目次
序章 七一一年夏
序章 七一一年夏 1
序章 七一一年夏 2
序章 七一一年夏 3
一章 六七四年初夏
一章 六七四年初夏 1
一章 六七四年初夏 2
一章 六七四年初夏 3
一章 六七四年初夏 4
一章 六七四年初夏 5
一章 六七四年初夏 6
一章 六七四年初夏 7
一章 六七四年初夏 8
一章 六七四年初夏 9
一章 六七四年初夏 10
一章 六七四年初夏 11
一章 六七四年初夏 12
一章 六七四年初夏 13
一章 六七四年初夏 14
一章 六七四年初夏 15
一章 六七四年初夏 16
一章 六七四年初夏 17
二章 六七四年初秋
二章 六七四年初秋 1
二章 六七四年初秋 2
二章 六七四年初秋 3
二章 六七四年初秋 4
二章 六七四年初秋 5
二章 六七四年初秋 6
二章 六七四年初秋 7
二章 六七四年初秋 8
二章 六七四年初秋 9
二章 六七四年初秋 10
二章 六七四年初秋 11
三章 六七五年冬
三章 六七五年冬 1
三章 六七五年冬 2
三章 六七五年冬 3
三章 六七五年冬 4
三章 六七五年冬 5
三章 六七五年冬 6
三章 六七五年冬 7
三章 六七五年冬 8
三章 六七五年冬 9
三章 六七五年冬 10
三章 六七五年冬 11
三章 六七五年冬 12
三章 六七五年冬 13
四章 六七五年初春
四章 六七五年初春 1
四章 六七五年初春 2
四章 六七五年初春 3
四章 六七五年初春 4
四章 六七五年初春 5
四章 六七五年初春 6
四章 六七五年初春 7
四章 六七五年初春 8
四章 六七五年初春 9
四章 六七五年初春 10
四章 六七五年初春 11
四章 六七五年初春 12
四章 六七五年初春 13
四章 六七五年初春 14
四章 六七五年初春 15
四章 六七五年初春 16
四章 六七五年初春 17
四章 六七五年初春 18
四章 六七五年初春 19
四章 六七五年初春 20
四章 六七五年初春 21
五章 六七五年夏
五章 六七五年夏 1
五章 六七五年夏 2
五章 六七五年夏 3
五章 六七五年夏 4
五章 六七五年夏 5
五章 六七五年夏 6
五章 六七五年夏 7
五章 六七五年夏 8
五章 六七五年夏 9
五章 六七五年夏 10
五章 六七五年夏 11
五章 六七五年夏 12
五章 六七五年夏 13
五章 六七五年夏 14
五章 六七五年夏 15
五章 六七五年夏 16
五章 六七五年夏 17
五章 六七五年夏 18
五章 六七五年夏 19
五章 六七五年夏 20
五章 六七五年夏 21
五章 六七五年夏 22
五章 六七五年夏 23
六章 六七六年春
六章 六七六年春 1
六章 六七六年春 2
六章 六七六年春 3
六章 六七六年春 4
六章 六七六年春 5
六章 六七六年春 6
六章 六七六年春 7
六章 六七六年春 8
六章 六七六年春 9
六章 六七六年春 10
六章 六七六年春 11
六章 六七六年春 12
六章 六七六年春 13
六章 六七六年春 14
六章 六七六年春 15
六章 六七六年春 16
六章 六七六年春 17
六章 六七六年春 18
六章 六七六年春 19
六章 六七六年春 20
六章 六七六年春 21
六章 六七六年春 22
六章 六七六年春 23
六章 六七六年春 24
六章 六七六年春 25
六章 六七六年春 26
六章 六七六年春 27
六章 六七六年春 28
六章 六七六年春 29
六章 六七六年春 30
七章 六七六年秋
七章 六七六年秋 1
七章 六七六年秋 2
七章 六七六年秋 3
七章 六七六年秋 4
七章 六七六年秋 5
七章 六七六年秋 6
七章 六七六年秋 7
七章 六七六年秋 8
七章 六七六年秋 9
七章 六七六年秋 10
七章 六七六年秋 11
七章 六七六年秋 12
七章 六七六年秋 13
七章 六七六年秋 14
七章 六七六年秋 15
七章 六七六年秋 16
七章 六七六年秋 17
七章 六七六年秋 18
七章 六七六年秋 19
八章 六七七年初夏
八章 六七七年初夏 1
八章 六七七年初夏 2
八章 六七七年初夏 3
八章 六七七年初夏 4
八章 六七七年初夏 5
八章 六七七年初夏 6
八章 六七七年初夏 7
八章 六七七年初夏 8
八章 六七七年初夏 9
八章 六七七年初夏 10
八章 六七七年初夏 11
八章 六七七年初夏 12
八章 六七七年初夏 13
八章 六七七年初夏 14
八章 六七七年初夏 15
八章 六七七年初夏 16
九章 六八〇年初秋
九章 六八〇年初秋 1
九章 六八〇年初秋 2
九章 六八〇年初秋 3
九章 六八〇年初秋 4
九章 六八〇年初秋 5
九章 六八〇年初秋 6
九章 六八〇年初秋 7
九章 六八〇年初秋 8
九章 六八〇年初秋 9
九章 六八〇年初秋 10
九章 六八〇年初秋 11
九章 六八〇年初秋 12
九章 六八〇年初秋 13
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 1
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 2
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 3
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 4
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 5
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 6
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 7
一〇章 七〇三年初夏―七〇七年初夏 8
一一章 七〇七年七月
一一章 七〇七年七月 1
一一章 七〇七年七月 2
一一章 七〇七年七月 3
一一章 七〇七年七月 4
一一章 七〇七年七月 5
一一章 七〇七年七月 6
一一章 七〇七年七月 7
一一章 七〇七年七月 8
一一章 七〇七年七月 9
一一章 七〇七年七月 10
一一章 七〇七年七月 11
一一章 七〇七年七月 12
一一章 七〇七年七月 13
一一章 七〇七年七月 14
一一章 七〇七年七月 15
一一章 七〇七年七月 16
一一章 七〇七年七月 17
一一章 七〇七年七月 18
一一章 七〇七年七月 19
一一章 七〇七年七月 20
一一章 七〇七年七月 21
一二章 七〇七年八月
一二章 七〇七年八月 1
一二章 七〇七年八月 2
一二章 七〇七年八月 3
一二章 七〇七年八月 4
一二章 七〇七年八月 5
一二章 七〇七年八月 6
一二章 七〇七年八月 7
一二章 七〇七年八月 8
一二章 七〇七年八月 9
一二章 七〇七年八月 10
一二章 七〇七年八月 11
一二章 七〇七年八月 12
一二章 七〇七年八月 13
一二章 七〇七年八月 14
一二章 七〇七年八月 15
一二章 七〇七年八月 16
一二章 七〇七年八月 17
一二章 七〇七年八月 18
一二章 七〇七年八月 19
一二章 七〇七年八月 20
一三章 七〇七年秋―七一一年夏
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 1
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 2
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 3
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 4
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 5
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 6
一三章 七〇七年秋―七一一年夏 7
終章 七一一年夏―冬
終章 七一一年夏―冬 1
終章 七一一年夏―冬 2
終章 七一一年夏―冬 3
終章 七一一年夏―冬 4
終章 七一一年夏―冬 5
終章 七一一年夏―冬 6
終章 七一一年夏―冬 7
終章 参考文献
終章 おことわり
あとがき
あとがき 1
あとがき 2
あとがき 3
あとがき 4
あとがき 5
あとがき 6
あとがき 7
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一章 六七四年初夏

