目次
若き日の自分
それが夢ならば
アンコントローラブル
MZ-2000の頃
ここじゃないどこかへ
千葉工業高校の頃
夢中! 熱中! MSX2
ゼッパチ人間の過去・現在・未来
プログラマになるべきか
社会人になって
出てけと言われたその日から
ダリアの花散るとき
はじめての機械設計(1)
はじめての機械設計(2)
エディトリアルデザイナー
瞬きもせず
目覚めの朝、午前5時
ナナゼロ世代のこれから
思索と模索の日々
デジタルネイティブ
恐慌突破!
倒産したら、どうする
とほほな中小企業
これはもうダメかもわからんね
神様がくれた最后の5分
時には母のない子のように
アラフォー世代の挑戦
ブレイクスルーしたくて
謹賀新年2009
応用情報技術者試験
セミナーを受けに行きました
サーチエンジン 小説大好き!!
小説 個人情報の住む街
能動的に生きるということ
勉強嫌いの勉強法
浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んで行く
サバイブするということ
仮想自営体験
自営するということ
自己観察 ―セルフモニタリング―
ハチロク世代がやってきた
なぜコンピュータにこだわるのか
JWNTUGの頃
人生の踊り場で小休止
拝啓 15歳の僕へ
90歳のミスター
自分をメンテナンスする
ワークライフバランス
花の生涯
2010年はチカラを温存する年に
謹賀新年2010
思索と模索の果てに
勉強嫌いな学生の皆さんへ
応用情報技術者試験、その後
これから製作所
ハッタリのススメ
中小企業が守っていない企業経営の基礎
ギスギスした職場への処方箋
選手からコーチへの転身
タクシードライバー
デイ・ドリーム・ビリーヴァー
関東と関西の境界線
10年前に、クラウドがあったなら
輝く人になりたくて
工業高校生の就活について(1)
工業高校生の就活について(2)
糖尿病 ―40歳からの警告―
後に続け青春たちよ
小説を始めました
工業高校生の夏休み
校舎の外の世界では
快適!! 朝型生活のススメ
ルック・アジア型にシフトしよう
幸せって何だっけ
連載2周年 書き始めた動機について
最近思うエトセトラ
気合いだ! はどこから来ているのか
PHPビジネス新書『伝える力』/池上 彰
Twitterに違和感を覚える人々
「させていただきます」の濫用
Windows 7 のHDD換装は超簡単!!
電子書籍の奔流
隣の芝生が青く見えた時
休筆のお知らせ
最近思うエトセトラ Part2
MSX PLAYerに寄せるノスタルジー
プログラミングの現場で『もしドラ』を生かす
ソニーの電子書籍 Reader を試してみた
Outlook 2007 で、KB2412171のアップデートをされた方へ
母校の恩師、クリティカルシンキングを語る
神奈川県座間市の電脳書房さん
近況報告 64bitパソコン導入など
ソーシャルメディアがたこ焼きを変える
最近思うエトセトラ Part3
東北地方太平洋沖地震
SPAMはSPAMであってspamにあらず
マイクロソフト スマートビジネスセンター 景品当選!!
呼吸をするように、自然にものが書けるようになればプロ
日本語という言語を極めたい
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

1 / 88ページ

試し読みできます

それが夢ならば

 皆さん初めまして。インフラ系SEの田所です。どうぞよろしくお願いします。

 このコラムでは、1970年生まれのN5200model05Z80アセンブリ人間が、これから初めて情報技術者を目指す若者の皆さんに、生きていくためのメッセージなどをお伝えできればと思っています。

■はじめに

 現在のように、まだ明確なキャリアパスや、メンタルヘルスや、インターネットやRDBすらなかった時代の人間の失敗談を含めて、お伝えできればと思います。例えば、親御さんのカネで大学に行けた人は、ご自身の努力もさることながら、親御さんの力も大きいわけです。まるできら星の如く、優秀な方がおられるこのコラム内にあって、工業高校情報技術科の無頼で低学歴な人間の言うことですから、恵まれた方へのメッセージというよりも、どちらかと言えば恵まれない境遇の方へのメッセージを、生きることが困難な時代だからこそ分かち合おうというコラムです。楽しい読み物にしていくつもりですので、まったりと付き合ってください。

■2代目のお坊ちゃま社長になる予定を変更して……

 今をさかのぼること昭和50年代に、父親の事業が、手形の裏書き(保証人詐欺)で失敗したので、借金取りこそ来なかったものの、北九州市小倉の家はなくなり、追い立てられるように家を明け渡したのが9歳の春。東京 吉祥寺の父方の親戚を頼って、川崎市 宮前平に引っ越しました。その時点で父親の「九州グラスロン」は消えてなくなり、一族の「スラッグウール工業所」は新日鐵化学を経てやがてニチアスのものになり、現在では別な名前の会社になっている模様です。

