目次
若き日の自分
それが夢ならば
アンコントローラブル
MZ-2000の頃
ここじゃないどこかへ
千葉工業高校の頃
夢中! 熱中! MSX2
ゼッパチ人間の過去・現在・未来
プログラマになるべきか
社会人になって
出てけと言われたその日から
ダリアの花散るとき
はじめての機械設計(1)
はじめての機械設計(2)
エディトリアルデザイナー
瞬きもせず
目覚めの朝、午前5時
ナナゼロ世代のこれから
思索と模索の日々
デジタルネイティブ
恐慌突破!
倒産したら、どうする
とほほな中小企業
これはもうダメかもわからんね
神様がくれた最后の5分
時には母のない子のように
アラフォー世代の挑戦
ブレイクスルーしたくて
謹賀新年2009
応用情報技術者試験
セミナーを受けに行きました
サーチエンジン 小説大好き!!
小説 個人情報の住む街
能動的に生きるということ
勉強嫌いの勉強法
浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んで行く
サバイブするということ
仮想自営体験
自営するということ
自己観察 ―セルフモニタリング―
ハチロク世代がやってきた
なぜコンピュータにこだわるのか
JWNTUGの頃
人生の踊り場で小休止
拝啓 15歳の僕へ
90歳のミスター
自分をメンテナンスする
ワークライフバランス
花の生涯
2010年はチカラを温存する年に
謹賀新年2010
思索と模索の果てに
勉強嫌いな学生の皆さんへ
応用情報技術者試験、その後
これから製作所
ハッタリのススメ
中小企業が守っていない企業経営の基礎
ギスギスした職場への処方箋
選手からコーチへの転身
タクシードライバー
デイ・ドリーム・ビリーヴァー
関東と関西の境界線
10年前に、クラウドがあったなら
輝く人になりたくて
工業高校生の就活について(1)
工業高校生の就活について(2)
糖尿病 ―40歳からの警告―
後に続け青春たちよ
小説を始めました
工業高校生の夏休み
校舎の外の世界では
快適!! 朝型生活のススメ
ルック・アジア型にシフトしよう
幸せって何だっけ
連載2周年 書き始めた動機について
最近思うエトセトラ
気合いだ! はどこから来ているのか
PHPビジネス新書『伝える力』/池上 彰
Twitterに違和感を覚える人々
「させていただきます」の濫用
Windows 7 のHDD換装は超簡単!!
電子書籍の奔流
隣の芝生が青く見えた時
休筆のお知らせ
最近思うエトセトラ Part2
MSX PLAYerに寄せるノスタルジー
プログラミングの現場で『もしドラ』を生かす
ソニーの電子書籍 Reader を試してみた
Outlook 2007 で、KB2412171のアップデートをされた方へ
母校の恩師、クリティカルシンキングを語る
神奈川県座間市の電脳書房さん
近況報告 64bitパソコン導入など
ソーシャルメディアがたこ焼きを変える
最近思うエトセトラ Part3
東北地方太平洋沖地震
SPAMはSPAMであってspamにあらず
マイクロソフト スマートビジネスセンター 景品当選!!
呼吸をするように、自然にものが書けるようになればプロ
日本語という言語を極めたい
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目覚めの朝、午前5時

 冷たい冬の夜空を肌で感じるこの時期。思い出すのがつらいけど、震災のことです。……まず、無事に生かされた、という事実に感謝しなければなりませんね。幾千の風になって、犠牲者の魂が神戸の空を今も包んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

■阪神大震災発生 震度6強の兵庫県尼崎市

 平成7年(1995年)117日、午前546……。尼崎市北部の住宅で……。ドーン!!ガッシャ、ガッシャ、ガッシャ……。母親が何故か、僕を素っ頓狂な声で慌てて起こしに来ました。

 「あんた、揺れたん分かっとる!? 地震やで!! 地震!!」「へ?」……寝ぼけ眼の僕は「へ?」としか言いようがなかったのですが、仕方なく起き上がって懐中電灯で照らすと、食器棚の硝子や食器が砕けて粉々になっていました。テレビやパソコンは後ろから蹴飛ばされたように、配線によって辛うじてぶら下がっていることが分かりました。夜が白み始めると共に、電気がつかないこと、ガスが点火しないことが分かりました。

 電話はランプが明滅していてダイヤルが出来ない状態に陥りました。携帯電話なんて気の利いたものもなく、当時は一部のPHS業者があっただけで、携帯電話よりポケベルが一般的に主流でした。「災害用伝言ダイヤル171」もなかった時代のお話です。電気が復活したのは午前72……。その後も瞬間停電を繰り返して……

 家の掃除をして、取りあえず会社に行かなければいけないのですが、南へ下る道路上に、山陽新幹線の高架橋が落っこちているような有様。他に家族もなく、母親に何かを食べさせないといけない、何かを飲ませないといけない。まずは水を確保するために、近所の大規模災害避難所の小学校に行きましたが、ゴミ箱に汚い葉っぱが浮いた水しかなかったのでお話にならない。

 2級河川「武庫川」の河川敷でバケツに水を汲んだのですが、そこへ陸自のヘリコプターが飛んできたので、バケツを持って空に合図を送りました。合図は届いたのでしょうか……。川の水だって、余り衛生的ではない上に、自転車に乗せるとふらふら揺れて全て路上にこぼれてしまう……。我が家では、当時の映像記録は、午前7時からのNHKニュースとして録画しています。見返す度に、胸が痛みます。

■灯油用18リットルのポリタンクを求めて、京都・滋賀方面へ

 近所のスーパーは耐震判定がつかないので、この先ずっと休業。阪急電車で塚口に降り立つも、スーパーが開く気配ゼロ。十三で乗り換えて、阪急京都線方面へ。琵琶湖(大津市)に行くことまで想定してお金とクレジットカードを用意したのは良かったのですが、阪急淡路、茨木市、高槻市のスーパーもポリタンクが悉皆(しっかい)売り切れている模様でした。

 何とか長岡天神までやって来たものの、駅前でポリタンクを売っている気配がしないのです。おそるおそるコンビニの店員さんに聞いたところ、「郊外に金物屋さんがあるので、そちらへ行かれてみれば」といったお話。こんな日でも阪急タクシーは営業をしている……。事情を説明して、金物店へ向かうのでした。

 ハイヤー然としたクルマの到着に金物店店主は驚いた様子。「なんと、尼崎から来はった!! ささ、いま京都から仕入れたばかりのポリタンク、好きなだけ持って行きなはれ」「……あのー、何で僕がポリタンクを買うって知ってるんですか」「いやあ、午前中に神戸ナンバーのクルマが大挙して押し寄せて来たよってに、それで」「……

 駅のホームで、ポリタンクに「阪急の水」を汲む田所。阪急の駅員にもかなり目立ち、向かいのプラットフォームで駅員同士のヒソヒソ話が絶えなかったのですが、もはやそんな恥や外聞を気にしている場合じゃないのです。武庫之荘では水がまるで出ないのです……

 震災で一番困ったのが水の確保でした。奈良県五條市の給水車、京都府向日市の給水車、そして自衛隊の給水車……。並べども並べども、ここでおしまい。また行列。そして本日はこれにて給水終了。それでは困るので、仕方なく、地図上で最も近い浄水場を探すことになりました。兵庫県伊丹市の千僧浄水場でした。伊丹市水道局のおじさんが待機しており、「あのー、尼崎市民ですが、給水よろしいでしょうか」と問う25歳の僕。「ああ、黄色いタンクの下に蛇口がついているから、そこから」「ありがとうございます」「それから、このアルプスの天然水も持って帰りなさい」「え?いいんですか?」「困った時はお互い様やから」。……見ず知らずの人間にくれた水もさることながら、くれた義理人情がとてもうれしくて、感謝感激でした。

■田所救出作戦と、通信制高校と印刷会社のその後

 印刷会社の営業部では、いつまでたっても出社せず、連絡の取れない田所が心配になって、「田所救出作戦」を発動しようとする動きがあったそうです。一応、連絡をして良かった……。また、通信制高校からは「通学路ががけ崩れ、校舎及び校庭が損壊。通学するには危険を伴うので別途指示あるまで自宅待機」、次いで「平成7年度(4年次)の単位はすべて災害につき免除」というお知らせの郵便が届きました。通常なら「ラッキー」と喜ぶのでしょうが、ニュースで再三報道されている神戸市長田区の状況を見ていたので、それどころではない、死者を悼む気持ちが、まず先に立ちました。

 会社は全壊。3階からトイレの下水が漏る。悉皆パソコンのCRTは床に落ちている。活版印刷部門は活字が崩落して再起不能。総務部長の書類棚から割れた硝子を拾う作業を手伝って、その日は仕事なし、といった状態でした。

 その後、単位制の青雲高校は卒業。3年次で学級副委員長、4年次で学級委員長を務め、復興間もない神戸市長田区の文化祭でバザーを行ったことで成功に導きました(学校特別賞を受賞)。北海道産じゃがいもの箱を、宅急便で3箱、学校に送ったのが利いたかな。そうしてやっと、平成83月に84単位を取って卒業できました。通常に比べ、4単位オーバーだったのです。おかげで再び「自律神経失調症」で県立病院に通うことになったのですが……

