目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
六章 六七六年春 17
六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
六章 六七六年春 25
六章 六七六年春 26
六章 六七六年春 27
六章 六七六年春 28
六章 六七六年春 29
六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
奥付
奥付

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一一章 七〇七年七月

一一章 七〇七年七月 1

 一一章 七〇七年七月


 

 九州西南の旅を終えて都に向かっている時に、二人は持統の孫文武が他界したという報に接した。その時阿礼の脳裏を次のような想像がよぎった。文武は確か二五歳、子の首皇子(おびとのおうじ)はまだ幼いはずだ。後継は、文武の母、阿閉皇女(あへのひめみこ)になるだろう。阿閉皇女は持統の母違いの妹で、同時に持統の息子、草壁皇子の妃。彼女は姉であり姑でもある持統が歩んだ道を身近で見ていたはずだ。持統が草壁に代わって後継となり、孫の軽皇子(文武)が成人となった暁に譲位したように、阿閉皇女も来るべき首皇子への皇位継承を頭に描きながら、文武のあとを継ぐ女帝になるだろうと。
 想像通りに事態は進行した。阿礼と由衣が一か月後大和に帰還した時、藤原宮では阿閉皇女の即位式がすでに行われ、女帝元明(げんめい)が誕生していたのである。女帝の最初の仕事は息子文武の喪葬だった。宮殿では旧帝を悼む儀礼が行われていた。京内の営みの多くが自粛され、藤原京は静まりかえっていた。
 静かだったのは喪葬儀礼のせいばかりではなかった。その死の四か月前に文武が遷都を公言し、藤原京はいずれ捨てられる運命にあったからである。


一一章 七〇七年七月 2

 都は二人が旅に出た四年前には想像もできなかったほどの変貌を遂げ、建物が無数に立ち並び、人口も五万に達していた。しかし藤原京の発展はここまでだったのである。律令国家による大和盆地の開発が進み、水田地帯が耳成山からさらに北の、山背国との境に位置する平城山(ならやま・奈良山)丘陵に向かって広がっていて、大和には新しい中心が求められていた。同時に律令政府は今まさに本州の北端と南端の開発を進めて日本国を蝦夷国と隼人国に向けて拡大し、列島の新たな中心を必要としていたからである。
 遷都を告げられた藤原京に活気が感じられるはずがなかった。活気が命であるはずの市場にまでそれが現れていた。
 律令国家は東の左京、西の右京に一つずつ官市を置き、全国から集めた貢納物の交換を大規模に進めてきた。二人が旅だったころには市の指定された行(こう・区画)に登録された行肆(こうし・常設店舗)がまばらに並んでいただけだったが、今では市行は常設店舗が軒を連ねるまでになっている。
 しかし周辺の、机を並べた案肆(あんし・仮設店舗)がひしめく一角に空白が生じている。扱われる商品も繊維製品、農・海・畜産物、日用雑貨・食品・調味料、馬具・武具、木器・土器・漆・油などここの産業や生活に欠かせないものはほぼ揃ってはいるが、どの店のどの棚も品物の陳列にスキが目立った。


一一章 七〇七年七月 3

 東市(ひがしのいち)は月の前半、西市(にしのいち)は月の後半、官市はほぼ毎日、正午から日没まで開かれてはいたが、人の出は限られ、これを呼び込む売り子の声にも心なしか威勢が感じられなかった。
 この日阿礼と由衣が訪れたのは西市だった。二人は一角にある茶店に腰を下ろし、静かな市の営みを眺めていた。
 「今度の旅で思い知らされたことの一つなんですが、北辺の住民は蝦夷(えみし)と呼ばれることに、南辺の人々は隼人(はやと)と呼ばれることに複雑な思いを持っていましたね」
 「そうだった。あれは支配者となったヤマト王権側が付けた名称だったからね。あの呼び名が使われるようになったのは、倭王権が地方の有力首長、国主を世襲の国造に任命し、彼らに中央の意向を伝えつつ地方支配をまかせる制度をつくり上げていった六世紀のことなんだ。
 この国造による地方支配制度によって、西は九州中部、東は東北南部までがヤマト政権の統一化世界、つまり化内に入ったわけだが、そこに入らなかった地域が二つだけあった。それがわれわれが訪ねた九州西南部と東北北部だった。
 この時王権は中国の華夷システムをモデルに、倭国を華、東北北部と西南九州の住民をそれぞれ化外の民、夷に位置づけて支配の手を及ばせようとした。