 ですので、今頃父親の事業が成功していたら、鉄冷えの街で断熱材屋の2代目社長をつとめていたところです。いま思えば「継がなくて良かった……」と感じています。コンピュータに巡り会うこともなかったでしょうし、何でも電話とFAXで済ませているようなローテク人間になっていたと思います。

ラジカセを鉄くずにした子供時代

 幼児の頃から、メカがあれば、何でも分解して、中身を見てやろう、という、好奇心のかたまりだったからです。まず手始めに、弱冠3歳にして、父親のステレオを粗大ゴミにしました。レコード針がくっついている、アームをもぎ取ったらしいのです。「これは何だろう」。ただそれだけの理由からです。それからというもの、ラジカセを鉄くずにすることは、ほぼ日常茶飯事。親にしたら、さぞかしカネのかかる、迷惑な子供だったことでしょう。それは9歳頃まで続きました。

 根底には、子供の好奇心があります。例えば、このボタンを押せば、音が出る。そういう結果が出ることはわかった。でも、中身は一体どうなってるの? といった、無邪気な好奇心からです。もしそのとき、Java言語があったなら、オブジェクト指向に走っていたのかも知れなかった。しかし、そんなものはなかったので、ラジカセの一切合切をバラバラにしてみる

 例えば、それが磁気ヘッドという名前であることや、磁気記録の原理を知らなくても、そこがテープをこすって、読み書きしているのだと想像がつく。バリアブルコンデンサという名前は知らなくても、そこがラジオのチューナーのダイヤルと連動して動くので、おそらくラジオの選局に関わる部品だろうと想像がつく。スピーカーのコイルがどんな電磁力を受けてウーハーを動かすのか分からないものの、そこから音が出ることだけはわかる、といった具合にです。当時のラジカセは、国産で、かつ、ものすごい実装密度だったので、ふたたび部品を集めて組み立て直そうにも、二度と組み上がらないという、プロでも難しい代物でした。

■何でも買い与えられていた甘ったれが、突然放り込まれた都会で

 僕のような転校生も、地元宮前平の人間も、お互いまだ小学生ですから、悪気はないのでしょうが、まず方言を馬鹿にされました。北九州では机を「繰る」のに対して、宮前平では机を「かたす」と言いました。また、転校生をいじめてやれ、と考える子供は今も昔も、どこにでもいるものでして、のどかな九州テイストをかもしだしていた僕は格好のターゲットになりました。公園に呼び出され「何が気に入らないか知らんが、殴るなら殴れ」と言う僕に、遠慮会釈もなしに殴りかかってきて、31。ボッコボコでした。全身青あざだらけで帰宅した僕を、母が見るに見かねて小学校に相談しに行きました。結果、学級担任が「卑怯者、みんな彼に謝れ!!」ということで一件落着したのですが、都会というのはおそろしいところだと子供心に感じました。

■それが夢ならば

 近所の医者の息子が「某大手中学進学塾」のたまプラーザ校に入校しているという噂を聞きつけて、母親が「同じところに行きなさい」と命じたのでありました。中学進学塾がどういう所かも知らずに。そこでは、トリッキーな問題ばかりが書かれたテストが毎日のように配られ、点数化され、Aクラス、Bクラス、いちばん出来の悪いCクラスといった具合に、実名でリアルタイムに序列化され、廊下に模造紙で貼り出されてゆくのです。これは子供心にプライドが傷つきました。

 最初はその医者の息子さんに合わせてAクラスで入学したのですが、夜更かし勉強しても追いつかず、喘息を出してまで頑張ったのですが、Bクラス、Cクラスと落ちていき、友達との溝も深まる中で、最後には宮崎台の駅でひとり泣き出す始末で、別の友達が声をかけてくれた時には「もう嫌だあああ」と泣き崩れて、なぐさめられ、結果、中学進学塾をあきらめざるを得ませんでした。その後「あら、そんな所とはつゆ知らず、ごめんねー」と母親が……。当時の進学事情を全然わかってなかったんですね……

 進学塾がくれた校歌のレコードのB面には、小椋佳さんの「それが夢ならば」という歌が入っていました。マルコ・ポーロの冒険のエンディングのひとつですね。どんな時も、どんな人も、どんな事も、どんなものも、それが夢ならば――

■大自然あふれる千葉県富里市で

 当時、小学5年生。仮住まいだったので、たとえば埼玉小手指や入間、横浜 金沢文庫、神奈川 本厚木など家を探し、実際に見に行きましたが、結果的に落ち着いたのが千葉の京成成田でした。当時のスローガンが「第二の田園調布を目指す日吉台ニュータウン」というのがキャッチコピーでした。第二の田園調布っていったい……。確かに「田園」はありましたが……

 大自然あふれる富里市でしたから、宮前平とは全然違いました。教育としてはむしろ「身体を鍛えなさい、心身の調和」を目指していた模様で、確かに身体の鍛えられた生徒が、体育館のなわを、するすると昇って降りていく様を見るにつけ、全然違うなあ、僕にはできないなあ、という印象を受けました。

