目次
|一幕| 王女の逃亡~小姓編
01 森の中の少女
02 狩る者
03 空を嫌うけもの
04 金の髪、湖水の瞳
05 闇夜
06 乳香のかおり
07 追う者
08 砂漠の宮殿
09 帰邸
10 宰相の庭
11 色彩
12 寝ものがたり
13 皇帝のハレム
14 四公王
15 月の昇る深夜
16 迷都アデプ
17 気配
18 覇を称える王の側
19 双竜の子
20 タブラ・ラサ
21 砂漠のタァイン
22 甦る彩色
23 琥珀のジャーリヤ
24 トスカルナの小姓
25 紺碧の空に舞う黄砂
|幕間| 小姓編、別視点
26 降りおりるもの
27 宿命の少女
28 地図
29 檸檬水
30 砂塵の戦士《マムルーク》
31 赤い城、針の城
32 策略
33 王の椅子
34 海鳥のこえ
35 紺碧の夜に舞う二鷹
36 ティカティク亭
37 ワデム酒
38 星の大海、灼炎の夜空
|二幕| 後宮ハレム~
39 侍女ジルヤンタータ
40 華やかな檻
41 餞別
42 甘菓子
43 黄金の竜と有翼の獅子
44 スフィル・ギョズデジャーリヤ
45 瘢痕
46 孤島の王子
47 朝焼けのヤンエ砂漠
48 沸き上がる
49 王喰い
50 空の映る湖水
51 失策
52 夢に呼ぶ憧憬
53 ゆめに想うその温もり
54 喉の渇き
55 かの君に忠す
56 面影
57 王喰い
58 英雄の王、忌わしの君
59 無脳も暗愚も狂帝も、
60 薔薇の香り
61 ぬくもりへの距離
62 泣く夕陽
63 オアシスに咲く夜の花
64 遊戯盤
65 一番目の妾妃(ワーヒド・ギョズデジャーリヤ)
66 追い慕う
67 思い慕う
68 乳香が咲き、
69 砂漠の城に夜が散る
70 悠久の臣
71 王の愛妾
72 真珠のなみだ
73 海に沈む血汐
74 ディファンエルギエータ
75 灰になった星屑を
76 月の遣い
77 ふたつの夜空
78 深紅の鳥
79 餞別の指輪
80 瑠璃の海へ
81 海神に愛された貴公子
82 迷路のまちで
83 真紅の鳥が、夜に泣く
夜会に鳴く深紅の鳥
01
02
03
04
05
06
07
08
09
10
|二幕|~新王即位
84 結び目
85 君を呼ぶ
86 末子の王女
87 謁見
88 ロカイユの箱
89 鳴り糸の音色
90 喪の皇帝
91 反逆する蠍たち
92 はじまりのさよなら
奥付
奥付
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01 森の中の少女

 「…骨折している」
 一人の兵士が、足元を見て唸った。
「こんなところで…樹からでも落ちたのでしょうか」
 しゃがんで、もう一方の兵士が首を捻る。そのごつい手が向かった先には、白くて小さな塊があった。
 竜が出るという森。人里から遠く離れた、隣国との国境沿いに隔たる大きな山脈の中腹で、二人の兵士は困惑に眉を顰めていた。
「どうします、大佐」
 大佐と呼ばれた長身の男は、しゃがみ込んだ男の上からその塊を覗き込む。
 ―――塊は、少女の白くたおやかな肢体だった。
「…ひどいな」
 ぼろぼろの衣服は、どこかの山村の出を思わせた。だがそれも、あちこちに裂け目が生じて、ほとんど何も着てはいない。その散り散りの布のあいだから、少なくはない血が滲んでいる。うずくまるように丸めた体を抱きかかえる手は、だらりと力なく、後方にねじれてしまっていた。脱臼か、骨折か。よほど複雑な落ちかたでもしなければ、こうはなるまいという程だった。
「…ワルター大佐、息が」
 しゃがんでいた男が、驚いたように顔を上げる。
「なんだと」
 おおよそ死んでいるだろうとふんでいたのに、なんと幸いな娘であろう。丸められた背中が、その微かな命の拍動で上下していた。―――呼吸している。
 普通なら生きていることもできないであろう重傷の傷なのに、この娘はより強運に恵まれたとしか言いようがない。
「運びましょう」
 兵士の口からでた息が、ふわりと白く立ち昇る。気温もすでに肌寒さを超えていた。
  骨折、切り傷、出血多量、しかももうじき雪も降ろうかというこの寒さ。いくら幸運に恵まれたといっても、このままここに放りおけば彼女は間違いなく死ぬ。
「たしか…軍医を連れて来ていたな、コンツェ」
「アン・トスカルナ少尉です」
 ワルターは、髭の生えた顎をしばらくさすって頷く。
「アン・トスカルナ少尉のところまで運ぶように」
「はっ」
 コンツェは小さく敬礼を返す。振動を与えないようそろそろと少女を抱き上げると、自分の身に着けていたマントで丁寧に包んでやった。



