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《密通》に蝕まれたのは、わたし自身でした。それがわたしの生理でした。死者はむしろあまりに靭くしなやかなので、籠が編めました。籠にはいくらでもわたしの生を摘むことができました。清潔な竹べらがいくつもわたしに向けられていました。

 あれが納屋の空気を人れ換えるほどのできごとなら、いっそ納屋の戸を取りはずすべきなのです。

 ぎっしりと並んだ鳥居のように、表情のむこうにいくつもの表情が透けてしまうので、可笑しいのです。ときにはわたし自身の顔が映っているものと錯覚して身ぶるいしたり。たしかに祖母は《無表情》へとかぎりなく接近していたのです。ただひとつ、それが生き延びる方策であるかのように。けれど、それも祖母の《密通》にほかありません。祖母は、わたしを共犯者に仕立てるつもりだったのです、おまえも知らん顔をしてるんだよと。

 わたしにはついに《無表情》を理解できませんでしたけれど。

 吐き気をこらえてかしいだ納屋でした。納屋の周囲をめくるめく速さでかけめぐる影が、納屋の昏倒を防いでいました。

 その棚から一丁の錠を消すことは、納屋をいくらかでも現実離れした存在に置き換えたかもしれません。殺意にかられた父はすでに鳥でした。わたしの母の頭部は、鳥の巣であったわけです。


 

section 8

回転家族の食卓

 

 

 

 蝿がえがく曲線の円心へむかって、テーブルは現象する。この多角的な、縁辺の不明瞭なテーブルの不潔さかげん!

 腐敗する物Jは、ゆるゆると翼を伸ばしはじめた。飛び立つにしても、どこへ?

 蝿の無目的な飛行が択びとったテーブルの形態は、火災のごときものであったために、無限な融通性を備えていた。食事をとる家族のうしろ姿は、どれも火急でありながら、かつ、いまや生を断念したかのように動じない。かれらもまた蝿だからだ。

 腐敗する物Jは、テーブルの形態や蝿の属性とはかかわりなく、いかなる手、いかなるまなざしをもはねかえし、むしろ積極的に潔癖である。それは、絶えざる発熱、あれからこれへ、ここからそこへの、色彩の移行、におい、かたちの変遷、退行のうちに、あの融通性とは明らかに対立する独断の姿勢を保つ、誇り高き腐敗である。


 物Jの表情を、われらは、しばしばまのあたりにし、それを物Jのすべてであるかのように解釈するが、発熱から発汗への音階的過程に捉えられ呑みこまれた結果の、われらの判断の愚昧さをこそ、飛び立てぬ腐敗とみなすべきである。

 すなわち、《無表情》という表現が迫ろうとした表情のまえにあっては、われらは何者でもない。無として、なおかつ、《見る・見た》という屈辱、むずがゆさ、嘔吐感を背負いこむ。

 だが、はたしてそれが事実だろうか。

 事実は断じてこのようなわれらの思い入れを許しはしないだろう。嘔吐さえも、われらの慾望に根ざしているのだ。

 しかるに事実へのわれらのいとけない秋波は、それを《見ない・見なかった》として、屈辱、むずがゆさ、嘔吐感をこらえる必死な自己欺瞞に自らを幾重にも呪縛するのである。

《無表情》が限りなく接近するところの表情が、腐敗する物Jの一瞬の現象を示すにとどまり、あのテーブルの淫乱でさえある融通性が蝿の属性にとどまるならば、それらに共通する限りのなさとは、死の存続を立証する〈時〉の諧謔にほかならない。《無表情》とは、われらの存在形式のひとつである。腐敗する物Jの仔、淫乱な者たちへの愛の配分が物Jの独断と誇示であり、われらは、ここで頭を垂れ、ひざまずく、どこへ、どこへ? と。


section 9

発育する死、つまり生鮮な腐敗について

 

 

 腐敗の円環運動から、運動そのものを抽出してみるならば、そこには、発育ざかりの死が連鎖反応式に共棲している。腐敗する物Jの陽気な一面〈臭気〉は、これらの乳くささであり、自己中心主義の暈を競っておしひろげている。臭気は層を重ねながら、物Jをつつみ領野を拡大していくが、発育ざかりの死は、その自立性を物Jの中枢に確保している。そのため、死の発育につれて、腐敗運動は物Jの外殻へと反転する。波における水の上昇運動に酷似しているが、物Jがじっさいより膨脹してわれらに感受されるのは、波の高みを頂点とする感受性の硬化癖のためである。しかも腐敗は進行するとわれらは錯覚する。しかし、錯覚ほど十全にわれらを納得させるものもない。

 ところで、こうした運動のさなかに、物Jのかつての生鮮さが復活したかのような随所の反応を見逃すわけにはいかない。

 死は、定位置から無数の方向へ同時に歩みだす。一方、この多彩な指向性のなかには、はじめから定位置をめざす死がある。それこそが《無表情》である。これを生鮮さの核といえるのは、死‐無表情ゆえのとまどいがわれらを襲い、つぎにわれらをしてとまどいを死‐無表情へ反射させているためである。周囲の決然たる指向性のなかにあって、とまどいは、無目的な形相を帯び、それゆえにかえって放浪という動向をわれらに予感させる。それは、生鮮な物Jへの帰家本能であり、発育と死を短絡させる物Jの記憶像である。

 とまどうわれらもまた雄大な腐敗の風景である。


section 10

兇器の生成

 

 

 そのとき曲線は陥穿そのものの連続的な運動である。

 それは、自らをおとしめることによってわれらの前に現れ、われらのすべての直視と、直視されるすべての〈もの〉とを妨害してきた。われらはなにものをも凝視しえない。あらゆる〈もの〉は絶えずわれらの眼前から逃れ去る。

 しかし、兇器・物Lの空間的限界を確認する困難さは、その運動の自閉症的な性格のゆえではなく、むしろ、積極的とさえいえる流亡性にある。兇器・物Lは、たんなる道具から転落すると同時に、感性あるいは倫理性の具現として、独自の《手》を獲得するのだ。だからいかに流亡とはいえ、孤立することはなく、物Lは、物もでない〈もの〉につねに癒着している。

 こうして物Lは、陥穿群のうちに弧をえがき、たとえば物M、たとえば《納屋》のごとく現象する。

 それは因習の納屋だ。物Lは、この病原体に紛れこみ、兇器として培われ洗練される。そしてやがて風媒花のように流れ飛び、選ばれた者の頭部へふりおろされる。



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