 ただ、小学校の勉強は、すでに連立方程式を勉強しているぐらい当時すごかったので、困ることはありませんでしたが、この時の油断が、後の「勉強嫌い」を生じさせる元になったんですね。油断は禁物です。


1
最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

試し読みできます

アンコントローラブル

 今回は、ある意味、僕の強運と、ある種の悲しみをお伝えしなければなりません。単独機としては世界最大の犠牲者を出した、日航機123便のお話です。もしかしたら、乗り合わせていたかもしれない、と思うと、今でも背筋が凍る思いがします。

■日航機123便と新幹線の僕と携帯ラジオと

 「大阪の実家に帰らせていただきます」。頑固一徹の父親の横暴に耐えかねた母親が、僕を連れて急に大阪へ行こうと言い出したのです。僕はてっきり夏休みの観光旅行だと思い、うわあ、新幹線に乗れる、おばあちゃんたちに会えるといった、天然丸出しの無邪気さでした。ところが、母親はなぜかのっぴきならない苛立たしさを全身に漲らせていて、子供にはその怒りがどこから来るものなのかが全然分かりませんでした。

 当時、田所は15歳。昭和60年(1985年)89日、下りの新幹線で来阪したのでした。宿泊先は旧ホテル阪神(西梅田)でした。34日の滞在予定でした。その間、母親がどういう会話をしたのかは不明でしたが、伯母の「あんたら一体どうしたん?」という声がなぜだか印象的でした。

 812日、国鉄立花駅(兵庫県尼崎市)から新大阪駅まで普通電車に乗りました。僕は、魔が差したのか、いつもは立ち寄らない新大阪駅のキオスクで、1100円のポケットAMラジオを衝動買いしたのでした。「また、あんたはしょうもないもん買うて!!」と母親に怒られたのですが、欲しいものはどうしても仕方がないので、自腹を切って買いました。新大阪駅の構内でご飯を午後5時に食べて、午後6時台のひかり号で東京を目指したのでした。南側の窓側に陣取った僕は、先程のAMラジオを点けてみました。一番感度が良い(音声出力が大きい)AM放送局は、NHK1放送だということを何となく知っていたので、地域によって頻繁に変わる周波数にもだいたいチューニングが出来ていました。

 浜松を過ぎた辺りで、不意に聞こえたNHKのアナウンサーの声が、いつになく緊張していました。臨時ニュースの模様でした。「番組の途中ですが、東京のスタジオより臨時ニュースをお伝えいたします。東京航空交通管制部によりますと、午後6時過ぎ、日航機123便、羽田発伊丹行きの機影がレーダーから消えたとのことです。なお、機影が消えた地点は長野県の山中であると思われます。繰り返します……」という第一報を伝えたのでした。

 当時の新幹線0系には、車内ラジオも、電光ニュースもない状態でしたので、日航機123便の事故の第一報を知っていたのは、おそらくラジオを聴いていた僕だけでした。子供心に、大変なことが起こっている、と感じました。「なあお母さん、羽田発伊丹行きの飛行機の機影が消えたらしいよ」と伝えると、母親は無言でうなずいていました。

 母親は本来、飛行機が大好き。今から思えば、もし、出発日時が遅れていたら。もし、羽田発の飛行機を選んでいたら。そう考えると、背筋が凍る思いがします。午後11時、国鉄成田駅から富里市の自宅に帰宅した僕たちを待っていたのは、テレビの臨時ニュースを食い入るように見つめていた父親の姿でした。ふと僕らを振り向くと、こう言いました。

 「お前ら、大阪行きの飛行機が、いま大変なことになっちょるぞ……

 犠牲者のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。


2
最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

試し読みできます

ゼッパチ人間の過去・現在・未来

 最近の人たちは、どんなボードマイコンを利用しているのだろう。もしかしてμITRONとかC言語とか、そんな高級言語が走るやつでしょうか。僕らの学生時代は、機械語、つまり、バイナリデータで動かすパソコンでした。いわゆるZ80世代ですかね。もっと言えばZ80Aというやつですね。


 命令語も簡単で、A(演算)レジスタにぶち込んで、ビット操作、論理演算、インクリメント。また、強引にIX(インデックス)レジスタにアドレスをぶち込めば、プログラムの実行先(ポインタ)を変えることもできました。ローテイトシフト(数珠つなぎになった01を左右にずらす)ってまだ概念として残っているのでしょうか。新しいのをやったことがないのでよく分かりません。そして現在でも「2の補数」で引き算をやったりするのでしょうか。