 ずっとずっと、夕暮れの紅い空が嫌いだった。
 燃えるような夕日を見ると、怖くて怖くて仕方が無い。まるで地獄の業火ようだと、よく思う。炎に焼かれて紅く染まった雲が、ゆっくりと頭の上を流れていくのを、フェイリットは顔を歪めて見つめていた。
 生い茂る森に囲まれていても葉の隙間から漏れ出る紅い光は、否応なしに降り降りる。昼間は溢れんばかりの光を映し零していたその葉も、その紅い光によって、ごうごうと焼かれているように見える。
 フェイリットは小さく身震いをして、空から顔を背けた。
 じき森の中にも夜が訪れる。それまでの辛抱だ。
 傍らにあった大木に身を寄せて、ため息を吐きながら瞼を閉じる。
「こんなところにいたのか」
 さくりと木葉を踏む音が、フェイリットに迫る。彼女はゆっくりと振り返った。
 見上げるばかりの長身の男が立ち、力強い手が頭を握る。
「サミュン」
「そろそろ雪が降る。そんな薄着では風を召されるぞ」
「ごめんなさい」
 フェイリットは男の、深く抉られた左目の傷跡を見上げた。彼特有の濃い金髪に隠されてはいたが、それでもその傷が他人に与える圧迫はかなりのものだ。生まれてこのかた一緒に暮らしているが、時おり鬱蒼とした空気を感じるのはいつ見ても辛い。片目を無くしたことで、かつては剣豪として馳せていたその名も消えてしまったのだから。
「まだ怖いか」
 サミュンの濃い金髪が風に流れる。フェイリットは軽くうつむいて、ため息を漏らした。
「叱ったりはしない」
「……だいじょうぶ。昔みたいに、夕焼けを見て泣き叫んだりはしないわ。ただ気味が悪いなって思っただけ」
「そうか」
 サミュンはわずかに微笑んで、フェイリットの頭に手をかぶせる。
「……じきにお前はあすこへ還る」
 夕陽の紅さはだんだんやわらかな空の青に溶け込んでいき、やがて深い群青色へ変わっていく。小鳥たちのさえずりと交代し、夜行性の動物たちの囁きが聞こえ始めた。
 サミュンの瞳は上空を見上げていたが、その目が見つめるのはその先にある王国―――メルトローであるに違いない。かつて彼がその身を仕え、欲しいままに名を轟かせた輝かしき過去の国。メルトロー王国は、緑に囲まれた美しい国なのだという。だが、いくら美しく、よい国だと説かれても、気持ちが進まないのは仕方のないこと。
 フェイリットは首を振る。
「サミュン、あたしはあんなところに還るのはいや。たとえそれがどんなに誇らしいものだと説かれても同じだわ」
「おまえは竜なのだぞ」
 サミュンは傷のあるほうの瞼を、わずかに引きつらせた。苛立ったときの悪い癖だ。フェイリットは思わず顔を伏せる。
「あすこへ還り生き続けるか、ここへ留まり滅びるか。お前には二つの選択しかないのだ。お前も重々承知だろうが、主と契約を結ばねば竜は人間より薄命だ。ニ十年と生きられない、わかっているだろう」
「あたしは、ここでサミュンと死ねたら幸せなのに」
「馬鹿を言うな」
「でも……」
 サミュンは呆れ果てたと言わんばかりにため息を吐き、背を向けた。その大きな背中にも、深く抉られた、大蛇のような傷跡が残るのをフェイリットは知っている。
「ここで育ってきたんだよ。メルトローが故郷だと言われても、今はここのほうが大切に思うの」
「お前がここで十五年間生きてこられたのは、あの方のお陰だ。そのご恩は忘れてはならない。俺もお前も、あのお方の計らいがなければ十五年前に死んでいたのだ」
「私欲と権力ばかりを肥やそうとする老いぼれよ」
「フェイリット!」
 サミュンの怒声にフェイリットは肩を竦める。その肩に両手を置いて、サミュンは身を屈めた。
「お前の父上になんということを。たとえ親子であろうとも、侮辱は死刑とわかっているだろう」
「…わかっているわ」
「けして、もうそのようなことを口走るな、サディアナ」
「……はい」
 本名を呼ばれたことにどきりとしながら、フェイリットは肩を落とした。
 ふと静かに、サミュンが呼吸する。身を屈め、フェイリットを覗き込んだまま微かにわかるほどの笑みを浮かべた。
「―――昔、空には沈むことのない太陽があった。片時も休まず、まばゆく気高い光を地上へと降らせていた。神はそんな太陽が好きだった。片時も側から離さず、その明るく美しい彼女を愛し、慈しんでいた。
 だが、ほどなくして月が生まれた。儚くか弱い、その白肌は触れることも躊躇うほどに淡く輝いている。神は一目で月を愛してしまう。
 ……太陽は嘆き悲しんだ。だがいくら太陽が嘆き、叫んでも、神の瞳はすでに彼女の元には向かなかった。月に嫉妬し、羨んだ太陽は、ならば月を燃やしてしまおうと自らを炎に包ませる。寸でのところで恋敵の暗殺は失敗に終わり、月は太陽から遠く逃げ去った。
 神は平等な愛を与えてやれなかったことに後悔し、太陽と月を交互に愛でると彼女たちに約束した。
 しかし元々ひとりだけ愛を得ていた太陽にとっては納得がいかない。でも正直に嫉妬を打ち明けてしまったら、そのとき本当に神に嫌われてしまうかもしれない。彼女はくやしさのあまり、月が昇るたびに涙を流した。
 ……太陽の流した涙は炎へと変わり、紅く地上に降り注いだ」
「懐かしい。サミュン」
 このあたりに古くから伝わる、説話だった。幼いころは何度もせがんで、サミュンに聴かせてもらっていたのに、いつしかそんなことも忘れてしまっていた。
 空を見上げれば、そこにあったのはすでに燃え上がる夕陽ではなく、白く輝く月の姿だ。
「お前は月になる。やわらかな愛を落とし、暗闇を照らす美しい月に」
 漆黒の闇に浮かぶ月は今宵も、太陽の流す涙の業火から逃れて輝いている。彼女たちは永遠に追いかけ、逃げている。
「月は太陽になることはできない。太陽もまたそうだ。だが、お前は違う。望めば太陽にも、また月にもなれるだろう。激しさを愛し、やさしさを生め。強さを誇りに持ち、弱さを慈しむのだ」
 サミュンの金髪に、月光が降る。あわく輝いた濃い金色は、本当に暗闇の月を思わせた。
「出発は明日だ」
 突如フェイリットは青ざめて、彼の顔を仰ぎ見る。その顔には、悲しみも焦燥も、浮かんではいなかった。
「迎えの者がもう到着している」
「サ・・・ミュン!」
 どうして黙っていたの! 半ば悲鳴にも似た声で、フェイリットは叫んだ。
 生まれたときから待っていた―――いや、待たされていた。メルトローからの迎えが来るのを待って、日々を生きてきたと言える。でも、まだまだずっと先だと思っていたのに。まさかこんなにも唐突だとは・・・。
「お前はメルトローで千年も長きに渡り、名を刻むはずだ。かのエレシンスをも凌ぐほどのな。剣豪だと謳われはしたが、俺にもできなかった大役だ」
「そんなのうれしくないよ!」
 フェイリットはサミュンの懐に飛び込んだ。腕を回して、固く抱きつく。離れたくない、好きだ―――そう言っても、きっと彼は何も言わない。
 だから黙って、その腕に力を込めるしかなかった。胸が痛い。手足が痺れて、目の奥がじわりと疼く。声を上げて泣いてしまいたかった。
 待っても待っても、彼の力強い大きな腕が、抱き返してくれることはない。
「そんなのいや・・・」
 わかっているのに、辛かった。


02 狩る者

 コンツェはあくびをこらえて、軍用テントの黒幕をめくった。
「おはようございます」
 山には初雪が積もったが、まだこのあたりはテントを張れるだけの暖かさが残っていた。その証拠に、日光を集める黒色のテントの中からむっとする熱気が体を包む。
 周囲に広がる遊牧民の草原と、高冷なアルマ山脈を見上げる自然豊かな場所。ここに総勢五十余名の小隊が配備されたのは、ちょうど三日前のことだった。はっきり言って退屈なところだ。用事がなければ鍛錬か、昼寝か、そのどちらかを延々と続けていなければならない。
 幸いコンツェには「用事」があったのだが、そのために徹夜だった。
「早いな」
 テントの主が、笑顔で返す。赤髪が燃える、長身の女性だ。
「お疲れ様です、アン少尉。ちょっと様子を見に来たんですけど」
「ああ、大丈夫だよ。入って」
 さきほど運ばれてきた「患者」の衣服をはさみで裂きながら、アンはコンツェを促した。
「もう三日か。今年も狩りは失敗に終わったな。とんだ拾いものまで」
 困ったように笑うアンの手元には、山中で見つかった少女の白い裸体がある。なるべく見ないように目を逸らしながら、コンツェは頷き返した。
 皇帝陛下の命は、副都アンリへ国立軍の一小隊を駐屯させること。アンリは帝都アデプから離れた公爵統治領。名目は荒涼なアンリの地質調査だ。
 しかし副都アンリは、アデプとさほど変わらぬくらい大きな都で、政治でも重要な都市。民衆は農耕や牧畜よりも貿易や商売をしたほうが、はるかに身を立てられることをとうに理解している。
 わざわざ回りくどい地質調査だの、アンリの領主の訪問だのをしに来るほど帝都の連中だって暇ではない。
 本当の駐屯理由、それは狩りだ。それも、ただの狩りではなく、
 近隣の諸国はおろか国内領主たちにすら知られてはならない極秘のもの。

