目次
若き日の自分
それが夢ならば
アンコントローラブル
MZ-2000の頃
ここじゃないどこかへ
千葉工業高校の頃
夢中! 熱中! MSX2
ゼッパチ人間の過去・現在・未来
プログラマになるべきか
社会人になって
出てけと言われたその日から
ダリアの花散るとき
はじめての機械設計(1)
はじめての機械設計(2)
エディトリアルデザイナー
瞬きもせず
目覚めの朝、午前5時
ナナゼロ世代のこれから
思索と模索の日々
デジタルネイティブ
恐慌突破!
倒産したら、どうする
とほほな中小企業
これはもうダメかもわからんね
神様がくれた最后の5分
時には母のない子のように
アラフォー世代の挑戦
ブレイクスルーしたくて
謹賀新年2009
応用情報技術者試験
セミナーを受けに行きました
サーチエンジン 小説大好き!!
小説 個人情報の住む街
能動的に生きるということ
勉強嫌いの勉強法
浴びるほど 飲んだ奴ほど 死んで行く
サバイブするということ
仮想自営体験
自営するということ
自己観察 ―セルフモニタリング―
ハチロク世代がやってきた
なぜコンピュータにこだわるのか
JWNTUGの頃
人生の踊り場で小休止
拝啓 15歳の僕へ
90歳のミスター
自分をメンテナンスする
ワークライフバランス
花の生涯
2010年はチカラを温存する年に
謹賀新年2010
思索と模索の果てに
勉強嫌いな学生の皆さんへ
応用情報技術者試験、その後
これから製作所
ハッタリのススメ
中小企業が守っていない企業経営の基礎
ギスギスした職場への処方箋
選手からコーチへの転身
タクシードライバー
デイ・ドリーム・ビリーヴァー
関東と関西の境界線
10年前に、クラウドがあったなら
輝く人になりたくて
工業高校生の就活について(1)
工業高校生の就活について(2)
糖尿病 ―40歳からの警告―
後に続け青春たちよ
小説を始めました
工業高校生の夏休み
校舎の外の世界では
快適!! 朝型生活のススメ
ルック・アジア型にシフトしよう
幸せって何だっけ
連載2周年 書き始めた動機について
最近思うエトセトラ
気合いだ! はどこから来ているのか
PHPビジネス新書『伝える力』/池上 彰
Twitterに違和感を覚える人々
「させていただきます」の濫用
Windows 7 のHDD換装は超簡単!!
電子書籍の奔流
隣の芝生が青く見えた時
休筆のお知らせ
最近思うエトセトラ Part2
MSX PLAYerに寄せるノスタルジー
プログラミングの現場で『もしドラ』を生かす
ソニーの電子書籍 Reader を試してみた
Outlook 2007 で、KB2412171のアップデートをされた方へ
母校の恩師、クリティカルシンキングを語る
神奈川県座間市の電脳書房さん
近況報告 64bitパソコン導入など
ソーシャルメディアがたこ焼きを変える
最近思うエトセトラ Part3
東北地方太平洋沖地震
SPAMはSPAMであってspamにあらず
マイクロソフト スマートビジネスセンター 景品当選!!
呼吸をするように、自然にものが書けるようになればプロ
日本語という言語を極めたい
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ゼッパチ人間の過去・現在・未来

 最近の人たちは、どんなボードマイコンを利用しているのだろう。もしかしてμITRONとかC言語とか、そんな高級言語が走るやつでしょうか。僕らの学生時代は、機械語、つまり、バイナリデータで動かすパソコンでした。いわゆるZ80世代ですかね。もっと言えばZ80Aというやつですね。


 命令語も簡単で、A(演算)レジスタにぶち込んで、ビット操作、論理演算、インクリメント。また、強引にIX(インデックス)レジスタにアドレスをぶち込めば、プログラムの実行先(ポインタ)を変えることもできました。ローテイトシフト(数珠つなぎになった01を左右にずらす)ってまだ概念として残っているのでしょうか。新しいのをやったことがないのでよく分かりません。そして現在でも「2の補数」で引き算をやったりするのでしょうか。

■TK-80には間に合わなかったけれど


 Z80Aが搭載された、実習用のボードマイコンに、ちまちまと機械語を入れていくと、実行をしたときに、たとえば簡易電卓になるとか、日の字のLEDが光るとか、毎日が楽しかった記憶があります。また、自分でプリント基板を焼く作業もしました。フォトレジストではないのですが、特殊なペンを使い、銅板にペンで描かれた部分は溶け残り、何も描いていない部分は溶剤で溶ける、という仕組みでした。今でも高校では、こういうことをしているのでしょうか。また、今でも、論理回路用のICチップ(NANDゲートなど)でフリップフロップ回路とか、発振回路とかお作りなのでしょうか。ああ、母校に行きたくなってきた。お金ないけど。


 そういえば、たとえば、秋葉原の
秋月電子通商さんにキットやパーツを買いによく出かけました。また、西千葉のパーツ屋さんにもよく行きました。……今のPICマイコンって、すごくシンプルですね。集積度が高いです。あと、トランジスタ技術という書籍を定期購読していましたね、あの頃。


懐かしの「トランジスタ技術」、20年振りのゲット!!


これぞ電子計算機だ、と呼べるFORTRAN77


 今のFORTRANには行番号がたぶんないと思う(構造化されていて)のですが、当時のFORTRANには、きっちり行番号がありました。GOTO文(この行番号へ行け)もありましたが、これに慣れたり、頼っちゃうと、構造化された言語にとっつきにくい、という欠点がありまして、未だに難儀しています。インスタンス? 何ですかそれは。僕の世代は、UML図じゃなくて、単にフローチャートだけでしたからね。上から下へ流れるという流れ図のみ。今ではプログラミングをするのにも複雑化してきて、とても老人の付いて来られる世界ではなくなって来ています。つまり、従前の言語では、入力があるまで、入力ルーチンを繰り返すことで処理してきたのですが、現在のように、イベントドリブン方式(きっかけに対して処理を行う)は、残念ながら実務経験が余りありません。


これのどこが商業系? と疑問に思ったCOBOL80


 年を経ても絶対に忘れていないのが、最初の定義文。たとえば、「IDENTIFICATION DIVISION」とかいう、変数定義です。あとは余り印象には残らなかったのですが、いちおう課題は製作しました。なんだか、面倒くさいな、と思った記憶はあります。学生当時、取扱説明書を見て、COBOLは「COBOL自身には何の保証もありません」と書かれていたことにびっくりしました。今考えれば、つまり、COBOLは、主にカネ勘定に関わる言語なので、もしプログラミングのミスをして、たとえ損失が出ても責任をとりませんよ、というスタンスだったんだろうと、今にして思えば納得できます。


「あんた、年いくつ?」と言われそうなテレタイプも経験!


