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「おめでとう」
 へとへとになった僕を、満面の笑みで迎えてくれた女性。先輩の、要二段だ。僕よりも二つ年上で、とても優しくて、とても気さくで、とてもきれいだ。そして、僕の初恋の人。
「疲れました」
「よくやったじゃない」
 要さんは、僕の頭をポンポンとたたいた。彼女の中ではまだ僕は子供……女の子なのだ。
「まだ、一勝しただけです」
「私はまだ一勝もしたことないもん。うらやましいなあ」
 僕は、なんと言っていいのかわからなかった。僕が彼女に唯一勝ること、それは将棋の強さだ。初めて会ったときから、僕の方が強かった。それが彼女の誇りに与える影響を、僕はわかっているつもりだ。けれども彼女は、いつも僕によくしてくれた。きっと僕のことを、妹のように思って。
 僕が両手を挙げると、要さんは小さくうなずいて、帯をほどいた。着付けはすべて彼女にしてもらっている。一枚一枚体を覆っていたものを剥ぎ取られていくとき、僕はできるだけ将棋のことを考える。女の人に肌を見られることは、本当にドキドキする。そして、女の人の肌を想像してしまう。自分の肌も女性のものだから、やっぱり変な感じだ。僕は時折、僕にすらドキドキしてしまう。でも、自分の体については嫌悪感の方が強いから、すぐに鼓動も遅くなる。やっぱり、誰かの肌を見たい。
「桜ちゃん、やっぱりきれいだよね」
 突然言われたので、思わず要さんのことを見つめてしまった。大きくて少し茶色い瞳に、見とれてしまう。
「そ、そんなことないですよ」
「ううん、綺麗。和服も似合ってた。うん」
 その優しい瞳は、本音を語っていることを確信させた。僕は耳の裏あたりからこみあげてくる涙を必死で抑えつけた。僕も要さんに、綺麗だよ、と言いたい。けれどもそれはどこまでも本気すぎて、きっと言葉にしてはいけないのだ。僕は、この体の全てを捨ててしまいたい。そして、男として肌を見せて、女の肌を見せてほしい。
 将棋のない時間は、どうしても暗い思いが襲ってきてしまう。僕と二人きりで、平気でいられることを呪う。けれども僕が本当に男だったら、要さんと一緒にいられる時間なんてほとんどないだろう。アマチュアの将棋指しと女流プロとして、何の接点もなく一生を終えていたかもしれない。
 ぐるぐると思いが巡る。将棋よりも、難しいことだ。


 対局以外の女流棋士の主な仕事に、アシスタントがある。
 聞き手をしたり、秒読みをしたり。将棋に詳しいのは当たり前だが、それでも自分からでしゃばることはほとんどできない。棋力でいえば棋譜を取っている奨励会員より弱いのだから、こういう扱いも仕方ないのかもしれない、が。
 今日の仕事は残酷だった。挑戦者決定戦を特別にCSで中継するということで、急きょ人々が集められた。この対局が注目を集めているのは、タイトル戦への挑戦者を決める大事な一番であるから、だけではない。対局者が大ベテラン対新進気鋭の若手だからだ。
 上座、中沢九段。これまでに数々のタイトルを獲得し、現在も順位戦ではA級在籍。背筋がピンと伸びていて、対局姿がとても美しい。
 下座、川崎五段。プロになって三年目の若手で、今年急成長、現在9連勝中。白くて細くて、それでいてしなやかな筋肉がついていて、競馬の騎手のようだとも言われている。
 一部の棋士によって独占されていた感のあるタイトル戦の挑戦の場に登場してきた、過去世代と新世代。今後の将棋界を占うという意味でも、大変な注目を集めることとなった。
 そんな対局に、聞き手として立ち会えることは幸運だ。でも、僕にとってこの対局は、もっともっと大切な意味を持っていて、本当は直視したくないものだった。
 モニターに映し出される二人は、実に堂々と、それでいて柔らかい姿をしている。午前のゆっくりした流れの中であるということもあるけれど、それ以上に心に落ち着きがあるのがうかがえる。中沢九段はともかく、川崎五段がこれほど普段通りの顔をしているのはさすがだと思った。
 彼は、昔からそうだった。いつもいつも、淡々と指して、淡々と勝っていた。
 小学生のころライバルと思っていた人が、今、タイトルに挑戦する手前まで来ている。一方の僕は、別室で聞き手をしている。女流タイトル戦に出ているとはいえ、レベルの違いは明らかだった。今僕と彼の間にある溝は、埋めようとすれば笑われるほどに大きい。
 解説者はころころと変わる。将棋の中継は案外適当なのだ。指し手もほとんど進まないので、タイトル戦の歴史や現在の将棋界についてのビデオが間に挟まれる。当たり前だが、出てくるのはみんな男だ。男でなくてはいけない、と強く実感させられる。
「木田さんもね、今挑戦してるわけだけど、やっぱり同年代の川崎君が頑張ってる姿は励みになるでしょ」
「そうですね。昔から知っていますし、頑張って欲しいです」
 こういう場で最初は戸惑って何も話せなかったが、今では適当な受け答えをできるようになった。将棋の強さだけならばアマだって僕より強い人はいるし、見た目やおしゃべりだけならばタレントでもアナウンサーでも頼めばいい。適度に将棋がわかって、適度に視聴者に受け入れられる容姿や口調でという、アシスタントとして求められる女流プロ像は実はとても難しい。
 その上僕には、演技しなければならない、という負荷が加わる。女性としての立ち振る舞いを貫き通さなければならない。カメラの前では、家や学校でしてきた以上にうまく演技しなければならないのだ。
 対局者の方は、本当に落ち着いている。中沢九段はともかく、川崎五段の堂々とした様子は異常だった。子供の頃はちょこちょこと動く普通の子供だったのに、強くなるのと一緒に順調に大人になっていった。僕よりも、どころじゃない。ほかのどの若手よりもはるか先に行ってしまったかのようだ。
 将棋の方は、よくある最新形になっている。角を早目に交換して、中沢九段が飛車を二筋に振っている。それに対して川崎五段は位を三つ取るおおらかな陣形。どちらがベテランかわからないが、若手の研究を頼るのもベテランらしいといえる。終盤の爆発力が売りの中沢九段にとっては、序盤をどれだけ無難に乗り切るかが大事なのだ。その意味で最新形の将棋は参考資料も多いし、川崎五段への対応もはっきり下調べできたことだろう。
 男性棋戦の将棋は、夕方を過ぎても本格的な戦いにならないことが多い。持ち時間が多いこともあるけれど、一手一手の丁寧さが違う、と感じる。常に最善の手が追及されている緊迫感は、時折僕を震え上がらせる。普段の対局で僕は、何度も悪手を見逃してもらって勝っている。この緊迫感に早く参加しなければならないけれど、いざ身近に感じてみると怖くて仕方がない。
「うーん、これはですね、さっぱりわけがわかりません」
「先生でもそうですか」
 解説が年配の先生になって、空気が少し和んだ。解説は強い人がいいとは限らない。しゃべりがうまいとか、いいネタを持っているとか、そういうことも大事だ。対局者二人のエピソードなどをはさみながら進めていかないと、間が持たないということもある。
「ただ、二人とも本気ですね、ええ。なんでかっていうと、いつもよりペットボトルの本数が多いでしょう。まじめに考えるとのどが渇きますからねぇ」
「先生ものどが渇くんですか」
「ええ、ええ。でもね、もう私はまじめに考えてもすぐ負かされちゃいますからね、そんなに飲み物はいらないんですよ」
 手が進まないと雑談ばかりが進む。しかしそんな時も、僕たちは将棋のことを考えている。対局しているのはたった二人だけれど、プロはみな、一つの将棋と向かい合うことができる。局面だけでなく流れそのものを消化し、血肉にしようとする。僕たちは将棋に飢えていて、なかなか満腹にならない。
 奨励会の少年が、廊下を走っていく姿が見えた。お使いを頼まれたのだろう。モニターの中では、中沢九段がしきりに扇子を振っている。あれだけ用意されていた飲料水も、すでになくなっていた。少年は追加を買いに行ったのか。
 中継がいったん終わり、僕は控室に向かった。解説は入れ替わりだが、聞き手は僕一人なので全く検討に加わる暇がなかった。一度は、その中に身を投じておきたかった。ただうなずいているだけでは、いつまでたっても僕は彼に近付けない気がしていた。
 棋士だけでなくマスコミもいて、いつになく控室は人が多く、熱気に溢れていた。継ぎ盤は全て挑戦者決定戦を検討していた。
「あ、桜ちゃん、お疲れ様」
「本当に疲れますよー」
 まだ本格的な戦いになっていないからか、それほどぴりぴりした空気にはなっていなかった。形勢は互角だと判断されていて、局面が動き出すのは夕食休憩後ではないかと言われている。
「やっぱり川崎君に勝ってほしいでしょ。でもね、おじさんたちは中沢さん応援しちゃうなあ」
「私は別に、どちらに勝ってほしいとかないですよ」
「そっかぁ。じゃあ、やっぱり中沢派の優位は揺るがないね」
「ちょっと、僕たちは川崎組ですからね、川崎君に勝ってもらって、いっぱいおごってもらうんですから」
「川崎君は勝ったらますます真面目になって、飲みになんて行かないんじゃないの」
 ぱっと見には、いつもの風景だった。ただ、誰もがどこか、少し緊張していた。今日、この世界にとって大きな意味のある答えが出てしまうかもしれない。歴史が動く瞬間を、これから目撃するかもしれないのだ。
「あっ」
 誰かが、間抜けな声を出した。見落としや妙手を発見した時に同じような声が出ることがあるけれど、今はまだそんな局面ではない。
 入口に、背の高いひょろりとした男性が立っていた。薄い唇から、小さな声が漏れた。
「どうも」
 控室の空気が、一瞬で圧縮された。皆軽く会釈して、目を逸らした。
 一番輝いていて、一番静寂なる者。七つあるタイトルのうち、四つを持つ者。天才の国の天才。
「定家さん」
 定家四冠。最大六冠にまで到達し、年間トーナメント全制覇という偉業も達成した。十年間将棋界のトップに君臨し続け、一般人にも最も知られている棋士である。
「そろそろ川崎君が有利になったかと思って来てみたんですが」
 固まっていた空気が、さらに凍りついた。天才は、予言を宣言したのだ。皆が期待し、そしてかつてはライバルと呼ばれた男が不利になる姿を確認しに来たのだ。
「いやいや、まだこんな局面でね」
「時間の使い方を見せてください」
 四冠は、棋譜のコピーを取り上げた。そして、薄眼で眺め、口元をゆるめた。
「川崎君が、いい時間の使い方をしていますね。調子がいいわけだ」
 四冠はこちらに来ると、僕たちの継ぎ盤の横に腰をおろした。
「中沢さんはあと五分くらい考えて、端歩を突くでしょう。それに対して川崎君は三分ほど考えてじっと金を寄る。ええ、検討にも出ていた? そうでしょう。ここで中沢さんは長考せざるを得ない。攻めるのか攻めさせるのか決めないといけないですから。かつてのあの方ならば迷わず攻めた。けれども今の若手には終盤だけでは勝てませんからね。おそらく飛車を動かすでしょう。そこで川崎君も長考する。ただし、中沢さんよりも短く。その間に二回は席を外すでしょう。そして、玉を寄る。それがいいんですよ、考えたように見せて、玉を寄ってしまう。実は一分でも指せる手を、考えたふりをして指す。それができるようになったから、ここまで来たんですよね」
 淡々としているが、どこか呪術的な力を持った言葉に皆は圧倒されていた。それは秘儀として隠されてもいいもののはずなのに、この人はいつも語りつくしてしまう。それでいて、誰も真似をできないのだ。相手の深層心理をわしづかみにできれば、という前提自体が誰にでもできるわけではないのだ。
「川崎は……金を寄らないと思います」
「ん?」
 思わず、口をはさんでしまった。視線が集中するのがわかる。
「金を寄るような手は、指さないと思います」
「へえ、なんでそう思うの」
「川崎は、そういうタイプの人間ですから」
 耳の後ろから、神経が釣りあげられるような感覚がしていた。定家様に口答えする人間など、この世界にはいないのだ。言っていることが当たれば「さすが」だし、当たらなければ「対局者がへぼい」のだ。それなのに僕は、プロ棋士でもない僕は意見してしまった。
 モニターの中で、右端の歩が一つ進んだ。
「そうだね、木田さんは川崎君と同じ歳だったものね。昔の彼のことはよく知っているわけだ」
 検討陣の声が、半分ぐらいになっていた。皆が次の一手に神経を集中しているのがわかる。四冠と女流棋士、無謀な対戦の結果を、見届けようとしている。
 モニターの左上から、白くて細い腕が現れた。たぶん、三分もたっていない。そのことで僕は、賭けに勝ったと思った。手はそのまま右真ん中まで延び、左側の端歩を掴んだ。そして、少しだけ駒を宙に浮かせ、一マス進めて着地させる。後手、9五歩。過激な仕掛けの手だった。検討でもほとんど掘り下げなかった順だ。
「ほう。木田さんの予想通り、なのかな。私の負けだ」
 四冠は口を閉じたまま笑い、立ち上がるとそのまま部屋を出て行ってしまった。皆の視線が僕に集中している。僕は、率直な思いを口にした。
「こんな手、全く考えませんでした」
 誰かの「ははっ」という声をきっかけに、控室が笑いに包まれた。

