目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
六章 六七六年春 17
六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
六章 六七六年春 25
六章 六七六年春 26
六章 六七六年春 27
六章 六七六年春 28
六章 六七六年春 29
六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
奥付
奥付

閉じる


四章 六七五年初春

四章 六七五年初春 1

 四章 六七五年初春


 

 初春の一日、阿礼と由衣は法号を法興寺、土地の人々から飛鳥寺と呼ばれている真神原(まかみがはら・まかみのはら)の伽藍に遊んだ。二人は甘樫丘から飛鳥川を渡り、西門より寺の伽藍に入った。回廊にそって南に向かうと中門があり、その正面に釈迦の骨と称する舎利を納めた塔が聳えている。その塔を中心に、東・北・西の三方に金堂が配置され、回廊がそれらを囲んでいる。
 二人は北に位置する中金堂に安置され、飛鳥大仏として親しまれている釈迦如来坐像を眺めたあと、回廊の北向こうにある講堂に向かった。講堂の屋根は平瓦を並べて、間に半円筒形の丸瓦を伏せた本瓦葺で、瓦屋根のかなたには香具山がなだらかに横たわっている。それを眺めやりながら、阿礼は由衣に法興寺の由縁を語り始めた。
 「飛鳥寺は今は官寺(勅願寺・ちょくがんじ)となり、国家の寺院として王権によって管理されているが、もとはそうではなかった。あの蘇我本宗家が一族のために建立した氏寺だったのだ。これが造営されるまで、この国には仏教寺院は一つもなかった。そもそも仏教自体が公に認められた宗教ではなかったんだ。


四章 六七五年初春 2

 仏教(仏像・経巻)が百済経由で倭国に入った時、大王であった欽明(きんめい)はそれをどう扱ったらいいか群臣に意見を求めた。
 朝鮮半島諸国はすでにそれを礼拝している。倭国もまたそれに倣うべきだと崇仏(すうぶつ)論をとなえたのは、開明派の大臣蘇我稲目(おおおみそがのいなめ)。それに対し、仏教は蕃神(あだしくにのかみ)、それを信じれば国つ神、すなわちわが国古来の神々の怒りを買うと排仏(はいぶつ)論を主張したのが、守旧派の大連物部尾輿(おおむらじもののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)だった。
 両派の対立は激しかったらしい。決めかねた欽明は受け入れを熱望した稲目に仏像と経巻を預け、稲目が個人的に仏教を信仰することを許可した。稲目は大王から預かった仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置して礼拝し、向原(むくはら)の家を寺として仏道に励んだという。
 こうして仏教は稲目の個人的な信仰としてこの国に入ったんだ。これを世間に広めたのが稲目の子、馬子(うまこ)だった。馬子は自邸に仏殿をつくり、百済から請来した弥勒石像を安置して信仰すると同時に、各地に舎利を納める堂塔を立て、大規模な法会を開催して仏教の社会的認知をはかろうとした」
 「排仏派はこのやり方に反発したでしょうね」
 「激怒した。時の大王敏達(びだつ)を動かして仏教を禁止させ、馬子の建立した塔を倒し、仏殿・仏像を焼くという破仏(はぶつ)行為に出た。それ以来崇仏派と排仏派の対立はエスカレートし、用明(ようめい)期には沸点に達した。


四章 六七五年初春 3

 用明が病を得ていまわの際に、居並ぶ群臣を前にして仏教への帰依を表明し、その是非を問うた時だった。崇仏派と排仏派の間に激論が巻き起こり、それがついに蘇我馬子(そがのうまこ)勢と物部守屋(もののべのもりや)勢の武力抗争に発展したんだ。
 激しい戦いの末に勝利をおさめたのは馬子側だった。馬子は物部勢の猛攻にさらされた折、勝利の暁には寺塔を建立すると誓願した。戦勝はそのおかげだとして、馬子によって造営されることになったのが、この飛鳥寺なんだ。
 当時、倭国には寺院を立てる人もいなかったし、その技術もなかった。馬子は技術の指導を百済に仰いだ。百済はその要請に応えて、仏舎利・僧侶と共に寺工(てらのたくみ)・瓦博士(かわらのはかせ)などの技術者を送って寄こした。これによって寺院の造営が現実のものとなった。それが五八八年のことだという。仏像と経巻がこの国にもたらされてから半世紀後のことだ。
 寺地は蘇我本宗家の根拠地、飛鳥真神原、今飛鳥寺が立つこの場所だ。伽藍配置のモデルは高句麗の〈一塔三金堂式〉、造営指導者は百済人を初め、中国人やペルシア人を含めた国際色豊かなチームだった。造営は金堂と回廊から始まり、五九六年に塔が完成、六〇六年に仏像ができて中金堂に安置された。造営の開始から完成まで、一八年の年月がかかっている。この飛鳥寺の建立を契機にして、大王家や氏族の手によって次々と寺院が造営されるようになり、仏教はこの国に一気に広がっていく」