一章 六七四年初夏 1

 一章 六七四年初夏


 

 前四世紀に中国大陸から九州に入った稲作農耕文明は、九〇〇年後本州中央部を越えて東国にまで及んだ。その九州と東国に亘る農耕文明の中心地となったのが、大和(奈良)盆地である。奈良盆地は紀伊半島の中央部を占める大和国(やまとのくに)の北面にあって、南北約三〇キロ、東西約一三キロの縦長で、四方を青垣の山々に囲まれた穏やかな平地である。
 東の笠置山地、西の生駒・金剛山地、南の竜門山地、北の平城山(ならやま・奈良山)丘陵に源を発する無数の河川がこの平地を潤し、水田稲作に最適な平野をつくり上げていた。
 また南部から北流する葛城(かつらぎ)川・曽我(そが)川・飛鳥(あすか)川、北部から南流する竜田(たつた)川・富雄(とみお)川・佐保(さほ)川が盆地中央部で次々と合流し、大和川となって大阪湾に流れ下っている。この大和川を中心とする水系は、大和盆地に展開する水田稲作システムを支える最上の交通・交易路となった。
 この文明の中心地に国を建てたのが、ヤマトの連合王権(政権)である。連合政権は六世紀に始まった統一国家形成の動きを主導し、七世紀には律令的な中央集権国家の形成をめざす。そのヤマト王権の歴代の大王・天皇が宮室(宮殿)を置いたところが、大和盆地南東の奥まった一画、飛鳥であった。ここは南流する飛鳥川の流域地帯で、北には大和三山の一つ、香具山(かぐやま・香久山)が手に取るように眺められる。


