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 地下鉄が怖かった。
 初めて東京に出てきたとき、僕は盛大に迷った。地下鉄の駅がどこにあるのか分からず、手当たり次第に階段を下りては、また登った。視界があまりにも悪すぎて、そのくせ上下はどこまでも階層があって、僕は目を回した。
 家を決める時、地下鉄に乗らなくてもいい場所を選ぼう、あまりビルの高くないところにしようと思ったら、将棋会館からずいぶん遠い所になってしまった。対局の時はともかく、今日のような男性棋戦に関わる仕事の時は、終電の時間にはらはらすることになる。
  打ち上げだかお祝いだかもやっているようだったが、僕は対局の後のそういうのに出たことがない。たった一度、自分の挑戦が決まった時にはもちろん出たのだ けれど。地元の将棋教室の集まりがあれば、断ることはない。けれど、プロの中に混じるのだけは、だめだ。僕は、女流棋士なのだ。プロたちの会話が、一つ一 つ突き刺さるし、それが僕に向けられていないことも僕を傷つける。奨励会の子ですら、僕を相手にしていない。口には出さないが、僕よりも強いことを確信し ている。
 それは、日常の延長だ。でも、そのあと。そのあと終電もなく、東京の街に取り残されたことを考えると、胸がひび割れてしまうのではない かと思う。僕は一人の女性として気遣われ、プロの方々にいろいろと手配してもらうだろう。桜ちゃんは、弱いだけでなく、かよわい人として見届けられる。辛 いだろう。辛すぎるだろう。
 部屋に戻るなり、冷蔵庫の扉を開け、ビールを取り出し、一気に飲んだ。アルコールだけが、食道を刺激する。天井を見上げていた。天井より上は、見えないし、想像できない。
  上着のボタンを、乱暴に外していった。僕を纏う分厚い鎧を、投げ捨てる。要さんが選んでくれた、クリーム色のボアジャケット。好きな人にもらったからなん とか着ていられたけれど、今日はもうだめだ。本当は全部脱いでしまいたかったけれど、そうすると体が表れてしまう。それも、だめだ。
 鞄の中から、携帯の振動する音が聴こえてきた。反射で取り出して、出てしまった。
「あ、良かった。まだ電車かと思った」
 声が出なかった。喉が岩のようになってしまっている。
「木田?ひょっとしてまだ乗ってた」
「……い……いや」
 何とか絞り出した声は、とっても高くて、細かった。
「そっか。……
 あのさ、本当は、もっと前に言うべきだったんだけど、俺も今日の対局が控えてたから……。まあ、ほんとはさ、お前、先に挑戦者になっただろ。負けてなるものかってさ、意地になって。もっと早くおめでとうって言いたかったけど」
「……」
「木田?」
「……ありがとう。でも、私なんかまだまだだよ」
「そんなことないって。あと一つ勝てばタイトルじゃん。すごいよ」
「……わっ……僕は……そっちに行きたいんだよ」
「え……何?」
「……ううん。こっちこそおめでとう。タイトル獲れよ!」
「おう!……あっ、はい、すぐ戻りますから……じゃ、また今度ゆっくり話そうぜ」
「わかった」
「うん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
 切れた。
 切れそうだった。
 決壊した。
 涙が胃の奥からあふれ出てくるようだった。
「……先じゃねぇよ……全然先じゃねぇよ……」
 ボアジャケットに埋もれて泣いた。いつまでも泣いた。


 テーブルの前に、茶髪の男が座っている。久しぶりの来客だった。
「相変わらずさっぷーけーな部屋だなあ」
「あんたみたいに散らかしてないだけ」
 長い手足、広い肩幅、低くて渋い声。同じ親から生まれながら、僕が欲しいパーツを全部持っている人間。
「で、どうしたの」
「ま、簡単にいえば家出した」
「はあ? 二十歳の男が家出もくそもないでしょ。家探して就職しろ」
「いやいや、あのね。おねーさまを頼ってかわいい弟が来たんですよ。なんかもうちょっと優しい言葉をですね」
「死ぬ気で頑張れ」
 樹にお茶を出し、僕は赤ワインをグラスに注いだ。
「おい、俺にもくれよ」
「お酒は一人前になってから」
「なんちゅーケチ。いい嫁になるよ」
「わざと言ってるよな、それ」
「まーね」
 右の頬を張った。それほど強くなかったはずだが、案外大きな音が響き渡った。
「いってー。何すんだよ」
「嫁になんて行かない。死んでも行かない」
「わかったよ。ごめんな。もう言わない」
「よし」
 樹ははにかんで、ワインをコップに注いだ。ばかばかしくて何も言えない。
「俺ね、姉ちゃん応援してるんだ。将棋のことは分かんないけどさ、みんなに自慢できるし、ぜってータイトル獲ってほしい」
「突然何」
 弟は、一気に、赤い液体を飲みほした。大きなげっぷをする。
「俺、やっぱイラストの学校行くって言って、叱られた」
「え」
「俺も、やっぱ目指したくてさ。独創力ないって言われたけど、下手なわけじゃないし、やれるだけやってみたくて。けど、許してくんないよな、やっぱ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「僕が家を出たから。我儘言って、将棋の道選んだから、樹にはいてほしいんだよ」
「……かもね。けど、一生ってわけにもいかねーだろ。どうせフリーターだし、いっぺんは挑戦してみたいよ」
「……僕は、賛成だよ」
 樹は、目を閉じて、口笛を吹いた。
「ちょっと感動したよ」
「僕の時も、賛成してくれただろ」
「姉ちゃん、いい女だ」
「またぶつよ」
「姉ちゃん、体を認めてあげなよ」
 樹は鞄の中から、ノートを取り出した。開いて見せたページには、いくつものエアコンの室外機の絵が描かれていた。どれもか細いぐにゃぐにゃした線で、壊れそうなものとして描かれていた。
「気づいたら、描いてる。ほんとはさ、犬とか車とか女の子とか好きだけど、体が勝手に描いてる。俺はこんなの描きたくねーよって不満だけど、体はこれを書きたいんだっていつも不満なのかもしれねーなって、思うことがある」
「……」
「俺、 理解はまだしてねーかも。けど、姉ちゃんの心が男であろうとするみたいに、体は女になりたがってるかもしれねーなって、思って。それが合わさって姉ちゃん なわけで、なんていうかなー、だから男とか女とか超えて、今の目標達成したら、木田桜として成長できるんじゃないかなって、うん、思うんだよ……」
 そのまま、テーブルを抱くように、樹は眠ってしまった。昔からお酒には弱かった。
「……生意気言うよね。ほんと……」
 心と体。幼いころからの葛藤に、たやすく介入れたくない、という気持ちもある。けれども、すごく感謝していた。僕が男の心を持っていることを知っていて、そのことを全面的に受け入れてくれた人。嫉妬することも多いけれど、樹がいることで僕はとても救われている。
 今日、ここに来てくれたのは、すごいいいタイミングだった。樹の背中に布団をかぶせ、僕は毛布にくるまった。


 自分の立ち位置が、よく分からない。
 僕は今日、タイトルをかけて戦う。今女流棋界には僕より若いタイトルホルダーがいるし、僕よりきれいな子もいっぱいいる。それでも新しい動き自体がなかった世界なので、それなりに注目は集めているようだった。
 応援してくれる人もいるし、そうじゃない人もいる。
 僕は、僕のためだけに将棋を指せばいいと思っている。でも、偽りの女性という後ろめたさは、常に付きまとっている。女性だから、華やかな場にいられる。女性だから、華やかであることを求められる。
 心がふわふわしているのがわかる。少し前までは、ここに来ることもちゃんとした目標だったのだ。それなのに、もっと上にたどり着いてしまった人が、僕の心をざわつかせてしまった。
 今日は、吐き気がしない。樹に言われて以来、自分の体がとても遠い存在に思えていた。着物を着ているのは、僕とは無関係の体のような気がするのだ。僕がこの体に心を閉ざしているせいで、体も僕のことを認めてくれていないのかもしれない。
 旅館の空気は、感じたことのないぐらい澄み渡っていた。心が勝負を求めていないのがわかる。ここで何も考えずゆっくり休めたら、そんなことを考えてしまう。
 駒袋からこぼれる、40枚の駒。今日一日、彼らと僕は運命を共にする。これまで何百回と繰り返してきた儀式なのに、違う世界の出来事のように、遠い。
 先手の駒が、高く舞い、着地した。カメラのフラッシュが、一瞬世界を消失させる。突かれたのは、飛車先の歩。長年攻める将棋を貫いてきた気概が、そこに込められているように見えた。僕は、すっと角道を開ける歩を突きだした。これは、角換わりになるだろう。女流戦ではなかなか現れない形で、しかも後手が苦しいとされている形。そこに僕は飛び込んでいく。今日の僕は、そうでもしないと目覚める気がしない。
 絵が見えない。駒の文字がはっきりと見える。まるで、心までも自分であることを辞めてしまったかのようだった。記憶だけが僕の将棋を規定している。
 二人の銀が、五筋で向き合った。相腰掛け銀。将棋の、基本中の基本。そして、深く深く深い、底の知れない古典。
 昼食休憩を待たずに、駒がぶつかった。流れが速い。飲み込まれてしまいそうだった。


