目次
 
プロローグ
プロローグ ジョゼフ・ヨアキムの物語
放浪への憧憬をつのらせて
戦地へ
七十歳、絵に目覚める
つくる人と見いだす人の新しい関係
第一章 無数のビオトープが生まれている
第一章 無数のビオトープが生まれている
ブラジル生まれの先鋭的な音楽家
大きなサウンドへとつながる私たち
一九九〇年代、まだ音楽のマスマーケティングは有効だった
ついに来日公演が実現! しかし……
女性プロモーター、ピンポイントで戦略を練る
西野カナが好きなスウェーデン人は日本人と盛り上がれるか
オープンとクローズが両立する新たな情報ワールド
情報はビオトープに流れ込み、世界を覆う
ビオトープをどこに見つけるのか?
歌姫マリーザ・モンチのライブに出撃する
ギターファンたちの特質に気づく
彼女は水流をたどり、湿地帯を探検していく
「ジスモンチ来日実行委」という謎の団体
狩猟者の本能的嗅覚で観客を突き止める
それは本当に小さな成功でしかないけれども
ビオトープに法則は存在するのか?
第二章 背伸び記号消費の終焉
第二章 背伸び記号消費の終焉
署名運動に立ち上がった人たち
お笑いタレントとゾンビ映画
マス幻想に引きずられる映画業界
なぜ映画バブルは崩壊したのか
DVDバブルは来なかった
九〇年代は音楽もバブルだった
「アンビエント化」がバブルの背景にあった
HMV渋谷が閉店に追い込まれた本当の理由
マス記号消費の消滅
若い水谷豊はどこから逃げだそうとしたのか
ドロップアウトもお遊びだった八〇年代
ピストル射殺魔の青春
ムラ社会は消え、透明な僕が始まる
なぜ秋葉原の加藤は犯行に及んだのか
つながり願望が消費市場を変えた
モノを買うことで、人と人がつながる
福井の小さな眼鏡店の物語
田中さんはなぜ眼鏡店を志したのか
モノの向こう側に人の笑顔が見える時代に
クラウドとシェアが紡ぐ「清貧の思想」
所有の時代は終わった
第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム
フォースクエアの楽しさ
プラットフォームとモジュール
フラッシュマーケティングはなぜ盛り上がっているのか
ツイッターが古いビジネスを再生させた
チェックインするとレストランのクチコミが読める
リアルとバーチャルの境界はどんどんあいまいに
ツイッターで屋台と客がつながる
刹那的な関係から、持続する関係へ
千利休は招いた客をなぜ褒めたのか
花を生ける人とそれを鑑賞する人
エンゲージメントをもたらすのは人格だ
チェックインの秘密
プライバシーの不安からはのがれられない
「もっと新しい広告を!」
ライフログはどこまで進化するのか
2010年代にはライフログはブレイクしない
暗黙か、明示か
チェックインはプライバシー不安を解消する
視点を固定するということ
『マルコヴィッチの穴』では何が見えるのか?
人と人の間には世界観のゆらぎがある
視座を得るという新しい考え方
視座にチェックインし、情報のノイズの海を渡る
第四章 キュレーションの時代
第四章 キュレーションの時代
情報の真贋なんてだれにも見きわめられない
ネットは人の過去の言動を透明にする
キュレーターとは何か
シャガールの展覧会が新たに照射したもの
シャガールとアバンギャルド
見慣れた絵が違う姿に見えてくる
コンテンツとコンテキストの美しい関係
ヘンリー・ダーガーの孤独な人生
キュレーターはアウトサイダーアートを見いだす
アウトサイダーアートを「発見」した精神科医たち
マス消費の果てに見えた生々しいリアル
子供の絵は私たちの存在を揺り動かさない
コンテンツとキュレーションが分離した世界
愛犬「茶太郎」を描き続ける彼女
「コンテンツが王の時代は終わった」
セマンティックボーダーという意味の壁
境界はつねに組み替えられていく
「ゆらぎ」こそが私たちの情報をつねにリフレッシュしていく
的外れな「タコツボ化」批判
ムラ社会だからタコツボ化するだけ
つねに組み替えられる一期一会の関係
大統合のスタート地点へ
第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく
第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく
文化はアンビエント化して国境を越える
イスラム弾圧に見る普遍主義の終焉
共有と断絶は同時に起きている
情報発信の権力がパワーを失った
マスメディアが衰退し、多様な文化が発信される時代に
どこにでもいる普通の人たち
戦後の青空に出現した中間文化
中間文化はすでに消滅した
ジスモンチのルーツを私たちは共有できるのか?
コカコーラのCMに見る戦後文化
文化帝国主義が花開いた時代
「ポストグローバル」という考え方
グローバリゼーションは画一化を招くのか?
モンゴル帝国というプラットフォーム
プラットフォームは文化の多様性を保護する
イスラムブルーから思うグローバル時代の未来
あとがき
あとがき
参考文献
参考文献