 
YHP(横河ヒューレットパッカード)の、なんと主記憶装置がコアメモリ、そしてCPU4ビットという、最古参のパソコンを操作したことがあります。それにプログラムを入れるには、鑽孔テープ。つまり、テレタイプ装置で打鍵する、という具合にです。途中で打鍵し間違えたならば、ビットにすべてに穴を空けて無効(NOP)にする、そして、途中で紙テープがちぎれたら終わり、という、なんともまたすばらしいパソコンでした。今でも現存するならば、国宝級かも分かりませんね。


 ちなみにコアメモリとは、記憶時に電磁力(フレミング右手の法則)を利用して、ごく小さなドーナツ状の磁性体(フェライトコア)に磁場を与えて励磁し、ポジションを記憶し、読込時には、交錯する活線の起電力のあるなし(フレミング左手の法則)を利用して読み込むという、すさまじいものでした。そして、取り出したメモリの現物を見せてもらいました。まるで、テニスラケットのガットの格子に、小さなリングが大量にぶら下がっている状態を想像するといいです。


 この場合、最早、昭和の何年製造かもよく分からない状態でした。画面表示? そんなものなかったですねえ。各々のレジスタが、何のデータを保っているかは、8つ並んだ赤色LEDのビット列のみで表示でした。……いま、扱っているコンピュータが、HP Compaq というのには、何か因縁めいたものを感じざるを得ません。


純国産OS N5200 model05上の PTOS


 
そうなんです。現在のように、OSが今のように舶来というわけではなくて、こぢんまりとしながらも、キビキビ動く、国産OSがあった時代なのです。


i8086を搭載したN5200 model05。 涙が出るほど古いぜ!!


 一般人が参るほど古い話で恐縮ですが、当然ポインティングデバイス(マウス)もなく、サウンドと言えばビープ音ばかり。アスキーコード表をもとに入力すると「外字」が出ました。また、漢字ROMや、カラー表示はオプションでした。ハードディスク? そんなもの、教師用のパソコンにしかありませんでした。一般の生徒は、256KB8インチフロッピー(2D)にガッタンゴットンと記録する他はありませんでした。でも、計算はめちゃくちゃ速かった気がします。まだコンピュータが、電子計算機然としていた時代です。


 そこからラインプリンター(大きなドットインパクトプリンター)にデータを送り、中には、ラインプリンターで印字し、また巻き戻し、半角英数の記号で陰影や濃淡を付け、いわゆる「アスキーアート」の原型みたいな物なのですが、これでアニメのキャラクター(うる星やつらのラムちゃんとか)を描く強者がいましたね。あれはどうなっているのか、すごい情熱を感じました。一種の執念というべきか。

 それにひきかえ、今では32ビット、いや、もっと好奇心旺盛な人なら、現在64ビットOSを使っているでしょう。一般人が、パソコン操作にそんなに苦労することはなくなり、パソコンの垣根を下げたのは、やはりウインドウズのお陰でしょうか。それにしても、世の中すっかり変わったものですねえ。いやはや、どうりで、オレが年をとる訳だ(苦笑)。芸歴だけは長いなあ(って、それ芸じゃないし)。


飽くなき好奇心の追求

 今でも思うのです。「デバイスドライバを入れ、USBでつなげば、機能することは分かった。でも、実際のところどうなん」といった、素朴な好奇心が、この歳になっても抜けません。なので、またぞろ「トランジスタ技術」1月号を購入し、その特集「USB機器を作るためにはなにが必要?」という記事に目が釘付けになります。最近のトラ技は、イラストや図説が多く「デバイスマネージャさま」のお墨付きがないと、パソコンの配下にしてもらえない、ということが大雑把にわかります。デバイス・ディスクリプタをもとに、デバイスマネージャさまが、INFファイルを照合し、どのカテゴリのデバイスの配下にしていただけるのか大雑把に分かりました。それだけでも、もう満足ですおなかいっぱい

 また、高校3年の大事な2学期に、マイコプラズマ肺炎を起こして3カ月も入院していたおかげで、職業訓練校で習い直しても、なお、すっぽり土台から抜け落ちているC言語。知ったかぶりは格好悪いし、わかったふりをするのも気色悪いので、初心に返って、技術評論社の「C言語スタートブック」や「プログラミングのセオリー」という本をかじっています。なぜみなさんがC言語を使いたがるのか、わかった気がします。振る舞いは機械語に近く、プラットフォーム間の移植性に優れ、(ライブラリ関数は別として)予約語が少ない。その気を出せば、きれいに書こうと思えば書けるし、関数を自分で作ることができるということも魅力ですかね。まあ、僕はあまりプログラミングを仕事にしたくはないですが。例えば、COBOLで病気になった人を、何人か知ってるし。

この箱の中身は一体何だ

 例えば、機動警察パトレイバーの、熊耳武緒巡査部長が、もうすでに、立派なレイバー免許を持っているのに、なぜ最新型に合わせて免許を毎年取り直すのか。そこに、自己研鑽のヒントがあるように思います。今で言う、MCPLPICなどの資格に当てはまりますね。でも、僕は、一度受かった自動車運転免許をふいにするようなもったいないことはしませんが……。また、太田功巡査が、「どうしてレイバーが動くのか、気にしたことがあるか。得体が知れないから不気味なんだ」などと、主人公たちに問うシーンがありました。

 確かに、ペダルを踏めばレイバーは動きます。でも、そこにどんな仕掛けがあって、ブラックボックス化している箇所はどういう仕組みなのか、という問いかけでもあるようです。同様に、確かにパソコンは、キーを叩けば文字が出ます。でも、なぜ、どのようにして文字が出力されるのか。つまり、この箱の中身は一体何だ……15歳のとき、N5200や、MZ-2000に触れた僕が、一番知りたかったことです。

 クルマはアクセルを踏めば加速する。ブレーキを踏めば減速する。これ、世界の決まり。でも、何でクルマがアクセルで加速し始めるのか。そのからくりが知りたくなって、ついにメカニック、自動車整備工になった方もおられるようです。同様に、パソコンは、キーを叩けば、画面に文字が表示される。これ、世界の決まり。でも、何でパソコンはキーを叩けば、画面に文字が表示されるのか。これが知りたくて、趣味が高じて、ついにメカニック、パソコンの修理工にまでなったというわけですよ、僕は(ついでに、CEからフィールドエンジニア、インフラ系SEになっちまったわけですが(汗))。

 高校生の時、川崎製鉄千葉製造所に社会見学に行ったときのことです。製鉄所といえども、もはやコンピュータ抜きには語れません。でっかい箪笥のようなコンピュータ(確か、メインフレームと言った)が居並んでいるブースを見に行ったりしました。社会見学の、最後の締めとして、質問コーナーを設けていただきました。誰も何も質問しようとしないので、ちょっと僕が質問してみることにしました。

 「なぜコンピュータは、毎年どんどん速くなるのですか?」

試してガッテン!!