一一章 七〇七年七月 4

 そして東北北部人については、彼らの濃くて長い髭、密集した体毛という身体的特徴から毛人、あるいはそれを象徴的に表す蝦(えび)という字を当てて蝦夷と表記し、いずれもエミシと読ませた。さらにはヤマト政権に帰服し、稲作を始めたグループを熟蝦夷(にぎえみし)、帰順を拒み旧来の生活を固持し続ける集団を荒蝦夷(あらえみし)と呼んで区別したんだ」
 「あら、だとしたら、西南九州人が以前クマソと呼ばれたのは、クマに似ていたからなの?」
 「姿かたちではないが、彼らが得意としたゲリラ戦を形容する当て字が使われたんだ。元々は球磨(くま・肥後南部人吉)から贈於(そう・大隅志布志湾)の間に住む西南の民としてクマソと呼ばれていたが、六世紀代、そのクマソはヤマト朝廷軍の正規兵と戦う時に、自分たちがよく知りつくしている山間部に敵を誘い込み、密集した草木にひそませた伏兵を駆使して逆襲した。朝廷軍から見れば、その様子はまるで藪にひそんだ野生の熊に急襲されるようだった。その恐怖の様をクマソに重ね、熊襲(くまそ)という当て字をつくりだしたんだ」
 「その熊襲がどうして隼人という呼び名にかわったのでしょう?」
 「隼人と呼ばれるようになったのは七世紀のことらしい。そのころ、戦闘における彼らの攻撃スタイルが大きくかわったからだ。彼らは平地に展開した敵を丘陵部から急襲する戦法を開発した。その様はまるで空中から急降下して獲物を襲う猛禽類、ハヤブサのようで、急襲を受ける朝廷軍から見れば実に狡猾で油断のならぬ存在だった。そのイメージが膨らんで、大和人は熊襲を、隼人という名に呼びかえて行くんだ」


一一章 七〇七年七月 5

 「そうやって大和王権は列島北縁部の住民を毛人・蝦夷、南縁部の部族を熊襲・隼人と呼び、王化に浴していない異相・異俗の化外の民とする差別政策を取って支配していったわけですね。毛人・蝦夷、熊襲・隼人は蔑称だということ?」
 「うーん、でもこういう名称はまた別の一面を持ってもいるんだ。倭王権が差別政策と同時に、中国の国家づくりに倣い、徳治主義に基づく同化政策を採用したからなんだ」
 「徳治主義?」
 「天下を為政者の徳によって治めることを理想とする中国独特の統治原理で、王権はこれを倭国と蝦夷・隼人との関係に取り入れた。大王のもとに朝貢してくる蝦夷・隼人は大王の徳を慕って来朝した者とみなし、大王は彼らに徳を及ぼそうとした。来朝の返礼として宴会を催したり、身分や位階を与えたり、土産を用意したりして相手を感化する同化政策をとったんだ。そこでは彼らは勇者として遇されたから、その限りでは毛人・蝦夷、熊襲・隼人は尊称だったんだよ」
 「そうして見ると、差別政策による蔑称、同化政策による尊称の二つの側面を持っているんですね」
 「でも蔑称の要素の方が大きかっただろうね。倭王権の北縁・南縁政策が支配である以上、同化政策が差別を越えることはなかったはずだもの。支配は六世紀、七世紀と二〇〇年も続いてるんだ。そうした中で使われた用語だとすれば、東北北部人・西南九州人がそれに対して複雑な感情を持っていたのは当然すぎるほど当然なんだよ」