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キュレーション【curation】
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。


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プロローグ ジョゼフ・ヨアキムの物語

 ジョゼフ・ヨアキムは生涯のほとんどを放浪者としてすごしました。黒人とネイティブアメリカン、そしてフランス系白人の血を引いた彼はアメリカのミズーリ州に生まれ、サーカス団に入ってアメリカ大陸を旅し、ヨーロッパにも遠征します。故郷に戻って結婚したのもつかの間、徴兵されて第一次世界大戦に出征し、そして戦争終結後もそのまま放浪の旅をつづけて、二度と故郷には戻りませんでした。
 大戦から世界恐慌へと進んでいく激動の時代。彼の人生はホーボーそのものでした。二十世紀初頭の荒々しいアメリカ社会に登場してきたホーボーはつまりは放浪労働者。インフラが整備されつつあった鉄道網を使って無賃乗車で全米を旅し、日雇いの仕事をしながら移動し続けた人たちです。北米の広大無辺な大地を移動していく彼らの生き方はある種のロマンを生み出し、のちに「さすらい」をテーマにしたさまざまな小説や詩、音楽、絵画をアメリカ文化の中に生み出しました。ジャック・ケルアックの小説『オン・ザ・ロード』。ボブ・ディランの名曲『風に吹かれて』。映画『イージーライダー』。みんなその系譜です。
 でもヨアキムは単なる放浪者。ミュージシャンでも作家でも画家でもありません。彼は人生のほとんどを市井の平凡な人としてすごし、家族やわずかな友人を除けばほとんどだれも彼に見向きもしませんでした。八十歳近くになるまで、ただの名もない人だったのです。
 でも彼は、ある一回だけの偶然の出会いから、いまにいたるまでに名前を歴史に残しています。

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放浪への憧憬をつのらせて

 彼の人生をもう少しくわしく追いかけてみましょう。
 ヨアキムが生まれたのは十九世紀の終わ りです。生年は諸説あってはっきりしませんが、1890年ごろ。父は黒人とネイティブアメリカンの混血。母はフランス系の白人とネイティブアメリカン、黒人の血を引いています。その両親から生まれたヨアキムは実に複雑な民族的血統の末の子供でした。
 彼は子どものころから絵を描くのを好み、つねづね「自分はナバホの血を引いてるんだ」というのが自慢でした。ナバホインディアンは美を愛し、部族の中の芸術家を厚く遇したことで知られています。「人間にとっての究極の使命は、美をつくりだし、その美にかこまれて生きることだ」というのはナバホの教え。
 もっともヨアキムは実はチェロキーとクリーク族の末裔で、実際にはナバホの血は引いてなかったようですが。
  ヨアキムの人生は、旅から旅への放浪でした。生家は貧困にまみれていました。彼が生まれたころ、アメリカの中西部は深刻な干ばつに襲われ、農地の収穫量は激減し、家や土地を借金の抵当に入れていた多くの農夫たちは故郷を追われていったのです。鉄道員から農業に転じたヨアキムの父も、この悲惨な物語の例外ではありませんでした。
 ヨアキムは九歳になるころにはもう家を出て、サーカス団で馬の鞍を磨く仕事をするようになります。父親から十九世紀なかばの鉄道ブームの時代、鉄道員として旅から旅へと移動することの自由さ、楽しさ、鉄道への愛を聞かされていて、放浪への憧憬をつのらせていたこともあります。ヨアキムはやがて、多くのサーカス団を転々として、北米をくまなく旅するようになります。仕事もまもなく、鞍磨きからポスター貼りへと昇格しました。
 サーカス団は居心地のいい場所でした。寛大で、公平で、自由な人たち。厳しい野外生活を営み、厳しい労働を強いられ、だからこそ団結力の強い仲間たち。ヨアキムは、ハンサムで頭の回転が速く、機敏な若者へと成長していきます。
 サーカスの仲間たちと移動していくアメリカの荒々しい大地。
 岩だらけの風景。
 深い針葉樹の森。
 遠い地平線。
 彼はやがて海外にも出て行きます。イギリス、北イタリア、南ドイツ、オーストリア、バルカン半島のモンテネグロ、ロシア、そして中国。中南米。そうした異国の土地の風景は、彼の脳裏に強く焼き付けられました。
 18歳のころに彼は実家に戻り、マートルという近所の農夫の娘と結婚しました。二歳年上の姉さん女房で、今でいう「できちゃった婚」です。
 結婚して最初の四年に三人の子供が産まれますが、生活は極端に苦しい日々でした。おまけに大規模な洪水が彼の住んでいた一帯を覆い、しかも当時黒人の就労は制限されていて、農業以外の良い仕事にはほとんど就けませんでした。溝掘りや道路づくり、溶鉱炉のかまたき、採石場での石運び、炭鉱掘りーー。そんな仕事しかなかったのです。
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戦地へ

