
みつる」

 さっそくそれを、ネックレスに付けてみた。面白いほどに、僕には似合わない。けれども、好きになった。これを選んでくれた美鶴に、感謝したい。
 洋服箪笥の奥にしまっていたものを、思いっきり引っ張りだした。履き古したジーパン、お気に入りのジャケット。
 一つの区切りが付いた。息苦しいのは、いったん止めよう。


 比べ物にならない空気の緊張感が、こちらまで伝わってくる。
 山中の老舗旅館。タイトル戦にふさわしい、簡素で美しいところだった。今回僕は勉強のためだけに、ここまで来た。
 定家四冠対川崎六段。注目の対局だが、東京から遠いということもあり一日目から来ている人は少ない。ネット中継もされているので、自宅で見ているプロも多いのだろう。
 男性のタイトル戦では、だいたいのプロが和服を着る。定家四冠はもちろん、川崎も和服を着ている。濃い藍色の、さっぱりとしたものだった。線が細いので、似合っているとは言えないが、何となく風格が出ている気もした。
 すでに対局は始まっており、本格的な相矢倉になっている。最近は様々な戦法が指されるようになり、特に若手は自由奔放な振り飛車を好む傾向にある。しかし川崎は、子供の頃から居飛車の基本的な形ばかりを指し続けている。研究会に参加しているという話も聞かないし、将棋会館でもあまり見かけない。家で黙々と研究しているのだろうか。それとも、実戦だけで鍛えられているのだろうか。長い付き合いだが、そういうことは何も知らない。
 ここ最近仲間内では、川崎が何勝できるのか、が話題になっていた。タイトルを獲る獲らないでは、賭けにならないのだ。何せ定家四冠は、十年間で三度しかタイトルを奪取されていない。しかも普段の対局でも、二十代に対して勝率八割以上、六段以下には二敗しかしていないという驚異的な勝ちっぷりなのだ。一勝でもすれば川崎の健闘、そんな雰囲気がみんなの間に漂っていた。
 冷静に考えれば、その通りだと思う。川崎の力は若手の中では筆頭だが、将棋界の中ではまだまだひよっこなのだ。誰に勝ってもおかしくないが、誰に負けても驚かれない。調子がいいときにこうしてタイトルに挑戦できても、長い七番勝負の間ずっと調子を維持できるわけではない。川崎は負けるだろう。二勝できれば上出来だ。
 それでも。それでも、僕は川崎を応援している。僕がずっと目標としてきた人間が、あっさり負けるところなんて見たくない。川崎を目指すことが、頂を目指すことであってほしい。
 まだ、勝負どころは来ていない。何百局と繰り返されてきた序盤だ。おそらく一日目はそれほど進まない。二日制では礼儀みたいなものだ。
 数日前に自分が経験したものとは、明らかに違う空気だった。本当の日本一が、ここで争われているのだ。多くの人が望んでも届かない場所。年間のべ十四人、実際には十人未満しかその舞台には立つことがでない。タイトルを持つのはたったの四人。遠い。ひどく遠い。
「んー、今日はどこまでいくかねー」
 立会人のベテラン先生は、将棋の内容には今のところ興味なさそうだった。何かトラブルがあったり千日手になったりしたら大忙しだが、今日のところは特にすることはないのだ。気が緩みまくっている。
「案外川崎は手を用意しているかもしれませんよ」
 真面目に駒を動かしているのは善波五段。僕たちと同学年で、奨励会も同期。ただ四段になったのは二年遅れ、今のところ目立った活躍もない。
「まあ、ここでどう指すかだよねぇ」
 その前に座るのが僕。善波が定家四冠、僕が川崎の側を持って検討をしている。局面は矢倉の最新定跡、先手が穴熊に潜った後、後手がどう対応するかというところだ。
「まあ、6四角が普通だね」
「でも6五歩に7三角と戻るのが、なんかねえ」
「そうは言ってもみんなそう指すからね。ただ、俺も必然とは思わない」
 他にもプロは来ているのだが、解説会に出ていたり、散歩に出かけていたり。二日酔いで寝ているんじゃないかという人もいる。