 夜九時。局面は終盤に入ろうとしていた。
 CSでの中継も再開され、忙しさと緊張感で熱気があふれていた。
 端攻めから攻めをつなげようとする川崎五段。その攻めを柔らかくかわし、入玉含みで反撃の機会をうかがう中沢九段。どちらがいいとも言えない、難解な局面が続いていた。
「いやあ、熱戦です。挑決にふわしいですね」
 定家四冠も去り、会館からタイトルホルダーが消えた。それでも錚々たるメンバーが残っているのだが、どこか皆不安げだった。あまりにも当たらない検討と、それでいて素晴らしい指し手の数々。コメントするのが怖くてばかばかしくなるような、未知の世界の戦いだった。
「どちらがいいんでしょうか」
「どうなんでしょうねぇ。よくわからないですねえ」
 解説者も、かつてタイトルに挑んだことがある大先生だ。しかし、明らかに浮ついていて、自分がとてもかなわないことをさらけ出してしまっている。僕などでは到底手の届かないところだ、と思うとひどく悲しかった。
 それでも仕事はしっかりとやらなければならない。僕は解説者からいろいろと引き出して、視聴者に情報を提供するお手伝いをしなければならないのだ。
「中沢九段は、入玉などは得意なんでしょうか」
「そうですねぇ、とにかく寄ってそうな玉が逃げていくパターンは多いんですよ。自玉の詰みを人より読んでるんじゃないですかね」
「そうすると、川崎五段としてはかなり慎重に攻める必要がありますね」
「そうは言っても、流れからして元気良く行き続けるんでしょうねぇ」
 十時過ぎ、川崎の持ち時間がなくなった。ここからは一手に60秒しかかけられない。一分は、本当に短い。相手に持ち時間が残っている時は、なおさらそう感じる。相手が一時間考えていても、トイレに立つことすら緊張する。席を外している間に指されたら、時間が切れてしまう。僕は過去に一度、局面に集中するあまり秒読みの声が聞こえなくなってしまったことがあった。突然「五十五秒」という声が聞こえてきて、あわてて全く考えていなかった手を指してしまい、すぐに敗勢に追い込まれてしまった。将棋のことを考えながら、時間を気にするというのは大変な作業だ。しかも体力的にも最もきつい終盤の局面で、秒読みはやってくる。
「しかし自玉もそんなに固くはないですから。これ以上駒は渡したくないです」
「特に危ない筋というのは」
「端に手をつけているということは、自分も逆襲される危険があるんですね。たとえば9三歩から9四桂などの筋が決め手になってしまうと大変です」
 将棋は逆転するゲームだ。形勢もそうだし、攻守もいつ交代するかわからない。「攻防の手」が出ると、すぐに将棋が終わってしまうこともある。今は川崎が一方的に攻めているようでも、受けながら攻める手があれば自玉のことを心配しなくてはならなくなる。
「桂馬を渡さない攻めとなると、どうしたらいいでしょうか」
「当然歩で攻められれば言うことがないんですよね。4六歩のような手が間に合えばいいんですが、強く5七金などとされてどうでしょう。手に乗って逃げられるのが、まずいんです。桂馬や香車は渡したくないんですけど、入玉されたら使い道も減りますからね。決め手だと思ったらえいっと打ちつけたいんですよねぇ」
 まさにその時、モニターの中で桂馬が打ちつけられた。先手玉に直接向かっていく、強い攻めの手だった。だが、桂馬は後戻りのできない駒だ。上部に逃げられれば役に立たない上に、取られてしまえば自らを危険に陥れる駒になる。
「決めに行ったと考えていいんですか」
「そうですね」
 焦っているのではないかと、心配になった。これまで、若手はタイトルに挑戦することができなかった。若手トップは、強豪に勝つことも珍しくない。けれども、すべての強豪に勝てなければ、挑戦者にはなれないのだ。調子が良ければ対局が増えるが、それだけ負ける数も増える。挑戦者リーグ、早指し戦本戦、敗者復活戦。毎週のように対局がつき、毎週負け続ける時が来ると、若手は明らかに狼狽する。それに対してベテランの先生は、負け方を知っている。負けていいと思ってはいないだろうが、負けたことを受け止める余裕がある。そして一つのチャンスをつかめたならば、そのことに集中し、さっとタイトルを獲ったりする。
 川崎が並の若手強豪なのか、否か。それはこの桂馬の行く末でわかるような気がした。行き場の少ない桂馬が、百戦錬磨の中沢九段をどこまで苦しめているのか。僕には、何もわからなかった。悔しいけれど、二人の闘っている場所は、あまりにも遠かった。モニターの中に、大海原が見える。飛行機から見た時の船のように、駒が番上に小さく浮かんでいる。どこに向かうのか、どのような船なのか、目を凝らしてみてもわからない。いつか、わかる日は来るだろうか。
「ぎりぎりですね。正確な受けがあれば大変ですよ」
 祈るような気持で、攻めきってほしいと思った。それは川崎に対する応援の気持ちというよりは、川崎よりも強い人が、できるだけ少なくあってほしいというわがままな気持から来るものだった。川崎を目指すことが、頂点を目指すことであってほしい。
 駒を動かしながら解説している途中に、桂馬がぽとりと落ちた。マグネットでくっつくタイプなので、ままあることだ。それでも、僕と解説者の先生は一瞬顔を見合わせ、同時にモニターを見た。当然、モニターの中の桂馬は盤上にしっかりとある。けれども、中沢九段の王は、するりと桂馬の射程距離から逃れていた。それは解説にもあった手だったが、あまり有力ではないと言われていた。「含み」がないのだ。ただ逃げるだけの手に対しては、逃げるのを阻止する手を考えればいい。そんなに焦っていると感じたのか。それとも、本当にそれを最善手だと考えたのか。
 喋っていることが、自覚できなくなった。僕は、ルールを知らないスポーツを見るように、対局の流れを傍観していた。ただ、ひいきの選手を見つけて、眺めている。
「これは、決まりましたね」
 川崎の玉が、香車の上に乗っかった。事前に当たりを避ける、手筋の一着。突然の、受けの一手。それで何が決まったのか、僕にはわからなかった。いつの間にそんな余裕ができていたのか。中沢九段も秒読みに入っていた。
 そして、次の手が指されることはなかった。
 ちゃんと見てみれば、確かに形勢は傾いていた。玉の早逃げにより、駒を渡さずに攻める手はないし、駒を温存されては入玉するのも難しそうだ。あの桂馬は今では遊び駒になっているが、中沢九段に誤った道を進ませるきっかけを作ったような気がする。
 放送時間の限界が近づいていた。僕たちは何となくまとめるような話をして、そして締めの言葉を告げた。
「いやねぇ、はい、楽しみな七番勝負になりますね」
「そうですね」