 ―――竜狩り。

 名を聞くだけで、普通人々は震え上がる。なぜなら竜は「破壊の象徴」だからだ。
 人を喰い国を荒らし壊滅させる、触れてはならない、
 伝説上の化獣。
 しかし、真実はそうではない。竜は人にも馴れ、たやすく飼いならすことのできるおとなしい獣なのだという。いったん馴れさせることさえ叶えば、竜の忠義は他の獣たちより屈強でもある。使い方しだいで、この大きな大陸、アルケデアを制覇することも不可能ではなかった。その長い寿命による豊富な経験と知力、戦場に連れ行くことのできる強靭な体躯。それらはどれをとっても人間に敵うものはいない。
 竜を手に入れた国はあっというまに勢力をつけ、強大な国へと育つのだ。
 だが、ひとつ問題があるとすれば、「竜」の実態がわからないことだった。蛇のように長い体躯を持つとか、蜥蜴のような姿で二足歩行をするとか、さまざまなことが囁かれてはきたが、そのどれもが伝承にすぎない。本当にいるのかもわからないのだから、それを信じて長年捜し回ってきた宮廷上部たちには呆れたものだ。
 しかし隣接するメルトロー王国とリマ王国。この二カ国にだけは、負けてはならない。砂漠が半分を占めるイクパル国土は、緑の広がるメルトローや鉱山の豊富なリマとは違い、およそ豊かとはいえない状況だった。それを打破するのが、三国に覇を称えることができる竜の存在。だからイクパルは、それを喉から手が出るほどに欲していたのだが。

「アルマ山に初雪が降ったとなると、もう登れないわけだ」
 ふと、アン・トスカルナが苦い表情で肩を竦めた。コンツェと変わらぬ程の上背で、髪を短く刈り、立ち居振る舞いも男のようだ。宮廷の流行の衣装をまとい淑やかに微笑めば、引く手も数多の美女なのに、ずっと前からこの女性はそれを望んではいないようだった。
「そうですね」
「せっかくお前とワルター大佐がようやく偵察に出たってのに、残念だね」
 本来ならば燃えるように赤いアンの髪が、軍用テントの暗がりの中で赤銅色にけぶっている。冗談じみた笑みを浮かべつつも、鍛えられてささやかに引き締まった体をきびきび動かし、少女を手当てしていった。深かった傷の縫合を終えて傷口を消毒、包帯を巻いて、痛み止めなのか注射を一本打つ。見ていて惚れ惚れとする手際のよさだ。
「冬間近になると、アルマ山脈の上を竜が飛ぶ・・・っていうのは、きっと昔話でしかないんですよ。とくに今回の目撃例だってそうです。きっと夕陽に染まった帯状の雲でも見かけたんでしょう」
 このあたりには、未だ遊牧の民が暮らしている。竜が飛んだという目撃情報が入ったのがちょうど三日前。それを聞いたイクパル皇帝に命ぜられ、半日で軍をかき集めてここへ乗り込んだのだった。
「コンツェ、ワルター大佐はどこだ? この娘をどうするのか話し合いたいんだけれど」
 ひととおり手当ても済んだのか、安らかな寝息を立て続ける姿を一度覗き込み、アンは少女にやさしく毛布をかけてやる。
「大佐ならご自分のテントにいらっしゃるはずですけど・・・・・・じゃあ、もうこの子は大丈夫なんですね」
「発見が早かった。あの降り始めの雪の中、あれ以上あそこに放置されていては今頃死んでいただろう。お前たちの手柄だ」
 コンツェは嬉しそうに笑んだ。その笑顔に、アンがしっかりと頷く。
「左腕の骨折と、体中の切り傷。血の量が多かったから一時は呼吸もまばらだった。本当にぎりぎりだよ」
 この子は運がいい、とアンは言った。
 銀に近い色の金髪と象牙色の肌。山中見つけたときは泥と血に汚れてわからなかったが、洗い落とすと整った顔立ちをしていた。
 伏せられた長い睫毛が上がれば、どんな色の瞳が現れるのだろう。緑か青か、それとも髪と同じ金色だろうか。コンツェはひとりそんなことを考えながら、この日何度目かわからぬほど少女の顔を覗き込んでいた。
「さてと、あとはアンリで遊んでる皇帝陛下のご到着を待つだけになったな」
「・・・まさか、陛下もいらっしゃってたんですか」
 鼻から息を噴くコンツェを面白そうに眺めてアンが苦笑する。
「何を考えているものやら。まあ、あの方の考えてることはいつになってもわからないものだ」
 アンは二六歳で、陛下より三つばかり年上だ。十代の半ばから顔を付き合わせてきたというから、その関係は驚くほど長い。
「なんだか、この子を置いていくことになったら可哀想ですね。もし身寄りがなかったら、アンリの娼館しか行き場がない」
「たしかにな・・・・・・なんだ、その娘を連れて行きたいのか」
 アンはふと顔を緩める。コンツェは赤くなって首を横に振った。
「アルマ山中で見つかったということは、きっと麓の村の娘でしょう。親が心配しているはずです。送り届けなくてはいけないと思っていただけですよ」
 内心、連れ帰って妻にしたかった。だが親元に帰してやりたい気持ちも本当だ。しかしそれを言ってしまってはアンの性格上、面白がってワルターに報告するに違いない。そうなったら最後、この娘は有無を言わせず自分の妻に据えられることだろう。それではこの子の意思がない。
 コンツェはさぞ心配そうに、娘の顔をまた覗き込む。
 ずっと安らかだった少女の顔が、わずかにひきつった。泣いている。
「夢でもみているのだろうな。さっきから、度々泣いている」
「さっきから?」
「おそらくは心因性…か」
 アンは治療に使った器具をカチャカチャと片付けながら、コンツェの背中を振り仰いだ。
「大佐がこの子を運んできたとき、少し意識があったんだよ。真っ青な顔して、嘔吐がひどくてね」
 たしかにアンの言うとおり、狭いテントの中は、消毒液と少女が流した血、それと吐瀉物のせいか、えもいわれぬ汚臭となっている。
「大佐んとこの小姓に香煙を持ってきてくれるように頼んでおいた。この子が起きたとき、いくぶん気分もよくなるようにね」
「そうですね」
 心配げに顔を歪めたコンツェを見て、アンはまた笑った。
「とにかく、ワルターを呼んでこなければな。処遇はそれからだ」
 アンの含んだ笑顔に、コンツェは顔を膨らませた。
「わかりました。でも、その子が目覚めて平気なようなら村へ送りとどけますから」
「ほう、いいのかそれで。お前がいらないなら、私がつれて帰ろうかなぁ」
「少尉、変な気おこさないでくださいよ・・・」
 テントを出がけに大仰に振り返ったコンツェの若々しい表情を見、アンは大声で笑った。
「だから冗談だって言ってるだろうに」


