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はじまり

 算数やら数学やらが嫌いな人は、けっこう多いみたいです。
 かくいう私も、決して得意というわけではありません。けれど、数学的な考え方というのが、とても有用なものであることも分かってますし、難しい数学は使う人を選ぶけれど、基本的なところは誰にでも必要だろうとも思うのです。
 そんなふうに(特に初歩の)数学についてあれこれと以前から考えてきたのですが、その考え方を、これから少しずつまとめてゆこうと思います。
 数学が苦手、という人の一部にとっては、少しくらいは数学の考え方を身近にする効果があるだろうと思います。数学が得意という人にも、もしかしたら面白い見方が提供できるかもしれません。
 基本的には読み物として書いてゆくつもりです。これを読んだら特効薬のように数学が分かるようになる、とは言えません。でも、入り口のところで苦しんでいる人には、壁のひとつを取り払うくらいの効果はあるかもしれません。
 ごく単純な話を、少々手間をかけて、そのぶん若干ややこしく書くことになります。
 面白く思ってもらえるといいのですが、はてさて……。

算数教育でよく見えない部分

 
 おそらく発明王エジソンの伝記に、1+1が分からなくて学校に行けなくなった、というエピソードが載ってたはずです。それが本当だか嘘だかは知ったこっちゃありませんが、この話にはふたつの見方があります。
 ひとつには、そんな馬鹿でも頑張れば発明王(成功者)になれたんだ、という見方。
 もうひとつは、「変わった子」をきちんと育てようとすることの大切さ。
 いずれにしても、1+1が2になるのなんて、当たり前じゃないか、という立場での見方ということになります。
 そういう当たり前に疑問を抱くようだからこそエジソンは天才なのだ、っていう見方もあるかもしれませんね。ま、今の私はこんなのは普通の疑問だと思います。そんなに特別じゃありません。ただ多くの場合、そんなところにかかずらっているのは面倒だから無視することにしてきただけでしょう。私もたぶんそうだし、あなたもきっとそうでしょう。教えられたら教えられた通りに答えれば相手が喜ぶんだからなにしろ簡単です。無理に相手を怒らせたり嘆かせたりする必要は全然ありません。人間ってのは、そういうふうにできてるみたいです。
 エジソンは、相手の顔色を読めないタイプの人だったんですかね。ま、そんなところでいいと思います。そんなもんです。偉人とかいったって、その人がまるまる偉いわけじゃなくて、たいがいは業績が偉いんですからね。
 でも、なぜ1+1が2になるのが当たり前なんでしょうか?
 改めて説明を求めたら、けっこう多くの人が困るはずです。数学のことが多少分かっている人なら、記数法とかそういう概念を持ちだして説明したくなるかもしれません。そうでない場合は、「教えられたから」とか「そう決まっているから」ということを言うくらいで、さらに説明しようとすると、数という概念を説明しなければならなくなり、説明する方も説明される方も、たいてい混乱してわけが分からなくなってしまうのです。
 まあ、「決まっているから」という答えは、ある意味万能なんですよね。だれが決めたのか知らないし、その理由も分からないけれど、決まっていることを守っていればそれなりにうまくゆく、ってことは皆さん経験的に知ってます。「決まってる」こと自体を問題にするべき状況だってありますけれど、それは「決まってること」では問題が生じる事態が出てきたからで、問題さえ出てこなければ、おかしな法律であろうとなんであろうと、たいていそのまま使ってる方が楽に生きてゆけます。
 まして数ってものがどうして「決まった」のか、なんて、よほどのことがない限り考える必要なんてありません。それくらい圧倒的に長い間、数っていう考え方は便利に使われてきて、それ自体に問題を発生させてこなかったのです(一般社会では、ですが)。
 いや、遠い昔にはきっと問題が生じたんですよね。そういう問題を解決するために、数というのはさまざまに考え方を拡張させることになったんだろうと思います。けど、そういう話を始めてしまうとややこしくなりますので、まずはいちばん基礎の基礎からやりたいと思います。
 そう。たとえば、「なぜ、数は作られたのでしょう」と。
 
