目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
六章 六七六年春 17
六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
六章 六七六年春 25
六章 六七六年春 26
六章 六七六年春 27
六章 六七六年春 28
六章 六七六年春 29
六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
奥付
奥付

閉じる


六章 六七六年春

六章 六七六年春 1

 六章 六七六年春
 

 

 調査旅行から帰宅後のある日、阿礼は由衣を伴い、天武が即位後直ちに開発を進めた、官営工房に向かった。工房は飛鳥寺域から見ると東南方向、飛鳥浄御原宮からは北東方面に位置する丘陵地帯にある。丘陵は東西二つからなり、その間に二筋の谷が南から北に向かって流れている。上流地区の谷筋はその両岸が共に階段状に整地され、下には溜池が、上には工房が配されていた。
 西南部の谷筋に軒を連ねるのは金・銀・銅などの非鉄金属製品、水晶・メノウ・琥珀などの玉類、ガラス製品、漆製品をつくる工房群、東南部の谷筋を占めているのは、現在流通している銅銭、富本銭の鋳造工房、鉄器の製作工房、そして瓦を焼成する瓦窯(がよう)だった。
 いずれも最先端の手工業技術を誇る工房ばかりで、谷筋にほぼ等間隔に架けられた連絡橋によって有機的に結ばれている。
 二筋の谷が合わさる下流地区には管理棟と倉庫群があって、各工房が要求する大量の燃料・原材料資源の調達、工房が吐き出す無数の製品群の出荷、さらには技術者の採用と訓練に当たっていた。


六章 六七六年春 2

 ここはまさに、この国の産業と王権の威信を支える列島随一の官営工房集積だった。二人は最新鋭の炉が吐き出す強烈な熱気にあおられたり、第一級の工人たちの巧みな手さばきに見とれたりしながら、南に見える中央丘陵に向かって歩いた。丘陵の南端からは上・下流両地区を一望に見渡すことができる。阿礼はその一角に腰を下ろし、煙の上がる工房群を眺めながら由衣にいった。
 「天武は即位後直ちに工房集積の建設に着手しているが、これが短い間の想い付きから生まれたものだったとはとうてい考えられない。天武は壬申の乱のはるか以前から国家づくりについて独自の構想を温めていて、この工房集積のアイデアもその一環だったと思えて仕方ないんだ。彼は常に、構想を抱いて生きる人間だからね。
 巷間、天武の挙兵は無法な攻撃から自らを守るためのやむえない戦いであったといわれているが、恐らくそうではあるまい。彼は兄の後継者となることを予定し、早くから天智とは違う国家構想を模索していたはずだ。それなのに天武は後継者として指名されなかった。だから戦いを起こしてまでも後継を勝ち取る必要があった。実際にそれをやってのけたんだから、やはり特別な存在だといわざるを得ないね」


六章 六七六年春 3

 阿礼の傍らに腰を下ろし、同じ方向を見やりながら由衣がいった。
 「だとすると、天智は後継者の選定を間違えたことになり、天武がそれを正したことになる……これはなるべくしてなったことなの。成功した理由は?」
 「誰が後継者としてふさわしいか、その正当性を決めるのは本当に難しい。大化のクーデターによって天皇家(大王家)はこの国の支配権を取り戻すと同時に、新帝の即位に関しても群臣の推挙を必要とせず、それを自らの意思で決めることができるようになった。譲位という形でね。しかしこれによって支配権の継承が確実なものとなったわけではなかったんだ。何故なら誰に王権を譲位したらいいか、誰が被譲位者としてふさわしいかを決めるのは容易な技ではないというのが真実だからね。
 大王家の血を引く者が後継者となる原理だから、選考基準は当然、本人の血の濃さや配偶者の血筋の高さになるわけだけど、全てをそれで決められるほど問題は単純ではない。例えば失政を重ねる王権があった場合、それをそのまま引き継ぐ者が正当な後継者なのか、それともそれを改変する力を持つものが正当な後継者なのか、それは血統原理で決まるものではないんではないか。結局は、統一国家に参加した地方、そこの民の声が決めていくんだろうと思うんだ。もちろん地方の声、民の声はすぐには発せられない。失政があっても、それに対する人々の不満が積もりに積もって爆発するまでは声にならないからだ。


六章 六七六年春 4

 壬申の乱の発生はそういうことだったんだと思う。この内乱の原因となった失政は、実は天智期に始まったことではなく、斉明期にすでに生じていた。知っての通り、斉明は天智と天武の母で、乙已の変前は皇極として政権を担当していた。クーデター後王権を孝徳に譲位したが、孝徳が没したために重祚(ちょうそ)して斉明となった。しかし斉明は老齢、実際に政務を担当したのは天智になる前の中大兄皇子だった。この重祚による後継の決定あたりからすでに失政が始まり、それを続けたまま王権が天智に移り、さらにその子大友皇子へと受け継がれようとしたわけだ。
 この間に地方の民の不満は募り、火を付ければ爆発するところまで蓄積されていた。その結果がこの度の争乱であり、これを経て天武が正当な後継者と認められることになった。その意味で後継の正当性は、統一国家に組み込まれた地方、その民の支持があるかどうかによって決定されるということだ。もちろんこのことは、最初からわかっているわけではなく、事態の推移を後から振り返ってみてわかることなんだけどね」
 「それがこの間の旅の成果なのですね?」
 「大化のクーデター時に、大王家の後継候補者として主役を演じ、後に大王となって近江朝を築き上げた天智だが、その後継には候補が二人いた。一人は天智と同じ父(舒明)と母(皇極・斉明)を持つ五歳年下の弟、大海人皇子、後の天武だ。大海人という名は、彼が少年時代を過ごした尾張海部評(あまこおり)に由来する。


