六章 六七六年春 16
「倭国はこの要請を受け入れたのですね?」
「そうだ。依頼は、倭国にとって百済国を支配下に置く千載一遇の好機だった。そして推古以来進めてきた、唐と対等の国づくりをさらに加速させるビッグチャンスに思えた。すでに老いた母、斉明に代わって皇太子のまま政務を担当していた中大兄皇子、後の天智はそれを実現しようと軍事行動を決意した」
「海外派兵をするにはたくさんの兵士・軍事物資・軍船が必要でしょ。大変なことだったのではありませんか?」
「その通り、準備に手間取った。人質余豊璋を百済の新国王に任じ、五千名の兵士を付けて送り出したのは、翌年六六一年の九月だった。救援の第一陣が一七〇艘の軍船と共に百済国に派遣されたのが翌々年の六六二年五月だ。
第二陣の派兵にはさらに時間を要した。大量の軍船を建造し、水兵の訓練を行い、さらに大規模な軍団を編成しなければならなかったからね。その作業が完了したのは一年後の六六三年三月だ。この時、前・中・後三軍編成の大軍が大量の軍船と共に送り出された」
「全体でどのくらいの数だったの?」
「恐らく動員された兵士の数は四万、軍船は四〇〇を越えたはずだ」
六章 六七六年春 17
「中大兄政権が決定したこのとてつもない規模の軍事行動に駆り出されたのが、地方豪族とその民だったというわけですね?」
「大量の軍船の調達を命じられたのは駿河国と安芸国の豪族たちだった。陸兵・水兵となる農夫・漁夫の徴集、軍事物資や食糧の供出を請け負わされたのは、最初は九州・四国・中国の西国地域の豪族たちだったが、やがては東国、さらには遠く陸奥の豪族たちも自ら徴集した兵士を率いて韓土に渡った。
結果はしかし悲惨なものだった。倭国軍には第一陣、第二陣共に全体を統括する指揮官が存在しなかったし、百済軍との十分な連携も取れていなかった。そうした状況の中で倭国軍は豪族軍を単位に、唐・新羅の連合軍と戦わねばならなかったのだ。数多くの兵士が戦死したり、唐軍や新羅軍の捕虜になったりした。
決戦となったのが六六三年八月二七・二八日、白江(錦江)河口、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)で行われた海戦だったが、それも惨憺たる結果に終わった。倭国の軍船は四〇〇艘強、対する唐船は一七〇艘、数の上でははるかに勝っていたが、慣れない水域で明確な作戦、指揮系統の統一もなかったために、倭国海軍は右往左往するばかりだった。軍船のほとんどが唐船から打ち込まれる火矢で焼かれ、兵士たちは燃え盛る船から河口に飛び込み、溺死した。
六章 六七六年春 18
この水軍の敗北で戦いの大勢は決し、百済国復興の拠点だった周留城(するじょう)は唐軍に降伏、百済王余豊璋は船で高句麗に逃亡した。敗れた倭国が戦いで得られたものは何もなかった。残されたのは日本列島各地の豪族とその民の疲弊、それを強いた中央政権に対する強い恨みだけだったのだ」
「たいへんな事件だったのですね?」
「地方豪族とその民の犠牲・怨念は敗戦後もさらに続いたんだ。中央政府が列島各地に防衛施設の建設を始めたからだ。あれだけの時間と手間をかけて準備したのに、唐はそれをいとも簡単に打ち砕いた。途方もない力を持つ帝国だった。その帝国の軍勢が朝鮮半島を支配下に置いたあと、日本列島にも押し寄せたらひとたまりもない。唐の侵略に対する恐怖感は大きかった。中大兄政権は敗戦の翌年、六六四年には対馬・壱岐・筑紫などに防人(国境警備隊)と烽(とぶし・のろし台)を設置、さらに筑紫には水を蓄えた防御施設、水城(みずき)を建設した。
翌年六六五年には唐の態度に変化が現れる。半島の安定をめざし、倭国に和親条約の締結を求めてきた。ヤマト政権はこれに応じたが、それによって唐軍に対する恐怖が消えることはなかった。中大兄政権はこのあとさらに警戒を強め、亡命した百済官人に命じて大宰府の北と南に二城、長門に一城、朝鮮式山城、つまり防衛線を突破された時に避難する逃げ城を築かせるんだ。
六章 六七六年春 19
六六七年には対馬に金田城、讃岐に屋島城、さらに大和と河内を区切る生駒連山には高安城を建設し、列島最前線の離島から飛鳥の宮殿までを結ぶ重要拠点に次々と防衛施設を整備した。
同じ六六七年、中大兄政権は国土の防衛機能をさらに高めようと、王都を近江の大津に遷都する。近江はヤマト王権の畿外の地だ。これまで王権は畿内国(うちつくに)の中で遷都を重ねてきた。それになじんだ大和人は近江遷都には強い抵抗を示したが、中大兄はそれを押し切って実行に移した」
「確かここ近江の大津宮で即位して中大兄皇子から天智となったのでしたね。中大兄・天智政権はこういう倭国防衛事業に何も負担をしなかったというのですか?」
「そうなんだ。防衛施設の建設や遷都はいずれも長期に亘る大工事で、巨額な資金、資材、そして数千から数万の人員が必要だった。中央政権はそれを全て地方の豪族やその民に押し付けたのだ。だからこそ彼らの不満・恨みは積りに積もっていたんだ。大海人は中大兄・天智政権、さらにその後継政権に対する地方豪族の、この不満・恨みを、とりわけ東国を中心に汲み上げ、勝利の暁にはそれを解消する制度や政策を実行するという約束のもとに、軍団の編成を促したわけだ」
六章 六七六年春 20
「手応えは十分にあったわけですね?」
「六七二年六月、吉野と東国との間で行き来を繰り返していた舎人たちが、現地の準備はほぼ整った、指令さえあればいつでも兵の動員が可能だという報せを持ってきた。六月二二日、練りに練ってきた挙兵計画がついに実行に移される時が来たのだ。
手始めは戦いの拠点、美濃穴八磨評(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)に対する動員令の発令だった。大海人は美濃出身の舎人三人に多臣品治あての動員勅書を持たせ、兵を徴集し、遅くとも二六日中に美濃と近江の国境にある要害の地、不破道(ふわのみち・不破関)をおさえるよう命じた。
また美濃に向かう東国街道に接する伊賀阿拝評(あへのこおり)の豪族、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)に対して、直ちに兵を集め、積殖山口(つむえやまぐち)の安全を確保しつつ東国街道と湖南を結ぶ倉歴道(くらふのみち)をかためるよう命令を下した。さらに大海人は近江を逃げるように去った時、湖東に残してきた息子高市皇子(たけちのおうじ・一九歳)に舎人を送り、自分たちは六月二四日には吉野を立つ、二五日までに倉歴道を通って積殖山口に出、ワレらの到着を待てと伝言させた」