 見えない。まだ絵が見えない。
 局面はすでに中盤を過ぎようとしている。
 すでに前例はない。自分で切り拓いていかなければならないのだ。
 覆い被さるような攻めを、ギリギリでかわしていく手順。神経も体力も消耗が激しい。
 盤面すらかすんできた。頭の中で、局面を構成する。持ち駒が曖昧になる。
 初めて、将棋が怖いと思った。選べる手なんて、実際にはそんなにない。それなのに、選ぶ手によってはもう勝負は終わってしまうのだ。今まで何千局と指してきたはずなのに、初めてこのゲームをしている気になる。
 直感なのか読んでいるのか、恐れているのかやけくそなのか、よく分からないままに次の指し手を決めようとしていた。駒台に手を伸ばそうとした時、なぜか僕の右手は盤上をさまよっていた。僕の指は、玉をつまもうとしていた。体と心が、乖離している。必死になって、手を引っ込めた。将棋を指しているのは、僕だ。体はただ、従えばいい。体は、僕ではない……
 掌から、駒が滑るように盤へと落ちて行った。なんとか、指せた。そのとき、目の前に絵が浮かび上がってきた。青い花の中、小さな船が沈んでいく絵だった。
 悪手だった。
 脳が震えているのがわかった。僕の指した手は、受けとしては中途半端だった。一見攻めにも聞く攻防の一着のようでいて、玉の安全度を高められない中途半端な手になっている。
 心が、弱かった。
 崩れ落ちていく音がした。
 僕はふらふらと、終わらないだけの手を指し続けた。記録係や立会人の先生が何をしているのか、はっきりとわかった。皆の心が第三局へと向いているのが、わかった。
 ペットボトルが、その役割を果たせずに一本残っていた。僕はそれを、一気に飲みほした。この対局はもう、生きていない。けれども、勝負はまだ続いていくのだ。天井に向かって、息を吐いた。
 嘔吐感が戻ってくる。


 化粧台に、化粧品が乗っている。
 いつも、そこには雑誌や櫛ぐらいしかない。どうしても必要な時は、引き出しの奥底から取りしていた。
 初めて使う、僕を女に仕立てるのではなく、女の僕を仕上げるための化粧。
 鏡の中に移る、腫れぼったい眼の女。流しすぎた涙の痕跡を、赤く塗り潰していく。鮮やかに彩られすぎたら、やり直す。こんなに厄介なキャンバスに、毎日みんな取り組んでいるなんて驚きだ。
 信じられないほどに、女になっていく。器が、心を覆い隠す。
 散々迷った挙句買った、ワインパープルのチェック柄のワンピース。膝上十センチぐらいが出てしまい、スースーする。スカート部分はフリフリになっていて、ヒラヒラしている。
 右腕には、昔要さんにもらったブレスレット。波打つようなデザインで、ピカピカと輝く金色。左腕には、小さな文字盤の腕時計。母からもらったお下がりだ。革のバンドは新しく買い替えた。
 鏡の中には、まるっきり女の子がいる。あまりにも知らない姿なので、初めての人に会った時のような気分になる。微笑んでみると、少しドキッとした。女の子の笑顔は、嘘でも作れるのだとわかった。
 リボンのついた茶色いバッグを肩から掛ける。これは昨日買った。初めて入った店で、よく分からないので店員に勧められるままに決めた。そしてこれも昨日買った、黒のロングブーツ。ここまで長いと靴というよりも防具のようだが、できるだけ足を隠したかった。しかしここまで履くのに苦労する靴だとは思わなかった。玄関で何回かしりもちをつきながら、なんとか装着する。
 全てが整った。今のところ気分が悪くなることはない。ただ、演じるのだ。木田桜という女性を、演じることに慣れなければいけない。


 こういうとき、女の子ならばどんなパスタが似合うのだろう、などと考える。
 目の前には川崎。今日は仕事があったらしく、スーツ姿だった。
 考えてみると、長い付き合いだけど二人で食事など初めてだった。
「何か……違うね」
 先ほどから川崎は、僕の方をチラチラと見ている。もちろん、予想通りの反応だった。
「そう?」
 僕は、気づかないふりをしてメニューを見続ける。小さく首を傾げたり、頬杖をついてみたり。
「ああ……どう言っていいのかわからないけど」
「褒め言葉だと思っとくね」
 まずは、成功だ。
「……あのさ、この前はごめんな」
「別に気にしてないよ」
「いや、酔っ払ってて……あんまり覚えてなくてさ」
「じゃあ、あれは嘘だったのかな?」
「えっ、な、何が?」
「はは。うそうそ、何も言ってないよ」
 注文を取りに来た。パスタに付けるドリンクを、紅茶にしてみた。
「もうすぐだよね。みんな注目してるよ」
「木田ももうすぐ決着戦じゃない」
「そうだね」
 料理が来るまでの時間は、不思議だ。喋るしかすることがないのに、なかなか本題に入ることができない。遠い昔の思い出などが、ぽつりぽつりと語られる。そのうちに本当に言いたかったことを忘れてしまう。
 川崎の注文したものが、先に来た。ミートソースがてかてかと光っている。
「なんか、話題になってたよ。四冠に勝ったって」
「いやぁ。川崎があそこで突っ張ってくれたから」
「そりゃ、早く勝ちたいもん」
 話し始めたら始めたで、こんなによく喋る人だったっけ、と思う。プロになる前には、僕らはほとんど話す機会がなかった。将棋の大会で会う、顔見知り。感想戦で話すことはあっても、当然中身は将棋についてだけ。そしてたぶん、僕がライバルと思っているほどには、川崎は僕のことを理解していなかった。そう、他の皆と同じように、女の子にしては強いな、というほどにしか意識していなかった。
 その差は、埋まらなかった。むしろ、開いてしまった。それでも今、二人ともタイトル挑戦者として、目標を持って戦っている。川崎は、それが嬉しいらしい。
「木戸が活躍してたからさ、俺もって」
 それが本音だと実感することは、辛い。けれども僕は、演じることに徹しようと思う。そのために、ここまでしているのだ。
「そうね、私も、川崎に負けないようにする」
「あと一つだもんな」
「そうだね」
 よく分からない味のパスタを食べ終わると、紅茶が運ばれてきた。砂糖はどれぐらい入れるのがいいのか。
「頑張ろう」
「うん」
 ハンカチをバッグから取り出す。白くて花柄の破けてしまいそうな布。口元を拭く。
 伝票は、川崎が持っていった。女の子は、それでいいらしい。
 小さく手を振って、別れる。川崎の姿が見えなくなってから、大きく息を吐いた。やっぱり、女の子は疲れる。


 時折本当に暇な時期がある。
 タイトル戦を争っている最中なのに、そのほかの仕事が全くなく、一週間の休暇となっている。もちろんそんな時には将棋の勉強をするのだが、一日中というわけにもいかない。必ず、何か別のことをする。散歩に出たり、買い物に行ったり、ゲームをしたり。将棋以外のことをした後に、棋譜並べをする。一度頭の中をニュートラルにしてからでないと、他人の作品を自分の思考から切り離して見ることが出来ないのだ。
 今日は、自転車に乗ってぶらぶらしていた。目的地はないが、景色を眺めるだけでも気分は和らぐ。ただ、スカートで漕ぐのは、少し恥ずかしい。高校生の頃も、できるだけ長めのスカートを、足にまとわりつかせるようにしていた。
 駅前の商店街、少し人が増えたので、自転車を降りた。ふと、一枚のポスターが目に入った。旅行代理店の、ツアーの案内だ。そこには、こう書かれていた。「青い海が、君のことを透明にする」
 僕は無意識に自転車を止め、そのポスターにくぎ付けになった。どこまでも青く澄んだ海の中に、水しぶきと、宙に浮かんだTシャツと短パン。海に入って、体が透明になってしまった、という絵。
 それは、沖縄だった。僕は旅行などほとんどしたことがなく、沖縄なんて遠い外国のように思っていた。でも、時間とお金があればいけるんだと、気が付く。
 僕は店内に入って、順番を待って、そして係のお姉さんに言った。
「あの、ツアーじゃなくて……明日から沖縄に」