 また、印刷会社では、新社屋を建てようという動きがあって、実際に「エメラルドグリーン色」の小綺麗な建物が建ち、組版システムもMacEdian PLUSが導入され、僕自身も震災間もない神戸に行き、兵庫県印刷工業組合のDTP講習を受けに行ったのですが、その後の経営はうまく行かず、平成121月には働ける人から(僕も)解雇、そして平成124月には倒産の憂き目に遭いました。ちなみに今は、その「エメラルドグリーン色」の建物は、印刷とは全く関係のない、おまんじゅう工場になっています。


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

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ナナゼロ世代のこれから

 1970(昭和45)年は、日本万国博覧会 EXPO70が開幕された年でした。万博のコンセプトは「人類の進歩と調和」。この時代の雰囲気としては「建っていくぜ団地!!」「産まれるぜベイビー!!」「売れてるぜマイカー!!」……といった景気が右肩上がり、いわゆる「いざなぎ景気」の時代でして、「モーレツからビューティフルへ」や「ディスカバージャパン」といったキャッチコピーがもてはやされた時代でした。

■あれから約40年「人類の進歩と調和」は実現したのか

 あの頃、誰しも夢に描いていた、SFのような21世紀。その青写真は「人類の進歩と調和」でした……。いざ、21世紀になってみると、むしろ「人類の頽廃と牽制」といったような有様でして、あれとこれとを混ぜて行う「硫化水素自殺」だとか、資本主義に抗い、一切の消費をしない「サイレントテロ」だとかは、当時、想像もできなかったでしょう。鉄腕アトムが生まれたはずであろう年を過ぎても、これといってSFライフらしい兆候は微塵も見えず、ただただ、通勤電車の中で、疲れ切った僕ら世代がいるだけです。

■ナナゼロ世代のこれまで

 1970年生まれのことを、ここでは「ナナゼロ世代」と呼びましょう。いわゆる「団塊ジュニア」のことです。ナナゼロ世代は幼児期を高度経済成長期に過ごし、何でも買い与えられ「1人っ子」「鍵っ子」と呼ばれる世代でした。小学生からすでに「教育ママ」に尻を叩かれ、名門校へのアタックコースを歩まざるを得ませんでした。周囲のみんなは、友達というよりも、むしろライバルであり、ライバルを蹴落とし、蔑むテクニックを要求されました。今よりも「私立中学校」への進学熱が高く、競争に次ぐ競争でした。

 それだけ頑張って勉強したのに、20歳代に入る1990年代前半には「円高不況」「バブル崩壊」の憂き目に遭い、バブルのうま味も知らないまま、空前の「買い手市場」になり、街角には映画「就職戦線異状なし」のテーマソング『どんなときも。』が流れているような状態。会社は次々と倒産や合従連衡を繰り返します。また、人材派遣法が改正されると、それまで「正社員」と「アルバイト」しかなかった雇用環境に「派遣」の2文字が付け加わりました。そこで「正社員になるための競争」「正社員と派遣社員とのバトル」が展開され、職場は冷戦状態に。

 30歳代になると、インターネットとクライアントOSが普及し始め、産業構造の大転換を迫られてしまいます。それまでの常識が一切通用しなくなり、旧態依然とした産業は淘汰され、競争は国際間でボーダレスになり、今度は、顔も見たこともない外国人労働者と、雇用や仕事のパイを奪い合うようになりました。また、既存の商習慣も大きく変わり、店舗を持たないネットビジネスが盛んに用いられるようになりました。店舗型営業がバタバタと倒産していき、無店舗型営業が勢力を増してきました。

 そんな「ナナゼロ世代」が、もうじき40歳代を迎えようとしています。競争に次ぐ競争で疲弊した身体に、自身の老化と、かつて「モーレツ社員」や「教育ママ」だった親の介護がのしかかってきました。かつての「教育ママ」は「後期高齢者」と呼び名を変えて、子供のスネをかじり始めました。疲れも限界です。「親の子殺し」「子の親殺し」などという物騒なニュースは日常茶飯事になり、世代間のカネの奪い合いはやがて「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」に代表されるような事件へと発展していきました。

 ふと、気がつけば、競争に追いまくられた「ナナゼロ世代」には、定年までの残り時間があと20年程度しか残されていないことに気付き、焦ります。また、若手の台頭で、再び世代間の競争に追いまくられる「ナナゼロ世代」がいて、ゲームの攻略にも似た、それまでにない難しい「正社員雇用」のゲームが始まり、ついに「ナナゼロ世代」は世を悲観して死を選ぶか、世を悲観して子孫を残さないか、かつての「モーレツ社員」や「教育ママ」をせっせと「姥捨て山」(介護施設)に運ぶ作業か、世捨て人になって「競争を拒絶」せざるを得なくなってきているのです。……このような人生を過ごして、疲れが出ない訳がないでしょう。

■ナナゼロ世代のこれから

 僕としては、情報技術に何らかの形で関わって行きたい反面、それに拘泥したくもない、それに振り回されたくない、という気持ちでもあります。現在、いくつかの金融機関が「農業法人への融資を拡大する」といったニュースも聞こえてきます。たまに、ラジオなどで耳にする「帰農」への動き。それは果たして「疲れ切った日本人への福音」なのか、それとも単なる「サラリーマン減らし」なのか……。政府が、それとはなしに「田舎暮らし」を勧奨する背景には、やはり「飽和した都会での人減らし」、つまりは「棄民」の意図が見え隠れしていて……そこらへんは警戒しています。

 実際、僕のハンドルネームが「田所稲造」なので、ここはいっちょ、農業法人を建てて、文字通り「田の所で稲を造る」人間になってみても悪くはないかな、という気にも、時々ではありますが、そうさせられます。病気になりやすいから便利な都会を選ぶのか、便利な都会にいるのでストレスから病気になりやすいのか、そのどちらかは、まだ判然としませんが(苦笑)。


眼鏡を外し、森の中で、これからを、よーく考えてみる図


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

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デジタルネイティブ

 システムエンジニアは、まるで鉄道員に似ているなあ、と感じるのです。お客さんからあまり見えないところにいても、お客さんと深くかかわるし、手を抜いたらダメ。情報も鉄道も同じインフラストラクチャなので、止まっては困る。なので、インフラストラクチャ分野のエンジニアは、なくてはならない存在だと思うのです。

■デジタルネイティブとは

 「デジタルネイティブ」とは、20081110日、午後10時より、NHK総合テレビで放送された(ちなみに僕はラジオのNHKジャーナルを聞いていて見逃した)テレビ番組です。公式サイトから引用します。

 インターネットが一般の家庭に普及するようになって10余年。子どものころから、インターネットを「水」や「空気」のように使いこなしてきた「デジタルネイティブ」とも言うべき若者たちが登場している。「13歳でインターネットを駆使して起業し全米中の注目を集める少年」「ネット上に200カ国の若者が参加する"国際機関"を作り出した若者」「仮想空間で仕事を請け負って月に5000ドルを稼ぐ高校生」……。デジタルネイティブは、「自ら情報を発信し共有することで成立するネット・コミュニティ」を自由自在に使い、見ず知らずの人々と瞬時につながって、次々と常識に縛られない「価値」を生み出している。アメリカでは、既存の価値観や従来の組織のあり方に捕らわれない彼らの考え方や行動力が社会をどこに導くのか、詳細な研究も始まっている。番組では、台頭しはじめたデジタルネイティブの素顔に迫り、世界のデジタルネイティブから寄せられた動画も紹介。世界を変える可能性を秘めた若者たちの""を多角的に見つめていく。

 ……ここで大阪の方向からツッコミ。「欧米か!!」(笑)。

■デジタルネイティブは、切符を買った乗客に過ぎない

 デジタルネイティブな彼らは、たとえば「電車が何であるかを知っている」「電車を生まれた時から使っている」「電車を上手に乗り降りすることができる」だけの話であって、内部的にどんなギアが使われているか、どんなモーターで牽引しているか、電圧は何ボルトで、耐荷重は何トンで、軌間は何ミリで、整備状況は……ということを、ほとんど気にしないで、単に「便利な乗り物」として使っているだけです。我々が整備した鉄軌道の上を走る、我々が整備した電車の座席に座っている、単なる「切符を買った乗客」に過ぎないのです。

 マニアックに「電車」について語ることができても、我々エンジニア目線とは違い、あくまで「電車マニア」の域を脱していないのです。だから混同して欲しくないのは、鉄道マニアと、鉄道員とは厳然として違うというところです。純粋に情報インフラを楽しむお客さんと、日夜、情報インフラを守るエンジニアとでは、緊張の度合いが違います。インフラは動いていて当たり前。ちょっとでも止めたら、お客さんからガミガミ怒られる。ここへ来て、情報技術者と鉄道員とが、だぶって見えてきました。

 だからひとこと言ってやりましょう。「デジタルネイティブの分際で威張るんじゃない」ってね。「お前らに情報インフラの何が分かる」ってね。胸を張って言いましょう。「僕たちは、インターネットができる前から、情報技術者だったんだよ」って。

■デジタルネイティブは「銀河鉄道999」の若い乗客たち

 一方で、デジタルネイティブには、新しい商習慣を生み出すチカラがあると思うのです。新しい分野を開拓する、年齢や国境を超えて商売をする、といった面においては、ベンチャーの立ち上げ方の新しい手法として、アタマのCPUが古い日本の「ベンチャー融資担当のおじさまたち」に、もっともっと見習って欲しいところです。

 例えば、「不動産担保ローンという発想をやめる」「小中学生にもお金を貸す」だとか、そういうことをもっともっと考えて欲しいのです。年齢や社会階層を超え、純粋に新しいビジネスに対して価値を認め、自由な商取引ができる。デジタルネイティブたちの活動に期待するのは、大人が作り上げた「悪しき既存の商習慣」に抗って、ぜひともブレイクスルーして成功して欲しいというところですね。

 もし、それら事業を本気で成功させたいのであれば、おぢさんは「デジタルネイティブ」が走るための線路を、現場でしっかりと守るよ。おぢさんは、君たちの夢に向かう電車を頑張って走らせるよ。今の情報インフラストラクチャが、それら「新しい商習慣」を切り開くのであれば、おぢさんは君たちのために「特等席」を用意するよ。ただし、生半可な気持ちで始めるのであれば、容赦なく「途中下車」してもらうけれどもね(笑)。

 その昔、「銀河鉄道999」というアニメがあったことを思い出しました。主人公「星野鉄郎」はまだ若い少年でした。仮に、デジタルネイティブ世代が「星野鉄郎」だとすると、インフラストラクチャ系システムエンジニアは「銀河鉄道の運行責任者」なのかも知れないですね。


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恐慌突破!