 駐屯している兵はこの国イクパルと、隣国メルトロー王国との国境沿いに位置する、アルマ山脈の麓に広がる平原にテントを並べていた。
 コンツェはその、数十と並ぶテントのうちから、一番前線に張られた大きな黒いテントの外幕を捲る。
「第一中隊隊長、コンツ・エトワルト・シマニであります。ワルター・サプリズ大佐をお呼びしに参りました」
 入り口で敬礼し、小姓の少年が会釈をしたのを見て中に入る。 ワルターはすぐに見つかった。
「目覚めたか」
 食事の為の円卓について、移動食の干し肉をはさんだパンに噛り付いていたワルターは、手を止めて厳しい表情を崩した。
「いえ、まだですが、アン少尉が今後のことについて話したいとおっしゃってます」
「今後のこと? やつめ、俺と結婚でもする気になったか」
「あの少女のことですよ」
 ワルターは顔を渋め、笑った。
「冗談の通じんやつだな、お前も。同じようなことをアンにも言ったが」
「…どうだったんですか」
「真面目な顔で丁重に断られた」
「アン少尉も、冗談ばっかりなんですけどね」
「あいつは長年付き合ってきた陛下からの伝染病だろう。根は素直なやつなんだがな。……トリノ、こいつに茶でも出してやれ」
 ワルターは肩を竦めて、トリノと呼ばれた小姓に片手をあげて合図する。
「いいですね、ここは。自分がいるテントは一人でもきついくらいですよ」
 食事の為の卓より、寝床を入れるので精一杯なのだ。それで二人部屋にでもなれば、さらにきつい。
「ま、昇進することだ。中隊なんぞで留まってないで、大隊でも率いてみたらどうだ。誘われてるんだろうが。お前は貴族の息子だし、今頃は大隊長にまで昇っていても不自然ではない。階級だってやろうというのに」
 戻ってきたトリノの手から茶が並々と注がれた器を受け取って、コンツェはワルターに向き直る。
「昇進っていうのも、面倒なんですよ。軍に入るのも反対した両親ですからね。これ以上多忙になって家を空けるとなったら、考えただけでも恐ろしい。……ところで、少女のことなんですが」
「ああ、本題だな。麓の村をあたらせてみたんだが、行方不明になっている同じ年頃の少女はおらんそうだ」
「さすがお早いですね。……となると、リマ側でしょうか」
 アルマ山脈はそれ自体が国境にもなっている。それはまるで蛇の背のように大陸に這い回る、自然の防壁だ。高い標高と寒冷な気候のせいもあり、登山者、越境者はほとんどいない。だが、ごくたまにリマやメルトローから麓に住む村人などが迷い込んできたりするため、他国の者である可能性もありうる。
「だろうな。だが村娘ひとりのために、わざわざ絶縁状態のリマ王国まで潜り込むこともできん。連れ帰るかアンリに置くか、選択は二つに一つだ。陛下も、じきアンリから戻られる。竜狩りの失敗を告げて叱責を受けねば。・・・まあ、話はそれからだな」
「叱責ですか…きっと減俸でしょうね。苦しい生活に拍車がかかりそうですよ」
 陛下は遊んでいるくせに、という言葉をぎりぎりで飲み込んでコンツェは苦笑する。貴族の息子といっても、寝泊りが兵舎では豊かに暮らせるはずがない。誇張ではあっても、うそではなかった。
「お前はあの娘を貰い受けたら更に苦しくなろうしな」
 突然のワルターの言葉に、コンツェは茶を噴き出した。
「大佐までそんなこと言わないでくださいよ……」
「ちょうど、そろそろいい娘でも見つけてやろうと思っていたところだ。出世のできる男には美人な女が必要なものだ」
「なら、ワルター大佐だってそうじゃないですか」
「俺は、女は一人じゃないと思ってるからな。ばか正直なお前には、何人も女は相手できんだろが」
「それは……」
 否定できない。コンツェは頭を掻いて、顔を伏せる。
 ここへ来る途中、物資の補給に寄ったアンリでも、同僚は娼館に通いづめて何人もの女達と戯れていた。だがコンツェだけは、気が乗らぬまま気立ての良さそうな大人しい女を見つけ、夜が明けるまで世間話をしていたのだ。
「娼館はおしゃべりする場所じゃないぞ。せっかく日ごろの鬱憤を晴らさせてやろうと大枚をはたいてやったというのに、お前は」
「ああいう場所が苦手なだけですよ」
 コンツェはうんざりだ、とでもいうように顔をしかめた。
「お前は堅すぎるんだ。もう少し物事を柔らかく見てみろ。陛下もなかなか女をお決めにならないが、あれでお前ほど堅くはないぞ。なんせ根っからの女好きだ。お忍びで娼館にいかれたときも、顔を見せた女たち全員相手してやったというからな。それを見習って少しは・・・」
「いいです、もう」
 ワルターの話を遮って、コンツェは空になった器を卓上に置いた。
「ごちそうさまです。アン少尉には会われないんですか」
「ああ、残っている仕事を片付けなければならん。陛下に言い訳も考えんとな。だから仕方ないが処遇は後回しだと、アンにも伝えておいてくれ」
「わかりました。陛下の日ごろの武勇伝もしっかりご報告しておきます」
 そう言って返されたワルターの渋い表情に満足しつつ、コンツェは大テントを後にした。

