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その内部の動向を慮ることなく、仮に、《.》が納屋を抽象しているとして、はたして、《.》と納屋の距離は、《.》とも納屋とも見えるとき、そうとは見えないものの側からすれば、それこそ永遠ともいえる距離であるだろう。

 その距離にあって、血迷わない《.》や納屋はない。

 そんな納屋から、あるいはピリオドから、兇器となりえぬ〈もの〉を引き出すのは、かえって困難である。〈もの〉は、それぞれの延長線が交わる地点では、それぞれ威嚇的にしか現前しえない。兇器は、不安の解体によって生じる副次的な〈もの〉の、瞬間への野生的倫理的な君臨である。兇器による生命への大いなる譲歩が、そこに苦悩のない安らかな肉性をもたらすのである。

 その濃縮された大気の影に、いまこそNaya-と呼びかけるだろう。すると納屋は熱を帯び、節ぶとの未発達な手をびくりとさせる。だからふたたびはNaya-と呼びかけてはなるまい。納屋は、あたりを見まわして、それから慄然としてNaya-になりすますからだ。呼びかけた者への殺意が、納屋の中で、そのときこそ確かな〈もの〉となるからである。


section 13

吊るされて腐敗するもの納屋にあり

 

 

 納屋は、腐敗の円環運動の中心に位置している。そこでアメンボのように静止している。アメンボは毛髪であり、ごくささいな気分の転調にも敏感に反応し、おおきくたわんだりするが、その脚は地中ふかく根ざしている。アメンボをめぐる空間もまた破裂寸前まで膨脹し、その天辺にはうすく雲がたたなわっている。アメンボはさらに、その空間の底に沈んで佇つ、かすり傷である。それはガラス壜のひびのような不透明な小枝にところどころ輝く結晶を実らせている。それを啄みにくるものもあるが、小枝の湿潤性は、そのものをもぬかりなく結晶化してしまう。このかすり傷が、病巣の納屋を予感させる。(かれは村を出る朝、なんとはなしに納屋に立寄り、戸をあけてのぞいてみた。かれには何も見えなかった。そして村を出た。)

 雪の音いろのような糸で、腐敗は当初、吊るされていたのだろう、その感得不能な重量が、ヨリをもどすはずみとなり、ヨリがもどるにつれて腐敗は円環運動を獲得していったのだろう。アメンボの脚のあわいで腐敗の圭角がとれ、無数の真球となって回転速度を増していく。やがて納屋が渦巻状の空間として姿を見せはじめる。

 納屋じたいは、嫌気性菌が酸素を避けるように、腐敗のただ中にあって孤立している。腐敗の表面的な様相が地形図を呈していたり、ダイヤグラム状の線条を浮き出たせたりするのは、そのまま腐敗の旅への憧憬を示している。(数カ月後、村へもどって初めて納屋へはいったとき、かれは、自分がいったい何のために何を手にすべきか、一瞬、忘れてしまったのた。それから、バイタ、とかれは呟いた、バイタ!)

section 14

一撃なり

 

() 鉈ははじめささやかな風であった。

 風は、思い切るように敷居をまたぐと、土間のなかほどで、たちまち縄とともになわれた。怨念は、ないつがれ、框を越え、裏庭にぬけて納屋にはいり、ひとりの男を吊るすまでに至った。男は右に左にゆっくりと揺れた。縄から、風のみが解きほぐされていたにちがいない。揺れる部分を剥ぎおとすと、在るべきところに鉈はたしかに残った。

 刃のかがやき、彼女のあの《白っぽいもの》の全体が、この一閃光ではなかったか。

 男は納屋から母屋に引返して行った。かれは、いままさに人間の姿をまっとうしている。

 握りしめたもののがんぜない重み――生れたばかりの小さめの赤ん坊はどの重み――が、かれの不浄な妻の脳天へと移し置かれた。

 ただの一撃だった。

 

*刃渡り六寸五分、柄の長さ一尺五寸。先端に通称トビという突起がある。地面などにあたった際、刃がかけるのを防ぐためである。

 


 

 

section 15

ひかる納屋、錆びた人

 

 

 だれもその納屋を見おとすことがないように、生えのびる指はただちに刈りとらねばならなかった。そして、ただいっぽんの指のみが、いくらか屈折した細い野の道と、そのはてに建っている納屋とをさししめすことができた。

 おんなはていねいに礼をのべ、納屋をめざした。彼女の背は祝福されていた。

 納屋の柱や梁が、おんなの従順な垢で光り、彼女の骨が発するような体臭を放ちはじめた。そして納屋は、納屋自体の熱量の歴史をもって、自らの指紋を彫るまでになった。雪にすっかり覆われてしまっても、雪の上か、あるいはそのあたりの青空に、かすかにだが、指紋が見てとれるのだ。(殺人者は、ある日、唐突に指紋の縁辺に生じ、その狂気が雪を掘った。納屋は見通せた、が、男の姿は、まだだれの目にもとまらなかった。)

 納屋の年輪は、あの寸劇に比して、大きくゆるやかに、大地を、大地にすがりつくものたちを、ゆるがしていたにちがいない。納屋はすでに巨大な不幸を張りめぐらしていた。だから納屋は、それに輝きをもたらしたおんなや、そこからまっすぐ罪科へと歩み出た男を忘却することなく、かといって、かれらのあまりに塵芥じみた存在にわずらわされることもなく、さらに素朴な砦となりえたのだろう。

 清潔な、狂いのない風に、糸状の幾筋もの窓がほつれていた。つまり、それは板張りのわずかな隙間なのだが、光は、さらに遠く脱出を試みて、やせおとろえた触覚をゆらめかせていた。納屋はものの背後のための全的な支持であり、そこに在りながら無しとされる<もの>の、最後の結晶である。それらは、たんなる光としてしか外へ出ることがなく、しかもつねに不幸の内部にとどまっている。

 いまや納屋は、光の巣ごもりの気配にみちていた。納屋の外には、視力の衰えたおんなの眼が、さめたギンナンのように黄いろくころがっていた。

 おんなは、何にむかって腹這っていたのだろう、雨をたっぷり含んだ崩れやすい何かの岸辺だったか、彼女自身なかば腐りかけた棒杭のようなものだった。

 おんなは目をあげた、すでに考えられる視線ではない、失望したり、わが娘を抱きしめたり、ましてや過去の不貞をたどる視線ではない。


 だが彼女は、もう一度、視た。白っぽく光るもの、納屋から持ち出された、いまそこに在るのではない〈もの〉を。それを初めて視たとき、彼女は、自分の耳の生えぐあい、首のねじれようが、以前とまったくちがっているのを感じた。それは自在にすべての物音を聴きわけることができた、それは自在にもののありさまが確認できた。納屋の中のあの〈もの〉たちと、やっと平等な存在を克ちとった……

 おんなは最後の血をふりしぼった。いかにしても破壊されることのない執着があれは、鏡の中の頭部は、まだ完全な一個なのだ。彼女は、もう一度、視た、自分のうつくしい横顔を。



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