
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏
平城遷都の翌七一一(和銅四)年夏、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ)は京内左京四條四坊にある自邸書斎で、目の前に置かれた三巻の巻き物を見やりながら思案にふけっていた。巻き物にはそれぞれ、古事記上つ巻((かみつまき)、古事記中つ巻(なかつまき)、古事記下つ巻(しもつまき)という標題が付けられ、そのあとに本文が続いている。父多臣品治(おおのおみほむじ)の遺言では、三巻はいずれも品治の息子である自分が本文を筆録し、題名も付けるはずだったが、思いがけない事態の出現だった。
先刻この古事記三巻を携えてきたのは、長身で大柄な老人だった。すでに肉は落ち、髪や髭は白かったが、身のこなしにどことなく気品と色気があった。自分よりも二〇ほど年かさであろうか。その老人を玄関に迎えた時、安萬侶はあっと声を上げそうになった。もしかしたらこの方は……、その時老人が言葉を発した。それは体にしみ通るような声だった。
「私は稗田阿礼(ひえだのあれ)、かつて多臣品治殿からお返しできないほどのご好意をいただいた語り部でございます。御無沙汰をいたしましたが、品治殿はご達者でいらっしゃいましょうか?」
序章 七一一年夏 2
やはりそうだったか。この人が、父がいまわの際にいい残したあの阿礼なんだ。想像よりも老けてはいたが、風貌と声は紛れもなく、父が伝えた通りだった。
品治は遷都後まもなく六七歳で亡くなったが、死の直前次のような言葉を残した。
「私の知己に稗田阿礼という語り部がいる。出会ったのは三〇年ほど前、彼が青年だったころだ。とびきりの記憶力と描写力を持つ語りの名手だった。いや語りの名手というよりも、人の機微や事の本質を突く物語をつくれる語りの創作者だといった方がいいだろう。反骨心を秘めながらも、広やかな心を合わせ持つ不思議な性格をしていた。無骨な風貌におよそ似合わない、涼やかで、人の心にしみ亘るような声を持っていた。
その才能と人間性に目を付けたのが、私が仕えた天皇、天武(てんむ)だ。天武は阿礼にある物語を創作するよう命じていった。『この話は誰にも知られてはならない。作業は全てナレ一人の手でやるように。完成した暁には、それを誰かに筆録させ、書として世に出そう』
それから三〇年以上の歳月がたつ。創作はとっくに終わっているはずだ。歳は私より多少若いが、もう六〇代半ば、創作した物語を記憶し続けるのが難しい年齢に差し掛かっている。いずれ阿礼は自らの構想で創作した物語を脳裏に詰めて、わが家を訪ねてこよう。そうするように伝えてもある。
序章 七一一年夏 3
そなたは、彼が口誦するその物語を聞き取って書にし、今上(きんじょう)天皇に献上してくれないだろうか。幸いそなたは文字に通じた漢学者、しかも正五位上の官位をもって元明(げんめい)天皇に仕える身、この役目を果たすに誰よりもふさわしい条件を備えている。
ただ一つだけ問題がある。それは天武が阿礼の作品の内容を最終的に確認し、それを世に出すべきかどうかの判定を下さないまま死を迎えてしまったことだ。天武は生前一度だけ、阿礼が語る創作途中の物語を聞いている。得心できない箇所があって、天武は阿礼にその修正を迫った。それに対して阿礼がその後どう対応したか、私にはわからぬ。自分は修正なしの方がいいと思ったが、最終的判断は、筆録者となるそなたに委ねよう。そのままで天皇に献上できるか、世に出すには改めた方がよいか、全ては文字にした上で決めてほしい」
父がそれほどまでに気遣いを見せる人物なら、己も力になろう。己の立場を存分に生かしてみよう。でもそれは、彼が口頭で語る物語を自分の手で文字にしてからだ。そう心に決めていたところに、物語は別人の手ですでに三巻の巻き物となり、原作者の稗田阿礼によって運ばれてきたのである。予想外の展開であった。
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏
前四世紀に中国大陸から九州に入った稲作農耕文明は、九〇〇年後本州中央部を越えて東国にまで及んだ。その九州と東国に亘る農耕文明の中心地となったのが、大和(奈良)盆地である。奈良盆地は紀伊半島の中央部を占める大和国(やまとのくに)の北面にあって、南北約三〇キロ、東西約一三キロの縦長で、四方を青垣の山々に囲まれた穏やかな平地である。
東の笠置山地、西の生駒・金剛山地、南の竜門山地、北の平城山(ならやま・奈良山)丘陵に源を発する無数の河川がこの平地を潤し、水田稲作に最適な平野をつくり上げていた。
また南部から北流する葛城(かつらぎ)川・曽我(そが)川・飛鳥(あすか)川、北部から南流する竜田(たつた)川・富雄(とみお)川・佐保(さほ)川が盆地中央部で次々と合流し、大和川となって大阪湾に流れ下っている。この大和川を中心とする水系は、大和盆地に展開する水田稲作システムを支える最上の交通・交易路となった。
この文明の中心地に国を建てたのが、ヤマトの連合王権(政権)である。連合政権は六世紀に始まった統一国家形成の動きを主導し、七世紀には律令的な中央集権国家の形成をめざす。そのヤマト王権の歴代の大王・天皇が宮室(宮殿)を置いたところが、大和盆地南東の奥まった一画、飛鳥であった。ここは南流する飛鳥川の流域地帯で、北には大和三山の一つ、香具山(かぐやま・香久山)が手に取るように眺められる。
一章 六七四年初夏 2
飛鳥は、もとは中央豪族として強大な勢力を蓄え、ヤマト王権を大臣(おおおみ)として支え続けた蘇我本宗家の本拠地だった。崇峻(すしゅん)期(五八八―五九二年)に、大臣蘇我馬子(そがのうまこ)が真神原(まかみのはら・まかみがはら)に氏寺の飛鳥寺(法号法興寺・ほうこうじ)を創建して以来、ここが宮殿の建設地となった。
飛鳥寺の西に、飛鳥川を挟んで小高い丘陵が立っている。甘樫丘(あまかしのおか・一四八メートル)である。その北西麓に、蘇我本宗家の強い影響力によってヤマト王権の最初の宮が建設された。女帝推古(すいこ・五九二―六二八年)が即位した豊浦宮(とゆらのみや)である。推古はその後、法興寺の北西、飛鳥川右岸の雷丘(いかずちのおか)の麓に小墾田宮(おはりだのみや・小治田宮・おはりだのみや)を建て、七五歳で没するまでそこで政務を執り続けた。
この間、飛鳥を起点に大和盆地を東西南北に貫く国道が整備された。南北路は三本、東側の上ツ道(かみつみち)、西側の下ツ道(しもつみち)、その間を走る中ツ道(なかつみち)で、いずれも北は山背(やましろ)に、南は吉野に連絡していた。東西路は二本、伊勢と難波を結ぶ横大路(よこおおじ)・当麻道(たいまみち)、伊賀と河内をつなぐ竜田道(たつたみち)である。その南北と東西の幹線道路から無数の枝道が延び、その道端には水田が広がった。