 大人たちは、顔を見交わします。何か、打ち合わせをしている様子です。しばらく待つと、ある職員さんから答えが返ってきました。

 「それについては、電子の動きから説明しなければなりません。導線を電子が移動する距離を短くすれば、短時間で電気信号を伝えることができます。短時間で電気信号を伝えることができるならば、回路はもっとコンパクトで済むはずです。そこで、回路をコンパクトにするために集積回路になり、その集積率は年々向上しています。もし、短時間で電気信号が伝わるのであれば、コンピュータの動作周波数を上げることが可能になり、高速処理が可能になるのです。回路が小さければ小さいほど能率が良くなるのです。また、集積度が上がるに連れ、より多くのトランジスタを積むことができ、ひいては、一度のクロック動作で扱えるビット数が増やせる訳でして、一度に多くの情報や命令を処理することが可能になるのです。お分かりいただけましたでしょうか」

 合点がいきました。あー、高校生の頃からこれだもんね。一見、何でもないような素朴な質問でしたが、気がつけば、いつの間にか、ムーアの法則を、本人の知らない間に質問していたという訳です。なるほど、大人たちが打ち合わせをするはずだ。それにしても、さすがは川崎製鉄、実にわかりやすく、お見事なお答えでした。あのとき、ツバつけとけば良かった。就職に困らなかったのに。でも、僕はまだ、素朴だったので、そういう欲っちい知恵はまだありませんでした。

名うてのクラッシャーが、今では修理を

 かつて僕は「クラッシャー」という異名を持つ人間でした。そこにCMOSチップがあれば、静電気で壊す。不意に、サーバーのHDDを壊す。逆向きに接続してトランスを焼く。200V商用電源をドライバーでショートさせて溶接のような火花が散る。トランジスタを逆電圧で壊す。コンデンサを破裂させる。こういったことは若気の至りで枚挙に暇がないのですが、お恥ずかしい限りです。こうして、破壊の限りを尽くして至った結論は「ここを触ったら直る」「ここは触るとヤバイ」などという経験則となってどんどん積み重なって行きました。

 人形供養があるように、もしメカ供養があるとするならば、どれだけのメカを供養しなきゃならないでしょうか。そんな反省に立ってか、いつの間にか、パソコン修理のエキスパートになって行きました。「こんな異音がしたらHDDがヤバイ」「こんな臭いがしたら無停電電源装置がヤバイ」「それは逆位相の交流電源でLANが共振している」「それはショートスパイク(瞬間停電)だ」などなど……。これは、表層的なカタログスペック的な知識ではありませんし、決まった資格でもないのですが、いわばメカをかぎわける「本能」が身についた。そういうわけです。亀の甲より、歳の功ですか。名うての「クラッシャー」は、その後改心して、名うての「修理屋さん」を目指しているのです。


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ダリアの花散るとき

 あれはまだ、僕が工業高校を出たてのころ……。はじめての事業所、千葉市にある百貨店の電器売り場で、せっせとアルバイトをやっていた、そんな1991(平成3)年ごろ……

■ダリアの花咲くとき

 百貨店で母親がアルバイトをしていて、キーパンチャーが足りないから、パソコンに詳しい人を……というので、「キーパンチぐらいならまかしとけ!!」といった案配で、1日だけ手伝うことにしました。

 幸いにして、日本語106キーボードだったので、パートのお姉さん2名がカードを入力するのですが、僕はその700枚のカードの山を、たった8時間で入力し尽くしてしまったのです……。おかげで、自律神経をこわして、3日間寝込むことになったのですが(苦笑)。僕はそこで、くだらないながらも「伝説」になったのでした。

■大学生に混じり、生活費を稼ぐためのアルバイト

Y係長 「田所くん、ちょっと玩具売り場に助っ人で行ってくれないか。明日から1週間」

田所 「はい、わかりました」

Y係長 「えー、玩具のSさんという係長がいるから、そっちで子ども広場の応援ね」

田所 「わっかりました、はい、日報です」

Y係長 「はい、理由なきハンコ、なんちゃって。ほれ、ぽちっとな」

 「なんちゃって」が好きな、AV商品売り場のY係長さんでした。ジェームス・ディーンが主演のアメリカ映画、『理由なき反抗』(1955年)というものがあると知ったのは、それからずいぶん過ぎてからでした。

 その翌日から1週間は、玩具売り場へ配属されました。当時はやっていた、ゴマフアザラシのゴマちゃんが主人公の「少年アシベ」というアニメのキャンペーン中で、そのテーマソングがエンドレステープに詰められて繰り返し流されていました。

 チントンシャンテントン いますぐ チントンシャンテントン……♪

 僕は、フルタイムかつエンドレスで繰り返される「チントンシャンテントン」にいささか辟易していました。ヨーヨー掬いのゲームの実演をしていて、くそ生意気なガキども……、いや、お客様のお子さま、お坊ちゃま、お嬢さまたちから、おっさん呼ばわりされて、内心、オレはおっさんちゃう!!……と、ムカついていたのだけれど。

 僕は、ダークグレイの背広の上に、百貨店のハッピ(!)を着て、頭に手ぬぐい巻いて(苦笑)、確かに、子供たちからしたらおっさんに見えたことでしょう。1100円をもらうのは、こんなにしんどいことなのか……。「おっさん、こっちー」「おっさん、僕もー」……お、お前らああああ!!(怒)

 それにしても、バブル末期の玩具売り場は、毎日たいへんな忙しさで、僕や仲間を含めてアルバイト7人が配置されていました。女性のアルバイトは、子どもをなだめたりするのが上手です。さすがは母性本能というべきでしょうか。僕ら野郎どもには、子どもをだっこして、よしよしして、泣き止ませるような真似ができません。

 玩具売り場のS係長は、もの静かな人でした。いつもニコニコしていました。まるで、売り場の空気に溶け込んでいるように、ちんまりとデスクに座っている人でした。何事も、与えられたことを、黙々と作業する、温厚な仕事人……、そのように見えました。僕は、勤務日報にハンコが押されるのを順番に待っていました。

S係長 「はい、お疲れさま」

田所 「ありがとうございます」

 交わした言葉は、これが最初で最後。翌日は土曜日。土曜日曜に向けて、催事場の大規模な模様替えをする、通称「撤去」の日になっていました。正社員は深夜にかり出され、バイトには何も知らされていなかったけれども、漏れ聞こえてくる声は「撤去は大変だよ、なにせ徹夜だから」という仕事のハードさでした。

■ダリアの花散るとき

 ……週明けの食堂の壁に、1枚の訃報が張り出されていました。それは、先週まで元気だった、S係長の死を報せるものでした。撤去の終わりかけ、午前4時に救急搬送され、そのまま息を引き取ったというのです。死因は脳内出血。千葉市(若葉区)都賀(つが)にある、とある斎場で儀式が執り行われる旨が書かれていました。