四章 六七五年初春 4

 「仏教がこの国に入るのに、そんな苛烈な戦いやうれしくなるような国際協力があったとは想像もしませんでした」
 「その仏教の隆盛と共に、それを支えた蘇我本宗家はヤマト王権の中での地位を確立し、倭国の統一に指導力を発揮していく。そして飛鳥に、その統一をめざす歴代の大王の宮殿を建設しつつ、自らの本拠地を王城の地にかえていくんだ。その蘇我本宗家が馬子の子、蝦夷(えみし)と、その子、入鹿(いるか)の時代に、王権によるクーデターで一瞬のうちに消滅してしまう。彼らの氏寺、この飛鳥寺も今日のような勅願寺にされてしまう。
 本宗家の消滅は自業自得だといえばそれまでだが、彼らが王権の確立、倭国の統一、さらには仏教の受容に果たした役割は途方もなく大きい。その営為のかけがえのなさを王権は忘れてはならない。この事件をこの間いった神話のヨコ糸として使いたいんだ。そのために、つい三〇年前、六四五年六月に起きた〈大化のクーデター〉、〈乙已の変(いっしのへん)〉を振り返ってみたいと思っているのだ」
 阿礼の言葉を引き取って、由衣が口を開いた。


四章 六七五年初春 5

 「出雲では、あの事件はこんなふうに語られていたように思います。舞台は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の内裏正殿を前にした内庭、女帝皇極が正殿に出御し、朝鮮新羅使の挨拶を受け、彼らが持参した調(みつき)を受け取る朝貢の儀式の真っ最中、臨席した時の最高権力者大臣、蘇我本宗家の長子、太郎入鹿が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)を初めとする反蘇我本宗家勢力によって斬殺された。そして翌日入鹿の父、蝦夷が飛鳥甘樫丘にあった本宗家の全ての屋形に火を付けさせ、その火炎の中で自決するという凄惨で苛烈な事件となった。
 事件の背景にあったのは大王家と大臣の地位を独占し続けた蘇我本宗家との積年の対立。皇極期に比類なき権力を握った蝦夷・入鹿父子がついに天子だけが持つはずの権限を誰はばかることなく行使するようになった。その専横行為を放置すれば、一国に二人の王がいるような事態になる。それを食い止めようと大王家の王族と忠臣が団結して蘇我本宗家を倒したものである、と」
 「現実に起きた事象から見れば、そのいい伝えは間違ってはいない。でも底流にはもっと大きな力が働いていたように思えるんだ。端くれでも語り部の一員であってよかった。ありがたいことに、あの事件を今でも生き生きと語れる人々がいて、彼らからいろいろと教えてもらうことができた。それを総合するとこうなるんだ。


