目次
若き日の自分
それが夢ならば
アンコントローラブル
MZ-2000の頃
ここじゃないどこかへ
千葉工業高校の頃
夢中! 熱中! MSX2
ゼッパチ人間の過去・現在・未来
プログラマになるべきか
社会人になって
出てけと言われたその日から
ダリアの花散るとき
はじめての機械設計(1)
はじめての機械設計(2)
エディトリアルデザイナー
瞬きもせず
目覚めの朝、午前5時
ナナゼロ世代のこれから
思索と模索の日々
デジタルネイティブ
恐慌突破!
倒産したら、どうする
とほほな中小企業
これはもうダメかもわからんね
神様がくれた最后の5分
時には母のない子のように
アラフォー世代の挑戦
ブレイクスルーしたくて
謹賀新年2009
応用情報技術者試験
セミナーを受けに行きました
サーチエンジン 小説大好き!!
小説 個人情報の住む街
能動的に生きるということ
勉強嫌いの勉強法
浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んで行く
サバイブするということ
仮想自営体験
自営するということ
自己観察 ―セルフモニタリング―
ハチロク世代がやってきた
なぜコンピュータにこだわるのか
JWNTUGの頃
人生の踊り場で小休止
拝啓 15歳の僕へ
90歳のミスター
自分をメンテナンスする
ワークライフバランス
花の生涯
2010年はチカラを温存する年に
謹賀新年2010
思索と模索の果てに
勉強嫌いな学生の皆さんへ
応用情報技術者試験、その後
これから製作所
ハッタリのススメ
中小企業が守っていない企業経営の基礎
ギスギスした職場への処方箋
選手からコーチへの転身
タクシードライバー
デイ・ドリーム・ビリーヴァー
関東と関西の境界線
10年前に、クラウドがあったなら
輝く人になりたくて
工業高校生の就活について(1)
工業高校生の就活について(2)
糖尿病 ―40歳からの警告―
後に続け青春たちよ
小説を始めました
工業高校生の夏休み
校舎の外の世界では
快適!! 朝型生活のススメ
ルック・アジア型にシフトしよう
幸せって何だっけ
連載2周年 書き始めた動機について
最近思うエトセトラ
気合いだ! はどこから来ているのか
PHPビジネス新書『伝える力』/池上 彰
Twitterに違和感を覚える人々
「させていただきます」の濫用
Windows 7 のHDD換装は超簡単!!
電子書籍の奔流
隣の芝生が青く見えた時
休筆のお知らせ
最近思うエトセトラ Part2
MSX PLAYerに寄せるノスタルジー
プログラミングの現場で『もしドラ』を生かす
ソニーの電子書籍 Reader を試してみた
Outlook 2007 で、KB2412171のアップデートをされた方へ
母校の恩師、クリティカルシンキングを語る
神奈川県座間市の電脳書房さん
近況報告 64bitパソコン導入など
ソーシャルメディアがたこ焼きを変える
最近思うエトセトラ Part3
東北地方太平洋沖地震
SPAMはSPAMであってspamにあらず
マイクロソフト スマートビジネスセンター 景品当選!!
呼吸をするように、自然にものが書けるようになればプロ
日本語という言語を極めたい
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アンコントローラブル

 今回は、ある意味、僕の強運と、ある種の悲しみをお伝えしなければなりません。単独機としては世界最大の犠牲者を出した、日航機123便のお話です。もしかしたら、乗り合わせていたかもしれない、と思うと、今でも背筋が凍る思いがします。

■日航機123便と新幹線の僕と携帯ラジオと

 「大阪の実家に帰らせていただきます」。頑固一徹の父親の横暴に耐えかねた母親が、僕を連れて急に大阪へ行こうと言い出したのです。僕はてっきり夏休みの観光旅行だと思い、うわあ、新幹線に乗れる、おばあちゃんたちに会えるといった、天然丸出しの無邪気さでした。ところが、母親はなぜかのっぴきならない苛立たしさを全身に漲らせていて、子供にはその怒りがどこから来るものなのかが全然分かりませんでした。

 当時、田所は15歳。昭和60年(1985年)89日、下りの新幹線で来阪したのでした。宿泊先は旧ホテル阪神(西梅田)でした。34日の滞在予定でした。その間、母親がどういう会話をしたのかは不明でしたが、伯母の「あんたら一体どうしたん?」という声がなぜだか印象的でした。