「あ、今の載せてもいいかな」
「え、いやあ、控え目にお願いしますよ」
 メモ帳片手に声をかけてきたのは、ネット配信係の根岸さんだ。パソコンに指し手や解説を入力し、頻繁にネット配信している。指し手のほうはなかなか進まないので、控室の様子などが主な現在の情報だ。
「ええと、『善波五段いわく、現在の定跡が必然とは思えない』と」
「いやいや、まずいですよそれ」
 暇といえば暇だった。それでも、全てを見守りたいという思いがあった。後はともかく、最初のタイトル戦でどのような戦いぶりを見せるのか、それを見届けたかった。
「木田さんは何かコメントないかな」
「うーん。川崎は胃腸が弱いんですよ。昨晩いっぱい食べたと聞いたので、胃腸の調子がどうなるかが勝負に響かないといいですね」
「なかなか凝ったコメントありがとう」
 自分が対局しているときは、あんなに時間が足りなくなるのに、なんて思う。今、川崎も独特な時間に浸っているだろうか。
 あそこに、たどり着くには。
 駒を動かしながらも、余計なことばかりを考えてしまう。席をはずし、外の空気を吸った。全く緊張感のない空気だ。
 腕をぶんぶんと振り回した。将棋って、疲れる。


「しっかしねー」
 二日目。控室の人数も増え、活気も出てきた。
 しかし、対局の方はいまいち盛り上がっていない。
 封じ手も予想通り、いまだに前例のある展開だった。
「これ、このままいったら見所ないよ」
 A級の先生が、眉をしかめながら局面を見つめている。そう、この前例は、一方的に後手が負けたことで有名な一局なのだ。しかも中盤に差し掛かり、変化するタイミングが難しくなってきている。先手玉は穴熊に潜り、いつでも攻撃する準備ができている。それに比べ後手は、駒をもらわないと反撃できないし、囲いもそれほど固いとは言えない。何よりひどいのは、手渡しされたときに指す手が難しいということだ。
「知らないってことはないよなー」
 善波も首をかしげている。僕も、同じ気持ちだった。あの、中沢九段と挑戦権を争ってきたときのような熱いものが、感じられないのだ。このまま負けても、何も残らない。何とかしろよと、今すぐ対局室に行って叫んでやりたい気分だった。
「あっ」
 善波が叫んだ。モニターを指さしている。
「おっ」
「えっ」
 皆それぞれの声を上げた。動いたのは先手の駒。定家四冠の方が、手を変えたのだ。
「なんで」
「攻めつぶす気か……」
 不自然、というほどの手ではない。しかしここで開戦するのは、少し急ぎ過ぎているように思える。
「焦れたのかな」
「いやあ、研究してたんじゃないですか」
「これで悪くなったらひどいね」
 僕は、あまり大した感想を持てなかった。その手の意味がわからなかったからでもあるし、それで形勢が悪くなるようにも思えなかったからだ。そして、僕以外の男性プロは、たった一手にこれだけ大騒ぎしている、という事実に少し胸を痛めた。そこが、彼らと僕の差なのだろうか。
 長考が続いた。それはそうだ、全く新しい局面、今まで誰も経験したことのない世界に突入したのだから。まあ、矢倉の場合数手後には同一局面に合流、ということも少なくはないのだが。果たして、川崎がそれを選ぶのか。定家四冠が、それをよしとするのか。何となくだが、二人とも意地を張るタイプだと思う。クールなようでいて、筋は通すのだ。
 にわかに控室が騒がしくなった。根岸さんの仕事も増える。解説から帰ってきた先生がコメントをし、交代で別の先生が解説に向かう。善波や僕にもコメントが求められる。検討班が二つに増え、駒を動かしながらああだこうだ言う。ネット中継を見ていた若手から僕や善波にメールが入ってくる。「アマの大会で前例があるようで……」「どのような手つきでしたか?」「俺なら後手持つ」