 こんなところにこだわるのは、算数ってものにはふたつの重要な側面があると考えているからです。ところが、現在の算数教育は、その重要な側面のひとつばかりが扱われていて、同じくらい重要なもうひとつの側面がないがしろにされているんじゃないか、という印象があるんですね。これから、そのもうひとつの重要な側面について書いてゆこうとしているのです。
 ふたつの側面の一方は、数(やその関連概念)の取り扱い技術です。計算とか、分数小数、平方根などの概念や取り扱い方法について教えて、練習して、その「技術」を身につけること。すごく重要だし、教えられたりドリルをいっぱい解いたりすることで能力がつくし、能力がついたということが分かりやすい。成果がはっきりする。だから、ついつい注力してしまって、そちらばかりになりやすいわけです。(算数って言葉に、「算」って文字が入ってることも関係あるのかな)。
 そりゃあだれだって、頑張ったら結果が見える方がいいですもん。
 で、もうひとつの重要な側面について、私は、ないがしろにされていると思ってるわけです。それは、物事を「数」に変化させる方法。考え方やその技術。
 いや、今の算数教育でもやってないわけじゃないんですよ。いわゆる「文章題」ってのが、ひとつの方法として用いられているんだろうってことも想像できます。しかし、これも結局のところ成果が見えるような形にされちゃって、私には、本質部分が置き去りにされているように思えるんですね。
 だいたい、学校で教えることってのは、その教育によって国民の能力をアップして、使い物になるように、社会に有益になるようにするためのもんですよね。あんまりそう感じられないケースだってあるでしょうが、少なくとも理念としてはそういうこと。ということは、社会生活において有益なことを教える建前なんです。
 算数だって同じことのはず。使える能力なんですよ。
 ただ、実際の社会生活では、数字をいじくるのはお金に関わる経済活動についての場面がほとんどかもしれません。ですから、学ばなければならない算数技術は、簡単な足し算とかけ算くらいに思えてきます。それくらいなら今や安価に手に入れられる電卓やら、携帯電話の機能やらを使えば事足りそうにも思います。だから、難しい数学の技術はどうでもいい、なんてことを平気で口走る輩が増えてきたりします。
 でも、物事を数にして考えられるようになれば、もっと別の面が見えてきます。算数、数学をある程度まできちんと理解するためには、必須の能力であるとも思います。そうして、この能力は、複雑な物事を考えなければならない時に、とても助けになるとも思うのです。抽象化とか、一般化とか、そういう状況に出会った時にきっと応用されるはずです。
 
 そんなわけで、まずは「なぜ、数は作られたのでしょう」から。計算の話はひとまず始めないことにするので、算数というより数学ですかね。数について学ぶってこと。
 でも、まじめな歴史の話なんてするつもりはありませんしできません。これから書いてゆくのは、ある意味想像に過ぎません。たかが推測です。
 つまり憶測でものを言っちまおう、ってわけです。
 話半分、おいしいところだけ拾ってゆく、くらいの気持ちでお読みください。
 

数は比べる道具

 
 数っていう概念が存在しなかった大昔を想像してみましょう。
 まず間違いなく、いるのは原始人ですよね。いや、数を使えない人を原始人扱いしてるわけではありません(少ししか)。それくらい昔から、数は使われてきたはずだ、ってことを言いたいのです。
 で、おそらくだれかが数ってのを考え出して、そいつを広めてみんなで使うことにしたに違いありません。
 もしかしたらいろんな場所でいろんな原始人がそれぞれ思いついて、便利だから使いあっているのがいつしか合体した、なんてこともあったかもしれませんね。
 で、なにが便利なんでしょう?
 ちょいとここで難しい話にゆきます。一行空けたらその話を始めます。面倒なら飛ばしてもらってもかまいません。また一行あけたら戻ります。
 
