六章 六七六年春 6
「つながりを持ったのは?」
「尾張、伊勢、伊賀、そして美濃、いずれも飛鳥・近江の東に位置する東国で、それぞれ彼に縁のある国々だった。
尾張・伊勢とは幼年時代から絆があった。当時皇子の多くは豪族の妻を乳母とし、その豪族のもとで育てられた。ヤマトの大王家が勢力を拡大した時代に、王権に従属した豪族が大王家に娘を送って縁戚関係となる伝統が残っていたからだ」
「大海人もその例にもれなかったのですね?」
「大海人の乳母は大王家の名門氏族、尾張海部評の大豪族(評督)尾張氏の妻で、彼は幼年時代尾張氏のもとで育てられた。遊び相手が大豪族の子弟で五歳年上の尾張大隅(おおすみ)だった。大隅は長じて大きな勢力を持つ豪族となった。
尾張氏は海人族として、尾張だけでなく伊勢にも大きな勢力を誇り、大海人はその恩恵を受けた。成人後、大和や近江で暮らすようになっても、彼はこの幼年時代を過ごした尾張、その延長上にあった伊勢とのつながりを大切にした。
六章 六七六年春 7
伊賀は、近江朝で重臣―御史大夫(ぎょしたいふ)―となっていた豪族、紀臣大人(きのおみのうし)の縁だ。古来より紀氏は大王家の軍事的氏族で、その流れを汲む大人は武人的性格を持つ大海人に好意を寄せていた。その大人と強い信頼関係で結ばれていたのが、伊賀阿拝評(あへのこおり)で評督(こおりのかみ)をつとめていた同族の紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)だ。阿閉麻呂は名門氏族であったために、国宰の代理を兼ねる存在として伊賀全体に大きな力を持っていた。大海人はこの阿閉麻呂の存在によって、後に伊賀国を自陣に引きいれることになる。
美濃との関係は、大海人の湯沐地(ゆのうち)がここの穴八磨評(あはちまのこおり)にあったからだ。大海人は自分が最も信頼を置いた山背国出身の官人で大王家の名門氏族だった多臣品治を、ここの租税を収納する湯沐令(ゆのうながし)に任命した」
「あなたを舎人として天武のもとで働けるようにして下さった方ですね?」
「そうだ。その品治が美濃穴八磨評にある大海人の湯沐地に向かったのは六六六年初夏、この時彼の年齢は二〇代前半、壬申の乱の六年前のことだった。大海人は品治に厳命した。『税を取り立てる役に終始してはならぬ。美濃一帯の豪族たちと友好な関係をつくり、美濃をどこよりも豊かな国にするよう心を砕け』と」
「品治殿はその大役を果たされたのですね?」
「美濃の豪族たちは品治を信頼すると同時に、その主である大海人に忠誠心を抱き、自分たちの子弟を舎人として使ってくれるよう大皇弟に献上した。大海人はこの舎人たちを誰よりも慈しみ、東国美濃との関係を強化しようとした」
六章 六七六年春 8
「伝え聞いた話ですが、大海人はその舎人たちを駆使して優れた情報集団を組織していたとか。そうだったのですか?」
「実際大海人の周りには数多くの舎人がいた。その中から彼は有能で信頼できる者を選んで情報組織をつくり、それぞれの資質に合わせて情報活動を割り振った。東国を中心とする各地方に情報チームを送り、そこで起きている動きを直接探ろうとした。さらには唐・高句麗・新羅・百済系渡来人に接近させ、国際情報を手に入れようとした。実に用意周到な人物だった」
「それにもかかわらず、いえそれが故に兄の天智は弟の大海人ではなく、子の大友皇子を継承者に選んだわけね?」
「独裁的手腕で築き上げた自らの王朝を維持するには、わが子が最もふさわしいと判断したのだろう。天智は皇位継承法を定め、それを改めてはいけない不変の法典、〈不改常典(ふかいじょうてん)〉とし、その中で父系による直系継承をうたった。
それを布石としながら天智は、死に至る病を患う九か月前の六七一年一月、大友皇子を皇太子(ひつぎのみこ)の位に付け、左大臣蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)や右大臣中臣連金(なかとみのむらじかね)といった有力豪族を補佐役にして、子への継承を確かなものにしようとした。この時大友皇子は二二歳だった」
六章 六七六年春 9
「天智は大友皇子を皇太子にし、自分の後継者に指名したことを、大海人に直接伝えたの?」
「伝えなかった。大海人はその事実を人づてに聞いたんだ」
「何時、誰に聞いたのですか?」
「聞いたのは六七〇年の末、指名の直前だ。伝えたのは近江朝の重臣の一人、大海人に好意を寄せていた例の紀臣大人(きのおみのうし)だ」
「大海人は、自分にはいかなる相談もなく事が運ばれたことに、しかもそれが人づてに伝えられねばならなかったことに腹を立てたことでしょうね」
「血が逆流するような怒りを覚えたことだろう。と同時に恐怖感にも襲われたはずだ。天智が中大兄皇子時代に蘇我太郎入鹿を殺害して以来、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)、有間皇子(ありまのおうじ)といった自分の政敵になると思った人物を、謀反の罪で次々と殺害してきたことに思い至ったはずだから。
自分も今まさにそういう状況に置かれている。死の危険を回避しつつ、己の野望を果たすためには、この際慎重に発言・行動しなければならない、そう思ったはずだ。
大友皇子の指名を人づてに聞いた翌日、大海人が宮廷に出ると、天智の自室に呼ばれ、『ワレは大友皇子を皇太子にしたいと思うが、ソチの考えはどうか』と尋ねられた。
六章 六七六年春 10
大海人は昨夜から考え続けてきたことを用心深く言葉にした。『最上の選定だと思います。大友皇子は若く、学識があり、それは群臣たちの認めるところです。これ以上の後継者はほかにおりますまい。私もこの話をうかがい安心して隠退ができます。このところ年齢のせいか、健康にすぐれません。年が明けたら屋形にこもり、しばらく休養したいと思っておりました』
こうして六七一年正月に、大友皇子の立太子が正式に発表されたのだが、この時から大海人は宮廷への参上、政治への参加をできる限り控えるようになった」
「それでも兄の猜疑心を晴らすことはできないと判断したのですね?」
「その通り。大海人は次に俗界から退いて、吉野宮滝の離宮に隠棲する手を思い付いた。この時大海人の脳裏には、かつて天智から謀反の疑いをかけられた古人大兄皇子事件の顛末があった。
古人大兄は天智の疑念を晴らそうとして出家し、宮滝離宮に隠遁した。天智はその古人大兄に四〇人程の手勢を差し向けて殺害している。隠遁者を屠るのはわけはない。兄はそれを記憶しているはずだ。自分が出家すればいつでも殺害できると安心するだろう。そう兄に思わせ、その間に戦いの準備をしよう。
大海人は自分の湯沐地のある美濃を中心に対抗手段を整えようと、湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に命令を下した。美濃の豪族たちに戦いの用意をするように伝え、彼らが刀・槍を初めとする武器を確保する際には惜しみなく援助をせよと。