六章 六七六年春 5

 その大海人が海部評から飛鳥にきたのは一三歳の時だった。武人的気質を持ち、政治にはあまり関心を示さなかったが、天智の薫陶を受けて変貌した。兄の片腕、大皇弟と呼ばれるようになり、太子に与えられる直轄地、湯沐地(ゆのうち)を所有するまでの存在になったのだ。
 今一人は天智とその後宮、伊賀の地方豪族が献上した采女、伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)との間に生まれ、近江の豪族大友氏のもとで養育された大友皇子、またの名を母の出身地にちなんで伊賀皇子(いがのおうじ)という。母の出自には恵まれなかったが、百済国の亡命官人との交流を通して学識を深め、博学多才といわれた人物だ」
 「それまでの王位継承の慣行に従えば、弟の大海人皇子が位を継ぐのが自然だった……」
 「大海人もそう思っていたはずだ。壬申の乱の四年ほど前になるが、天智が近江大津の宮で政治を動かし始めたころから、自分が天智の後継者になることを決意し、その準備を始めていたんだ」
 「どんな準備をなさっていたのですか?」
 「地方とのつながりを確かなものにしようとしたんだ。天智はその時、律令国家の建設をめざし、中央官僚である国宰(くにのみこともち・こくさい・後の国司)を地方の重要拠点に配置して日本全土の統一を図った。でもそれが徹底できたのは畿内だけで、ほとんどの地方ではまだ国宰よりも、有力豪族である評督(こおりのかみ・ひょうとく・後の郡司)の権力の方が強かった。実際に兵を動員する力を持っていたのも、国宰ではなく、豪族だった。大海人は、将来統一国家を完成させるには何としてもこの地方豪族を国家組織の一員にする必要があるし、そのためにはまず彼らと良好な関係を築かなければならないと考えていた」


六章 六七六年春 6

 「つながりを持ったのは?」
 「尾張、伊勢、伊賀、そして美濃、いずれも飛鳥・近江の東に位置する東国で、それぞれ彼に縁のある国々だった。
 尾張・伊勢とは幼年時代から絆があった。当時皇子の多くは豪族の妻を乳母とし、その豪族のもとで育てられた。ヤマトの大王家が勢力を拡大した時代に、王権に従属した豪族が大王家に娘を送って縁戚関係となる伝統が残っていたからだ」
 「大海人もその例にもれなかったのですね?」
 「大海人の乳母は大王家の名門氏族、尾張海部評の大豪族(評督)尾張氏の妻で、彼は幼年時代尾張氏のもとで育てられた。遊び相手が大豪族の子弟で五歳年上の尾張大隅(おおすみ)だった。大隅は長じて大きな勢力を持つ豪族となった。
 尾張氏は海人族として、尾張だけでなく伊勢にも大きな勢力を誇り、大海人はその恩恵を受けた。成人後、大和や近江で暮らすようになっても、彼はこの幼年時代を過ごした尾張、その延長上にあった伊勢とのつながりを大切にした。


六章 六七六年春 7

 伊賀は、近江朝で重臣―御史大夫(ぎょしたいふ)―となっていた豪族、紀臣大人(きのおみのうし)の縁だ。古来より紀氏は大王家の軍事的氏族で、その流れを汲む大人は武人的性格を持つ大海人に好意を寄せていた。その大人と強い信頼関係で結ばれていたのが、伊賀阿拝評(あへのこおり)で評督(こおりのかみ)をつとめていた同族の紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)だ。阿閉麻呂は名門氏族であったために、国宰の代理を兼ねる存在として伊賀全体に大きな力を持っていた。大海人はこの阿閉麻呂の存在によって、後に伊賀国を自陣に引きいれることになる。
 美濃との関係は、大海人の湯沐地(ゆのうち)がここの穴八磨評(あはちまのこおり)にあったからだ。大海人は自分が最も信頼を置いた山背国出身の官人で大王家の名門氏族だった多臣品治を、ここの租税を収納する湯沐令(ゆのうながし)に任命した」
 「あなたを舎人として天武のもとで働けるようにして下さった方ですね?」
 「そうだ。その品治が美濃穴八磨評にある大海人の湯沐地に向かったのは六六六年初夏、この時彼の年齢は二〇代前半、壬申の乱の六年前のことだった。大海人は品治に厳命した。『税を取り立てる役に終始してはならぬ。美濃一帯の豪族たちと友好な関係をつくり、美濃をどこよりも豊かな国にするよう心を砕け』と」
 「品治殿はその大役を果たされたのですね?」
 「美濃の豪族たちは品治を信頼すると同時に、その主である大海人に忠誠心を抱き、自分たちの子弟を舎人として使ってくれるよう大皇弟に献上した。大海人はこの舎人たちを誰よりも慈しみ、東国美濃との関係を強化しようとした」


六章 六七六年春 8

 「伝え聞いた話ですが、大海人はその舎人たちを駆使して優れた情報集団を組織していたとか。そうだったのですか?」
 「実際大海人の周りには数多くの舎人がいた。その中から彼は有能で信頼できる者を選んで情報組織をつくり、それぞれの資質に合わせて情報活動を割り振った。東国を中心とする各地方に情報チームを送り、そこで起きている動きを直接探ろうとした。さらには唐・高句麗・新羅・百済系渡来人に接近させ、国際情報を手に入れようとした。実に用意周到な人物だった」
 「それにもかかわらず、いえそれが故に兄の天智は弟の大海人ではなく、子の大友皇子を継承者に選んだわけね?」
 「独裁的手腕で築き上げた自らの王朝を維持するには、わが子が最もふさわしいと判断したのだろう。天智は皇位継承法を定め、それを改めてはいけない不変の法典、〈不改常典(ふかいじょうてん)〉とし、その中で父系による直系継承をうたった。
 それを布石としながら天智は、死に至る病を患う九か月前の六七一年一月、大友皇子を皇太子(ひつぎのみこ)の位に付け、左大臣蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)や右大臣中臣連金(なかとみのむらじかね)といった有力豪族を補佐役にして、子への継承を確かなものにしようとした。この時大友皇子は二二歳だった」