 信じられなかった僕は、アルバイト担当の人事の正社員Kさんに、改めて確かめたのです。「はい、S係長は先般、お亡くなりになりました」と、いつもより深刻な表情を浮かべていました。過労死を、身近に、肌で感じた最初の瞬間でした。

 売り場の入り口には、かならず自動的におじぎをしてご挨拶する「ダリアちゃん」人形。そして、当時の百貨店のシンボルフラワーは、白いダリアでした。確かに、ダリアの花がひとつ、間違いなく散った気がしました。企業戦士が戦死したのです。そのことだけは紛れもない冷厳な事実でした。

 あれから、千葉市を去るまで、まるで何事もなかったように振る舞っていました。20歳の成人式は幕張メッセであったらしいのですが、バイトが理由で欠席しましたので、その後、千葉市から紅白饅頭が我が家にもたらされました。兵庫県にある、伯父の会社に転職予定だったので、「契約社員にならないか」と言われても、お茶を濁していました。帰郷することを腹に決めていたからです。

 ……初めて勤めた会社は、なかなか忘れられない。ひとつの命が、壊れた瞬間でした。そしてそれは、僕が歳を重ねても、白いダリアを見るたびに思い出されるのでした。死ぬぐらいしんどいのならば、そんな職場はやめておいた方がいい。そう思うのでした。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。


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目覚めの朝、午前5時

 冷たい冬の夜空を肌で感じるこの時期。思い出すのがつらいけど、震災のことです。……まず、無事に生かされた、という事実に感謝しなければなりませんね。幾千の風になって、犠牲者の魂が神戸の空を今も包んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

■阪神大震災発生 震度6強の兵庫県尼崎市

 平成7年(1995年)117日、午前546……。尼崎市北部の住宅で……。ドーン!!ガッシャ、ガッシャ、ガッシャ……。母親が何故か、僕を素っ頓狂な声で慌てて起こしに来ました。

 「あんた、揺れたん分かっとる!? 地震やで!! 地震!!」「へ?」……寝ぼけ眼の僕は「へ?」としか言いようがなかったのですが、仕方なく起き上がって懐中電灯で照らすと、食器棚の硝子や食器が砕けて粉々になっていました。テレビやパソコンは後ろから蹴飛ばされたように、配線によって辛うじてぶら下がっていることが分かりました。夜が白み始めると共に、電気がつかないこと、ガスが点火しないことが分かりました。

 電話はランプが明滅していてダイヤルが出来ない状態に陥りました。携帯電話なんて気の利いたものもなく、当時は一部のPHS業者があっただけで、携帯電話よりポケベルが一般的に主流でした。「災害用伝言ダイヤル171」もなかった時代のお話です。電気が復活したのは午前72……。その後も瞬間停電を繰り返して……

 家の掃除をして、取りあえず会社に行かなければいけないのですが、南へ下る道路上に、山陽新幹線の高架橋が落っこちているような有様。他に家族もなく、母親に何かを食べさせないといけない、何かを飲ませないといけない。まずは水を確保するために、近所の大規模災害避難所の小学校に行きましたが、ゴミ箱に汚い葉っぱが浮いた水しかなかったのでお話にならない。

 2級河川「武庫川」の河川敷でバケツに水を汲んだのですが、そこへ陸自のヘリコプターが飛んできたので、バケツを持って空に合図を送りました。合図は届いたのでしょうか……。川の水だって、余り衛生的ではない上に、自転車に乗せるとふらふら揺れて全て路上にこぼれてしまう……。我が家では、当時の映像記録は、午前7時からのNHKニュースとして録画しています。見返す度に、胸が痛みます。

■灯油用18リットルのポリタンクを求めて、京都・滋賀方面へ

 近所のスーパーは耐震判定がつかないので、この先ずっと休業。阪急電車で塚口に降り立つも、スーパーが開く気配ゼロ。十三で乗り換えて、阪急京都線方面へ。琵琶湖(大津市)に行くことまで想定してお金とクレジットカードを用意したのは良かったのですが、阪急淡路、茨木市、高槻市のスーパーもポリタンクが悉皆(しっかい)売り切れている模様でした。

 何とか長岡天神までやって来たものの、駅前でポリタンクを売っている気配がしないのです。おそるおそるコンビニの店員さんに聞いたところ、「郊外に金物屋さんがあるので、そちらへ行かれてみれば」といったお話。こんな日でも阪急タクシーは営業をしている……。事情を説明して、金物店へ向かうのでした。

 ハイヤー然としたクルマの到着に金物店店主は驚いた様子。「なんと、尼崎から来はった!! ささ、いま京都から仕入れたばかりのポリタンク、好きなだけ持って行きなはれ」「……あのー、何で僕がポリタンクを買うって知ってるんですか」「いやあ、午前中に神戸ナンバーのクルマが大挙して押し寄せて来たよってに、それで」「……

 駅のホームで、ポリタンクに「阪急の水」を汲む田所。阪急の駅員にもかなり目立ち、向かいのプラットフォームで駅員同士のヒソヒソ話が絶えなかったのですが、もはやそんな恥や外聞を気にしている場合じゃないのです。武庫之荘では水がまるで出ないのです……

 震災で一番困ったのが水の確保でした。奈良県五條市の給水車、京都府向日市の給水車、そして自衛隊の給水車……。並べども並べども、ここでおしまい。また行列。そして本日はこれにて給水終了。それでは困るので、仕方なく、地図上で最も近い浄水場を探すことになりました。兵庫県伊丹市の千僧浄水場でした。伊丹市水道局のおじさんが待機しており、「あのー、尼崎市民ですが、給水よろしいでしょうか」と問う25歳の僕。「ああ、黄色いタンクの下に蛇口がついているから、そこから」「ありがとうございます」「それから、このアルプスの天然水も持って帰りなさい」「え?いいんですか?」「困った時はお互い様やから」。……見ず知らずの人間にくれた水もさることながら、くれた義理人情がとてもうれしくて、感謝感激でした。

■田所救出作戦と、通信制高校と印刷会社のその後

 印刷会社の営業部では、いつまでたっても出社せず、連絡の取れない田所が心配になって、「田所救出作戦」を発動しようとする動きがあったそうです。一応、連絡をして良かった……。また、通信制高校からは「通学路ががけ崩れ、校舎及び校庭が損壊。通学するには危険を伴うので別途指示あるまで自宅待機」、次いで「平成7年度(4年次)の単位はすべて災害につき免除」というお知らせの郵便が届きました。通常なら「ラッキー」と喜ぶのでしょうが、ニュースで再三報道されている神戸市長田区の状況を見ていたので、それどころではない、死者を悼む気持ちが、まず先に立ちました。