 20081116日、テレビ東京系で放映された「日経ビジネス」とのコラボ番組を見ました。我が国の企業活動は、実はとんでもない速さで変化し適応しようとしている、そんな姿を垣間見た思いがします。昔の人は言いました。「カネがないなら知恵を出せ、知恵がないなら身体を使え」というふうに……

■恐慌突破とは

 アメリカを震源とする世界的な経済危機は、確実に日本の実体経済に影響を及ぼし始めている。原油価格は下落したものの、3~4年前に比べればいまだ高い水準を維持したまま、原材料や食糧価格の上昇基調と世界的な景気後退が重なれば、インフレと不況が同時に進行するスタグフレーションになる懸念もある。企業は売り上げが伸びない中でコストが上昇して利益を圧迫され、消費者は賃金が上がらない中で生活必需品などの価格が高止まりして家計が圧迫されてしまう。この厳しい現状を克服すべく、いま求められているもの……それは「知の転換」「イノベーションの創造」である。

 以上、公式サイトより引用しました(テレビ東京日経ビジネスオンライン)。

■求められる発想の大転換

 例えば、電球を高輝度LEDに変えたら、イカ釣り漁船はどうなるのか。原油高の中、自動車部品の輸送をトラックから鉄道貨物に変えたら、調達コストと速度はどうなるのか。10円、1円単位で品物を見定める、家計を預かる主婦が増えているスーパーマーケット店内。仮にビール醸造業と調味料メーカーが手を組んだら、売り上げの相乗効果はどうなるのか。ファニチャー小売店が、貿易事務を自社で取り組んだら、原材料の仕入れまで自社で取り組んだら、節約効果が出て、販売価格をどれだけ値下げ出来るのか。地球に優しく、ガソリンも食わない宅配便システムは「人力輸送」だった……などです。

■いま、ハードディスクの値段が安くて大容量なのはなぜ?

 そして、情報技術者から見て注目したい点が、レアメタル産業です。目を付けたのが、ハードディスクの円盤上に「記録密度向上用」に蒸着しているレアメタル「ルテニウム」。円盤状のルテニウム金属板(レコード盤大の1枚がおよそ200300万円)は、ハードディスク用のアルミ板への蒸着を繰り返して行くうちに、表面がまだらにへこみ、均等に蒸着できません。

 今までならばルテニウム金属板は、半分程度消費した段階で廃棄処分になっていました。考えると実にもったいないですね。これを再利用する手立てはないのか、ということで、金属再処理業者が考え出したのが、ルテニウム金属板の再生利用です。ルテニウム金属板を、粉末にしてから溶かして「ある秘伝の技術」を使って固めると、新品同様のルテニウム金属板が完成します。

 この技術で世界シェアの20%分のルテニウム金属板を再生産している……。この結果、金属相場におけるルテニウムの価格はここ数年で一気に下落。「レアメタル」から、普通の「メタル」になったわけです。製法の秘密を守るため、特許切れや氏名の公開を恐れて特許にすら出さない。技術者が誰だかも社内では秘密。従業員の中で誰がその技術を握っているのかも一切不明……。さらに経営者は、既に廃棄処分になったパソコンのハードディスクからも、ルテニウムを回収しようと未来を考えているのです。これには参った。

 皆さんのハードディスクの表面が平滑できれいなのも、容量がギガ単位になっていったのも、じつは、情報技術者でも何でもない、この人のおかげかも知れませんね。


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これはもうダメかもわからんね

 いまよく言われる「エンジニアのうつ」ですが、僕はそれは、まだまだ甘いと感じています。なぜなら、僕はある会社にて「統合失調感情障害」(ICD分類:F25-9)に罹患し、まる5年間もの長い間、病院通いになったからです。さすがに自我を失うほど狂ってはおらず、現在でも薬の量は少なくなってきましたが、それでも服薬を欠かしません。このように、胸をふくらませて入った新しい職場は「名ばかり管理職」ばかりの、「サービス残業」だらけで、もう、どうしようもなかったのです。

■中小SIerの残酷  ~デキル奴から潰される~

 ここで、僕の人生は大きく変わります。サーバーを立て、メンテし、クライアントマシンの面倒もネットワークも全部面倒を見ていたのですが、メンタルヘルスについて、全く配慮していない職場でしたので、後々酷く後悔することになるのです……

 前置きしておくと、ここはインターネットの民間求人サイトで紹介されていた会社。なんか、雰囲気が良さそうだと入社したら、まずはじめに知らされたのはOJT期間がゼロだということ。同期の営業社員5名が、入社後わずか5日で全員辞めました。既存営業社員のレベルの低さと、支給されるパソコンの質の悪さや人間関係などからだと思われます。

 現に、営業社員が僕に「ああ、真面目くんね、君は10カ月コースだよ」と言う有様。当時は何のことやらさっぱり分からずにいましたが、後で考えると、要するに「君はこの会社の中で、せいぜい続いて10カ月程度だよ」ということです……

 また、営業の中には「エンジニアを頼らなくても自力でできます」という人と、「エンジニアなしではパソコンさっぱり分かりません」という2タイプの営業がいました。後者の場合、たとえば「田所さん、LANの口がノートパソコンにありますから、複写機をネットワークプリンタ代わりに使えますよ」と言ってくるので、その心づもりをして現場のパソコンを見ると、それはLANの挿入口ではなく、電話線のモジュラージャックだったりするのです。お客さんの手前、本日中に作業を完了しないといけないので、愕然となり、営業担当に「急いで買うて来い!!」と命じるなど、非常に単純なローテクな部分に対するコピー機飛び込み営業部員へのストレスをほぼ毎日強く感じていました(君たち仮にも大卒なんだから、もう少し勉強すれば分かりそうなものを)。

■これはもうダメかもわからんね

 始業は本来午前9時ですが、自分は午前7時~8時にはかならず出社していました。マネージャがひとり忙しくしている手前、早出をせざるを得ない精神状態に追い込まれました。午前中は主にイントラマシン(社内用パソコン)のリカバリ修理と電話対応。

 たとえば「お前んところのパソコン、めいで(故障して)もたやないか、どないしてくれんねん」といった主にお叱りの電話、クレーム対応。しかも、自動車で例えれば「自損事故」を「ディーラー」に言ってくる始末。レベルの低い顧客、何かと自分が購入したパソコンに難癖を付けて何か無料サポート、無料サービスを得ようとする「たかり」や「やから」行為の顧客が多く存在したのもストレスの要因の1つでした。普通、自動車の自損事故をディーラーの所為にはしませんよね……

 午後から定時までは、まず電話の受送話。アポイントメントを取るなど。それよりも、電車・自動車などを使って訪問修理に赴くことが多かったです。その場でパソコンやファイルサーバの障害が解決できる場合と、何度も訪問して故障の原因を探る場合、時には深夜間に及ぶ場合がありました(その場合、同僚の課員を助けたり、逆に助けを乞うたりしたことがありました)。

 その後、営業や同じ課のマネージャから明日の仕事を頂戴する、相談する、今日の仕事について報告するなどがあり、特にマネージャについては、次第に嫌みに接してくるようになり(原因は不明)、常に不機嫌な状態が続きました。こいつに、自分の仕事を取られる、とでも思っていたのでしょうか……

 定時から深夜間(17:3023:30)については、その日の残務整理、書類作成、午後に問題解決できなかったパソコンやサーバーのリカバリ作業などを45時間行いました。それが何台もあると、1日では手に負えない面が出てくる。その場合はお客さんに謝る電話やメール、FAXなどを入れることが毎日のようにありました(修理が遅延します旨)。

その場合、大阪市営地下鉄御堂筋線や阪急神戸線の終電には間に合っても、市営の終バスを逃す場合があり、国道や県道を駅から数キロ歩いて帰宅することも月に34回はありました。睡眠時間は数時間を切る毎日でした。代休なしの休日出勤は当然で、サービス残業は、もちろん日常茶飯事……というか「常態化」していました。