六章 六七六年春 9

 「天智は大友皇子を皇太子にし、自分の後継者に指名したことを、大海人に直接伝えたの?」
 「伝えなかった。大海人はその事実を人づてに聞いたんだ」
 「何時、誰に聞いたのですか?」
 「聞いたのは六七〇年の末、指名の直前だ。伝えたのは近江朝の重臣の一人、大海人に好意を寄せていた例の紀臣大人(きのおみのうし)だ」
 「大海人は、自分にはいかなる相談もなく事が運ばれたことに、しかもそれが人づてに伝えられねばならなかったことに腹を立てたことでしょうね」
 「血が逆流するような怒りを覚えたことだろう。と同時に恐怖感にも襲われたはずだ。天智が中大兄皇子時代に蘇我太郎入鹿を殺害して以来、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)、有間皇子(ありまのおうじ)といった自分の政敵になると思った人物を、謀反の罪で次々と殺害してきたことに思い至ったはずだから。
 自分も今まさにそういう状況に置かれている。死の危険を回避しつつ、己の野望を果たすためには、この際慎重に発言・行動しなければならない、そう思ったはずだ。
 大友皇子の指名を人づてに聞いた翌日、大海人が宮廷に出ると、天智の自室に呼ばれ、『ワレは大友皇子を皇太子にしたいと思うが、ソチの考えはどうか』と尋ねられた。


六章 六七六年春 10

 大海人は昨夜から考え続けてきたことを用心深く言葉にした。『最上の選定だと思います。大友皇子は若く、学識があり、それは群臣たちの認めるところです。これ以上の後継者はほかにおりますまい。私もこの話をうかがい安心して隠退ができます。このところ年齢のせいか、健康にすぐれません。年が明けたら屋形にこもり、しばらく休養したいと思っておりました』
 こうして六七一年正月に、大友皇子の立太子が正式に発表されたのだが、この時から大海人は宮廷への参上、政治への参加をできる限り控えるようになった」
 「それでも兄の猜疑心を晴らすことはできないと判断したのですね?」
 「その通り。大海人は次に俗界から退いて、吉野宮滝の離宮に隠棲する手を思い付いた。この時大海人の脳裏には、かつて天智から謀反の疑いをかけられた古人大兄皇子事件の顛末があった。
 古人大兄は天智の疑念を晴らそうとして出家し、宮滝離宮に隠遁した。天智はその古人大兄に四〇人程の手勢を差し向けて殺害している。隠遁者を屠るのはわけはない。兄はそれを記憶しているはずだ。自分が出家すればいつでも殺害できると安心するだろう。そう兄に思わせ、その間に戦いの準備をしよう。
 大海人は自分の湯沐地のある美濃を中心に対抗手段を整えようと、湯沐令(ゆのうながし)多臣品治に命令を下した。美濃の豪族たちに戦いの用意をするように伝え、彼らが刀・槍を初めとする武器を確保する際には惜しみなく援助をせよと。


六章 六七六年春 11

 六七一年九月初旬、天智は風邪をこじらせて病床に伏した。病状は悪化の一途をたどった。天智は死を前にして、自らが築き上げた近江朝とそれを受け継ぐ大友皇子の将来に立ちはだかる大皇弟をどうすべきか、重臣たちと協議した。
 もし大海人に謀反の意志があれば死罪にしておかなければならない。弟を呼び、自ら真意を確かめるという決断を下した。それを伝えたのが、大海人の影の味方である紀臣大人だった。とうとう来たるべきものがきた。大海人は密かに大津宮の近くにある自分の屋形を引き払う準備をし、呼び出しを待った。
 六七一年一〇月一七日、大海人は天智の病床に呼ばれた。『大海人、ワレが死ねば大友皇子があとを継ぐ。皇子が大王になるのを支えてほしい』天智は苦しい息づかいの中でそう述べ、弟の言葉を待った。
 本意を探ろうとする兄の落ち窪んだ目は猜疑心に満ちていた。それを解くいかなる術もなかった。大海人はすでに用意していた言葉を述べた。『陛下の病状を拝見した今、直ちに出家して吉野の宮滝にこもり、仏道の修行を積みつつ陛下の病気の快復を祈りたい』と。
 天智は許可した。その許しが翻らないことを念じながら、大海人は宮廷内の仏殿で髪と髭を剃り、退出した。


六章 六七六年春 12

 翌日、大海人は自分よりも一足先に后の鸕野讃良(うのさらら・天智の娘・後の持統)と草壁(くさかべ)・忍壁(おさかべ)の二皇子を、数人の舎人、十数人の女人と共に吉野に向けて送り出した。さらに兄への恭順を示すために、屋形に備蓄していた刀・槍・弓矢・甲冑など全ての武具を朝廷の武器庫に運ばせた。
 二日後の一〇月一九日、大海人は早朝兄と面会したあと、輿(こし)に乗り、厳選した舎人三〇余人と共に大津から山背の宇治橋に向かった。左右大臣を初め三重臣が送ってきたが、彼らの顔には敵意が現れていた。同時に目には迷いの色が浮かんでいた。大海人をこのまま送り出すのは、虎に翼を付けて野に放つようなものではないのか、今ここで始末をつけておくべきではないのかと」
 「ここで攻撃を受けていれば、一たまりもなかったことでしょうね。大海人も舎人たちも無腰だったはずですもの」
 「宇治橋に着いたのは昼ごろ、ここで見送りの重臣たちと別れたが、まだ安心はならなかった。一行は橋から離れたところに密かに手配させてあった馬に乗り換えて、五〇キロ強南に位置する飛鳥の嶋宮(しまのみや)をめざし、大和盆地を南北に貫く中ツ道を一気に駆け抜けた」
 「嶋宮はかつて蘇我馬子が建てた屋形で、その後大王家の離宮の一つとなっていたところでしたね?」