 つまり人間ってのがどういうものなのか、って話をする必要があるわけです。便利ってのは、そもそもどういうことなのか。なにがどう便利なのか。そういう話を始めてしまうと、人間という存在についてかなり深く思索せにゃなりません。
 そこまでやるのは大変だしこの稿の目的から逸れてしまいますので、おおまかな話にします。
 まず、人間は生きてゆこうとしている、という前提を置きます。
 この前提において、肉体的な能力を用いて周囲の環境を「認識」する能力を持っている、と仮定します。つまり「認識」は「生きてゆく」ことに付随して発生する能力です。
 というわけで「認識」は、「生きる」のに有益に利用されるケースが多いはずだ、と考えます。
 敵、危険といったなにかから遠ざかるために利用されるでしょう。あるいは、食べるためのなにかを得るために利用されるでしょう。子孫を残すこと、なんぞも大切っぽいでしょう。
 すごーくおおざっぱな話をしておりますが。
 で「便利」ってのはなにかっていうと、「生きる」のに好ましい「認識」を、「効率的」に行えるってことだと思うわけです。いや、「認識」じゃなくて「行動」が効率化されることが多くの場合は「便利」って言われるわけですが、ここでは「数」を扱おうとしてるので、結果的に行動が効率化される以前に認識が効率化される、これを便利である、と言っておるのであります。
 なにぶん原始人の話でありますからね、文化とか歴史とか後付の価値観に関わらない、より本質に近いところで判断するべきであろう、と。こういうわけで、「公理」だの「定義」だのという数学のやり方っぽいスタンスでやってみようとしてるんです。数学ってのは、そういう本質的なところが隠されずに出てくる学問なんですな。
 そこが面倒くさい。でも、そこが面白い。面白いことってのは、たいがい面倒なもんなんですよ。面白がってるうちは面倒に思わないだけです。
 
 さてそれでは改めまして、「数」はなにが便利なんでしょう。どう便利なんでしょう?
 あ、小見出しに答えが書いてあった。
 えー、つまりその、数は、比べるのに便利なのでありますよ。
 なにかしらを、比べなくちゃならない時に便利なのです。
 ここでコント風に状況描写してみます。うざいので「もう分かってる」っていう人は飛ばしましょう。数ってものを知らない原始人同士です。
 
「やあ、ゲンちゃん」
「おおゴンちゃん。ひま?」
「今、帰ってきたとこさ。ちょいとね、貝とか取ってきたってわけ」
「お、奇遇だねえ。おいらもそうだ」
「おれは、白い貝を取ってきたんだ」
「いいねえ。うまいやつだべ。こっちは黒い貝よ」
「なんだ、そいつも同じくらいうまいじゃないか」
「まあな。けっこういっぺえ取れたしね」
「こっちもたくさん取ったぜ。なんなら比べてみるかい?」
 話の都合もありましてふたりの原始人ゴンちゃんとゲンちゃん、とってきた貝を比べることになります。
「うーん、よく分からないなあ」
「んだなあ、大きさも同じようなもんだぁなあ」
 しばらくふたりは考えて、やがてゲンちゃんがひとつの方法を思いつきます。
「そうだ、並べてみんべえ」
 こんな具合、
 ●●●●●●●●●
「おまえもやれよゴンちゃん」
「おっしゃ分かった」
 でこんな具合。
 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「見ろよゲンちゃん。おれのが多い」
「いやいや、いやいや、そりゃねえべ。並べ方がわりいや」
「どう悪いっていうんだよ」
「並べかえてみんべよ」
 こんなふう。
 ●●●●●●●●●
 ○○○○○○○
「ほれ見てみい。おいらの方が多い」
「ちぇ。そうだなあ。けどあれだぜ、昨日はこれよりもっと取った」
「じゃ比べてみんべえよ」
「いやあ、もう食ってしまった」
「貝殻があるんべえ」
「いや、もう捨てた」
「んじゃ、こうすんべえ。今度っから、食った貝殻も残しておくんさ。そうすりゃあ、どっちが多いか比べられらあよ」
「なるほど。ゲンちゃん頭いいなあ」
(ご近所に古い遺跡があったりするので、地元上州弁っぽい原始人に登場してもらいました。上州に海はないんですが、あったのかなこの時代。けど、たぶん数の概念が生まれたのはその遺跡の時代より昔だろうなあ。想像ですけどね)
 ともあれ、数が使えないとなかなか面倒ですよね。
 こんなやりとりが、実際にあったかどうか知りませんが、まあ、あったんでしょう。きっとあったに違いない。ということにします。ただし、まだすぐには数という考え方は出てきません。こいつが出てくるのは、並べては比べられない事態にいかにして対処するのか、というもうワンステップ進んだ段階にならなきゃならないだろうと思います。
 まあ、いずれにしても並べてゆくってのがたぶん、数についての考え方を生み出す元になったんだろうと思うわけです。現代人として表現するならば、ひとつとひとつを対応させてゆく(大きくても小さくても、ひとつとふたつを対応させちゃいけません)、ってことですね。
 数える、っていう行為が、物を数にして比べるための基本的な方法になるわけです。で、この数えるというのは、数と呼ばれる言葉と、物が並んだ順番とを対応させること、なんですな。いちにっさん、でもいいですし、わんつっすり、でもいいですし、あいんつばいどらいでもいいですし、まあ、言葉と順番の対応関係を作っておく。並んだ順に言葉をつけてゆく。これが、「数」という考え方を作るということ。これがつまり「決めたこと」なわけです。
 