 812日、国鉄立花駅(兵庫県尼崎市)から新大阪駅まで普通電車に乗りました。僕は、魔が差したのか、いつもは立ち寄らない新大阪駅のキオスクで、1100円のポケットAMラジオを衝動買いしたのでした。「また、あんたはしょうもないもん買うて!!」と母親に怒られたのですが、欲しいものはどうしても仕方がないので、自腹を切って買いました。新大阪駅の構内でご飯を午後5時に食べて、午後6時台のひかり号で東京を目指したのでした。南側の窓側に陣取った僕は、先程のAMラジオを点けてみました。一番感度が良い(音声出力が大きい)AM放送局は、NHK1放送だということを何となく知っていたので、地域によって頻繁に変わる周波数にもだいたいチューニングが出来ていました。

 浜松を過ぎた辺りで、不意に聞こえたNHKのアナウンサーの声が、いつになく緊張していました。臨時ニュースの模様でした。「番組の途中ですが、東京のスタジオより臨時ニュースをお伝えいたします。東京航空交通管制部によりますと、午後6時過ぎ、日航機123便、羽田発伊丹行きの機影がレーダーから消えたとのことです。なお、機影が消えた地点は長野県の山中であると思われます。繰り返します……」という第一報を伝えたのでした。

 当時の新幹線0系には、車内ラジオも、電光ニュースもない状態でしたので、日航機123便の事故の第一報を知っていたのは、おそらくラジオを聴いていた僕だけでした。子供心に、大変なことが起こっている、と感じました。「なあお母さん、羽田発伊丹行きの飛行機の機影が消えたらしいよ」と伝えると、母親は無言でうなずいていました。

 母親は本来、飛行機が大好き。今から思えば、もし、出発日時が遅れていたら。もし、羽田発の飛行機を選んでいたら。そう考えると、背筋が凍る思いがします。午後11時、国鉄成田駅から富里市の自宅に帰宅した僕たちを待っていたのは、テレビの臨時ニュースを食い入るように見つめていた父親の姿でした。ふと僕らを振り向くと、こう言いました。

 「お前ら、大阪行きの飛行機が、いま大変なことになっちょるぞ……

 犠牲者のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

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ゼッパチ人間の過去・現在・未来

 最近の人たちは、どんなボードマイコンを利用しているのだろう。もしかしてμITRONとかC言語とか、そんな高級言語が走るやつでしょうか。僕らの学生時代は、機械語、つまり、バイナリデータで動かすパソコンでした。いわゆるZ80世代ですかね。もっと言えばZ80Aというやつですね。


 命令語も簡単で、A(演算)レジスタにぶち込んで、ビット操作、論理演算、インクリメント。また、強引にIX(インデックス)レジスタにアドレスをぶち込めば、プログラムの実行先(ポインタ)を変えることもできました。ローテイトシフト(数珠つなぎになった01を左右にずらす)ってまだ概念として残っているのでしょうか。新しいのをやったことがないのでよく分かりません。そして現在でも「2の補数」で引き算をやったりするのでしょうか。

■TK-80には間に合わなかったけれど


 Z80Aが搭載された、実習用のボードマイコンに、ちまちまと機械語を入れていくと、実行をしたときに、たとえば簡易電卓になるとか、日の字のLEDが光るとか、毎日が楽しかった記憶があります。また、自分でプリント基板を焼く作業もしました。フォトレジストではないのですが、特殊なペンを使い、銅板にペンで描かれた部分は溶け残り、何も描いていない部分は溶剤で溶ける、という仕組みでした。今でも高校では、こういうことをしているのでしょうか。また、今でも、論理回路用のICチップ(NANDゲートなど)でフリップフロップ回路とか、発振回路とかお作りなのでしょうか。ああ、母校に行きたくなってきた。お金ないけど。


 そういえば、たとえば、秋葉原の
秋月電子通商さんにキットやパーツを買いによく出かけました。また、西千葉のパーツ屋さんにもよく行きました。……今のPICマイコンって、すごくシンプルですね。集積度が高いです。あと、トランジスタ技術という書籍を定期購読していましたね、あの頃。


懐かしの「トランジスタ技術」、20年振りのゲット!!


これぞ電子計算機だ、と呼べるFORTRAN77


 今のFORTRANには行番号がたぶんないと思う(構造化されていて)のですが、当時のFORTRANには、きっちり行番号がありました。GOTO文(この行番号へ行け)もありましたが、これに慣れたり、頼っちゃうと、構造化された言語にとっつきにくい、という欠点がありまして、未だに難儀しています。インスタンス? 何ですかそれは。僕の世代は、UML図じゃなくて、単にフローチャートだけでしたからね。上から下へ流れるという流れ図のみ。今ではプログラミングをするのにも複雑化してきて、とても老人の付いて来られる世界ではなくなって来ています。つまり、従前の言語では、入力があるまで、入力ルーチンを繰り返すことで処理してきたのですが、現在のように、イベントドリブン方式(きっかけに対して処理を行う)は、残念ながら実務経験が余りありません。


