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「どうしたの?」
頭上から声がして、ぼくはゆっくりと顔を上げた。

ぼくの正面に現れたその人の後ろから夕日が差し、男とも女とも分からない黒いシルエットがぼくの顔をニコニコと見つめている。
オレンジ色の夕日がまぶしい。

―― 答えられない。ぼくはどうしていたんだろう?

幹線道路沿いのガードレールにもたれ、枯れかけた草地にペタンと座り込んでいるぼく。
周囲を見回すと、近くに子供用の自転車が一台倒れていた。
「あれは君の自転車かい?」
「そうかな?そうかも…」

ぼくはゆっくりと立ち上がると、その自転車の側へ行った。
黒い少年用の自転車は車体が歪み、前輪のタイヤがはずれかけている。  
あちこち壊れて、もう乗れそうにはない。
サドルの下のバーに、黒いマジックで「たけだゆうき」と名前が書かれていた。

「ああ!ぼくのだ。どうしよう、ママに怒られる」
ぼくの顔に血が上り、カーッと赤くなるのを感じた。体が震える。ママは怒るとすごく怖いんだ。
パンクした時もかなり怒られたんだもの、こんな事になったと知ったら、ひっぱたかれるかもしれない。

「ママは自転車が壊れると怒るの?」
「怒るよー。これ去年の誕生日に買ってもらったんだ。まだ一年乗ってないんだもん。どうしよう…」
いっそ、盗まれたってウソをついてしまおうか。
「ウソをついて後からバレたら、余計面倒な事になるよ」
ぼくはその人を涙目で見上げ、ウン、と小さく返事をした。あれ?ぼく、今のこと口に出したっけか?

「とにかく、もう暗くなるから帰った方がいいよ。自転車はそこに置いておけばいい。誰も盗ったりしないだろう」
「うん…そうだね」

ぼくは何となく、その人と連れ立って家に帰る事にした。


「君の家はあっちの方?」
その人が指さす方、コンクリートの無骨な橋の向こうにマンション群が見える。
「そう。あのマンションの東側の七階に住んでるんだ」
「じゃぁ、近道して行こう」

その人とぼくは、途中の交差点を右に渡ってのんびり歩いて行く。
あれ?真っ直ぐ歩いた方が近いんじゃないのかなぁ。このまま行くと、全然方向違いなんじゃないのかなぁ。
ぼくは、ぼんやりと頭の中で考えていたが、やはりぼんやりとした頭で、その人の事を信用して付いて行った。
その人は、何となく黒っぽくてフワフワした感じがした。

「おや、大きい病院があるねぇ」
道の左手に、大きな総合病院が見える。
「この街で一番大きい病院だよ。えっと、きゅうきゅうしてい何とかって言うんだって」
「入った事あるの?」
「前に従兄弟のお兄ちゃんが階段から落ちて足を折った時、ここに入院したんだ。お見舞いに行った時ね、他の従兄弟と探検したんだけど、すごく広くて中にコンビニとか色々あって面白かったよ。」
「そうかい。結構込んでるんだねぇ。車が一杯だ」

その人は病院の門の前で立ち止まり、ちょっと嫌そうな顔をしていた。
門の向こうは広い駐車場で、そこを越えると正面玄関がある。
ぼくもつられて門の前で立ち止まり、何となく駐車場の車を見渡した。
その中の黒い車に見覚えが有る。

「あれぇ?あの車、ぼくんちの車じゃないかな」
「君の家の車が有るの?」
ぼくは小走りで駐車場に入り、黒いハッチバックのリアウィンドウを指さした。
「ほら、この車。ステッカーが貼ってあるでしょ?子供が乗ってますって。これ、ぼくが小さい頃からずっと貼ってあるんだ。それに…」
ナンバープレートを確認する。
「うん、間違いない。これパパの車だよ。でも、仕事中じゃないのかなぁ。何でここに有るんだろ?」
「誰かのお見舞いに来てるのかもねぇ。ちょっと寄ってみようか。パパがいたら一緒に帰ればいいよ」

そうだ、それがいい。パパに自転車の事、なんてママに謝ったらいいか相談してみよう。
ぼくはちょっと元気になって、勇んで病院の正面玄関へ向かった。

ここの病院は本当に広い。
玄関ホールは待合になっていて、天井から沢山の案内板が吊り下げられているけれど、難しい漢字ばかりで、どこに行ったらいいのか全然分からない。

その人は、ふわりと浮かぶように総合窓口の方へ歩いて行く。ぼくはホールを行き来する患者さんや見舞い客を眺めていた。時々、人の形をした影のようなものも混じって見えるけど、あれは何だろう?
ぼくが、その影のような物を目を凝らして見つめていると、あの人がそっとぼくの肩に手をかけた。
「あんまりジロジロ見ちゃいけない」
「あ、すみません」
ぼくはちょっと恥ずかしくなり、下を向いて謝った。

「入院病棟の三階に居るって」
え?誰がいるんだろう、パパかな。何となく聞きそびれたまま、その人と一緒にエレベーターに乗った。
エレベーターを降りると、白くてピカピカの廊下が無機質に続き、個室のドアが並んでいる。ここは何だか薬臭いし、冷たい感じがして、あんまり好きじゃない。
その人は、何の迷いも無くゆったりと歩いて行く。しばらく歩いた所で立ち止まり、そこの個室のドアに手を掛けた。