 みんな将棋が好きなんだなあ、と思う。当たり前だけど、時折疑ってしまうことだ。プロになる途中では、辛くてやめたいと思うことがあるだろうし、将棋自体が嫌いになって行く人も見てきた。僕だって、何度も挫折しかけた。
「ひゃー、食らっちゃった」
「こりゃいかん。穴熊はひきょーなり」
 けれども、ここにいる人は、将棋を楽しみまくっている。自分が対局室にいないことを悔しがっている人だっているだろう。それでも、目の前にある素材に対して全力で取り組んでいる。僕も、その中に入り込もうとした。将棋がどこまで好きなのか分からなかったが、この人たちの中にいることは幸せだと思ったから。
 約一時間。川崎は一度も対局室から出ず、ひたすら考えていた。簡単なようで、考え続けることは大変だ。どれだけ考えても、相手が予想にない手を指してくることがある。どれだけくまなく検討しても絶対に十分な考慮などないので、どこかで諦めてしまいそうになることもある。相手の指し手を見てから決めればいいや。向こうだって同じだけしか時間がないんだし。色々な言い訳をして、思考を停止する。
 二人は、妥協をしなかった。川崎の手に対し、定家四冠も長考。それは、さして難しい応酬ではないが、この一局の流れを決める大事な数手だった。約三時間、僕らも濃密な時を過ごした。固さを生かして攻める王者に、広さで対抗する挑戦者。お互いの主張が真っ向からぶつかり合って、タイトル戦にふさわしい攻防だと言えた。
 途中で、解説会への参加を打診された。あまりに指し手が進まず、話のネタが尽きたらしい。まあそれは表向きの理由で、実際にはタイトルを取ったばかりの女流でも出てくればサービスになる、ということだろう。
 解説会は別館で行われていた。渡り廊下の空気はひんやりとしていて、控室に熱気が充満していたことを実感させられた。僕たちは好きな時に温泉に入ったりできるが、対局している二人にとっては周囲の環境など関係ないことだろう。僕も、自分がどこで指しているのかをしばらく忘れていた。
 不便な場所にあるにもかかわらず、多くの人が来ていた。それだけ注目度が高いということだろう。僕が入っていくと、今までにない温かい拍手で迎えられた、気がした。トーク力もなく目立った個性もない僕にとって、歓迎されるには将棋で頑張るしかない、ということを実感する。
「それにしても激闘だったね」
 解説はA級の先生だが、なぜか僕の方が色々と聞かれてしまう。まあ、そのために呼ばれたのかもしれないが。
「ええ、疲れました」
「いやあ僕もね、3八飛車から3七飛車にはビックリで。ああいうのは、思いつくだけで価値があるよ」
「ありがとうございます」
「まあ、しかしね。タイトルは防衛して初めて一人前とも言うからね。来年が本当の勝負だね」
「そうですね。頑張ります」
「うん。じゃあ、局面を見てみようか」
 モニターに映る局面は、先ほどと変わっていなかった。少し手を戻してから、解説が始まる。
 ふと、大盤の中に夕日が見えた。それが何を意味するのかは分からないが、似合っていると思った。沈んでいく太陽を捕まえるような、そんな対局なのかもしれない。物音一つ立てない時間にも、二人は全力で戦っている。燃えながらも、日没へと向かう太陽……
 三十分経った頃、初めてモニターの中で駒が動いた。僕と先生は、それを見てしばらく唸る。全く解説していなかった一手で、すぐには狙いが分からない。だが、とりあえず悪い手でないということはなんとなく分かった。僕らとは全く別次元のところで、二人は戦っている。
「そういえば、木田さんは川崎君の手を予想するのがうまい、と聞いたことがあるんだけど」
「え、どこでですか」
「どこだったかなあ」
 以前の控室の話が有名になってしまったらしく、所々でこんなことを言われる。中には《定家を恐れぬ女》と呼ぶ人までいる。まあ、気にすることもないのだけれど。
「で、そんな木田さんの予想は」
「予想にない手を指すんじゃないかとは予想できます」