六章 六七六年春 13

 「その通り。大海人一行がそこに着いたのは夕闇が迫るころで、先発した讃良たちがそれを安どの気持ちで迎え入れた。
 一〇月二〇日早朝、大海人と讃良一行は嶋宮を出発した。前夜降り出した雨はみぞれまじりの雪になった。一行は飛鳥川をさかのぼり、栢森(かやのもり)から狭く曲がりくねった山道を通って芋峠(いもとうげ)に向かった。海抜五〇〇メートルの芋峠は本格的な雪の中だった。一行は降りしきる雪の中を歩き続け、その日のうちに吉野宮滝の離宮に着いた」
 「古人大兄皇子の一件があったとはいえ、何故吉野だったのでしょうか?」
 「吉野といっても山桜で知られた吉野山ではなく、その北麓を湾流する吉野川ほとりの吉野宮滝なんだ。蛇行する吉野川がつくり出す渓谷の美しさで知られている。大海人がここを隠遁地として選んだのは、兄天智の目をくらますためでもあったが、もう一つ大きな理由があった。それは吉野の地が、伊勢と紀伊を結ぶ交通の要衝だったからだ。戦いの本拠地と考えた美濃との行き来を、近江朝にさとられることなく遂行するには、これ以上の地はほかになかった。仮に美濃との連絡が断たれた場合には、背後に位置する熊野の山中に逃避することもできる。
 天智の死は間近に迫っていた。大海人はここ宮滝で直ちにその後継者に対する戦いの準備を開始した。準備は隠密裏に、しかも内通されることなく進めねばならなかった。大海人は舎人の数を信頼できる精鋭二〇余人に絞った。そして彼らに対して次のように宣言した。『時がきたら近江朝に戦いを挑み、大王位につく』と。


六章 六七六年春 14

 まず吉野離宮の安全を確保しなければならなかった。大海人は舎人たちに周囲に居住する山人、国栖(くず)族や吉野・宇陀(うだ)の豪族たちと親しく付き合い、彼らを味方に引き入れるよう命じた。そうしながら彼は、東国の地方勢力が持つ兵力を結集させようとした。騎乗の舎人たちを縦横に動かし、伊賀・伊勢・尾張・美濃の豪族たちに軍団を編成するよう促した」
 「その準備にどれくらいの月日をかけたのですか?」
 「八か月だ。大海人が東国における軍団編成に目途をつけてついに吉野を脱出したのが六七二年六月二四日だった。この動きを知って、近江朝も軍団を投入する。すでに天智は前年一二月三日に亡くなり、近江朝軍の最高指揮官は大友皇子だった。彼は半ばできつつあった律令体制下の軍勢、つまり舎人軍を主体とした親衛隊(二千)、国宰(くにのみこともち)の命令で動員される評督(こおりのかみ・豪族)とその配下の農兵からなる正規兵で戦おうとした。
 こうしてどちらが後継者としてふさわしいか、つまり後継の正当性は軍事力によって決着がつけられることになった。そして勝敗の行方は、中央政権を代表する大友皇子が既成の律令体制に基づく地方勢力をどれだけ結集させることができるか、大海人がその中央政権から地方勢力をどれだけ離反させることができるかによっていた」
 「戦いは戦いでも、統一国家の形成を進めるヤマト王権と、それに従属するのを嫌い、独立を志向した地方政権との間に生じたその前の戦いとは性格が大きく違っていたわけですね?」


六章 六七六年春 15

 「そうなんだ。共に大王家の一員という中央権力の担い手同士が、一方は律令体制によってできあがりつつある統一勢力を率い、既存路線の踏襲を図ろうとして、他方は律令制による統一国家づくりに不満を持つ地方勢力を動員し、既存路線の変更を求めようとして始めた戦いだった」
 「この対立にはどんな背景があったの。いつごろからなのかしら?」
 「背景にあったのがさっきいった王権の失政だよ。一番大きなものは、倭国が韓土百済国の救援要請に応じて対半島戦争に乗り出したことだ。朝鮮半島に高句麗・新羅・百済の三国ができて以来、倭国が最も親しい関係を築いてきたのが百済だったが、その百済の滅亡を知らせる早馬が、六六〇年八月半ば筑紫から飛鳥にもたらされた。一か月半前の六月末、百済の王城が唐高宗の勅命を受けた新羅国武烈王の軍勢五万の攻撃を受け、その一か月後には百済国の義慈王(ぎじおう)が捕虜になったという。
 早馬の報告から半月たった九月初め、百済の使者が難波に到着し、懇願した。百済国はまだ滅亡していない。遺臣の鬼室福信(きしつふくしん)等が挙兵し、首都泗沘城(しひじょう)の奪還を計画中なので、倭国の援助が欲しいと。一〇月半ばには、その鬼室福信が使者を寄越して百済救援と倭国に人質として滞在している義慈王の子、余豊璋(よほうしょう)を新国王に迎えたい旨を正式に要請してきた」