 地下鉄が怖かった。
 初めて東京に出てきたとき、僕は盛大に迷った。地下鉄の駅がどこにあるのか分からず、手当たり次第に階段を下りては、また登った。視界があまりにも悪すぎて、そのくせ上下はどこまでも階層があって、僕は目を回した。
 家を決める時、地下鉄に乗らなくてもいい場所を選ぼう、あまりビルの高くないところにしようと思ったら、将棋会館からずいぶん遠い所になってしまった。対局の時はともかく、今日のような男性棋戦に関わる仕事の時は、終電の時間にはらはらすることになる。
  打ち上げだかお祝いだかもやっているようだったが、僕は対局の後のそういうのに出たことがない。たった一度、自分の挑戦が決まった時にはもちろん出たのだ けれど。地元の将棋教室の集まりがあれば、断ることはない。けれど、プロの中に混じるのだけは、だめだ。僕は、女流棋士なのだ。プロたちの会話が、一つ一 つ突き刺さるし、それが僕に向けられていないことも僕を傷つける。奨励会の子ですら、僕を相手にしていない。口には出さないが、僕よりも強いことを確信し ている。
 それは、日常の延長だ。でも、そのあと。そのあと終電もなく、東京の街に取り残されたことを考えると、胸がひび割れてしまうのではない かと思う。僕は一人の女性として気遣われ、プロの方々にいろいろと手配してもらうだろう。桜ちゃんは、弱いだけでなく、かよわい人として見届けられる。辛 いだろう。辛すぎるだろう。
 部屋に戻るなり、冷蔵庫の扉を開け、ビールを取り出し、一気に飲んだ。アルコールだけが、食道を刺激する。天井を見上げていた。天井より上は、見えないし、想像できない。
  上着のボタンを、乱暴に外していった。僕を纏う分厚い鎧を、投げ捨てる。要さんが選んでくれた、クリーム色のボアジャケット。好きな人にもらったからなん とか着ていられたけれど、今日はもうだめだ。本当は全部脱いでしまいたかったけれど、そうすると体が表れてしまう。それも、だめだ。
 鞄の中から、携帯の振動する音が聴こえてきた。反射で取り出して、出てしまった。
「あ、良かった。まだ電車かと思った」
 声が出なかった。喉が岩のようになってしまっている。
「木田?ひょっとしてまだ乗ってた」
「……い……いや」
 何とか絞り出した声は、とっても高くて、細かった。
「そっか。……
 あのさ、本当は、もっと前に言うべきだったんだけど、俺も今日の対局が控えてたから……。まあ、ほんとはさ、お前、先に挑戦者になっただろ。負けてなるものかってさ、意地になって。もっと早くおめでとうって言いたかったけど」
「……」
「木田?」
「……ありがとう。でも、私なんかまだまだだよ」
「そんなことないって。あと一つ勝てばタイトルじゃん。すごいよ」
「……わっ……僕は……そっちに行きたいんだよ」
「え……何?」
「……ううん。こっちこそおめでとう。タイトル獲れよ!」
「おう!……あっ、はい、すぐ戻りますから……じゃ、また今度ゆっくり話そうぜ」
「わかった」
「うん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
 切れた。
 切れそうだった。
 決壊した。
 涙が胃の奥からあふれ出てくるようだった。
「……先じゃねぇよ……全然先じゃねぇよ……」
 ボアジャケットに埋もれて泣いた。いつまでも泣いた。