これのどこが商業系? と疑問に思ったCOBOL80


 年を経ても絶対に忘れていないのが、最初の定義文。たとえば、「IDENTIFICATION DIVISION」とかいう、変数定義です。あとは余り印象には残らなかったのですが、いちおう課題は製作しました。なんだか、面倒くさいな、と思った記憶はあります。学生当時、取扱説明書を見て、COBOLは「COBOL自身には何の保証もありません」と書かれていたことにびっくりしました。今考えれば、つまり、COBOLは、主にカネ勘定に関わる言語なので、もしプログラミングのミスをして、たとえ損失が出ても責任をとりませんよ、というスタンスだったんだろうと、今にして思えば納得できます。


「あんた、年いくつ?」と言われそうなテレタイプも経験!


 
YHP(横河ヒューレットパッカード)の、なんと主記憶装置がコアメモリ、そしてCPU4ビットという、最古参のパソコンを操作したことがあります。それにプログラムを入れるには、鑽孔テープ。つまり、テレタイプ装置で打鍵する、という具合にです。途中で打鍵し間違えたならば、ビットにすべてに穴を空けて無効(NOP)にする、そして、途中で紙テープがちぎれたら終わり、という、なんともまたすばらしいパソコンでした。今でも現存するならば、国宝級かも分かりませんね。


 ちなみにコアメモリとは、記憶時に電磁力(フレミング右手の法則)を利用して、ごく小さなドーナツ状の磁性体(フェライトコア)に磁場を与えて励磁し、ポジションを記憶し、読込時には、交錯する活線の起電力のあるなし(フレミング左手の法則)を利用して読み込むという、すさまじいものでした。そして、取り出したメモリの現物を見せてもらいました。まるで、テニスラケットのガットの格子に、小さなリングが大量にぶら下がっている状態を想像するといいです。


 この場合、最早、昭和の何年製造かもよく分からない状態でした。画面表示? そんなものなかったですねえ。各々のレジスタが、何のデータを保っているかは、8つ並んだ赤色LEDのビット列のみで表示でした。……いま、扱っているコンピュータが、HP Compaq というのには、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。


純国産OS N5200 model05上の PTOS


 
そうなんです。現在のように、OSが今のように舶来というわけではなくて、こぢんまりとしながらも、キビキビ動く、国産OSがあった時代なのです。


i8086を搭載したN5200 model05。 涙が出るほど古いぜ!!


 一般人が参るほど古い話で恐縮ですが、当然ポインティングデバイス(マウス)もなく、サウンドと言えばビープ音ばかり。アスキーコード表をもとに入力すると「外字」が出ました。また、漢字ROMや、カラー表示はオプションでした。ハードディスク? そんなもの、教師用のパソコンにしかありませんでした。一般の生徒は、256KB8インチフロッピー(2D)にガッタンゴットンと記録する他はありませんでした。でも、計算はめちゃくちゃ速かった気がします。まだコンピュータが、電子計算機然としていた時代です。


 そこからラインプリンター(大きなドットインパクトプリンター)にデータを送り、中には、ラインプリンターで印字し、また巻き戻し、半角英数の記号で陰影や濃淡を付け、いわゆる「アスキーアート」の原型みたいな物なのですが、これでアニメのキャラクター(うる星やつらのラムちゃんとか)を描く強者がいましたね。あれはどうなっているのか、すごい情熱を感じました。一種の執念というべきか。

 それにひきかえ、今では32ビット、いや、もっと好奇心旺盛な人なら、現在64ビットOSを使っているでしょう。一般人が、パソコン操作にそんなに苦労することはなくなり、パソコンの垣根を下げたのは、やはりウインドウズのお陰でしょうか。それにしても、世の中すっかり変わったものですねえ。いやはや、どうりで、オレが年をとる訳だ(苦笑)。芸歴だけは長いなあ(って、それ芸じゃないし)。


飽くなき好奇心の追求

 今でも思うのです。「デバイスドライバを入れ、USBでつなげば、機能することは分かった。でも、実際のところどうなん」といった、素朴な好奇心が、この歳になっても抜けません。なので、またぞろ「トランジスタ技術」1月号を購入し、その特集「USB機器を作るためにはなにが必要?」という記事に目が釘付けになります。最近のトラ技は、イラストや図説が多く「デバイスマネージャさま」のお墨付きがないと、パソコンの配下にしてもらえない、ということが大雑把にわかります。デバイス・ディスクリプタをもとに、デバイスマネージャさまが、INFファイルを照合し、どのカテゴリのデバイスの配下にしていただけるのか大雑把に分かりました。それだけでも、もう満足ですおなかいっぱい