 時に指揮命令(相談?)は予告なしに営業サイド(同フロアのCAD営業)から突然やってくる時もあり、たとえば京阪京橋駅で同時に4つの案件がバッティングして「身体が4つ欲しい!!」と感じること、それと同様のこともちょくちょくあり、パソコンの操作を遠隔操作で指示して、うまく故障が解決できる場合と、そうでない場合があり、それも神経を害する1つの要因になりました。

 前触れは「酷い頭痛」でした。13回服用で効くはずの頭痛薬が、やがて4回や5回や6回に増量し……しまいには薬局の人に「腎臓を壊しますよ!!」と注意されるぐらい呑んでいました。

 
原因は後で分かったのですが、僕は緊張性頭痛を通り越して、首の靱帯が両側、付け根から3センチ程度の範囲にわたって「軟骨」になり、それが首から上の筋肉に影響を及ぼしていた、という理由で「緊張性頭痛」を引き起こしていたのです。ある日、腰の痛みで通った整形外科で、首のレントゲンを見せられた時には、たいへん驚きました。


■会社を辞めさせていただきます


 退社のきっかけは、営業車がなくて、車幅感覚の不慣れな大型のバンを運転することになり、途中のパーキングエリアでR水産のクルマにかすり傷をつけてしまったことから、インターチェンジで待ち構えていた警察にはすぐに出頭しました。その後、誠意を持ってR水産工場に手土産を持って謝りに行きました。そのとき、僕はかなり疲れていました……


 その後、毎日のように根掘り葉掘り重箱の隅をつつくような質問がマネージャ、次長より浴びせられ、嫌だと言ってもこちらへ座れと言われて仕事の進め方について詰問されて神経にダメージが来ました。「お前には向いていない」という言葉もプライドに触りました。


 後日、次長(マネージャの上司)から「コピー機の飛び込み営業へ行くか、会社を辞めるかの二者択一」を迫られ、その頃はかなり神経にダメージが来ていたので、一度保留し、大阪市のメンタルクリニックにかかり、辞めるべきか辞めざるべきかを相談しました。結果、「会社が悪い、辞めなさい!!」と言われ、その通りだと思い、有給休暇を全部消化してから、720日付けで依願退職しました。


 後に地元職安から自己都合会社都合退職が認められ、300日ぶんの失業給付を受けることになりました。ノイローゼが公的に認められたのは、平成15722日付けで、当面の間は国民健康保険や生活保護で通院することになりました。


■破産・免責・雇用保険そして生活保護へ


 平成15年の晩夏。カード会社と個人ローン会社からの借入金が500万円を突破し、退社と同時ぐらいに弁済不能に陥りました。カードローンで借りたキャッシング枠を半分ずつ、うまいことやり繰りして自転車操業していたのですが、それも退職によって無理が生じて……。銀行系でありながら、クレサラなみに電話はかかってくる、脅迫めいた電報はやってくる……。皆さん、銀行系といえども、借金は借金。借金取りからの催促が怒濤のように押し寄せて来ますので、ご注意を。今度からは、いつもニコニコ現金払いでお願いします(笑)。


 母親は見かねて、ドアの上部にネクタイをかけ、首つり自殺未遂になり、甲状腺を壊して一時期、重度のバセドー氏病(寝たきり)になりました。即座に兵庫県立の病院に入院させました。法律扶助協会(現:法テラス)を使い、着手金約10万円の10回払いで、司法書士事務所の司法書士にお願いして、自己破産免責決定を受けたのが平成151216日。確定したのが(官報に載ったのが)平成161月半ば。生活保護決定がおりたのが、平成1671日から……。その年は、最悪なクリスマス、そして、最悪な新年でした。


■あてどない病院通い……


 大阪市のメンタルクリニックから、兵庫県立の病院に一時期入院し、退院後は時間の都合上、近くのメンタルクリニックにかかって、現在に至ります。症状としては、ずばり「ノイローゼ」(統合失調感情障害:ICD分類F25-9)でした。兵庫県から「精神障害者手帳」(精神3級)が給付され、自立支援医療のもとで、回復を図っていました。


 当時は、酷い不眠と不安、感情の爆発や攻撃性、反対に感情の萎縮を繰り返し、内科医院2カ所で頭痛薬をもらい、頭痛の絶えない毎日を送っていました。たばこを吸っては頭痛薬を呑む、頭痛薬を呑んでは、またたばこを吸うといった、酷いチェーンスモーキングになりました。また、将来を展望したとき、果てしない絶望感と、無力感にかられていました。


■人材紹介会社さんの「本音の」人材売れ筋事情


 ある人材紹介会社の方に訊きました。某フランチャイズ系のコーヒー店から、携帯電話で、現役のサラリーマンを装って……


 「ぶっちゃけ、どのへんがIT企業に売れ筋ですか?」

 「四大卒・理系・28歳ですよ」


 ……ガーン。気が付けば、世の中は大学全入時代に入っていました。なるほどね、大学を出て数年経っていて経験者、しかも若い。彼らを引っこ抜いて来れば、自社で教える手間も省けるというわけで……。何でもかんでも即戦力、即戦力と言い過ぎ違いますか?


 それに輪をかけて僕を落ち込ませたのが「首都圏とその他」という、雇用の偏在です。大阪ですらまともな仕事がない。あっても「即戦力」「経験者」オンリーで、まるっきり人材を育てる体力のない企業が多くあり、これもまた困った問題でした。さらに僕を呆れさせた求人が、たとえば「PG兼、SE兼、運用保守兼、サポート兼、サイトデザイン兼、営業兼」……要するに「何でも屋さん」を欲しがる中小企業が多くて、これまた閉口しました。……あのなあ、そんなにマルチな才能があるなら、もっと大企業に勤めることが出来る……いや、もっと言えば「自営」が出来るわい(苦笑)。


■職安から紹介された人材コンサルのいい加減さ


 職業安定所から、高齢者なんとか事業団とかいうところを通して、某人材派遣系の人材コンサル会社を紹介されたのですが、これまたいい加減。1年間通ったけれども、履歴書・職務経歴書の訂正はいい加減。リーダーと称される人はあくまで「高齢者担当」でIT音痴。僕が逆にIT機器の使い方を伝授する始末。派遣会社を紹介されたものの、どこも多重派遣。しかもそれを「清濁合わせ飲むのが人間」と説教し出す始末……。あきれ果てました。後ほど職安に苦情を申し上げたのは言うまでもなく、逆に謝られる始末。人材コンサル会社に通い詰めたこの1年は何だったのか。休憩に使うコーヒー代だって馬鹿にはならない。人材コンサルタントも、人を選ばないと大変な時間のロスになります。まったく憤懣やるかたないです。


■IT企業は人材を育てたことがあるのか


 そりゃあ、不景気でお金が少ないのもわかります。人材を育てる余裕がないのも事実です。が、しかし、余りにも「即戦力、即戦力」言い過ぎ違いますか?今までの経歴で、会社から教わったことは何1つありません。持っている知識をはき出して、出尽くしたところでポイ、です。はい、サヨナラです。これは、人材の扱いとしては余りにも残酷じゃないですか。会社の偉い人と派遣営業が何となくしゃべって、紙切れ1枚で、有資格者(IT技術者)を右から左へと動かして、利ざやを稼ぐ。


 こんなやり方をしていたのでは、そのうちIT技術者が会社に来なくなりますよ。海外にオフショアするといえども、限界がありますよ……。人を何だと思っているんだ……。まあ、僕も「日本人材派遣協会・派遣元責任者講習」を受けましたが、IT技術者が勉強している勉強とは比べものにならないくらい易しいもので、そんな人達に、紙切れ1枚で、あっちへ行け、こっちへ行け、と命令されたくはないものです。若干、ぼやきが入りましたが(苦笑)。


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神様がくれた最后の5分

 年老いた父親は、相変わらず「あいつ節全開」でした。おかげでCCNAを忘れそうになりました。いや、もう完全に忘れてしまったかも知れませんね(苦笑)。

17年ぶりの東京・西新宿

 あるCCNA系の専門学校が無料の授業を行うというので、西新宿まで夜行高速バスで向かいました。もちろん02日です。CCNAの知識が身についたかどうかは不明ですが、なんせ実機を触らせてもらったのが大きかったです。シスコのカタリストスイッチ、というやつです。ヤマハやアライドのルータの方が簡単なのにな、と思いつつ……

 西新宿の夜……夜行高速バス乗り場。ハンチング帽を目深にかぶり、むすっとふてくされた顔の老人……。すぐに父親だと分かりました。今では新小岩に住んでいるようです。

 「よお、親父」
 「何だ、お前か、よく一目でワシが分かったな」
 「……わかるわい」(苦笑)

 そんな太いツラは他にはおらん……

 西新宿の地下にある寿司屋でひたすら昔話を聞かされ、折角美味しそうに食べていたまぐろの「ヅケ」を戻しそうになって、胃でぐっとこらえました。その後、同じ地下にある喫茶店でコーヒーをがぶがぶ飲みながら、またひたすら昔話を聞かされました。あの時、あいつがどうだった、そいつは最低だった、兄貴の葬式の「ご仏前」には9000万円の請求書を入れてやった……などなど。ぼやき話をひとしきりしゃべった後、JR新宿駅西口まで送ってくれ、というので連れて行きました。人波に飲まれながら……