 あの時も、当てたわけではないのだ。僕にわかるのは、空気だけだ。川崎は、僕らとは違うエンジンを搭載している。走り方が、まったく異なるのだ。定家四冠の方は、走るテクニックが桁違い。どんな危険な道も、安全運転であるかのように駆け抜けていく。
「ははは。じゃあ、おじさんはじっと歩を打つのを予想しようかな。木田さん、外れる前提で予想を」
「えーと」
 考えている間に、その手は指された。予想通り、予想外の手だった。
「解説しにくいなあ」
 そんな感じのまま、約束の一時間が過ぎた。ほとんど手が進まず、よくわからないまま僕たちの役割は終わった。先生はまだ残るようで、僕は一人で控室へと帰路についた。
 本館へと戻る渡り廊下、藍色の和服がフラフラと揺れていた。遠くを眺めているような、近くを見つめているような、ボーっとしているような。
 僕は、そっとその後ろを通り抜けようとした。
「強すぎる……」
 それは、僕に向かって言ったのか、独白なのか。とても、自信がない時の声だった。
 ああ、そうなのか。僕は知らなかったことを、知った。
 川崎は、冷静に強さを見ていたのだ。だから、恐れてしまったのだ。
 声をかけたかった。僕は恐れなかった。相手の強さを知らないまま、知ろうとしないまま戦い、勝った。
 強さでわたり合おうとしてはいけない。勝利という結果を求めなければ。
 声をかけたかった。けれども、通り過ぎた。対局者は、自分一人で勝負を付けなければならない。
 彼は負ける。確信した。


 確信は、当たった。
 そして、結果は0-4。
 空の上にもう一つ空があるような、言い知れぬ恐怖を感じた。


「え、引っ越すの?」
 相変わらず家出をしている樹は、我が家のようにソファでくつろいでいる。
「うん」
「ここ、いいのに」
「仕事場が遠いから」
「それ、ここを選んだ理由じゃん」
 紅茶を入れながら、その時のことを思い出す。両親とはほとんど会話もできなくなっていて、家を探すときは全部樹についてきてもらった。心細かったのもあるし、その方が不動産屋が安心するということもあった。女流棋士という仕事はなかなか理解されなかったし、実際にまだ収入がなかった。悔しいことだが、自由業よりもフリーターの方が信用がある。
「事情が変わったんだよ。仕事も増えたし」
「事情? 情事じゃなくて?」
「怒るよ」
「真面目な話。このまま将棋だけで生きてくわけ? 男か女かは知らないけどさ、支えてくれる誰かとかさ、そういう人のこと考えたったいーだろ。ここにさ、俺以外の人来た? 引越しには賛成だよ。けど、将棋のためって言うんなら反対」
 樹は、世界で一番僕のことを理解している。それだけに、彼の本音は世界一痛い。
「……将棋以外のこと、考えてるよ。好きな人が結婚して、目標としてた人が惨敗して、自分は今後どうしていいか分からなくなって。せめて、みんなとおんなじ環境だったら、って思った。遊んだり、研究会したり、そういうこともしていいかなって。まだ、そんな資格はないと思ってたんだ……。でも、もういいかなって。普通のもの、欲しがっても」
「最初っからいーだろ。姉ちゃんは、特別な悩み抱えてんだ。普通に持てるものぐらい、求めろよ」
「だけどね……今より弱くなるのだけは嫌。将棋の成長まで普通になってしまったら、そうしたら……」
「それはそん時考えればいいだろ。姉ちゃんはさ、女流の一流になったんだからさ、自分を卑下すんのやめなよ。男だったらとかさ、いいじゃん別に。俺だってさ、バイトじゃいけてる方だけど、プロから見たらすっごい下手だと思うよ。けど、金くれるっていう人いるから、ありがたくもらってるよ。普及とかさ、聞き手とか、強い女流に需要があるんだから、ありがたく色々受け取っちゃえばいーんだよ。自分探しは暇な時にしろよ。で、将棋強くなるためには、あんま暇ないんだろ?」
「……ありがとう、樹」
「なんだ、照れるな」
「女の子だったら、抱きしめてあげるのに」