 また、高校3年の大事な2学期に、マイコプラズマ肺炎を起こして3カ月も入院していたおかげで、職業訓練校で習い直しても、なお、すっぽり土台から抜け落ちているC言語。知ったかぶりは格好悪いし、わかったふりをするのも気色悪いので、初心に返って、技術評論社の「C言語スタートブック」や「プログラミングのセオリー」という本をかじっています。なぜみなさんがC言語を使いたがるのか、わかった気がします。振る舞いは機械語に近く、プラットフォーム間の移植性に優れ、(ライブラリ関数は別として)予約語が少ない。その気を出せば、きれいに書こうと思えば書けるし、関数を自分で作ることができるということも魅力ですかね。まあ、僕はあまりプログラミングを仕事にしたくはないですが。例えば、COBOLで病気になった人を、何人か知ってるし。

この箱の中身は一体何だ

 例えば、機動警察パトレイバーの、熊耳武緒巡査部長が、もうすでに、立派なレイバー免許を持っているのに、なぜ最新型に合わせて免許を毎年取り直すのか。そこに、自己研鑽のヒントがあるように思います。今で言う、MCPLPICなどの資格に当てはまりますね。でも、僕は、一度受かった自動車運転免許をふいにするようなもったいないことはしませんが……。また、太田功巡査が、「どうしてレイバーが動くのか、気にしたことがあるか。得体が知れないから不気味なんだ」などと、主人公たちに問うシーンがありました。

 確かに、ペダルを踏めばレイバーは動きます。でも、そこにどんな仕掛けがあって、ブラックボックス化している箇所はどういう仕組みなのか、という問いかけでもあるようです。同様に、確かにパソコンは、キーを叩けば文字が出ます。でも、なぜ、どのようにして文字が出力されるのか。つまり、この箱の中身は一体何だ……15歳のとき、N5200や、MZ-2000に触れた僕が、一番知りたかったことです。

 クルマはアクセルを踏めば加速する。ブレーキを踏めば減速する。これ、世界の決まり。でも、何でクルマがアクセルで加速し始めるのか。そのからくりが知りたくなって、ついにメカニック、自動車整備工になった方もおられるようです。同様に、パソコンは、キーを叩けば、画面に文字が表示される。これ、世界の決まり。でも、何でパソコンはキーを叩けば、画面に文字が表示されるのか。これが知りたくて、趣味が高じて、ついにメカニック、パソコンの修理工にまでなったというわけですよ、僕は(ついでに、CEからフィールドエンジニア、インフラ系SEになっちまったわけですが(汗))。

 高校生の時、川崎製鉄千葉製造所に社会見学に行ったときのことです。製鉄所といえども、もはやコンピュータ抜きには語れません。でっかい箪笥のようなコンピュータ(確か、メインフレームと言った)が居並んでいるブースを見に行ったりしました。社会見学の、最後の締めとして、質問コーナーを設けていただきました。誰も何も質問しようとしないので、ちょっと僕が質問してみることにしました。

 「なぜコンピュータは、毎年どんどん速くなるのですか?」

試してガッテン!!

 大人たちは、顔を見交わします。何か、打ち合わせをしている様子です。しばらく待つと、ある職員さんから答えが返ってきました。

 「それについては、電子の動きから説明しなければなりません。導線を電子が移動する距離を短くすれば、短時間で電気信号を伝えることができます。短時間で電気信号を伝えることができるならば、回路はもっとコンパクトで済むはずです。そこで、回路をコンパクトにするために集積回路になり、その集積率は年々向上しています。もし、短時間で電気信号が伝わるのであれば、コンピュータの動作周波数を上げることが可能になり、高速処理が可能になるのです。回路が小さければ小さいほど能率が良くなるのです。また、集積度が上がるに連れ、より多くのトランジスタを積むことができ、ひいては、一度のクロック動作で扱えるビット数が増やせる訳でして、一度に多くの情報や命令を処理することが可能になるのです。お分かりいただけましたでしょうか」

 合点がいきました。あー、高校生の頃からこれだもんね。一見、何でもないような素朴な質問でしたが、気がつけば、いつの間にか、ムーアの法則を、本人の知らない間に質問していたという訳です。なるほど、大人たちが打ち合わせをするはずだ。それにしても、さすがは川崎製鉄、実にわかりやすく、お見事なお答えでした。あのとき、ツバつけとけば良かった。就職に困らなかったのに。でも、僕はまだ、素朴だったので、そういう欲っちい知恵はまだありませんでした。