六章 六七六年春 16

 「倭国はこの要請を受け入れたのですね?」
 「そうだ。依頼は、倭国にとって百済国を支配下に置く千載一遇の好機だった。そして推古以来進めてきた、唐と対等の国づくりをさらに加速させるビッグチャンスに思えた。すでに老いた母、斉明に代わって皇太子のまま政務を担当していた中大兄皇子、後の天智はそれを実現しようと軍事行動を決意した」
 「海外派兵をするにはたくさんの兵士・軍事物資・軍船が必要でしょ。大変なことだったのではありませんか?」
 「その通り、準備に手間取った。人質余豊璋を百済の新国王に任じ、五千名の兵士を付けて送り出したのは、翌年六六一年の九月だった。救援の第一陣が一七〇艘の軍船と共に百済国に派遣されたのが翌々年の六六二年五月だ。
 第二陣の派兵にはさらに時間を要した。大量の軍船を建造し、水兵の訓練を行い、さらに大規模な軍団を編成しなければならなかったからね。その作業が完了したのは一年後の六六三年三月だ。この時、前・中・後三軍編成の大軍が大量の軍船と共に送り出された」
 「全体でどのくらいの数だったの?」
 「恐らく動員された兵士の数は四万、軍船は四〇〇を越えたはずだ」


六章 六七六年春 17

 「中大兄政権が決定したこのとてつもない規模の軍事行動に駆り出されたのが、地方豪族とその民だったというわけですね?」
 「大量の軍船の調達を命じられたのは駿河国と安芸国の豪族たちだった。陸兵・水兵となる農夫・漁夫の徴集、軍事物資や食糧の供出を請け負わされたのは、最初は九州・四国・中国の西国地域の豪族たちだったが、やがては東国、さらには遠く陸奥の豪族たちも自ら徴集した兵士を率いて韓土に渡った。
 結果はしかし悲惨なものだった。倭国軍には第一陣、第二陣共に全体を統括する指揮官が存在しなかったし、百済軍との十分な連携も取れていなかった。そうした状況の中で倭国軍は豪族軍を単位に、唐・新羅の連合軍と戦わねばならなかったのだ。数多くの兵士が戦死したり、唐軍や新羅軍の捕虜になったりした。
 決戦となったのが六六三年八月二七・二八日、白江(錦江)河口、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)で行われた海戦だったが、それも惨憺たる結果に終わった。倭国の軍船は四〇〇艘強、対する唐船は一七〇艘、数の上でははるかに勝っていたが、慣れない水域で明確な作戦、指揮系統の統一もなかったために、倭国海軍は右往左往するばかりだった。軍船のほとんどが唐船から打ち込まれる火矢で焼かれ、兵士たちは燃え盛る船から河口に飛び込み、溺死した。


六章 六七六年春 18

 この水軍の敗北で戦いの大勢は決し、百済国復興の拠点だった周留城(するじょう)は唐軍に降伏、百済王余豊璋は船で高句麗に逃亡した。敗れた倭国が戦いで得られたものは何もなかった。残されたのは日本列島各地の豪族とその民の疲弊、それを強いた中央政権に対する強い恨みだけだったのだ」
 「たいへんな事件だったのですね?」
 「地方豪族とその民の犠牲・怨念は敗戦後もさらに続いたんだ。中央政府が列島各地に防衛施設の建設を始めたからだ。あれだけの時間と手間をかけて準備したのに、唐はそれをいとも簡単に打ち砕いた。途方もない力を持つ帝国だった。その帝国の軍勢が朝鮮半島を支配下に置いたあと、日本列島にも押し寄せたらひとたまりもない。唐の侵略に対する恐怖感は大きかった。中大兄政権は敗戦の翌年、六六四年には対馬・壱岐・筑紫などに防人(国境警備隊)と烽(とぶし・のろし台)を設置、さらに筑紫には水を蓄えた防御施設、水城(みずき)を建設した。
 翌年六六五年には唐の態度に変化が現れる。半島の安定をめざし、倭国に和親条約の締結を求めてきた。ヤマト政権はこれに応じたが、それによって唐軍に対する恐怖が消えることはなかった。中大兄政権はこのあとさらに警戒を強め、亡命した百済官人に命じて大宰府の北と南に二城、長門に一城、朝鮮式山城、つまり防衛線を突破された時に避難する逃げ城を築かせるんだ。


六章 六七六年春 19

 六六七年には対馬に金田城、讃岐に屋島城、さらに大和と河内を区切る生駒連山には高安城を建設し、列島最前線の離島から飛鳥の宮殿までを結ぶ重要拠点に次々と防衛施設を整備した。
 同じ六六七年、中大兄政権は国土の防衛機能をさらに高めようと、王都を近江の大津に遷都する。近江はヤマト王権の畿外の地だ。これまで王権は畿内国(うちつくに)の中で遷都を重ねてきた。それになじんだ大和人は近江遷都には強い抵抗を示したが、中大兄はそれを押し切って実行に移した」
 「確かここ近江の大津宮で即位して中大兄皇子から天智となったのでしたね。中大兄・天智政権はこういう倭国防衛事業に何も負担をしなかったというのですか?」
 「そうなんだ。防衛施設の建設や遷都はいずれも長期に亘る大工事で、巨額な資金、資材、そして数千から数万の人員が必要だった。中央政権はそれを全て地方の豪族やその民に押し付けたのだ。だからこそ彼らの不満・恨みは積りに積もっていたんだ。大海人は中大兄・天智政権、さらにその後継政権に対する地方豪族の、この不満・恨みを、とりわけ東国を中心に汲み上げ、勝利の暁にはそれを解消する制度や政策を実行するという約束のもとに、軍団の編成を促したわけだ」