 思ったほど暑くなかった。那覇空港からモノレール。青い空の下、のろのろと車両が走る。
 思ったより一人も多い。それでも多くのカップルもいる。なにくそ、と思う。
 飛行機に乗るときわかったのは、旅慣れている人は鞄が違う、ということだった。タイヤのついたキャリーバッグをごろごろとひいている人が多い。僕もいろいろな場所に仕事で行くのだが、いつも高校時代から使っている大きな手提げで移動していた。一泊ぐらいならそれでいい、と思っていたが、今回は三泊の予定。仕方ないので、樹に旅行鞄を借りてきた。黒くて大きくて、ひらひらのワンピースには似合わないかっこいいものだった。
 街に入ると、沖縄っぽさは薄れる。建物はどこにでもある、白くて四角いものが多い。
 電車を降りると、その思いは一層強まった。日差しも風も、東京とはまるで違う。けれどもまだ、ここは沖縄という感じがしない。脳裏に浮かび上がってくる絵は、本土と同じ絵の具を作っている。
 プリントアウトしてきた地図を見るが、ホテルまでの道がなかなかわからなかった。地図の読めない女、という言葉を思い出し、意地で目的地を探す。ごちゃごちゃした道を通り抜け、二十分ほどたってようやくたどり着いた。茶色い建物の、どこにでもあるホテル。
 ロビーも部屋も、普通だった。なんとなく、寂しくなってくる。このままいつもの遠征のように終わってしまったら、ぼくはタイトル戦前に何をしているんだろう、と思うことになってしまう。直観的な行動は、時に果てしない後悔を呼び起こす。
 昨日買ったばかりの旅行ガイドブックを眺める。沖縄のことは何も知らず、那覇がどこにあるのかから探さないといけなかった。
 今日はもう遅いので、遠くまではいけない。ホテルから出て、国際通りへと向かう。ほとんどは観光客だろう、土産物店や郷土料理店に吸い込まれていく。牙を出して笑うシーサーや、泡盛の小瓶。不思議な文字の書かれたシャツ、銀色の光る三線。
 僕が見に来たのは、これらの「証明書」ではない。これらは僕にさらなる色をこびりつかせてくる。それでも折角来たのだから、お土産ぐらい買っていこうと思う。
 なんだか、こういうことは慣れない。修学旅行なんかで、仕方なく女子だけで行動するような時。いつも周りのテンションについていけず、気が付くと何も買えていなかった。かといって一人でも寂しいものだ。
 棋士になってからも、あまり変わりはない。できるならば僕は、男性棋士たちともっと過ごしたい。けれどもそれも、叶わないことだ。そもそも男として扱ってもらえない以上、男の中に自然に溶け込むのは難しい。その上男の数が圧倒的に多いこの世界では、男性が女流と仲良くすること自体が特別な意味を持ってしまうのだ。もちろん、将棋界内部でどうこうなんてことには興味のない人もいる。けれども将棋一筋でやってきた男性の中には、将棋の世界の女性しか接点を持てない者もいるのだ。僕にとってはただの友達でも、相手にとっては数少ない関わりを持てる「現実の女の子」になってしまう。もし僕が自分の正体をばらしてしまえば、相手はひどくがっかりするだろう。そしてばらしていない他の人からは、誤解されたまま冷たい目で見られることになるかもしれない。
 きっと、これまで川崎と食事にも行ったことがなかったのは、そういうことだ。別にうぬぼれるわけでもなく、若手女流棋士というだけのことで、誰かが僕のことを気にかけている。そして奥手な人が多いこの世界では、よく食事に行く、というだけで確実に怪しまれてしまうのだ。当人ですらもしかしたら、と思うかもしれない。そうなれば、ややこしいことが待っているに決まっている。そう、ややこしいことは、これから起きるかもしれない。
 自分のしたことが、全てばかばかしく思えてくる。何故一人でここに来てしまったのだろう。何故女装して会おうと思ったのだろう。何故女流棋士になろうとしたのだろう。何故こんなにも後悔するのに、勝負の世界で生きようとしたのだろう。
 「無責任」と書かれたTシャツの前で、しばらく僕は考え込んでいた。1800円のお土産を前に、必死に買うかどうかを悩んでいるように見えたかもしれない。まあいいや。せっかく旅に出たのだから、人目とか気にしても仕方ないのだ。
 店を出て、とりあえずぶらぶらと歩く。お腹も減ってきた。食事のためにガイドブックを読みあさる気も起きず、目に着いたアーケードの隙間のようなところにある沖縄そばの店に入った。
「えーと、ソーキそば」
 とにかく面倒くさくて、一番目立つメニューを頼んだ。ソーキが何のことかはよく分からない。料理が出てくるまでの間、これじゃいかん、と気合を入れた。せっかくめったにしない旅をしているんだから、もっと積極的に楽しまなくては損だ。
 出てきたソーキそばに対して、全神経を集中せる。そして、五分で食べ終わった。おいしかったが、とてもおいしい、とは感じなかった。僕はよく味に鈍感だと言われる。
 本番は明日からだ。食事を終え、足早にホテルに戻った。いまのところ、感じるのは寂しさばかりだった。


 爽快である。
 沖縄を回るのはレンタカーがいいと言われ、ホテルとセットで申し込まされた。普段純然たるペーパードライバーなので、できれば運転は断りたかった。しかしいざ乗ってしまえば楽しいのだ。そして、その自覚があるからこそ乗りたくなかったのだ。
 東京の状況を考えれば、沖縄の道は非常に快適だった。国際通りを抜けるまではきつかったものの、市街地を出てしまえば交通量は大したことがない。幸いにも今日は快晴。沖縄には目立つ山もなく、空は広く、海も果てしない。
 生まれも育ちも山の中、プロになってからも東京の奥のほうに住んでいる僕にとって、この風景はまぶしすぎる。そういえば、仕事場自体がとっても狭くて、暗いところなのだ。本当に小さな盤上ばかりを見ていたから、こんなに大きな地上は眩しすぎるのだ。「君のことを透明にする」というフレーズが、頭の中で繰り返される。
 カーナビに目的地を入れ、これも樹に借りてきたCDをデッキに入れる。何となく、優しいポップスにしてみた。おかげで少しスピードを落とすことができた。
 考えてみれば、ドライブなんてものもしたことがない。タイトルが獲れたら、賞金を頭金にして車を買うのも悪くないかもしれない。
 前後にもほとんど車がいない。最初の目的地である岬まで、快適な走りが楽しめるなぁ、と思っていたら。百メートルほど気で、こちらに手を振っている人がいる。ヒッチハイクかと思ったが、反対の手には自転車。白い短パンに黒いTシャツ、一瞬少年かと思ったが、顔を見るとかわいらしい女の子だった。何か困っているのだろうか、僕と眼が合うと、必死に訴えかけるようにさらに強く手を振りだした。
 何となく無視できなくて、僕は車を止めた。窓を開け、顔を出す。
「どうしたの?」
「あー、よかった! 自転車パンクしちゃって。みんな無視するしさー」
 はきはきとした声の、元気な女の子。まだ高校生ぐらいだろうか。
「どうしたらいい?」
「うーん、自転車屋さんとかあるのかなぁ。これレンタルだし、勝手に修理していいのかな」
「観光?」
「うん。今日は」
 車から出て、自転車の様子を見る。後輪が何かに引っ掛かったのか、チューブだけでなくタイヤにも亀裂が走っており、とても何とかできる状態ではなかった。
「那覇から来たの?」
「うん。なんかね、朝思いたっちゃって」
「どこ行く予定だった?」
「とりあえず最初は、喜屋武岬」
「私もだよ。一緒に行こうか」
 なんとなく、だけれど。普段なら恥ずかしくて女の子なんて誘えないけれど、この子となら大丈夫だと思った。もちろん、旅の雰囲気が僕を大胆にさせているということもあるだろう。
「ほんと? いいの?」
「私もまだ沖縄のことよくわかんないしさ、一緒のほうが楽しいかも」
「やったぁ!あたし結構長いしさ、いろいろ話聞いてるから、案内できるよ」
 まずは二人で、自転車を後部座席に押し込んだ。ぎりぎりだったが、なんとか収納することができた。
「あ、そうそう。あたしの名前は美鶴。あなたは?」
「さくら。いいね、美鶴って」
「はは。よく男の子と間違えられるけどね」
「ミツル……そうだね」
 僕は、贈り物のように現れた彼女に、精一杯ほほ笑んだ。孤独を消し去るうえに、僕の心を刺激するほどではない少女。そして彼女にとっても、僕は安心できる女の子に見えていることだろう。
「さくらって呼んでいい?」
「うん。じゃあ私も美鶴って呼ぶね」
「オッケー。なんか、すごく運が良かった。ありがと」
 僕も運が良かったけれど、それは口に出さないことにした。もし出会ったのが男性だったら、僕は葛藤したかもしれない。もし出会ったのがきれいなタイプの人だったら、僕はためらったかもしれない。
 僕は女性の鎧で美鶴のことをだましているのだ。けれども、それでいいじゃないか、と思う。そう思い込む。
 サトウキビ畑の中、狭い道を進んでいく。CDを、止めた。


