一章 六七四年初夏 3
次の舒明(じょめい)期(六二九―六四一年)に入ると、宮の立地は飛鳥寺のほぼ南、寺域から手が届くほど近接の空間に移った。最初の王宮が飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)で、これ以降宮殿はこの地一帯に固定されるようになる。舒明の皇后として即位した皇極(こうぎょく・六四二―六四五年)は、飛鳥岡本宮を解体し、その上に新たな設計に基づく飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を造営した。
皇極が譲位して誕生した孝徳(こうとく)朝は宮を難波に遷したが、ここが実際に使われたのは数年だった。重祚(ちょうそ)して皇極からその名を改めた女帝斉明(さいめい・六五五―六六一年)は再び飛鳥に遷都し、自分が建てた飛鳥板蓋宮を壊し、大規模な整地を行った上で全く新しい宮を完成させた。後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)である。
こうした王城所在地の固定化によって、飛鳥には町並みが出現した。宮の周辺には皇族・貴族・豪族の屋形、官衙(役所)、官営工房が立ち並び、要所要所に寺院が聳え立つようになった。斉明期には飛鳥全体に及ぶ大造営工事が行われ、国事や儀式を行う広場、饗宴を催す庭園や苑池が配され、飛鳥は王宮から王都へと変貌した。人々はこの王都を飛鳥京あるいは倭京(やまとのみやこ)と呼んでその賑わい振りを讃えた。
その倭京が一時打ち捨てられる事態が生じた。六六七年、斉明の子で後継となった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・天智・てんじ)が、王宮を飛鳥からずっと北に位置する琵琶湖南西岸に移し、近江大津宮を建設したからである。飛鳥はそれから五年に亘る王宮の不在によって寂れた。それを回復させたのが、「壬申の乱」を勝ち抜いて王権を手中にした天智の弟、大海人皇子(おおしあまのおうじ・天武)である。
一章 六七四年初夏 4
大海人は内乱によって生じた亀裂を修復し、倭国を再統一するには、飛鳥京よりももっと適地に規模の大きな王城が欠かせないと考えていた。しかしすぐにそれに着手する余裕はなかった。彼は先ずは歴代の王朝の地に戻り、そこを基地にして戦後の荒廃をいやす道を選んだ。
六七二年冬、大海人は飛鳥に凱旋するや、母斉明の宮だった後飛鳥岡本宮に手を加えた。内郭の正殿を修復すると同時に、脇殿を増設。さらにその内郭の東南に、西門を備えた高床構造の大型建造物、大殿(おおとの・大極殿・だいごくでん)を新築した。この大極殿の増設分だけ、掘立柱塀で形づくられる外郭は広くなったが、全体の構造はそれほど大きくかわってはいない。
翌六七三年二月、大海人皇子はこの宮で即位して天武となったが、ここを新しい王都(新城・にいき)ができるまでの仮宮と考えていたために、名を付けなかった(天武がこの宮を飛鳥浄御原宮・あすかきよみはらのみや)と命名するのは、死を目前にし、自分の手による新城の建設を断念した六八六年七月のことになる。従ってここでいう飛鳥浄御原宮は通称である)。その意味で飛鳥浄御原宮は天武にとっては一時しのぎの宮殿ではあったが、六年振りの遷都である。主のすわった飛鳥京はかつてのにぎわいを取り戻し、飛鳥川流域の水田づくりも活気を呈した。
一章 六七四年初夏 5
この飛鳥遷都の翌年(六七四年)、王都の北西に位置する甘樫丘に立ち、初夏の緑に染まった水田の向こうに朱の色を際立たせる飛鳥浄御原宮を見下ろす一人の青年がいた。天武に仕える舎人(とねり)、稗田阿礼、二八歳であった。長身で大柄、普段は穏やかな風貌をしているのだが、それが今は心の底から湧き上がる激情を抑えようと、別人のように厳しく、引き締まった顔を見せていた。今朝がた阿礼は密かに内裏に呼ばれ、天武からじきじきの言葉を賜った。その言葉を、受けた時の衝撃と共に、脳裏に反芻していたのである。