名うてのクラッシャーが、今では修理を

 かつて僕は「クラッシャー」という異名を持つ人間でした。そこにCMOSチップがあれば、静電気で壊す。不意に、サーバーのHDDを壊す。逆向きに接続してトランスを焼く。200V商用電源をドライバーでショートさせて溶接のような火花が散る。トランジスタを逆電圧で壊す。コンデンサを破裂させる。こういったことは若気の至りで枚挙に暇がないのですが、お恥ずかしい限りです。こうして、破壊の限りを尽くして至った結論は「ここを触ったら直る」「ここは触るとヤバイ」などという経験則となってどんどん積み重なって行きました。

 人形供養があるように、もしメカ供養があるとするならば、どれだけのメカを供養しなきゃならないでしょうか。そんな反省に立ってか、いつの間にか、パソコン修理のエキスパートになって行きました。「こんな異音がしたらHDDがヤバイ」「こんな臭いがしたら無停電電源装置がヤバイ」「それは逆位相の交流電源でLANが共振している」「それはショートスパイク(瞬間停電)だ」などなど……。これは、表層的なカタログスペック的な知識ではありませんし、決まった資格でもないのですが、いわばメカをかぎわける「本能」が身についた。そういうわけです。亀の甲より、歳の功ですか。名うての「クラッシャー」は、その後改心して、名うての「修理屋さん」を目指しているのです。


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ダリアの花散るとき

 あれはまだ、僕が工業高校を出たてのころ……。はじめての事業所、千葉市にある百貨店の電器売り場で、せっせとアルバイトをやっていた、そんな1991(平成3)年ごろ……

■ダリアの花咲くとき

 百貨店で母親がアルバイトをしていて、キーパンチャーが足りないから、パソコンに詳しい人を……というので、「キーパンチぐらいならまかしとけ!!」といった案配で、1日だけ手伝うことにしました。

 幸いにして、日本語106キーボードだったので、パートのお姉さん2名がカードを入力するのですが、僕はその700枚のカードの山を、たった8時間で入力し尽くしてしまったのです……。おかげで、自律神経をこわして、3日間寝込むことになったのですが(苦笑)。僕はそこで、くだらないながらも「伝説」になったのでした。

■大学生に混じり、生活費を稼ぐためのアルバイト

Y係長 「田所くん、ちょっと玩具売り場に助っ人で行ってくれないか。明日から1週間」

田所 「はい、わかりました」

Y係長 「えー、玩具のSさんという係長がいるから、そっちで子ども広場の応援ね」

田所 「わっかりました、はい、日報です」

Y係長 「はい、理由なきハンコ、なんちゃって。ほれ、ぽちっとな」

 「なんちゃって」が好きな、AV商品売り場のY係長さんでした。ジェームス・ディーンが主演のアメリカ映画、『理由なき反抗』(1955年)というものがあると知ったのは、それからずいぶん過ぎてからでした。

 その翌日から1週間は、玩具売り場へ配属されました。当時はやっていた、ゴマフアザラシのゴマちゃんが主人公の「少年アシベ」というアニメのキャンペーン中で、そのテーマソングがエンドレステープに詰められて繰り返し流されていました。

 チントンシャンテントン いますぐ チントンシャンテントン……♪

 僕は、フルタイムかつエンドレスで繰り返される「チントンシャンテントン」にいささか辟易していました。ヨーヨー掬いのゲームの実演をしていて、くそ生意気なガキども……、いや、お客様のお子さま、お坊ちゃま、お嬢さまたちから、おっさん呼ばわりされて、内心、オレはおっさんちゃう!!……と、ムカついていたのだけれど。

 僕は、ダークグレイの背広の上に、百貨店のハッピ(!)を着て、頭に手ぬぐい巻いて(苦笑)、確かに、子供たちからしたらおっさんに見えたことでしょう。1100円をもらうのは、こんなにしんどいことなのか……。「おっさん、こっちー」「おっさん、僕もー」……お、お前らああああ!!(怒)

 それにしても、バブル末期の玩具売り場は、毎日たいへんな忙しさで、僕や仲間を含めてアルバイト7人が配置されていました。女性のアルバイトは、子どもをなだめたりするのが上手です。さすがは母性本能というべきでしょうか。僕ら野郎どもには、子どもをだっこして、よしよしして、泣き止ませるような真似ができません。

 玩具売り場のS係長は、もの静かな人でした。いつもニコニコしていました。まるで、売り場の空気に溶け込んでいるように、ちんまりとデスクに座っている人でした。何事も、与えられたことを、黙々と作業する、温厚な仕事人……、そのように見えました。僕は、勤務日報にハンコが押されるのを順番に待っていました。

S係長 「はい、お疲れさま」

田所 「ありがとうございます」

 交わした言葉は、これが最初で最後。翌日は土曜日。土曜日曜に向けて、催事場の大規模な模様替えをする、通称「撤去」の日になっていました。正社員は深夜にかり出され、バイトには何も知らされていなかったけれども、漏れ聞こえてくる声は「撤去は大変だよ、なにせ徹夜だから」という仕事のハードさでした。