一章 六七四年初夏 2

 飛鳥は、もとは中央豪族として強大な勢力を蓄え、ヤマト王権を大臣(おおおみ)として支え続けた蘇我本宗家の本拠地だった。崇峻(すしゅん)期(五八八―五九二年)に、大臣蘇我馬子(そがのうまこ)が真神原(まかみのはら・まかみがはら)に氏寺の飛鳥寺(法号法興寺・ほうこうじ)を創建して以来、ここが宮殿の建設地となった。
 飛鳥寺の西に、飛鳥川を挟んで小高い丘陵が立っている。甘樫丘(あまかしのおか・一四八メートル)である。その北西麓に、蘇我本宗家の強い影響力によってヤマト王権の最初の宮が建設された。女帝推古(すいこ・五九二―六二八年)が即位した豊浦宮(とゆらのみや)である。推古はその後、法興寺の北西、飛鳥川右岸の雷丘(いかずちのおか)の麓に小墾田宮(おはりだのみや・小治田宮・おはりだのみや)を建て、七五歳で没するまでそこで政務を執り続けた。
 この間、飛鳥を起点に大和盆地を東西南北に貫く国道が整備された。南北路は三本、東側の上ツ道(かみつみち)、西側の下ツ道(しもつみち)、その間を走る中ツ道(なかつみち)で、いずれも北は山背(やましろ)に、南は吉野に連絡していた。東西路は二本、伊勢と難波を結ぶ横大路(よこおおじ)・当麻道(たいまみち)、伊賀と河内をつなぐ竜田道(たつたみち)である。その南北と東西の幹線道路から無数の枝道が延び、その道端には水田が広がった。


一章 六七四年初夏 3

 次の舒明(じょめい)期(六二九―六四一年)に入ると、宮の立地は飛鳥寺のほぼ南、寺域から手が届くほど近接の空間に移った。最初の王宮が飛鳥岡本宮(あすかおかもとのみや)で、これ以降宮殿はこの地一帯に固定されるようになる。舒明の皇后として即位した皇極(こうぎょく・六四二―六四五年)は、飛鳥岡本宮を解体し、その上に新たな設計に基づく飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を造営した。
 皇極が譲位して誕生した孝徳(こうとく)朝は宮を難波に遷したが、ここが実際に使われたのは数年だった。重祚(ちょうそ)して皇極からその名を改めた女帝斉明(さいめい・六五五―六六一年)は再び飛鳥に遷都し、自分が建てた飛鳥板蓋宮を壊し、大規模な整地を行った上で全く新しい宮を完成させた。後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)である。
 こうした王城所在地の固定化によって、飛鳥には町並みが出現した。宮の周辺には皇族・貴族・豪族の屋形、官衙(役所)、官営工房が立ち並び、要所要所に寺院が聳え立つようになった。斉明期には飛鳥全体に及ぶ大造営工事が行われ、国事や儀式を行う広場、饗宴を催す庭園や苑池が配され、飛鳥は王宮から王都へと変貌した。人々はこの王都を飛鳥京あるいは倭京(やまとのみやこ)と呼んでその賑わい振りを讃えた。
 その倭京が一時打ち捨てられる事態が生じた。六六七年、斉明の子で後継となった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・天智・てんじ)が、王宮を飛鳥からずっと北に位置する琵琶湖南西岸に移し、近江大津宮を建設したからである。飛鳥はそれから五年に亘る王宮の不在によって寂れた。それを回復させたのが、「壬申の乱」を勝ち抜いて王権を手中にした天智の弟、大海人皇子(おおしあまのおうじ・天武)である。


