目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
六章 六七六年春 17
六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
六章 六七六年春 25
六章 六七六年春 26
六章 六七六年春 27
六章 六七六年春 28
六章 六七六年春 29
六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
奥付
奥付

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九章 六八〇年初秋

九章 六八〇年初秋 1

 九章 六八〇年初秋
 

 

 古事語をつくるよう命じられてから六年の歳月が流れた。六八〇年初秋、阿礼は天武に呼ばれ、「例のものはできあがったか」と問われた。阿礼が「肝心な部分はできあがっております」と答えると、天武は即座に指示した。「今宵は満月、月明かりの中で、ナレの語りを吟味しよう。月が上る前に密かに内裏に参れ」と。
 夕刻人に知れぬように参上すると、内裏の人目につきにくい一室に宴の場がしつらえてあり、正面に天武と皇后の鸕野讃良(うのさらら)、左脇後方に多臣品治(おおのおみほむじ)がすわっていた。聞き手は三人だけ、舎人や女人の姿もなかった。阿礼は第一夜の語り聞かせは、天地(あめつち)の初めから始めて、須佐之男命による八俣の大蛇の退治までが適当ではないかと考えていた。
 上座にすわった主客と絶妙の間合いの取れる下座に身を置いて、宇宙の初めから語り始めた。最初は不思議そうな顔をしていた天武と讃良は、次の伊邪那岐命と伊邪那美命の夫婦神の物語に入ると、身を乗り出すようにして聞き入り始めた。お二人はこの筋語りを気にいって下さっている、そう思いつつ阿礼はさらに天照大御神と須佐之男命の姉弟神のくだりに話を進めた。スサノヲノ命が高天原に上り、アマテラス大御神と子生みの勝負をするところでは手を打って面白がり、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が、神が神がかりしたように踊るシーンまでくると腹を抱えて笑い転げた。


九章 六八〇年初秋 2

 ところが、
 〈天の石屋に隠れたアマテラスがいぶかしがって、アメノウズメに「どうしてお前はそんなところで踊り狂っているの?どうして神々は笑い転げているの?」と声をかけると、アメノウズメが待ってましたとばかりに「あなたよりもはるかに高貴で秀でた女神がおいでになるので、われわれはこうして踊って笑って楽しんでいるのです」と答え、間髪をいれずに天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとだまのみこと)がアマテラスの顔の前に八咫鏡(やたのかがみ)を差し出した〉
 という語りを聞くや、天武の顔が曇り出した。
 次に、
 〈アマテラスの目に一瞬、自分の前に一柱の美しい女神が立っているように見えた。「この者は誰、私を越える存在、そんなことがあっていいの……」アマテラスはそれを確かめようと石屋戸の外に出ようとした。この瞬間を待ち構えて身をひそめていた力持ちの神、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)が女神の手を取って外へ引き出した。さらにフトダマノ命が日の神の後ろに注連縄(しめなわ)を渡していう。「この縄より内側に戻ることはできません」〉
 このくだりに至ると、天武の表情は険しくなり、眉間によせたシワは、痛快なはずの八俣の大蛇の物語に入っても解かれることがなかった。


九章 六八〇年初秋 3

 第二夜の語り聞かせも同じ時刻に、同じ部屋、同じメンバーで行われた。天武は気分を取り直してくれた様子だった。穏やかな表情で、古事語の続きが始まるのを待ち構えているように見えた。今宵の予定は、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)のエピソードから始まる大国主神の成長物語と、彼による葦原中国の国作りと国譲りの物語だった。
 稲羽の素兎の語りが始まると、天武と讃良は膝を乗り出すようにして物語の中に入り始めた。そして阿礼の語りが葦原中国の平定に進み、高天原からの使者が何人も何人も送り込まれるのに、地上からは一向に色よい返事が返ってこないくだりでは、語りの進行と一体となってやきもきしたり、ハラハラしたりする様子を見せた。
 ところが語りが国譲り物語に進み、高天原側がオホクニヌシが出した条件を飲み、出雲国の多芸志の小浜(たぎしのをばま)に立派な神殿を造らせ、燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)で起こした火であぶった巨大鱸(すずき)を聖なる御饗(みあえ)として供えたというくだりにくると、天武の表情はこわばり、そのあとに続く最後のところ、天照大御神の孫、ヒコホノニニギノ命の天降りの部分はほとんど聞いていないかのようだった。


