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 だが彼女は、もう一度、視た。白っぽく光るもの、納屋から持ち出された、いまそこに在るのではない〈もの〉を。それを初めて視たとき、彼女は、自分の耳の生えぐあい、首のねじれようが、以前とまったくちがっているのを感じた。それは自在にすべての物音を聴きわけることができた、それは自在にもののありさまが確認できた。納屋の中のあの〈もの〉たちと、やっと平等な存在を克ちとった……

 おんなは最後の血をふりしぼった。いかにしても破壊されることのない執着があれは、鏡の中の頭部は、まだ完全な一個なのだ。彼女は、もう一度、視た、自分のうつくしい横顔を。


section 16

兇器Lについて

 

 

 

 《手》を消す。

 兇器・物Lの最終的な目標は、《手》を消すことである。

 道具の、《手》への侵襲は、われらよりもはるかに孤立するだろう。

 《手》を消すことは、兇器の道具としての復権であり、それにはまず《手》から離叛することだ。すでにあったものへと回帰することだ。これから起ることは、これまでになかったことである必要は、まったくない。もし、それをする勇気さえあれば、すでにあったことを、そっくりそのまま繰り返すのだ。それが道具である。妻殺しから、納屋の隅へと遡行し、ふたたび納屋から母屋へ妻を殺しに……。それは、兇器から道具へのより良き道であるだろう。あるときふいに妻殺しを断念するかもしれないのだ。

 ル・クレジオはつぶやいた、《理由はあとからやってくる》

 われらはこれをさらに劇しく正確に銘じなけれはならない、理由は永遠にわれらに追いつくことがない、と。

 われらは、理由とのかくも頑な訣別を、反古にしたりしないだろう。手や夢へ、夜闇にまぎれて帰って行ったりしないだろう。

 兇器・物Lは、あらゆる理由の《手》から巣立つのだ。

 兇器・物Lの飛行の構造から、生爪のように、そらが、空間が欠落するだろう。飛行から存在へ、体温から納屋へと、物Lは旋回する。空想は歩き出せない、飛行の構造にあの《白っぽい》時間がこみあげる、空想は汚物でいっぱいだ。

 物Lの飛行は、いっそう音楽へと接近するだろう。そして、ピアニストのそれのように、《手》は一個の音符へと解消されるだろう。

 (われらが手を失ったのではない。手がわれらを見限ったのだ)

 それからのち、物Lは、われらの行為の構造として、鈍く光っているにちがいない。


section 17

みずどりのみず

 

 

 死臭は小さな漁船だ。ほんとうの漁船について、ぼくは何も知らない。漁船が魚を追って、波にひらひら舞っているという、ほんとうの海をぼくは知らない。

 ぼくが知っているのは、あなたがた家族が、ぼくのなかで漁船になったこと。あの夏、太陽がじりじりと近づき、漁船が《白っぽく》ひかり輝いていたこと、屍体は陽灼けしないこと。

 ほんとうに、あなたについて何も知らず、死臭はひどくなるいっぽうだ。

 漁船がゆれ、吐潟物のあふれる空想をかかえて、ぼくは揺れた。そして……水鳥が水から飛立つ。

 風の球を左右にゆっくり押しやる翅がのびきると、ちいさい頭部が撃たれたように上向く。嘴はやがて炸裂する弾丸だ、するどくとじて、もう眼の前を飛んでいる自分の幻影にふかくくいこんでいる。くいこんだ部分が水鳥の空白となる。幻影と実体の重複が水鳥の飛行を支える。翅はいまや流れる水だ、幻影を押し流し、実体を曳航する、翅はいまやひかりを砕く水の熱だ。水中に巻き起る風が、倒立した樹や岩肌を燃やしたなごりが、翅を熱くする。火の粉が舞い、樹脂がしたたる、落下への熱望が水鳥の眸をくらくする。暗い眸は浮力を鎮める錘だ、同時に車輪だ。回転運動が水鳥の上昇角度を宥め、そらはさらに青へと没頭している。空白は空間の盲目、盲目の速度が水鳥の意欲、意欲はいまそらの青さと合致している。青が走る、追う水鳥は水だ、虹のような飛行が風の球を細分化する。気流ははるか下方を濁らせているにすぎない。水鳥は気流にのらない、すでに頭部は石化し眸は錘だ。   翅は押し寄せる風の素粒子を左右に押しかえす水平に流れる水だ。水源地の鼓動が風を裂き、過剰な水をしみこませる、水鳥の極限の軽さは発光するほどだ。和毛はすでにひかりだ、距爪をふかくつつみこんで、ともに窒息したひかりだ。