 テーブルの前に、茶髪の男が座っている。久しぶりの来客だった。
「相変わらずさっぷーけーな部屋だなあ」
「あんたみたいに散らかしてないだけ」
 長い手足、広い肩幅、低くて渋い声。同じ親から生まれながら、僕が欲しいパーツを全部持っている人間。
「で、どうしたの」
「ま、簡単にいえば家出した」
「はあ? 二十歳の男が家出もくそもないでしょ。家探して就職しろ」
「いやいや、あのね。おねーさまを頼ってかわいい弟が来たんですよ。なんかもうちょっと優しい言葉をですね」
「死ぬ気で頑張れ」
 樹にお茶を出し、僕は赤ワインをグラスに注いだ。
「おい、俺にもくれよ」
「お酒は一人前になってから」
「なんちゅーケチ。いい嫁になるよ」
「わざと言ってるよな、それ」
「まーね」
 右の頬を張った。それほど強くなかったはずだが、案外大きな音が響き渡った。
「いってー。何すんだよ」
「嫁になんて行かない。死んでも行かない」
「わかったよ。ごめんな。もう言わない」
「よし」
 樹ははにかんで、ワインをコップに注いだ。ばかばかしくて何も言えない。
「俺ね、姉ちゃん応援してるんだ。将棋のことは分かんないけどさ、みんなに自慢できるし、ぜってータイトル獲ってほしい」
「突然何」
 弟は、一気に、赤い液体を飲みほした。大きなげっぷをする。
「俺、やっぱイラストの学校行くって言って、叱られた」
「え」
「俺も、やっぱ目指したくてさ。独創力ないって言われたけど、下手なわけじゃないし、やれるだけやってみたくて。けど、許してくんないよな、やっぱ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「僕が家を出たから。我儘言って、将棋の道選んだから、樹にはいてほしいんだよ」
「……かもね。けど、一生ってわけにもいかねーだろ。どうせフリーターだし、いっぺんは挑戦してみたいよ」
「……僕は、賛成だよ」
 樹は、目を閉じて、口笛を吹いた。
「ちょっと感動したよ」
「僕の時も、賛成してくれただろ」
「姉ちゃん、いい女だ」
「またぶつよ」
「姉ちゃん、体を認めてあげなよ」
 樹は鞄の中から、ノートを取り出した。開いて見せたページには、いくつものエアコンの室外機の絵が描かれていた。どれもか細いぐにゃぐにゃした線で、壊れそうなものとして描かれていた。
「気づいたら、描いてる。ほんとはさ、犬とか車とか女の子とか好きだけど、体が勝手に描いてる。俺はこんなの描きたくねーよって不満だけど、体はこれを書きたいんだっていつも不満なのかもしれねーなって、思うことがある」
「……」
「俺、 理解はまだしてねーかも。けど、姉ちゃんの心が男であろうとするみたいに、体は女になりたがってるかもしれねーなって、思って。それが合わさって姉ちゃん なわけで、なんていうかなー、だから男とか女とか超えて、今の目標達成したら、木田桜として成長できるんじゃないかなって、うん、思うんだよ……」
 そのまま、テーブルを抱くように、樹は眠ってしまった。昔からお酒には弱かった。
「……生意気言うよね。ほんと……」
 心と体。幼いころからの葛藤に、たやすく介入れたくない、という気持ちもある。けれども、すごく感謝していた。僕が男の心を持っていることを知っていて、そのことを全面的に受け入れてくれた人。嫉妬することも多いけれど、樹がいることで僕はとても救われている。
 今日、ここに来てくれたのは、すごいいいタイミングだった。樹の背中に布団をかぶせ、僕は毛布にくるまった。


 自分の立ち位置が、よく分からない。
 僕は今日、タイトルをかけて戦う。今女流棋界には僕より若いタイトルホルダーがいるし、僕よりきれいな子もいっぱいいる。それでも新しい動き自体がなかった世界なので、それなりに注目は集めているようだった。
 応援してくれる人もいるし、そうじゃない人もいる。
 僕は、僕のためだけに将棋を指せばいいと思っている。でも、偽りの女性という後ろめたさは、常に付きまとっている。女性だから、華やかな場にいられる。女性だから、華やかであることを求められる。
 心がふわふわしているのがわかる。少し前までは、ここに来ることもちゃんとした目標だったのだ。それなのに、もっと上にたどり着いてしまった人が、僕の心をざわつかせてしまった。
 今日は、吐き気がしない。樹に言われて以来、自分の体がとても遠い存在に思えていた。着物を着ているのは、僕とは無関係の体のような気がするのだ。僕がこの体に心を閉ざしているせいで、体も僕のことを認めてくれていないのかもしれない。
 旅館の空気は、感じたことのないぐらい澄み渡っていた。心が勝負を求めていないのがわかる。ここで何も考えずゆっくり休めたら、そんなことを考えてしまう。
 駒袋からこぼれる、40枚の駒。今日一日、彼らと僕は運命を共にする。これまで何百回と繰り返してきた儀式なのに、違う世界の出来事のように、遠い。
 先手の駒が、高く舞い、着地した。カメラのフラッシュが、一瞬世界を消失させる。突かれたのは、飛車先の歩。長年攻める将棋を貫いてきた気概が、そこに込められているように見えた。僕は、すっと角道を開ける歩を突きだした。これは、角換わりになるだろう。女流戦ではなかなか現れない形で、しかも後手が苦しいとされている形。そこに僕は飛び込んでいく。今日の僕は、そうでもしないと目覚める気がしない。
 絵が見えない。駒の文字がはっきりと見える。まるで、心までも自分であることを辞めてしまったかのようだった。記憶だけが僕の将棋を規定している。
 二人の銀が、五筋で向き合った。相腰掛け銀。将棋の、基本中の基本。そして、深く深く深い、底の知れない古典。
 昼食休憩を待たずに、駒がぶつかった。流れが速い。飲み込まれてしまいそうだった。


 見えない。まだ絵が見えない。
 局面はすでに中盤を過ぎようとしている。
 すでに前例はない。自分で切り拓いていかなければならないのだ。
 覆い被さるような攻めを、ギリギリでかわしていく手順。神経も体力も消耗が激しい。
 盤面すらかすんできた。頭の中で、局面を構成する。持ち駒が曖昧になる。
 初めて、将棋が怖いと思った。選べる手なんて、実際にはそんなにない。それなのに、選ぶ手によってはもう勝負は終わってしまうのだ。今まで何千局と指してきたはずなのに、初めてこのゲームをしている気になる。
 直感なのか読んでいるのか、恐れているのかやけくそなのか、よく分からないままに次の指し手を決めようとしていた。駒台に手を伸ばそうとした時、なぜか僕の右手は盤上をさまよっていた。僕の指は、玉をつまもうとしていた。体と心が、乖離している。必死になって、手を引っ込めた。将棋を指しているのは、僕だ。体はただ、従えばいい。体は、僕ではない……
 掌から、駒が滑るように盤へと落ちて行った。なんとか、指せた。そのとき、目の前に絵が浮かび上がってきた。青い花の中、小さな船が沈んでいく絵だった。
 悪手だった。
 脳が震えているのがわかった。僕の指した手は、受けとしては中途半端だった。一見攻めにも聞く攻防の一着のようでいて、玉の安全度を高められない中途半端な手になっている。
 心が、弱かった。
 崩れ落ちていく音がした。
 僕はふらふらと、終わらないだけの手を指し続けた。記録係や立会人の先生が何をしているのか、はっきりとわかった。皆の心が第三局へと向いているのが、わかった。
 ペットボトルが、その役割を果たせずに一本残っていた。僕はそれを、一気に飲みほした。この対局はもう、生きていない。けれども、勝負はまだ続いていくのだ。天井に向かって、息を吐いた。
 嘔吐感が戻ってくる。


 化粧台に、化粧品が乗っている。
 いつも、そこには雑誌や櫛ぐらいしかない。どうしても必要な時は、引き出しの奥底から取りしていた。
 初めて使う、僕を女に仕立てるのではなく、女の僕を仕上げるための化粧。
 鏡の中に移る、腫れぼったい眼の女。流しすぎた涙の痕跡を、赤く塗り潰していく。鮮やかに彩られすぎたら、やり直す。こんなに厄介なキャンバスに、毎日みんな取り組んでいるなんて驚きだ。
 信じられないほどに、女になっていく。器が、心を覆い隠す。
 散々迷った挙句買った、ワインパープルのチェック柄のワンピース。膝上十センチぐらいが出てしまい、スースーする。スカート部分はフリフリになっていて、ヒラヒラしている。
 右腕には、昔要さんにもらったブレスレット。波打つようなデザインで、ピカピカと輝く金色。左腕には、小さな文字盤の腕時計。母からもらったお下がりだ。革のバンドは新しく買い替えた。
 鏡の中には、まるっきり女の子がいる。あまりにも知らない姿なので、初めての人に会った時のような気分になる。微笑んでみると、少しドキッとした。女の子の笑顔は、嘘でも作れるのだとわかった。
 リボンのついた茶色いバッグを肩から掛ける。これは昨日買った。初めて入った店で、よく分からないので店員に勧められるままに決めた。そしてこれも昨日買った、黒のロングブーツ。ここまで長いと靴というよりも防具のようだが、できるだけ足を隠したかった。しかしここまで履くのに苦労する靴だとは思わなかった。玄関で何回かしりもちをつきながら、なんとか装着する。
 全てが整った。今のところ気分が悪くなることはない。ただ、演じるのだ。木田桜という女性を、演じることに慣れなければいけない。