六章 六七六年春 20

 「手応えは十分にあったわけですね?」
 「六七二年六月、吉野と東国との間で行き来を繰り返していた舎人たちが、現地の準備はほぼ整った、指令さえあればいつでも兵の動員が可能だという報せを持ってきた。六月二二日、練りに練ってきた挙兵計画がついに実行に移される時が来たのだ。
 手始めは戦いの拠点、美濃穴八磨評(あはちまのこおり)の湯沐令(ゆのうながし)に対する動員令の発令だった。大海人は美濃出身の舎人三人に多臣品治あての動員勅書を持たせ、兵を徴集し、遅くとも二六日中に美濃と近江の国境にある要害の地、不破道(ふわのみち・不破関)をおさえるよう命じた。
 また美濃に向かう東国街道に接する伊賀阿拝評(あへのこおり)の豪族、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)に対して、直ちに兵を集め、積殖山口(つむえやまぐち)の安全を確保しつつ東国街道と湖南を結ぶ倉歴道(くらふのみち)をかためるよう命令を下した。さらに大海人は近江を逃げるように去った時、湖東に残してきた息子高市皇子(たけちのおうじ・一九歳)に舎人を送り、自分たちは六月二四日には吉野を立つ、二五日までに倉歴道を通って積殖山口に出、ワレらの到着を待てと伝言させた」


六章 六七六年春 21

 「高市皇子の近江からの脱出はうまくいくのですか?」
 「うん。皇子の合流は大きかった。彼はその後の近江朝軍との決戦で総軍司令官に任命され、作戦と指揮に当たることになる。問題は遷都以前の都城の地、倭京だった。遷都後人々はここを倭古京(やまとこきょう)と呼ぶようになっていたが、勝利を確かなものにするにはこのかつての王都を手中にし、そこから北上して近江大津を制圧しなければならなかった。しかし倭古京には近江朝配下の留守司(るすし・とどまりまもるつかさ)高坂王(たかさかおう)が君臨していた。
 大海人の味方で、それに対抗できる勢力といえば、飛鳥を本拠とする大伴連馬来田(おおとものむらじまくた)・吹負(ふけい)兄弟しかいなかった。大伴兄弟は近江朝から疎んじられ、大海人の吉野行きと前後して飛鳥京に戻っていた。連絡に当たった舎人の報告では、兄の馬来田は途中から大海人に同行し、弟の吹負が挙兵するという。しかし吹負が動員できる一族の兵は限られていた。大海人は後日挙兵の時期を知らせると同時に、軍勢の確保ができ次第増援軍を送ることを二人に伝えさせた」
 「吉野脱出の手配はこれで整ったわけですね?」
 「六七二年六月二四日、午前一〇時半、大海人は讃良、草壁・忍壁皇子、二〇余人の舎人、一〇余人の女人を連れて宮滝を出発し、ゆっくりとした足取りで東国美濃を目指した。護衛はすでに馴染みとなった地元の山人国栖(くず)族、吉野・宇陀の豪族とその私兵五〇人程だった。


六章 六七六年春 22

 「それでも不安だったでしょうね?」
 「吉野から八〇キロほど先の伊賀国積殖山口まで到達できれば、安全は約束されたも同然だった。積殖山口は評督(こおりのかみ)であると同時に国宰(くにのみこともち)の代理を兼ねていた紀臣阿閉麻呂の本貫地だったからね。そこまでは用心しなければならなかった。一行は大和の宇陀を通り、畿内の東端、隠(なばり・名張)を越えて伊賀盆地に入った。日付は二五日になっていた。ここで伊賀国評督が、五〇〇の正規兵を率いて大海人軍に合流した」
 「正規兵の参軍は心強かったことでしょうね?」
 「朝六時、大海人軍は積殖山口に到着し、近江を脱出してきた高市皇子と、兵五〇〇を動員した阿閉麻呂に迎えられた」
 「兵力が一千になったわけですか」
 「大海人は兵二〇〇を、近江に通ずる倉歴道の守備に残し、八〇〇強の兵士を率いて加太越(かぶとごえ)から鈴鹿山脈を越えて、伊勢国の鈴鹿評に入った。ここで多臣品治が美濃から送った兵数百名が合流した。鈴鹿川沿いの本郷では、伊勢国宰の三宅連石床(みやけのむらじいわとこ)とその補佐三輪君子首(みわのきみこびと)が正規兵千名を連れて出迎えた」
 「軍団は一気に二千に増えたんですか?」
 「大海人は三輪君子首を鈴鹿に留め、伊勢国における軍団編成を任せると同時に、自らは近江からの敵軍侵入を防ぐ手当てをした。鈴鹿には途中倉歴道に合流して近江とつながる鈴鹿山道がある。近江からの進撃を食い止めるには、この山道をふさいでおかねばならなかった。大海人はそこに五〇〇の兵士を配置させた。


六章 六七六年春 23

 六月二五日夕刻、一行は三重評家(こおりのみやけ)に着き、仮眠をとった。吉野出立以来、初めての休息だった。六月二六日早朝、大海人軍は一千五〇〇の兵士と共に北上して桑名に向かった。桑名の手前、朝明(あさけ)まできた時だった。美濃の多臣品治のもとにつかわされていた舎人、村国連男依(むらくにのむらじおより)が馬を飛ばしてやってきて報告した。美濃国軍三千が命令通り不破道をおさえたこと、さらに美濃国の豪族たちが次々と不破道に兵を寄越し、兵員は間もなく倍の六千に達するだろうと」
 「それはそれは朗報でした」
 「大海人は高市皇子を不破道にやって指揮をとらせると共に、東海・東山両道の諸国、三河、遠江(とおつおうみ)、甲斐、信濃国の国宰に動員の勅書を送った。
 一行は桑名に到着すると、ここの評家で宿営した。桑名は吉野から一四〇キロ、揖斐川・長良川・木曽川の三大河川が集まる河口地帯に位置し、伊勢と尾張を結ぶ水上交通の要衝の地だった。ここには伊勢国の兵五千と尾張国の兵二千が集結してきた。
 これによって倭古京に向けて制圧の援軍を送る目途が立った。大海人は同行してきた大伴連馬来田に対し、弟の吹負に伝令を送り、飛鳥で挙兵するよう命じた。
 桑名は東海道・東山道にも連絡していて、両道諸国の兵を集めるのに適していた。また豊かな後背地を抱えていて、武器・食糧の確保にも最適だった。大海人は紀臣阿閉麻呂に三千の兵を与え、ここ桑名に留まりそれらの任に当たるよう命じた。


