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section 20

標識《妻殺し》

 

 

 標識《妻殺し》は、その貪食性によって肥満し、自らの醜怪な容貌を羞じて行方をくらませた。

 いまや《妻殺し》は手足の区別さえつかぬ、ものいわぬいくつかの眼をその肉体に嵌めこんでいるばかりである。彼女の棲みついた山脈ぜんたいが、われらの地図に死臭を染みわたらせる。

 それでもなお、妻を殺害する気になるだろうか、それがわれらの唯一の愉しみにしても。

 標識《妻殺し》を見失ったのではなく、いままさにわれらが標識《妻殺し》を実践しているのだ。

 ところがわれらは、われらが真相であること、われらが標識《妻殺し》として林立し、遭難していることを信じていない。

 つねに逆上している標識のなかでも、とりわけ《妻殺し》は、拡がりや奥行きを失神させ、あの光景の母胎をえぐりとった。そしてその母胎では、正気な標識《妻殺し》が無数に捏造され、市場に出回りはじめている。われらは容易にしかも正当にその道を歩むことができる。

 標識《妻殺し》はたしかに存在した、何もかもを見過ごすわれらの眼がそれを見た。

 不倫の汗、頭蓋が砕けるにぶい音、ほとばしる血の匂い、それらもたしかにわれらを狂喜させた。だが、ついにわれらはその現場に到達することがない。

 さて、われらはなぜ、いまにも朽ちて落ちそうな小枝を相手に、こうも勢いよく鉈をふりかぶらずにはいられないのか。そらはリスのように快晴へと捗り、その青さは鉈の上にとどまる。鉈は鉈、怒りは怒り。その二つの〈もの〉の印象半径にたちあらわれた《妻殺し》は、あかく熟れたからすうりのごときものであったか。


あとがき

『兇器L詞書』に関するメモ――2011年1月

 

*1974年11月から1976年12月まで連続して執筆した「恋人よ、ふしあわせに―〈もの〉から夢へ―」を改題。

*総35篇のセクションから21篇をえらんで構成、配列は執筆順に非ず。

 さらに、刊行本のセクション1718をつなぎ、計20のセクションとしている。

 刊行本の誤植を改め、手を加えた箇所もある。

刊行本では見出しをsection 1、2…としているが、ここではそれぞれ新たにタイトルをつけている。

 

*初出誌

 第三者/詩現象/魔法と新説/日本未来派/天文台/ゑひもせす/詩界/四次元/水葬/燈台/花祭り/カウボーイ

 

(刊行本=発行/1977年8月 発行所/ワニ・プロダクション 1978年第10回横浜詩人会賞)


この本の内容は以上です。


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