 さてさて、数っていう概念が、数えることによって発生するようになりました。
 というわけで、一番最初はきっと「数える」ことで比べる。比べる時には数っつうのが便利だ、ってことになったわけですな。
 なに?
 比べるなんてえ魂の卑しいことはいらない、ですか?
 その場合には、おそらく数もいらなくなるでしょう。なにひとつ比べることがないのなら、数という考え方はいりません。
 でも、そもそも「生きる」のが人間の基本で、「生きやすい」か「生きにくい」かを判断するところからなにもかもが始まってるんです。厳密には、なにも比べないなんてことはできっこありません。だいたい認識ってのは比べることでできあがります。「おいしい」か「まずい」かだって、比べてるわけです(こういうのはなかなか数に変換できないものですけどね)。「楽しい」か「楽しくない」か、「痛い」のか「痛くない」のか。人の意識に表れなくたって、細胞レベルでは膨大な比較作業が行われています。たとえば免疫で病気に対抗することは、もっとも小さくてもっとも大切な「比較」作業なんですよ。ちなみに、魚でも数っぽい概念を扱ってる、っていう研究なんかもあるみたい。もちろん「比較」のために使ってます。
 そんなわけで、数を使う能力は、人間は元から持っていたのでしょう。
 ただ、「数」で扱えても、比べる作業を便利にするだけ。しかも、比べられる対象もごく限られています。
 そのまま数にしてうまく比べられることは、実はそんなに多くないのです。
 
 ここでちょっと脱線しますが、たいていのものを数にして比べることができる方法が、ひとつあります。それは、金額、という数です。
 なんでも金銭的価値にしてしまえば、それで比較できるようになるわけです。お金で買えないものはない、なんてこと言いますよね。「そんなことはない」なんて、ついつい突っ張ってみたくもなるところですが、まあ、お金ほどなんでもかんでも「数」に変化させてしまう方法は、他にはない、ってことも確かにあるわけです。だからお金万能、っていう印象になってしまいます。
 あいまいな価値ほど比較するのは難しいですから、せめてお金で数字に変えて、それで比べてみることになっちゃうわけですな。静かに沈んでゆく夕陽をぼんやり見つめながら微笑むことのできる時間と、最高においしいものを一口食べた瞬間、なんて、本来なら比べられません。けれど、それを手に入れるために要した金額ならば比べることができるかもしれない。まあ、そういうことなんでしょうね。
 
 てなわけで、数は比べるのに便利だから作られることになった、使われるようになった、と。適用範囲は、最初はごく少なかったでしょうが、ひとたびこういう方法を見つけ出したら、あとはそれを上手に応用して、できるだけいろんなものを比べられるようにすることになります。
 さらに、比べられることを基礎にして、さまざまな技術を構築してゆく道筋が見えてきます。
 

数の拡張と単位

 
 まともな数学の本なら、ここで「数えることで手に入ったのは整数であった」みたいな話に進むことでしょう。あるいは数学の歴史なんて方向に走る手もあります。そういうの書いておくと物を知ってるっぽいですから偉そうだし、偉そうにするってのは書いてゆく動機としては大切なものに違いありません。
 でも、私はあんまり歴史とかそういうことに興味ないんです。さほど知識もありません。
 とにかく数ってものを、もうちょっともてあそぼうと思います。個人的には、そっちのほうが楽しいもんですから。
 えーと、数える話でした。数ってのは、数えることで発生させるのであった、ときたもんだ。
 あれれ? と、ここで思っていただきたいところです。
 数はともかく、数値とかそういうのって、「数える」より「測定する」ことで数字に変換してるんじゃあるまいか、と気づいて欲しいんですよね。
 そうなんです。
 数は、本来は数えることで発生させるんです。けど、数えるってのはいつだって、1から順番にやってゆかなければなりません。しかも途中をとばすことができません。これは面倒です。最初は便利で使ってみたけれど、よりいろんなケースで使おうとしたら、特に大きな数を扱おうとしたら、とたんに大変な作業になります。
 そこで出てくるのが「測定」という、簡単にいろんな数を発生させようというシステムなんです。が、その前に、まずは「数えにくい」という状況について、もうちょっと考えてゆくことにしましょう。
 