03 空を嫌うけもの

 フェイリットは膨れ面をして、食卓の上の干しいものスープを啜った。
 何も言わないサミュンの顔を時々見ながら、皿の中身をぐるぐるとスプーンでかきまぜる。彼の隣には、フェイリットに向かい合うようにして座る「お客」の微笑む顔があった。
「それにしても、美しくお育ちになりましたね。そのきれいな水色の瞳など、まるで森の湖水のように透明でいらっしゃる。お肌の色もまるで…」
「お世辞は結構です」
 フェイリットはうんざり、というようにため息をつく。自分のたかが知れた容姿など、褒められても嬉しくはない。それに今、自分はひどい顔をしているに違いないのだ。泣き腫らした目はぼんやりと重たく、顔全体がなんだか熱っぽい。
「…ご気分を害されましたか。申し訳ありません・・・」
 「お客」は自らをカランヌと名乗った。メルトローまでフェイリットを送り届ける仲立ちの役目をしているという。
 アルマ山はメルトローとイクパルを仕切る国境だが、しかし地元の民だけが知る抜け道が何本かある。その獣道ほどの裂け目を通れば、両国の行き来は簡単だ。
 山を降りて一度メルトローの麓まで出て、そこから都まで、待たせている馬車に乗る手はずらしい。ひととおり説明を終えて、カランヌは穏やかな表情を浮かべた。
「まさか食事をご一緒できるとは思っていませんでした」
 感激だといわんばかりに、目に涙を溜めたカランヌは笑った。
「無礼講だ。今日は門出なのだからな」
 酒を煽りながらサミュンが返す。
 いたって冷静なサミュンの表情は、言いようのない寂しさだけをフェイリットに募らせる。たまに見せるやさしい笑顔も、今はない。彼は物心ついてからこれまでずっと育ててくれた父であり、兄であり、いろいろなことを教えてくれた師でもある人物なのだ。そんな人に、別れを惜しんでもらえないのは辛かった。
「サミュン、・・・・・・あたし」
「顔を拭け」
 いつの間にかぼろぼろと溢れていた涙を、彼に指摘されて袖口で乱暴に拭う。もう、何を言ってもだめなのかもしれない。
「サミュンはここに残るの?」
 質問には答えず、サミュンは呆れたように瞼を閉じた。
「食べろ。早めに寝て、日が明けないうちにここから出て行くんだ」
「サミュエル・ハンス様、そのようなことを申されてはサディアナ様がおかわいそうです」
「サディアナなんて呼ばないで!」
 いきなり血相を変えたフェイリットを見て、カランヌが申し訳なさそうに顔を伏せる。
「お前はフェイリットと呼ばれることはもうなくなる。メルトローに帰ったら、サディアナ王女に戻るのだ」
「サミュン!」
 フェイリットが悲鳴にも似た声で叫ぶ。
 メルトロー王国第十三王女、サディアナ。
 病弱なため隔絶された城の頂上で、生まれてこのかた病床を離れることができない悲運の王女―――という噂が流れるようになったのはいつの頃からだったか。
 だがサディアナ王女本人はメルトローを脱し山奥で育ったのである。フェイリットという名を隠れみのとして。
「お前は極めて濃い血を残す竜だ、サディアナ。普通の人間として幸せに生き続けることは不可能だ・・・・・・お前の母親のようにはな」
 メルトロー国王の二十番目の愛妾。それがフェイリットの、生まれて一度も会ったことのない母親だった。
 一国を強大なまでに育て、大陸制覇も叶えることができるという、竜……母は人間ではなかった。それを死ぬまで父に告げなかったのだという。
 父――メルトロー国王は、自分の愛妾の中に「竜」がいたことを酷く悔しがった。それに気づき血の契約さえしていれば、「竜」は死ぬことはなく、しかもより強大な国家を創り上げることができていたのだ。
 本来千年を生きると言われる竜は、主を持たない場合、二十年も生きられない。自分の血を主に飲ませて初めて、契約が結ばれるのだ。
 同時に、世界が手に入る。
 真実の愛だけを求めて人間であることを貫いた母は、死に際にひとつだけ、国王の実弟であるサミュンに願った。―――娘を連れて逃げてくれ、と。
 竜の血を持つ赤子は、戦乱を招く。野心を持つ者なら誰もが欲しがる竜が、極めて扱いやすい形――赤ん坊として存在していること自体、危険なことなのだ。
「国王陛下は、危険な状態からお前を守ることに賛同した。だが同時に十六を迎えたら帰すことも約束させた。血の契約をし、生涯をかけて仕えよと。お前はもう寿命が近い。お前の母リエダ様でも、お前を生んだその年十八歳の若さでお亡くなりになったのだからな」
「・・・誰とでも契約ができる?」
 サミュンは悲しげに笑った。
「それができるなら、きっとリエダ様はそうしていたはずだ」
「――どういう・・・」
「お別れだ」
 フェイリットは彼を見上げて、悲痛に眉根を寄せた。
「いや…サミュン、どこにも行かないで、一緒に来て」
 サミュンは答えず、静かに食事を再開した。食卓には麓の村からとりよせた、めったに食べることができない山羊肉まである。この料理の多さだけで、フェイリットには十分だった。
 これがきっと、彼にできる精一杯のはなむけなのだ。
 サミュンの胸に飛び込みたい。その衝動を必死に堪えて、フェイリットは力なく笑う。もとから叶わない夢だとわかっていた。サミュンの心は空よりも遠い場所にあるのだから。



 うっすらと目を開けた。あれから寝てしまったのだろうか。だが、何かがおかしかった。
 背負われている…?
 思う間もなくフェイリットは暴れだしていた。
「サディアナ様!」
 自分を背負っていたカランヌが、慌てたように降り返る。その背から転げ落ちて、フェイリットは彼を睨みつけた。
「どうしてなの」
 立ち上がらせようとするカランヌの手を振り解き、喉元を目がけて殴りつける。カランヌは大きく咳き込んで、その場に膝をついた。
 今居る場所は、小屋ではなかった。木々がうっそうと林立した、森の中だ。いつからかカランヌに背負われて、山中を延々と下っていたことには間違いない。
「・・・さすが隙がない。サミュエル・ハンス生き写しでらっしゃる」
「冗談言わないでよ」
 フェイリットの厳しい眼差しを受けて、カランヌは小さく首を振った。
「あなたが寝ている間に運び出せと言ったのはサミュエル様なのです」
 カランヌの言葉に、ようやく我に返る。サミュンなら、考えかねない。
「そんな…」
 最後の別れくらい、させてくれるものだと思っていたのに。フェイリットはふらつきながら、周囲を見回した。子供の頃からこのあたりを走り回っているから、自分のいる位置はだいたいわかる。
「戻るわ。別れくらいさせて」
 カランヌの顔が曇る。
「それはなりません…麓に馬車を、待たせてありますから」
「大丈夫よ、逃げたりしないわ」
 言い終わるや否や、フェイリットは駆け出す。
「サディアナ様!」 カランヌの悲鳴にも似た叫びを背後に聞きながら、裸足で森の中を走った。
「お待ちください!」
 ぱしぱしと折れゆく小枝を踏みつけながら、見たことのある木々に手をつける。ここで遊びながら育った。山を駆け、サミュンに怒られながらこっそり麓の村に下りたこともあった。
 フェイリットは泣きながら走っていた。この森には、思い出が詰まりすぎている。
 しばらく無心に走った。湖水を抜けると、小屋が見える。
 丸太作りの家を見つめて、息をつく。家がないのでは、という不安があったのだ。だが、ふと流れた臭いに、フェイリットは鼻を覆った。
「これは・・・!」
 どうして自分は鼻がいいのだろう――。この臭いの元が何なのか、はっきりとわかってしまう自分が嫌だ。
「サミュン、サミュン・・・」
 泣きながら、軋む家の扉を開け放つ。
 今更ながら、あの時のサミュンの言葉の意を理解した。お別れだ、と。扉を開けたことで、より強く錆びくさい臭いが鼻孔に流れ込む。
 まぎれもない血のにおい。
 入り口を開けると小さな客間がある。客間を抜けていくと、食卓も兼ねた台所。その台所の、開け放された扉の前で立ち止まり、フェイリットは嗚咽を漏らした。
「…サミュン!」 扉を開けて目に飛び込んだのは、一面の赤。
 血に塗れたサミュンの体が、無残にも床に転がっていた。
「ひどい……」
 恐れていたことが、起こってしまった。駆け寄って抱き起こすと、サミュンの体はぐたりと重みを増す。こんなにも重いのに、彼の瞼は閉じられたままだ。
「サミュン、サミュン、起きてよ…。サミュエル…」
 彼の手に握られた短刀は、元の色がわからないほどに血で濡れている。フェイリットはサミュンの胸に顔を埋めた。もう、鼓動は聞こえない。
「こんなに血を流して…痛かったよね。わたしのせいで、こんな…、こんな辛い思いをさせてしまった」
 自分で腹を貫いて、それでも死ねずに喉を掻ききって…。ずいぶんもがいたことだろう。苦しんだだろう。
「どうしてサミュンが死ぬのよ・・・どうしてあたしに死なせてくれないの!」
 人に死ぬなと言い置いて、自分だけ。
「ねえ、置いていかないで!」
 叫んでも、サミュンは何も言わない。
 不思議なことに、さっきまであれほど流れていた涙が一滴も出てこなかった。
 泣きたい。大泣きすれば、きっと彼は起き上がって、その大きな手で子供のころのように乱暴に頭を撫でてくれるだろう。抱きしめてくれるだろう。
「起きて、サミュン…」
 顔をぐしゃぐしゃに歪めてサミュンを抱きしめた。まだ温かい。呼吸も、脈拍も止まっているのに、体だけが温かい。
「起きてよぉ・・・」
 彼の肩を揺さぶると、手から小刀が滑り落ちる。開かれたその手の中に、何かが包まれているのを見つけてフェイリットは目を見開いた。
「これは・・・」
 一枚の小さな紙片。くしゃくしゃに折りたたまれているのを丁寧にほぐしてやると、懐かしい彼の字で一言、
 愛している――――。
「サディアナ様」
 追ってきたカランヌが、いつのまにか背後に立っている。気配をまったく感じなかった。カランヌが早々に現れた驚きよりも、悲しみのほうが勝っていた。
「どういう…ことなの?」
 今度はカランヌがたじろぐのがわかる。
「―――自ら命を絶ったのです」
「どうしてなのよ! どうして彼が死ぬ必要がある?」
 振り返ると、カランヌはその場に両膝をつき、怯えたように肩を震わせていた。フェイリットの金髪が淡く輝き、風もないのにゆらゆらとなびいていたせいだ。自分でもそれを感じていたが、今さら怒りを堪えるのには遅すぎる。カランヌのこの世の者ではないものを見る目つきを、苦笑して見つめた。
「なぜなの」
「サミュエル様は陛下と…十六年前、約束をなさいました」
「十六歳になったわたしを、王国に帰すことでしょう?」
 カランヌは震えながら、首を横に振った。
「ちがうのです。約束はふたつありました。一つ目は、あなたの言ったとおりですが、もうひとつは……十六年間あなたを育てたサミュエル様が主として選ばれることのないように…自決、しろと」
「そんな……」
「サディアナ様、どうか…怒りを、お静めください。サミュエル様は、」
 カランヌの言葉を聞き終わらぬうちに、フェイリットは倒れこむ。突然襲い来た壮絶な目眩で、ちかちかと視界が点滅している。
「……サミュン…は、…?」
 体が痛い。
 もがいているうちに、びちびちと手の皮膚がちぎれる。
 皮膚がぴんと突っ張る感覚から、ぶちりと弾けて血肉が飛んだのだ。それをきっかけとするかのように、全身に激痛が走る。だらだらと血が噴き散っていく。
 その壮絶な光景は、たとえ自分の身体でも嘔吐を誘う。
 フェイリットは悲鳴を上げるだけでは耐えられず、床に両手をつき首を振った。
「いやだ! いやだ・・・!」
 目眩と吐き気が次々と襲い、フェイリットは吐瀉する。変わってしまう。人間から、竜へと…。
「くるし・・・い、サミュ・・・」
  引き裂けた皮膚からは血が流れ出し、だらだらと体の上を伝っていく。こんなにも苦しいものだとは思わなかった。気絶してしまえたら楽なのに、それが許されない。どんどん研ぎ澄まされていく意識が、眠るな、と告げていた。視界が血塗られたように赤くなってゆく。

