五章 六七五年夏 16
「そうか、オロチに〈八〉を付けて〈八俣の大蛇(やまたのおろち)〉にする。さらに同音・類音を持つ語を連続させたり、それと形のよく似たものを次々と取り込んだりして大蛇の奇怪さと、それを退治する英雄の偉大さを描写する。試してみようか……」
〈須佐之男命が降り立ったところは肥河の上流に位置する鳥髪(とりかみ)の地。ここには神の住む気配は感じられなかった。ふと川上に目をやると、箸が流れてくるではないか。さらに上流には誰かがいるようだ。そう思って川をさかのぼっていくと、老夫と老婦が間に娘を置いて泣いているのに出くわした。
三人の素性を聞くと、この地を治める国つ神、大山津見神(おほやまつみのかみ)の子で、老夫の名は足名椎(あしなづち)、老婦の名は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)だという。
「どうして泣いているのか」と尋ねると、老夫は次のように答えた。
「越国に八俣の大蛇と呼ばれる怪物がいて、毎年この地にやってきて娘を食らうのです。私には八人の娘がいましたが、一人ずつ食べられて今ではこの娘一人だけになりました。今年もまたそのオロチがくる時節になりましたので、こうして泣き暮れているのです」
スサノヲは尋ねた。「八俣の大蛇というが、どんな形をしているのか」
五章 六七五年夏 17
老夫が答えて曰く。「胴体は一つなのに、八つの頭と八つの尾を持っています。目は真っ赤に熟れたほおずきのようで、体は苔むし、檜木や杉の木が生えています。全身の長さは八つの谷、八つの峰に渡っていて、腹を見るといつも血にただれ、身の毛もよだつような恐ろしい姿をした怪物でございます」
スサノヲが「退治してやれるかもしれぬ。その代わりといっては何だが、お前の娘を私の妻にくれないだろうか?」というと、老夫は答えた。「何とも恐れ多いことでございますが、まだお名前も存じ上げませんので」
そこでスサノヲはいった。「私は天照大御神の弟で、今高天原からこの地に降りてきたところだ」
これを聞いたアシナヅチ・テナヅチの夫婦神はこう申し述べた。「それはますます恐れ多いことでございます。そういう方に娘をもらっていただければ、この上ない仕合わせ」
スサノヲはオロチに奪われないように、櫛名田比売を霊力をもって爪櫛(つまぐし)にかえ、それを自分の角髪(みずら)に差し込んだ。そして足名椎・手名椎の老夫婦に次のように命じた。
「お前たちは八度醸した強い酒を造れ。さらに垣根をめぐらし、その垣根に八つの門をつくり、門ごとに八つの桟敷をしつらえ、その桟敷ごとに八つの酒槽(さかおけ)を置き、その酒槽ごとに八度醸した強い酒を満々に満たして、事の成行きを見守れ」
五章 六七五年夏 18
老夫婦の手で怪物を迎え撃つ準備が整った時、老夫のいった通り、八俣の大蛇が真っ赤に熟れたほおずきのような八対の目を爛々と輝かせ、苔むし木々の生えた胴体をくねらしながら、すさまじい勢いで垣根の向こうに迫ってきた。
オロチは芳醇な香りを放つ酒精の誘惑には勝てなかった。八つの頭を八つの酒槽に突っ込んで、中の酒を一気に飲み乾した。中味は醸しに醸した強い酒だった。大蛇の頭が次々と倒れ、ついに八つの頭全ての動きが止まった。
この時を見計らっていたスサノヲは、腰に吊るした長さ十握(とつかみ)もある剣をすらりと引き抜き、大蛇の頭を次から次へと切り離した。ほとばしる大量の血で、肥河は真っ赤な血の河となった。
スサノヲが大蛇の胴体を切り進み、中ほどに位置する尾を切り落とそうとした時、手にした剣の歯がこぼれた。不審に思ってその尾を切り裂いてみると、これまで見たこともない美しさと鋭利さを持つ太刀が出てきた。
それは自分のものとするのを許さないような無双の名刀であった。スサノヲはこれを手に入れたいきさつを伝えて、天照大御神に献上した。これが後に草那芸(くさなぎ)と呼ばれることになる太刀である〉
五章 六七五年夏 19
「スサノヲは自分が英雄になって初めてアマテラスの存在の特別さを知り、その特別な神に草那芸の太刀という特別な贈り物をしてそれに報いた。こういうシナリオなら、アマテラス―さらにはその末裔の天皇―は特別な存在なんだということが聞き手に伝えられますね。同時に、そういう特別な存在、つまり高貴なる者はこれによってさらに謙虚になり、己に与えられている使命の重要性をより深く認識するはずだ、そう聞き手は感じ取ってくれるのではないかしら」
「これで、蘇我入鹿のイメージを織り込んだスサノヲの物語は終わる。このあとシナリオは、葦原中国の、つまりアマテラスの子孫、天皇の祖先が天降る予定の地上の国の、国作りの物語に移ることになる」
「地上の国、葦原中国というのは、われわれが今暮らしている日本列島。ここにはかつて複数の地方国家があり、それぞれに国作りを担った国主がいたと思うのですけど、それをいちいち全部語ることになるのですか?」
「それは無理だから、代表になる国を一つ選んで出雲にするというのはどうだろう。すでにスサノヲを降り立たせたところを出雲国にしているし、ここなら二人とも馴染みがあるからいろいろと想像しやすいと思うんだ。ここを中心に物語を展開させ、その国主として、大国主神を登場させることにしよう。
五章 六七五年夏 20
もちろん物語の中のオホクニヌシノ神は象徴で、その背後には無数の国主が存在している。そのことを聞き手に感じ取ってもらいたいので、オホクニヌシの別名をいくつか挙げ、語りの中で使い分けてみたいと思っているんだ。
さらにいえば、そのオホクニヌシは天つ神の最高位アマテラスの弟、スサノヲの血を引く直系の子孫ということにする。ただオホクニヌシは、天つ神スサノヲと国つ神の娘クシナダヒメとの結婚によって生まれた混血神を祖先に持ち、その祖先神と国つ神の娘との婚姻が何代にも亘って繰り返されたために、限りなく国つ神に近い存在になる。そういう想定で、次のような筋語りを考えているんだ」
〈須佐之男命はこうして八俣の大蛇を退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)を手に入れた。それによって二人の間に長子となる御子が誕生する。八島土奴美神(やしまじぬみのかみ)である。かくして天つ神の子と国つ神の子孫の婚姻が成立したのである。そうして生まれた男神に、国つ神の血を引く女神をめあわせる婚姻が何代にも亘って続き、スサノヲ六世の孫が出現する。葦原中国、つまり出雲国の主神となる大国主神である。