六章 六七六年春 24

 六月二七日午後、大海人は后の讃良と皇子たちを桑名に残し、四〇キロ北の美濃国の不破評家に移動、翌二八日ここ不破評家で、尾張国宰、小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が動員した尾張国軍一万を自軍に編入した。この一万の正規兵は最初、鉏鉤が近江朝の命令で動員した兵力だったが、大海人の幼馴染の豪族、尾張大隅(おおすみ)と尾張宗家の説得によって大海人軍に加わることになった。もしこれが予定通りに近江朝軍に編入され、大海人軍の背後から襲いかかることになれば、戦いの帰趨はわからなかったはずだ」
 「尾張国の昔馴染みの豪族たちが果した役割は、とびきり大きかったのですね」
 「六月二八日、大海人は不破評家から西へ徒歩三〇分程の野上(のがみ)に移動した。ここはまさに不破道をおさえる要衝の地で、彼はこの地に行宮(かりみや)を造り、作戦本部にすることを決定した。
 大海人は軍を二方面に分けて近江を攻撃しようとした。一つは不破道から湖東と湖西に分かれて大津に向かう近江路軍、今一つは鈴鹿から倉歴道、伊賀から倭古京をそれぞれおさえて近江に出る東道軍だ。前者の近江路軍に対しては地方豪族の子弟である舎人たちを将軍(近江路将軍)に、後者の東道軍に対しては大王家の官人をつとめた畿内豪族たちを将軍(東道将軍)にそれぞれ任命した。いずれも大海人と苦節を共にしてきて、近江朝に対する激しい敵愾心と勝利へ向かうあくなき闘争心を持った逸材ばかりだった。


六章 六七六年春 25

 近江路軍に編入されたのは美濃国軍一万、尾張国軍一万の計二万、東道軍に組み入れられたのは尾張国軍二千、伊勢国軍と伊賀国軍合わせて一万の計一万二千、両方面軍を合わせると三万強だったが、戦いが始まるころには東海・東山両道諸国の兵五千がこれに加わることになった」
 「大友皇子を最高指揮官とする近江朝軍の様子はどうだったのですか?」
 「大津宮が大海人の吉野脱出を知ったのは六月二五日夕刻、伝えたのは倭古京の留守司高坂王(たかさかおう)の使者だった。この時大海人一行は伊勢国の三重評家にいて、丸一日かけた脱出行のあとの最初の休息を取っていた。
 報告を受けた大友皇子は、大海人が吉野を出て東国に向かったことが天智が築き自分が受け継いだ中央集権国家に対する反乱だとは最初考えもしなかった。しかし宮廷に足を踏み入れると、内部はいつもと違う異様な雰囲気に包まれていた。その異様さを感じ取った時、大友皇子は大海人の宮滝脱出の意味を悟った。これは間違いなく、近江朝を倒そうとする挙兵であると」
 「どういうことだったのかしら?」


六章 六七六年春 26

 「近江朝はこれまで地方人の怨嗟を買うようなことを平気で続けてきた。いつかはそれが怒りのマグマとなって爆発するのではないかと気付きつつも、自分を初め群臣たちは高を括ってきた。しかし下々に近い下級官人や女人たちにはそれが現実のものとなる予感がはっきりとあったのではないか。宮廷内で見た彼らの異常なまでの慌てふためき方はその予感が的中した衝撃を物語るもの以外の何物でもない。不覚だがそれを認めざるをえない。大友皇子はそう諦念したのではないか」
 「それで近江朝はどうしたのですか?」
 「近江朝としては直ちに大海人に対抗するための軍事行動を起こさねばならなかったが、重臣会議は紛糾した。分裂した意見の中で有力だったのは、すぐにも騎兵軍を編成して反乱軍を追撃するという案だった。しかし大友皇子がこれを受け入れなかったんだ。彼が選んだのは、父が建設を始めた国(くに)―評(こおり)制という地方行政機構を通して大量の正規兵を動員し、大海人軍を殲滅しようとする作戦だった。
 近江朝は動員使に大友皇子の勅書を持たせ、各地の国宰に兵の動員を命じた。命令を受けた国宰はその配下の評督・豪族に兵を集めるよう指示した。しかし東国の兵はすでに大海人軍におさえられていたし、西国はそれぞれ口実を設けて派兵を渋った。国宰が評督・豪族を通じて動員できたのは畿内諸国だけ、しかもそのうちの大和国と河内国の評督・豪族たちは反近江朝、親大海人だったというわけで、動員は遅々として進まなかった。動員できたのは近江・山背・丹波・播磨・但馬・摂津六国の兵一万九千、それに舎人で構成された親衛軍二千、合わせて二万余だった」


六章 六七六年春 27

 「大海人軍は確か三万強とおっしゃいましたね。近江朝軍は正統政府軍でありながら、動員兵力は反乱軍に遠く及ばなかったというわけですか」
 「数が少なかったというだけでなく、士気も低かったようだ。正統軍とはいえ、人々の怨嗟に晒されていては士気の高揚は期待できるわけがないからね」
 「戦いはどうやって始まったの?」
 「戦闘の口火が切られた場所は大和国、倭古京だった。大海人の挙兵命令を受けた大伴連吹負(おおとものむらじふけい)が一族郎党六五名を率いて留守司高坂王の屋形を占拠し、小墾田にある近江朝の武器庫をおさえた。この報に接した大和国の豪族たちがそれぞれ兵士を連れて集まり、七月一日には吹負を将軍とする一千名の倭古京軍となった。
 この吹負軍をたたこうと、近江朝は二方面から軍団を送り込んだ。一つは西の河内から進撃する、将軍壱伎史韓国(いきのふびとからくに)率いる軍勢三千、今一つは山背から南下する、将軍大野君果安(おおのきみはたやす)率いる軍団二千だ。倭古京軍の士気は高かったが、二方面に展開する圧倒的多数の近江朝軍の前になす術もなかった。吹負軍は敗走し、七月四日には消滅の一歩手前まで追い込まれた。
 その窮地を救ったのが、七月五日夜明け前に墨坂(すみさか)に到着した千余騎の東国の騎馬隊だった。この騎馬隊を送ったのは東道将軍の一人、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)だった。阿閉麻呂は七月二日、大海人が野上の行宮で下した総攻撃の命令に従い、桑名に次々と集結する東海・東山道諸国の兵を加えつつ五千の大軍を率いて鈴鹿方面に進軍を開始した。騎馬隊はその大軍の精鋭だったんだ。