一一章 七〇七年七月 6

 「二つの地域で今進められている国づくりに対しても、人々の思いにはどこか釈然としない、承服しがたいものがあるように感じられてならなかったの。
 蝦夷の地へは北上川から、隼人の地へは球磨川から入りましたよね。どちらの地でも大掛かりな城柵の建設が進み、周囲には内地と同じように水田と畑地が広がっていました。その代わり東北北部人の暮らしを支えてきたはずのナラ・ブナ林、西南九州人の生活の母体であったはずのカシ・シイ林はどれも無残な切られ方をしていたわ。訪ねた城柵の役人たちは横柄だったし、移住してきた内地植民者たちもわがもの顔でした。現地住民は本当は主であるはずなのに、国づくりからはずされている感じが強くしたのです。
 それだけではなかったわ。人々の表情に何か大きな迷いがある。祖先から受け継いだ豊かな自然の恵みに依存する生活の代わりに、大地に這いつくばる生活をしていること、自立性の高い部族社会を完全に捨てて、律令国家の統治下にある地方社会にかわっていってしまうことへの迷い」
 「由衣のいう通りだ。えみしやはやとの人々の顔には、われわれにない彫の深さや目鼻立ちの濃さが生み出す独特の勇猛さ、精悍さがあるが、普段はそれが寡黙な表情や穏和な微笑で隠されている。でも何かのはずみで鋭い目つきと共にこれがむき出しになる様子を見た。それを見ると、この人々は国司に対しても、それを派遣した律令国家に対しても心を許していないという気がした。


一一章 七〇七年七月 7

 いや水田農耕を基本とする生活様式、それを前提とした律令国家の公民になることをいさぎよしとしてはいないぞ、何かがあればかつての野生の民に立ち戻るぞ、そういう意志を秘めている印象を強くしたね。
 ただ同時にあきらめの色も浮かんでいたと思う。反乱を起こしたって、たちどころに制圧されると思っている。さらに自分たちは、内地の暮らし振りの味を知ってしまって、もうそれを手放すことはできないのではないかとも感じている。そうした現地の民の思いを代弁してくれたのが、かの地で世話になった語り部たちだった。彼らは一族が語り継いできた伝承と合わせて、それを語ってくれた。私のような中央からきた旅のよそ者に」
 「それはあなたが同じ語り部だったからでしょう。しかもあなたは現地の言葉の習得に本当に真剣だった。たちまちのうちに二つとも聞いて話すことができるようになったわね」
 「それも彼らのおかげだよ。いずれも諸部族に伝わる英雄叙事詩を語らせたら、見事な語り手ばかりだったが、あの人たちは、自分たちの言葉をどう使ったら私が理解できるか、どうつなげたらしゃべることができるようになるか、いつも気を配っていた。語り言葉に対する彼らの類まれなセンスがなかったら、現地語の習得はなかった。ましてや日本列島の北辺と南辺の事情を知ることは不可能だった。律令国家の側にも記録があるけど、それはあまりにもわずかで、しかも王権を中心に編集されたものだからね」


一一章 七〇七年七月 8

 「現地の言い伝えと、王権側の記録を比べ合わせてみると、二つの世界がたどった歴史はあなたの目からはどんなふうになるのかしら?」
 「本州東北北部ははるかな昔からブナやミズナラを中心とする冷温帯の落葉広葉樹林が広がり、その自然の恵みに依存する狩猟・漁労・採集民の生活舞台だった。この地における狩猟・漁労・採集の歴史は長く、住民の源流ははるか一万年前までさかのぼれるが、蝦夷と呼ばれた人々の直接の祖先は、最初北海道にいたらしい。その彼らが気候が寒冷化した三―四世紀ごろに、先住の北海道を出て、東北地方に渡ってきたという。
 彼らはこの新天地で、先住の地で築き上げた獲得経済をベースに多様な暮らしを展開した。丸木弓と石の矢じりを使ったイノシシ・シカ・カモシカ・クマなどの狩猟、マス・サケなど遡上魚のヤナ漁、釣針や銛を使用するマダイ・マグロ・カツオ・スズキなどの外洋魚漁、ウバユリ・クズなどの野生イモ類の採集。
 そうした生活を展開しながら彼らはこの移住地で、自分たちのものとは全く異なる生活様式に遭遇したんだ。東北地方中部まで北進してきた倭人による、水田稲作を基本生計戦略とする暮らしだった。二つの異なる生活様式はそれぞれ引き合った。互いが持てる物と持たざる物を融通し合うことによって、双方の生活がより豊かになる可能性を秘めていたからだ。