 だいたいにおいて、数えることができる状況って、わりと限られてますよね。きわめて重要なのが、数える時って、あるなにかを「もう数えた」のか「まだ数えてない」のかが分からなくちゃならない、ってことなんです。
 あったりまえですなあ。当たり前ではあるんですが、こういう基本的なことを、たいていは無意識に処理してるので、状況が多少なりとも複雑になると混乱してきます。たとえば、動いているものを数える時って、なかなか難しいんですよ。ほんの十人かそこらでも、動き回ってる子どもの数を数えるのは大変です。
 あるいは、すごくたくさんのものを手分けして数えるような時ですね。自分が数えたかどうかもはっきりしないところにもってきて、他人が数えたかどうかを判別しなければならない、となると大混乱必至です。
 たしか豊臣秀吉のエピソードだったと思うんですが、山にある大量の木を数えるって話があります。これが難しい。いや、難しいんですよ。数えながら移動してゆくと、木ってのは印象がけっこう変わりますしね、数えたのか数えていないのか分からなくなりやすいんです。そこで、用意したのが大量の縄です。まず縄の数を数えます。これは数えたかどうかを判定するのは簡単。数えたら数えただけ横によけておけばいいんです。で、数え終わったらその縄を木に一本ずつ巻いてゆきます。そうすれば、使った縄の数と木の数は同じですから、残った縄の本数から計算で木の本数を求められるという。
 すごく頭がいいような、そんなことも分からなかったのか戦国時代のやつらは、と言うべきなのか……。まあ、評価できるのは、手分けできる、ってところですね。
 子どもなら、動かないように整列させて「番号!」とでも叫んでやりましょうか。ま、数えにくいけれど、こんなふうに数える工夫というのがあるかもしれないわけです。
 
 でも、もっと数えにくいもの、ありますよね。そう、たとえば水やら酒やら油やら、大事なものではあるけれど、ひとつふたつ、というふうに数えるわけにはゆかないもの。
 おっと、重さだの体積だのとは言い出さないでください。そういう測定が必要な考えは、数の概念が拡張されて、もうちょっと先になって出てくるんです。まだこの段階では「数は数えて発生させる」ことしかできません。
 では、どうします?
 そう。数えられるように変えてやる、のです。
 
「よおゲンちゃん、ひま?」
「ひまじゃねえよ。おめえが酒と油を交換すべえって言うから持ってきてやったんだ」
「ああ、そうだったねえ。で、その壺に油が入ってるんだな? 酒を入れる壺も持ってきた、と」
「おいら手回しがいいもんでな。おめえんとこの油壺はあるか。そこに移してやる。おっとと、なんだかでかい壺だな」
「そうそう。その壺に移してくれ」
「いいんだが、おい、油と酒は同じだけ交換する約束だったいな」
「そうだ」
「どうやって、同じだけ交換すりゃいいんだ?」
「いいじゃないかよだいたいで」
「そうはいかねえ。きちんとやるべえ」
 いろんな大きさの壺が登場します。入れ物によって入っている量についての印象はずいぶん違うもので、かつてはこれを利用して詐欺まがいの取引なんかも行われた……んじゃないかと思われます。が、ゲンちゃん、変なだましにはひっかかりません。
「そうだ、こうすべえ」
 ゲンちゃんが取り出したのは小さな器でした。
「どうするんだい?」
「こいつに入れて数えるんだよ」
 そういうこと。ひとつの器を使って、それで何杯はいるのか、っていうふうに「数えて」やることで、簡単には数えられない液体を、無理矢理数えられるようにしたのでした。
 ゲンちゃん納得、ゴンちゃんちょっぴり不満顔。
 めでたしめでたし。
 