 その後、先程の喫茶店でまたコーヒーを頼み、ひたすら大きな溜息をついていると、店員さんから「お客さん、大丈夫?」と訊かれました。「ええ、大丈夫です。あれは僕の親父ですから」とまた溜息。へとへとになって夜行高速バス乗り場へ向かいました。お父さん、僕のCCNAの知識は一体どこへ消えてしまったのでしょうか……

 新宿発の高速バスは、白馬や河口湖を目指すバスが多く、大阪行き阪急バスは2230分発でした。京王バスの売店のおばあちゃんが、土産物をドドドッ、と落としたので、思わず拾うのを手伝いました。「あなた親切ねえ」「いえいえ」。なんだか余りにも母親の年代に近いので、かわいそうになってきて、ヴィックスドロップとか、天然水とかを購入してあげました。高速バスのアナウンスが、彼らの街行きの出発を告げ、東京でありながら、夜行高速バスの乗り場は「プチ田舎」「プチ地方」に思えてきました。ああ、あの人たちは四国へ帰るのか、あの人たちは名古屋に帰るのか……。東京って案外、地方出身者の集まりだったりするのかも知れませんね……

 夜行バスでは、エンジンの轟音で全然眠れませんでした(苦笑)。中央自動車道経由なので、甲府あたりから小牧ジャンクションまで、ずっと坂道なのです。さっそく、夜明けの「大阪新阪急ホテル」でひと休み。当時はバスとセットで、お得な料金で昼まで泊まることができました。早朝、窓を開けて大阪市内を見渡せば、ヨドバシカメラのビルが……。東京、新宿のヨドバシカメラから、大阪、梅田のヨドバシカメラまで帰って来て……。何だか長距離旅行をした感じがしませんでした。

 親父が最后にくれたもの。「京樽」の茶巾寿司と、緑茶「若武者」。……若武者……僕はまだ若武者なのか……そういうメッセージだったのか……。お茶だけはありがたくいただいて、高速バスの熱で傷んだお寿司は、残念ながらホテルのゴミ箱へ直行……。僕はまだ「若武者」でいていいのか。まだ僕は、親父からすれば、まだ半分も生きていない35……

 あれからしばらくして父親は、エコノミークラス症候群か、心筋梗塞を発症し、現在寝たきりらしいです。もしかすると、植物状態でまだ生きているか、もしくは、もう亡くなってしまっているかどうかさえも、当時は分かりませんでした。たまに父親の自宅へ電話をするのですが、一切の応答がありません。父親が目の前で呆けて、死んでゆくのを看取るよりも、こうして一種の「伝説」にしておきたかった、父親なりの僕への最后の配慮なのかな、と改めて思うわけです。

■神様がくれた最后の5

 あれから3年。父親の親戚筋から突然電話がありました。なんでも、父親は心筋梗塞をあの後、さらに2回やって、病院でバイパス血管代わりのチューブを心臓付近に複数本入れられているらしいのです。もし今度、心筋梗塞を起こすか、エコノミークラス症候群を起こすかをすれば、その時はもう最后だから、ぜひ早いうちに病院へ見舞いに行ってくれないか、とのことでした。

 20081016日。飛び乗った「のぞみ」で新大阪から品川まで。品川から総武線快速で新小岩まで。それから都バスで江戸川区の病院まで。あくまで「偶然を装いながら来てくれないか」という無理な注文だったので「IT系のイベントに参加するので、そのついでに」というシナリオを立てて病院へ向かいました。「ちょっと別室で待っていてくださいね」と言う病棟看護士。そうして案内された病室……

 対面した父親は、すっかり九州弁も抜け、往時の勢いもなく、ベッドにもたれかかり、何かを観念した様子で、濁った眼をこちらに向けることもなく、呆然と座っていました。僕が近づくと、親父は「なんだ、お前も来たのか……」と言ったきり、涙をぬぐうこともなく、延々と泣き続けるのでした。僕は手を執り「なんか知らんが、どんなにみっともない形でもいい、とにかく生きろ」と言いました。父親はただただ涙を流すのみ。ティッシュで顔を拭いてあげるのですが、とめどなく涙を流し続けるのです。食欲がなくなり、糖尿病になり、インシュリンを打っているとのことでした。やせ細った手を執り「がんばるな、無理……するな!!」と言って、もう何だか、その場にいるのがいたたまれなくなって、短い5分間を過ごし、病院を後にしたのでした。

 その後、秋葉原の「レム秋葉原」にチェックインし、しばらく天井をぼーっと眺めていました。幼い頃、北九州の「到津遊園」で遊んでくれたこと。喘息治療のため、北九州市営のプールで泳いでいるところを駆けつけてくれたこと。写真をいっぱい残してくれたこと。出張帰りには、沢山のおもちゃを欠かさずに買ってくれたこと。僕にだけは優しかったこと。……などなど、それまでに父親にしてもらったことを次々と思い出し、思わず、走馬燈状態になりました。

 そして、思ったのです……。父親も母親も老いていなくなれば、僕は、天涯孤独になるのだと……

 秋葉原の深夜、ホテルで眠れることもなく、ましてやメイド喫茶などにも行く気がせず、中学校のM先生と22年ぶりに、近所のそば割烹の店で2時間ほど談笑するのが精一杯でした。とても都内を散策することなど出来ず、父親の細くなった手の感触を思い出すたびに、涙が止まらなくて、早朝まで起きていました。備え付けの電気ポットがあったので、ひたすらお茶ばかり飲んでいました。

 ……早めの新幹線で帰阪し、神様がくれた最后の5分はそうして終わったのでした。……主治医の先生がおっしゃっていたのは「今度、こちらから兵庫県に連絡するときは、その時だと思ってください」とのことでした。

■食事の摂取状況から健康面をモニターする

 親父を担当する医師が、診療中な場合が多いので、看護士さんに電話して「親父、ちゃんとメシ食えてます?」と、こっそりと、たまーに病院へ電話しています。「ええ、以前よりは大分食べられてますよ」と聞くと、ほっとします。あの時、「どんなみっともない形でもいい、とにかく生きろ」と僕が言ったのが功を奏したのか、どんなに見た目が不元気でも、とりあえず食欲だけは復活した模様です。少し、ほっとしました。


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時には母のない子のように

 2009527日午後5時、わたくしの元父、横尾照雄が永眠しました。享年77歳でした。死因は肺水腫による呼吸困難でした。心筋梗塞も併発していました。お医者さまも、すでになす術がありませんでした。

■時には母のない子のように

 昭和7年、北九州市八幡東区(当時の八幡市)生まれ。戦時中を、軍国少年として育つ。三男であるため、長男の敏彦とは生まれながらに食事や座る場所、寝る場所さえ区別されて育てられ、ねじけて育つ。戦後は日本国憲法に惹かれる。地元の文学部を出たかったらしいのだが、父親である熊彦の強い奨めもあり上京。成蹊大学商学部に入学。関係者曰く「喫茶店などで女性をひっかけて、勉強せんと遊んでばっかり」で中退。

 「三男だから横尾の家を継げるものとは思わないように」という掟もあり、なにくそ精神で頑張り、前述のスラッグウール工業所の専務(断熱材の技術営業)に抜擢。33歳で結婚するも、嫁と長男芳彦が相次いで病死。36歳でうちのお母さんと再婚。長男に、日本国憲法から一字を取った、憲雄と名付ける。これが僕です。で、うちのお母さんをナンパした曲が、カルメン・マキの「時には母のない子のように」だったのです。寺山修司さん作詞の、なんともうらさびしい曲です。

■片手落ちのソリューション営業

 「九州グラスロン」という名の、自分の会社を持てたまでは良かったのですが、FRP(ファイバー・レインフォースト・プラスチック)などの、比較的良いソリューションを提供できながら、営業力という点においては、たとえば、資金回収がうまくできなかったり、情に流されたりで、経営は芳しくなかったそうです。技術のまずさは自宅にも出ていて、たとえば、セントラルヒーティングの家を造っても、配管の圧力損失(たとえばストローの長さが長くなると、ジュースが吸いづらくなるような現象)などを考慮に入れていないせいか、ボイラー室での冷媒や熱水が家全体に回らない、などのトラブルもありました。

 とにかく、兄貴が失敗すると、兄貴の尻ぬぐいができることをチャンスと考え、兄貴より役立ちます、といった自己アピールに終始。結局、自分の仕事はきちんとできていなかったようです(普通の技術営業に比べれば)。もしも長男だったら、こんないらぬ意地の張り合いはなかったように思います。三男だからこそ超えられない壁がある……古い家ならではの確執がそこにはあったように思います。

■親父は骨になった

 こういう体験は初めてだったので、恐怖でその夜は眠れなかったのですが、棺桶の中には、安らかな親父の姿がありました。九州出身で「なんかこの洟垂れが」などと威勢良く振る舞って、元ライオンズクラブで、会社社長だった親父からは、すでにそういった面影はありませんでした。無数の花に囲まれて、静かに最期の時を迎えようとしていました。

 最期の時はあっという間でした。読経が済むと、さっさと霊柩車に載せられ、火葬場に着いたら、早速焼きにかかる準備がなされました。火葬場の5番ランプが点灯すると、いよいよです。まるで、死刑台のエレベーターのようなたたずまいです。やがて、1時間15分かかって焼かれた遺体は、大腿骨とのどぼとけを残してほぼ粉砕されていました。「親父が骨になったか」……そうつぶやきました。いちばん大きな骨壺にも納めきれなくて、ふたができないので、係員が棒で遺骨をつっつくのですが、余り良い気持ちはしませんでした。他人ならともかく、実の親父ですから。