一一章 七〇七年七月 9

 両文化の間には互いの収穫物や道具類を交易するための拠点となる、集落のネットワークも形成されていった。五―六世紀にかけて、蝦夷たちはこの交易ネットワークを介し、倭人文化を盛んに自分たちの暮らしの中に取り入れたんだ。中には限りなくそっちに傾斜するグループも現れた。東北中部や越国北部の蝦夷たちだった。その人たちはその主要生計戦略を狩猟・漁労・採集から水田稲作にかえ、倭人化への道を歩んでいく」
 「倭人化していく人たちはそんなに多くはなかったのでしょう?」
 「そう、ほとんどの蝦夷集団は、祖先から受け継いだ基本生計戦略を維持しながら、倭人の生活形態を一部だけ取り入れ、それと狩猟・漁労・採集生活を組み合わせ、自らの生活様式を変革させていった。蝦夷は倭人から馬具と共に馬を繁殖・飼育・調教する技術、馬飼(うまかい・牧馬)を導入した。馬の使用は蝦夷の移動・運搬能力を飛躍的に高めた。馬飼は東北北部の風土や蝦夷の生活様式にかなっていたのだろう。この技術は彼らの主要産業の一つとなり、蝦夷の地は名馬の産地となっていく。
 さらに彼らは鉄の矢じりや鉄製の小刀・刀・斧を取り入れ、狩猟・漁労技術、収穫物の加工技術を飛躍的に向上させた。その中で際立ったのが鉄製の矢じりを使用した弓矢の技術と騎馬の一体化だった。彼らはこの技術を日常の生業に取り入れていく。


一一章 七〇七年七月 10

 こうした北の文化と南の文化の融合は蝦夷の生活を豊かにし、交易のネットワークに流通する諸産物の質を向上させ、量を拡大させた。倭人たちとの交易も盛んになり、北の異相・異俗の住民たちの存在は少しずつ大きくなっていった」
 「いつごろのことなのですか?」
 「六世紀中ごろ、列島各地で国譲り、つまり国造化が大きく進展し始めたころだ。この時までに王権にとって実利を伴う交易相手となっていた彼らは、国造制の埒外にある化外の民として王権支配の対象となる。倭政権は時には恩恵を与えることによって、時には武力によって各地の蝦夷集団を服属させて、飛鳥京への入朝を促す政策を取るんだ。
 服属した蝦夷の族長ははるばる王宮まで来朝して調(みつき)を貢納し、王権ならびにその祖先神や守護神にまで忠誠を誓う。もちろんその見返りも小さくはなかった。朝貢してきた蝦夷は王権が主催する大掛かりな饗宴を受け、得がたい位階や持ちきれないほどの贈り物(絹織物・綿織物・鉄製農具・武器など)をもらった。
 この蝦夷政策は大化の改新後さらに強化される。改新政権は蝦夷の居住地域、西の越国と東の陸奥国に柵(き)あるいは城柵(じょうさく)と呼ばれる拠点を設置していくんだ。柵は木柵(もくさく)・築地(ついじ)・濠などの防御施設で囲まれた一種の城で、内側には官衙(かんが)があり、兵舎があった。倭人と蝦夷の交易拠点であったが、東国や北陸などから組織的に送られた移民、柵戸(きのへ)の居留拠点でもあった。そしてそれは当然のことながら蝦夷征討の前進基地の役割も持っていたんだ」