 会社は全壊。3階からトイレの下水が漏る。悉皆パソコンのCRTは床に落ちている。活版印刷部門は活字が崩落して再起不能。総務部長の書類棚から割れた硝子を拾う作業を手伝って、その日は仕事なし、といった状態でした。

 その後、単位制の青雲高校は卒業。3年次で学級副委員長、4年次で学級委員長を務め、復興間もない神戸市長田区の文化祭でバザーを行ったことで成功に導きました(学校特別賞を受賞)。北海道産じゃがいもの箱を、宅急便で3箱、学校に送ったのが利いたかな。そうしてやっと、平成83月に84単位を取って卒業できました。通常に比べ、4単位オーバーだったのです。おかげで再び「自律神経失調症」で県立病院に通うことになったのですが……

 また、印刷会社では、新社屋を建てようという動きがあって、実際に「エメラルドグリーン色」の小綺麗な建物が建ち、組版システムもMacEdian PLUSが導入され、僕自身も震災間もない神戸に行き、兵庫県印刷工業組合のDTP講習を受けに行ったのですが、その後の経営はうまく行かず、平成121月には働ける人から(僕も)解雇、そして平成124月には倒産の憂き目に遭いました。ちなみに今は、その「エメラルドグリーン色」の建物は、印刷とは全く関係のない、おまんじゅう工場になっています。


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最終更新日 : 2015-01-16 01:54:54

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ナナゼロ世代のこれから

 1970(昭和45)年は、日本万国博覧会 EXPO70が開幕された年でした。万博のコンセプトは「人類の進歩と調和」。この時代の雰囲気としては「建っていくぜ団地!!」「産まれるぜベイビー!!」「売れてるぜマイカー!!」……といった景気が右肩上がり、いわゆる「いざなぎ景気」の時代でして、「モーレツからビューティフルへ」や「ディスカバージャパン」といったキャッチコピーがもてはやされた時代でした。

■あれから約40年「人類の進歩と調和」は実現したのか

 あの頃、誰しも夢に描いていた、SFのような21世紀。その青写真は「人類の進歩と調和」でした……。いざ、21世紀になってみると、むしろ「人類の頽廃と牽制」といったような有様でして、あれとこれとを混ぜて行う「硫化水素自殺」だとか、資本主義に抗い、一切の消費をしない「サイレントテロ」だとかは、当時、想像もできなかったでしょう。鉄腕アトムが生まれたはずであろう年を過ぎても、これといってSFライフらしい兆候は微塵も見えず、ただただ、通勤電車の中で、疲れ切った僕ら世代がいるだけです。

■ナナゼロ世代のこれまで

 1970年生まれのことを、ここでは「ナナゼロ世代」と呼びましょう。いわゆる「団塊ジュニア」のことです。ナナゼロ世代は幼児期を高度経済成長期に過ごし、何でも買い与えられ「1人っ子」「鍵っ子」と呼ばれる世代でした。小学生からすでに「教育ママ」に尻を叩かれ、名門校へのアタックコースを歩まざるを得ませんでした。周囲のみんなは、友達というよりも、むしろライバルであり、ライバルを蹴落とし、蔑むテクニックを要求されました。今よりも「私立中学校」への進学熱が高く、競争に次ぐ競争でした。

 それだけ頑張って勉強したのに、20歳代に入る1990年代前半には「円高不況」「バブル崩壊」の憂き目に遭い、バブルのうま味も知らないまま、空前の「買い手市場」になり、街角には映画「就職戦線異状なし」のテーマソング『どんなときも。』が流れているような状態。会社は次々と倒産や合従連衡を繰り返します。また、人材派遣法が改正されると、それまで「正社員」と「アルバイト」しかなかった雇用環境に「派遣」の2文字が付け加わりました。そこで「正社員になるための競争」「正社員と派遣社員とのバトル」が展開され、職場は冷戦状態に。

 30歳代になると、インターネットとクライアントOSが普及し始め、産業構造の大転換を迫られてしまいます。それまでの常識が一切通用しなくなり、旧態依然とした産業は淘汰され、競争は国際間でボーダレスになり、今度は、顔も見たこともない外国人労働者と、雇用や仕事のパイを奪い合うようになりました。また、既存の商習慣も大きく変わり、店舗を持たないネットビジネスが盛んに用いられるようになりました。店舗型営業がバタバタと倒産していき、無店舗型営業が勢力を増してきました。

 そんな「ナナゼロ世代」が、もうじき40歳代を迎えようとしています。競争に次ぐ競争で疲弊した身体に、自身の老化と、かつて「モーレツ社員」や「教育ママ」だった親の介護がのしかかってきました。かつての「教育ママ」は「後期高齢者」と呼び名を変えて、子供のスネをかじり始めました。疲れも限界です。「親の子殺し」「子の親殺し」などという物騒なニュースは日常茶飯事になり、世代間のカネの奪い合いはやがて「振り込め詐欺」「オレオレ詐欺」に代表されるような事件へと発展していきました。

 ふと、気がつけば、競争に追いまくられた「ナナゼロ世代」には、定年までの残り時間があと20年程度しか残されていないことに気付き、焦ります。また、若手の台頭で、再び世代間の競争に追いまくられる「ナナゼロ世代」がいて、ゲームの攻略にも似た、それまでにない難しい「正社員雇用」のゲームが始まり、ついに「ナナゼロ世代」は世を悲観して死を選ぶか、世を悲観して子孫を残さないか、かつての「モーレツ社員」や「教育ママ」をせっせと「姥捨て山」(介護施設)に運ぶ作業か、世捨て人になって「競争を拒絶」せざるを得なくなってきているのです。……このような人生を過ごして、疲れが出ない訳がないでしょう。

■ナナゼロ世代のこれから

 僕としては、情報技術に何らかの形で関わって行きたい反面、それに拘泥したくもない、それに振り回されたくない、という気持ちでもあります。現在、いくつかの金融機関が「農業法人への融資を拡大する」といったニュースも聞こえてきます。たまに、ラジオなどで耳にする「帰農」への動き。それは果たして「疲れ切った日本人への福音」なのか、それとも単なる「サラリーマン減らし」なのか……。政府が、それとはなしに「田舎暮らし」を勧奨する背景には、やはり「飽和した都会での人減らし」、つまりは「棄民」の意図が見え隠れしていて……そこらへんは警戒しています。

 実際、僕のハンドルネームが「田所稲造」なので、ここはいっちょ、農業法人を建てて、文字通り「田の所で稲を造る」人間になってみても悪くはないかな、という気にも、時々ではありますが、そうさせられます。病気になりやすいから便利な都会を選ぶのか、便利な都会にいるのでストレスから病気になりやすいのか、そのどちらかは、まだ判然としませんが(苦笑)。


