閉じる


<<最初から読む

7 / 26ページ

section 6

家族がそれぞれ射程距離内にいれば

 

 

 かれも、ときには猟に出た。

 夕食前の無味乾燥なテーブルに、まだぬくもりのありそうな獲物をどさりと置く、すると俄然、家じゅうが活気づく。かれは満足する、死臭がたちのぼるなか、やつらが射程距離にはいってくる!

 しかし、あれをはたして《猟》といえたろうか。たしかに銃の重さは腕から肩へ緩慢な速度でながれ、肩をまろやかに、背ぼねへむけて横すべりに落ちるのだが、背にひろがりながら、銃としての実感は希薄になり、銃とかれ自身との境界を曖昧にしてしまう。背から腰へ、脚へ、そして爪先に至って、その重さは何のものともつかず、かれを大地に釘づけにしているのである。

 銃の眼に、はじめ幾本かの灌木が立ちはだかっては沈み、やがてゆらゆらとひとりの男がこちらに向って歩きはじめるのだ。

 かれは、あの種の倦怠を憎んだ。小動物のくせして、人間づらをさげているのだ。かれは、近づいてくる者を憎みぬいた。(……あの擬態を、なぜ愛嬌といってはいけないのだろう、装うことで自らを敵にひきわたす無邪気さを、なぜ……)

 その直前の大気のまばゆさに、視界が引金に集約されるやいなや、標的はその意味を引落し、羽根や尾、飛行や疾走、いっさいを投げだしてしまうのだ。かれはすくみあがる、いま生が地上一・五メートルの高さのなめし皮をつんざき、のどもとの小さな空洞をつらぬいて、そのままとある小枝にからみつく。かれは吊るされた、殺される者は、その一瞬をしか生き得なかったのだ。かれはぶるんとひと跳ねした。

 バスの中のかれは土のいろをしている。節ぶとの指で小鼻の脂汗をぬぐうと、呑みこむ呼吸は海の味がする。だがここは、海からははるかに遠い野の道だ。


 

section7

死者が編む籠の中には

 

 

 祖母はわたしの耳に、あのつるっと皮がむけるような息を吹きかけました。祖母の打ち明け話には、いつもその背景に納屋があり、すべりの悪い戸があいたり閉じたりしていました。あけたのはまちがいなく父です。しばらくして閉じに行くのは、だれだったのでしょう。

《あれは、納屋の空気を入れ換えるくらいのできごとだった!》

 堅い空気の舞台で、がらくたは少しばかりの光と闇とに囲繞されていました。腐敗するものなど、ひとつだってありはしませんでした。あるとすれは、堅い空気そのものにちがいありません。

 醜聞は、あの戸が閉じられるたびに町にあふれたのではないでしょうか。閉じに行ったのは、だれだったのでしょう。


《密通》に蝕まれたのは、わたし自身でした。それがわたしの生理でした。死者はむしろあまりに靭くしなやかなので、籠が編めました。籠にはいくらでもわたしの生を摘むことができました。清潔な竹べらがいくつもわたしに向けられていました。

 あれが納屋の空気を人れ換えるほどのできごとなら、いっそ納屋の戸を取りはずすべきなのです。

 ぎっしりと並んだ鳥居のように、表情のむこうにいくつもの表情が透けてしまうので、可笑しいのです。ときにはわたし自身の顔が映っているものと錯覚して身ぶるいしたり。たしかに祖母は《無表情》へとかぎりなく接近していたのです。ただひとつ、それが生き延びる方策であるかのように。けれど、それも祖母の《密通》にほかありません。祖母は、わたしを共犯者に仕立てるつもりだったのです、おまえも知らん顔をしてるんだよと。

 わたしにはついに《無表情》を理解できませんでしたけれど。

 吐き気をこらえてかしいだ納屋でした。納屋の周囲をめくるめく速さでかけめぐる影が、納屋の昏倒を防いでいました。

 その棚から一丁の錠を消すことは、納屋をいくらかでも現実離れした存在に置き換えたかもしれません。殺意にかられた父はすでに鳥でした。わたしの母の頭部は、鳥の巣であったわけです。


 

section 8

回転家族の食卓

 

 

 

 蝿がえがく曲線の円心へむかって、テーブルは現象する。この多角的な、縁辺の不明瞭なテーブルの不潔さかげん!

 腐敗する物Jは、ゆるゆると翼を伸ばしはじめた。飛び立つにしても、どこへ?

 蝿の無目的な飛行が択びとったテーブルの形態は、火災のごときものであったために、無限な融通性を備えていた。食事をとる家族のうしろ姿は、どれも火急でありながら、かつ、いまや生を断念したかのように動じない。かれらもまた蝿だからだ。

 腐敗する物Jは、テーブルの形態や蝿の属性とはかかわりなく、いかなる手、いかなるまなざしをもはねかえし、むしろ積極的に潔癖である。それは、絶えざる発熱、あれからこれへ、ここからそこへの、色彩の移行、におい、かたちの変遷、退行のうちに、あの融通性とは明らかに対立する独断の姿勢を保つ、誇り高き腐敗である。


 物Jの表情を、われらは、しばしばまのあたりにし、それを物Jのすべてであるかのように解釈するが、発熱から発汗への音階的過程に捉えられ呑みこまれた結果の、われらの判断の愚昧さをこそ、飛び立てぬ腐敗とみなすべきである。

 すなわち、《無表情》という表現が迫ろうとした表情のまえにあっては、われらは何者でもない。無として、なおかつ、《見る・見た》という屈辱、むずがゆさ、嘔吐感を背負いこむ。

 だが、はたしてそれが事実だろうか。

 事実は断じてこのようなわれらの思い入れを許しはしないだろう。嘔吐さえも、われらの慾望に根ざしているのだ。

 しかるに事実へのわれらのいとけない秋波は、それを《見ない・見なかった》として、屈辱、むずがゆさ、嘔吐感をこらえる必死な自己欺瞞に自らを幾重にも呪縛するのである。

《無表情》が限りなく接近するところの表情が、腐敗する物Jの一瞬の現象を示すにとどまり、あのテーブルの淫乱でさえある融通性が蝿の属性にとどまるならば、それらに共通する限りのなさとは、死の存続を立証する〈時〉の諧謔にほかならない。《無表情》とは、われらの存在形式のひとつである。腐敗する物Jの仔、淫乱な者たちへの愛の配分が物Jの独断と誇示であり、われらは、ここで頭を垂れ、ひざまずく、どこへ、どこへ? と。



読者登録

ワニ・プロダクションさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について