四章 六七五年初春 6

 大化のクーデターは六四五年、干支(かんし)では〈乙已(いっし)〉の年に当たっているので、乙已の変と呼ばれるんだが、これは統一国家の中央集権化を一気に進めようとしていた倭国が、その支配者として誰がふさわしいかを改めて世に問うた事件だった。つまりこの国の支配者として、三世紀の連合王権以来祭祀権を継承し続けた大王家が正当性を持つのか、それとも六世紀代から政治・軍事という実質的な統治役を何代にも亘って担い続けた中央豪族で大臣の蘇我本宗家がふさわしいのか、それを再確認した出来事だったのだ。
 結果として大王家を代表する王族中大兄皇子と官人中臣鎌足が大臣蘇我蝦夷・入鹿親子を倒し、この国の支配権を再び大王家に戻すことになるんだが、あの事件は国内の事情だけではなく、中国大陸と朝鮮半島で起きていた国際的な出来事と深く結びついていたんだね。いや国際的な出来事と関連があったというだけでなく、それをありありと伝える情報センターが飛鳥の都に出現したということによると思うんだ。
 七世紀初頭、推古期の六一八年、中国大陸に隋をはるかにしのぐ先進の帝国が出現した。唐王朝だ。唐は支配領域の拡大を進め、一〇年後の六二八年には中国全土を統一した。倭国はこの時すでに推古期から舒明(じょめい)期に移っていたが、その舒明朝がこの中国の新王朝と遣唐使による国際交流を開始した。これによって留学生が先進帝国唐に次々と送り込まれ、やがて国づくりの新しい知識を学んだ学業成就者が帰国するようになった。


四章 六七五年初春 7

 そして六三〇年代後半から六四〇年代(皇極期)にかけて帰朝した学問僧たちが、ヤマト王権の有力群臣やその子弟たちにその成果を伝える、出張授業が盛んに行われるようになった。さらには常設の講堂も複数つくられ、飛鳥には東アジア情勢を伝える一種の学術サロンが花開いたんだ」
 「飛鳥人を沸かせたものは何だったのですか?」
 「サロンの学問僧が伝えた知識の中で多くの学徒の関心を引いたのが、唐の政治制度だった。新王朝唐の統治者は天子―神祇(じんぎ)の最高司祭者―であると同時に、皇帝として政治的権力を一手に握る存在で、しかも彼が律・令という法によって国家を組織している。それによって唐は広大な大陸を支配する帝国となり、今その支配の手を朝鮮半島にまで及ぼしつつあるという内容で、これを聞かされて驚かない者はいなかった。
 講堂で語られる朝鮮半島の情勢も学徒の注意を喚起しないではおかなかった。六四〇年代、唐の膨張は朝鮮半島に及び、新羅は唐と密着して他の二国に攻め入ろうとした。それに対して百済は、現王が政治的権力を一手に掌握する体制を、高句麗は、貴族(大臣)が国王を殺害し新王となって政治・軍事の権力を一手に握る体制をつくって互いに連携し、唐・新羅連合に対抗しているという。


四章 六七五年初春 8

 それに比べてどうだろう。この国の統治は神祇の最高司祭者である大王と、政治・軍事の権力を握っている大臣とに二分され、その均衡が今大きく崩れようとしている。現状のままでいいのか。学問僧たちが提供するこれらの話題は、倭国の有力群臣やその子弟にとっては特別の関心を引く情報・知見だったんだ。
 飛鳥に誕生したこの学術サロンに熱心に参加し、そこで講義される大陸・半島情勢の本質を理解すると共に、それを行動の起爆剤にした二つのグループがあった。一つはヤマト王権で政権を担う大豪族の子弟グループ、今一つは大きな私有地・私民を持たない中小官人の子弟グループ。前者の代表が蘇我本宗家の当主、大臣蝦夷の長子太郎入鹿、後者の象徴的存在が中臣鎌足、のちの藤原鎌足だった。いずれも舒明四(六三二)年に唐から帰国した学問僧、僧旻(そうみん・新漢人日文・いまきのあやひとにちもん)の薫陶を受け、その彼から頭脳の明晰さと学識の深さをうたわれた俊才だった」
 「入鹿と鎌足はサロンの双璧だったわけですね」
 「太郎入鹿は、己が一族はヤマト王権の躍進と倭国の統一に貢献することによって政治権力を拡大してきたのだと聞かされて育った。栄光の歴史の開拓者は入鹿の曾祖父で、六世紀中葉宣化(せんか)・欽明(きんめい)二代に亘って大臣として登用された稲目(いなめ)だった。稲目は王権の強化、倭国の中央集権化に欠かすことのできない租税(いわゆる公租公課)収取や財政処理の新しい手法の確立に取り組んだ。