 きわめて軽量化され、コンパクトになった遺骨は、父方の親戚に預けられました。きっと佐賀県の菩提寺に納められることでしょう。僕は、初めての恐怖で、その後飯ものどに通らず、ホテルに戻っても眠ることさえできず、幼いころしてもらった数々のことを思い出しながら、お茶ばかり飲んでいました。翌朝になっても食欲がなく調子が悪かったので、近所の薬局でセデス錠と、しまいには救心を買って飲んでいました。午後4時発の新幹線を、午後1時発の新幹線に切り替えて、さっさと大阪へ帰ることにしました。

 死んだら終い。天国も地獄もなく、そこには無があるだけ。無から生じて生を受け、やがて無に帰っていく。そこには無があるのみです。


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浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んで行く

 NHKラジオ第一放送のかんさい土曜ほっとタイムの中で「ぼやき川柳」というコーナーがありまして、その中で紹介されていた川柳が「浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んでゆく」というものでした。詠み人知らず、です。

■桜の下でのお花見酒が始まったのは、東京都北区の飛鳥山公園から

 江戸時代、庶民の花見酒は幕府により御法度。そのため、現在の東京都北区、飛鳥山公園でのお花見では、このルールが適用除外され、都内(江戸)で唯一、桜の下で酒を飲むことが許されたのです。このような理由で、庶民の春の酒宴は、桜の下で行われるようになったとのことです。なにかというと酒を飲むチャンスを探している酒飲みの宴会好きは、今に始まった話ではなさそうです(200942日付け TBS NEWS BIRD の気象情報による)。

■下戸には酒をすすめるな!!

 まあ、商工会議所というところも、青年会議所も、ふつーの会社でも、イベントの懇親会でも宴会でも見かけますが、堅物に限って「飲みュニケーション」でないと胸襟が開けない、本音が明かせない哀れな大人たちがいます。たちが悪い人間は、下戸にまですすめる。しまいには「オレの酒が飲めねえってーのかー」とキレる大人たち。ますます哀れです。ここはいっちょ、酒なしでも、ユーモアを交えて話ができるテクが求められますね。

■肝臓という臓器にもやがて限界が訪れる

 僕もかつて、夜食には何年か「マヨ牛丼」「チキン南蛮」「ビール」に「日本酒の冷や」などといった、不健康極まりない食生活を送っていました。しかし、肝臓は「沈黙の臓器」ですので、気がついた時には、チューハイ1本で「血糖値500で意識混濁」「救急搬送」「5日間入院」「インシュリン点滴注射」「脂肪肝」「2型の糖尿病」「果てしない服薬」「食事制限」というペナルティが待っています。血糖値が正常に戻りつつある5年後、ようやく薬が効き始めてきました。2型(インシュリン非依存型)の糖尿病は、インシュリン注射は必要としないものの、3度の服薬は必要です。

■すい臓を失うということは、職業生活を失うということ

 それ以上進行すると、1型(インシュリン依存型)の糖尿病になり、インシュリン注射をしなければなりません。すい臓からインシュリンが出ないためです。もっと言えば、1型の糖尿病は網膜剥離の原因になり、免許証を返納するだとか、コンピュータ作業ができなくなるだとか、職業生活において、酷い結果になりかねません。それより何より、自分で自分の腹に注射を刺すって、嫌でしょう?

■糖尿病には「予兆」がある

 もしここにケンシロウさんがいたら「お前はもう死んでいる……」ということ間違いなしですね。例えば、いま、おしりの周りにニキビ状の吹き出物ができている。お前はもう糖尿だ。お前はもう死んでいる……。例えば、いま、腹部エコーで「真っ白な肝臓」が出てきた。お前はもう糖尿だ。お前はもう死んでいる……。頭がぼーっとして平熱なのに熱っぽい。お前はもう糖尿だ。お前はもう死んでいる……。下腹が出てきていないのに、体脂肪率はアップ。お前はもう内臓脂肪症候群だ……。ホゥアタタタタタタタタタタ、ホゥワタアッ!!

■飲み会? ウーロン茶がなければ帰ります、と言える勇気

 これがなかなかできないものですが、ここは心を鬼にして、友達を失う覚悟で「お酒はお断りします」と言いましょう。でなければ、盛り下がるのを承知で「ウーロン茶でお願いします」と言いましょう。酒のつきあい上の友達は、自分の病気で酒が飲めなくなった段階で、飲み友達でなくなりますので、人間関係もいずれは切れますから、一切心配いりません。我が身を大事にしましょう。友達は終生面倒を見てくれません。友達は関係が切れれば他人、冷たいものです。職場も、いまどき一生ものという時代ではなくなりましたから。

■浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んでゆく

 酒ごときに殺されたくはありませんね。僕の親父は、新日鐵化学の下請けか孫請けだったので、夜になると、いつも酔っぱらっては帰宅していました。皆から「宴会部長」とあだ名されるほどでした。それが30代ならまだしも、蓄積された酒糖分体脂肪は、老化とともに血管に吹き出してきて、動脈硬化や血管の狭窄を進めます。そして案の定、45歳で心筋梗塞を起こしました。76歳になった現在、会社も財産も何もかも失って、病院のベッドに横たわっています。そうして、これまで「ざるそば」ばかりを食べる偏食から来たのか、現在はインシュリン注射を必要としています。

 親父はかつて「北九州小倉ライオンズクラブ」に所属していました。これまで、自分の女房を泣かせるぐらい酒ばかり飲んできて、ことあるごとに家族に癇癪を起こし、ヘビースモーカーで、体調不良と手形の裏書きで事業に失敗し、女房子供に離縁状までたたきつけた親父が、いまひっそりと死んでゆこうとしている末路が、やはり哀れです。


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自己観察 ―セルフモニタリング―

 僕が20年前、社会に出て、まず真っ先に言われたのが「よそさまは、どうしているんだろう」「よそさまから見て、自分はどう見えているんだろう」といったセルフモニタリングということを意識しろ、ということです。自分で自分自身を観察する能力が必要だということです。ひとりよがりになってはいけない、会社員たるもの、芸術家タイプになってはいけない、周囲との協調能力が必要だ、という意味です。

■日常にも、職務にも必要なセルフモニタリング

 セルフモニタリングをしていないプログラムソースや、セルフモニタリングをしていない言葉や服装などの端々にもそれは自然とにじみ出るものです。たとえば「このドキュメントを見て、みんなはどう思うだろう」「こういうものを作っていて、でき上がったら、それを見てみんなはどう感じるだろう」という類推能力が必要とされるのです。

 たとえどこにいても、何をしていても「こういうことをしていて、みんなはどう思うだろう」という類推能力を働かせてください。仕事だから、単に作ればノルマは達成、さあカネをくれ、オレを褒めてくれ、どうだすげーだろう……では、上司も納得しないでしょうし、対外的な信用も失うことになるでしょう。美しく作る。きれいに、配慮して作る。これは、やっつけ仕事をしているスパゲッティコードな人たちには、到底理解が及ばないとは思うのですが……

 わかりやすく言えば「自分にアンテナを張る」ということです。しかも、全方位にアンテナを張るのです。アンテナを張って「自分はどう見られているのだろう」ということを意識するのです。足りなければツールや解決手段を用意するのです。プログラミングであれ、HTMLソースであれ、取り敢えず動けばいいや、ではなく「よそさまから見てわかりやすいコードを書く」ことも、必要なことだと思います。

 立ち居振る舞いということを、最近はあまりやかましく言わなくなったような気がするのですが、あなたの性格はあらゆる振る舞い……ウェブサイトに、メールに、プレゼンテーションに、文章に、そしてでき上がった成果物はおろか、その人の立ち居振る舞いや服装、髪型、言葉遣いや態度などにまで表出してきます。

■相手を思い測る類推能力

 最近は、あまりやかましく言わなくなったこととして、もう1つ。「自分がこう言われたら、相手はどう思うだろう」という、言葉遣いの問題です。同じ意見を言うのでも、紋切り型に言われるのと、慮(おもんぱか)って言われるのでは、同じ意見でも、上司は違う風にとるでしょう。まあ、上司の質にもよりますが、少なくとも「自分が上司だったら、こう言われたら嬉しい」と感じるような言葉遣いを目指すことから始めましょう。

 上に向かって吐いたツバは、やがて自分のところに戻ってきます。上司でない人にでも、たとえば駐車場のおじさんや、定食屋のおばさんにでも、そのような配慮をすることにより、あなたの人格が明日は少しマシになり、決して、数値化できる能力とか、資格とか、学歴とか、カタログスペック的なパフォーマンスなどでは測定不可能な部分で、自分自身の向上に資すると思うのですが、あなたはどう思われますか。

 再三、新渡戸稲造先生の例で申し訳ないのですが、こう言われました。お金を出せば買えるものは幾らでもあるし、お金に困っていない人が、お金を出せば買えるものは多いのですが、ただ1つ買えないものがあります。それは人徳です。店へ行って「10円の徳をくれ」と言っても、どこにも売っていないし、どこかで買えるものでもないので、徳の高い人は、結局得をしているのです、といった趣旨です。

