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section 1

なぜひとつの事件が空白でありうるのか

 

 

 モデルN嬢は実在したのか。

 疑惑がひとたびかれの脳裡に枝をひろげると、たちまちおびただしい葉むらが、視界を曇らせてしまうのだ。

 あるいは葉むらのはてに、疑惑が見えかくれするといってもよい。

 そのときかれが掌中におさめたいのは、N嬢ではなく、まさに疑惑そのものだ。


 ところが疑惑は疑惑で、N嬢をモデルに、かれの夢とうつつのあわいを跳びはねている。

 疑惑とN嬢とのあいだに、せめて一条のぬくもりでもあればと、かれは思うのだ、ぬくもりでもあれば、あらゆる仮定は、かかとをしっかり地につけて歩いてくるだろう、それはおれを踏みにじっていく輝かしい定理だろう。

 しかし、モデルのその不定形さが、N嬢であり疑惑なのだ。実在が、非在が、なんだろう。モデルからN嬢へ、また、おれを通りすぎていく後ろ姿が、なんだというのだ。

 N嬢は、風のそよぎかたをそよぎ、草ぐさの渚を波うつ。

 横たわると、N嬢は、しきつめた若草そのものだし、カメラマンの気まぐれにそそくさとしたがって樹の幹にすがると、N嬢はそのままやさしく樹である。

 肌は日本人らしい白さで白く、それは透明なうすく湿った黄いろい皮膜につつまれている。指は充分な機敏性をそなえて、しずかなしわをうつしだしている。だが、その肉体的な属性から、1メートル程度ひきはなされると、もう汗ばみ、五月の風に同化してしまう。

 だから男たちは、突飛な行動にわれを忘れることも可能だった。いやすでに行動は起されていた。N嬢の姿態のひとコマひとコマに、男たちの慾望が介入していた。

 何事があったのか、なぜひとつの事件が空白でありうるのか、解明されぬまま、N嬢に関する諸々の事象は、かれに痣となってのこる。


section 2

レモンの狂気

 

 

 けっきょく、ぼくは、レモンがかつて狂気のままに蒐集したおびただしい曲線の、ただの一本も盗み出せなかった。

 あの酸味と色彩、そしてぼくを酔わせた透明度は、あいかわらず隆起と陥没をくりかえしていたが、レモンの自閉症は、ますます完璧だった。その表面のなめらかさは、いかなる破壊欲をも芽生えさせなかった。いまや動かしがたく、狂気のままのレモンだった。

 ひとすじの曲線を搾取されて、この春の初めから、いま冬にさしかかるまで、いったいなにをぼんやり生きてきたのだろう。桜が蕾をつけはじめると、もう、満開の花の下で曲線が曲線を生むぼく自身の繁殖を夢想したのだった。

 世界は気泡のように昇天を静かに堪えている。ほくが前進するところに〈もの〉はない、前進するぼくが唯一の〈もの〉である……

 ところがじっさいは、ぼくのかたわらを陥穿がはしりつづけ、レモンの自閉症よりも、ぼくは、この少女めいた滑走が不安でならなかった。

 春から夏、そして冬へ、弓なりの嗤い。


 

 

 

 

section 3

髑髏のような恍惚よ

 

 

 洗面器には、初冬の水が施錠されていた。台所ばかりではなく、家ぜんたいが洗面器の上に聳えていたのかもしれない。なにもかも見透かされているような背すじの寒さは、たぶんそのためた。

 だれも水の名をしらない。しかしそれは蛇口を吃らせ、洗面器に満ちる。

 おんなは聞きとめたことを疑った、《そんな言いかたってあるだろうか》と。

 掬いあげると、掌の中で水もまたはげしく吃った。薄命な水、それより速く腐敗する掌。凍るひかりを瞼にあてた、それが点火となった。火花が散り、小爆発の衝動が眼球をつつみはじめた。

 朝の時間が白濁し、夜の内臓が洗面器のひかりを砂に変える。彼女は夢から醒めきれずにいるのだ。

 繊弱なひかりの下のうとましい風景、不倫の川を流れるどくろのような恍惚が、彼女の顔にかさなる。この顔をどこに向けたらいいのか。

 バスタオルは、かすかにきな臭い。《これがわたしの憎い体臭、あの気がかりなことばから、言いつくされなかった心根へ、<もの>から夢への転落にわたしをいざなう憎い体臭》


section 4

はねより軽い埋葬を

 

 

 それは、ぼくの夢のなかで育てあげられた土を、夢から醒めた朝、ぼくの冬枯れの手が練り、築いた堤防である。

 堤防のむこうでは、だれかが、かさこそと包装紙のしわをのばしている。まだ見られたことのない夢が、しわのひとつひとつに自らをとどめておこうと、あのしなやかな掌に抗っている。

 ぼくの夢のなかで土を育ててきたのは、土に還るべき死者や、そのほかの腐敗物などではなく、殺意に満ちみちた男たち、数多のアルビノの群れたちだ。憎悪と執念に燃えさかる潜伏、冷酷一徹の泳法が、夢から夢へと装置されたベルト・コンベアの上で、フラスコの中で、加熱と冷却をくりかえし、弾力性に富んだ、そしてきわめて緩慢に揮発する土を産んだのだ。

 堤防の上には、堤防そのものよりも重圧的な水蒸気がたちこめている。かれらは自分が何者であるかすっかり忘れはてて、立ちつくしている。堤防のむこうが見えないのは、そのためだ。

 ぼくの夢のなかで育った土には埋葬の重さがない。殺人者やアルビノの群れは、すでにぼくに見られてしまった夢の囚人として、永遠に生きるしかない。



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