九章 六八〇年初秋 4

 第二夜のこの語り聞かせが終わったあと、しばらくの静寂が席を覆った。これを破ったのは天武だった。「よくできている。奇想天外な神話がいくつも配されている。それぞれが予想もつかないような展開を見せる。スリルがあり、ユーモアがある。長くておかしな名を付けられた神々を、一〇、二〇と流れるようにうたい上げる曲芸まで用意されている。そうした人を引き付けるような仕掛けを随所にちりばめ、ナレはワレの要請に応えて、天皇家がこの国を統治するいわれ、継承者がこの国を統治する正当性を説く歴史物語を見事に創作した。その苦心を高く評価しよう。ただどうしても譲れないところが二か所あった。
 一つは昨晩の事語り、ナレが皇祖神とした天照大御神の、天の石屋戸での振舞わせ方だ。あの場面に至る筋語りの元になっているのは恐らく〈乙已の変(いっしのへん)〉で、天照大御神は大王家、須佐之男命は蘇我本宗家、特に太郎入鹿をイメージしているのであろう。そのスサノヲの悪行に腹を立てて、アマテラスが自らの意思で天の石屋に隠れたというところまではいい。問題はそのあと、彼女が他の神々によって石屋戸から引き出されたという点だ。
 確か話の筋では、差し出された八咫鏡に映った自分の姿を別の女神と錯覚し、はてそんな美神がいるはずがないと、それを確かめに戸の外に身を出そうとしたアマテラスは、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)に手を取られて外に引き出されてしまう。さらに布刀玉命(ふとだまのみこと)によって背後に注連縄を渡され、この縄より内側に戻ってはなりませんと、いわれてしまう。推測するに阿礼よ、ナレはここのくだりでこういいたいのであろう。


九章 六八〇年初秋 5

 皇祖神は高天原の最高神ではあるが、その至高性は絶対的な存在ではない。それは他の神々によって支えられている。日の神は与えられた義務を果たす限りにおいて最高神として存在できる。しかしそれを果たさねば、他の神々によっていつでも代えられうる可能性を持っている。つまり支配の正当性は最初から保障されているのではなく、それは、天皇家が共に国家の運営に当たる豪族・貴族層との間の力のバランスに配慮し、彼らからどれだけ協力を得られるかによって決まると。
 皇祖神も天皇家も、与えられた義務を全力で果たす使命を帯びている。その考えはいい。そうあらねばならぬ。ワレもそう思う。だが、この語りの中で皇祖神も天皇家も絶対的な存在でなければならぬ。支配の正当性も最初から約束されていなければならぬ。天の石屋戸のくだりは神々の手によってではなく、天照大御神が自らの意思で石屋を出る、そのように創り直せ。
 今一つは今宵の事語り、大国主神の国譲りのところだ。国譲りというのは六世紀初頭からほぼ百年かけて進められたヤマト王権による中央集権化策、つまり地方政権の独自の支配者、国主を、中央政権の地方官、国造に再編成していく事業を手本にしているのだろう。さらに推し測れば、国譲りの物語は、この国造化のプロセスを下敷きにし、その上にワレが仕掛けた〈壬申の乱〉を重ねて、王権継承の正当性を問おうとしたのではないか。