「ひっやー」
 美鶴は、叫んだ。
 僕の腕ではなかなか大変な道を登って行って、たどり着いた場所。一瞬水色の変な形のモニュメントに目が行くものの、そのあとは遠くまで広がる海に視線は釘つけだった。
「遠い……」
 思わず僕の口から洩れたのは、そんな言葉だった。太陽光を反射して、光り輝く海がどこまでも続いている。この先にあるのは、大陸だろうか。そこまでは見えない。
「あれかぁ」
 美鶴は崖の下のほうを覗き込んでいた。でこぼこの岩に、亀裂が走っているのが見える。
「なんなの?」
「戦争のとき、砲弾が撃ち込まれたんだって」
 言われてみると、波に削られたにしては形が角ばっているような気がした。そう、沖縄にはそういう歴史があるのだ。
「なんでこんなところに」
「ここまで逃げてきた人もいたって。でも、海からも攻撃された。飛び込んだ人もいたって、聞いたよ」
 美鶴の言葉に、戸惑いを覚える。僕よりも若い女の子が、表層をすっ飛ばして沖縄を見ている気がした。長くいればそうなるのだろうか。
「全然想像つかないね」
「うん。でも、おじいに話聞くと、ちょっと光景が浮かんで来ることがあるよ」
 僕には、何も見えてこなかった。この青い海に、赤い血が浮かんだことなど想像できない。戦争など、見えない。
「あ、あたし別に感傷に浸ってるわけじゃないよ。でもね、沖縄来て、あー海きれいーとかっていうのは飽きちゃったからかな。ごめんね、さくらは初めてなんでしょ」
「ううん。私も、色々感じてみたいかも」
 将棋のときはあれほど絵が浮かぶのに、美しいものの前では現実しか見えてこない。しかし、盤上は美しくないのか?
 ああ、将棋のことを思い出してしまった。
「ねえ、王道のことしてみようよ。さくらもそのつもりだったでしょ」
「え、うん、そうだね。……でも、王道って?」
「うふふ」
 なんとなく、笑う美鶴と海とを、写真に収めた。こんなにきれいな海もだが、普通に女の子にレンズを向けるのも、初めてだった。


 美鶴の言う王道は、グラスボートだった。船の底がガラスになっていて、魚の泳ぐ姿を見ることができる。
「一人だったら来なかったもんね。感謝です」
「確かに……」
 私たち以外は全てカップルだった。これは、女一人では乗りにくい。
「なんかね、なかなかきっかけないんだ。那覇にずっといると、沖縄の海のことなんて、忘れちゃいそう」
 浅い海の底に、珊瑚や小魚が見える。どちらかと言うと、魚の方が色鮮やかだった。えさが投げ込まれ、海面から飛び出さんばかりに魚たちが跳ねまわる。そして遠くを見れば、澄み渡る青い海。そして、青い空。
「美鶴は、最初っからずっと那覇なの?」
「ちょっとは出かけたけどね。北谷とか、コザとか。でも、永住する予定だったし、仕事見つけなきゃって思って、毎日歩きまわってた。夏になっても海とか見る余裕ないし、友達もなかなか会えないし、あー、これじゃ本土のときと変わんないなー、って思って、自転車で南の方行ってみようって思ったわけ。そしたらパンク。びっくり」
 柔らかそうな唇から、明るい声がたくさん溢れ出てきた。海面が光を反射するだけではなく、彼女の顔は輝いていた。それに比べて僕は、ぼんやりと沖縄全てを眺めている。このまま吸い込まれて、透明になりたいのだ。
「あ、そういえば聞いてなかった。さくらって、仕事はなにしてるの?学生じゃないよね」
「え、わかった?」
「なんか、きっちりしてるもん。社会に出てる顔してるし」
「そうかな……」
 僕らの職業は世間からは浮いている、と思っている。小学生の頃からプロと同じ屋根の下で競い合い、年齢に関係なく資格を得て、一週間に一回よりも少ない対局を生業としている。中にはゆるみきった人もいるし、会話するのが大変な人もいる。学生でないことは確かだが、社会人として見られるような顔つきをしているかどうかは自分ではわからない。
「うーん、料理とかしてない?中華のイメージかな」
「どっちかっていうと和食かな……料理じゃないけど」
「え、ひょっとして陶芸とか?」
「近い、のかなー。あのね、将棋のプロなんだよ」
 三秒ぐらい、美鶴の動きが止まった。多分、僕の言葉の意味をすぐには解釈しきれなかったのだろう。
「つまり、将棋を指してお金をもらう人?」
「つまり、そう」
「あのね……あの人。定家さんと一緒の?」
「まあ、私は女流だけどね」
「へー、へー、すごい。さくらって勝負師なんだ」
「いやあ、まあそうなるのかな」
 会話が聞こえたのだろう、他のお客さんもちらちらとこちらを見ている。恥ずかしいのと同時に、タイトルに挑戦していても世間には全く知られていないことが悲しかった。そして、今は将棋のことは忘れていたい。
「全然そんな風には見えない、かわいい女の子って感じなのになー」
「……はは」
 視界の端で、白く薄いものがひらひらとはためいていた。女の子らしいもの。
 ボートはゆっくりと進む。深いところまで、一度は行ってみたいものだ。