「なんだそりゃ」
 胸のペンダントを握りしめ、僕はしっかりと決意をした。
 もう、自分をいじめない。
 樹の手を握った。眉をひそめるが、振り払われたりはしなかった。
「今度、男性棋士との対局があるんだ。ネット中継もあるし、結構注目されると思う」
「そっか。頑張れよ」
「……勝つ。勝つよ」
「初めてだろ。そんな意気込まないで、頑張ればいいんじゃねーの」
「……うん」
 本当に、抱きしめたかった。僕は幸運にも、樹のおかげで本当の孤独にはなったことがない。それがどんなに大きなことか、実感していた。
「よくここまで来たよ。本当は、もっと早く挫折すると思ってた。姉ちゃんは、すごいよ」
「ありがと。樹もそろそろ、頑張りなよ」
「そのつもりだよ」
 この温かさは、今だけのものかもしれない。僕は、次の勝負を本当に大きなものだと考えている。その結果によっては……
 紅茶が冷めて、少し苦くなっていた。


 山手線の内側は、切ない。
 思ったよりも静か。皆、仕事をしているのだろうか。なかなか道を憶えられない。香りが、ないから。
 引っ越して実感するのは、僕は本当に趣味が少ない、ということだった。本やCDなどはほとんど持っていない。パソコンも対局にしか使わないので、中身もほぼ空っぽ、プリンタもない。もちろん、植木鉢も水槽もない。
 生きているか、将棋をしているかの人生だった。
 どこにいても一緒だと思っていた。どこにいても、将棋はできるし、できないことはできない、と。
 それでも、わかってしまったことがある。僕は将棋だけでなくて、将棋の世界が好きだ。将棋に携わる人々や、将棋の仕事が好きだ。
 だから、孤独に逃げるのは、やめなければいけないと思った。心地よいけれど、やめなければ。
 午後四時。僕はカーディガンを羽織り、家を出た。将棋会館までは、二十分かからない。


「木田」
 その日の朝、会館の玄関で。
「川崎」
「おはよう」
 振り返ると、スーツ姿の青年。
「いよいよだな」
「別にたいしたこと、ないよ」
 こんなに早くから、こんな格好。川崎も対局なのだ。知らなかった。
「でも、初めてだろ」
「うん。まあ、これからどんどん増える予定」
 階段を上がる。いつもと変わりはない、と思う。特に気合を入れたりはしなかった。服装もたいして凝ったものではない。化粧も薄いし、髪も軽く結ってきただけだ。
 それでも、胸が痛い。血液が、速すぎる。
 対局室に入ると、相手はすでに盤の前に着座していた。ひょろりとした体を、ゆっくりと左右に揺らしている。
 夏川四段。歳は僕より二つ上、プロになったのは去年。彼は、僕と同じ時に奨励会を受験し、合格していた。
 運命、とまでは言わない。それでも、意識せざるを得なかった。スタート地点では、僕が負けた。その後、異なる道を歩んできて、今日、対峙する。
 隣の部屋には、川崎がいる。タイトル戦は惨敗だったが、それでも調子を落としたりはしなかった。ひょっとしたら、結果はただの実力通りだったのかもしれない。これからまた、彼は活躍するだろう。
 僕が手を伸ばしたいのは、あそこなのだ。夏川四段は、通過点にしなければならない。
 ベテラン観戦記者が、僕と夏川四段に挨拶をしにきた。女流が男性棋士と対戦した棋譜は、だいたい新聞に載る。ときには悲惨な棋譜が、全国にさらされてしまうことになる。それは、当たり前の悲惨として、受け止められる。
 僕らは、いい棋譜を作るため参加させてもらっているのではない。多くのファンに興味を持ってもらうことが大事なのだ。判官贔屓で僕を応援してくれる人は多いのだろうが、僕が勝たなければならないと思っている人はいない。負けて当たり前。勝てば話題になる。その程度のことだ。
 とんでもない。
 ここにたどり着くまで、どれだけの苦労をしてきたか。同じ屋根の下で、同じことを生業としてきた。夏川四段が遊んでいるときも、僕は将棋をしてきた。女であるということを除けば、僕が負けていい理由なんて見当たらない。そして、僕は女ではない。