九章 六八〇年初秋 6

 誰がヤマト王権の継承者としてふさわしいか、それを決定するのは王権ではなく、中央政権のもとに参加した地方政権の意向だ。継承の正当性は、彼らの支持を得られるかどうかによって決まる。それを物語に織り込もうと、ナレは国譲りの見返りとして神殿建設というアイデアを考え出した。それはいい。問題はその要望をオホクニヌシに出させて、高天原、つまりアマテラスがそれを受け入れ、宏壮な神殿を立ててやり、おまけに聖なる馳走まで供えたというくだりだ。
 恐らくナレはこういいたいのであろう。神殿は国を譲った者と譲らせた者との間の約束の象徴で、譲らせた側は譲った側に対して間違いなく約束を果たすという義務を負っている。その義務を果たし続けることによって王権継承の正当性は保障されている。それが守られなければ反乱が起き、継承の正当性はそれによって崩壊する。つまり王権継承の正当性は最初から決められているのではなく、それは中央政権の継承者が、地方の安寧にどれだけ腐心する存在であり続けられるかによって決まる。権力者はそういう後継者をつくらねばならぬと。
 その点はワレも同じ思いだ。だが地方にいちいち伺いを立てなければ安定した中央集権国家の形成できないというのでは困る。今は統一国家を一気に完成させなければならない時期に差し掛かっている。継承者が内乱によってかわったというのは、ワレのケースを最後としなければならぬ。これから先の王権の継承者には地方を自在に操れる絶対的な権力が保障されていなければならない。


九章 六八〇年初秋 7

 神殿造りのくだりは、オホクニヌシ(葦原中国)側からいわせるのではなく、アマテラス(高天原)側が自ら提案し、建設してやるよう筋立てを変更せよ。間違っても神殿に御饗を供えるなどということが語られてはならぬ。古事語のこの先を聞きたいと思ってはいたが、それは以上二点の修正が完了したあとにしよう。ご苦労だった」
 こういって天武は立ち上がった。讃良は何かをいいたげだったが、沈黙したまま天武のあとに続いた。
 帰路についた阿礼の気分は重く沈んでいた。期待していたことが半分しかかなわなかったからだ。古事語の重要な部分、天の石屋戸と国譲りの創作は二つの歴史的事件をモデルにした。このことは洞察してくれるだろうと期待した。天武はそれを見事に見抜いた。ここは期待通りだった。これを見抜いてくれるなら、そこから導き出された結論、つまり権力を持つ者は持たざる者に支えられている。政治は持たざる者のためにある。両者は本来対等の関係にあるという主張も、それを物語にこめることも天武は理解するはずだと思っていた。
 ところがこの反応だ。現役の支配者として、まさに政治を動かしている天武の立場を思えば、それは当然かもしれない。権力は絶対でなければならないのかもしれない。そう思いつつもせめて物語の中だけでも、現実の壁を越える理想がこめられたらと思ったのだが……。


九章 六八〇年初秋 8

 救いは天武と讃良のあとに従った多臣品治が、去り際に阿礼に残した言葉だった。
 「実に面白くできている。天武の指摘した二点も、そのままの方がいいと自分は思っている。今後どうするか、それはナレ自身が決めることだが、頼みがあったらいつでも訪ねておいで、その時には何でも相談に乗ろうではないか」
 自宅で待つ由衣に結果を報告するまでに、阿礼は自分の気持ちを確認することができた。この事態は初めから予測していたこと、予測できてもあえてこうしたかったこと、そして事態が現実のものとなった今も自分には物語の筋立てを変更する気持ちがないことを。変更があり得るとすれば、それは天武の方だと。しかもその可能性はあった。闊達であるはずの讃良があの時終始無言のままでいたからだ。
 阿礼の願いはしかし、かなわぬ方向に進んだ。
 語り聞かせのあった九月から二か月後の一一月、天武は病に倒れた。病名は不明だったが、この時の病の重篤さから、余命の少ないことを直感したのだろう。天武はほかのことは何もかも忘れたかのように、律令国家の建設を推し進めていくのである。