■TK-80には間に合わなかったけれど


 Z80Aが搭載された、実習用のボードマイコンに、ちまちまと機械語を入れていくと、実行をしたときに、たとえば簡易電卓になるとか、日の字のLEDが光るとか、毎日が楽しかった記憶があります。また、自分でプリント基板を焼く作業もしました。フォトレジストではないのですが、特殊なペンを使い、銅板にペンで描かれた部分は溶け残り、何も描いていない部分は溶剤で溶ける、という仕組みでした。今でも高校では、こういうことをしているのでしょうか。また、今でも、論理回路用のICチップ(NANDゲートなど)でフリップフロップ回路とか、発振回路とかお作りなのでしょうか。ああ、母校に行きたくなってきた。お金ないけど。


 そういえば、たとえば、秋葉原の
秋月電子通商さんにキットやパーツを買いによく出かけました。また、西千葉のパーツ屋さんにもよく行きました。……今のPICマイコンって、すごくシンプルですね。集積度が高いです。あと、トランジスタ技術という書籍を定期購読していましたね、あの頃。


懐かしの「トランジスタ技術」、20年振りのゲット!!


これぞ電子計算機だ、と呼べるFORTRAN77


 今のFORTRANには行番号がたぶんないと思う(構造化されていて)のですが、当時のFORTRANには、きっちり行番号がありました。GOTO文(この行番号へ行け)もありましたが、これに慣れたり、頼っちゃうと、構造化された言語にとっつきにくい、という欠点がありまして、未だに難儀しています。インスタンス? 何ですかそれは。僕の世代は、UML図じゃなくて、単にフローチャートだけでしたからね。上から下へ流れるという流れ図のみ。今ではプログラミングをするのにも複雑化してきて、とても老人の付いて来られる世界ではなくなって来ています。つまり、従前の言語では、入力があるまで、入力ルーチンを繰り返すことで処理してきたのですが、現在のように、イベントドリブン方式(きっかけに対して処理を行う)は、残念ながら実務経験が余りありません。


これのどこが商業系? と疑問に思ったCOBOL80


 年を経ても絶対に忘れていないのが、最初の定義文。たとえば、「IDENTIFICATION DIVISION」とかいう、変数定義です。あとは余り印象には残らなかったのですが、いちおう課題は製作しました。なんだか、面倒くさいな、と思った記憶はあります。学生当時、取扱説明書を見て、COBOLは「COBOL自身には何の保証もありません」と書かれていたことにびっくりしました。今考えれば、つまり、COBOLは、主にカネ勘定に関わる言語なので、もしプログラミングのミスをして、たとえ損失が出ても責任をとりませんよ、というスタンスだったんだろうと、今にして思えば納得できます。


「あんた、年いくつ?」と言われそうなテレタイプも経験!


 
YHP(横河ヒューレットパッカード)の、なんと主記憶装置がコアメモリ、そしてCPU4ビットという、最古参のパソコンを操作したことがあります。それにプログラムを入れるには、鑽孔テープ。つまり、テレタイプ装置で打鍵する、という具合にです。途中で打鍵し間違えたならば、ビットにすべてに穴を空けて無効(NOP)にする、そして、途中で紙テープがちぎれたら終わり、という、なんともまたすばらしいパソコンでした。今でも現存するならば、国宝級かも分かりませんね。


 ちなみにコアメモリとは、記憶時に電磁力(フレミング右手の法則)を利用して、ごく小さなドーナツ状の磁性体(フェライトコア)に磁場を与えて励磁し、ポジションを記憶し、読込時には、交錯する活線の起電力のあるなし(フレミング左手の法則)を利用して読み込むという、すさまじいものでした。そして、取り出したメモリの現物を見せてもらいました。まるで、テニスラケットのガットの格子に、小さなリングが大量にぶら下がっている状態を想像するといいです。


 この場合、最早、昭和の何年製造かもよく分からない状態でした。画面表示? そんなものなかったですねえ。各々のレジスタが、何のデータを保っているかは、8つ並んだ赤色LEDのビット列のみで表示でした。……いま、扱っているコンピュータが、HP Compaq というのには、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。


純国産OS N5200 model05上の PTOS


 
そうなんです。現在のように、OSが今のように舶来というわけではなくて、こぢんまりとしながらも、キビキビ動く、国産OSがあった時代なのです。


i8086を搭載したN5200 model05。 涙が出るほど古いぜ!!


 一般人が参るほど古い話で恐縮ですが、当然ポインティングデバイス(マウス)もなく、サウンドと言えばビープ音ばかり。アスキーコード表をもとに入力すると「外字」が出ました。また、漢字ROMや、カラー表示はオプションでした。ハードディスク? そんなもの、教師用のパソコンにしかありませんでした。一般の生徒は、256KB8インチフロッピー(2D)にガッタンゴットンと記録する他はありませんでした。でも、計算はめちゃくちゃ速かった気がします。まだコンピュータが、電子計算機然としていた時代です。


 そこからラインプリンター(大きなドットインパクトプリンター)にデータを送り、中には、ラインプリンターで印字し、また巻き戻し、半角英数の記号で陰影や濃淡を付け、いわゆる「アスキーアート」の原型みたいな物なのですが、これでアニメのキャラクター(うる星やつらのラムちゃんとか)を描く強者がいましたね。あれはどうなっているのか、すごい情熱を感じました。一種の執念というべきか。