 振り駒で、後手になった。前髪が少し邪魔だったので、かき上げた。
 相手は振り飛車党。静かな手つきで、角道が開けられた。僕はそれに対し、飛車先を突いた。矢倉にも角換わりにもならないが、何となくこちらの方が気合が入ると思った。
 持ち時間の短い将棋では、知っている形になった方が随分と安心する。だからこそ、どのような戦型を選ぶかで、相手が僕の力量をどのように考えているのかが分かる。特に夏川さんは、相手によって指し方を変えるタイプだ。ベテランの先生や成績の悪い若手にはゴキゲン中飛車で軽快にさばき、上位の先生や元気のいい若手にはじっくりと四間飛車で指す。相振り飛車になりそうなときは最初から様子見のような手を指す。
 三手目、1六歩。予想外だった。これではまだどちらとも言えない。僕は、角道をあける。夏川四段は、5六歩と付いた。ゴキゲン中飛車だ。
 細かいことを気にしている余裕はない。僕は、5二に右の金を上がる。ゆっくりはしない。このまま超急戦と呼ばれる変化に誘う。そして、予想通り避けられる。研究で差が出るような変化には持ち込まないのだ。それが勝ちやすいのだと夏川さんは知っている。
 抑え込めるかどうか、そういう勝負だ。夏川さんは顔色一つ変えず、時折首をかしげている。別に、困っているわけでも疑問に思っているわけでもない。子供の頃からそうだったが、彼は盤上で考えることが苦手なのだ。頭の中の駒は自由に動くが、盤上の駒はじっとしている。盤上を見つめていると、現状の局面に思考を引き戻される、と語っていたことがある。
 僕は、いつになく盤上に没頭していた。元々僕には、はっきりとした盤面が見えていない。そこには様々な絵が混入し、ときにはキャンバス自体が消失する。見ているけれど、見えていない。
 駒がどんどん前進し、思い通りの展開に持ち込めていた。このままいけば、何も問題がない、そう思っていた時だった。首をかしげたまま、夏川四段は大きくうなずいた。そして、細い右腕が、盤を横切る。7七の桂馬が、8五の歩を取った。それは、すぐに僕の飛車に取り返される桂馬だ。しかしそのあと飛車をぶつけられる。こういう戦型ではよく出てくる筋だが、今されるとは思ってもみなかった。
 こんなものは、取るしかない。僕の駒は抑え込むために前に出ているので、玉の固さというものはないに等しい。飛車角を好きに動かされたら、終わりだ。飛車交換されても、先手先手で受けに回れば、何とかなりそうな気がする。それ以外に活路はない……
 桂馬を得しても、受けには効かないし、すぐに攻める手もない。相手は陣形も低く、飛車の打ち込み場所はない。だから、選択肢はこれしかなかったのだ。決して、これで有利だとは思わない。それでも、他の手ではどんどん苦しくなる。
 8二飛車。取ったばかりの飛車を、元居た場所に打ち直す。あの時とは違う、切ない自陣飛車だ。
 それでも。このような展開が、なんとなくいけると思っていたからこそ、あの桂馬が見えなかったということでもある。夏川も読み切っているわけではないだろう。何となく攻めが続く、そう考えるタイプだ。そして、何となくで押し切れる相手にだけ、彼はこの戦法を選ぶ。
 色々な歩が突き捨てられ、角が出てきたり引いたり。こちらはもう使える駒がないので、耐えるしかない。持ち時間もなくなり、秒読みの声が頭蓋骨を揺らしているようだ。
 駄目だった。途中で気が付いた。夏川さんは全てを読み切っていた。僕の力、僕の性格、僕の気合、僕の空回り。決して強い若手ではないが、何度も何度も勝負の一局を勝ってきた彼には、色々なものを見切る力が付いているに違いない。振り回されてふらふらになった僕には、少しの優勢を維持しきるだけの余裕などありはしなかった。