 こういうとき、女の子ならばどんなパスタが似合うのだろう、などと考える。
 目の前には川崎。今日は仕事があったらしく、スーツ姿だった。
 考えてみると、長い付き合いだけど二人で食事など初めてだった。
「何か……違うね」
 先ほどから川崎は、僕の方をチラチラと見ている。もちろん、予想通りの反応だった。
「そう?」
 僕は、気づかないふりをしてメニューを見続ける。小さく首を傾げたり、頬杖をついてみたり。
「ああ……どう言っていいのかわからないけど」
「褒め言葉だと思っとくね」
 まずは、成功だ。
「……あのさ、この前はごめんな」
「別に気にしてないよ」
「いや、酔っ払ってて……あんまり覚えてなくてさ」
「じゃあ、あれは嘘だったのかな?」
「えっ、な、何が?」
「はは。うそうそ、何も言ってないよ」
 注文を取りに来た。パスタに付けるドリンクを、紅茶にしてみた。
「もうすぐだよね。みんな注目してるよ」
「木田ももうすぐ決着戦じゃない」
「そうだね」
 料理が来るまでの時間は、不思議だ。喋るしかすることがないのに、なかなか本題に入ることができない。遠い昔の思い出などが、ぽつりぽつりと語られる。そのうちに本当に言いたかったことを忘れてしまう。
 川崎の注文したものが、先に来た。ミートソースがてかてかと光っている。
「なんか、話題になってたよ。四冠に勝ったって」
「いやぁ。川崎があそこで突っ張ってくれたから」
「そりゃ、早く勝ちたいもん」
 話し始めたら始めたで、こんなによく喋る人だったっけ、と思う。プロになる前には、僕らはほとんど話す機会がなかった。将棋の大会で会う、顔見知り。感想戦で話すことはあっても、当然中身は将棋についてだけ。そしてたぶん、僕がライバルと思っているほどには、川崎は僕のことを理解していなかった。そう、他の皆と同じように、女の子にしては強いな、というほどにしか意識していなかった。
 その差は、埋まらなかった。むしろ、開いてしまった。それでも今、二人ともタイトル挑戦者として、目標を持って戦っている。川崎は、それが嬉しいらしい。
「木戸が活躍してたからさ、俺もって」
 それが本音だと実感することは、辛い。けれども僕は、演じることに徹しようと思う。そのために、ここまでしているのだ。
「そうね、私も、川崎に負けないようにする」
「あと一つだもんな」
「そうだね」
 よく分からない味のパスタを食べ終わると、紅茶が運ばれてきた。砂糖はどれぐらい入れるのがいいのか。
「頑張ろう」
「うん」
 ハンカチをバッグから取り出す。白くて花柄の破けてしまいそうな布。口元を拭く。
 伝票は、川崎が持っていった。女の子は、それでいいらしい。
 小さく手を振って、別れる。川崎の姿が見えなくなってから、大きく息を吐いた。やっぱり、女の子は疲れる。


 時折本当に暇な時期がある。
 タイトル戦を争っている最中なのに、そのほかの仕事が全くなく、一週間の休暇となっている。もちろんそんな時には将棋の勉強をするのだが、一日中というわけにもいかない。必ず、何か別のことをする。散歩に出たり、買い物に行ったり、ゲームをしたり。将棋以外のことをした後に、棋譜並べをする。一度頭の中をニュートラルにしてからでないと、他人の作品を自分の思考から切り離して見ることが出来ないのだ。
 今日は、自転車に乗ってぶらぶらしていた。目的地はないが、景色を眺めるだけでも気分は和らぐ。ただ、スカートで漕ぐのは、少し恥ずかしい。高校生の頃も、できるだけ長めのスカートを、足にまとわりつかせるようにしていた。
 駅前の商店街、少し人が増えたので、自転車を降りた。ふと、一枚のポスターが目に入った。旅行代理店の、ツアーの案内だ。そこには、こう書かれていた。「青い海が、君のことを透明にする」
 僕は無意識に自転車を止め、そのポスターにくぎ付けになった。どこまでも青く澄んだ海の中に、水しぶきと、宙に浮かんだTシャツと短パン。海に入って、体が透明になってしまった、という絵。
 それは、沖縄だった。僕は旅行などほとんどしたことがなく、沖縄なんて遠い外国のように思っていた。でも、時間とお金があればいけるんだと、気が付く。
 僕は店内に入って、順番を待って、そして係のお姉さんに言った。
「あの、ツアーじゃなくて……明日から沖縄に」


 思ったほど暑くなかった。那覇空港からモノレール。青い空の下、のろのろと車両が走る。
 思ったより一人も多い。それでも多くのカップルもいる。なにくそ、と思う。
 飛行機に乗るときわかったのは、旅慣れている人は鞄が違う、ということだった。タイヤのついたキャリーバッグをごろごろとひいている人が多い。僕もいろいろな場所に仕事で行くのだが、いつも高校時代から使っている大きな手提げで移動していた。一泊ぐらいならそれでいい、と思っていたが、今回は三泊の予定。仕方ないので、樹に旅行鞄を借りてきた。黒くて大きくて、ひらひらのワンピースには似合わないかっこいいものだった。
 街に入ると、沖縄っぽさは薄れる。建物はどこにでもある、白くて四角いものが多い。
 電車を降りると、その思いは一層強まった。日差しも風も、東京とはまるで違う。けれどもまだ、ここは沖縄という感じがしない。脳裏に浮かび上がってくる絵は、本土と同じ絵の具を作っている。
 プリントアウトしてきた地図を見るが、ホテルまでの道がなかなかわからなかった。地図の読めない女、という言葉を思い出し、意地で目的地を探す。ごちゃごちゃした道を通り抜け、二十分ほどたってようやくたどり着いた。茶色い建物の、どこにでもあるホテル。
 ロビーも部屋も、普通だった。なんとなく、寂しくなってくる。このままいつもの遠征のように終わってしまったら、ぼくはタイトル戦前に何をしているんだろう、と思うことになってしまう。直観的な行動は、時に果てしない後悔を呼び起こす。
 昨日買ったばかりの旅行ガイドブックを眺める。沖縄のことは何も知らず、那覇がどこにあるのかから探さないといけなかった。
 今日はもう遅いので、遠くまではいけない。ホテルから出て、国際通りへと向かう。ほとんどは観光客だろう、土産物店や郷土料理店に吸い込まれていく。牙を出して笑うシーサーや、泡盛の小瓶。不思議な文字の書かれたシャツ、銀色の光る三線。
 僕が見に来たのは、これらの「証明書」ではない。これらは僕にさらなる色をこびりつかせてくる。それでも折角来たのだから、お土産ぐらい買っていこうと思う。
 なんだか、こういうことは慣れない。修学旅行なんかで、仕方なく女子だけで行動するような時。いつも周りのテンションについていけず、気が付くと何も買えていなかった。かといって一人でも寂しいものだ。
 棋士になってからも、あまり変わりはない。できるならば僕は、男性棋士たちともっと過ごしたい。けれどもそれも、叶わないことだ。そもそも男として扱ってもらえない以上、男の中に自然に溶け込むのは難しい。その上男の数が圧倒的に多いこの世界では、男性が女流と仲良くすること自体が特別な意味を持ってしまうのだ。もちろん、将棋界内部でどうこうなんてことには興味のない人もいる。けれども将棋一筋でやってきた男性の中には、将棋の世界の女性しか接点を持てない者もいるのだ。僕にとってはただの友達でも、相手にとっては数少ない関わりを持てる「現実の女の子」になってしまう。もし僕が自分の正体をばらしてしまえば、相手はひどくがっかりするだろう。そしてばらしていない他の人からは、誤解されたまま冷たい目で見られることになるかもしれない。
 きっと、これまで川崎と食事にも行ったことがなかったのは、そういうことだ。別にうぬぼれるわけでもなく、若手女流棋士というだけのことで、誰かが僕のことを気にかけている。そして奥手な人が多いこの世界では、よく食事に行く、というだけで確実に怪しまれてしまうのだ。当人ですらもしかしたら、と思うかもしれない。そうなれば、ややこしいことが待っているに決まっている。そう、ややこしいことは、これから起きるかもしれない。
 自分のしたことが、全てばかばかしく思えてくる。何故一人でここに来てしまったのだろう。何故女装して会おうと思ったのだろう。何故女流棋士になろうとしたのだろう。何故こんなにも後悔するのに、勝負の世界で生きようとしたのだろう。
 「無責任」と書かれたTシャツの前で、しばらく僕は考え込んでいた。1800円のお土産を前に、必死に買うかどうかを悩んでいるように見えたかもしれない。まあいいや。せっかく旅に出たのだから、人目とか気にしても仕方ないのだ。
 店を出て、とりあえずぶらぶらと歩く。お腹も減ってきた。食事のためにガイドブックを読みあさる気も起きず、目に着いたアーケードの隙間のようなところにある沖縄そばの店に入った。
「えーと、ソーキそば」
 とにかく面倒くさくて、一番目立つメニューを頼んだ。ソーキが何のことかはよく分からない。料理が出てくるまでの間、これじゃいかん、と気合を入れた。せっかくめったにしない旅をしているんだから、もっと積極的に楽しまなくては損だ。
 出てきたソーキそばに対して、全神経を集中せる。そして、五分で食べ終わった。おいしかったが、とてもおいしい、とは感じなかった。僕はよく味に鈍感だと言われる。
 本番は明日からだ。食事を終え、足早にホテルに戻った。いまのところ、感じるのは寂しさばかりだった。