 ・・・出てくる。

 彼女は短い咆哮をあげると、小屋の天井を突き破り、
 ―――飛翔した。

04 金の髪、湖水の瞳

 草原に張っていたテントの撤収が決まった。
 ワルターは給仕の少年たちに指図しながら、外幕をくぐり出る。朝日が昇りかけて、外はもう明るくなっていた。
「おはようございます。ワルター・サプリズ大佐」
「アンか」
 目の前に立つ長身のアン・トスカルナの姿を認めて、ワルターは苦笑した。
 テントを片付ける混雑のなかでも、彼女の声は張りが強くよく通る。
「なぜ笑うの」
「いや。ちょっと思い出しただけだ」
「コンツェの言っていた、陛下の武勇伝ですか」
 聞きましたよ、とアンは呆れたように息を吐く。
 ワルターは「いや」と言って首を振るが、わかっているのだろう、彼女は再びため息をついた。目線がなぜ、と問い続けている。
「陛下の武勇伝に、まさか少尉が含まれていようとは誰も思わんだろうな、と思ってな。このお堅い少尉どのが」
「もう忘れて欲しいものですね。私にも若気の至りというものはありました」
「ふはは、陛下の毒牙にかかったって誰も責めはせんさ。あいつの女癖の悪さは周知だ。とくにトスカルナ家のアン嬢とあっては」
 成人もせぬうちからあっちこっちと女を誑かして、泣かせて回った男だ。ごくごく身近にあったアンがその対象から外される謂われはない。
「まったく・・・八年も前の話でしょう、口外されては困ります。その分では、コンツェにも話したんですね?」
「なんだなんだ、心配するなよ。俺がコンツェに話したのは八年前の武勇伝ではない。最近あっただろう、アンリの」
「ああ」
 納得したのか、アンはわずかに苦笑する。
「俺に口外するなと釘を刺しにでも来たのか?」
 面白そうに聞くと、アンは小さく咳払いをした。
「あの少女のことです」
 テントを片付けていた少年たちの、「飲み物をお持ちしますか」という問いに片手で断りながら、アンは呆れたように肩を竦めた。
「ずいぶん楽をしているようですね」
「おもしろい。同じことをコンツェも言っていたな。少尉クラスなら給仕を雇ってもよかろうに」
「私は何でも自分でしますから」
「ああ、然様で。お前はどう考えているんだ、あの娘をどこへやるか」
「医者としては、患者の完治を見届けたい」
「医者としては・・・か」
「なんです、その言い方。他意はないわよ」
 アンの区切りをつけた返答に苦笑して、ワルターは歩き出す。足はアンのテントへと向かっていた。
「目覚める気配はなさそうだな」
「ええ。テントの中だけでは限界もあります。このまま眠り続けたらいっそう衰弱するだけ」
 目覚めていれば、自宅に帰してやることも考えられる。しかしそれがない今、アンリに住処を与えてやるか、誰かが王都へ連れ帰るという選択も考慮しなくてはならない。
「だが、残念ながら陛下はもうすぐお見えになる。少女の身寄りをどこかで探すのにも時間が足りないわけだ」
 ワルターの言葉に頷いて、アンはため息を漏らした。
「私が連れ帰ってもいいでしょうか。治療もできるし」
「ああ、そうしてくれると助かる。いきなりコンツェに預けるのもどうかと考えてたところだ」
「わたしもです」
 ワルターは歩みを止めて、後ろを歩くアンの瞳を振り返って見つめる。青い双眸が、柔らかく細められた。
「口には出していませんが、コンツェはあの娘をいたく気に入っています。うまくくっつけてあげたい。私はあの子にいろいろと助けられましたから」
「そうだな…」
 アンの背には縮れた大きな傷がある。戦争でうけた傷ではなく、幼少にできたものだと以前彼女に聞いたことがあった。肩口から腰まで、ばさりと斬られたような痕だ。だが、それが幼少にうけた傷でないことなど、ワルターにはわかりきっている。口ぶりから見て、それをアンも承知しているようだ。
「陛下にも早くお后をお決めになってもらわねばな」
「たとえ連夜宴を催しても、女に本気になることはないでしょうね、あの方は」