 ただ待つ時ほど、緊張するときはない。
 夜の国際通り。短い沖縄滞在を楽しもうと、大人たちは店を探して歩いている。それを自分の店に勧誘する人たちもいる。僕は、そのどちらからも目立たないようにしていた。
 十分ほどして、彼女はやってきた。
 昼間とは違い、長いズボンに長袖のシャツを着ていた。髪はほどかれていて、ウェーブしながら、肩までかかっている。
「ごっめーん、遅れちゃった」
 手を振りながら駆けよってくる美鶴。僕は、少しだけ微笑みつつ、目立っていないかと辺りをうかがってしまう。
「シャワーがなかなかあかなくてさ。ドミトリーってそういうとこ不便なのよね」
 那覇に戻りレンタカーとレンタサイクルを返した後、ご飯を食べることを約束して美鶴と別れた。ホテルに戻っても、特にすることはなかった。個室は、どこに行っても個室だ。
「じゃ、行きましょ」
「うん」
 人の流れをうまくすり抜け、美鶴は進んでいく。僕も必死にそれについていく。そして、彼女は国際通りから外れ、狭い路地を進んでいく。人もまばらで、どことなくいいにおいがする。
 小さな木の扉の前で、美鶴は立ち止った。手招きされて入る。中もそれほど広くなく、半分以上がカウンター席だった。客はおじさんが三人。店主はタンクトップ、頭にはタオルを巻いたいかにも威勢のよさそうなお兄さんだった。
「おうっ、美鶴か」
「今日は綺麗なおねーさんつれてきたよ」
「よくやった。まあ、座って」
 店内は非常にきれいに片付けられており、先輩たちに連れて行かれる居酒屋とは少し雰囲気が違う。妙なポスターや写真が貼られていることもなく、見やすいようにメニューとその説明が書かれたものが貼られているだけだった。コップもきれいに洗われていて、おしゃれな広口のものだった。
「あ、このひと島崎さんね。こっちはさくら。将棋指すプロの人」
「へー、それは珍しい。お酒は飲める人?」
「あ、はい」
「じゃ、一杯目はサービスね」
 島崎さんは、コップを手に取り中にお茶を注いだ。そしてカウンターに置かれている黒い樽の中からお酒をすくい取り、それもコップの中に入れた。
「くーすーのさんぴん茶割りね。俺が沖縄に残ってるの、これ飲むためなんだよね」
「沖縄の人じゃないんですか」
「おう。旅行のつもりで来たんだけど、そのまま居ついちゃった」
「昔ここもドミトリーだったんだって。オーナーがやめちゃった時に、引き継いでお店にしちゃったの」
「ま、料理ぐらいしかできないし、家探すの面倒だったし。まー、楽じゃないけどね」
「へー。でも、私こういう雰囲気、好きです」
 コップに口を付けると、ジャスミンのいいにおいと、泡盛のつつくような刺激臭が同時に舞い込んできた。少しなめてみる。あまり癖はないものの、甘いような辛いような、なんとも言えない深い味わいがする。
「おいしい」
「おっ、わかる人だ。美鶴はまだ未成年だからね、飲ませてないんだよね」
「まったく真面目なんだから。ま、あんま得意じゃないんだけどね」
 美鶴は食べ慣れているのだろう、どんどんと注文をしていく。出てくるのは、野菜や魚たっぷりの、見るからにおいしそうな品々。派手すぎず、気取りすぎず、沖縄過ぎず。もっと生活に密着したところで店を出せばいいのに、なんて思う。けれどもきっと島崎さんは、那覇が好きなんだろう。何故ここに居つくことになって、どんなに居心地がよくて、ちょっと辛いこともあって、それでも楽しくて仕方ないということをずっと語ってくれた。
「でもね、友達とかが真似しようとすると止めるんだよね。俺のやってることは結局遊びだって。彼女できても結婚の話できないしさ、三十年続くと思わないし。お金とか将来とか考えたら沖縄来てる場合じゃないよって。でも、俺はここで遊ぶこと選んじゃったんだよねぇ。そんな奴いっぱいいるけどさ、せめて俺はうまいこと遊んでやろうって。
 まだ二年だけど、いっぱいあきらめて帰った奴見たよ。沖縄に休みに来てるんだよね。でもさ、現地の人は精一杯働いてるから、浮いちゃうんだよね。だから、稼ぐ時は稼ぐ、いかに遊びながら稼ぐかが大事だって思ったの」
「相変わらず熱いねー。お客さんこんだけで稼げてんの?」
「ま、きついけどさ。最近はお昼のランチ力入れたりとか、そういうのも楽しくなってきた。なんだかんだ言ってね、お金も欲しいっちゃ欲しいよね。ね、さくらちゃん」
「え……はあ」
 二杯目のコップが空いた。目の前がぼんやりとしてくる。
「僕はさ……結果がほしいです」
「そっか、勝負師だもんな」
「もっと、勝ちたいんです……」
 少しだけ、隙間を埋めていたものが透明になっていくのが分かった。ただ、少し濃い泡盛が、一時的に溶かしているだけかもしれないけれど。



 外は雨。強く窓をたたく音。
 さっき、沖縄から帰ってきた。
 住み慣れたこの街の方が孤独だなんて、それを知ってしまうのも少し辛い。
 けれども、孤独になるのを知ってここを選んだ。
 テーブルの横に置かれた将棋盤。脚付きの立派なものだ。
 もうすぐ、最終局。
 盤上には、海が広がっていた。砲弾の飛び交う、青い青い海。


 そのニュースを知ったのは、兄弟子からのメールだった。
 そして、続けて本人からもメールが来た。
 要さんが、結婚する。
 それは別に不思議なことではないし、喜ばしいことのはずなのだ。
 要さんへの返信の言葉を何度か打って、消した。
 棋譜をどこまで並べたのか分からなくなった。気が付くと窓の外が暗くなっていた。ベランダに出て、遠くを見た。星の見えない夜だった。
 思い出せない。僕はどういう風に思っていたのだろうか。
 実は、なんてことがないのだ。
 最初から、何もありはしないのだから。


 眠ったのだろうか。
 よくわからないままにこの日を迎えた。
 着付けをしてもらってる間も、いつも通りにできたような気がする。何を話したかは覚えていないが、おめでとうは言えた気がする。
 泣けなくても笑えなくても、この勝負は今日で終わる。今の僕にできることをするしかないと、思っている。
 鏡を見ると、少し頬の細くなった、僕が映っていた。目じりも口元も、少し下がっている。
「悔いを残さないようにね」
 要さんの言葉に、小さくうなずいた。心が波立たない。いや、心に何の潤いもなかった。悔いを残したことなどないし、悔やまない日はなかった。
 対局室に入り、盤の前に正座する。木目の入った、白い盤を見つめる。黒い線が引かれていて、四つの丸い点。海もなければ、絵も描かれていない。
 少し経って、先輩が入室してきた。二局目までとは異なる、落ち着いた麻色の着物を着ていた。将棋祭りでも見たことがない、初めて見るもの。
 駒袋から解き放たれる駒たち。流れるような華麗な書体。見た目でいえば、僕は「銀将」が特に好きだ。
 再びの振り駒で、僕は先手になった。角の右前の歩をつかみ、一つ前に突き出す。指先へとレンズが向けられ、いくつものシャッターの音が聞こえる。
 目を閉じた。真っ暗だった。驚くほどに何も浮かばず、吐き気どころか緊張感すらなかった。
 指し手が進んでいく中で、僕は少しずつ鼓動が遅くなるのを感じていた。盤面と駒台だけが視界の中にある。ふと顔を上げた。対局相手、記録係、立会人、ちゃんといる。風の音、水の流れる音、ふすまの開閉する音、聞こえる。そして盤上に視線を戻すと、世界が木製になる。ああ、これが欲しかったものだ。
 世界に、黒い線が走る。前髪だった。きちんとセットしたはずなのに、束になって落ちてきた。かき上げたが、また落ちてきた。
 立ち上がり、部屋を出た。トイレに入り、鏡を見ながら髪を整える。これぐらいならば、ぼくだけでもなんとかできそうだ。
「もう、連絡しないって言ったじゃないですか」
 個室の中から、嗚咽の混じった声が聞こえてきた。誰か入っているとは思っていたが、電話をしているようだ。
「……あたし、結婚するんですよ。わかってくれたじゃないですか。……あたし、彼と幸せになるんです」
 それは、まぎれもなく要さんの声だった。立ち去らなければと思うのに、体が硬直してしまう。
「……先生とは、もう……」
 めまいがした。そしてそれは、決して要さんのせいだけではなかった。
 頭の中が重たくなったり、軽くなったりする。
 くらくらとして、どろどろとした。
 ……予定より、三日早かった。
 洗面台に手をつき、深く息を吸った。まだ始まったばかりだ、なんともない、と自分に言い聞かせる。けれども、この事態への対処は全くできていなかったのだ。一応、ものは用意してあった……けれども、心構えは。
 トイレを出て、控室まで走った。なんだか、色々とよく分からなくなっていた。それでも、今は立ち止れない。