 爽快である。
 沖縄を回るのはレンタカーがいいと言われ、ホテルとセットで申し込まされた。普段純然たるペーパードライバーなので、できれば運転は断りたかった。しかしいざ乗ってしまえば楽しいのだ。そして、その自覚があるからこそ乗りたくなかったのだ。
 東京の状況を考えれば、沖縄の道は非常に快適だった。国際通りを抜けるまではきつかったものの、市街地を出てしまえば交通量は大したことがない。幸いにも今日は快晴。沖縄には目立つ山もなく、空は広く、海も果てしない。
 生まれも育ちも山の中、プロになってからも東京の奥のほうに住んでいる僕にとって、この風景はまぶしすぎる。そういえば、仕事場自体がとっても狭くて、暗いところなのだ。本当に小さな盤上ばかりを見ていたから、こんなに大きな地上は眩しすぎるのだ。「君のことを透明にする」というフレーズが、頭の中で繰り返される。
 カーナビに目的地を入れ、これも樹に借りてきたCDをデッキに入れる。何となく、優しいポップスにしてみた。おかげで少しスピードを落とすことができた。
 考えてみれば、ドライブなんてものもしたことがない。タイトルが獲れたら、賞金を頭金にして車を買うのも悪くないかもしれない。
 前後にもほとんど車がいない。最初の目的地である岬まで、快適な走りが楽しめるなぁ、と思っていたら。百メートルほど気で、こちらに手を振っている人がいる。ヒッチハイクかと思ったが、反対の手には自転車。白い短パンに黒いTシャツ、一瞬少年かと思ったが、顔を見るとかわいらしい女の子だった。何か困っているのだろうか、僕と眼が合うと、必死に訴えかけるようにさらに強く手を振りだした。
 何となく無視できなくて、僕は車を止めた。窓を開け、顔を出す。
「どうしたの?」
「あー、よかった! 自転車パンクしちゃって。みんな無視するしさー」
 はきはきとした声の、元気な女の子。まだ高校生ぐらいだろうか。
「どうしたらいい?」
「うーん、自転車屋さんとかあるのかなぁ。これレンタルだし、勝手に修理していいのかな」
「観光?」
「うん。今日は」
 車から出て、自転車の様子を見る。後輪が何かに引っ掛かったのか、チューブだけでなくタイヤにも亀裂が走っており、とても何とかできる状態ではなかった。
「那覇から来たの?」
「うん。なんかね、朝思いたっちゃって」
「どこ行く予定だった?」
「とりあえず最初は、喜屋武岬」
「私もだよ。一緒に行こうか」
 なんとなく、だけれど。普段なら恥ずかしくて女の子なんて誘えないけれど、この子となら大丈夫だと思った。もちろん、旅の雰囲気が僕を大胆にさせているということもあるだろう。
「ほんと? いいの?」
「私もまだ沖縄のことよくわかんないしさ、一緒のほうが楽しいかも」
「やったぁ!あたし結構長いしさ、いろいろ話聞いてるから、案内できるよ」
 まずは二人で、自転車を後部座席に押し込んだ。ぎりぎりだったが、なんとか収納することができた。
「あ、そうそう。あたしの名前は美鶴。あなたは?」
「さくら。いいね、美鶴って」
「はは。よく男の子と間違えられるけどね」
「ミツル……そうだね」
 僕は、贈り物のように現れた彼女に、精一杯ほほ笑んだ。孤独を消し去るうえに、僕の心を刺激するほどではない少女。そして彼女にとっても、僕は安心できる女の子に見えていることだろう。
「さくらって呼んでいい?」
「うん。じゃあ私も美鶴って呼ぶね」
「オッケー。なんか、すごく運が良かった。ありがと」
 僕も運が良かったけれど、それは口に出さないことにした。もし出会ったのが男性だったら、僕は葛藤したかもしれない。もし出会ったのがきれいなタイプの人だったら、僕はためらったかもしれない。
 僕は女性の鎧で美鶴のことをだましているのだ。けれども、それでいいじゃないか、と思う。そう思い込む。
 サトウキビ畑の中、狭い道を進んでいく。CDを、止めた。


「ひっやー」
 美鶴は、叫んだ。
 僕の腕ではなかなか大変な道を登って行って、たどり着いた場所。一瞬水色の変な形のモニュメントに目が行くものの、そのあとは遠くまで広がる海に視線は釘つけだった。
「遠い……」
 思わず僕の口から洩れたのは、そんな言葉だった。太陽光を反射して、光り輝く海がどこまでも続いている。この先にあるのは、大陸だろうか。そこまでは見えない。
「あれかぁ」
 美鶴は崖の下のほうを覗き込んでいた。でこぼこの岩に、亀裂が走っているのが見える。
「なんなの?」
「戦争のとき、砲弾が撃ち込まれたんだって」
 言われてみると、波に削られたにしては形が角ばっているような気がした。そう、沖縄にはそういう歴史があるのだ。
「なんでこんなところに」
「ここまで逃げてきた人もいたって。でも、海からも攻撃された。飛び込んだ人もいたって、聞いたよ」
 美鶴の言葉に、戸惑いを覚える。僕よりも若い女の子が、表層をすっ飛ばして沖縄を見ている気がした。長くいればそうなるのだろうか。
「全然想像つかないね」
「うん。でも、おじいに話聞くと、ちょっと光景が浮かんで来ることがあるよ」
 僕には、何も見えてこなかった。この青い海に、赤い血が浮かんだことなど想像できない。戦争など、見えない。
「あ、あたし別に感傷に浸ってるわけじゃないよ。でもね、沖縄来て、あー海きれいーとかっていうのは飽きちゃったからかな。ごめんね、さくらは初めてなんでしょ」
「ううん。私も、色々感じてみたいかも」
 将棋のときはあれほど絵が浮かぶのに、美しいものの前では現実しか見えてこない。しかし、盤上は美しくないのか?
 ああ、将棋のことを思い出してしまった。
「ねえ、王道のことしてみようよ。さくらもそのつもりだったでしょ」
「え、うん、そうだね。……でも、王道って?」
「うふふ」
 なんとなく、笑う美鶴と海とを、写真に収めた。こんなにきれいな海もだが、普通に女の子にレンズを向けるのも、初めてだった。