一一章 七〇七年七月 11

 「越国には柵が二つ設置されたと聞かされましたが?」
 「六四七年の渟足柵(ぬたりのき・新潟市付近)と六四八年の磐船柵(いわふねのき・村上市付近)で、ここには越と信濃の住民が移民として送られたらしい。斉明期になると、こうした城柵を足がかりにしながら、さらに積極的な蝦夷政策が展開される。
 斉明朝は六五八年から六六〇年まで、三年連続して北方遠征を敢行した。北征軍を率いたのは越国守(こしのくにのかみ)、阿倍引田臣比羅夫(あへのひけたのおみひらふ)だった。比羅夫は六五八年四月の第一回北方遠征で一八〇艘の船団を率いて飽田(あきた・秋田)に向かった。水先案内をしたのはすでに服属していた津軽の蝦夷だった。記録によれば、比羅夫は彼らの助けを借りて飽田と渟代(ぬしろ・能代)の蝦夷を降服させ、さらに渡嶋(わたりのしま・渡島半島)の蝦夷を津軽半島に招いて饗応し帰還している。
 翌六五九年三月の第二回北征では、飽田・渟代・津軽・胆振鉏(いぶりさえ・道南)の蝦夷数百人を一堂に会させて饗応し禄を授けている。さらに翌六六〇年三月の三回目の北征では陸奥の蝦夷を水先案内にして北海道に渡り、粛慎(あしはせ)という未知の民族を降伏させている。
 こうして斉明期には本州最北の蝦夷だけでなく、北海道渡嶋の蝦夷や未知の民族粛慎までを服属させ、はるか倭京(やまとのみやこ)まで来朝させるんだ」


一一章 七〇七年七月 12

 「来朝した化外の民の服属儀礼はどういうところで行われたの?」
 「場所は政権ごとに違っていた。敏達期は王宮近傍の河原を舞台にしたが、推古朝からは王宮の朝庭にかわった。そして斉明期には特別の場所が準備された。飛鳥寺の北西、飛鳥川との間にある石神(いしがみ)広場だ。
 六五六年、斉明女帝は前年焼失した飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の上に新王宮、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)を建設した折に、周囲の再開発を進めて飛鳥京を一新させた。その一環として整備されたのが、甘樫丘から西に見下ろせる石神広場なんだ。天武期になってから撤去されてしまったが、当時この広場には須弥山(しゅみせん)像があった。毎年この像を中心に数百人の蝦夷が集められ、倭王権への忠誠を、天神地祇(てんしんちぎ)・天皇霊など王権の守護神に誓う儀式が行われた。これによって王権は王都に集まった内外の人々に、倭国の統一が進み、大王の支配する世界が本州の北辺まで及んでいること、大王の権威はそこに居住する異形・異相の化外の民を従えるまでに高まっていることを伝えようとした」
 「そのねらいは十分に達成されたはずですね」
 「斉明王朝は王権の充実ぶりを国内だけでなく、海外にも示そうと、六五九年の遣唐使に蝦夷の男女二人を同道させている。この時使節団は二人を唐の皇帝高宗に謁見させ、この者たちは毎年定期的に倭国に朝貢する蝦夷国の代表だと紹介している。


一一章 七〇七年七月 13

 これによって斉明朝は、倭国もまた蝦夷という北夷を朝貢国として従える帝国であることを主張しようとした。この政治的演出が実際唐の対倭国政策に影響を与えたかどうかはわからない。でも倭国の側はそれに効果があると信じた」
 「そう期待するほど、服属した蝦夷は当時の倭王権にとって大きな存在だったのですね」
 「こうして蝦夷は歴代の王権によって倭国の統一、国際的地位の向上に重要な役割を割り振られ、実際その役を王権に服属することによって果たしてきた。しかしその経緯は決して生易しいものではなかった。同胞が相食む悲劇が繰り返されてきたんだ。
 倭王権の不当な蝦夷政策が続き、それを背景にした柵役人の理不尽な要求が重なると、蝦夷は立ち上がって反乱を起こした。そういう時の蝦夷の戦闘能力は高かった。東北北部人は狩猟と馬飼を主要な生業としてきたからね。彼らはその生業で鍛え上げた弓矢の技術と騎馬の技術を一体化させた弓馬戦で柵を襲撃した。
 この蝦夷反乱の制圧に動員されたのが、他部族の蝦夷だったんだよ。柵には中央から派遣された武官、東国の下総・下野(しもつけ)・常陸などから送られた鎮兵が常駐していたが、彼らには蝦夷の反乱軍を撃退する力はなかった。