■ダリアの花散るとき

 ……週明けの食堂の壁に、1枚の訃報が張り出されていました。それは、先週まで元気だった、S係長の死を報せるものでした。撤去の終わりかけ、午前4時に救急搬送され、そのまま息を引き取ったというのです。死因は脳内出血。千葉市(若葉区)都賀(つが)にある、とある斎場で儀式が執り行われる旨が書かれていました。

 信じられなかった僕は、アルバイト担当の人事の正社員Kさんに、改めて確かめたのです。「はい、S係長は先般、お亡くなりになりました」と、いつもより深刻な表情を浮かべていました。過労死を、身近に、肌で感じた最初の瞬間でした。

 売り場の入り口には、かならず自動的におじぎをしてご挨拶する「ダリアちゃん」人形。そして、当時の百貨店のシンボルフラワーは、白いダリアでした。確かに、ダリアの花がひとつ、間違いなく散った気がしました。企業戦士が戦死したのです。そのことだけは紛れもない冷厳な事実でした。

 あれから、千葉市を去るまで、まるで何事もなかったように振る舞っていました。20歳の成人式は幕張メッセであったらしいのですが、バイトが理由で欠席しましたので、その後、千葉市から紅白饅頭が我が家にもたらされました。兵庫県にある、伯父の会社に転職予定だったので、「契約社員にならないか」と言われても、お茶を濁していました。帰郷することを腹に決めていたからです。

 ……初めて勤めた会社は、なかなか忘れられない。ひとつの命が、壊れた瞬間でした。そしてそれは、僕が歳を重ねても、白いダリアを見るたびに思い出されるのでした。死ぬぐらいしんどいのならば、そんな職場はやめておいた方がいい。そう思うのでした。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


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目覚めの朝、午前5時

 冷たい冬の夜空を肌で感じるこの時期。思い出すのがつらいけど、震災のことです。……まず、無事に生かされた、という事実に感謝しなければなりませんね。幾千の風になって、犠牲者の魂が神戸の空を今も包んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

■阪神大震災発生 震度6強の兵庫県尼崎市

 平成7年(1995年)117日、午前546……。尼崎市北部の住宅で……。ドーン!!ガッシャ、ガッシャ、ガッシャ……。母親が何故か、僕を素っ頓狂な声で慌てて起こしに来ました。

 「あんた、揺れたん分かっとる!? 地震やで!! 地震!!」「へ?」……寝ぼけ眼の僕は「へ?」としか言いようがなかったのですが、仕方なく起き上がって懐中電灯で照らすと、食器棚の硝子や食器が砕けて粉々になっていました。テレビやパソコンは後ろから蹴飛ばされたように、配線によって辛うじてぶら下がっていることが分かりました。夜が白み始めると共に、電気がつかないこと、ガスが点火しないことが分かりました。

 電話はランプが明滅していてダイヤルが出来ない状態に陥りました。携帯電話なんて気の利いたものもなく、当時は一部のPHS業者があっただけで、携帯電話よりポケベルが一般的に主流でした。「災害用伝言ダイヤル171」もなかった時代のお話です。電気が復活したのは午前72……。その後も瞬間停電を繰り返して……

 家の掃除をして、取りあえず会社に行かなければいけないのですが、南へ下る道路上に、山陽新幹線の高架橋が落っこちているような有様。他に家族もなく、母親に何かを食べさせないといけない、何かを飲ませないといけない。まずは水を確保するために、近所の大規模災害避難所の小学校に行きましたが、ゴミ箱に汚い葉っぱが浮いた水しかなかったのでお話にならない。

 2級河川「武庫川」の河川敷でバケツに水を汲んだのですが、そこへ陸自のヘリコプターが飛んできたので、バケツを持って空に合図を送りました。合図は届いたのでしょうか……。川の水だって、余り衛生的ではない上に、自転車に乗せるとふらふら揺れて全て路上にこぼれてしまう……。我が家では、当時の映像記録は、午前7時からのNHKニュースとして録画しています。見返す度に、胸が痛みます。

■灯油用18リットルのポリタンクを求めて、京都・滋賀方面へ

 近所のスーパーは耐震判定がつかないので、この先ずっと休業。阪急電車で塚口に降り立つも、スーパーが開く気配ゼロ。十三で乗り換えて、阪急京都線方面へ。琵琶湖(大津市)に行くことまで想定してお金とクレジットカードを用意したのは良かったのですが、阪急淡路、茨木市、高槻市のスーパーもポリタンクが悉皆(しっかい)売り切れている模様でした。