 美鶴の言う王道は、グラスボートだった。船の底がガラスになっていて、魚の泳ぐ姿を見ることができる。
「一人だったら来なかったもんね。感謝です」
「確かに……」
 私たち以外は全てカップルだった。これは、女一人では乗りにくい。
「なんかね、なかなかきっかけないんだ。那覇にずっといると、沖縄の海のことなんて、忘れちゃいそう」
 浅い海の底に、珊瑚や小魚が見える。どちらかと言うと、魚の方が色鮮やかだった。えさが投げ込まれ、海面から飛び出さんばかりに魚たちが跳ねまわる。そして遠くを見れば、澄み渡る青い海。そして、青い空。
「美鶴は、最初っからずっと那覇なの?」
「ちょっとは出かけたけどね。北谷とか、コザとか。でも、永住する予定だったし、仕事見つけなきゃって思って、毎日歩きまわってた。夏になっても海とか見る余裕ないし、友達もなかなか会えないし、あー、これじゃ本土のときと変わんないなー、って思って、自転車で南の方行ってみようって思ったわけ。そしたらパンク。びっくり」
 柔らかそうな唇から、明るい声がたくさん溢れ出てきた。海面が光を反射するだけではなく、彼女の顔は輝いていた。それに比べて僕は、ぼんやりと沖縄全てを眺めている。このまま吸い込まれて、透明になりたいのだ。
「あ、そういえば聞いてなかった。さくらって、仕事はなにしてるの?学生じゃないよね」
「え、わかった?」
「なんか、きっちりしてるもん。社会に出てる顔してるし」
「そうかな……」
 僕らの職業は世間からは浮いている、と思っている。小学生の頃からプロと同じ屋根の下で競い合い、年齢に関係なく資格を得て、一週間に一回よりも少ない対局を生業としている。中にはゆるみきった人もいるし、会話するのが大変な人もいる。学生でないことは確かだが、社会人として見られるような顔つきをしているかどうかは自分ではわからない。
「うーん、料理とかしてない?中華のイメージかな」
「どっちかっていうと和食かな……料理じゃないけど」
「え、ひょっとして陶芸とか?」
「近い、のかなー。あのね、将棋のプロなんだよ」
 三秒ぐらい、美鶴の動きが止まった。多分、僕の言葉の意味をすぐには解釈しきれなかったのだろう。
「つまり、将棋を指してお金をもらう人?」
「つまり、そう」
「あのね……あの人。定家さんと一緒の?」
「まあ、私は女流だけどね」
「へー、へー、すごい。さくらって勝負師なんだ」
「いやあ、まあそうなるのかな」
 会話が聞こえたのだろう、他のお客さんもちらちらとこちらを見ている。恥ずかしいのと同時に、タイトルに挑戦していても世間には全く知られていないことが悲しかった。そして、今は将棋のことは忘れていたい。
「全然そんな風には見えない、かわいい女の子って感じなのになー」
「……はは」
 視界の端で、白く薄いものがひらひらとはためいていた。女の子らしいもの。
 ボートはゆっくりと進む。深いところまで、一度は行ってみたいものだ。


 ただ待つ時ほど、緊張するときはない。
 夜の国際通り。短い沖縄滞在を楽しもうと、大人たちは店を探して歩いている。それを自分の店に勧誘する人たちもいる。僕は、そのどちらからも目立たないようにしていた。
 十分ほどして、彼女はやってきた。
 昼間とは違い、長いズボンに長袖のシャツを着ていた。髪はほどかれていて、ウェーブしながら、肩までかかっている。
「ごっめーん、遅れちゃった」
 手を振りながら駆けよってくる美鶴。僕は、少しだけ微笑みつつ、目立っていないかと辺りをうかがってしまう。
「シャワーがなかなかあかなくてさ。ドミトリーってそういうとこ不便なのよね」
 那覇に戻りレンタカーとレンタサイクルを返した後、ご飯を食べることを約束して美鶴と別れた。ホテルに戻っても、特にすることはなかった。個室は、どこに行っても個室だ。
「じゃ、行きましょ」
「うん」
 人の流れをうまくすり抜け、美鶴は進んでいく。僕も必死にそれについていく。そして、彼女は国際通りから外れ、狭い路地を進んでいく。人もまばらで、どことなくいいにおいがする。
 小さな木の扉の前で、美鶴は立ち止った。手招きされて入る。中もそれほど広くなく、半分以上がカウンター席だった。客はおじさんが三人。店主はタンクトップ、頭にはタオルを巻いたいかにも威勢のよさそうなお兄さんだった。
「おうっ、美鶴か」
「今日は綺麗なおねーさんつれてきたよ」
「よくやった。まあ、座って」
 店内は非常にきれいに片付けられており、先輩たちに連れて行かれる居酒屋とは少し雰囲気が違う。妙なポスターや写真が貼られていることもなく、見やすいようにメニューとその説明が書かれたものが貼られているだけだった。コップもきれいに洗われていて、おしゃれな広口のものだった。
「あ、このひと島崎さんね。こっちはさくら。将棋指すプロの人」
「へー、それは珍しい。お酒は飲める人?」
「あ、はい」
「じゃ、一杯目はサービスね」
 島崎さんは、コップを手に取り中にお茶を注いだ。そしてカウンターに置かれている黒い樽の中からお酒をすくい取り、それもコップの中に入れた。
「くーすーのさんぴん茶割りね。俺が沖縄に残ってるの、これ飲むためなんだよね」
「沖縄の人じゃないんですか」
「おう。旅行のつもりで来たんだけど、そのまま居ついちゃった」
「昔ここもドミトリーだったんだって。オーナーがやめちゃった時に、引き継いでお店にしちゃったの」
「ま、料理ぐらいしかできないし、家探すの面倒だったし。まー、楽じゃないけどね」
「へー。でも、私こういう雰囲気、好きです」
 コップに口を付けると、ジャスミンのいいにおいと、泡盛のつつくような刺激臭が同時に舞い込んできた。少しなめてみる。あまり癖はないものの、甘いような辛いような、なんとも言えない深い味わいがする。
「おいしい」
「おっ、わかる人だ。美鶴はまだ未成年だからね、飲ませてないんだよね」
「まったく真面目なんだから。ま、あんま得意じゃないんだけどね」
 美鶴は食べ慣れているのだろう、どんどんと注文をしていく。出てくるのは、野菜や魚たっぷりの、見るからにおいしそうな品々。派手すぎず、気取りすぎず、沖縄過ぎず。もっと生活に密着したところで店を出せばいいのに、なんて思う。けれどもきっと島崎さんは、那覇が好きなんだろう。何故ここに居つくことになって、どんなに居心地がよくて、ちょっと辛いこともあって、それでも楽しくて仕方ないということをずっと語ってくれた。
「でもね、友達とかが真似しようとすると止めるんだよね。俺のやってることは結局遊びだって。彼女できても結婚の話できないしさ、三十年続くと思わないし。お金とか将来とか考えたら沖縄来てる場合じゃないよって。でも、俺はここで遊ぶこと選んじゃったんだよねぇ。そんな奴いっぱいいるけどさ、せめて俺はうまいこと遊んでやろうって。
 まだ二年だけど、いっぱいあきらめて帰った奴見たよ。沖縄に休みに来てるんだよね。でもさ、現地の人は精一杯働いてるから、浮いちゃうんだよね。だから、稼ぐ時は稼ぐ、いかに遊びながら稼ぐかが大事だって思ったの」
「相変わらず熱いねー。お客さんこんだけで稼げてんの?」
「ま、きついけどさ。最近はお昼のランチ力入れたりとか、そういうのも楽しくなってきた。なんだかんだ言ってね、お金も欲しいっちゃ欲しいよね。ね、さくらちゃん」
「え……はあ」
 二杯目のコップが空いた。目の前がぼんやりとしてくる。
「僕はさ……結果がほしいです」
「そっか、勝負師だもんな」
「もっと、勝ちたいんです……」
 少しだけ、隙間を埋めていたものが透明になっていくのが分かった。ただ、少し濃い泡盛が、一時的に溶かしているだけかもしれないけれど。



 外は雨。強く窓をたたく音。
 さっき、沖縄から帰ってきた。
 住み慣れたこの街の方が孤独だなんて、それを知ってしまうのも少し辛い。
 けれども、孤独になるのを知ってここを選んだ。
 テーブルの横に置かれた将棋盤。脚付きの立派なものだ。
 もうすぐ、最終局。
 盤上には、海が広がっていた。砲弾の飛び交う、青い青い海。


 そのニュースを知ったのは、兄弟子からのメールだった。
 そして、続けて本人からもメールが来た。
 要さんが、結婚する。
 それは別に不思議なことではないし、喜ばしいことのはずなのだ。
 要さんへの返信の言葉を何度か打って、消した。
 棋譜をどこまで並べたのか分からなくなった。気が付くと窓の外が暗くなっていた。ベランダに出て、遠くを見た。星の見えない夜だった。
 思い出せない。僕はどういう風に思っていたのだろうか。
 実は、なんてことがないのだ。
 最初から、何もありはしないのだから。


