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section 9

発育する死、つまり生鮮な腐敗について

 

 

 腐敗の円環運動から、運動そのものを抽出してみるならば、そこには、発育ざかりの死が連鎖反応式に共棲している。腐敗する物Jの陽気な一面〈臭気〉は、これらの乳くささであり、自己中心主義の暈を競っておしひろげている。臭気は層を重ねながら、物Jをつつみ領野を拡大していくが、発育ざかりの死は、その自立性を物Jの中枢に確保している。そのため、死の発育につれて、腐敗運動は物Jの外殻へと反転する。波における水の上昇運動に酷似しているが、物Jがじっさいより膨脹してわれらに感受されるのは、波の高みを頂点とする感受性の硬化癖のためである。しかも腐敗は進行するとわれらは錯覚する。しかし、錯覚ほど十全にわれらを納得させるものもない。

 ところで、こうした運動のさなかに、物Jのかつての生鮮さが復活したかのような随所の反応を見逃すわけにはいかない。

 死は、定位置から無数の方向へ同時に歩みだす。一方、この多彩な指向性のなかには、はじめから定位置をめざす死がある。それこそが《無表情》である。これを生鮮さの核といえるのは、死‐無表情ゆえのとまどいがわれらを襲い、つぎにわれらをしてとまどいを死‐無表情へ反射させているためである。周囲の決然たる指向性のなかにあって、とまどいは、無目的な形相を帯び、それゆえにかえって放浪という動向をわれらに予感させる。それは、生鮮な物Jへの帰家本能であり、発育と死を短絡させる物Jの記憶像である。

 とまどうわれらもまた雄大な腐敗の風景である。


section 10

兇器の生成

 

 

 そのとき曲線は陥穿そのものの連続的な運動である。

 それは、自らをおとしめることによってわれらの前に現れ、われらのすべての直視と、直視されるすべての〈もの〉とを妨害してきた。われらはなにものをも凝視しえない。あらゆる〈もの〉は絶えずわれらの眼前から逃れ去る。

 しかし、兇器・物Lの空間的限界を確認する困難さは、その運動の自閉症的な性格のゆえではなく、むしろ、積極的とさえいえる流亡性にある。兇器・物Lは、たんなる道具から転落すると同時に、感性あるいは倫理性の具現として、独自の《手》を獲得するのだ。だからいかに流亡とはいえ、孤立することはなく、物Lは、物もでない〈もの〉につねに癒着している。

 こうして物Lは、陥穿群のうちに弧をえがき、たとえば物M、たとえば《納屋》のごとく現象する。

 それは因習の納屋だ。物Lは、この病原体に紛れこみ、兇器として培われ洗練される。そしてやがて風媒花のように流れ飛び、選ばれた者の頭部へふりおろされる。


section11

ひとと称する最悪な事故

 

 

 わたしは見ていたのでしょうか、見ること見ないことの選択すらままにならないときに、それは風景じたいが盲目であり強制的でありしたのですが、わたしにはただ拡がりも奥行きも漠然とした《白っぽいもの》でしかありませんでした。

 風景の側からすれば、わたしの存在は、拡がりの中のひとつの突堤、奥行きの、とある暗渠、あるいはそれらしきものの影でありえたでしょうか。距離をもつ契機として、風景から凝視されはじめていたでしょうか。

 視力は、白っぽいものの涯から、《白っぽいもの》と表現しうるそのことのように、あの突堤を越え、暗渠をくぐってやってきたのでしょうか。

 それは、《白っぽいもの》でありつづけました。視力から記憶へと焼きつくまでには、およそ数十日を要したのでしょうが、その日日に、わたしの周囲の人びとは、顔つきからそぶり、はては声までも変ってしまったらしいのを、わたしは一種の音楽的雰囲気として記憶しています。このことを映像のうちにもちこたえているためには、わたしは少なくとも歩けるほどに成長していなければならなかったでしょう。あれらの人びとの転落にしたところで、歩行なしにはありえなかったのですから。

 それにしても、あれらの人びとが、なお人間のからだつきをしていたというのが、わたしには奇怪でおそろしいのです。もちろん、わたし自身は自らの形についてまだ知る由もありませんが。