 水鳥が水から飛び立つ。かれを拘束してきたいっさいの水から飛立つ。

 幻影はぬれて重い。ちいさな頭部が下向き、水鳥は嘴から炸裂する。それから実体の緩慢な下降がはじまる。空間の開眼が水鳥を呑む。射程距離での恍惚が翅を静止させる。意欲はいま地上の銃口と合致している。


section 18

赤い舟による川下りのイメージ

 

 

 夢の川の舟下りの船頭は、すべて片眼だった。眼窩にしなびた瞼がいかにも陰鬱に貼りついていたり、あるいは、まるで両眼が健在であるかのようにみえても、一方は義眼なのである。

 船頭の視野から墜ちかかる風景は、むきだしの岩肌である。

 船頭があやつる竿は、われらの生あたたかくやわらかい肉の中に突き立てられる。われらの血しぶきは舟を染め、舟にすがりつくのは、舟下りをたのしむあかい口だ。

 船頭の盲目の眼に汗がひかり、百粒の汗に百艘のあかい舟が彎曲にうかんでいる。船頭の視野の外をわれらは滑走しているのだろう、岩肌のとある樹の根にからまれながら。

 船頭の生活する眼に残像として積みのこされる観光客がひとりふたり、あるいは何万人もいて、もちろんかれらはいまわれらの舟にはいない。(船頭たちは、あす、どのような運命の上に立つのだろう。)

 あの千鳥たちは、われらの飛翔である。

 川下では、鳥類の卵のようにカメラマンが岩に嵌めこまれている。だが、われらがかれと出合うとは限らない。

 あの千鳥たちを見よ!

 船頭は訛りのつよいことばで、われらの眼をカメラに向けさせようとし、あかい舟に一瞬、重心のたわむれがある。


section 19

飛翔欲と飛行の構造

 

 

 水のまわり道をたどっていく、われらにいかなる泳法が身についたというのだろう、かすかに酢のにおいをたてながら、われらの歩みは、いっぽんの天蚕糸てぐす()のように、まだ見ぬ水の底へと降り立っている気がするのだ。

 水のまわり道をたどるわれらは、たがいに他者の流域にひきこまれ、馴れた手つきで波は、われらをまっ青な海に仕立てるのだ。

 われらはひとつの海鳴りである、冷たさあたたかさ、ぬらすのであり、蒸発するのだ。

 かつてわれらは腐敗する物Jの腐敗の円環運動を脱落し、さらに自虐的に蒸発へと歩いてきた。それはわれらの抑圧された飛翔慾の燃焼行程である。

われらの飛翔慾は、ほかならぬ水によって規制されてきた。

 かたちに従順な水は、それなりに多くのかたちを内包していたのであり、かたちのひとつにすぎない《慾望》もまた水に内蔵されていた。水をみつめていて、ふいに襲ってくる、腋の下や膝の空疎感は、ゆえなきことではなく、それは飛翔慾の肉体的な覚醒であり、追体験である。われらはここで、ついに葬り去られることのなかった飛翔慾の核としての自らを発見する。

 飛行は、腐敗あるいは蒸発を鳥瞰する構造である。

 酷寒の二月、北陸の海は浴槽のごとく朦朦と湯気をあげ、飛行する物Oは、腋の下のようにうすく汗ばんでいる。上昇気流の澄明さ、痴呆じみた楽天性のただ中から、物Oは、引揚げられることのない《死》を見ている。われらが水によって規制されたように、物Oは飛行の構造の裡に探くとざされ、なおかつ、ある〈もの〉への浸透を余義なくされている。

 しかし、飛行する物Oの水性は、われらの最後の自由のひとつであろう。われらは、苦痛や悲哀によって手をぬらすことができ、ぬれた手は、この大気の中で花のように咲き誇りさえするのだ。

 水のまわり道を、あくまでも遠まわりに氷河期へと遡行しつつ、飛行の構造は無限にうずくまる。



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