 それにひきかえ、今では32ビット、いや、もっと好奇心旺盛な人なら、現在64ビットOSを使っているでしょう。一般人が、パソコン操作にそんなに苦労することはなくなり、パソコンの垣根を下げたのは、やはりウインドウズのお陰でしょうか。それにしても、世の中すっかり変わったものですねえ。いやはや、どうりで、オレが年をとる訳だ(苦笑)。芸歴だけは長いなあ(って、それ芸じゃないし)。


飽くなき好奇心の追求

 今でも思うのです。「デバイスドライバを入れ、USBでつなげば、機能することは分かった。でも、実際のところどうなん」といった、素朴な好奇心が、この歳になっても抜けません。なので、またぞろ「トランジスタ技術」1月号を購入し、その特集「USB機器を作るためにはなにが必要?」という記事に目が釘付けになります。最近のトラ技は、イラストや図説が多く「デバイスマネージャさま」のお墨付きがないと、パソコンの配下にしてもらえない、ということが大雑把にわかります。デバイス・ディスクリプタをもとに、デバイスマネージャさまが、INFファイルを照合し、どのカテゴリのデバイスの配下にしていただけるのか大雑把に分かりました。それだけでも、もう満足ですおなかいっぱい

 また、高校3年の大事な2学期に、マイコプラズマ肺炎を起こして3カ月も入院していたおかげで、職業訓練校で習い直しても、なお、すっぽり土台から抜け落ちているC言語。知ったかぶりは格好悪いし、わかったふりをするのも気色悪いので、初心に返って、技術評論社の「C言語スタートブック」や「プログラミングのセオリー」という本をかじっています。なぜみなさんがC言語を使いたがるのか、わかった気がします。振る舞いは機械語に近く、プラットフォーム間の移植性に優れ、(ライブラリ関数は別として)予約語が少ない。その気を出せば、きれいに書こうと思えば書けるし、関数を自分で作ることができるということも魅力ですかね。まあ、僕はあまりプログラミングを仕事にしたくはないですが。例えば、COBOLで病気になった人を、何人か知ってるし。

この箱の中身は一体何だ

 例えば、機動警察パトレイバーの、熊耳武緒巡査部長が、もうすでに、立派なレイバー免許を持っているのに、なぜ最新型に合わせて免許を毎年取り直すのか。そこに、自己研鑽のヒントがあるように思います。今で言う、MCPLPICなどの資格に当てはまりますね。でも、僕は、一度受かった自動車運転免許をふいにするようなもったいないことはしませんが……。また、太田功巡査が、「どうしてレイバーが動くのか、気にしたことがあるか。得体が知れないから不気味なんだ」などと、主人公たちに問うシーンがありました。

 確かに、ペダルを踏めばレイバーは動きます。でも、そこにどんな仕掛けがあって、ブラックボックス化している箇所はどういう仕組みなのか、という問いかけでもあるようです。同様に、確かにパソコンは、キーを叩けば文字が出ます。でも、なぜ、どのようにして文字が出力されるのか。つまり、この箱の中身は一体何だ……15歳のとき、N5200や、MZ-2000に触れた僕が、一番知りたかったことです。

 クルマはアクセルを踏めば加速する。ブレーキを踏めば減速する。これ、世界の決まり。でも、何でクルマがアクセルで加速し始めるのか。そのからくりが知りたくなって、ついにメカニック、自動車整備工になった方もおられるようです。同様に、パソコンは、キーを叩けば、画面に文字が表示される。これ、世界の決まり。でも、何でパソコンはキーを叩けば、画面に文字が表示されるのか。これが知りたくて、趣味が高じて、ついにメカニック、パソコンの修理工にまでなったというわけですよ、僕は(ついでに、CEからフィールドエンジニア、インフラ系SEになっちまったわけですが(汗))。

 高校生の時、川崎製鉄千葉製造所に社会見学に行ったときのことです。製鉄所といえども、もはやコンピュータ抜きには語れません。でっかい箪笥のようなコンピュータ(確か、メインフレームと言った)が居並んでいるブースを見に行ったりしました。社会見学の、最後の締めとして、質問コーナーを設けていただきました。誰も何も質問しようとしないので、ちょっと僕が質問してみることにしました。

 「なぜコンピュータは、毎年どんどん速くなるのですか?」

試してガッテン!!