四章 六七五年初春 9

 その成果をもとに、稲目は畿内を初め各地に朝廷の直轄地をつくり、それらを朝鮮半島からの渡来系氏族を使って管理させ、ヤマト王権の支配を各地に及ばせた。さらにこの稲目の代に、蘇我本宗家は娘を大王家に嫁しめて外戚(がいせき)となり、そこから政治力の発揮や王位の継承に大きな発言力を持つようになったんだ」
 「大王家は王位にありながら、それを継承する時に決定権を持っていなかったの?」
 「いつごろ、どんな理由で始まった慣習法なのかわからないんだが、大王あるいは王族は次期王位を決定する権限を持たなかった。前帝没後、新帝を決めるには大臣・大連(おおむらじ)・大夫(まえつきみ・たいふ)など群臣の推挙が必要だった。たとえ太子があらかじめ定められていても、これら群臣の介在のもと、彼らが剣や鏡などの王位を象徴する宝器を献上するという手続きを経なければ、新帝として即位することはできなかった。それほど群臣の力は大きかったんだ。そんな中から稲目は大王家の外戚となったのだから、王位継承に、さらには政治力の発揮に誰よりも大きな存在となったわけだ。
 その稲目の遺産を受け継ぎ、さらに一族の地位を固めて倭国の中央集権化を進めたのが、次の敏達期に大臣に新任した稲目の子、入鹿の祖父馬子だった。馬子は朝鮮三国や隋との外交を通じて大陸の政治制度を学び取り、反乱を繰り返してきた西国や東国の国造たちの地方支配にくさびを打ち込んで彼らの任命権を握った。その結果国造たちは競って自分たちの子弟を朝廷に送って采女・舎人として仕えさせ、ヤマト王権への服従を誓うようになった。


四章 六七五年初春 10

 馬子はこうして磨き上げた政治的手腕をもとに、敏達後の王位継承に力を発揮し、蘇我本宗家の血を受け継ぐ用明を誕生させ、大王が持っていた政治権力をほとんど自分の手に握ってしまう。そして用明のあと、同じ蘇我腹の崇峻(すしゅん)を誕生させるが、大王が自分に謀反を企てているとして、刺客を送って暗殺してしまう。その大王暗殺という異常事態の中で、馬子は三世紀以来の歴史を持つヤマト王権最初の女帝、推古を誕生させる。推古もまた蘇我本宗家の血を引いていて、彼女の政(まつりごと)は大臣馬子の手中にあった。
 こうして用明以後、大王は国政の小事を除く全ての政治的権力を失い、実質的には天神地祇(てんしんちぎ)を祭る最高司祭者としての地位をかろうじて保つ存在にすぎなくなったんだ。もちろん祭祀権は格としては政治権力よりも上位にあったが、その発揮は政治権力を握った者の意向に強く左右されるようになった」
 「馬子はついに、本宗家が大王家を手玉に取るところまで持ってきた……」
 「そのあとが続かなかったんだ。馬子の没後、蘇我本宗家の権勢に陰りが生じた。蘇我氏の内部で内紛が生じたからだ。そのきっかけは、大臣の位が馬子からその長子蝦夷に引き継がれ、結果として蘇我氏の族長権が父から子へと直系継承されたことだった。父子の直系継承は当時まだ定まったものではなかった。馬子の兄弟を初めとする蘇我氏分家の各支族がこの本宗家の専横に反発し、一族が分裂したんだ。分裂は蘇我本宗家の指導力の低下を招き、政権運営をめぐる群臣の意見の調整に大きな障害となった。