 僕は、ずっと相手のことを見ずに戦ってきた。ほとんどは勝って当たり前の対局で、間違えないこと、当たり前のことをし切ることを考えてきた。そして強い相手と指すときは、もっと強い相手のことを考えてきた。そこを超えた先にあるもの。ライバル、頂。その一局を勝っても、先につながらなければ意味がないと思っていた。
「こうか」
 小さな声だった。でも、決定的な一言だった。ついに僕の陣内に飛車が打ちおろされ、そしてそれは捕まえることができなかった。食い破られた。僕の将棋とともに、僕の心構えを。
 負け惜しみではなく、読みとかそういう部分では差がない、とよく感じる。けれども勝つための技術に関しては、彼らとの間にはっきりとした差がある。
 作業のように、終盤が過ぎて行った。体から熱が逃げていくのが分かった。僕は今日はじめて戦場に立ち、そこでの礼儀を叩きこまれた気がした。
「負けました」
 その言葉を発するのに、何の躊躇いもなかった。完敗だった。笑いたくなるほどの、惨めな負けだった。


 高いけれどたいしたことのないランチを食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。
 気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。
 無理だ。
 ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。
 酔いが苦しみを麻痺させると同時に、僕の中の僕が、鮮明にこちらを見つめているのが分かった。本当は、こんな日は来ない方がよかったのだ。女流の中でも一番になれなくて、苦しくて苦しくて、そっちの方がよかったのだ。今日の苦しみは、一刀両断された苦しみだ。心の隙間は埋められるが、完全に分離してしまったものはなかなかくっつかない。
 盤の上に、座布団を置いた。今は、見たくない。
 いつかの記憶が、脳裏をかすめた。
 電話を手にした。
 ダイヤルする。呼び出し音が三回、四回、五回……
「あ、どうしたの?」
 不安定な声。寝起きなのだろうか。
「いまどこ」
「え、家だけど」
「来て」
「え」
「ここに来て」
「ここってどこ」
「私の家」
「それ、どこ」
「メールで地図送るから。三十分で」
「いや、ちょっと待てよ、おい」
 電話を切った。喉がからからになり、ワインを飲み込んだ。
 地図とマンションの名前、部屋番号を記載してメールを送る。そして僕は、ベッドに飛び込んだ。とめどなく流れてくる涙を、シーツでぬぐった。
 女だ。今僕は、女だ。
 何故こんなことをしてしまったのか。
 自分の中の色々なものが、僕の中から飛び出そうとしているようだった。
 わかっていた。届かないものは、届かない。それでも、目指していたかった。近づいていたんだ。けれども、遠すぎた。タイトルを獲ったぐらいで、何かが変わったと思い込んでいたのか。あの日から、一度だって距離が縮まったことはなかった……
 目をあけられなかった。自分のもの、自分の姿、何も見たくなかった。
 四十分ほどして、ドアホンが鳴った。起き上がり、頬を叩いてから玄関に向かう。のぞき穴の向こうには、不安げな顔の川崎がいた。
「ごめん」
 口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「どうしたの。入っていい?」
「うん」
 しわくちゃのシャツにジーパン。髪の毛はべったりとしていて、多分急いで家を出てきてくれたのだろう。僕は、初めての来客を招き入れた。
「酔ってるの」
「うん」
「今日、対局あったんだろ」
「うん」
「それで飲んでたの」
「……それだけじゃない、と思う」
 新しいコップにお茶を入れようとしたら、川崎はそれを手で制した。そして、ワインボトルを手に取る。
「こういうのは、酌み交わしながら語るもんでしょ」
「じゃあ、注がせて」
「おう」