 いやいや。それで終わってはいけません。
 こんなふうに、数を数えるという考え方を拡張して、数えにくいもの、数えられないものを数値に変換することができるようになった、と。ここのところに思考についての大発明があった、と考えてやるべきなのです。
 これ、すごく応用範囲が広いんですよ。
 たとえば長さ。それ以前にも、棒みたいなものなら横に並べて長さ比べをすることが出来たはずですから、考え方としての「長さ」はあったでしょう。でも、木の長さと岩の高さを比べる、みたいな時に、どちらも動かせないケースも多かったはず。
 そこでまずは、一方と同じ長さの竿を用意して、それを運んで比べてみる。さらにその竿を、もっと短い棒を使って、短い棒何本ぶんか、というふうに「数」にしてやる。こうして、数によって比べてやれるようになった、のですね。
 大きさなんかも(面積や体積の考え方が生まれていない時代)、基本になるものをいくつ使えばいいのか、というふうに数値化すれば比べてやれるようになるのです。
 重さ、なんかもそうですね。ただし、天秤を使って重さを測定できるようにならないと、数に変えることができないので、こっちは文化的ハードルが高いです。感覚的には、重いか軽いか比べるの、難しくなさそうにも思うんですけどね。
 かくして、いろんな場面で数が有効に働くようになってゆくのでありました。
 
 いやいや、もうちょっと。
 ここで、とてもとても大切な考え方が登場してきているのです。
 それは、「数にするための基準」という考え方。
 油と酒を交換する時のゲンちゃんとゴンちゃんは、ひとつの器を基準としました。でも、器が変わってしまえば結果も変わりますよね? 同じものはいつでも同じ数になるようにしておかないと具合が悪いです。貝の数ならいつ数えても同じですが、油や酒は、数える時によって(つまり使う器の大きさによって)異なる数になってしまうのです。それでは困りますから、いつでも同じ数が得られるように基準を統一した方がいいだろう、という考え方にたどりつきます。
 この「数にするための基準」を、なんと呼ぶでしょうか?
 あ、また小見出しに書いてあった。
 そう、「単位」と呼ぶことになってゆくのです。
 そうして、実は、数えやすいと思ってきたものにも、単位という考え方が必要になってくるのだということが分かってきます。(一個とか一杯とか一本とか一棹とか一面とか、日本語には数にくっつける言葉がたくさんありますけど、こういうのも単位の一種なのです。数える対象が違ったら単位も変わる、とても論理的な、ただし面倒なシステムです)
 

単位についてもうひとくさり

 
 そうそう。さっきの節では「測定」の話が途中でぶち切れてしまってましたね。
 測定ってのは、基準になる単位が決まったら、それをさらにいくつか積み上げて、一気にまとめて数えてしまおう、という考え方です。
 たとえば物差しを見てみると、細かい目盛りがくっついてますよね。実はこの小さい一目盛りが、単位のかわりなんですね。単位がいくつ積み上がっているのかをわかるように工夫したんです。本来なら、単位(になるなにか)を積み上げていって数えるんですが、物差しではあらかじめ数えておいたのを用意して、それと対応させることで数えた代わりにするわけです。
 回転寿司に行った時のことを思い出してみましょう。最近じゃテーブルに空の皿を数える機械がくっついてる場合もありますけど、まあ、昔から回転寿司はお皿を積み上げるもんでした。積み上げておいて、食べたお皿の枚数を数えます。おおざっぱな人なら適当に積み上げて、店員さんに任せてしまうんですが、そうするとお勘定の時にけっこう待たされることになります。食べながら、数えやすいように整理してゆくと、ささっと数えてもらえます。おすすめなのは、同じ種類のお皿ごとに十枚ずつまとめておくことです。十枚まとめられた皿は、みんな同じ高さになります。おかしな状態になっていないことが一目瞭然なんですね。こんなふうに、ひとまとめをわかりやすい状態にしたものが物差しなんです(別にセンチメートルだのが刻まれていなくたっていいんですね。同じ長さ同じ大きさが判別できるようになってるもの、です)。
 お店によっては、十枚のお皿が割り箸の長さと同じ高さになるよう工夫してたりするんですよね。即席で物差しを使えるので、けっこう便利かもしれません(もっとも、お皿の種類によってさまざまな値段がつく店には向いていないかもしれません)。
 