四章 六七五年初春 11

 それが際立ったのは王位継承の手続きの時だった。先にもいったが新帝の即位には伝統として群臣の推挙のプロセスが欠かせなかった。そのため群臣の頂点に立つ大臣の役割は重要だったが、病死した女帝推古から、中大兄皇子(天智)・大海人皇子(天武)の父となる舒明へと王位が引き継がれる時も、さらに舒明没後に王位が舒明の大后(おおきさき)であった宝皇女(たからこうじょ)、即位して皇極女帝(天智・天武の母)に継承された時も、満足のいく指導力を発揮することはできなかったんだよ。
 政治権力を一手に握った祖父馬子の時代の蘇我本宗家の実力を聞かされて育ち、さらに飛鳥の学術的雰囲気の中で学識を身に付けた蝦夷の子太郎入鹿にとって、このリーダーシップの低下は屈辱だった。入鹿は父祖の激しい気性を受け継いでいた。自らの屋形に招いた唐からの帰国僧、僧旻の個人教授を受けるにつれて、蘇我本宗家の指導力の回復を切望するようになった。
 いや指導力の回復だけでは満足できない。倭国を東アジアで起きている国際情勢に対応できる国家につくり上げるには、蘇我本宗家を中国王朝の天子であり皇帝でもあるような存在にする必要がある。
 現状では天神地祇の祭祀権を持つ者しか大王になれない。だからまずはその大王を圧倒する政治力と軍事力を握る。そのためには王族や有力豪族による合議政治を排して、蘇我本宗家の独裁政権を打ち立てる。そうすれば神祇の最高司祭者の地位はいつでも剥奪できる。その暁には天子と皇帝の双方を兼ねた新しい大王を誕生させることができる。


四章 六七五年初春 12

 この構想を実現するためには蝦夷・入鹿親子が共に政治権力の最高位につく必要があった。大化のクーデターの二年前の六四三年春、入鹿は父蝦夷を促して女帝皇極を動かし、自らを紫冠をいただく大臣に、さらに父をその上位の上(かみ)の大臣にさせた。
 こうしながら入鹿はまず、政敵を倒すことから始めようと考えた。その手始めとして目を付けたのが、王族の一人、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)だった。山背大兄は推古没後、後継を舒明と争い、蘇我腹であるにもかかわらず蘇我本宗家の支持を得られずに敗れ、さらに舒明没後にも継承権を皇極に奪われた王族だが、上宮王家(じょうぐうおうけ)と呼ばれた厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)の子として高い名声を持ち続け、入鹿の意のままにならない存在だった。
 入鹿はその山背大兄皇子が王位を奪い取ろうと武装を企てている。これを阻止しなければ取り返しのつかないことになる。そう流言し、動かしうる王族・豪族の軍勢を動員して飛鳥連合軍を編成した。
 連合軍は山背大兄とその妃・子弟が居を構える斑鳩宮(いかるがのみや)に火を放った。焼け出された一族はいったん生駒山中に逃れたが、逃げ切れず自分たちの氏寺、斑鳩寺に入って全員自決を余儀なくされた。こうして上宮王家一族は消滅する」


四章 六七五年初春 13

 「恐ろしいほどの執念、蘇我本宗家の血筋に由来するもの?」
 「この時入鹿は三〇代半ばを過ぎていた。入鹿の動きはこれから先さらに過激になるだろう。いずれは蘇我本宗家の意向にそわない群臣を一堂に集めて虐殺するという手に出るかもしれない。そう予測し、入鹿の前に立ちはだかったのが中臣鎌足だった。鎌足は推古二二(六一四)年生まれ、この時三〇歳。
 鎌足の氏名(うじな)、中臣は〈神と人との間に立ち、人と神との中を取り持つ臣〉に由来するといわれる。古い時代には占いを職業とし、時の流れと共に大王家の神事―天地の祭祀―に携わり、代々神祇長官としてつとめてきた一族だ。神祇長官は格式があっても一介の官吏、いかなる政治的権限もない。しかも鎌足は神祇長官中臣御食子(なかとみのみけこ)の養子だった。
 その鎌足が大豪族出身で大臣の入鹿に挑戦できたのは、六三〇年代後半から六四〇年代にかけて飛鳥に花開いた学術サロンのおかげだった。頭脳の良し悪しを基準にする学堂では、旧来の身分秩序は影をひそめる。ここで評価されるのは出自よりも学識の高さだった。神祇長官代理という肩書で僧旻の主宰する講堂に入った鎌足は、ここで研鑽を積み、師範代をつとめるほどの学識を深めた。


