だけど、日本の製造業、特にその道の"匠"がいるようなところは違う。たとえ、公差±0.3mmと設定されていたとしても、匠はど真ん中を狙って、公差±0.1mmくらいの部品を作ってしまう。それも、殆ど全数にわたってその精度で仕上げて納品してくる。
だから、同じ公差±0.3mmの図面を渡しても、方や公差ギリギリの何時トラブルかも分からない部品が納められ、もう一方は、同じ値段、同じ納期で、本当は何倍もの値がするであろう超高精度の部品が納められることになる。
中には、あまりにその加工精度が凄くて、世界でその人しかつくれない匠だって、日本には沢山いる。たとえば、埼玉で辻谷工業を営む、世界一の砲丸作り職人である辻谷さんが作る"辻谷砲丸"もそのひとつ。辻谷さんの砲丸づくりに掛ける情熱には、日本の匠のプライドがある。
辻谷さんは13歳で働きはじめ実に60余年のキャリアを持つ超大ベテラン。その探究心にはすごいものがある。辻谷さんは、16歳から4年間夜学に通い、機械・製図・実習を学ぶ傍ら、同級となった30代、40代の大人から社会のいろいろな話を教わったという。そして、26歳で独立。東京オリンピックでは障害走用のハードル作りで頭角を現し、やがて砲丸づくりに取り組むことになる。
砲丸の国際規格は直径110~130mm、重さ7.265~7.285Kg。ところがこのとおりに作るのは実に難しい。砲丸を作り始めた頃は、重さをターゲットに作ると直径が収まらず、直径に狙いをつけると今度は重さが合わない。夏と冬では大きさが違ってくるし、作る度に違った出来になると述懐している。
辻谷さんが偉かったのは、鋳物工場に作り方が悪いんだというのではなくて、逆に鋳物工場に修行に出たこと。鋳物づくりから見直してみようという思いからだった。
鋳物工場で修行するうちに、溶かして湯状にした鋳鉄の底に沈んでいる部分には比重の重い不純物がたくさん混じっていることに気づく。
そこからがまた凄かった。150個の砲丸を吹いてもらい、ひとつひとつに番号をつけて、同じ大きさに削ると片端からデータをとっていった。すると最初から30個くらいまでは重さに変化がなかったのだけど、40個、50個と次第に重くなり、100個から150個でははっきりと重くなっていったことが分かった。
こうした研究を延々と続け、砲丸の砂型に流し込む湯口と底とではかすかな違いがあるとか、熱された鉄球の冷却速度によっても違いが生じるとかのデータを集めていったという。更に、砲丸を削りだす作業においては、砲丸の中心と重心がずれないように、ひとつひとつ削り方を変える。その加減は、削るときの音や削った表面の金属のツヤで判断しているという。機械ではまったく対応できない匠の技。こうして砲丸の中心と重心が一ミリも狂わない世界最高唯一の辻谷砲丸が出来上がる。
唯一というのは、他の誰にも同じことはできないということ。
辻谷砲丸は他のメーカーのようにペンキなど塗っていない無色の仕上がりなのだけれど、これが唯一無二の砲丸の証明になっている。他のメーカーは砲丸は、砲丸の中心と重心をのズレを最終的に合わせこむために一度作ってから、中をくり抜いて鉛を詰めて調節している。ペンキはそれらを隠すために塗っている。
そんな辻谷さんの技術をアメリカの大手スポーツメーカーが買いに来た。技術を教えてライセンスをくれといってきたのを辻谷さんはきっぱりと断った。そこには職人の探究心とプライドがあった。「この砲丸をつくる技術はわたしだけのものじゃない。砲丸づくりにはたくさんの人が協力してくれました。それをお金で売ることはできません。」と。
こうした匠たちが作り出す部品精度に支えられた日本製品の信頼性が低かろう筈がない。日本で実績十分の部品の図面をそのまま海外に持ちこんで、現地のメーカーに作らせても、そりがあったり、バリがあったりして、後で問題になることも多いという。同じ図面を使って、同じ部品をつくって、同じ機械を組み立てたとしても、同じ性能が出ないというマジック。その秘密とは何だろうか。