一章 六七四年初夏 4

 大海人は内乱によって生じた亀裂を修復し、倭国を再統一するには、飛鳥京よりももっと適地に規模の大きな王城が欠かせないと考えていた。しかしすぐにそれに着手する余裕はなかった。彼は先ずは歴代の王朝の地に戻り、そこを基地にして戦後の荒廃をいやす道を選んだ。
 六七二年冬、大海人は飛鳥に凱旋するや、母斉明の宮だった後飛鳥岡本宮に手を加えた。内郭の正殿を修復すると同時に、脇殿を増設。さらにその内郭の東南に、西門を備えた高床構造の大型建造物、大殿(おおとの・大極殿・だいごくでん)を新築した。この大極殿の増設分だけ、掘立柱塀で形づくられる外郭は広くなったが、全体の構造はそれほど大きくかわってはいない。
 翌六七三年二月、大海人皇子はこの宮で即位して天武となったが、ここを新しい王都(新城・にいき)ができるまでの仮宮と考えていたために、名を付けなかった(天武がこの宮を飛鳥浄御原宮・あすかきよみはらのみや)と命名するのは、死を目前にし、自分の手による新城の建設を断念した六八六年七月のことになる。従ってここでいう飛鳥浄御原宮は通称である)。その意味で飛鳥浄御原宮は天武にとっては一時しのぎの宮殿ではあったが、六年振りの遷都である。主のすわった飛鳥京はかつてのにぎわいを取り戻し、飛鳥川流域の水田づくりも活気を呈した。


一章 六七四年初夏 5

 この飛鳥遷都の翌年(六七四年)、王都の北西に位置する甘樫丘に立ち、初夏の緑に染まった水田の向こうに朱の色を際立たせる飛鳥浄御原宮を見下ろす一人の青年がいた。天武に仕える舎人(とねり)、稗田阿礼、二八歳であった。長身で大柄、普段は穏やかな風貌をしているのだが、それが今は心の底から湧き上がる激情を抑えようと、別人のように厳しく、引き締まった顔を見せていた。今朝がた阿礼は密かに内裏に呼ばれ、天武からじきじきの言葉を賜った。その言葉を、受けた時の衝撃と共に、脳裏に反芻していたのである。
 天武は阿礼よりも一五歳年上の成熟した貴人で、列島を支配するヤマト王権の大王(だいおう)だった。色白で凛とした顔立ちをし、背も高く、骨太でがっしりとした体格をしていた。その地位と風貌が発散する力は圧倒的だったが、阿礼は自分はそれには対抗できると常々思っていた。庶民の出で年も若く、いかなる地位にも恵まれていなかったが、それに負けないだけの強靭な肉体と仕事の腕を持っているという自負心があったからである。
 容易でなかったのは、超名門一族の末裔に対して己の心が無意識のうちにつくり出してしまう観念の克服だった。それは恐らく、天武が単に倭王権の最高権力者であるということだけでなく、王権の長い皇統譜に連なり、その血筋を直接受け継ぐ存在だという事実に由来するものだった。


一章 六七四年初夏 6

 何故人は長い歴史を持つ一族の直系継承者に対して特別な感情を持つのか。それは多分、変転極まりない人間社会の歴史にあって、一つの家系が何世代にも亘って続くこと自体が奇跡に近いことだと感じられるからであろう。
 目の前にいる天武がそうした稀にみる貴種だと思うだけで、彼の前に全てを投げ出してしまいたくなるような感覚に陥っている自分に気付くことがこれまでにもあった。でもそうさせてはならなかった。阿礼は今回もまた必死に自分を励ましながら、天武の語る言葉を聞いたのである。
 「この度の乱の後遺症はすさまじい。自分で引き起こしておいていうのも無責任な話だが、内乱は二度とあってはならぬ」
 そう切り出しながら、天武は話題を先に進めた。長い話になりそうな予感がした。
 「〈壬申の乱〉はその始まりから終結まで約三か月、期間としては短かったが、及んだ地域は広かった。畿内だけではなく、西国にも東国にも亘った。その広い範囲で、列島の統治権をわが手にしようとする二派が莫大な犠牲を伴う軍事的戦いを展開したのだ。戦後の混乱に配慮する余裕などなかった。ワレは集められるだけの兵を集めようとした。投入できるだけの戦費を投入しようとした。相手も同じだったのではないか。戦いは豪族の類縁、それらが率いた無数の農民の命を奪い、田畑を荒廃させた。その代償は残された者たちの肩に重くのしかかった。人心は深く傷つき、政情は激しく揺れ動いている。