四章 六七五年初春 14

 これによって鎌足は飛鳥の学術サロンで一世を風靡すると共に、講堂で共に学んだ中堅氏族子弟の信望を一身に集め、彼らと身分を越えて親しく交際することができるようになった。鎌足はこの時代の飛鳥が生んだ新勢力、若き学友たちの強力なバックアップを背に、蘇我本宗家の野望を砕こうとしたんだ」
 「鎌足の行動力の源泉は本当に学術サロンにあったのですね」
 「鎌足の構想は、自分が支配者になることではなく、大王家に政治権力を握らせ、それを自らが駆使できる立場を築き上げることだった。そうすれば倭国を唐のような強大な国家につくりかえることができる。蘇我本宗家が政治権力を独占する前に事を運ばなければならない。乙已の変の前年、六四四年の正月、鎌足は皇極女帝から神祇の長官になるよう内命を受けるが、それを断り自由の身になって蘇我本宗家打倒計画を練り上げた。
 大王家と手を組むためには、柱となる王位候補者と近付きになる必要があった。鎌足は女帝を母に、亡き舒明を父に持つ一〇歳年下の中大兄皇子(後の天智)に目を付け、僧旻のあとに帰国した学問僧、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)の学堂で共に学びつつ、彼に唐の政治について、わが国の進むべき方向について自らの学識を教授した。
 唐では皇帝と呼ばれる王が絶対的な権力を握り、律令という法によって政治を行っている。それが唐の強大さの源になっている。倭国には律令体制はまだ無理かもしれない。しかし大王が唐の皇帝のように政治権力を掌握する体制をつくるのは唐突なことではない。この国に強力な中央集権体制を敷いていくにはそれ以外のいかなる方法もないのではないかと。


四章 六七五年初春 15

 そうした鎌足の問いかけに対して、中大兄皇子は打てば響くような答えを返した。中大兄には事態の本質を見抜く洞察力、計画を実行に移す気概がある。鎌足は次に飛鳥の学堂で同じような考えを持つ大王家の中堅官人や名門氏族の舎人たちを引き合わせた。若き学徒たちの中大兄観も悪くはなかった。
 さらに鎌足は、計画の実現には反蘇我本宗家の中で最大の財力と軍事力を持つ蘇我氏の支族、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の支援が欠かせない、それを勝ち取るには中大兄と石川麻呂の娘の結婚以外にないと判断し、その実現にこぎつける。その上で中大兄と石川麻呂に蘇我本宗家を打倒する計画とそれに対する自分の決意を告げたんだ」
 「どんなふうに?」
 「うん、『今われわれが挙兵しても、蘇我本宗家に勝てるだけの兵力を集めることはできません。軍事力を当てにできない以上、蘇我本宗家の野望を砕く方法は、太郎入鹿の暗殺以外にないのです。入鹿一人を殺害すれば蘇我本宗家を潰えさせることができます。独裁者を夢想し、それを実現できるだけの構想を持っているのは太郎一人だけですから。


四章 六七五年初春 16

 誅殺(ちゅうさつ)の舞台として皇極女帝の宮殿、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を選びたいと思います。現在新羅の使者が難波の屋形に滞在中です。彼らは百済と高句麗の圧迫を受けていて、それに対抗しようと倭国に軍事同盟を申し入れにきているのです。この新羅使を利用して儀式を準備したいのです』こういったんだ」
 「説得は成功したのですね」
 「その通り。この方法にしようということで三人の意見が一致し、儀式の日取り、つまり入鹿の暗殺日が六四五年六月一二日に定まった。そして石川麻呂が新羅使に密使を送って朝貢の儀式に参列させ、中大兄が女帝に手紙を書かせて入鹿を参上させるというそれぞれの役割が決まった。
 儀式当日、女帝は内裏正殿の軒近くに設けられた御座についた。中大兄の席は正殿前の内庭で、女帝に向き合うように腰をかけた。
 横には舒明と、蝦夷の妹法堤郎媛(ほほてのいらつめ)との間に生まれた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、少し離れた場所に石川麻呂がいた。新羅使一行の席はその背後にしつらえられ、刺客に予定された学友で宮廷警護長の佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)は最後尾に、同じく学友で副警護長の葛城稚犬養連網田(かづらきのわかいぬかいのむらじあみた)は変装して新羅使一行の中に紛れていた。
 鎌足は内の南門の傍らにある控えの間に隠れて太郎入鹿の到着を待った。