 大人たちは、顔を見交わします。何か、打ち合わせをしている様子です。しばらく待つと、ある職員さんから答えが返ってきました。

 「それについては、電子の動きから説明しなければなりません。導線を電子が移動する距離を短くすれば、短時間で電気信号を伝えることができます。短時間で電気信号を伝えることができるならば、回路はもっとコンパクトで済むはずです。そこで、回路をコンパクトにするために集積回路になり、その集積率は年々向上しています。もし、短時間で電気信号が伝わるのであれば、コンピュータの動作周波数を上げることが可能になり、高速処理が可能になるのです。回路が小さければ小さいほど能率が良くなるのです。また、集積度が上がるに連れ、より多くのトランジスタを積むことができ、ひいては、一度のクロック動作で扱えるビット数が増やせる訳でして、一度に多くの情報や命令を処理することが可能になるのです。お分かりいただけましたでしょうか」

 合点がいきました。あー、高校生の頃からこれだもんね。一見、何でもないような素朴な質問でしたが、気がつけば、いつの間にか、ムーアの法則を、本人の知らない間に質問していたという訳です。なるほど、大人たちが打ち合わせをするはずだ。それにしても、さすがは川崎製鉄、実にわかりやすく、お見事なお答えでした。あのとき、ツバつけとけば良かった。就職に困らなかったのに。でも、僕はまだ、素朴だったので、そういう欲っちい知恵はまだありませんでした。

名うてのクラッシャーが、今では修理を

 かつて僕は「クラッシャー」という異名を持つ人間でした。そこにCMOSチップがあれば、静電気で壊す。不意に、サーバーのHDDを壊す。逆向きに接続してトランスを焼く。200V商用電源をドライバーでショートさせて溶接のような火花が散る。トランジスタを逆電圧で壊す。コンデンサを破裂させる。こういったことは若気の至りで枚挙に暇がないのですが、お恥ずかしい限りです。こうして、破壊の限りを尽くして至った結論は「ここを触ったら直る」「ここは触るとヤバイ」などという経験則となってどんどん積み重なって行きました。

 人形供養があるように、もしメカ供養があるとするならば、どれだけのメカを供養しなきゃならないでしょうか。そんな反省に立ってか、いつの間にか、パソコン修理のエキスパートになって行きました。「こんな異音がしたらHDDがヤバイ」「こんな臭いがしたら無停電電源装置がヤバイ」「それは逆位相の交流電源でLANが共振している」「それはショートスパイク(瞬間停電)だ」などなど……。これは、表層的なカタログスペック的な知識ではありませんし、決まった資格でもないのですが、いわばメカをかぎわける「本能」が身についた。そういうわけです。亀の甲より、歳の功ですか。名うての「クラッシャー」は、その後改心して、名うての「修理屋さん」を目指しているのです。


7
最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

試し読みできます

ダリアの花散るとき

 あれはまだ、僕が工業高校を出たてのころ……。はじめての事業所、千葉市にある百貨店の電器売り場で、せっせとアルバイトをやっていた、そんな1991(平成3)年ごろ……

■ダリアの花咲くとき

 百貨店で母親がアルバイトをしていて、キーパンチャーが足りないから、パソコンに詳しい人を……というので、「キーパンチぐらいならまかしとけ!!」といった案配で、1日だけ手伝うことにしました。

 幸いにして、日本語106キーボードだったので、パートのお姉さん2名がカードを入力するのですが、僕はその700枚のカードの山を、たった8時間で入力し尽くしてしまったのです……。おかげで、自律神経をこわして、3日間寝込むことになったのですが(苦笑)。僕はそこで、くだらないながらも「伝説」になったのでした。

■大学生に混じり、生活費を稼ぐためのアルバイト

Y係長 「田所くん、ちょっと玩具売り場に助っ人で行ってくれないか。明日から1週間」

田所 「はい、わかりました」

Y係長 「えー、玩具のSさんという係長がいるから、そっちで子ども広場の応援ね」

田所 「わっかりました、はい、日報です」

Y係長 「はい、理由なきハンコ、なんちゃって。ほれ、ぽちっとな」

 「なんちゃって」が好きな、AV商品売り場のY係長さんでした。ジェームス・ディーンが主演のアメリカ映画、『理由なき反抗』(1955年)というものがあると知ったのは、それからずいぶん過ぎてからでした。

 その翌日から1週間は、玩具売り場へ配属されました。当時はやっていた、ゴマフアザラシのゴマちゃんが主人公の「少年アシベ」というアニメのキャンペーン中で、そのテーマソングがエンドレステープに詰められて繰り返し流されていました。

 チントンシャンテントン いますぐ チントンシャンテントン……♪

 僕は、フルタイムかつエンドレスで繰り返される「チントンシャンテントン」にいささか辟易していました。ヨーヨー掬いのゲームの実演をしていて、くそ生意気なガキども……、いや、お客様のお子さま、お坊ちゃま、お嬢さまたちから、おっさん呼ばわりされて、内心、オレはおっさんちゃう!!……と、ムカついていたのだけれど。

 僕は、ダークグレイの背広の上に、百貨店のハッピ(!)を着て、頭に手ぬぐい巻いて(苦笑)、確かに、子供たちからしたらおっさんに見えたことでしょう。1100円をもらうのは、こんなにしんどいことなのか……。「おっさん、こっちー」「おっさん、僕もー」……お、お前らああああ!!(怒)