 1914年、第一次世界大戦が勃発します。24歳のヨアキムも徴兵され、アメリカから集められた74万人の新兵のひとりとして軍隊に入隊します。
 しかし軍隊でも黒人の地位はきわめて低く抑えられていました。黒人兵の大半は工兵や荷役の部隊に所属させられていて、軍隊内における「日雇い労働」のようなものをになわされていたのでした。
   ヨアキムは第805工兵隊に所属し、最前線のすぐ後ろで道路や橋、線路の建設と補修にあたりました。爆撃でダメージを受けた道路を直している途中にドイツ空軍が猛烈な爆撃を仕掛けてきたこともあります。防御手段もなく傷ついた兵が移送もされないまま放置され、それでもヨアキムの部隊はみんなで歌をうたいながら、爆弾が次々と落ちてくる中で一晩中道路を補修し続けたのでした。朝には白人たちの部隊が道路を通れるようにするためーー。
 その様子を見て、白人兵たちはあっけにとられました。
「よくこんな酷い場所で歌なんか歌えるな」
 黒人兵たちは白人たちからひどい扱いを受けていました。「オレたちを犬のように扱うな!」と白人上官にひとこと叫んだだけで、三か月の重労働を命じられた黒人兵もいました。
 ヨアキムもフランス駐留中に同じような体験をしています。水運びという面倒な仕事をさせられ、しかもその仕事を命じた白人の下士官がのんびり寝転がって休憩しているのを見て、思わず怒鳴ってしまったのです。
 「おいそこで寝っ転がってるヤツ、俺は自分の仕事分はもうやり終えたぜ。俺にもっと水を運ばせたいんなら、まず営倉にぶち込みな。そのかわりこの軍隊からおん出たらすぐにお前を見つけてやっつけてやるからな」
 彼は即刻軍事裁判にかけられ、六か月の重労働の刑と給料の三分の二のカットを科せられました。
 そんな軍隊での屈辱的なできごとにかかわらず、ヨーロッパでの軍隊経験は彼の放浪熱に再び火を付けました。
 彼は放浪にそのまま出かけ、戦争が終わってからも妻子のいる家には戻らなかったのです。
 生まれながらの孤立主義者だったといえばいいのでしょうか。彼はその後、18年間にわたって妻や子供たちと連絡を絶ってしまうことになります。
 これはヨアキムの子供たちにもたいへんなトラウマになり、母が再婚した時には子供たちはすかさず再婚相手の苗字を名乗ったほどでした。息子たちが父の気持ちを理解できるようになるまでには、長い年月を要しました。
 ヨアキムの晩年、彼の長男のジョンはついに父親を許して、こう話すようになりました。
 「親父はインディアンなんだ。だれかの家の屋根の下では暮らせないのさ」
 第一次世界大戦が終わった後の1920年代、ヨアキムはアメリカ中を放浪し、いろんな仕事に就きました。鉄道の用務員、リンゴのもぎ取り、商船の船員。