眼鏡を外し、森の中で、これからを、よーく考えてみる図


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デジタルネイティブ

 システムエンジニアは、まるで鉄道員に似ているなあ、と感じるのです。お客さんからあまり見えないところにいても、お客さんと深くかかわるし、手を抜いたらダメ。情報も鉄道も同じインフラストラクチャなので、止まっては困る。なので、インフラストラクチャ分野のエンジニアは、なくてはならない存在だと思うのです。

■デジタルネイティブとは

 「デジタルネイティブ」とは、20081110日、午後10時より、NHK総合テレビで放送された(ちなみに僕はラジオのNHKジャーナルを聞いていて見逃した)テレビ番組です。公式サイトから引用します。

 インターネットが一般の家庭に普及するようになって10余年。子どものころから、インターネットを「水」や「空気」のように使いこなしてきた「デジタルネイティブ」とも言うべき若者たちが登場している。「13歳でインターネットを駆使して起業し全米中の注目を集める少年」「ネット上に200カ国の若者が参加する"国際機関"を作り出した若者」「仮想空間で仕事を請け負って月に5000ドルを稼ぐ高校生」……。デジタルネイティブは、「自ら情報を発信し共有することで成立するネット・コミュニティ」を自由自在に使い、見ず知らずの人々と瞬時につながって、次々と常識に縛られない「価値」を生み出している。アメリカでは、既存の価値観や従来の組織のあり方に捕らわれない彼らの考え方や行動力が社会をどこに導くのか、詳細な研究も始まっている。番組では、台頭しはじめたデジタルネイティブの素顔に迫り、世界のデジタルネイティブから寄せられた動画も紹介。世界を変える可能性を秘めた若者たちの""を多角的に見つめていく。

 ……ここで大阪の方向からツッコミ。「欧米か!!」(笑)。

■デジタルネイティブは、切符を買った乗客に過ぎない

 デジタルネイティブな彼らは、たとえば「電車が何であるかを知っている」「電車を生まれた時から使っている」「電車を上手に乗り降りすることができる」だけの話であって、内部的にどんなギアが使われているか、どんなモーターで牽引しているか、電圧は何ボルトで、耐荷重は何トンで、軌間は何ミリで、整備状況は……ということを、ほとんど気にしないで、単に「便利な乗り物」として使っているだけです。我々が整備した鉄軌道の上を走る、我々が整備した電車の座席に座っている、単なる「切符を買った乗客」に過ぎないのです。

 マニアックに「電車」について語ることができても、我々エンジニア目線とは違い、あくまで「電車マニア」の域を脱していないのです。だから混同して欲しくないのは、鉄道マニアと、鉄道員とは厳然として違うというところです。純粋に情報インフラを楽しむお客さんと、日夜、情報インフラを守るエンジニアとでは、緊張の度合いが違います。インフラは動いていて当たり前。ちょっとでも止めたら、お客さんからガミガミ怒られる。ここへ来て、情報技術者と鉄道員とが、だぶって見えてきました。

 だからひとこと言ってやりましょう。「デジタルネイティブの分際で威張るんじゃない」ってね。「お前らに情報インフラの何が分かる」ってね。胸を張って言いましょう。「僕たちは、インターネットができる前から、情報技術者だったんだよ」って。

■デジタルネイティブは「銀河鉄道999」の若い乗客たち

 一方で、デジタルネイティブには、新しい商習慣を生み出すチカラがあると思うのです。新しい分野を開拓する、年齢や国境を超えて商売をする、といった面においては、ベンチャーの立ち上げ方の新しい手法として、アタマのCPUが古い日本の「ベンチャー融資担当のおじさまたち」に、もっともっと見習って欲しいところです。

 例えば、「不動産担保ローンという発想をやめる」「小中学生にもお金を貸す」だとか、そういうことをもっともっと考えて欲しいのです。年齢や社会階層を超え、純粋に新しいビジネスに対して価値を認め、自由な商取引ができる。デジタルネイティブたちの活動に期待するのは、大人が作り上げた「悪しき既存の商習慣」に抗って、ぜひともブレイクスルーして成功して欲しいというところですね。

 もし、それら事業を本気で成功させたいのであれば、おぢさんは「デジタルネイティブ」が走るための線路を、現場でしっかりと守るよ。おぢさんは、君たちの夢に向かう電車を頑張って走らせるよ。今の情報インフラストラクチャが、それら「新しい商習慣」を切り開くのであれば、おぢさんは君たちのために「特等席」を用意するよ。ただし、生半可な気持ちで始めるのであれば、容赦なく「途中下車」してもらうけれどもね(笑)。

 その昔、「銀河鉄道999」というアニメがあったことを思い出しました。主人公「星野鉄郎」はまだ若い少年でした。仮に、デジタルネイティブ世代が「星野鉄郎」だとすると、インフラストラクチャ系システムエンジニアは「銀河鉄道の運行責任者」なのかも知れないですね。


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恐慌突破!

 20081116日、テレビ東京系で放映された「日経ビジネス」とのコラボ番組を見ました。我が国の企業活動は、実はとんでもない速さで変化し適応しようとしている、そんな姿を垣間見た思いがします。昔の人は言いました。「カネがないなら知恵を出せ、知恵がないなら身体を使え」というふうに……

■恐慌突破とは

 アメリカを震源とする世界的な経済危機は、確実に日本の実体経済に影響を及ぼし始めている。原油価格は下落したものの、3~4年前に比べればいまだ高い水準を維持したまま、原材料や食糧価格の上昇基調と世界的な景気後退が重なれば、インフレと不況が同時に進行するスタグフレーションになる懸念もある。企業は売り上げが伸びない中でコストが上昇して利益を圧迫され、消費者は賃金が上がらない中で生活必需品などの価格が高止まりして家計が圧迫されてしまう。この厳しい現状を克服すべく、いま求められているもの……それは「知の転換」「イノベーションの創造」である。

 以上、公式サイトより引用しました(テレビ東京日経ビジネスオンライン)。

■求められる発想の大転換

 例えば、電球を高輝度LEDに変えたら、イカ釣り漁船はどうなるのか。原油高の中、自動車部品の輸送をトラックから鉄道貨物に変えたら、調達コストと速度はどうなるのか。10円、1円単位で品物を見定める、家計を預かる主婦が増えているスーパーマーケット店内。仮にビール醸造業と調味料メーカーが手を組んだら、売り上げの相乗効果はどうなるのか。ファニチャー小売店が、貿易事務を自社で取り組んだら、原材料の仕入れまで自社で取り組んだら、節約効果が出て、販売価格をどれだけ値下げ出来るのか。地球に優しく、ガソリンも食わない宅配便システムは「人力輸送」だった……などです。

■いま、ハードディスクの値段が安くて大容量なのはなぜ?