一一章 七〇七年七月 14

 もともと倭王権の蝦夷征圧で直接働いてきたのは、在地にあって大きな勢力を持ちつつヤマトに帰順した蝦夷の豪族とその配下の蝦夷集団だった。彼らはその功績によって位を賜り、自己の領域に造られた柵の経営を委任されていた。そうした力のある蝦夷がさらに、反乱蝦夷と利害を異にする蝦夷部族を取り込み、蝦夷の力で反乱蝦夷を制圧した。つまり王権は〈夷をもって夷を制する〉という方法で反乱をおさえてきたんだ」
 「中央の蝦夷政策に異を唱えて、朝廷に対して反乱を起こしても、同胞によって制圧されてしまう。これほど蝦夷の反抗心を砕き、萎えさせるものはなかったでしょうね」
 「こうした反乱・制圧の繰り返しの中で、心底から屈することのなかった蝦夷部族も、ヤマトからもたらされる品物や技術によって豊かな暮らしを身に付け、いつの間にか身も心もヤマトへ同化し、服属儀礼の要請があれば、はるか飛鳥京まで出向いていくことになる」
 「そんな服属の歴史の上に進められたのが、東北北部の国づくりだったのですね」
 「これは倭王権が大宝律令を制定して律令国家となった七〇一年に始まった。この年から律令政府は蝦夷の地との境界地帯に柵を次々と設置すると同時に、それを中心に郡(近夷郡・きんいぐん)をつくり、北に向けて領域支配を拡大していくんだ。
 その役割を担ったのが、中央から派遣された陸奥国・出羽国・越後国の国司だった。彼らは蝦夷に対する饗給・征討・斥候の権限を付与されると同時に、その権限を行使するための財源・物資・兵力を与えられた。


一一章 七〇七年七月 15

 国司はそれぞれ自らが統治する国に接する蝦夷の地に柵を設置し、配下の一員を城司として常駐させた。城司は東国の軍団から徴発された鎮兵と服属した蝦夷で編成された浮軍(ふぐん)の指揮、移民(柵戸・きのへ)の保護、さらには城柵に朝貢してくる蝦夷に対する饗応や禄の支給などの任務に当たった。
 このような形で城柵ができ上がると、蝦夷たちはここに獣皮・昆布・塩干物などの産物を貢納にやってくる。その返礼として城司は宴会を催し、鉄器・絹織物・米などの物資、さらには位階や夷姓(いせい)などの禄を授けた。こうした朝貢的な支配関係をベースに、両者の間には互酬的な交易がにぎやかに展開していく。
 そうした動きに合わせるように、東国から柵戸が入り込み、城柵を中心に田畑が広がり、郡ができ上がっていく。律令国家はこうした柵と郡を次々と設置して、日本海側・太平洋側の蝦夷を地方支配のもとに組み込んでいったんだ」
 「私たちが蝦夷国にいた二年間はその真っ最中だったのですね」
 「この柵と郡の設置によって、現地住民の生活環境はもう元には戻せないほどにかわってしまっていた。その生き方にも大きな変更が迫られていた。由衣が感じたように、彼らの心の中には野生への回帰と文明への同化がせめぎ合って鬱屈がたまっていた。それがたまりにたまれば、蝦夷たちはこれからも反乱を組織するかもしれない。しかし反乱はそれがどれほど大きなものになっても、間違いなく制圧されてしまうだろう。そして蝦夷は、好むと好まざるとにかかわらず北辺の日本人になっていくことだろう」