六章 六七六年春 28

 東国の騎馬隊の破壊力はすさまじかった。七月八・九日にかけて吹負軍は当麻(たいま)で三千の韓国軍を撃破し、河内国へ追いやった。当麻の決戦で大勝した吹負軍は七月一一日、次々と送られてくる東道軍の増援部隊を編入し、山背国との国境、乃楽山(ならやま・平城山)に集結した近江朝南下軍三千との決戦に向かった。戦いは上ツ道・中ツ道・下ツ道の三道で繰り広げられた。いずれも激戦だったが、東国兵の威力が勝り、近江朝軍は壊滅的な打撃を受け、敗残兵は近江に逃げ帰った。
 この時すでに近江朝側には飛鳥を奪還するための兵を送る余裕はなくなっていた。大海人の近江路軍が、大津宮の玄関口、瀬田橋からわずか一三キロの安河(やすのかわ・野洲川・やすがわ)まで攻め下っていたからだ」
 「主戦場となった近江での戦いは?」
 「主力部隊同士の戦いは湖東で、別働隊による戦闘は湖西と倉歴道(くらふのみち)でそれぞれ繰り広げられた。七月一日、琵琶湖の西岸から大津宮を攻撃する別働隊二千が不破道から湖西に向けて進撃した。翌二日、舎人村国連男依(むらくにのむらじおより)率いる近江路軍二万が大津宮をめざし、不破道から湖東へと進軍を開始した。
 近江朝側も不破道の大海人軍を攻撃しようと、犬上川(いぬかみがわ)に集結させた一万の軍勢を出陣させる。しかし途中内輪もめで将軍山部王(やまべおう)が殺害され、手を下した将軍蘇我臣果安(そがのおみはたやす)が自決した。さらに部将羽田公矢国(はたのきみやくに)が一族や部下を連れて大海人軍に帰順する事態が起こり、進軍は中止されてしまう。
 七月四日、近江朝軍は兵二千五〇〇を投入し、倉歴道経由で鈴鹿を攻撃する。しかしここをおさえる東道将軍の一人、多臣品治の大軍の前に敗退を余儀なくされる。


六章 六七六年春 29

 このあと男依軍の快進撃が始まる。七月六日息長(おきなが)の横河(よこかわ)、九日鳥籠山(とこのやま)、一三日安河で大友軍と激突、いずれの戦いにも圧勝した。東海・東山道諸国の増援軍が武器・食糧と共に補給され、男依軍は常に二万の兵で戦い続けることができたからだ。
 七月一七日、安河で休息し、遠江国(とおつおうみのくに)・駿河国の増援部隊と武器・食糧の補給を受けた近江路軍は、大津宮に迫る瀬田橋の東方四キロの地点で布陣。この時湖西を進撃してきた二千の別働隊は三尾城に、倭古京軍五千は山崎に近づいていた。さらに多臣品治・紀臣阿閉麻呂が率いる東道軍も倉歴道を越えて大津に向かっていた。
 瀬田橋には親衛軍二千を中心とする大友軍一万が、最後の悲愴な戦いに備えていた。七月二二日、瀬田橋をめぐる激しい攻防の末、東国軍は近江大津宮目前まで迫った。翌二三日、男依軍一万五千、湖西方面軍二千が、近江朝軍五千に襲いかかった。その猛攻に親衛軍は壊滅、農兵は四散した。
 大津宮に侵入した東国軍は建物に火を放った。長等山(ながらやま)の山中に逃れた大友皇子は最後に残った宮殿と東院の炎上する様を見ながら自決し、二五年の生涯を閉じた。こうして一か月に亘った壬申の乱は終結する。そしてヤマト王権の正当な継承者は地方の支援を大きく受けた大海人に決まった」
 「王権継承の正当性が、多数者が支持するかどうかによって決まったというわけですね」


六章 六七六年春 30

 「七月二六日、近江路軍・東道軍・倭古京軍の全将軍・全部将が野上の行宮に集結。勝利の宴は七月一杯続いた。八月一日大海人は、野上に集まっていた豪族たちが生き残った農兵たちを連れて故郷に帰って行くのを、いつまでも見守った。
 見送りながら、大海人は考えていた。どの地方もすべからく安堵させる、どの地方の人々をもことごとく安寧にする中央集権国家づくりをめざさねばならない。そのためには統治者は天のような大きな心を持つ存在でなければならないだろう。それを表すために君主号をこれまでの大王にかえて天皇、和訓でスメラミコトと呼ばせることにしよう。
 さらに新君主号天皇によって統治される国家は、日の光が全ての地方に降り注ぐ豊穣の地、日の本の国とならねばならない。これからは国号を、従来の倭国にかえて日本とすることにしようと。この新天皇号・新国号構想は、天武が私に古事語をつくれと命じられた時に語った話なんだ」
 春の陽は畝傍山(うねびやま)の方に傾いていた。二人は立ち上がり、西の谷筋にそってつくられた連絡橋を通って官営工房をあとにした。