 何とか長岡天神までやって来たものの、駅前でポリタンクを売っている気配がしないのです。おそるおそるコンビニの店員さんに聞いたところ、「郊外に金物屋さんがあるので、そちらへ行かれてみれば」といったお話。こんな日でも阪急タクシーは営業をしている……。事情を説明して、金物店へ向かうのでした。

 ハイヤー然としたクルマの到着に金物店店主は驚いた様子。「なんと、尼崎から来はった!! ささ、いま京都から仕入れたばかりのポリタンク、好きなだけ持って行きなはれ」「……あのー、何で僕がポリタンクを買うって知ってるんですか」「いやあ、午前中に神戸ナンバーのクルマが大挙して押し寄せて来たよってに、それで」「……

 駅のホームで、ポリタンクに「阪急の水」を汲む田所。阪急の駅員にもかなり目立ち、向かいのプラットフォームで駅員同士のヒソヒソ話が絶えなかったのですが、もはやそんな恥や外聞を気にしている場合じゃないのです。武庫之荘では水がまるで出ないのです……

 震災で一番困ったのが水の確保でした。奈良県五條市の給水車、京都府向日市の給水車、そして自衛隊の給水車……。並べども並べども、ここでおしまい。また行列。そして本日はこれにて給水終了。それでは困るので、仕方なく、地図上で最も近い浄水場を探すことになりました。兵庫県伊丹市の千僧浄水場でした。伊丹市水道局のおじさんが待機しており、「あのー、尼崎市民ですが、給水よろしいでしょうか」と問う25歳の僕。「ああ、黄色いタンクの下に蛇口がついているから、そこから」「ありがとうございます」「それから、このアルプスの天然水も持って帰りなさい」「え?いいんですか?」「困った時はお互い様やから」。……見ず知らずの人間にくれた水もさることながら、くれた義理人情がとてもうれしくて、感謝感激でした。

■田所救出作戦と、通信制高校と印刷会社のその後

 印刷会社の営業部では、いつまでたっても出社せず、連絡の取れない田所が心配になって、「田所救出作戦」を発動しようとする動きがあったそうです。一応、連絡をして良かった……。また、通信制高校からは「通学路ががけ崩れ、校舎及び校庭が損壊。通学するには危険を伴うので別途指示あるまで自宅待機」、次いで「平成7年度(4年次)の単位はすべて災害につき免除」というお知らせの郵便が届きました。通常なら「ラッキー」と喜ぶのでしょうが、ニュースで再三報道されている神戸市長田区の状況を見ていたので、それどころではない、死者を悼む気持ちが、まず先に立ちました。

 会社は全壊。3階からトイレの下水が漏る。悉皆パソコンのCRTは床に落ちている。活版印刷部門は活字が崩落して再起不能。総務部長の書類棚から割れた硝子を拾う作業を手伝って、その日は仕事なし、といった状態でした。

 その後、単位制の青雲高校は卒業。3年次で学級副委員長、4年次で学級委員長を務め、復興間もない神戸市長田区の文化祭でバザーを行ったことで成功に導きました(学校特別賞を受賞)。北海道産じゃがいもの箱を、宅急便で3箱、学校に送ったのが利いたかな。そうしてやっと、平成83月に84単位を取って卒業できました。通常に比べ、4単位オーバーだったのです。おかげで再び「自律神経失調症」で県立病院に通うことになったのですが……

 また、印刷会社では、新社屋を建てようという動きがあって、実際に「エメラルドグリーン色」の小綺麗な建物が建ち、組版システムもMacEdian PLUSが導入され、僕自身も震災間もない神戸に行き、兵庫県印刷工業組合のDTP講習を受けに行ったのですが、その後の経営はうまく行かず、平成121月には働ける人から(僕も)解雇、そして平成124月には倒産の憂き目に遭いました。ちなみに今は、その「エメラルドグリーン色」の建物は、印刷とは全く関係のない、おまんじゅう工場になっています。


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

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ナナゼロ世代のこれから

 1970(昭和45)年は、日本万国博覧会 EXPO70が開幕された年でした。万博のコンセプトは「人類の進歩と調和」。この時代の雰囲気としては「建っていくぜ団地!!」「産まれるぜベイビー!!」「売れてるぜマイカー!!」……といった景気が右肩上がり、いわゆる「いざなぎ景気」の時代でして、「モーレツからビューティフルへ」や「ディスカバージャパン」といったキャッチコピーがもてはやされた時代でした。