一章 六七四年初夏 7

 それをしずめようと、ワレは仏にすがってみた。集められるだけの書生を飛鳥川西岸の川原寺(かわはらでら・別名弘福寺・ぐふくじ)に集めて、一切経の書写を挙行する発願(ほつがん)をした。それは壮観な光景だったが、効き目があったかどうかはわからぬ。内乱の後始末にどれだけの年月が取られるか、見当もつかぬ。壬申の内乱の影響はそれほど深刻だ。そうした中で、いにしえに還るべきだという考え方もある」
 阿礼は思い切って言葉を挟んだ。
 「ヤマトの大王の真髄は、日の神を自らの祖先として祭ることを許される宗教的・精神的権威にある。大王の役目はこの権威に由来する呪術や祭祀を行い、それによって国を統一し、民衆の安寧を保障するところにある。従って大王の要諦は武力を用いず、政治の実務にかかわらない不執政にあるという考えでございますね。この祭祀権に基づく不執政の原理は、連合政権、連合王国の時代にさかのぼると聞いておりますが……」
 阿礼の言葉を無造作に受けて、天武は話を続けた。
 「列島に先進文明の水田稲作が定着したのが前四世紀、それから六〇〇年ほどの間に農耕共同体の再編・統合が繰り返され、この島の各地で、多くの部族(豪族)的国家(クニ)、その連合体が形成された。三世紀前後、それら国家連合同士が激しく衝突し抗争し合った。対応を誤れば、列島の半分が荒野に還る恐れがあった。その危機的な争乱状態の中から、三世紀初め倭国を代表する一つの新しい王権が誕生した。筑紫・吉備・播磨・讃岐・出雲・近畿など西日本各地の豪族的国家連合が談合と根回しによって手を握り、大王(卑弥呼・ひみこ)を共立し、王都を大和盆地南東部纏向(まきむく・巻向)の地に置いたヤマト王権だ。


一章 六七四年初夏 8

 ヤマト王権は新生倭国の代表にふさわしい祭祀を創出しなければならなかった。それは連合した国々がかつて持っていたマツリを乗り越えて、それに結集できるような、より高次の祭りでなければならなかった。さらには連合未参加の国々に参加を促すことができるような、より魅力的な祭りでなければならなかった。
 倭国が基本生計戦略としてきた水田稲作の豊穣を祈願する神として、これまでに大地・火・水の神など様々な対象が存在してきた。新生王国はそれらを統合する神として太陽神、すなわち日の神を創造した。そして日の神を祀るための儀式を考案し、その儀式の実施者をヤマトの大王にすると同時に、大王をその日の神の末裔に仕立てたのだ。それだけではない。新生王国は大王=神に死が訪れた時、その王位=神位を次の大王=神に継承させるための一連の秘儀を考案すると同時に、その密かな実施者を大王自身にしたのだ。
 この祭祀権を握ることによって、王権は安定した。これまでにヤマト王権中枢の権力闘争による王統の交代はあったが、他の勢力による王権の奪取・交替はなかった。この祭祀権が確立したのが四世紀代、前方後円墳の造営が一世を風靡した時代だ。祭祀権の確立による王権の安定は、連合王国内の求心力の向上、他地域への影響力の拡大に大きく貢献し、王国は列島各地、とりわけ東に向かって倭国の領土を伸長させた。さらにはこの国を、高句麗・新羅・百済三国が鼎立した朝鮮半島にまで侵攻させることになる。


一章 六七四年初夏 9

 この祭祀権を担ってきたのが、わが大王家だ。大王家はこれを握り、継承することによってヤマト王権の中枢に座り、倭国の支配者となったのだ。大王家は戦いによってヤマト王権を確立し、倭国を建設したわけではない。ヤマト政権は複数の豪族的国家の連合体で、大王家はもっぱらこの祭祀権の行使者として振舞ってきた。政治と軍事は連合王国の他のメンバーに委ねられてきたのだ」
 「それが変化する時がきたと……」
 天武は阿礼の言葉に相槌を打つこともなく話を進めた。
 「五世紀代(倭の五王の時代)、連合政権に列する国は増えた。新たに加わったのが葛城(かづらき)・和珥(わに)氏などの大和の大豪族や、紀(き)・上毛野(かみつけの)氏などの有力地方豪族だ。連合政権はこれら新勢力と手を握り、倭国の統一に向かった。
 この時代までは大王家は祭祀権を行使するだけでよかった。不執政で済んだ。まだ中央や地方の統治組織が整っておらず、倭王と王権構成メンバーの結びつきは直接的で、祭祀を担う大王と軍事・内政・外交を担当する諸豪族との間の分業関係に均衡が取れていたからだ。