 そして、情報技術者から見て注目したい点が、レアメタル産業です。目を付けたのが、ハードディスクの円盤上に「記録密度向上用」に蒸着しているレアメタル「ルテニウム」。円盤状のルテニウム金属板(レコード盤大の1枚がおよそ200300万円)は、ハードディスク用のアルミ板への蒸着を繰り返して行くうちに、表面がまだらにへこみ、均等に蒸着できません。

 今までならばルテニウム金属板は、半分程度消費した段階で廃棄処分になっていました。考えると実にもったいないですね。これを再利用する手立てはないのか、ということで、金属再処理業者が考え出したのが、ルテニウム金属板の再生利用です。ルテニウム金属板を、粉末にしてから溶かして「ある秘伝の技術」を使って固めると、新品同様のルテニウム金属板が完成します。

 この技術で世界シェアの20%分のルテニウム金属板を再生産している……。この結果、金属相場におけるルテニウムの価格はここ数年で一気に下落。「レアメタル」から、普通の「メタル」になったわけです。製法の秘密を守るため、特許切れや氏名の公開を恐れて特許にすら出さない。技術者が誰だかも社内では秘密。従業員の中で誰がその技術を握っているのかも一切不明……。さらに経営者は、既に廃棄処分になったパソコンのハードディスクからも、ルテニウムを回収しようと未来を考えているのです。これには参った。

 皆さんのハードディスクの表面が平滑できれいなのも、容量がギガ単位になっていったのも、じつは、情報技術者でも何でもない、この人のおかげかも知れませんね。


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これはもうダメかもわからんね

 いまよく言われる「エンジニアのうつ」ですが、僕はそれは、まだまだ甘いと感じています。なぜなら、僕はある会社にて「統合失調感情障害」(ICD分類:F25-9)に罹患し、まる5年間もの長い間、病院通いになったからです。さすがに自我を失うほど狂ってはおらず、現在でも薬の量は少なくなってきましたが、それでも服薬を欠かしません。このように、胸をふくらませて入った新しい職場は「名ばかり管理職」ばかりの、「サービス残業」だらけで、もう、どうしようもなかったのです。

■中小SIerの残酷  ~デキル奴から潰される~

 ここで、僕の人生は大きく変わります。サーバーを立て、メンテし、クライアントマシンの面倒もネットワークも全部面倒を見ていたのですが、メンタルヘルスについて、全く配慮していない職場でしたので、後々酷く後悔することになるのです……

 前置きしておくと、ここはインターネットの民間求人サイトで紹介されていた会社。なんか、雰囲気が良さそうだと入社したら、まずはじめに知らされたのはOJT期間がゼロだということ。同期の営業社員5名が、入社後わずか5日で全員辞めました。既存営業社員のレベルの低さと、支給されるパソコンの質の悪さや人間関係などからだと思われます。

 現に、営業社員が僕に「ああ、真面目くんね、君は10カ月コースだよ」と言う有様。当時は何のことやらさっぱり分からずにいましたが、後で考えると、要するに「君はこの会社の中で、せいぜい続いて10カ月程度だよ」ということです……

 また、営業の中には「エンジニアを頼らなくても自力でできます」という人と、「エンジニアなしではパソコンさっぱり分かりません」という2タイプの営業がいました。後者の場合、たとえば「田所さん、LANの口がノートパソコンにありますから、複写機をネットワークプリンタ代わりに使えますよ」と言ってくるので、その心づもりをして現場のパソコンを見ると、それはLANの挿入口ではなく、電話線のモジュラージャックだったりするのです。お客さんの手前、本日中に作業を完了しないといけないので、愕然となり、営業担当に「急いで買うて来い!!」と命じるなど、非常に単純なローテクな部分に対するコピー機飛び込み営業部員へのストレスをほぼ毎日強く感じていました(君たち仮にも大卒なんだから、もう少し勉強すれば分かりそうなものを)。

■これはもうダメかもわからんね

 始業は本来午前9時ですが、自分は午前7時~8時にはかならず出社していました。マネージャがひとり忙しくしている手前、早出をせざるを得ない精神状態に追い込まれました。午前中は主にイントラマシン(社内用パソコン)のリカバリ修理と電話対応。

 たとえば「お前んところのパソコン、めいで(故障して)もたやないか、どないしてくれんねん」といった主にお叱りの電話、クレーム対応。しかも、自動車で例えれば「自損事故」を「ディーラー」に言ってくる始末。レベルの低い顧客、何かと自分が購入したパソコンに難癖を付けて何か無料サポート、無料サービスを得ようとする「たかり」や「やから」行為の顧客が多く存在したのもストレスの要因の1つでした。普通、自動車の自損事故をディーラーの所為にはしませんよね……

 午後から定時までは、まず電話の受送話。アポイントメントを取るなど。それよりも、電車・自動車などを使って訪問修理に赴くことが多かったです。その場でパソコンやファイルサーバの障害が解決できる場合と、何度も訪問して故障の原因を探る場合、時には深夜間に及ぶ場合がありました(その場合、同僚の課員を助けたり、逆に助けを乞うたりしたことがありました)。

 その後、営業や同じ課のマネージャから明日の仕事を頂戴する、相談する、今日の仕事について報告するなどがあり、特にマネージャについては、次第に嫌みに接してくるようになり(原因は不明)、常に不機嫌な状態が続きました。こいつに、自分の仕事を取られる、とでも思っていたのでしょうか……

 定時から深夜間(17:3023:30)については、その日の残務整理、書類作成、午後に問題解決できなかったパソコンやサーバーのリカバリ作業などを45時間行いました。それが何台もあると、1日では手に負えない面が出てくる。その場合はお客さんに謝る電話やメール、FAXなどを入れることが毎日のようにありました(修理が遅延します旨)。

その場合、大阪市営地下鉄御堂筋線や阪急神戸線の終電には間に合っても、市営の終バスを逃す場合があり、国道や県道を駅から数キロ歩いて帰宅することも月に34回はありました。睡眠時間は数時間を切る毎日でした。代休なしの休日出勤は当然で、サービス残業は、もちろん日常茶飯事……というか「常態化」していました。

 時に指揮命令(相談?)は予告なしに営業サイド(同フロアのCAD営業)から突然やってくる時もあり、たとえば京阪京橋駅で同時に4つの案件がバッティングして「身体が4つ欲しい!!」と感じること、それと同様のこともちょくちょくあり、パソコンの操作を遠隔操作で指示して、うまく故障が解決できる場合と、そうでない場合があり、それも神経を害する1つの要因になりました。

 前触れは「酷い頭痛」でした。13回服用で効くはずの頭痛薬が、やがて4回や5回や6回に増量し……しまいには薬局の人に「腎臓を壊しますよ!!」と注意されるぐらい呑んでいました。

 
原因は後で分かったのですが、僕は緊張性頭痛を通り越して、首の靱帯が両側、付け根から3センチ程度の範囲にわたって「軟骨」になり、それが首から上の筋肉に影響を及ぼしていた、という理由で「緊張性頭痛」を引き起こしていたのです。ある日、腰の痛みで通った整形外科で、首のレントゲンを見せられた時には、たいへん驚きました。