一個の部品だけをみれば、公差の範囲内であったとしても、公差ギリギリの部品が何万個と集まれば、全体の歪みは相当なものになる。だから、部品1個の公差といっても、その値は、装置全体を組み上げたときを想定した上での値でなくちゃいけない。
ところが、今や、その公差の値が必ずしも装置全体の動作を保証するものとは限らなくなってきているという。その理由の一つとして、激しい競争の中、コストダウンを迫られる設計者が、少しでも設計コストを安くあげようと、公差の検討時間を端折って、既存製品の公差の流用を行なうケースが増えている実態がある。
確かに、既存製品の設計公差を流用すれば、その分だけ設計期間は短縮できることは間違いない。だけど、それをいつまでも繰り返していたら、どういう理由でその値に公差が決められたのかという根拠が失われ、技術力の低下を招くことになる。
何年も前の公差を、今でも何の検証もなく当たり前のように使い続け、その結果、出来上がった製品の性能が出ないなどのトラブルに見舞われることだってある。
また、年々進歩する加工技術に対して、加工現場と設計者との間で、公差に関する情報の交換・共有がうまくいかなくなってきている問題もあるという。
ある加工メーカーの技術者によると、昔と違って、今はCADデータだけを送ってきて、一言の説明を受けることもなく加工しなくてはならない状況になっているそうだ。
現代の製品は、何十枚何百枚もの図面が集まって漸くひとつの製品になるのが普通。だから、部品単体の公差とて、その製品全体の設計を把握した上での値でなければならない筈なのだけれど、今では、個々の部品を担当する設計者がそれぞれ別になっていて、誰が公差を検討すべきなのかが明確にならないという問題を抱えている。
今や、日本の製造業においてさえ、不十分な公差設定であっても、それがまかり通っている現実に直面している。
あるメーカの設計者は、公差について、「出来上がってきた部品の精度が悪いと、発注先の技術力が低いんだと決めつけていた。しかし実は、図面通りの部品である場合も多かった。国内の優秀な加工業者のおかげで、不十分な公差設定でも物が出来上がっていたため、勘違いしていた。」と述べているところをみると、これまで難なく製品が動いていたのは、実際の部品を作る日本の加工業者が、図面の公差以上の精度を持つ部品を納めていた部分に追うところが大であったのだと思われる。
この公差でいいのだと設計者に勘違いさせてしまう程の日本の「匠」な加工業者達。彼らの存在なくして日本の製造業はない。
公差の魔術は日本人だからこそ使うことができる。
海賊版対策とIpadの中身
公差は使い方によっては、海賊版対策にもなる。海賊版、所謂コピー商品は、普通、コピー対象にした製品を手にいれて、分解し、中の構造や部品を調べ上げて、それぞれの部品をそっくりに作って組み立てることになるのだけれど、当然それらの部品の寸法は入手した製品を実測した値を基準にすることになる。
だけど、いくら実測したからといって、その値はその部品単独の値に過ぎず、設計寸法に対してどれだけズレているのかまでは分からない。コピーする者が手にいれられるのは買えば手に入る実物製品のみであって、図面ではないから。図面がないと設計寸法も分からないし、無論、公差なんて分かる筈もない。
そこで、公差設計をきちんとして、各部品それぞれが公差をきちんと守らないと、動かないような設計をした製品があったとしたら、その製品のコピーは非常に難しくなる。公差を守らないと動かない製品をコピーしようとしたら、図面を盗み出すか、入手した製品の部品の寸法に対して、公差ゼロの部品を作るしかない。
唯一、統計的に大よその公差を割り出すという手がなくは無いのだけれど、公差を統計的に出そうとしても、何百何千と同じ製品を買っては片っ端から部品寸法を測るしかない。折角海賊版を作って一儲けしようと企んでいるのに、そんなことをしないと作れないようでは全く割に合わない。
長野県諏訪市に本社を置く、半導体製造装置メーカーのアスリートFAは、それまでの誤差補正用の調整機構を取り外し、公差設計をきちんとやることで目標性能を出せる目処をつけ、コピー製品の被害を防ごうとしている。