一章 六七四年初夏 10

 ところが六世紀代、連合王権が各地の地方勢力を結集させ、一つの全国的な統一政権づくりを具体化するようになると、そうはいかなくなった。軍事力と政治力を蓄積した大豪族が自らの権力を独り占めしようと、祭祀権を利用するようになったからだ。それだけではない。それを手中にし、王位の簒奪をもくろむ者もあらわれた。それを象徴する事件が〈乙已の変(いっしのへん)〉、〈大化(たいか)のクーデター〉だ。変後大王家は軍事と政治の実権を握り、先代の天智からは大王を頂点とする律令的統治体制づくりをスタートさせている。
 不執政は利用される運命を持つ。利用する者が民の安寧を第一にする者であればいいが、そうでない場合は悲劇となる。今は良き利用者の台頭を待つよりも、自ら執政する道を選びたい。そのために内乱を勝ち抜き、その後始末に腐心している」
 天武はのどを潤すために清酒(きよざけ)を運ばせた。運んできた女人が去っていくのを確かめながら、話を再開した。
 「この度ワレは地方勢力の力を借りて内乱を起こした。当初動員令を発しても地方が中央組織から離脱して、わが方に味方するかどうかわからなかった。それがどうだ。結果として見れば味方は次々と数を増し、内乱に発展した。内乱が簡単に起きるほど、中央集権体制は実は確立していなかったのだ。


一章 六七四年初夏 11

 ヤマト王権が列島の統一をめざして進めた地方支配は、六世紀初頭の継体朝から始まるが、その基本は国造制とミヤケ(屯倉・宮家)制だった。ナレはそれについても知っているであろう」
 阿礼はその問いを受け、静かに答えを返した。
 「国造とは大王の下僕(しもべ)を意味するもので、倭王権が地方に設置したツカサ(官)ですね。王権はその地方官に租税などの物資を調達・集積したり、地方民を徭役や兵役に駆り立てたりする役割を振り分けた。地域社会でこうした役割を果たせるのは、国主と呼ばれ大きな領土と権威を持った地方豪族=在地首長しかいなかった。歴代の王権はその地方豪族を国造に任命し、その在地首長が保有する支配力に依存して地方支配を進めた。それが国造制だと聞いています。
 ミヤケとは中央政権の政治的・軍事的・経済的拠点で、王権が地方支配のために国造の領内に設置したものですね。王権は普段はその管理を国造やその一族に委ねておくが、必要な時には中央から王権の使者(宰・みこともち)を派遣し、地方官である国造に王権の命令を伝達したり、職務内容を監察したりして地方支配を行った。これがミヤケ制だと理解しておりますが」
 天武は満足そうにうなずいていった。


一章 六七四年初夏 12

 「その国造・ミヤケ制は、倭王権が初めて地方に打ち込んだ支配のくさびで、これによって旧来の地方豪族の権力が弱められ、その支配下にあった有力農民層が、独立しつつ王権支配の中に再編成される動きが進行した。しかし各地には、在地で独自の行政権・裁判権・軍事権・祭祀権を握る地方豪族、国造が数多く存続し、彼らの出方によっては必ずしも期待通りの成果が得られないという限界があった
 この限界を打ち破ろうとしたのが、〈乙已の変〉後にできた孝徳朝、すなわち改新政権だ。改新政権も地方支配から旧来の国造をはずすことは考えなかった。国造は地域に根差し、地域に通じた存在、その彼ら抜きに地方を動かして国家を統一することなど不可能だったからだ。孝徳朝が選択した方法は、評(こおり・ひょう)制の導入だった。
 改新政権は諸国に使者、宰(みこともち)を派遣して国造の支配領域(クニ)を解体し、より小規模な地方行政組織に再編成しようとした。この再編成された行政組織が評で、ここに長官(評督・ひょうとく)・次官(助督・じょとく)二名の管理官を置いた。
 この評督・助督には在来の国造も任命されたが、王権のねらいは、国造に対抗でき、王権に忠実な別の氏族の任用にあった。結果として新規任用者の数の方が多かったから、旧来の国造の地位は相対的に低下した。その分国造の支配から自立し、王権のもとに再編成される農民の数も増えるだろうと期待されたわけだ。