九章 六八〇年初秋 9

 天武は、兄天智が試みた律令体制を整備し、これまで温めてきた構想に従って新たな中央集権国家をつくろうとした。国号を日本、君主号を天皇とし、その天皇が日本各地の住民を直接支配する、天皇制的律令国家の形成である。これには中央官制の整備が急務だった。そのためにすでに中央政府の機構・組織、役人の採用法・給与体系、租税のための戸籍・土地台帳づくりを進めてきていたが、これを永続的な制度に仕上げるには、内容を規定するための令(行政法・民法・商法)が、また実効性のあるシステムにかえるには律(刑法)が欠かせなかった。
 天武は病の翌六八一年二月、大極殿(だいごくでん)に諸臣を召集し律令の制定を指示した。しかし律と令を同時に編纂するのは容易なことではなかった。天武は病気の再発を案じ、律を後回しにし、令の編纂を急がせたのである。
 そしてこの天皇を頂点とする律令国家の権威を高めるには、玉座が置かれる新都の造営が欠かせなかった。天武は即位から三年後の六七六年には新城(にいき)のプランづくりを始め、その候補地として飛鳥川右岸に位置し、北を耳成山(みみなしやま)、西南を畝傍山、東を香具山に囲まれた藤井が原を選んでいた。
 プランのもとになったのは周以来中国で一つの理念型となった、正方形の都城全体を縦横各九条の道路で結び、その中央に宮室を配すると同時に、その宮室の中央に大極殿という国家的な儀式・政治空間を配するというものであった。


九章 六八〇年初秋 10

 ヤマト王権の国政は長い間天皇家の家政と分かちがたく結び付き、内裏正殿で行われてきた。その分離を最初に試みたのが天武だった。彼は飛鳥浄御原宮に大極殿を造営し、ここで国家的な儀式・政治を行った。しかし飛鳥浄御原宮は歴代大王家の故地に旧来プランを基本に造営したために、大極殿を内郭中央に持ってくることはできなかった。それがために本邦初の大極殿は、内郭から離れた東南の一角に別棟として建てられていたのである。
 天武は病から立ち上がったあと、大極殿を中核とする日本最初の都城の造営をスタートさせ、六八二年三月には自ら藤井が原を訪問し、京師(けいし)造営に拍車をかけた。新都は飛鳥京から西北方向に新たに拡張されるような形で計画されたことから、新益京と書き、「あらましのみやこ」あるいは「しんやくのみやこ」と読まれた。後の藤原京である。
 さらに天武は、新君主号天皇の権威を高めようとした。律令の制定に当たっては、天皇の行為に直接かかわるような規定をはずし、天皇を律令を超越する存在に位置づけた。そして大王家がこれまで担ってきた伝統的な収穫祭、新嘗祭にさまざまな儀礼的要素を付加した大嘗祭(だいじょうさい)を創設し、天皇家の神的な権威を制度化していく。こうして天武は律令国家の建設を先頭に立って推進する政治的権力として、さらには大掛かりな祭祀を主催する精神的な権威として、新国家日本の頂点に立とうとしていくのである。


九章 六八〇年初秋 11

 阿礼にとって、天武は遠い存在となっていった。それを一番思い知らされたのは、『日本書紀』編纂計画の発表だった。天武は病を発症した年の翌六八一年三月、王権の正式事業として国史の編纂を命じたのである。発表の場所は飛鳥浄御原宮の大極殿、指示された編纂メンバーは、川島・忍壁両皇子を初めとする皇親六名、中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま)ら官人六名の、計一二名、いずれもそうそうたる人物だった。
 天武が歴史書の編纂計画を抱いていることは阿礼もすでに聞かされていたが、編纂メンバーが豪華な陣容からなるのを知って、改めて自分もまた古事語も置き忘れられた存在になったという思いを強くしたのである。そしてこれをさらに決定づけたのが、天武の死だった。
 六八五年九月、天武の病状は再び悪化した。仏教への信仰が厚かった天武は飛鳥寺・川原寺で平癒を祈願する誦経(ずきょう)を実施したが、その甲斐はなかった。存命中に新都の完成はかなわないと悟ったのだろう。六八六年七月、これまで仮の宮として名を付けていなかった飛鳥の宮を正式に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と命名した。
 さらには遷都後に行う予定であった年号制定を実施し、この年を、かねて用意してあった年号、朱鳥(しゅちょう)の元年とした。こうすることによって天武は無念の想いを払いつつ九月九日、飛鳥浄御原宮において五六年の波乱の生涯を閉じたのである。