 それにしても、バブル末期の玩具売り場は、毎日たいへんな忙しさで、僕や仲間を含めてアルバイト7人が配置されていました。女性のアルバイトは、子どもをなだめたりするのが上手です。さすがは母性本能というべきでしょうか。僕ら野郎どもには、子どもをだっこして、よしよしして、泣き止ませるような真似ができません。

 玩具売り場のS係長は、もの静かな人でした。いつもニコニコしていました。まるで、売り場の空気に溶け込んでいるように、ちんまりとデスクに座っている人でした。何事も、与えられたことを、黙々と作業する、温厚な仕事人……、そのように見えました。僕は、勤務日報にハンコが押されるのを順番に待っていました。

S係長 「はい、お疲れさま」

田所 「ありがとうございます」

 交わした言葉は、これが最初で最後。翌日は土曜日。土曜日曜に向けて、催事場の大規模な模様替えをする、通称「撤去」の日になっていました。正社員は深夜にかり出され、バイトには何も知らされていなかったけれども、漏れ聞こえてくる声は「撤去は大変だよ、なにせ徹夜だから」という仕事のハードさでした。

■ダリアの花散るとき

 ……週明けの食堂の壁に、1枚の訃報が張り出されていました。それは、先週まで元気だった、S係長の死を報せるものでした。撤去の終わりかけ、午前4時に救急搬送され、そのまま息を引き取ったというのです。死因は脳内出血。千葉市(若葉区)都賀(つが)にある、とある斎場で儀式が執り行われる旨が書かれていました。

 信じられなかった僕は、アルバイト担当の人事の正社員Kさんに、改めて確かめたのです。「はい、S係長は先般、お亡くなりになりました」と、いつもより深刻な表情を浮かべていました。過労死を、身近に、肌で感じた最初の瞬間でした。

 売り場の入り口には、かならず自動的におじぎをしてご挨拶する「ダリアちゃん」人形。そして、当時の百貨店のシンボルフラワーは、白いダリアでした。確かに、ダリアの花がひとつ、間違いなく散った気がしました。企業戦士が戦死したのです。そのことだけは紛れもない冷厳な事実でした。

 あれから、千葉市を去るまで、まるで何事もなかったように振る舞っていました。20歳の成人式は幕張メッセであったらしいのですが、バイトが理由で欠席しましたので、その後、千葉市から紅白饅頭が我が家にもたらされました。兵庫県にある、伯父の会社に転職予定だったので、「契約社員にならないか」と言われても、お茶を濁していました。帰郷することを腹に決めていたからです。

 ……初めて勤めた会社は、なかなか忘れられない。ひとつの命が、壊れた瞬間でした。そしてそれは、僕が歳を重ねても、白いダリアを見るたびに思い出されるのでした。死ぬぐらいしんどいのならば、そんな職場はやめておいた方がいい。そう思うのでした。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


10
最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

試し読みできます

目覚めの朝、午前5時

 冷たい冬の夜空を肌で感じるこの時期。思い出すのがつらいけど、震災のことです。……まず、無事に生かされた、という事実に感謝しなければなりませんね。幾千の風になって、犠牲者の魂が神戸の空を今も包んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

■阪神大震災発生 震度6強の兵庫県尼崎市

 平成7年(1995年)117日、午前546……。尼崎市北部の住宅で……。ドーン!!ガッシャ、ガッシャ、ガッシャ……。母親が何故か、僕を素っ頓狂な声で慌てて起こしに来ました。

 「あんた、揺れたん分かっとる!? 地震やで!! 地震!!」「へ?」……寝ぼけ眼の僕は「へ?」としか言いようがなかったのですが、仕方なく起き上がって懐中電灯で照らすと、食器棚の硝子や食器が砕けて粉々になっていました。テレビやパソコンは後ろから蹴飛ばされたように、配線によって辛うじてぶら下がっていることが分かりました。夜が白み始めると共に、電気がつかないこと、ガスが点火しないことが分かりました。

 電話はランプが明滅していてダイヤルが出来ない状態に陥りました。携帯電話なんて気の利いたものもなく、当時は一部のPHS業者があっただけで、携帯電話よりポケベルが一般的に主流でした。「災害用伝言ダイヤル171」もなかった時代のお話です。電気が復活したのは午前72……。その後も瞬間停電を繰り返して……

 家の掃除をして、取りあえず会社に行かなければいけないのですが、南へ下る道路上に、山陽新幹線の高架橋が落っこちているような有様。他に家族もなく、母親に何かを食べさせないといけない、何かを飲ませないといけない。まずは水を確保するために、近所の大規模災害避難所の小学校に行きましたが、ゴミ箱に汚い葉っぱが浮いた水しかなかったのでお話にならない。