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七十歳、絵に目覚める

 そして20年代終わりごろ、彼は最終的にオハイオ州のシンシナティ付近にやってきます。ここで大きな印刷会社がサーカスのポスターを印刷していて、そこで雇われたのです。数年後にはシカゴに落ち着き、そしてこの街が彼の安息の地となります。
 長い放浪生活は終わったのでした。
 彼はシカゴで守衛や自動車整備工、大工、鋳物工場の工員などやはり仕事を転々として、フロイという女性とも再婚します。そうして最後にはシカゴの街の片隅でアイスクリーム屋を開業します。
 しかし第二次世界大戦が終わるころ、彼は精神の病を発症し、軍病院に入院を余儀なくされました。まもなく妻も亡くなり、以降、彼は仕事を辞めてわずかな軍人年金と失業保険でひっそりと暮らすようになりました。
 彼が絵を描きはじめたのは、70歳をすぎてからです。
 夢の中でレバノンの街の光景を見て、目覚めてからその光景を絵に残そうと思ったのがきっかけでした。以降、彼は若いころに旅した北米の荒れた風景を中心に精力的に絵を描くようになります。
 木立の並ぶ丘や、曲がりくねった海、するどく尖った山などをていねいな細い線と、大胆なフォルムで構成していきました。
 その絵を売ろうとか、アーティストになろうとか思っていたわけではありません。ただ七十歳を超えて老境に達し、過去の追憶の中にある心象風景を自分自身の手で絵として固定したい、そういうすなおな気持ちだけが彼を突き動かしていたのでした。
   彼はシカゴのサウスサイド八十二番街にあった雑居ビルに住んでいました。テレビ修理店やクリーニング店、美容院などが軒を並べるこのビルに、こぢんまりとした二部屋続きのアパートを借りていたのです。廊下にはカーテンが掛けられ、狭苦しく薄暗いリビングルーム兼制作スペースと、寝室と台所部分を分けていました。リビングにはふたつのソファと、色褪せたトルコ風のファブリックでくるまれた安楽椅子。それに古いテレビと、金属の作業台。本棚。積み重ねられた絵。ガラクタの山。
 彼は絵を描くと、洗濯ばさみで窓ガラスにぶら下げていました。通りがかる人がだれでも見られるようにと、そうしていたのです。

「これはたいへんな発見だ!」

 そんなある日、ある人物がヨアキムの家の前を通りがかりました。
 シカゴ大学でカフェを経営していたジョン・ホップグッド。彼は長老派教会の牧師でもありました。
 窓にぶら下がっていたヨアキムの絵に彼は目を止め、思わず立ち止まります。
 丘と樹木の描き方が、いっぷう変わっていたのが気になったからです。
   人類学の素養があったホップグッドは、ヨアキムの絵に「プレコロンビアン」と似た要素があることに気づいたのです。プレコロンビアンというのは、コロンブスがアメリカ大陸に到着した十五世紀以前の時代のこと。メキシコの古代文明やマヤ文明、アンデス文明などを含めた先住民族の時代です。この時代のプリミティブな芸術性が、ヨアキムの絵の中に共通しているとホップグッドは考え、
「私はたいへんな発見をしたのかもしれない」
 とひとり興奮したのです。彼はその場でヨアキムの絵を二十二点も購入し、そして彼に「自分のカフェで個展をやらないか」と薦めました。
 ヨアキムにはなんのことだかよくわかりませんでしたが、むろん異論はありません。そうして彼らは展覧会を企画して四十点の作品を展示し、なんと驚くべきことに最初の四週間でうち三十点が売れてしまいました。
   ギャラクシープレスという出版社の社主トム・ブランドが展覧会を訪れ、これがヨアキムがシカゴのメインストリームのアートシーンにデビューするきっかけになりました。画家でもあったブランドはヨアキムの作品の風変わりな心象風景と見事な反復的描画、不思議な遠近法にノックアウトされたのです。
 ブランドはヨアキムの作品に触れた驚きを、シカゴの芸術界の友人たちに触れてまわりました。その中にはシカゴデイリーニュース紙の記者ノーマン・マークもいて、彼はヨアキムの展覧会をさっそく記事にし、その中で抽象絵画の画家ジョーダン・デイヴィスのこんなコメントを紹介しました。
「ジョゼフ・ヨアキム。彼の作品はグランマ・モーゼスよりずっと素晴らしい」
 グランマ・モーゼスというのはやはり70歳をすぎてから絵を描きはじめた女性で、アメリカの古き良き風景を描いてアメリカ人から圧倒的人気を集めた画家です。
 ヨアキムは彼の鮮烈な絵のほとんどを、若いころの旅の時代の追憶から生みだしました。彼は八十代で亡くなるまでのとても短い晩年に、二千点もの作品を遺しています。
 死後、遺作展はニューヨークの著名なミュージアムであるホイットニー美術館で開催されました。気がつけば彼は圧倒的な名声を誇る芸術家として、歴史に名を残していたのでした。
 晩年、ヨアキムはこんなふうに述懐しています。

「わたしが描いた絵に価値があるなんて、まったく想像もしてなかったよ」


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