目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
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六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
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六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
奥付
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九章 六八〇年初秋 13

 持統が天武から引き継いだ今一つの事業は、律令の制定だった。彼女は夫の死後、新令編纂作業を急がせ、即位に先立つ六八九年六月にはこれを公布・施行させた。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)である。これは翌六九〇年の遷都と共に、藤原京を新都とする律令国家を動かしていくための法典として徐々に実現に移されていく。しかし飛鳥浄御原令には律が伴っていなかった。持統は律を含めた体系的な法典整備をめざした。
 六九七年八月、五三歳になった持統は、孫の軽皇子が一五歳に達したのを機に譲位するが、その後も太上(だいじょう)天皇として新天皇文武と共治体制を敷き、新法典の完成を促した。そして七〇一年、新年号大宝(たいほう)を制定すると共に、新令・新律からなる基本法を公布・施行する。大宝律令である。こうして天武が構想した日本型の律令国家形成の青写真ができ上がるのである。
 この青写真づくりは容易ならぬ作業だった。その作業に忙殺され、持統には阿礼を呼び出し、その後の推移を尋ねる暇もなかった。それどころか阿礼と古事語を思い出す暇もなかったのかもしれない。持統は大宝律令施行の翌七〇二年一二月二二日、五八年の生涯を閉じた。天武の死から一六年後のことである。これによって阿礼は、天武に最もゆかりのある人からの呼び出しを受ける機会を永遠に失った。
 阿礼の喪失感は大きかった。創作意欲は限りなく低下した。阿礼はこの最悪の状況から脱出するために、宮仕えをやめて、元の旅の語り部に戻ろうと決心した。旅先にはまだ足を踏み入れる機会のなかった辺境がいい。阿礼は由衣と連れだって日本列島の東北と西南をめざす旅路についた。折しも藤原宮では持統太上天皇の殯(もがり)の儀式が続いていた。殯宮(ひんきゅう)儀礼を仕切っていたのは、孫の文武だった。


一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1

 一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏


 

 東北日本への旅は七〇三年から七〇五年にかけて、西南九州への旅は七〇五年から七〇七年にかけて、合わせると四年の長旅となった。いずれも行く先々で語り聞かせをして二人分の生活費と路銀を稼ぎながらの旅だったが、七年に亘ったあの語り旅のころと比べると、途上行き会う地方住民の様子が驚くほど違っているのに気付かされることとなった。
 若い阿礼が最初に語り旅をしたのは天智期に当たっていた。天智朝は、改新政権(孝徳朝)が打ち出した、大王を頂点に全ての民をその公民(おおみたから)として一元的に支配する体制づくりを継承しつつ、それをさらに推し進める政策の実現をめざしていた。在地豪族の支配領域を統合・分割して全国に設置した孝徳朝の評(ひょう・こおり)制を引き継ぎ、その上位に評を複数束ねた広域の行政単位、国(くに)を設置した。そしてこの国―評制を統轄する地方官、国宰(こくさい・くにのみこともち)を常駐させて地方の直接支配を試みた。
 また評よりも狭い行政単位、五〇の戸を一単位とする「五十戸(さと)」をつくり、この評―五十戸制によって各地の住民の生活をより細かく把握しようとした。旅が終りに近づいた六七〇年は、この国―評―五十戸制を駆使して全国的規模の戸籍(その年の干支に因んで庚午年籍〈こうごねんじゃく〉と呼ばれた)を作成し、九州から関東に広がって暮らす住民の詳細把握に大きく前進した時期でもあった。


一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2

 しかしこの天智朝による中央集権的支配は、地方にはまだ十分に浸透してはいなかった。各地の住民の暮らしも通常は自らを生み育んだ村の中でおさまり、その上位に位置づけられた評とかかわるのは災害や戦いの発生といった非常時に限られていた。地方民には国に属しているという意識はほとんどなく、中央政府のある都ははるかかなたの存在だった。ましてや都を外れた他国のことなどおとぎ話の世界だったのである。
 そうした人々を相手に、当時の阿礼は都を舞台にした政変や事変、都人のきらびやかな生活様式、旅で回った各地の伝承・伝聞をもとにしてつくった事語(ことがたり)を披露しては喝采を浴び、食い扶持や路銀を稼いで旅をしたのだった。
 ところが今回の二人旅では、前と同じような語りをしていたのでは通用しないことを痛感することとなった。三〇年の間に自分たちの住む世間について、それを取り巻く世界について、人々の考えがおおきくかわっていたからである。
 この変化は、天武が構想し、妻の持統が引き継いで完成させた律令制国家がもたらしたものだった。七〇一年律令国家は大宝律令を制定し、列島各地の住民を天皇制国家の公民として再編成する新たな統治体制を打ち出していた。中央政府が住民に直接耕地(口分田)を支給(班田)する体制である。


一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3

 これによって列島の男子には二段(たん・一段は一一八八平方メートル)、女子には男子の三分の二、子供に対しても、六歳をすぎると、大人と同じ広さの口分田(男子は二段、女子はその三分の二)が手渡されることになったのである。
 同時に、支給した土地の見返りとして列島住民の男子には、租・調・庸・雑徭(ぞうよう)・兵士役(へいしやく)といったさまざまな負担が課せられることになった。租は口分田の収穫に対して課せられる税で、一段当たり二束(そく)二把(わ・一束は一〇把、米五合)、収穫量の約三パーセントに相当した。調はその地の特産物(繊維製品・海産物など)による課税、庸は年間十日の労働(歳役・さいえき)のかわりに二丈六尺の布を納付させるものだった。
 雑徭・兵士役は、二一歳から六〇歳までの正丁(せいてい)と呼ばれる男子に課せられる負担で、雑徭は自国内での労働負担、兵士役は全国に配置された軍団に配属され、征夷・外征・反乱の鎮圧・防人の任に当たる負担だった。
 こうした口分田の支給やそれに対する賦課を実施するには、その基となる戸籍の作成・農耕の振興・治安の維持といった行政的諸施策が欠かせない。それを遂行するために、国(くに)―郡(こおり)―里(さと・り)という三階層からなる行政単位(組織)が設置されていた。


一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4

 里は人々の生活単位となる集落(村)を母体に、そこに暮らす複数の家族からなる戸を五〇束ねた最小の行政単位で、天智朝の五十戸(さと)をその前身としている。里を治めるのが里長(さとおさ・りちょう)で、さとおさは里の構成メンバーである各戸の掌握・納税催促に当たる。戸を束ねるのが戸主(こしゅ)で、戸主は戸を構成する家族メンバーの血縁関係・姓名・年齢といった自己申告データ(手実〈しゅじつ〉と呼ばれた)を作成・提出する役目を負っていた。
 郡は里を複数集めた行政単位で、孝徳朝、天智朝が全国に設置した評(こおり・ひょう)を引き継いだもの、郡の長官、郡司(ぐんじ)は評の長官だった評督(ひょうとく)をその前身としている。郡司は在地の豪族層から選ばれたが、その処遇はかつてと比べて大きくかわっていた。その地位に就くには中央による任用試験(試練〈しれん〉と呼ばれた)が課せられるようになったからである。郡司候補者は国司(こくし・国宰から名をかえた)に引率され式部省に出頭して試練を受け、合格者は太政官による任官儀式を経なければならなくなっていた。
 その郡司が務める行政府が郡家(ぐうけ)で、大宝律令制定時に六〇〇程あった。郡家は里の各戸が提出する手実に基づいて、口分田の受給者、課税対象者の名簿(歴名〈れきめい〉と呼ばれた)の作成に当たっていた。



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