閉じる


<<最初から読む

18 / 26ページ

section 14

一撃なり

 

() 鉈ははじめささやかな風であった。

 風は、思い切るように敷居をまたぐと、土間のなかほどで、たちまち縄とともになわれた。怨念は、ないつがれ、框を越え、裏庭にぬけて納屋にはいり、ひとりの男を吊るすまでに至った。男は右に左にゆっくりと揺れた。縄から、風のみが解きほぐされていたにちがいない。揺れる部分を剥ぎおとすと、在るべきところに鉈はたしかに残った。

 刃のかがやき、彼女のあの《白っぽいもの》の全体が、この一閃光ではなかったか。

 男は納屋から母屋に引返して行った。かれは、いままさに人間の姿をまっとうしている。

 握りしめたもののがんぜない重み――生れたばかりの小さめの赤ん坊はどの重み――が、かれの不浄な妻の脳天へと移し置かれた。

 ただの一撃だった。

 

*刃渡り六寸五分、柄の長さ一尺五寸。先端に通称トビという突起がある。地面などにあたった際、刃がかけるのを防ぐためである。

 


 

 

section 15

ひかる納屋、錆びた人

 

 

 だれもその納屋を見おとすことがないように、生えのびる指はただちに刈りとらねばならなかった。そして、ただいっぽんの指のみが、いくらか屈折した細い野の道と、そのはてに建っている納屋とをさししめすことができた。

 おんなはていねいに礼をのべ、納屋をめざした。彼女の背は祝福されていた。

 納屋の柱や梁が、おんなの従順な垢で光り、彼女の骨が発するような体臭を放ちはじめた。そして納屋は、納屋自体の熱量の歴史をもって、自らの指紋を彫るまでになった。雪にすっかり覆われてしまっても、雪の上か、あるいはそのあたりの青空に、かすかにだが、指紋が見てとれるのだ。(殺人者は、ある日、唐突に指紋の縁辺に生じ、その狂気が雪を掘った。納屋は見通せた、が、男の姿は、まだだれの目にもとまらなかった。)

 納屋の年輪は、あの寸劇に比して、大きくゆるやかに、大地を、大地にすがりつくものたちを、ゆるがしていたにちがいない。納屋はすでに巨大な不幸を張りめぐらしていた。だから納屋は、それに輝きをもたらしたおんなや、そこからまっすぐ罪科へと歩み出た男を忘却することなく、かといって、かれらのあまりに塵芥じみた存在にわずらわされることもなく、さらに素朴な砦となりえたのだろう。

 清潔な、狂いのない風に、糸状の幾筋もの窓がほつれていた。つまり、それは板張りのわずかな隙間なのだが、光は、さらに遠く脱出を試みて、やせおとろえた触覚をゆらめかせていた。納屋はものの背後のための全的な支持であり、そこに在りながら無しとされる<もの>の、最後の結晶である。それらは、たんなる光としてしか外へ出ることがなく、しかもつねに不幸の内部にとどまっている。

 いまや納屋は、光の巣ごもりの気配にみちていた。納屋の外には、視力の衰えたおんなの眼が、さめたギンナンのように黄いろくころがっていた。

 おんなは、何にむかって腹這っていたのだろう、雨をたっぷり含んだ崩れやすい何かの岸辺だったか、彼女自身なかば腐りかけた棒杭のようなものだった。

 おんなは目をあげた、すでに考えられる視線ではない、失望したり、わが娘を抱きしめたり、ましてや過去の不貞をたどる視線ではない。


 だが彼女は、もう一度、視た。白っぽく光るもの、納屋から持ち出された、いまそこに在るのではない〈もの〉を。それを初めて視たとき、彼女は、自分の耳の生えぐあい、首のねじれようが、以前とまったくちがっているのを感じた。それは自在にすべての物音を聴きわけることができた、それは自在にもののありさまが確認できた。納屋の中のあの〈もの〉たちと、やっと平等な存在を克ちとった……

 おんなは最後の血をふりしぼった。いかにしても破壊されることのない執着があれは、鏡の中の頭部は、まだ完全な一個なのだ。彼女は、もう一度、視た、自分のうつくしい横顔を。


section 16

兇器Lについて

 

 

 