 眠ったのだろうか。
 よくわからないままにこの日を迎えた。
 着付けをしてもらってる間も、いつも通りにできたような気がする。何を話したかは覚えていないが、おめでとうは言えた気がする。
 泣けなくても笑えなくても、この勝負は今日で終わる。今の僕にできることをするしかないと、思っている。
 鏡を見ると、少し頬の細くなった、僕が映っていた。目じりも口元も、少し下がっている。
「悔いを残さないようにね」
 要さんの言葉に、小さくうなずいた。心が波立たない。いや、心に何の潤いもなかった。悔いを残したことなどないし、悔やまない日はなかった。
 対局室に入り、盤の前に正座する。木目の入った、白い盤を見つめる。黒い線が引かれていて、四つの丸い点。海もなければ、絵も描かれていない。
 少し経って、先輩が入室してきた。二局目までとは異なる、落ち着いた麻色の着物を着ていた。将棋祭りでも見たことがない、初めて見るもの。
 駒袋から解き放たれる駒たち。流れるような華麗な書体。見た目でいえば、僕は「銀将」が特に好きだ。
 再びの振り駒で、僕は先手になった。角の右前の歩をつかみ、一つ前に突き出す。指先へとレンズが向けられ、いくつものシャッターの音が聞こえる。
 目を閉じた。真っ暗だった。驚くほどに何も浮かばず、吐き気どころか緊張感すらなかった。
 指し手が進んでいく中で、僕は少しずつ鼓動が遅くなるのを感じていた。盤面と駒台だけが視界の中にある。ふと顔を上げた。対局相手、記録係、立会人、ちゃんといる。風の音、水の流れる音、ふすまの開閉する音、聞こえる。そして盤上に視線を戻すと、世界が木製になる。ああ、これが欲しかったものだ。
 世界に、黒い線が走る。前髪だった。きちんとセットしたはずなのに、束になって落ちてきた。かき上げたが、また落ちてきた。
 立ち上がり、部屋を出た。トイレに入り、鏡を見ながら髪を整える。これぐらいならば、ぼくだけでもなんとかできそうだ。
「もう、連絡しないって言ったじゃないですか」
 個室の中から、嗚咽の混じった声が聞こえてきた。誰か入っているとは思っていたが、電話をしているようだ。
「……あたし、結婚するんですよ。わかってくれたじゃないですか。……あたし、彼と幸せになるんです」
 それは、まぎれもなく要さんの声だった。立ち去らなければと思うのに、体が硬直してしまう。
「……先生とは、もう……」
 めまいがした。そしてそれは、決して要さんのせいだけではなかった。
 頭の中が重たくなったり、軽くなったりする。
 くらくらとして、どろどろとした。
 ……予定より、三日早かった。
 洗面台に手をつき、深く息を吸った。まだ始まったばかりだ、なんともない、と自分に言い聞かせる。けれども、この事態への対処は全くできていなかったのだ。一応、ものは用意してあった……けれども、心構えは。
 トイレを出て、控室まで走った。なんだか、色々とよく分からなくなっていた。それでも、今は立ち止れない。


 視界が固定できない。
 初めてではないのだ。一ヶ月に一回は訪れるもの。だから、対局と重なることがないわけではない。それでも……正直、ほとんどは力ずくで勝ってきた。この世界に入った時点で、ほとんどの仲間は僕より弱かったのだ。そして、僕が本当に勝負しなくてはならない人とは、年に数回しか当たらない。四年間、僕は幸運にも体調の良い日に勝負の時を迎え、さらに運の良いことに、タイトル戦に出るまでの実力はなく、大切な勝負が増えることはなかった。
やっと、つかんだのに。
 運悪く、僕はもっとも大切な勝負のさなかにいる。
 左手で腹部をさする。温かくなると、少し楽だ。それでも、そんなことを考えさせられるだけで困っている。ただひたすら盤上に没頭できていた数時間前は、いったいなんだったのか。条件は同じなのだと頭ではわかっても、それでも僕は悔しくてたまらない。この痛みと、この痛みの意味が、胸の芯まで締め付けてくるようだ。
 平べったい駒が、自己主張を隠さずに僕に訴えかけてくる。どれもが玉なんか放棄して、どんどん前に出て行きたがっている。女流は攻めることしか考えない、なんて陰口を思い出す。体が脳を支配して、僕の将棋を邪魔してくる。ああ、攻めてしまいたい。相手は絶対に攻めてくる。ここで殴りあえなくて、これ以上、上を目指せるというのか。
 混乱が混乱を助長している。こんな混乱は困難な懇願を懇請させる。
「ああ……」
 思わず声が出た。心が漏洩した。
「う……」
 目を閉じた。息を吸った。大きく吐いた。
 舌を噛んだ。
 耳の後ろの方で、きらきらと光るものがあった。僕はそのきらめきを追いかけて、包み込んだ。研修生の頃、初めてその戸惑いに襲われた時のことを思い出す。僕は必死に、それがなかったことにして盤上の絵画を見つめ続けていた。どんどん渦巻いていく模様。次第に、将棋の内容について忘れ始めた。僕は、その棋譜を覚えていない。ただ、将棋が終わるなり涙があふれ、気が付くと知らない公園にいたことを憶えている。
 ごまかしのきかない事実の前に、僕はうろたえるしかなかった。どろりとしたものとともに、希望までもが流失していった。子供の頃の僕は、いつか体が心に追い付くのではないかとか、そんなことを思っていた。そんなはずはないのだけれど、願っていた。
 局面は、動き出している。中盤の難しいところで形を整えていくのが、僕の持ち味だった。定跡の影響が薄れ、対局者の力が試される場面。それなのに僕には、うっそうと茂る樹海のようなものが見えているばかりだった。これから歩む道どころか、これまでの足跡も見失っていた。それでも、必死に頭を働かせ続けた。考えるのをやめたら、何かが消滅してしまう気がした。今後、何度もこのような状況は訪れるだろう。そのたびに立ち止まらないためにも、今こそ前に進まなければならない。
 三時になり、おやつが出された。シフォンケーキとストロベリーティーだった。甘い香りが、僕の頭を少し柔らかくしてくれるようだった。ケーキを口にすると、気分もちょっと落ち着いた。
 視線を上げると、相手はおやつなどに目もくれず、盤面を睨みつけて読みふけっている。長年女流棋界を引っ張ってきたこの人は、いつだって手を抜かない。時には男性棋戦でも活躍し、世間の目を向けさせることもした。若い世代が台頭してきても、トップはいつだってこの人だ。僕も、尊敬している。この世界にいることが不本意だとしても、この人と真剣勝負ができることはとても嬉しいことだ。
 イチゴの甘ったるい味が、喉元を過ぎたとき。とにかく僕は、決断した。長い長い勝負でも、乗り越えていかなければならない。焦らされるような局面に対して、喜びさえ覚えなければならない。体内から排出される血と引き換えに、僕はこの勝負を肉に変えてみせる。今まで積み上げてきたもの、我慢してきたことを、体を言い訳にして無駄にしたくなんてない。
 駒台から、銀をつまみ上げた。さっき交換したばかり、宿舎に入って一息つけたばかりの銀を、玉の上に置いた。8七銀打ち。相手の突き捨てを咎めに行く、強情でリスクの大きな手だ。自玉は固くなるが、攻めは細くなる。ひたすら相手のパンチを受け続けることを、覚悟しなくてはならない。
 それでも、これが僕の棋風だから。
 川崎の顔が浮かんでいた。彼との差は、こんなところで立ち止まっては埋まりようがない。僕はまだ、あきらめたくない。男として生きられないのならば、一人の棋士として生きたい。そしていつか、一流の人間がいる場所へ……。
 思ったよりも早く、応手が指された。受けたところをこじ開けようとする、剛直な一手だった。予想通りだ。これを乗り越えなければ、次のステージには進めない。僕は、一分と経たないうちにその攻めを真正面から受け止める一手を指した。選択肢はたくさんあったが、流れからは一つしか手はなかった。盤上に赤い川が流れている。敵の兵隊が溺れながらも、こちらの岸に向かって必死に進んできている。僕は、それを岸辺で撃退する。笑いながらできたらいいけど、泣きそうになりながら。スカートの裾を引きずって、銃を撃つ。
 どれだけ受けても、相手はひるまなかった。もちろんだ。そうやっていくつものタイトルを守ってきたのだ。僕も、ひるまない。相手にも、体にも負けたくない。
「すいません、お茶を」
「はい」
 いつもペットボトルの飲料水を持参しているのだが、体を温めなければならないと思った。そして、蓋を空けるのも面倒だった。少し苦いぐらいが、今はいい。記録係が運んでくれたお茶を、一気に飲み込む。少年は、目を丸くしていた。
「もう一杯」
「あ、はい」
 エネルギーが足りない。出ていく以上に補給しなくちゃ、頭が働かない。二杯目を飲み干すと、黙って三杯目を注いでくれた。
 時間が残り少ない。僕は立ち上がり、トイレまで走った。出せるものは全て出し、代えられるものは代え、最後の戦いに向けての準備を整えた。
「もう、やるしかないよ……」



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