四章 六七五年初春 17

 じりじりするような時間が経過したあと、入鹿が姿を現した。南門をくぐるとそこは宮の内庭。いかなる高位者も内庭に入る時には刀をはずし、内の南門を警護する舎人たちに預ける決まりになっている。これまで入鹿はそれを無視してきた。
 この日もそのつもりで南門をくぐろうとした時だった。目のふちを猿の顔のように隈取った俳優(わざびと)が、まるで猿のような足取りで近寄ってきて、腰の刀を解くのを促すようなしぐさをした。足音を立てず言葉も発しない、見事な猿のしぐさ。それに飲まれるように、入鹿は吊るしていた刀をその俳優に手渡し、無腰のまま新羅使一行の傍らを抜けて、己の位置すべき場所を探した。しかし見付けられなかった」
 「入鹿は刀を渡してしまったことを悔いたでしょうね」
 「そう思った時、古人大兄皇子が場所を開けた。入鹿はほっとしてそこに座った。それが合図だったかのように、儀式が進行した。新羅使が上表文を読み始めた時、鎌足は舎人に目配せをして内の南門を閉じさせ、学友海犬養連勝麻呂(あまいぬかいのむらじかつまろ)に虐殺用の刀を運ばせた。入鹿の落ち着かない様子に苛立ち、最初に動いたのは中大兄皇子だった。彼は懐に忍ばせていた短剣の柄を握りしめながら一歩後退した。それをしおに最後尾の子麻呂が動いた。手渡された刀を抜き、入鹿の背筋をめがけて振り下ろした。計画を知らされていない新羅使が総立ちとなった。その時中大兄が短剣を抜き払って入鹿に体当たりした。


四章 六七五年初春 18

 転がった入鹿はよろめきながら立ち上がり、『何故だ』と女帝に詰め寄った。女帝から問いただされた中大兄が答えた。『入鹿が皇族を滅ぼし、王位を絶とうとしたのです』それを聞いて女帝は殿中に転がり込んだ。
 再び倒れ落ちた入鹿にとどめを刺したのは、手渡された刀を逆手に持ち、新羅使一行の中から走り出た網田だった。突き下ろされた剣は入鹿の背を貫き、玉砂利の層を深々と噛んで折れた。
 事が終了した時、鎌足は内庭に姿を現し、太郎入鹿の死骸の処理を命じ、中大兄皇子に女帝に代わって詔(みことのり)を出すように指示した。反蘇我本宗家の諸豪族がそれぞれ軍勢を率いて飛鳥寺に集結せよという旨の。
 長子入鹿を誅殺され、一族が建立した法興寺を押さえられた蝦夷には自死以外の道は残されていなかった。翌一三日、蝦夷は上の宮門(かみのみかど)と呼ばせた豪壮な自邸に火を付けさせ、燃え盛る火の海の中で自害した。ここに権勢を誇った蘇我本宗家は消滅した。乙已の変の終結だった」
 「巨大な障壁が一瞬にして崩れ去るような、すさまじい政変……」
 「この政変後、大王と群臣間の政治的関係が大きくかわった。これまで王位の継承に関しては群臣の推挙が必要だった。大王家はその慣例を廃止し、自らの意志で新帝を即位させることができるようになったんだ。