 《手》を消す。

 兇器・物Lの最終的な目標は、《手》を消すことである。

 道具の、《手》への侵襲は、われらよりもはるかに孤立するだろう。

 《手》を消すことは、兇器の道具としての復権であり、それにはまず《手》から離叛することだ。すでにあったものへと回帰することだ。これから起ることは、これまでになかったことである必要は、まったくない。もし、それをする勇気さえあれば、すでにあったことを、そっくりそのまま繰り返すのだ。それが道具である。妻殺しから、納屋の隅へと遡行し、ふたたび納屋から母屋へ妻を殺しに……。それは、兇器から道具へのより良き道であるだろう。あるときふいに妻殺しを断念するかもしれないのだ。

 ル・クレジオはつぶやいた、《理由はあとからやってくる》

 われらはこれをさらに劇しく正確に銘じなけれはならない、理由は永遠にわれらに追いつくことがない、と。

 われらは、理由とのかくも頑な訣別を、反古にしたりしないだろう。手や夢へ、夜闇にまぎれて帰って行ったりしないだろう。

 兇器・物Lは、あらゆる理由の《手》から巣立つのだ。

 兇器・物Lの飛行の構造から、生爪のように、そらが、空間が欠落するだろう。飛行から存在へ、体温から納屋へと、物Lは旋回する。空想は歩き出せない、飛行の構造にあの《白っぽい》時間がこみあげる、空想は汚物でいっぱいだ。

 物Lの飛行は、いっそう音楽へと接近するだろう。そして、ピアニストのそれのように、《手》は一個の音符へと解消されるだろう。

 (われらが手を失ったのではない。手がわれらを見限ったのだ)

 それからのち、物Lは、われらの行為の構造として、鈍く光っているにちがいない。


section 17

みずどりのみず

 

 

 死臭は小さな漁船だ。ほんとうの漁船について、ぼくは何も知らない。漁船が魚を追って、波にひらひら舞っているという、ほんとうの海をぼくは知らない。

 ぼくが知っているのは、あなたがた家族が、ぼくのなかで漁船になったこと。あの夏、太陽がじりじりと近づき、漁船が《白っぽく》ひかり輝いていたこと、屍体は陽灼けしないこと。

 ほんとうに、あなたについて何も知らず、死臭はひどくなるいっぽうだ。

 漁船がゆれ、吐潟物のあふれる空想をかかえて、ぼくは揺れた。そして……水鳥が水から飛立つ。

 風の球を左右にゆっくり押しやる翅がのびきると、ちいさい頭部が撃たれたように上向く。嘴はやがて炸裂する弾丸だ、するどくとじて、もう眼の前を飛んでいる自分の幻影にふかくくいこんでいる。くいこんだ部分が水鳥の空白となる。幻影と実体の重複が水鳥の飛行を支える。翅はいまや流れる水だ、幻影を押し流し、実体を曳航する、翅はいまやひかりを砕く水の熱だ。水中に巻き起る風が、倒立した樹や岩肌を燃やしたなごりが、翅を熱くする。火の粉が舞い、樹脂がしたたる、落下への熱望が水鳥の眸をくらくする。暗い眸は浮力を鎮める錘だ、同時に車輪だ。回転運動が水鳥の上昇角度を宥め、そらはさらに青へと没頭している。空白は空間の盲目、盲目の速度が水鳥の意欲、意欲はいまそらの青さと合致している。青が走る、追う水鳥は水だ、虹のような飛行が風の球を細分化する。気流ははるか下方を濁らせているにすぎない。水鳥は気流にのらない、すでに頭部は石化し眸は錘だ。   翅は押し寄せる風の素粒子を左右に押しかえす水平に流れる水だ。水源地の鼓動が風を裂き、過剰な水をしみこませる、水鳥の極限の軽さは発光するほどだ。和毛はすでにひかりだ、距爪をふかくつつみこんで、ともに窒息したひかりだ。

 水鳥が水から飛び立つ。かれを拘束してきたいっさいの水から飛立つ。

 幻影はぬれて重い。ちいさな頭部が下向き、水鳥は嘴から炸裂する。それから実体の緩慢な下降がはじまる。空間の開眼が水鳥を呑む。射程距離での恍惚が翅を静止させる。意欲はいま地上の銃口と合致している。



読者登録

ワニ・プロダクションさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について