■必殺!! 微笑み返し

 曹洞宗(そうとうしゅう)の仏教用語で、顔施(がんせ)という言葉があります。わかりやすく言えば「微笑み返し」のことです。「何々さん」と言われて振り向いて「あ~?」と怪訝に振り向くより、にこやかに振り向いた方がいいに決まっています。情報技術者の方たちの中には、ごく少数、この「微笑み返し」ができない方がいます。

 微笑みをするどころか、「オレは大企業の人間で、優秀なんだから、低脳な人間どもに右顧左眄(うこさべん)する必要はない」と威張る人がいますが、そんな人は、メールの書き方1つ取っても、失礼千万な場合があります。中には、着信されたメールを読まずに黙ってデリートする人までいます。他人の揚げ足ばかり取ったりしています。そんな失礼なやからは、微笑みながら「お前さん、うぬぼれなさんな」と言ってあげましょう。

 そんな人は、人としての性能が優秀なのではなく、親に行かせてもらった学校が「たまたま優秀とされているところ」であったり、たまたま入社した「会社や官公庁が優秀なだけ」で、それらレッテルをはがした素の人間として見ると、その人は会社も肩書きもなくした時、果たしてうまくやっていけるのでしょうか。余計なお世話かも知れませんが……

 結論。どんなときも、イライラ思って煮詰まっているより、ここは社会通念上「にっこり笑ってありがとう」の気持ちですね。昔の人は言いました。「稔った稲ほどおじぎする」。最初からふんぞり返って出世したという人を、残念ながら僕はあまり見聞きしません。どんなに国際化が進んでも、どんなにIT化が進んでも、礼を失することのないよう注意したいものです。


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ハチロク世代がやってきた

 1986年生まれの「ハチロク世代」が入ってきます。1970年生まれの僕も、彼らと同僚、あるいはライバルになるわけでして、それ相応の競争力をつけなければ、と思っています。まあ、ここはひとつ、おぢさんたちと、仲良くやろうぜブラザー(笑)。


 ハードウェアの黎明期にいた僕ら「教官」たちも、負けてはいられませんね。気合いです、気合い……とはいえないんですよね。彼ら、生まれてこの方、ずっとIT、めっちゃITに囲まれて育っていますから。むしろ、分からないところは、謙虚に教えてもらうしかなさそうです。「君、何して遊んでるの?」「げっ、上司だ、うぜー」……なんて場面はざらにあるのでしょうねえ。


■僕らの世代は至って地味だったコンピュータ


 
ハチロク世代がやってくる……の年表を真似して作ってみました(笑)。Fireworksを使って、3時間で作った割にはうまくできているでしょう?


1970
年生まれの教官たちの成長と、
IT
業界の主な出来事


 僕ら世代は、まずコンピュータプロセッサの進化(ムーアの法則)があり、次いでハードウェアの進化があり、それにOSが後追いする、といった形で、それに付随するアプリケーションといえば、テキストベースの事務作業でやってることと、簡単なゲームぐらいでした。ネットワークといっても2400 baudのパソコン通信。今みたいに、Webで情報の洪水、という現象はまだまだだったのではないでしょうか。例えば、ケータイよりも、ポケベルでしたし。ニンテンドーDSよりも、ファミコンやゲームウォッチでしたし……


 ちなみに、(財)日本生産性本部が
毎年名付ける新入社員のタイプ。平成元年(1989年)度 新入社員のタイプは「液晶テレビ型」だったそうです。「反応早いが、値段高く色不鮮明。改良次第で可能性大」だったそうです。いま、液晶テレビが地デジとして普及している現在を見ていると、僕ら世代もあながち捨てた物じゃないなと、そう思うのです。


 嗚呼、オレも歳を取ったなあ……。と、前髪にぶらさがる白髪を1本、また1本と抜くのでした。街角に出れば、あちこちで禁煙。嗚呼、肩身が狭くなったなあ……。と、近くの喫茶店に入って、喫煙コーナーを探すのでありました。アイスコーヒーにフレッシュを入れて、ふーっと溜息……。これも時代の流れなのか……


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90歳のミスター

 御年90歳にもなって、まだまだ会社関係の人とお話ができる、驚異的な健康達人をご紹介する。にんにく卵黄は関係ないみたいなのだが……

 東京都武蔵野市吉祥寺のNさん(前述のシスコのNさんのお父さん、僕の叔父さん)が、わざわざ親父の形見を届けるために、阪急神戸線、武庫之荘駅に来てくださったのだ。ありがたいことだ。

90歳のミスター

 ミスターは時間厳守で、ふと、駅南口へ通ずる連絡通路から、ひょっこり現れた。意表を突かれた。どうやら間違えて南口改札でお待ちいただいたようだった。このミスターは確か、若い頃はM商事で重役を務めていたらしい。だから、仕事のクセが抜けず、御年90歳になっても、足腰カクシャク、耳はばっちり聞こえる、眼は裸眼で遠くまできちんと見える、スーパーおじいさんなのだった。

 そのミスターが「喫茶店はどこ」と訊くので、長旅の疲れが癒されるよう、ワッフル付き洋食喫茶、つまりは阪急系列の店に案内した。無難だろう。お冷やをゴビゴビ飲むと、ふーっとため息をついて「やれやれ、今日は5時起きじゃった」とニヤリ。冷たいアイスクリーム付きコーヒーをおいしそうに食べる。「のぞみ号でしたか」「いや、ひかり号の自由席が安くて空いているから」とのこと。

 洋風な店なので、訳の分からないカタカナ語のメニューのそれを適当に注文すると、出てきたのは「生野菜のどんぶり盛り」だったので、これまたカクシャクと食べる。もちろん、全部自前の歯だ。すごい。恐れ入りました。僕は、アイスティーとワッフル1個で充分です……

■月光院観月照道居士

 元親父の戒名が決まった。というより、Nさんが大枚はたいて、佐賀のお坊さんに頼んで付けてもらったのだ。……なんか立派過ぎやしないか、この戒名(苦笑)。闇夜の道を照らす月のようなストーリー性すら感じるぞ。見方を変えれば、まるで「セーラームーン」のようではないか……。「月に代わって、おしおきばい!!」。……うう、想像するだに気色悪い。まあ、これで、成仏したと思えば、それでいい。それでいいのだ。

■電子メール感覚で葉書を

 ミスターNさんは、電子メール感覚で葉書をしたためられる。一方、インターネットと親和性の高い世代にとって、葉書を書く、という行為はハードルが高い。書き損じる心配があるし、一旦、脳内メモリに文案を練って、それからそれを葉書に写し取る、といった作業が必要となる。葉書には、バックスペースキーもなければ、コピー&ペーストもないのだ。

 たぶん、我々が常識としている電子メールと同じように、ミスターの頭脳では、葉書を常識としておられるのだろう。葉書ならば、住所さえ分かれば、電子メールのアドレスが、ドメインがどこだと狼狽する必要もなく、きちんと届く。パケットの不着、コリジョンなどを気にせずとも、葉書の場合、集配の日本郵便さえしっかりしていれば大丈夫なのだ。

 葉書を書く作業は、脳内での漢字変換を伴う。ひらがなやローマ字を入力して変換するのとは違い、脳内でつくりとへんを組み合わせて漢字をこしらえてから、それを筆記転写する。葉書は自然と脳トレーニングになっている。一方、電子メールはというと、それほど脳を使わなくとも、つらつらと文章が出てくる。自動筆記の要領だ。……我々電子メール世代の老後が心配になってきた。もしや、パソコン依存症のぼけ老人が多発するのではないかと心配になり、思わず郵便局で葉書(かもめーる)を買うのだった。

90歳のミスターはサイクリングと散歩がお好き

 健康の秘訣は「サイクリングと散歩」だそうだ。さすがに一度兵隊に行った人は違う。どこまでもフィジカルで、健康的なのだ。


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花の生涯

 田所郁子(77)。昭和81933)年、兵庫県武庫郡今津町(西宮市)上甲子園生まれ。戦前は、兵庫県尼崎市難波中通(西難波)育ち。滋賀県大津市丸屋町に戦時疎開。戦後は、兵庫県尼崎市立花町近辺で生活する。疎開先である、現在の滋賀県立大津高等学校普通科卒。


才色兼備のキャリアウーマン 阪急百貨店写真室にて 昭和30年頃

戦後復興のさなかに

 戦争で、焦土と化した大阪。まだ、日本に進駐軍GHQ(連合国軍総司令部)があった昔。当時の心斎橋そごうが、米軍のPX(米軍専用売店)として接収されていた時代。女性の社会進出が、まだままならない時代の中で、キャリアウーマンの先駆けとして勤務。弱冠18歳で心斎橋大丸の正社員になった。当時の初任給が6000円だった時代、PX600円のパンストを購入して売り場に立った。


 ラジオからは「復員兵情報の時間」が流れていた頃である。音響製品はまだ、「電蓄」や「真空管ラジオ」の時代である。国道2号線には、神戸と野田阪神とを結ぶ路面電車「阪神国道電車」が走る、のどかな時代だった。電話がない家もまだ多く、あっても手回し式の「交換手扱い」の電話だった。