 視界が固定できない。
 初めてではないのだ。一ヶ月に一回は訪れるもの。だから、対局と重なることがないわけではない。それでも……正直、ほとんどは力ずくで勝ってきた。この世界に入った時点で、ほとんどの仲間は僕より弱かったのだ。そして、僕が本当に勝負しなくてはならない人とは、年に数回しか当たらない。四年間、僕は幸運にも体調の良い日に勝負の時を迎え、さらに運の良いことに、タイトル戦に出るまでの実力はなく、大切な勝負が増えることはなかった。
やっと、つかんだのに。
 運悪く、僕はもっとも大切な勝負のさなかにいる。
 左手で腹部をさする。温かくなると、少し楽だ。それでも、そんなことを考えさせられるだけで困っている。ただひたすら盤上に没頭できていた数時間前は、いったいなんだったのか。条件は同じなのだと頭ではわかっても、それでも僕は悔しくてたまらない。この痛みと、この痛みの意味が、胸の芯まで締め付けてくるようだ。
 平べったい駒が、自己主張を隠さずに僕に訴えかけてくる。どれもが玉なんか放棄して、どんどん前に出て行きたがっている。女流は攻めることしか考えない、なんて陰口を思い出す。体が脳を支配して、僕の将棋を邪魔してくる。ああ、攻めてしまいたい。相手は絶対に攻めてくる。ここで殴りあえなくて、これ以上、上を目指せるというのか。
 混乱が混乱を助長している。こんな混乱は困難な懇願を懇請させる。
「ああ……」
 思わず声が出た。心が漏洩した。
「う……」
 目を閉じた。息を吸った。大きく吐いた。
 舌を噛んだ。
 耳の後ろの方で、きらきらと光るものがあった。僕はそのきらめきを追いかけて、包み込んだ。研修生の頃、初めてその戸惑いに襲われた時のことを思い出す。僕は必死に、それがなかったことにして盤上の絵画を見つめ続けていた。どんどん渦巻いていく模様。次第に、将棋の内容について忘れ始めた。僕は、その棋譜を覚えていない。ただ、将棋が終わるなり涙があふれ、気が付くと知らない公園にいたことを憶えている。
 ごまかしのきかない事実の前に、僕はうろたえるしかなかった。どろりとしたものとともに、希望までもが流失していった。子供の頃の僕は、いつか体が心に追い付くのではないかとか、そんなことを思っていた。そんなはずはないのだけれど、願っていた。
 局面は、動き出している。中盤の難しいところで形を整えていくのが、僕の持ち味だった。定跡の影響が薄れ、対局者の力が試される場面。それなのに僕には、うっそうと茂る樹海のようなものが見えているばかりだった。これから歩む道どころか、これまでの足跡も見失っていた。それでも、必死に頭を働かせ続けた。考えるのをやめたら、何かが消滅してしまう気がした。今後、何度もこのような状況は訪れるだろう。そのたびに立ち止まらないためにも、今こそ前に進まなければならない。
 三時になり、おやつが出された。シフォンケーキとストロベリーティーだった。甘い香りが、僕の頭を少し柔らかくしてくれるようだった。ケーキを口にすると、気分もちょっと落ち着いた。
 視線を上げると、相手はおやつなどに目もくれず、盤面を睨みつけて読みふけっている。長年女流棋界を引っ張ってきたこの人は、いつだって手を抜かない。時には男性棋戦でも活躍し、世間の目を向けさせることもした。若い世代が台頭してきても、トップはいつだってこの人だ。僕も、尊敬している。この世界にいることが不本意だとしても、この人と真剣勝負ができることはとても嬉しいことだ。
 イチゴの甘ったるい味が、喉元を過ぎたとき。とにかく僕は、決断した。長い長い勝負でも、乗り越えていかなければならない。焦らされるような局面に対して、喜びさえ覚えなければならない。体内から排出される血と引き換えに、僕はこの勝負を肉に変えてみせる。今まで積み上げてきたもの、我慢してきたことを、体を言い訳にして無駄にしたくなんてない。
 駒台から、銀をつまみ上げた。さっき交換したばかり、宿舎に入って一息つけたばかりの銀を、玉の上に置いた。8七銀打ち。相手の突き捨てを咎めに行く、強情でリスクの大きな手だ。自玉は固くなるが、攻めは細くなる。ひたすら相手のパンチを受け続けることを、覚悟しなくてはならない。
 それでも、これが僕の棋風だから。
 川崎の顔が浮かんでいた。彼との差は、こんなところで立ち止まっては埋まりようがない。僕はまだ、あきらめたくない。男として生きられないのならば、一人の棋士として生きたい。そしていつか、一流の人間がいる場所へ……。
 思ったよりも早く、応手が指された。受けたところをこじ開けようとする、剛直な一手だった。予想通りだ。これを乗り越えなければ、次のステージには進めない。僕は、一分と経たないうちにその攻めを真正面から受け止める一手を指した。選択肢はたくさんあったが、流れからは一つしか手はなかった。盤上に赤い川が流れている。敵の兵隊が溺れながらも、こちらの岸に向かって必死に進んできている。僕は、それを岸辺で撃退する。笑いながらできたらいいけど、泣きそうになりながら。スカートの裾を引きずって、銃を撃つ。
 どれだけ受けても、相手はひるまなかった。もちろんだ。そうやっていくつものタイトルを守ってきたのだ。僕も、ひるまない。相手にも、体にも負けたくない。
「すいません、お茶を」
「はい」
 いつもペットボトルの飲料水を持参しているのだが、体を温めなければならないと思った。そして、蓋を空けるのも面倒だった。少し苦いぐらいが、今はいい。記録係が運んでくれたお茶を、一気に飲み込む。少年は、目を丸くしていた。
「もう一杯」
「あ、はい」
 エネルギーが足りない。出ていく以上に補給しなくちゃ、頭が働かない。二杯目を飲み干すと、黙って三杯目を注いでくれた。
 時間が残り少ない。僕は立ち上がり、トイレまで走った。出せるものは全て出し、代えられるものは代え、最後の戦いに向けての準備を整えた。
「もう、やるしかないよ……」


 多くの子供は、父から将棋を教わった、と言う。僕は、自分で学んだ。将棋の本を買って、こっそりとルールを覚えた。
 そのころ僕は病院に連れら れて行ったから、なんとなく、自分がどう思われているのかを分かり始めていた。僕は泥んこになって遊んだり、ヒーローのまねをしたり、野球に夢中になって はいけなかった。母は可愛いスカートを買ってきて、かわいい、かわいいと何度も言った。僕は反抗しなかった。自分がどういう存在なのか、ずっとずっと前か ら分かっていた気もする。我慢していれば、いつか変わることができる。そう、例えば将棋で一番になれたら。
 教室では何も問題がなかったし、すぐ に一番になることができた。学校の中でも、負けることはなくなった。そして、さびしくなった。女の子に負けたくないからと、相手も少なくなった。学校から 帰ると、一人きりの部屋の中で、「僕対僕」で将棋を指した。強くなっているのか分からない。
 それは、遠足の帰りだった。家の近くだけれど、普段は行かない場所を通った時、「将棋道場」の文字を見つけた。僕は立ち止り、しばらくその看板を見上げていた。
「木田さん、どうしたの」
 先生の声に、しばらく考えてから僕は答えた。
「私……」 
 ここに行きたい、という言葉を飲み込んだ。誰にも言ってはいけない、と思った。僕は、いつかここに行く。誰にも止められないように、こっそりと。
 すぐには決行しなかった。ばれたら、将棋自体を取り上げられてしまう、と思った。そして、ついにその日は来た。母が祖母のお見舞いで実家に戻り、父が帰ってくるまでの時間、僕は自由を得ることができた。父はだいたい、八時までは帰ってこない。
 いったん家に帰り、ランドセルを置いた。高ぶる気持ちを抑えながら、しばらくじっとしていた。みんなが下校を終えてから、僕は道場に向かった。
 ビルの二階。暗い階段を上って、重たい扉を開けた。畳の上に、脚付きの分厚い盤が並んでいた。対局している人はいなかった。
「お譲ちゃん、どうしたね」
「あ……ここ、将棋……指せますか?」
 目の前に、大きな大きな手が現れた。視界から消えたかと思うと、頭をなでた。
「もちろん。お譲ちゃんは将棋指すんね」
「……はい!日本一強くなりたいんです!」
 それが、師匠との出会い。僕を見守ってくれる人……


 盤面に集中していたのに、気配を感じた。来ないと言っていたのに、あの人は現れた。僕に見つからないように襖の陰に隠れているけれど、半分以上見えてしまっている。
 顔を合わせるのは半年ぶりぐらいだ。プロになってからは、ほとんど会っていない。
 あの人がいなければ、僕はこの世界に入ることができなかっただろう。
 僕が本当に心を許している人は、世界に二人しかいない。血がつながっていないのは、あの人だけだ。
 自分の頬が緩んでいるのに気が付いた。昔のことを思い出して、存外に楽しくなったのだ。辛いこともあったけれど、僕はここまで将棋をやめずにこれた。今日の結果がどんなふうになっても、やめることはないだろう。
 局面は、終盤に差し掛かっている。