 で、この話でなにが分かるかというと、単位ってのは基準になる大きさであるに過ぎない、ってこと。場合によっては、ひとつの単位の十倍、百倍が別の単位(新たな基準)になる場合があるわけです。
 1ミリが1センチになる、1センチが1メートルになる。こういうふうに、基準を切り替えてゆくことで得られる数はさまざまに変化してゆくことになるんですね。
 さらに、ちなみに、の話をします。
 普段わたしたちが使っている数、数字は、十進法と呼ばれる決まりで作られています。
 横にふたつ数字が並んでいたら、いちばん右の数字が本来の数。右から二番目の数字は、元の数の十倍、ということになってます(三番目があればさらに十倍。元の数の百倍。四番目があればさらに十倍、ってな具合に続きますよね。改めて言葉にすると、すごく面倒そうですが)。そういうふうに決めておくと、なにかと便利なものですから、ひとまずそう決めて、もっと便利なものがないのでそのまま利用されているわけです。
 エジソンはこういう数字の仕組みにも疑問を投げかけたでしょうか? たとえ疑問を投げかけることがあったとしても、「そう決めてみんなで使ってる」という以上の答えなんて出てきやしないんですけどね。
 ま、こういう十の位だとか、桁上がりとか、そんなふうに使われている言葉も、実は広い意味で「単位」の考え方を元にしているのだ、と考えておくといいでしょう。
 
 いやいや、この節ではそういう話をするつもりだったのではありません。
 もうちょっと深いところに踏み込んでゆきます。
 だいたい、「数」ってのは「数える」ことで発生させるものであった、と。これはいいですよね? で、数えられないものや数えにくいものは、器とか物差しとか、「基準」ってのを作っておいて、その基準をいくつぶんなのか数えることで、無理矢理数にしたんだ、と。
 そういうことでありました。
 じゃあ、基準が違ったら、同じように「数」を発生させても、別の数になっちゃうんじゃないの? と、そういうところに気づいて欲しいんです。
 なにしろ「基準」ですからね。いつでも同じじゃなきゃ困ります。
 そうしないと、数を合わせることができなくなってしまうんですよ。
 
 足し算、という話が始まりそうになっています。
 けれどこの稿では「計算」には踏み込まないことにします。それについては改めて書こうと考えているからです。
 今回は、ただ、なにかを数にする、その考え方について分かってもらうことが目的です。
 というわけで、「基準」を決めて、それを元に数を生み出すのだ、ということでほぼ目的は達成できたことになるのでした。
 普段はいちいちそんなこと考えたりしないと思います。たいていの場合、「決まってること」を覚えて、それで日常を乗り切ってゆきます。ただし、そういうやりかたはさまざまなケースについて個別に覚えてゆくことになります。本質的なつながりが分かっていないと、思わぬところで混乱してしまったりするのです。中学校の数学の時間に出てくる文章題なんかで、おかしな間違いを繰り返すのは、本質が分かっていない証拠です。計算のやりかたって、どれも似たようなものだから、個々に記憶していると区別がつかなくなってしまうんです。
 これを回避するためにも、数についての考え方を基礎にするといいのです。
 数えたり、基準を元にして作った物差しなどで「測定」して、いろんなものが数に変わってゆきます。そんなふうに数はできているのだ、と。
 これが基本です。
 
 ここでひとつ気をつけておくことを書いておきましょう。要注意事項です。
 それは、「一度、数になってしまうと、区別がつかなくなってしまう」ということ。
 元が子どもの人数なのか、果物の個数なのか、背の高さなのか、指折り数えて待ったお正月までの日数なのか、そんなこと数(だけ)になっちまえば分からないんですよね。
 で、だからこそ、本当は数について、それぞれに「単位」が隠れているんだ、ということを考えてやらなければならないんです。
 同じ「5」でも、日数なのか人数なのか長さなのか通知表の成績なのかこの次の節についてる番号なのかによって、ぜんぜん違う別のものだということ。
 もしも別のものだとしたら、簡単に比べることなんて、できるはずがありません。そもそもの目的だった、「比較する」意味がなくなってしまうのです。
 5と4を比べて、5を取ったらそっちはゴキブリの数で、4の方は金塊の数だったりしたら、困りますよね。せめて5も銀の塊くらいにはしておいてもらわないと……いやいや、そういうことじゃないんですって。ただの数同士を比べる時にも、本当は背後に単位が隠れているのだと、じゃなきゃいかんのだと、そういうことが言いたかったのでした。
 


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