■会社を辞めさせていただきます


 退社のきっかけは、営業車がなくて、車幅感覚の不慣れな大型のバンを運転することになり、途中のパーキングエリアでR水産のクルマにかすり傷をつけてしまったことから、インターチェンジで待ち構えていた警察にはすぐに出頭しました。その後、誠意を持ってR水産工場に手土産を持って謝りに行きました。そのとき、僕はかなり疲れていました……


 その後、毎日のように根掘り葉掘り重箱の隅をつつくような質問がマネージャ、次長より浴びせられ、嫌だと言ってもこちらへ座れと言われて仕事の進め方について詰問されて神経にダメージが来ました。「お前には向いていない」という言葉もプライドに触りました。


 後日、次長(マネージャの上司)から「コピー機の飛び込み営業へ行くか、会社を辞めるかの二者択一」を迫られ、その頃はかなり神経にダメージが来ていたので、一度保留し、大阪市のメンタルクリニックにかかり、辞めるべきか辞めざるべきかを相談しました。結果、「会社が悪い、辞めなさい!!」と言われ、その通りだと思い、有給休暇を全部消化してから、720日付けで依願退職しました。


 後に地元職安から自己都合会社都合退職が認められ、300日ぶんの失業給付を受けることになりました。ノイローゼが公的に認められたのは、平成15722日付けで、当面の間は国民健康保険や生活保護で通院することになりました。


■破産・免責・雇用保険そして生活保護へ


 平成15年の晩夏。カード会社と個人ローン会社からの借入金が500万円を突破し、退社と同時ぐらいに弁済不能に陥りました。カードローンで借りたキャッシング枠を半分ずつ、うまいことやり繰りして自転車操業していたのですが、それも退職によって無理が生じて……。銀行系でありながら、クレサラなみに電話はかかってくる、脅迫めいた電報はやってくる……。皆さん、銀行系といえども、借金は借金。借金取りからの催促が怒濤のように押し寄せて来ますので、ご注意を。今度からは、いつもニコニコ現金払いでお願いします(笑)。


 母親は見かねて、ドアの上部にネクタイをかけ、首つり自殺未遂になり、甲状腺を壊して一時期、重度のバセドー氏病(寝たきり)になりました。即座に兵庫県立の病院に入院させました。法律扶助協会(現:法テラス)を使い、着手金約10万円の10回払いで、司法書士事務所の司法書士にお願いして、自己破産免責決定を受けたのが平成151216日。確定したのが(官報に載ったのが)平成161月半ば。生活保護決定がおりたのが、平成1671日から……。その年は、最悪なクリスマス、そして、最悪な新年でした。


■あてどない病院通い……


 大阪市のメンタルクリニックから、兵庫県立の病院に一時期入院し、退院後は時間の都合上、近くのメンタルクリニックにかかって、現在に至ります。症状としては、ずばり「ノイローゼ」(統合失調感情障害:ICD分類F25-9)でした。兵庫県から「精神障害者手帳」(精神3級)が給付され、自立支援医療のもとで、回復を図っていました。


 当時は、酷い不眠と不安、感情の爆発や攻撃性、反対に感情の萎縮を繰り返し、内科医院2カ所で頭痛薬をもらい、頭痛の絶えない毎日を送っていました。たばこを吸っては頭痛薬を呑む、頭痛薬を呑んでは、またたばこを吸うといった、酷いチェーンスモーキングになりました。また、将来を展望したとき、果てしない絶望感と、無力感にかられていました。


■人材紹介会社さんの「本音の」人材売れ筋事情


 ある人材紹介会社の方に訊きました。某フランチャイズ系のコーヒー店から、携帯電話で、現役のサラリーマンを装って……


 「ぶっちゃけ、どのへんがIT企業に売れ筋ですか?」

 「四大卒・理系・28歳ですよ」


 ……ガーン。気が付けば、世の中は大学全入時代に入っていました。なるほどね、大学を出て数年経っていて経験者、しかも若い。彼らを引っこ抜いて来れば、自社で教える手間も省けるというわけで……。何でもかんでも即戦力、即戦力と言い過ぎ違いますか?


 それに輪をかけて僕を落ち込ませたのが「首都圏とその他」という、雇用の偏在です。大阪ですらまともな仕事がない。あっても「即戦力」「経験者」オンリーで、まるっきり人材を育てる体力のない企業が多くあり、これもまた困った問題でした。さらに僕を呆れさせた求人が、たとえば「PG兼、SE兼、運用保守兼、サポート兼、サイトデザイン兼、営業兼」……要するに「何でも屋さん」を欲しがる中小企業が多くて、これまた閉口しました。……あのなあ、そんなにマルチな才能があるなら、もっと大企業に勤めることが出来る……いや、もっと言えば「自営」が出来るわい(苦笑)。


■職安から紹介された人材コンサルのいい加減さ


 職業安定所から、高齢者なんとか事業団とかいうところを通して、某人材派遣系の人材コンサル会社を紹介されたのですが、これまたいい加減。1年間通ったけれども、履歴書・職務経歴書の訂正はいい加減。リーダーと称される人はあくまで「高齢者担当」でIT音痴。僕が逆にIT機器の使い方を伝授する始末。派遣会社を紹介されたものの、どこも多重派遣。しかもそれを「清濁合わせ飲むのが人間」と説教し出す始末……。あきれ果てました。後ほど職安に苦情を申し上げたのは言うまでもなく、逆に謝られる始末。人材コンサル会社に通い詰めたこの1年は何だったのか。休憩に使うコーヒー代だって馬鹿にはならない。人材コンサルタントも、人を選ばないと大変な時間のロスになります。まったく憤懣やるかたないです。


■IT企業は人材を育てたことがあるのか


 そりゃあ、不景気でお金が少ないのもわかります。人材を育てる余裕がないのも事実です。が、しかし、余りにも「即戦力、即戦力」言い過ぎ違いますか?今までの経歴で、会社から教わったことは何1つありません。持っている知識をはき出して、出尽くしたところでポイ、です。はい、サヨナラです。これは、人材の扱いとしては余りにも残酷じゃないですか。会社の偉い人と派遣営業が何となくしゃべって、紙切れ1枚で、有資格者(IT技術者)を右から左へと動かして、利ざやを稼ぐ。


 こんなやり方をしていたのでは、そのうちIT技術者が会社に来なくなりますよ。海外にオフショアするといえども、限界がありますよ……。人を何だと思っているんだ……。まあ、僕も「日本人材派遣協会・派遣元責任者講習」を受けましたが、IT技術者が勉強している勉強とは比べものにならないくらい易しいもので、そんな人達に、紙切れ1枚で、あっちへ行け、こっちへ行け、と命令されたくはないものです。若干、ぼやきが入りましたが(苦笑)。


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