天武は阿礼よりも一五歳年上の成熟した貴人で、列島を支配するヤマト王権の大王(だいおう)だった。色白で凛とした顔立ちをし、背も高く、骨太でがっしりとした体格をしていた。その地位と風貌が発散する力は圧倒的だったが、阿礼は自分はそれには対抗できると常々思っていた。庶民の出で年も若く、いかなる地位にも恵まれていなかったが、それに負けないだけの強靭な肉体と仕事の腕を持っているという自負心があったからである。
容易でなかったのは、超名門一族の末裔に対して己の心が無意識のうちにつくり出してしまう観念の克服だった。それは恐らく、天武が単に倭王権の最高権力者であるということだけでなく、王権の長い皇統譜に連なり、その血筋を直接受け継ぐ存在だという事実に由来するものだった。
一章 六七四年初夏 6
何故人は長い歴史を持つ一族の直系継承者に対して特別な感情を持つのか。それは多分、変転極まりない人間社会の歴史にあって、一つの家系が何世代にも亘って続くこと自体が奇跡に近いことだと感じられるからであろう。
目の前にいる天武がそうした稀にみる貴種だと思うだけで、彼の前に全てを投げ出してしまいたくなるような感覚に陥っている自分に気付くことがこれまでにもあった。でもそうさせてはならなかった。阿礼は今回もまた必死に自分を励ましながら、天武の語る言葉を聞いたのである。
「この度の乱の後遺症はすさまじい。自分で引き起こしておいていうのも無責任な話だが、内乱は二度とあってはならぬ」
そう切り出しながら、天武は話題を先に進めた。長い話になりそうな予感がした。
「〈壬申の乱〉はその始まりから終結まで約三か月、期間としては短かったが、及んだ地域は広かった。畿内だけではなく、西国にも東国にも亘った。その広い範囲で、列島の統治権をわが手にしようとする二派が莫大な犠牲を伴う軍事的戦いを展開したのだ。戦後の混乱に配慮する余裕などなかった。ワレは集められるだけの兵を集めようとした。投入できるだけの戦費を投入しようとした。相手も同じだったのではないか。戦いは豪族の類縁、それらが率いた無数の農民の命を奪い、田畑を荒廃させた。その代償は残された者たちの肩に重くのしかかった。人心は深く傷つき、政情は激しく揺れ動いている。
一章 六七四年初夏 7
それをしずめようと、ワレは仏にすがってみた。集められるだけの書生を飛鳥川西岸の川原寺(かわはらでら・別名弘福寺・ぐふくじ)に集めて、一切経の書写を挙行する発願(ほつがん)をした。それは壮観な光景だったが、効き目があったかどうかはわからぬ。内乱の後始末にどれだけの年月が取られるか、見当もつかぬ。壬申の内乱の影響はそれほど深刻だ。そうした中で、いにしえに還るべきだという考え方もある」
阿礼は思い切って言葉を挟んだ。
「ヤマトの大王の真髄は、日の神を自らの祖先として祭ることを許される宗教的・精神的権威にある。大王の役目はこの権威に由来する呪術や祭祀を行い、それによって国を統一し、民衆の安寧を保障するところにある。従って大王の要諦は武力を用いず、政治の実務にかかわらない不執政にあるという考えでございますね。この祭祀権に基づく不執政の原理は、連合政権、連合王国の時代にさかのぼると聞いておりますが……」
阿礼の言葉を無造作に受けて、天武は話を続けた。
「列島に先進文明の水田稲作が定着したのが前四世紀、それから六〇〇年ほどの間に農耕共同体の再編・統合が繰り返され、この島の各地で、多くの部族(豪族)的国家(クニ)、その連合体が形成された。三世紀前後、それら国家連合同士が激しく衝突し抗争し合った。対応を誤れば、列島の半分が荒野に還る恐れがあった。その危機的な争乱状態の中から、三世紀初め倭国を代表する一つの新しい王権が誕生した。筑紫・吉備・播磨・讃岐・出雲・近畿など西日本各地の豪族的国家連合が談合と根回しによって手を握り、大王(卑弥呼・ひみこ)を共立し、王都を大和盆地南東部纏向(まきむく・巻向)の地に置いたヤマト王権だ。