四章 六七五年初春 19

 蝦夷の自害の翌日、女帝皇極は譲位を決意し、後継者として中大兄皇子を選び、王位継承の意志があるかどうかを尋ねた。中大兄は鎌足に相談した。鎌足の意見はこうだった。中大兄はまだ若く先がある。皇極女帝と同腹の弟で、中大兄の叔父に当たる軽皇子(かるのおうじ)が適任ではないかと。中大兄が密かにそう申し出ると、女帝はそれに従い、軽皇子に譲位する詔を出した。ここに初めて譲位という、群臣の推挙を排した大王家自身による王位の決定が行われる。
 こうして即位するのが孝徳だ。孝徳はこれまで群臣に分散されていた政治権力を手中にし、改新政権として強固な中央集権体制づくりに向かう。孝徳からさらに、皇極が重祚した斉明と続き、そのあとに大化のクーデターの主役となった中大兄皇子が王位を継承して天智となるが、この時に彼は飛鳥の学堂で学び、いつかは実現したいと願っていた律令体制づくりを強力な政治力をもって進めていくんだ」
 「乙已の変はこの国の真の統治者は誰かという、これまで慣習にまかされてきた問題を改めて世間に問うた事件だったのですね」
 「こうやって振り返って見ると、あの時の国際情勢の大変化、それが生んだ飛鳥の学術文化は二つの流れをつくりだしたことになる。一つは、旧来の豪族が大王の権威を奪って帝国を形成しようとする流れ、今一つは、官人という新しい人種が大王に政治的権力を与えて律令国家の形成に向かわせる流れ。
 この二つがぶつかって大化のクーデターとなり、その成功によって大王家の再生が図られ、それを求心力とする新しい中央集権国家、日本がつくられていくことになるんだ。


四章 六七五年初春 20

 これによって旧いタイプの大豪族が消滅させられ、忘れ去られていく。でもね、仏教の隆盛といい、蘇我本宗家一族が日本国の発展に果たした役割はとてつもなく大きかったと思えてならないんだ。彼らの存在なしに、統一国家形成の礎は築けなかったろうし、統一国家の中央集権化もありえなかった。
 そうした役割を担った大豪族はほかにも数多くいる。その象徴として蘇我本宗家の最後の人物となったこの太郎入鹿を取り上げ、彼とその一族のかけがえのない痕跡を神話の形にしてとどめておきたいんだ」
 「どんな人だったのかしら」
 「入鹿は肩幅が広く、巨漢だったらしい。体毛は濃く、あご髭は硬かった。眼は異様に大きくて、眉は太く吊り上っていた。声も大きかった。しゃべり始めると体中のエネルギーが沸騰するようだった。性格は人が手をつけられないほど荒々しく、こんなエピソードが伝えられているんだ。
 宇陀(うだ)の阿騎野ヶ原(あきのがはら)の狩りで、入鹿が数頭の大鹿をたおした時のことだった。夕刻嶋の屋形に戻ると、入鹿は血まみれの大鹿一頭を、兵士たちに命じて女人部屋に放り込ませ、女たちが悲鳴を上げて泣き叫ぶのを戯れにして楽しんだと。
 そんな荒々しい気性を持ちつつ、同時に入鹿は生まれながらに利発で、頭脳は明晰だった。学問僧僧旻の講義に目を輝かせては鋭い質問を発し、瞬く間のうちに学識を積み上げた。その抜きん出た知性の高さは師僧旻を感嘆させたという。


四章 六七五年初春 21

 この気性の荒々しさと知性の高さを混在させた入鹿を一柱の神に置き換えてみた。それがあの男神、イザナキが竺紫(つくし)の日向(ひむか)の河原で、最後に鼻を洗った時に生まれた須佐之男(スサノヲ)命というわけだ。スサというのは荒れすさぶ、つまりスサノヲは荒れすさぶ男という意味で、もともと太郎入鹿をイメージして用意したキャラクターなんだが、さらにその凄さを強調するために建速(タケハヤ)という冠を付け、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)とすることにしよう。タケは勇猛、ハヤは迅速という意味で,これを付けることによってすさまじい気性と知性を持つ男神をつくり出したい。そしてその男神の荒々しい行動を通して大豪族の反逆行為の意味を問い直したいんだ。
 反逆行為が起きるのは、支配の頂点に立つ高貴なる者の存在の軽さが原因で、高貴なる者が自らに与えられた義務を果たす努力を怠るからだ。支配の正当性は高貴性に由来するのではなく、その高貴性を保つ努力を不断に実行しているかどうかにかかっている。そしてその義務を果たす者にだけ限りない輝きと支配の正当性が保障されるのだということを伝える物語にしてみたいんだ」
 「どんな展開になるのかしら。今は全く想像がつかないわ」
 いつしか初春の日は西に傾き、香具山に霞のかかった赤い夕陽が当たり始めた。阿礼と由衣は法興寺の南門を抜け、家路を急いだ。