「さくらを迎えに来ました」
 扉の前に、母が立っていた。僕には、連行しに来た警察官に見えた。
「さくらちゃんのお母さん?」
「はい」
 恐る恐る、母の顔を見た。両目がいつもの半分ぐらいの薄さになっていた。怒っているときの特徴だった。
「そうですか。いやあ、さくらちゃんは強くなりますよ」
「やめさせます」
「え」
「将棋なんて、やめさせます。さくらは女の子なんです」
 母は、僕の手をつかんだ。体が硬直して、唇も震えていた。
「……将棋なんて、ってことはないですよ。頑張ってる女の子もたくさんいます」
「いいえ。何と言われようとやめさせます」
「それに、さくらちゃんは男の子でしょう」
「……何を言ってるんですか」
「気付かないはずがない。さくらちゃんは体以外全部男の子だ。だから、将棋を好きになってもおかしくないでしょう」
 母はそれ以上何も答えず、僕の手を引っ張って道場を出て行った。
 家に帰ってからも、二人とも黙ったままだった。食事の時間が近付いても、母は椅子に腰かけてぼんやりとしていた。
「たっだいまー」
 沈黙を破ったのは、樹だった。
「あれ、準備は?」
 母は樹にうつろな視線を向けたあと、首を横に振った。
「何かあったの」
 僕も、すぐには声が出せなかった。樹はそんな僕を子供部屋まで手招きして連れて行った。
「姉ちゃん、母さん怒らせたの?」
「……うん」
「悪いことした?」
「……わからない」
「ちょっと待ってて」
 部屋から駆け出て行った樹は、大きな四角い箱を持って戻ってきた。
「じゃーん」
 机の上に置かれたのは、白くてまん丸いケーキだった。最初意味がわからなかったが、四角いチョコレートに「おめでとう」と書かれているのを見てわかった。僕の誕生日だったのだ。
「って、みんなで言う予定だったんだけど」
「……ごめん」
「謝んなよ。なんか、理由も想像つくし」
「……ご……ありがとう」
 それからしばらく、樹以外の家族とは口をきかなかった。道場にも行かなかったし、将棋も指さなかった。


 二か月ぐらいたった時だった。
「姉ちゃん、明日街行かない?」
「え?」
「将棋の大会があるんだ。お母さんにはさ、買い物って言っとく」
「……でも」
 それまで、樹とは将棋の話をしたこともなかった。それなのに樹は、僕に足りないもの、欲しいものを知っていたのだ。
「なんで我慢するのさ。いい子にしてたって、何にも貰えないよ」
「……うん」
 次の日、自転車で行くからとうそをついて、朝早くバスで街に向かった。地図を頼りになんとか大会会場を見つけ、二人で建物に入って行った。
「受け付けはこっちだよ」
 ひげのおじさんが声をかけてくれた。
「おや、お姉ちゃんは付き添い?」
「何言ってんだ、桜が参加するんだよ」
「ああ、それはごめん。B級でいいかな」
「Aに決まってんだろ、なあ」
「え、私は……」
「男ならてっぺん目指すもんだろ。Aに一人、木田桜っと」
 樹は勝手に参加の手続きをして、自分の財布から参加費を支払った。
「ごめん」
「いいんだよ。ここまでしてやったんだから、活躍しろよ」
 会場に女の子は一人だけだった。それでも将棋の大会に参加できるということで興奮して、周りの目は気にならなかった。言われるがままに着席し、最初の対局が始まった。そして驚くほどあっさりと、勝ってしまった。正直、話にならなかった。
「すげーじゃん! よくわかんないけどさ、圧勝だってみんな言ってたぜ」
「……うん。うまくいった」
 次の将棋も簡単に決着が付いた。相手は定跡も関係なく、思いついた手をポンポンと指してくる感じだった。日頃師匠に教えられていたことを実践して、落ち着いて相手の手を咎めていくと、簡単に必勝の局面になった。知らない間に僕は、かなり強くなっていたようだった。
 そのあとも、順調に勝っていった。次第に、みんなが注目しているのが僕にもわかってきた。誰にも知られていないうえに、女の子なのだ。負けた中には、泣きだす奴もいた。少し、快感だった。
 そして、ついに決勝戦まで来てしまった。相手は、見るからにおとなしそうな細面の少年だった。小学生らしくない落ち着きがあり、ゆっくりと駒を並べる動作を見て、それまでの子とは違うということが感じられた。
「川崎です。よろしく」
「え、あ、木田です」
 僕たちの周りには人だかりができていて、急に緊張してきてしまった。とんでもないことをしてしまったのではないか、そんな気がしてきた。前日まで、僕は大会のことも知らなかったのだ。普通に行われるはずのものを、かき乱してしまったのではないか。
 勝負は淡々と進んでいった。定跡通りの、がっちりとした相矢倉。それまでの相手とは全く違う、本格的な将棋になった。初めて、ちゃんとした勝負をしているのだと思った。
  けれども、相手にとって僕は「ちゃんとして」はいなかっただろう。中盤以降、力の差が如実に局面に反映され始めた。駒が抑え込まれて、突破口がなくなって くる。無理に手を作ろうとして、丁寧に対応されてなお悪くなる。師匠に指導されているときのような、圧倒的な差を感じていた。それでも、あきらめたくはな かった。やっと、将棋を本当に楽しめる相手と出会った、そんな気がしていたから。
 僕の囲いは全く崩れていない。それでも、もう勝負はどうしようもなくなっていた。
「負けました」
 僕がそう言った時、周囲はざわめき、相手は意外そうな顔をした。普通はもう少し指すものなのか、ぼんやりとそう思った。


 少し、こちらが指しにくい局面だった。それでも目に見える差があるというわけではない。きっちりと受け続ければ、絶対にチャンスはあるはずだ。
 持ち時間はほとんど残っていない。終盤は秒読みで乗り切らなければならない。ここで差をつけられたら終わってしまう。
 盤面は四角い。時に、それを忘れてしまうことがある。けれども今はっきりと、八十一マスが視界に入っている。腹部が煮えたぎるような気持ち悪さも、脳味噌が痙攣するような苦痛も、すでに受け入れている。勝負なんだ。あの日、わけもわからず大会に参加したときとはもう違う。たった二週間に一回、死に物狂いになるだけでいい。将棋棋士とは、そういうものだったのだ。明日からは寝たいだけ寝ればいいし、笑いたいだけ笑えばいい。けれども今は。ここに答えを。一つでいい、答えを。
 玉頭付近のごちゃごちゃした勢力争いを、何とか乗り切る一手。できれば、攻めにもなるような一手。攻防にも効く一手というのは、角が活躍する場合が多い。駒台には角が二枚。自玉にも利き、相手にもプレッシャーを与える場所。
 一か所、ある。何ということだろうか、そんなところにスペースがあったなんて……。3四角。自玉のと金に当たっており、放っておくことはできない。また、次の2四歩が相手玉に迫る厳しい一手となる。ただ、問題は3三に相手の歩があることだ。この角はただなのだ。けれども角を取ると、4四角が王手飛車取りになる。飛車を取るとやはり2四歩が厳しい。
 うまそうな手には気をつけなければならない。相手に角を渡しても、自玉が安全なのか。先に2四歩の方がいいのではないか。
「残りは」
「三分です」
 山場は、もう一回来るはずだ。この三分は、残しておきたい。
 僕は角をつまみ上げ、ゆっくりと打ちおろした。
 一瞬、部屋の中の空気が澄み渡り、全ての音が遮断されたような気がした。ふと顔を上げると、相手もこちらを見ていた。笑っているような困っているような、よくわからない顔だった。
 五分も経たないうちに、応手は指された。打ったばかりの角が、相手の駒台に置かれた。王手飛車をかけさせる、挑発的な手だ。そして、それは予想通りの手だった。
 問題は、飛車を取った後の猛攻をしのげるか、ということになった。2四歩が入れば、こちらの攻めが切れることはない。
 また、湯呑みが空っぽになった。
「お茶を」
「はい」
 渡したばかりの角が、今度はこちらの陣に打ち込まれた。ついに、本当の決着の時が近づいてきている。


 僕にとっては運が良かったのか悪かったのか。
 両親が別居して、僕たちは母の実家に住むことになった。親戚はみんな優しく、母は僕たちに全く無関心になっていった。
 転校した先では一切将棋を指さなかった。全く学校には愛着がわかず、僕は女の子らしく振る舞うことで注目されないようにと努力した。そして家に帰ると、ネットの将棋を指し続けた。誰も、僕にそれをやめさせようとはしなかった。かわいそうな僕から、何かを取り上げようとする勇気のある人がいなかったのだ。
 将棋に勝ち続けて、ふと虚しくなることがあった。きっとまだ川崎には勝てないのだろう、何度もそんなことを考えた。再戦したい。勝てなくてもいい、せめて、ライバルと思われるぐらいの勝負をしたい。
 県すら違う状況では、顔を合わせることさえできはしないのだ。僕は決意した。県代表になって、川崎と当たるところまでは負けない。不思議と、川崎が代表にならない可能性については全く考えなかった。すでに、彼からは特別な空気が流れているのを、感じ取っていた。
 強くなりたい。それだけが生活の全てになった。詰め将棋もするようになった。そして、将来のことも考えるようになった。このままずるずるとこの体を引きずって歩くよりも、盤上に委ねる生き方をするべきではないか……
「笑いなよ。ゲームなんだから」
 ある日、樹は僕に言った。
「勝ってるじゃないか」
 僕は、弟の目を見ることができなかった。
「姉ちゃんは、どうなりたいのさ」
「……日本一になりたい」