 

 さけび声は聞きませんでした。あの音楽的なものにかき消されたのか、それがあまりに瞬時のことで、声を出す遑いとまもなかったのか、わたしにはわかりません。

 ながいあいだ、雪の白さを記憶しているのだと思い込んでいました。そこへ朝日か夕日かがさしこんで、わたしはまともに光を浴び、顔のなかがすっかりまっ赤に染まって……。

 でも、それは障子の白さであり、母の血しぶきが飛んだのでした。

 


 

 

 

section 12

〈もの〉はしばしば威嚇的にしか存在しない

 

 

 これまで一度たりともNaya-と称ばれたためしがない。とりたてて納屋らしくないというのではない。よほど天候がわるくないかぎり、あたりには白色レグホンやチャボがうろつき、ときにはザーネンが教頭つながれていたり、鼬や野鼠がかけぬけたり、近所のこどもがはいりこんで、仲間に外から鍵をかけられ泣きさけぶこともある。ごくあたりまえの納屋である。いや、あたりまえすぎて、もっと気体にちかい、濃縮された大気がそこに影となって泛かびあがった、といってもいい。

 引戸の扉は、人を寄せつけぬ醜悪な木目を、露骨に、しわがれたようすで浮き出させている。漆喰には無数のまなさしが塗り込まれ、落着きなく脈打っている。それらがたがいに好戦的に反目しあっているのだ。

 納屋ぜんたいの暗澹たる様相、冷酷無慚な仕組の数かずが表面化したような肌ざわりは、そこへ片付けられる〈もの〉の宿命をそのまま物語っている。〈もの〉たちはふたたび陽の目を見ることなく忘れ去られる事態に甘んじなければならない。なぜなら、納屋そのものの存在が、多々、忘却される性質のものだからである。Naya-でも納屋でもない、まさに空無のままに放置されるのである。火災や洪水によって、ある日、意識は明確に納屋をとりもどすだろう。

 それにしても、納屋が《.》(ピリオド)にしか見えない位置からでも、納屋と見てとれるという、ある種の自大な確信についても、いたずらに否定はできない。ただし、より正確には、《.》としか見ようとしないし、見たくないのだろう。それは、再三にわたって確認されなければならないような、熱意や、熱意に内蔵されるすべての偶像を、納屋は破壊し排斥してきているからである。

 しかし、《.》としてそれが見えるとき、見る者はその肉眼についての過信からして見誤ることば断じてあるまいが、納屋は、《.》としての納屋は、見る者に対してその位置が正当かどうか、見られている位置を全うしているかどうか、不安なのにちがいない。その核ともなるべきひとつの《.》、自らを収斂すべく物質的な窖あなぐらについて、納屋はなんら規律や計算式をもちあわせてはいないのである。そこに持ち込まれる〈もの〉の配置の不文律が、納屋ぜんたいに浸透しているのかもしれない。


その内部の動向を慮ることなく、仮に、《.》が納屋を抽象しているとして、はたして、《.》と納屋の距離は、《.》とも納屋とも見えるとき、そうとは見えないものの側からすれば、それこそ永遠ともいえる距離であるだろう。

 その距離にあって、血迷わない《.》や納屋はない。

 そんな納屋から、あるいはピリオドから、兇器となりえぬ〈もの〉を引き出すのは、かえって困難である。〈もの〉は、それぞれの延長線が交わる地点では、それぞれ威嚇的にしか現前しえない。兇器は、不安の解体によって生じる副次的な〈もの〉の、瞬間への野生的倫理的な君臨である。兇器による生命への大いなる譲歩が、そこに苦悩のない安らかな肉性をもたらすのである。

 その濃縮された大気の影に、いまこそNaya-と呼びかけるだろう。すると納屋は熱を帯び、節ぶとの未発達な手をびくりとさせる。だからふたたびはNaya-と呼びかけてはなるまい。納屋は、あたりを見まわして、それから慄然としてNaya-になりすますからだ。呼びかけた者への殺意が、納屋の中で、そのときこそ確かな〈もの〉となるからである。



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