 当時の大阪市営地下鉄は御堂筋線だけ。梅田~心斎橋間を走る車両はたったの2両編成。当然、冷房なし。汗だくになって勤務先に到着。現在では、パンストが伝線することは余りなくなったが、当時は舶来のナイロン製。すぐに伝線した。戦後、荒廃した御堂筋を、ハイヒールの靴音高らかに闊歩した。同僚からは……いや、京阪神全店の従業員からは「ミス大丸」とあだ名された。その美貌と知性は、瞬く間に会社中の噂になった。時の人である。当時、宣伝部にいた、現在のサトウサンペイ(漫画家)も同僚のうちのひとりだった。ニックネームは「サンペイちゃん」。まだ、脱サラしてはいなかったようだった。


当時のレジスターは機械式


 現在では、POS(ポイントオブセールス)システムが当たり前の時代だが、当時は機械式計算機によるレジスターだった。部門キーなどの他に、置数キーが横に桁の分だけ並び、その桁の置数キーが、更に、下に向かって0から9まで並んでいて、桁数は確か8桁か9桁あたりまで。具体的な操作は、各桁の置数キーを何度か押して、計算を終わらせる際には、一回ずつ、本体脇のレバーを回転操作する。そして、総計が出た段階で、ようやくレシートを印字するのだ(余りに昔すぎて、詳細はよく分からないが)。


 たとえば、販売員がモノを売る。すると、レジ係員がチェックして、レジスターを操作する。まるで、スロットマシンのような要領である。そうすると、レシートとは別に、請求金額が、レジスター上部の窓に表示され、そこで合計請求金額が分かるという仕組みだ。勿論、消費税を計算する必要がなかったので、処理される数字は整数だけで良かった。バベッジの「解析機関」ほど古くはなかったが、これもまた同様に、機械式計算機の一種である。


 また、各レジに座っている出庫係員は、商品出荷と同時に、帳簿をつける。接客、販売から出荷までのプロセスが、実に3人掛かりだった。これら一連のプロセスは、まだまだ電算化する価値があったようだ。このような面倒くさいことを、当時は平気でやっていたのである。まだ、社内に「電算室」すらない時代の話だった。なお、当時の詳しい様子は、日本NCRのホームページに記載があるので、そちらをご覧いただきたい(日本NCR レジスター博物館 1933年からの項を参考のこと)。


飛び抜けたリーダーシップ


 旧ホテル阪神(大阪中央郵便局うら、当時の新阪神ビル)の会員制クラブ「スターライト」で、若い女の子を仕切るマネージャをやっていた時期もある。阪神エンタープライズが経営する、各界の著名人御用達の高級店である。顧客の中には、有名な漫才作家、秋田実もいた。そんな幾多の顧客のうちの、ある人の紹介で、喫茶店を開業しないかと誘われた。そこで、取得中の普通自動車免許は「仮免」で終わっている。今考えれば、惜しいことをしたものだ。ちなみに、当時の自動車はもちろんクラッチつきのミッション車。それに加えて、ハンドル脇の変速レバー「コラムシフト」が付いていた時代の話である(現在でも、一部のタクシー運転手さんの車両が、コラムシフトである)。


 現在の梅田北ヤード近くのJRA(日本中央競馬会)の馬券売り場の近くに、喫茶店「ジュリアン」を開店した。なぜ「ジュリアン」なのかって? 理由はただ単に、沢田研二(ジュリー)のファンだったからだ。一応、喫茶店のオーナーだったが、そのうちに、実質的な経営権を、雇っていたバリスタと、その彼女に乗っ取られたりして、いろいろ大変だったようだ。


本小曽根合資会社の頃


 心機一転、今度は神戸での勤務になった。当時の神戸市生田区(中央区)多聞通。今で言うところの、UCC上島珈琲本社に近いところ。神戸高速鉄道の、高速神戸駅直上のビル(阪神大震災で倒壊)。当時の本小曽根合資会社という、旧小曽根財閥の管財会社での事務作業である。事務作業といっても、普通の事務作業ではない。簿記会計もこなしたが、主に、神戸ロータリークラブでの、本小曽根合資会社代理としての仕事だ。なので、実業界のロータリアンとの面識も多々あった。


 ちなみに、小曽根さんとは、あの小曽根実さんだ。その子ども、現在のジャズミュージシャン、小曽根真さんが、まだ、抱っこができる幼子だった時代の話である。当時の本小曽根合資会社は、たとえば、阪神電鉄や、阪神内燃機(阪神ディーゼル)などの大株主だった。これら小規模な在阪財閥は、俗に「関西財閥」と呼ばれ、GHQによる財閥解体の対象にはならない程度の、比較的小規模な資産家集団だった。


洋裁のプロになりたかった


 勤務のかたわら、当時の国鉄芦屋駅近くにあった「田中千代服飾学院」に入学。師範科(3年制)には入らなかったものの、洋裁の基礎から応用まで習う。現在でも東京田中千代服飾学院には卒業写真集が残っていて、評価点数が5段階評価でオール5だったことを、現在でも誇りに思っている。「ほこりだけでは飯は食われへんけどね」と自虐的に笑うが、それにしても、大したものだと、長男としても思っている。


 が、しかし、大阪万博の前後から、人生が暗転する。普通の女性ならば誰もが思う「結婚適齢期」とのたたかいだった。当時36歳。女性ならば、誰もが身の振り方を考える時期だ。キャリアパスは上手に渡り歩いて来た。が、女性ならば、誰もが「自分の子どもを抱いてみたい」と考えるはずだ。そのへんが、普通の女性よりも、不器用な処し方しかできなかったのだ。なにせ、彼女のような生き方は、「これまでに日本国で前例がない」ものだったからだ。


間違いだらけの男選び


 取引先の「石丸さん」なる人物が、福岡県八幡市(北九州市八幡東区)に住む、ある「青年実業家」の写真を持ってきた。横尾照雄という青年が、お見合いの相手だ。製鉄会社の下請けか孫請けか、関連会社の専務で、小倉ライオンズクラブに所属。東京にある大学卒。相手にとって不足はなかった。ここで、現代女子に注意してもらいたい点なのだが、「青年実業家」と言えば聞こえがいいが、要は、親の財力でのし上がった人間だ。この場合、自分のチカラで青年実業家になったのではなかった。ここは、要注意。メモメモ。


 折しも、はしだのりひこが「花嫁」という歌を唄い、街角に流れていた頃だった。もう、職場では、いわゆる「お局様扱い」を受けていて、目下ハートブレイク状態だった。大黒摩季の「夏が来る」という歌にもあるように、「お見合い相手のプロフに、一瞬くらっとするけどワン・モア・チャンス、本気の愛が欲しい」という状態だ。お見合い相手は、彼女の母性愛をくすぐるかのように、当時流行していた、カルメン・マキの「時には母のない子のように」を唄って聴かせた。ぱっと見、シャイな青年を装っていた。


間違いだらけの結婚生活


 しかし、結婚生活は当初から双方、意地の張り合いで上手く行かず、親父にしてみれば、はじめて「女を征服した」という気持ちで一杯で、夫婦生活というよりは、どちらかといえば「性的暴行」に近かったらしい。はい、そうですかと、素直に旦那に調教されるほど、妻だってバカではない。先ほどの歌ではないけれど、大黒摩季の歌を借りれば「本気でエッチしたら、その日から都合の良い女扱い」だったそうで、大変気の毒な思いをしたらしい。


 本来、母体の健康を守るべき「産婦人科」は、彼女にとっては「堕胎院」と化していた。あるとき、産婦人科医から、釘を刺された。「今度ばかりは、貴女の命の保証はいたしかねますよ、旦那さんも厳重に注意するように」と宣告される程の性的暴行ぶりだった。僕が何となく、中島みゆきのファンである理由は、このへんにあるのかも知れなかった。中島みゆきの父、慎一郎さんは、若くして夭逝されたが、産婦人科医だったからだ。成年男子諸君、事に当たっては「家族計画」を念頭に置くように。


訣別の時を過ぎて


 そして、長男が20歳になった、平成31991)年1月。調停離婚は成立した。僕も3月には「横尾」ではなくなっていた(家庭裁判所に申し立てる子の氏の変更)。僕としては、最初、中立的な立場を保っていたが、仲裁も限界に達したので、子の氏の変更に素直に応じた。まるで、合併を繰り返した銀行のような気分になった。なぜ、夫の理不尽な暴力に耐えてまで長男が成人するまで待ったのか。それは、幼児期では、親権を経済力のある夫に取られることを恐れていたからだ。折しも「熟年離婚」がニュースなどで喧伝されていた時期にあたる。


 あれから20年余り。帰郷して、すっかり落ち着いた母親は、静かな余生を送っている。あれだけ彼女を粗末に扱ってきた旦那が死んだ、と息子に聞かされて、あれ、喜ぶのかな、と思ったら、意に反して「なんだか寂しいね、次はわたしの番かね」とつぶやいたりする。こんな心の動きが、僕にはよくわからない。男性の、直線的な考え方しかできない僕とは、どうやら心の振り子が違うらしい。


 来年、母親は喜寿を迎える。初めて、旦那だった人間の年齢を超えて生き続ける。うちは決して豊かではなく、どちらかと言えば貧しいほうだけども、何か、心に残るお祝いをしてあげたい、そんな気持ちになった。彼女はいま、自分に与えられた「残り時間」が、どれだけ残されているのかを、気にし始めているらしい。残り時間が、幸多かれと祈るばかりだ。


 そんな一輪の、花の生涯。


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54


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