一章 六七四年初夏 13

 これをさらに推し進めようとしたのが、兄の政権だ。天智朝は唐の律令体制を手本に、評を複数集めた広域の行政単位、国(くに)を設置し、そこに国宰(くにのみこともち・こくさい)と呼ばれる地方官を常駐させた。クニノミコトモチは大王の命を受けて派遣される官人だ。近江朝はこれを国に常駐させることによって、管轄下の諸評、すなわち地方の直接支配を強化しようとしたのだ。
 その国―評制の導入から数年たっている。安定したと思われていた地方支配だが、実は中央支配に不満を持つ地方豪族、評の管理官、それを支持する民の数は増えていたということになる。
 今回の乱で、そのことを改めてワレは確認することができた。内乱の後始末がついたら、これまでの支配体制の不備を改めつつ、律令体制の確立を一気に進めたい。列島各地の豪族を新設される律令機構の一員にして地方行政を担当させつつ、彼らの生活を中央政権から支給される俸給(食封・じきふ)によって成り立たせる体制にする。
 そうしながら豪族の支配下にあって豪族から土地保有を保障され、その見返りとして豪族に租税を治めていた民(私地私民)を新生律令国家に再編成し、律令国家から土地を支給され、その見返りとして律令国家に租税を治める民(公地公民)にする。その上で律令国家の頂点に大王を持ってくる。そうすれば大王が律令体制を通じて全国津々浦々の民を直接支配する体制(一君万民)を築くことができる。


一章 六七四年初夏 14

 そのためにワレの称号もかえたいと思っている。これまでヤマトの支配者は対内的には大王(だいおう)あるいは王(おおきみ)、対外的には天子(てんし)あるいは天王(あめきみ)と称してきた。ワレは内外共に己の称号を天皇と定めたいのだ。そしてその天皇が統治するこの国の号を、在来の倭国あるいは日出ずる国にかえて、日(ひ)の本(もと)の国(くに)、つまり日本国(にほんこく・にっぽんこく)にしたいと思い、その天皇を頂点にいただく日本国の律令制度を構想中だ。完成したら、これを今編纂準備中の法令(飛鳥浄御原令・あすかきよみはらりょう)の中で規定したいと思っている。
 でもな、新法令に基づく律令体制の整備だけでは民の支持は得られない。地方政権のもとにいる民を天皇中心の日本国の民に再編することはできない。どうしたら民衆の心をかえることができるか、まずは大王から呼び名のかわった天皇家の歴史、それによって統治される日本国の歴史をつくりたい。天皇家がこの国を統治する正統性を有することを説明する歴史、民がそれに耳を傾け、天皇家が統治する国家に参加したくなるような歴史をつくりたいのだ。
 これまでの記録を集めた事記(ことぶみ)の編纂ではない。文字を読まぬ民に聞かせてやるための事語(ことがたり)だ。どんな形式だって?知れたことよ。これまで民が親しんできた神話・伝承をふんだんに使って再構成した歴史物語だ。民衆の心を動かし、天皇統治を彼らの心に根付かせるにはそれが一番だとは思わぬか。その事語づくりを、語りの名手、いや優れたつくり手として知られた稗田阿礼、ナレに任せようというのだ」


一章 六七四年初夏 15

 天武の言葉が自分に及んだ時、阿礼の体に大きな衝撃が走った。それは思いがけない事態にぶつかったからではない。恐れ多い使命を下されたからでもない。こうした事態が起きることを自身で予想していたからである。こんな仕事を命じられたらどんなにか面白いだろうと期待していたからである。
 そんな夢想を抱いたのは、天武が飛鳥浄御原宮で即位し、新王朝の継承者となる儀礼をこなす姿を、群がる人々の肩越しに目撃した時だった。当時、阿礼は漂泊の語り部だった。出身は飛鳥のほぼ北に位置する稗田(ひえだ)、集落を代表する語り部と水田稲作を兼業にする大きな農家に生まれ育った。一八歳になった時、語り部として身を立てようと故郷を出、東は常陸国(ひたちのくに)、西は筑紫大宰(つくしのだざい)まで足を延ばした。
 旅の食い扶持と路銀には困らなかった。稗田で身に付けた語りの素養があったからである。最初の題材は自分が身近で見聞した飛鳥京の事語だった。阿礼は倭京(やまとのみやこ)を舞台に展開する政事や事変、都人の華やかな暮らし振りを、それを見ることの叶わぬ人々に語り聞かせることから旅をスタートさせた。漂泊を重ねるにつれて語り聞かせのレパートリーは広がった。阿礼は行く先々で、人が聞きたがる新しい見聞を次々と仕入れては既存の語りと組み合わせ、事語(ことがたり)の無限のストックをつくり上げた。