■あれから約40年「人類の進歩と調和」は実現したのか

 あの頃、誰しも夢に描いていた、SFのような21世紀。その青写真は「人類の進歩と調和」でした……。いざ、21世紀になってみると、むしろ「人類の頽廃と牽制」といったような有様でして、あれとこれとを混ぜて行う「硫化水素自殺」だとか、資本主義に抗い、一切の消費をしない「サイレントテロ」だとかは、当時、想像もできなかったでしょう。鉄腕アトムが生まれたはずであろう年を過ぎても、これといってSFライフらしい兆候は微塵も見えず、ただただ、通勤電車の中で、疲れ切った僕ら世代がいるだけです。

■ナナゼロ世代のこれまで

 1970年生まれのことを、ここでは「ナナゼロ世代」と呼びましょう。いわゆる「団塊ジュニア」のことです。ナナゼロ世代は幼児期を高度経済成長期に過ごし、何でも買い与えられ「1人っ子」「鍵っ子」と呼ばれる世代でした。小学生からすでに「教育ママ」に尻を叩かれ、名門校へのアタックコースを歩まざるを得ませんでした。周囲のみんなは、友達というよりも、むしろライバルであり、ライバルを蹴落とし、蔑むテクニックを要求されました。今よりも「私立中学校」への進学熱が高く、競争に次ぐ競争でした。

 それだけ頑張って勉強したのに、20歳代に入る1990年代前半には「円高不況」「バブル崩壊」の憂き目に遭い、バブルのうま味も知らないまま、空前の「買い手市場」になり、街角には映画「就職戦線異状なし」のテーマソング『どんなときも。』が流れているような状態。会社は次々と倒産や合従連衡を繰り返します。また、人材派遣法が改正されると、それまで「正社員」と「アルバイト」しかなかった雇用環境に「派遣」の2文字が付け加わりました。そこで「正社員になるための競争」「正社員と派遣社員とのバトル」が展開され、職場は冷戦状態に。

 30歳代になると、インターネットとクライアントOSが普及し始め、産業構造の大転換を迫られてしまいます。それまでの常識が一切通用しなくなり、旧態依然とした産業は淘汰され、競争は国際間でボーダレスになり、今度は、顔も見たこともない外国人労働者と、雇用や仕事のパイを奪い合うようになりました。また、既存の商習慣も大きく変わり、店舗を持たないネットビジネスが盛んに用いられるようになりました。店舗型営業がバタバタと倒産していき、無店舗型営業が勢力を増してきました。

 そんな「ナナゼロ世代」が、もうじき40歳代を迎えようとしています。競争に次ぐ競争で疲弊した身体に、自身の老化と、かつて「モーレツ社員」や「教育ママ」だった親の介護がのしかかってきました。かつての「教育ママ」は「後期高齢者」と呼び名を変えて、子供のスネをかじり始めました。疲れも限界です。「親の子殺し」「子の親殺し」などという物騒なニュースは日常茶飯事になり、世代間のカネの奪い合いはやがて「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」に代表されるような事件へと発展していきました。

 ふと、気がつけば、競争に追いまくられた「ナナゼロ世代」には、定年までの残り時間があと20年程度しか残されていないことに気付き、焦ります。また、若手の台頭で、再び世代間の競争に追いまくられる「ナナゼロ世代」がいて、ゲームの攻略にも似た、それまでにない難しい「正社員雇用」のゲームが始まり、ついに「ナナゼロ世代」は世を悲観して死を選ぶか、世を悲観して子孫を残さないか、かつての「モーレツ社員」や「教育ママ」をせっせと「姥捨て山」(介護施設)に運ぶ作業か、世捨て人になって「競争を拒絶」せざるを得なくなってきているのです。……このような人生を過ごして、疲れが出ない訳がないでしょう。

■ナナゼロ世代のこれから

 僕としては、情報技術に何らかの形で関わって行きたい反面、それに拘泥したくもない、それに振り回されたくない、という気持ちでもあります。現在、いくつかの金融機関が「農業法人への融資を拡大する」といったニュースも聞こえてきます。たまに、ラジオなどで耳にする「帰農」への動き。それは果たして「疲れ切った日本人への福音」なのか、それとも単なる「サラリーマン減らし」なのか……。政府が、それとはなしに「田舎暮らし」を勧奨する背景には、やはり「飽和した都会での人減らし」、つまりは「棄民」の意図が見え隠れしていて……そこらへんは警戒しています。

 実際、僕のハンドルネームが「田所稲造」なので、ここはいっちょ、農業法人を建てて、文字通り「田の所で稲を造る」人間になってみても悪くはないかな、という気にも、時々ではありますが、そうさせられます。病気になりやすいから便利な都会を選ぶのか、便利な都会にいるのでストレスから病気になりやすいのか、そのどちらかは、まだ判然としませんが(苦笑)。


眼鏡を外し、森の中で、これからを、よーく考えてみる図


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54


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