一一章 七〇七年七月 16

 「私もそう思います。隼人も同じね」
 「日向・大隅・薩摩の三国にまたがる西南日本は、本州で最も高温多湿の常緑広葉樹林帯に属している。はるかな昔からうっそうと茂るカシ・シイ・クスなどの照葉樹の森は豊かな植物資源と同時に、多様な動物種を育んできた。北流して薩摩半島で二つに分かれる黒潮も西南の海岸地帯に豊富な海洋資源をもたらした。こうした豊かな自然の恵みを求めて、早くから狩猟・漁労・採集の民がこの地に移り住んだ。その中に後に隼人と呼ばれることになる人々の祖先もいた。彼らが西南の地に分散定住したのが、前一〇世紀ごろだという」
 「ずいぶん長い歴史があるのね」
 「照葉樹林を生活の主舞台に選んだ人々は、イノシシ・シカ・ウサギ・サルなどの獣類、キジ・カモなどの鳥類をとった。海岸に接した地を選んだ人々は、スズキ・ボラ・クロダイなどの内湾魚、サメ・サワラ・シイラなどの外洋魚をねらった。そしていずれの先住隼人もドングリ・シイなどの堅果類、クズ・ヤマノイモなどの野生イモ類、野イチゴ・山ブドウ・アケビなどの漿果類を採集すると同時に、それとアワ・ヒエ・キビなどの畑作を組み合わせた生活を展開していたんだ。


一一章 七〇七年七月 17

 そうした生活が一五〇〇年ほど続いた四・五世紀に大きな変化が訪れる。水田稲作農耕が九州北部や中部から南下して、彼らの生活圏に及んでくるからね。先住隼人は狩猟・漁労・採集生活の中に、この新しい生活様式を取り入れようとした。それができないところもあったけどね。九州南部のかなりの範囲を占めるシラス台地だ」
 「ええ、火山が噴き出した灰が山と山の間に堆積してつくりだした平坦な大地で、地味に乏しく、雨が降れば崩壊し、乾燥すればかたまりとなる厄介な一帯だと教えられました」
 「この火山灰地は稲作水田にかえることはできなかった。人々は稲作に適した平野を選び、そこを拓いて水田を増やしていったんだ。
 この水田耕作は隼人の社会に新たな恵みをもたらした。それを加えて豊かな狩猟・漁労・採集生活を築いたのが宮崎平野を拠点にした日向(ひゅうが)隼人、志布志湾に面する肝属(きもつき)川流域と国分(こくぶ)平野を本拠にした大隅(おおすみ)隼人、川内(せんだい)川の上・下流域を拓いた薩摩(さつま)隼人、そして大口(おおくち)盆地・万ノ瀬(まんのせ)川流域に居住した阿多(あた)隼人だった。
 六世紀代、倭王権はこれら西南の隼人に目を付け、服従化政策を開始する。ここで王権が服従の証として求めたのが朝貢だった。


一一章 七〇七年七月 18

 隼人たちにはその要求を拒む力はなかった。彼らは西南の方物を携えてはるばる飛鳥京まで出向き、服属儀礼をしたり、朝廷で相撲を献上したりした。
 さらに倭王権は隼人の首長の一族や子弟などを大王の近習として貢上させた。近習隼人は武力集団として大王の護衛に当たると同時に、大王が亡くなるとその殯宮や陵墓の守護・守衛の役割を与えられた。
 壬申の乱を経て天武が律令体制の整備を始めるころになると、王権による隼人支配は一段と強化され、隼人の内属化が加速する。隼人を近畿周辺に移住させる政策が取られるようになるんだ。
 移住政策の対象となったのは大隅隼人と阿多隼人で、目的は在地の勢力を分断し、大隅と阿多の統治をしやすくするところにあった。特に阿多隼人の場合は際立っていて、彼らの本流が近畿に移動させられ、畿内隼人となった」
 「畿内隼人は隼人司(はやとのつかさ)と呼ばれる役所に所属させられて天皇の守護に当たったり、朝議に参列したり、行幸に供奉(ぐぶ)したりする役目をしていますね。山背国の木津川・宇治川や、大和国の紀の川・吉野川沿いの交通の要衝に警備役として配置されたり、隼人司で歌舞の教習を受けて、外国の使節団が入朝した時に隼人舞を奏したり舞ったりする役目を負わされた人たちもいて、その人々を私もよく目にします」