「ほら、ここだよ。入りなさい」
ぼくは促されるままにドアの前に立った。ドアの脇に表示されている、入院患者の名前がチラリと見えた。「竹田…」ウチの親戚が入院してるのかなぁ。
スッとドアが開き、ぼくはその人に優しく背中を押されて中に入った。

ベッドの周りにパパとママがいた。おじいちゃんとおばぁちゃんもいる。みんなでベッドに寝ている人を囲み、悲しそうな顔をして黙りこくっている。ベッド脇の椅子に腰掛けたママは、ベッドに突っ伏すようにして肩を震わせている。疲れた顔をして、ヒゲも剃っていないパパがおじいちゃんに話しかけた。

「命に別状は無いはずなんですが、意識が戻らなくて。さすがに三日も経つと…」
おばあちゃんがハンカチを出して顔に押し当て、何回も何回も涙を拭いた。
「大丈夫、大丈夫。元気が取り柄の子だもの、大丈夫…」

おばあちゃん、何であんなに泣いているんだろう。元気が取り柄の子って誰の事?
ぼくは音を立てないように、そっとベッドに近寄って、寝ている人の顔を覗き込んだ。
頭に白い包帯を巻いて鼻から下が透明なマスクで覆われている、ぐっすり眠り込んでいるように見える男の子。

―― ぼくだ。

ベッドの頭側の壁に、入院患者の名前が表示されている。「竹田勇気」

ぼくの名前。

あれれ?ぼくは入院している夢を見ているの?それともぼくが誰かの夢なの?あの人はどこ?あの人を目で探そうと振り返った時、ふっと周りが見えなくなり、なんだかクラクラして思わず目を瞑ってしまった。

もう一度目を開けた時、頭がすごく痛かった。それにお腹がペコペコだ。変なの。さっきまで何ともなかったのに。
横を向くと、涙に濡れたママの顔が見える。
「ママ、ぼくお昼ご飯食べたろうか?」
ママは目を見開いてぼくの顔を見つめ、わっと泣き出した。
「勇気の意識が戻った!」
パパが慌ててベッド脇にある、ナース・コールのボタンを押した。おじいちゃんとおばあちゃんが泣きながら笑っている。

ぼくはベッドで寝ていたぼくになった。

あの人を探そうと、体を起こそうとしたら、みんなに抑えつけられてドアの方を見ることが出来なかった。
体のあちこちが痛く、ぼくはみんなと一緒に泣いてしまった。

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ぼくには、はっきりとした記憶が無いんだけど、自転車に乗っていて、後ろから来た車にはねられたそうだ。
それで、すぐにこの病院に運ばれ、頭の手術を受けた。手術は成功したのに、どういうわけかぼくの意識は戻らなかった。お医者さんは色々な処置をしてくれたけど、どうにもならず、ただただ三日間、眠ったままのぼくを皆で見守り続けたらしい。

頭の手術の経過を見る為、当分の間は入院しなければならないそうだが、それ以外は全然大丈夫。ママはすっかり優しくなって、自転車の事は触れずに、ぼくが退屈しないように小さいラジオを持ってきてくれた。でも面白くないんだよね、ラジオって。

「漫画が読みたいな」
「もう何日かしたらね。まだ寝てなきゃダメ」
「あ~あ、つまんないの。前に健ちゃんが入院した部屋、テレビが有ったよねぇ。何で、この部屋に無いの?」
「あんたは当分テレビなんか見ちゃいけないのよ。怪我に障るの。大人しく寝てなさい」
「ちぇっ」

する事が無いので、ついベッドの左手にある窓の方を見てしまう。
窓のすぐ先に、太めの電線が何本も建物と平行に並び、風にあおられて揺れている。その電線の一本に、ちょっと細めのカラスが一羽舞い降りた。
こんなに近くでカラスを見たのは初めてかもしれない。
翼の色は、よく観ると真っ黒ではなく、青紫色の光沢を帯びた複雑な色合いだった。
窓越しに、向こうのカラスもこっちを見つめている。人間なんか怖くないのかな。

「いやぁねぇ、病院でカラスなんて…」
ママも、そのカラスに気づいたらしく、眉をひそめて窓の方を見ていた。
「そうかな?意外とキレイだよ」
「頭もいいって言うけど、そこがまたねぇ」
ママが洗濯物を片付け始めた。もう帰るのかな。

「あ、そう言えば…」
片付けの手を止めて、ぼくに向き直った。

「あんたが事故にあった次の日にね、ウチのマンションの駐車場でカラスが一羽車にはねられたのよ。
まだ生きてて、羽が折れてバタバタしてたのね。はねた車は行っちゃうし、どうしようかと思ったんだけど、あんたの事があったから何だか可哀相になってね。
そこにいたら、また車に轢かれちゃうかもしれないし、気持ち悪いけどティッシュで羽を包んでさ、そこをつまむようにして持って、植え込みの花壇の上に放してやったのよ。そしたらね…」
怪談話みたいに、カラスの羽をつまむ様子を気味悪げに再現するから、何だかぼくも怖くなってきた。

「上の方でバサバサ音がするから、何だろうと見上げてみたら、もうカラスが一杯集まってきてたの!ほら、植え込みの所に大きな松の木が二本あるじゃない?あの木にたーくさん、カラスが降りてきて皆でこっちを見てるのよ」
「それは…すごく怖そう…」


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