 アンのテントを訪ねたコンツェだったが、当の本人はどこかへ用事で出かけているらしい。怪我人がいるからと撤収も遅らせたテントは、必要最低限の道具しか出されていない。
 空っぽのテントの端にぽつんと置いてある椅子を引き寄せて、コンツェは寝台の上の少女を覗き込んだ。
「早く目覚めてくれよ」
 蒼白だった顔は幾分ましになったが、それでも白い頬に赤みがさすことはない。この長いまつげがフワリと開いて、自分を見つめたとき、彼女の白い頬が薔薇色に輝いたらどんなにいいだろう。
 一瞬ためらったが、見ている者がいないのを確認すると、手を伸ばして少女の金髪を指に絡めてすくってみる。するりと解けて、おちる。やわらかく、なめらかな感触。それはどこか雛の羽毛を思わせた。
「うう…」
 身じろいで、少女がかすかに目を開く。
 身を捩じらせたせいか、少女の金髪はぼさぼさに四方へ散ってしまった。外から吹き込んできた風で、前髪がわずかにふわりと浮き上がる。やわらかそうな印象は変わらない。再び触れたい衝動がこみ上げて、コンツェは小さく首を振った。
「あ、」
 ふと、少女のまなこがぱちりと開き、コンツェの視線とぶつかる。
 苦しそうに何かをつぶやいたが、コンツェは首を傾げることになった。イクパル語ではない。語学に乏しい彼だったが、それだけはわかった。
「大丈夫か?」
 少女は瞳を大きく開く。透き通った水色の瞳。森中の湖水のような。
 透明なその球体に自分の顔が映るのを見止めて、コンツェはぼんやりと口を開けた。彼女の瞳は群青でも金色でもなかった。
「ここは・・・イクパル?」
 少女は小さく呟いた。その呟きを聞き取って、コンツェは頷く。少女の話した言葉は、今度はコンツェにもわかった。同時に、彼女の体が小刻みに震えていることに気がつく。少女の瞳には、はっきりとした怯えが浮かんで見える。
「僕はイクパル帝国軍近衛師団、中隊長、コンツェだ。心配しなくとも、君は無事家まで送り届けるよ」
「わたしは――フェイリット。どうして・・・」
「冬のアルマ山の中腹で、瀕死だったのを見つけたんだ」
 フェイリットが頬を引きつらせたのを、コンツェは見逃さなかった。何か事情があるにせよ、聞き出すのが困難ならそれでいい。しかしそれに勝る好奇心が、コンツェにはあった。
「左腕骨折に出血多量の切り傷がいくつか。俺は医者じゃないが、君の負ったのは並大抵の怪我じゃない……なにがあったのか、教えてはくれないか」
 フェイリットは自らの左腕を見おろし、息を呑んだ。麻酔が効いている、と言ったアンの言葉に偽りはなかったらしい。痛みを感じていないのか、動かそうと揺さぶっている。
「やめたほうがいいぞ。後から泣くことになる。外れた骨を入れ直すのは吐くほど痛いんだ」
「メルトローに行くはずだった」
「ひとりで?」
「連れがいたわ。でも…途中ではぐれてしまって、というかわたしが逃げてきたの」
「それは…、」
 考えたところで、コンツェはふと気づく。
 人買い。
 奥地では、食扶ちを減らし生活資金を得るため子供を売る習慣が残っている。
「まさか、人買いに売られたのか」
 売られた子供は奴隷になるか、娼婦になるか。運が良ければ主と結婚することもできるが、それは多妻制の残るリマ王国のみでの話だ。メルトローやイクパルでは、普通の生活はまずありえない。
 コンツェの目前で弱る少女は、まさに運のいいほうの人間かもしれない。
「人買い? …そう、似たようなものかも」
「じゃあ追っ手にやられたんだな、その傷は」
「違うわ。逃げてる途中で――」
「お姫様のお目覚めだな」
 テントの幕が外から開かれ、長身の女性が顔を出した。赤い短髪と頬に散った火の子のようなそばかす。日焼けした顔に並ぶ二つの青い目がこちらに向かって細まる。
「アン少尉」
 コンツェは名を呼ぶと、はっとして恥ずかしそうに顔を赤らめた。勝手にテントに入っていたことが、ばれてしまった。加えて、その後ろからずんぐりした、これまた長身の体躯が現れる。
「大佐…」
「おう、王子のキスで目覚めたか?」
 ワルターだった。二重の恥ずかしさで、頬がさらに熱くなる。
「おはよう。っていってももう夕方だ。お嬢さん、そろそろ腕が痛くなるころだと思う。注射で鎮痛剤を打つか、それとも痛み止めの薬を飲むか。どっちがいい?」
 がつんがつんと軍用のブーツを鳴らしながら歩き、アンは側にあった卓に乗る銀の盆を無造作に掴んだ。
「何か違いが?」
 フェイリットは不安げな眼差しをアンに向けている。
「早いか遅いかだけだよ。さして変わらない。注射なら効きは早いけど、ちょっと痛い。薬は効くまで時間がかかるから、やっぱり痛い」
 選べ、という言葉とは裏腹に、アンの手は注射器を持ち、薬を入れているところだ。フェイリットはコンツェを見遣るが、彼は何も言う気はなかった。アンに従うのが一番だからだ。
 それを見た彼女はひょこりと肩をすぼめて、苦笑した。
「名前を聞いてなかったね、私はアン・トスカルナ。近衛師団の軍医だよ」
「俺はワルター・サプリズ。近衛団長だ」
「フェイリット、です」
 恥ずかしそうに、フェイリットは笑った。