 冷蔵庫から、チーズを取りだした。僕は、何も食べずに飲んでいたのだ。
「なんか作ろうか」
「え」
「木戸ってさ、料理しないだろ。台所見てわかった」
「材料ないよ」
「なんかあるだろ」
 川崎は台所で勝手に料理を始めた。大したものはなかったが、卵とポテトチップス、鰹節で一品作ってしまった。盛り付けにもこだわっているようで、見た目がさっぱりしている。
「昔よく作ったんだよ」
「これを?」
「みんなうちで遊んで、お菓子を置いてくんだよね。だから次の日、こんな風にしてさ。ネギとか入れてもいいよ」
 食べてみると、とてもやんわりとした味がした。しけりかけたポテトチップスなのに、ちょっとおしゃれな食べ物みたいだ。
「よく料理するの」
「まあね。それが東京出てくるときの約束だったから。将棋で失敗しても、ちゃんと一人で生きていけるように、ってことだったみたい」
「そうなんだ」
 川崎の意外な一面を知った。まあ、ほとんど私生活のことなんて知らなかったのだけれど。
「で、どんなんだった」
「え」
 川崎は、盤から座布団を取り上げた。そして、駒を整列し始める。
「ちょっ……」
「将棋のことは、将棋で解決。それがプロっしょ」
「待って」
「木田?」
 僕は、川崎の手を握っていた。川崎の瞳が、直線的にこちらに向いている。
「プロ……じゃない」
「何言ってんだ」
「私と、川崎たちは別の世界にいる。同じ理屈では語れない」
「将棋で食ってんだろ、同じプロだよ」
「わかれよ!」
 僕は川崎の手を離すと、盤の反対側に座った。歩を五枚取り上げ、絨毯に転がす。と金が五枚だった。
「川崎が先手」
「……わかった」
「絶対、手を抜かないでね」
「……待って」
 川崎は、コップを手に取り一気にワインを飲みほした。
「条件は、一緒だ」
「……うん」
 二人、無言で頭を下げた。川崎の体はフラフラと揺れていた。僕も、おかしくなっているのかもしれない。初手、7六歩。僕は、3四歩。
 涙がこらえられなかった。何故かわからなかったが、手が進むにつれてその理由が理解できた。僕が思いだしているのは、小学生の時のあの日。そう、川崎と将棋を指すのは、あの時以来だったのだ。
「木田……大丈夫か」
「わかんない。わかんない……」
 川崎が、僕の背中をさすってくれた。それでも、次の手を指した。目の前がぐるぐると回っていた。それでも、次の手を指した。
 儀式のように、淡々と指し続けた。何を指しているのかもよくわかっていないけれど、本能がちゃんとした手を選んでいるようだった。川崎も、目がうつろになっている。元々お酒に強くないのかもしれない。
「あ……」
 いつの間にか川崎の王将に、詰めろがかかっていた。何だ、勝ちじゃないか……そう思ったけれど、全く僕が読めない順で、こちらの玉が詰まされた。
「負けました……」
「なんか、詰んじゃったね……」
悔しくもなんともなかった。知っていたことだから。川崎は僕よりうんと強いし、どんな時でも手を抜いたりしない。それでいて、誇らしげにすることも、卑屈さを見せることもない。
涙が止まり、目の前が真っ暗になった。本当に、安心してしまった。もう、何も考えることなんて、ないんだろう。


 目が覚めると、ベッドの上だった。少し頭が痛い。体を起こし部屋の中を見回すが、誰もいない。
 テーブルの上には、水の入ったコップと、サンドウィッチがあった。手にとって見てみる。近くのコンビニで売っているものだ。
 将棋盤には、見覚えのある局面が。夏川との将棋の、投了したところだった。その横には、広告の裏に書かれた棋譜が。中盤以降、一手一手に検討の結果が書き込まれていた。
 トイレにも風呂にも、川崎はいなかった。靴もない。
 部屋に一人きり。こんなにも独りを実感したのは、初めてだった。



読者登録

清水らくはさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について