一章 六七四年初夏 16

 そうしながら聞き手との間に絶妙な間を置き、相手の心の中に入り込み、その魂を揺するような話芸を身に付けようとした。面白いところはどこまでも面白く、哀しいところはどこまでも哀しく、官能的なところはどこまでも官能的に、おかしいところはどこまでもおかしく描写できる語り人になろうと努めた。その努力が実を結び、阿礼は旅の語りの名手として、どこへいっても歓待を受けるようになった。一か所で引きとめられている内に評判が先回りし、思いがけないところから招聘を受けるようにもなった。
 そうした七年に及ぶ漂泊を経て大和国に帰還したが、故郷の稗田には戻らなかった。倭京と、すでに遷都して四年たつ近江大津を拠点に畿内各地を語り歩いた。その間に大海人皇子と大友皇子(おおとものおうじ)が戦う「壬申の乱」に遭遇し、その翌年に挙行された天武の荘厳な即位式を垣間見たのである。天武ははるかな先を見通すような眼、人や時代を動かさずにはおかないような風貌を見せていた。阿礼はこの人物によって一つの物語がつくられるような予感を持った。そして自分もその創出に直接かかわりたいものだと強く思った。
 チャンスはほどなく訪れた。即位して三か月後、天武が「官人登庸法(かんじんとうようほう)」を制定したからである。天武はこの度の内乱を教訓に、乱の源泉となった有力豪族の影響力を排除しようとした。太政大臣や左右大臣を任命せず、皇族を重用する皇親政治を採用し、自らの意思を貫徹できる官僚制度の確立をめざした。これに欠かせなかったのが官僚システムを支える官人の確保だった。天武は家柄と能力を兼ね備えた候補者を畿内出身者から選抜し、育成しようとした。それが官人登庸法だった。


一章 六七四年初夏 17

 この新設官人募集に応募することを強く勧めてくれたのが、壬申の乱の前から天武の片腕となって戦闘準備に奔走した武将、多臣品治(おおのおみほむじ)だった。品治は乱後に阿礼の語りを聞いてその虜となり、阿礼ファンの一人となった。品治は乱勝利の最大の功労者として遇され、飛鳥浄御原宮の近くに大きな館を構えていたが、そこに度々阿礼を招き、阿礼が諸国漂泊の中で得た情報と、それをもとに創作した事語に耳を傾けた。その品治が阿礼に、各地の見聞を伝えるジャーナリストとして、それを物語に仕立てる創作者として、創作した物語を聞かせる芸能者として天武に仕える気はないか、もしあるなら官人登庸法の候補者として推薦しようと申し出てくれたのである。
 願ってもない話だった。阿礼の難点は家柄の不足だったが、品治の推薦状はそれを補って余りあった。採用された阿礼は、まず大舎人(おおどねり・見習い)として宮中の雑役に奉仕したあと、その能力を買われて天武の身近に仕える文官になった。身分は下級官人の舎人だった。宮中には文官的舎人・武官的舎人合わせて数百人が常駐していて、天武の謦咳に接する機会を持つものは限られた。阿礼はその少数者の一人となった。諸国の情報・伝承を出自である農民の感覚ですくい上げ、それを生き生きと語ることのできる芸能者はほかにいなかったからである。
 こうして阿礼は旅の語り部から、宮中の語り部へとその境遇を大きくかえたのである。阿礼は天武がどんな情報を求めているのか、それをどんなふうに語ってほしいのかを絶えず探りつつ、呼び出しがあれば待ってましたとばかりにそれを披露した。天武が満足し、楽しんでいる、その手応えは日増しに強く感じられるようになっていた。その暁に、天皇家の歴史物語、天皇家を中心とするこの国の歴史物語をつくらぬかという声がかかったのである。