九章 六八〇年初秋 12

 こうして阿礼は天武から直接声をかけられるチャンスを永遠に失った。残されたわずかな可能性は皇后鸕野讃良からの呼びかけだった。六年前の語り聞かせの時、讃良は熱心な聞き手でありながら、語りのあと天武とは対照的に、いかなる感想も述べずに席を立った。あのあと讃良は古事語について天武と話し合ったはずだ。そうだとすれば彼女から呼び出しがあるかもしれない。阿礼はそれに希望をつないだ。
 讃良は後に天武の後継天皇となるべく運命づけられていたが、当初後継候補になったのは天武と讃良との間に生まれ、天武存命中の六八一年以来皇太子となっていた草壁皇子(くさかべのおうじ・二〇歳)だった。草壁皇子は二年三か月に及んだ天武の殯(もがり)を先導し、六八八年一一月最後の誄(しのびごと・弔詞・ちょうし)で皇位継承者となることを奏上したが、翌六八九年四月あっけないほどの早い死を迎える。この時草壁皇子の長子、軽皇子(かるのおうじ)は七歳、讃良はこの孫を後継者にすべく、彼が成人になるまでのつなぎ役になろうとした。六九〇年一月、讃良は即位して持統となった。持統はこの時四六歳、夫がやり残した律令国家建設事業を全て引き継いだ。
 第一の事業は新都の完成だった。持統は、六九〇年一二月、自ら新益京(あらましのみやこ)、通称藤原京の視察に訪れて以来、その後も四度に亘って建設中の都城に足を運び完成を促した。そして六九四年一二月、飛鳥浄御原宮から新益京に移り、天武が願った事業の一つ、京域を持つ日本最初の都城、藤原京を完成させるのである。


九章 六八〇年初秋 13

 持統が天武から引き継いだ今一つの事業は、律令の制定だった。彼女は夫の死後、新令編纂作業を急がせ、即位に先立つ六八九年六月にはこれを公布・施行させた。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)である。これは翌六九〇年の遷都と共に、藤原京を新都とする律令国家を動かしていくための法典として徐々に実現に移されていく。しかし飛鳥浄御原令には律が伴っていなかった。持統は律を含めた体系的な法典整備をめざした。
 六九七年八月、五三歳になった持統は、孫の軽皇子が一五歳に達したのを機に譲位するが、その後も太上(だいじょう)天皇として新天皇文武と共治体制を敷き、新法典の完成を促した。そして七〇一年、新年号大宝(たいほう)を制定すると共に、新令・新律からなる基本法を公布・施行する。大宝律令である。こうして天武が構想した日本型の律令国家形成の青写真ができ上がるのである。
 この青写真づくりは容易ならぬ作業だった。その作業に忙殺され、持統には阿礼を呼び出し、その後の推移を尋ねる暇もなかった。それどころか阿礼と古事語を思い出す暇もなかったのかもしれない。持統は大宝律令施行の翌七〇二年一二月二二日、五八年の生涯を閉じた。天武の死から一六年後のことである。これによって阿礼は、天武に最もゆかりのある人からの呼び出しを受ける機会を永遠に失った。
 阿礼の喪失感は大きかった。創作意欲は限りなく低下した。阿礼はこの最悪の状況から脱出するために、宮仕えをやめて、元の旅の語り部に戻ろうと決心した。旅先にはまだ足を踏み入れる機会のなかった辺境がいい。阿礼は由衣と連れだって日本列島の東北と西南をめざす旅路についた。折しも藤原宮では持統太上天皇の殯(もがり)の儀式が続いていた。殯宮(ひんきゅう)儀礼を仕切っていたのは、孫の文武だった。