05 闇夜

 人の話し声や、馬の嘶きがテントの外からざわざわと聞こえてくる。
 目覚めて、フェイリットは思わず自分の両手を見つめた。竜の―――忌まわしいあの獣の毛皮が、むき出しになっていては困る、そう思ったからだった。だがあの時千切れたであろう人間の皮は、元通りになっていた。
 ヒトの皮を被ったヒトじゃないもの。フェイリットは小さく震えて、目を閉じる。
 夜には医療テントも片付けるからと、アンに言付けされていた。だがいっこうに彼女の姿は見えない。あれから注射をされてすぐ眠ってしまったようで、目覚めたときには人気がまったくなかった。
 しばらくぼんやりしていると、あの苦痛が蘇える。
 人間の皮が千切れて竜に変わるときの、あの痛みといったら。思い出すだけで吐き気が込み上げる。視覚、聴覚、嗅覚―――感覚すべてにおいて体の急激な変化が起こるのだ。ぐるぐると回転する視野にふらつき這いまわると、今度は皮が千切れて絶叫する。
 ―――あんな思い、二度としたくはない。
 そして気がつけば空の中を飛んでいた。自分の姿は見えなかったが、両手が黄金の毛でびっしりと覆われているのを見て恐怖した。上を仰げば真っ赤に燃える朝焼けの空。正気を保っていられたのが不思議なぐらいだ。人間の姿に戻ろうともがいているうちに、遥か上空から落下するはめになってしまったのだ。
「まさか生きてるなんて」
 普通の人間があの高さから落ちたなら、間違いなく即死だろう。重症とはいえ数ヶ所の骨折と切り傷ですんだのは、他ならぬ自分の忌まわしい血のせいだ。
 破壊の神、覇王を生む化け物、伝説の軍鬼……その呼び名は無限と言っていい。ある時は怪談、ある時は野心の夢として長らく語り継がれていた。その多くは誇張も多い。国一国を一夜で滅ぼし、王に永遠の力を与えて豊穣をその地に降らせると。だが、そんな都合のいい話があるわけがない。竜も「人」だ。少しばかり血のねじれ曲がった人間。主と結べば永遠に近い時を生きることもできるが、斬られれば血が出るし簡単に死ぬことだってある。軍神やら軍鬼だのと讃えられるのは幼きよりの鍛錬のたまものだし、それが、受け継がれる優れた身体的特徴とするところであっても、何もせずに一端の人間くずれが最強などなれるものではない。否、自分もそうだ。伝説に聞く、唯一表舞台にのし上がった「最強の竜」―――エレシンスと自分が雲泥ほどに遠いことも、わかっている。たとえこんな自分を捕らえたとしても、何の役にも立たないのだ。不老長寿を叶えることはできるが……。王がただだらだらと長生きしても、国は都合よく栄えてはくれない。そこに伴う竜の武力や才智が豊穣を呼ぶのだ。伝えられる伝承や説話をみな良いように解釈し、畏れている。夢物語もいいところである。
 だが、この世界にいったいどれだけの「竜」が生き残っているのだろう。人々の尾ひれのついた伝承がまことしやかに囁かれるようになったのも、竜という存在が滅多に歴史の表に出てこないせいなのだ。もし、フェイリットの他にわずかでも残っているとしたなら、恐らくは人間の目も届かぬ辺境の地で短い生涯を絹糸を紡ぐように細々と生きていることだろう。どんな経緯にせよもう知ることはならないが、「人間の地」に出でてしまったフェイリットの母はよほど稀有な存在だったのだ。―――そして、その血を引く自分も。
 メルトローの国王は、果たしてそれを知っているのだろうか。役に立たない未熟者の「竜」がいることを。竜のことを聞いたのはサミュエルからであった。彼が知っているくらいだから、その兄である国王が知っていてもおかしくはない。なら、彼が自分を欲する理由はいったい何なのか。
 フェイリットはゆっくりと起き上がった。
 とりあえず、今はこの状況を考えねばなるまい。なにしろメルトローの敵国、イクパルに拾われてしまったのだから。
「早くしないと。今頃きっと…」
 いや、きっとではない。もうすでに、カランヌが「はぐれた王女」に向けて追っ手を差し向けたことだろう。早く、それまでどこか遠くに逃げてしまわなければ。……でも、どこへ? 頼るつてが何もない自分は、結局何もできないのだ。
 寝台から起こした体の怪我をあれこれ確かめ、フェイリットは顔をしかめる。―――左腕がひどかった。添え木と包帯でぐるぐる巻きに固められている。かなり複雑な折れ方をしているにちがいない。残った右手と両足は切り傷なのか包帯だけ。歩くだけならなんとかできそうだった。
 そろそろと寝台を降りる。膝頭まである着心地のいい白布の服を着ていた。するすると滑らかで光沢があり、手触りもいい。きっと高価な布だ。うっかり転んで汚してしまわないように恐る恐る歩いて、フェイリットはようやくテントの幕を捲った。
 暗闇の中、あちらこちらに松明らしき炎が見える。コンツェが明日の明朝に帰還すると言っていたから、その最後の準備なのだろう。
 どちらにせよ、逃げ出すなら騒がしい今のうちしかない。
 いつの間にか、不思議と夜目が利いていることに驚く。松明しか目に入らなかったのが、動いている人々や引かれている馬の姿、運ばれる荷などが昼間のようにはっきりと見えた。これなら本当に、誰にも見つからずに逃げることができるかもしれない。考えて、フェイリットは歩き出す。少し足を引きずってしまうが、仕方ない。
 そうして、テントを離れて暗闇に紛れ込もうとした刹那だった。
 驚くほど唐突に、何者かの手がフェイリットの右腕を掴んだのだ。
 誰もいないと気配で察していたはずなのに……フェイリットは慌てて振り向き見上げるものの、見上げたその顔は見知らぬものだ。
「―――誰?」
 全身を闇で包んだような風体の男が、こちらを見下ろしていた。
 この闇中に溶けこむ黒髪と、同じような闇色の目。それがわずかに細まってフェイリットを見下ろす。
 恐ろしい。フェイリットはそう感じた。
 何かに絡めとられるような、いやな心地がする。この男と目を合わせてはだめだ。本能が警鐘を鳴らすのに、思わず見つめてしまう。男の漆黒の瞳は、実在の夜闇とは違い見通すことができない。それが恐怖を与えているのだろうか。
「トリノか、ワルターはどこだ」
 深い声音で言って、男は猛禽のような鋭い顔をフェイリットに近づけた。松明も持たず、暗がりで顔もわからないのに違いない。接近した鋭利な印象を与える風貌は、まるで陰影を計算しつくされた彫刻のよう。誰かと人違いされているようなのに、それをどう言ったらいいかわからない。フェイリットは戸惑った。
「あの、」
 かろうじて声をあげると、そこで初めて男の目に驚きが形どられる。だがその漆黒の瞳のなんと恐ろしいことか。獲って喰われそうな印象まで受けて、思わず身を引いてしまう。
「・・・女? 新参の侍女かなにかか」
「―――ち、…ちがう」
 暗闇の中の黒い相貌を見上げて、必死に声を絞り出す。言ってしまってから、はたと考える。頷いてしまえば楽だったのに―――今は早くこの男から離れたい。そうしなければならない。恐怖に似た、それとも違うような恐ろしい感覚・・・感触。この男の前に、一時でも居たくはない。
「――たいていの顔は知ってるんだが」
 男は何かを考えるように眉を寄せ、その大きな手でフェイリットの顎首を掴む。
 恐ろしさに喉の奥で吐息を詰まらせ、フェイリットは小さな悲鳴をあげた。
「どっちにしろお前は俺の顔を知らないようだ・・・まあ、ちょうどいいな」
「えっ…、わ!」
 フェイリットは情けない声を上げた。男の手が腰に回されて、あっという間に横抱きにされてしまう。暴れようにも、しっかりと抱かれてしまってできない。
「や、やめてください!」
 この男は何を考えているのだろう…――身体を抱き込むその腕の力強さに、身の毛が粟立ってぶるぶると震えた。
「は、はなして! 人違いです!」
 えもいわれぬ恐怖で、気が狂いそうだった。渾身の力を込めて自らの体を抱く男の腕から逃れようと必死になる。無理だとわかっていても。
 だがそんなフェイリットの唇を、何かが覆う。
 それが何なのか考える間も無く呆然とするフェイリットを見下ろし、
「少し黙れ」
 酷薄にそう言った。


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