 そして、一年ぶりの大会。再び、誰も僕のことを知らなかった。そして、僕は淡々と指し続け、優勝した。自分でも強くなっているのが分かった。
「全国大会、行くよ」
「ええ、よかったね」
 母はまるで関心がなく、虚ろな眼をしたままうなずいた。付き添いが必要だったが、頼める気はしなかった。そんなことまで考えていなかったので、途方に暮れた。
 次の日、来客があった。家には僕しかおらず、ネット対局を中断して玄関に走った僕は、扉をあけた瞬間に、泣きそうになってしまった。
「さくらちゃんが代表になったと聞いて」
 そこには、師匠が立っていた。
「樹君から住所は聞いていたんだ。将棋を続けていると知って、嬉しかったよ」
「……ずっと続けます」
 涙がこぼれ始めていた。生まれて初めて、自分は運がいいのだと思った。
「そうか」
「だから……師匠になってください。日本一になりたいんです」
「子供の、ではなくて?」
「プロになりたいです」
「そうか」


 鼓動の音が脊髄から染み込んできた。
 単純に疲労が蓄積するうえに、全く予想外の一手を指された。飛車の頭にただ捨ての2七桂。取れば横利きがなくなるが、取らなければ3九が拠点になってしまう。頭の中が沸騰しそうになっている。
 ここだ。ここで、三分だ。
 奨励会試験に落ち、悩み、迷い、無力感に襲われ、それでも食らいついてここまできた。望んでいた世界にはまだ遠いけれど、今ようやく初めての「日本一」が手に届くところまで来ている。多分、次の一手で決まる。
 この手は、僕が放った角のただ捨てが誘引したものだ。意地とプライドが、ひねった手を見せつけようとさせるのだ。最善手ではない。冷静な一手が、決め手になる、はず。目を閉じた。青い海が……
 もう、持ち時間はなくなった。そして、必要なかった。きっとこの一手で、相手も時間を使い切らなければならなくなる。お互い秒読みで、最後の殴り合いだ。
 駒台から飛車をつまみ上げた。角を犠牲にして取った飛車だ。敵陣に打ちおろして、攻め合いを期待されていた飛車。僕はそれを、自陣の飛車の横に置いた。
 3八飛車。二枚の飛車が、ぴったりとくっついている。見たことのない受けだったが、自信があった。3九などからばらして桂馬がいなくなれば、2八の飛車が縦に利き、攻めが続く。放っておけば、次に桂馬を取ることができる。
 これ以上の手があるとしても、今の僕には届かないだろう。
 五分経ち十分経ち、相手の持ち時間もなくなった。これからは二人とも一分以内に次の手を指さなくてはならない。脳味噌から乳酸がこぼれおちそうだ。
 飛車の力が強く、自玉は絶対に詰まない。その代わり、相手玉も今のところは安全だ。駒をもらわなければ、こちらが攻め勝つということはない。
 そんなわけで、指された手は2五香だった。
 桂馬を取らせず、攻め味も見せた強情な一手。善悪なんて考えてられない。言い分を通すわけにはいかない。
 すぐに、三十秒が経過する。ここで、だいたいの指し手は決まっている。それでも、延々と読み続ける。終盤の失着は、負けに直結する。特に僕の飛車は、どちらも相手の人質になっているような状況だ。どんな危ない筋が出現するか、わからない。
 喉がからからになる。肺が痛くなる。子宮が嘆く。全てのものを受け入れて、勝負に没頭する。
 四角い盤が、時折形を崩すようになった。駒台に乗っている駒の文字が見えなくなってきた。頭の中の盤で再現するしかない。
「ああっ」
 思わず声が出た。古いものを全部吐き出したのかもしれない。
 何分ぐらい戦ったのだろう。よくわからないが、負けにはなっていない気がする。しかし、全く勝ちにはなっていない。これが、女流棋界を支えてきた力。これが、将棋にまっすぐ取り組んできた力。
 二枚の飛車が、いつまでもその力を保っていた。そしてやっと、僕に攻める手番が回ってきた。戦いは二筋へと移った。攻めるといっても、渡す駒によってはこちらが急に危なくなってくる。読まなければいけないことが多すぎて、頭の中の盤がくるくると回転しているようだ。しかし、一筋の道も見えている。この勝負は、この道がどこに続いているかによって決まる。
 後手玉に詰めろがかかった。それに対し、詰めろ逃れの詰めろが放たれた。ここまでは、プロならば誰でも読める手順だ。問題は、ここでどう受けるか。一見よさげな手は、全て罠が待っている。玉を動かすのは、と金に迫られて無効。中合いをすると、香車を打たれて厳しい。だが、一つだけ、駒を使わず、玉も動かさない手があった。絶対にこれで勝ちという確信はないが、それでも何となくやれそうな気がした。
 3八の飛車へと手が伸びる。その時、袖が駒台に引っ掛かった。歩が二枚、こぼれ落ちる。
「七、八……」
 しかし、秒読みは待ってくれない。この手だけは絶対に指さなければならない。僕は飛車の後ろに指をかけ、何とか一マス、押し出した。
 3七飛車。
 攻めに利かせ続けながら、玉の逃げ場所を増やした一手。王手は続くが、こちらの玉に詰みはない。これで、ぐっと勝ちが近づいたはずだ。相手から有効な手が少ない。と金が動く手には、2七飛車寄りが決め手になる。これが、詰めろ逃れの詰めろ。受ければ、2五の香車まで取れる。勝ちになった……
 けれども、意識が遠のいていく。駒台からまた歩が落ちた。駒を拾わなければならないが、右手は床についたまま動かなくなっている。首に力が入らず、腰から下しか見えない。読みにない手を指されたら、もう対処できないかもしれない。ああ……
「負けました」
 その声を、僕はすぐには理解することができなかった。最後の力を振り絞って頭を上げると、そこには深々と一礼する峰塚女流四冠の姿があった。
 そしてこの瞬間、峰塚女流三冠になったのだ。
 僕も、精一杯頭を下げた。
「これで、手がないもんね」
 いろんな人が対局室になだれ込んできた。フラッシュがまぶしかった。
「ありがとうございます」
 そして僕は、涙が止まらなかった。泣く予定なんかなかったのに。今一番うれしいのは、峰塚さんが僕を認めてくれたことだった。ここから逆転なんて、いくらでも起こることだ。僕相手にはそれがないと思い、投了してくれたのだ。
 師匠が肩を叩いた。どんな顔をしていいかわからなかった。要さんが笑っていた。僕も笑おうとしたが、笑えているだろうか。
 一つ目の日本一を、やっと手に入れた。けれどもまだ、まだまだ遠い。女流の一番にも、若手の一番にも、将棋の一番にも、とても遠い。
 掌の中にある歩を見つめながら、僕は誓った。まだまだ、立ち止まらない。

 多くの祝福を受けても、家に帰ってくると一人だった。
 いつも通りの自分の部屋を見て、僕はまだ道の途中なんだと実感させられる。将棋盤に棋譜のコピー、ネット対局にしか使わないパソコン。強くならなければ、言い訳のできない生活。
 家を空けている間に、ポストにもいろいろと溜まっていた。その中に、青い封筒があった。差出し人には、築山美鶴と書かれていた。
 中には手紙と、銀色のペンダントトップが入っていた。細長くて、剣の形をしている。

「木戸桜様へ
 この前は本当にありがとうございました。助かったし、面白かった!まだまだ話したいことあるし、また来てね。
 ほんとはね、アクセサリー作って食べてく予定だったんだ。でも、一年で二万円しか売れなかったんだ。今は趣味で作ってるよ。
 桜には、これが似合うかなと思って。あ、将棋頑張ってね。
返事待ってるぞ!
みつる」

 さっそくそれを、ネックレスに付けてみた。面白いほどに、僕には似合わない。けれども、好きになった。これを選んでくれた美鶴に、感謝したい。
 洋服箪笥の奥にしまっていたものを、思いっきり引っ張りだした。履き古したジーパン、お気に入りのジャケット。
 一つの区切りが付いた。息苦しいのは、いったん止めよう。



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