一一章 七〇七年七月 19

 「七〇一年の大宝律令の制定は、西南九州の民にさらなる試練を与えた。朝廷が隼人の地を律令国家に属する地方にかえ、彼らを公民にしようとしたからだ。やり方は蝦夷の場合と同様、城柵を築き、そこに移民、すなわち柵戸(きのへ)を送り込む方式だった。日向・大隅隼人の地に派遣されたのは豊国(豊前・豊後)の移民、薩摩・阿多隼人の地に配属されたのは肥後の柵戸だった。移民は平時は農耕技術者であり、緊急時には守備兵となって城柵づくりを支えた。
 律令国家はこうした城柵を拠点に隼人に水田をつくらせ、彼らを化外の民から化内の農耕民にかえ、里の数を増やし、郡を新設しつつ日向国・大隅国・薩摩国を編成していこうとした。
 しかし西南日本の自然環境が生んだ狩猟・漁労・採集生活を捨て、その母体となった照葉樹林を田畑にかえ、生活のリズムを変更していくのは容易なことではなかった。何よりも苦痛だったのは、共同体の解体を余儀なくされることだった。
 それまで隼人は首長を中心とする共同体の成員として生きてきた。自分たちの土地を共同体の所有地にし、自治的な生活を営んできた。それを否定されたんだ。中央政府から派遣された役人によって戸ごとに姓名・性別・年齢が記帳された。それに基づいて口分田の支給が行われたが、同時に租・調・庸・雑徭(労役負担)・兵士役など実にさまざまな負担が課せられるようになった。内地人にとっても辛いこうした負担は、にわかに公民にされた隼人にはとりわけ重く感じられたはずだ。


一一章 七〇七年七月 20

 公民になるというのはこういうことだったのか、その苦痛を最も強く感じたのは薩摩の隼人だった。国づくりが始まって間もない七〇二年、薩摩隼人は律令国家に対して反乱を起こした。結果は無残だった。他地域の同胞と戦わねばならなかったからだ。
 中央政府が組織した征隼人軍の主力は大宰小貮小野朝臣毛野(だざいのしょうにおののあそんけの)を最高司令官とし、九州諸国から徴集した正規兵だったが、実際の戦闘に当たったのは阿多・大隅・日向出身の隼人部隊だったんだ。ゲリラ戦を展開する薩摩隼人に立ち向かえるのは、彼ら以外にいなかったし、隼人でもって隼人を制すれば、隼人同士の団結、政治的統合を回避することができたからね」
 「効果はてき面でしたね」
 「反乱はたちどころに鎮圧され、敗れた薩摩隼人は悲惨な状況に置かれることとなった。しかし勝利軍に加わった他地域の隼人もまた苦境に立たされた。戦闘は多くの働き手を奪い、田畑を荒廃させるからね。


一一章 七〇七年七月 21

 反乱を起こせば、同胞を敵に回し、同胞と闘わねばならない。闘えば自分たちだけでなく、同胞もまた苦境に立たせる結果となる。辺境に置かれた少数部族共通の悲劇だ。
 われわれが隼人の地を訪ねたのは、この反乱から三年たった七〇五年だったが、律令支配に対する彼らの不満は続き、反乱のマグマもたまっていた」
 「公民にされようとしている隼人の反乱はいくらでもまた起こりそうに見えましたし、悲劇はまた繰り返されていくような感じでした。でもそうしながら彼らも蝦夷と同様、この国の一員になっていくのでしょうね。そしてその無念の思いも忘れ去られていくことになるんだわ」
 四年に亘った列島辺境の語り旅の中で、阿礼の心に最もしみたのが、 異境の語り部たちの好意であり、彼らが語り伝えた辺境人の想いだった。阿礼の失われかけた創作意欲には再び火がともっていた。彼らの想いを伝えるエピソードをつくり、それをヨコ糸の一本にして古事語(いにしえのことがたり)の中に織り込みたい、阿礼はそう思っていたのである。
 右京西市の静かな雑踏が引き始めた。二人は立ち上がって飛鳥川に出、川伝いに南下して旧宅のある川原に向かった。