 2級河川「武庫川」の河川敷でバケツに水を汲んだのですが、そこへ陸自のヘリコプターが飛んできたので、バケツを持って空に合図を送りました。合図は届いたのでしょうか……。川の水だって、余り衛生的ではない上に、自転車に乗せるとふらふら揺れて全て路上にこぼれてしまう……。我が家では、当時の映像記録は、午前7時からのNHKニュースとして録画しています。見返す度に、胸が痛みます。

■灯油用18リットルのポリタンクを求めて、京都・滋賀方面へ

 近所のスーパーは耐震判定がつかないので、この先ずっと休業。阪急電車で塚口に降り立つも、スーパーが開く気配ゼロ。十三で乗り換えて、阪急京都線方面へ。琵琶湖(大津市)に行くことまで想定してお金とクレジットカードを用意したのは良かったのですが、阪急淡路、茨木市、高槻市のスーパーもポリタンクが悉皆(しっかい)売り切れている模様でした。

 何とか長岡天神までやって来たものの、駅前でポリタンクを売っている気配がしないのです。おそるおそるコンビニの店員さんに聞いたところ、「郊外に金物屋さんがあるので、そちらへ行かれてみれば」といったお話。こんな日でも阪急タクシーは営業をしている……。事情を説明して、金物店へ向かうのでした。

 ハイヤー然としたクルマの到着に金物店店主は驚いた様子。「なんと、尼崎から来はった!! ささ、いま京都から仕入れたばかりのポリタンク、好きなだけ持って行きなはれ」「……あのー、何で僕がポリタンクを買うって知ってるんですか」「いやあ、午前中に神戸ナンバーのクルマが大挙して押し寄せて来たよってに、それで」「……

 駅のホームで、ポリタンクに「阪急の水」を汲む田所。阪急の駅員にもかなり目立ち、向かいのプラットフォームで駅員同士のヒソヒソ話が絶えなかったのですが、もはやそんな恥や外聞を気にしている場合じゃないのです。武庫之荘では水がまるで出ないのです……

 震災で一番困ったのが水の確保でした。奈良県五條市の給水車、京都府向日市の給水車、そして自衛隊の給水車……。並べども並べども、ここでおしまい。また行列。そして本日はこれにて給水終了。それでは困るので、仕方なく、地図上で最も近い浄水場を探すことになりました。兵庫県伊丹市の千僧浄水場でした。伊丹市水道局のおじさんが待機しており、「あのー、尼崎市民ですが、給水よろしいでしょうか」と問う25歳の僕。「ああ、黄色いタンクの下に蛇口がついているから、そこから」「ありがとうございます」「それから、このアルプスの天然水も持って帰りなさい」「え?いいんですか?」「困った時はお互い様やから」。……見ず知らずの人間にくれた水もさることながら、くれた義理人情がとてもうれしくて、感謝感激でした。

■田所救出作戦と、通信制高校と印刷会社のその後

 印刷会社の営業部では、いつまでたっても出社せず、連絡の取れない田所が心配になって、「田所救出作戦」を発動しようとする動きがあったそうです。一応、連絡をして良かった……。また、通信制高校からは「通学路ががけ崩れ、校舎及び校庭が損壊。通学するには危険を伴うので別途指示あるまで自宅待機」、次いで「平成7年度(4年次)の単位はすべて災害につき免除」というお知らせの郵便が届きました。通常なら「ラッキー」と喜ぶのでしょうが、ニュースで再三報道されている神戸市長田区の状況を見ていたので、それどころではない、死者を悼む気持ちが、まず先に立ちました。

 会社は全壊。3階からトイレの下水が漏る。悉皆パソコンのCRTは床に落ちている。活版印刷部門は活字が崩落して再起不能。総務部長の書類棚から割れた硝子を拾う作業を手伝って、その日は仕事なし、といった状態でした。

 その後、単位制の青雲高校は卒業。3年次で学級副委員長、4年次で学級委員長を務め、復興間もない神戸市長田区の文化祭でバザーを行ったことで成功に導きました(学校特別賞を受賞)。北海道産じゃがいもの箱を、宅急便で3箱、学校に送ったのが利いたかな。そうしてやっと、平成83月に84単位を取って卒業できました。通常に比べ、4単位オーバーだったのです。おかげで再び「自律神経失調症」で県立病院に通うことになったのですが……

 また、印刷会社では、新社屋を建てようという動きがあって、実際に「エメラルドグリーン色」の小綺麗な建物が建ち、組版システムもMacEdian PLUSが導入され、僕自身も震災間もない神戸に行き、兵庫県印刷工業組合のDTP講習を受けに行ったのですが、その後の経営はうまく行かず、平成121月には働ける人から(僕も)解雇、そして平成124月には倒産の憂き目に遭いました。ちなみに今は、その「エメラルドグリーン色」の建物は、印刷とは全く関係のない、おまんじゅう工場になっています。


15
最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54


読者登録

田所稲造さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について