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1


 何の音もない部屋で、僕は浅い息をしている。その音に気づいて、耳に意識が行った。色んな音が聞こえてくる。車の音。隣の部屋の住人がかけている音楽の音、おんぼろのクーラーが唸っている音、調子を崩している自分の腹の音。静かな部屋では色々な音が聞こえる。何より退屈という概念が五月蝿くて、耳鳴りがする。
 暇をつぶすのにテレビをつける人は多い。僕もその例外ではない。テレビをつけて、面白そうな番組を探して、チャンネルを回す。雑貨屋の狭い店内を見る時のように、十二個のチャンネルを何周もしてから、僕はテレビを消した。結局、テレビをつける前よりもずっと退屈になってしまった。
 ちゃぶ台の上には、この間ペットショップで買ってきたアリ飼育キットが置いてある。透明なプラスチックの中に、これまた半透明の青いゼリーが入っていると言う代物だ。中に入れたアリの巣が立体的に観察できるようになっている。その中で、働きアリ達が動いている。だいぶ巣も出来てきたからか、青いゼリーを食いちぎって巣を作っているアリは二、三匹しかいない。「こんなケースに閉じ込められて可愛そうに」なんて言う奴がいたら、そいつはアホだ。働きアリにとってはどこだって一緒だもの。奴らは巣を作ってしばしたら死ぬ、そのために産み落とされたのだから。かく言う僕だって狭いアパートの一室に閉じこもっていることだし。
 「閉じ込められている」とは言わないだけのプライドを自分がまだ持ち合わせているんだと、そう思いたいがために、僕は今閉じこもっていると書いた。「自分に同情するな、そいつはカスのやることだ」という文句を何かの本で読んで、その通りだなと思ったけれど、僕はそこまで強い人間じゃない。気が落ち込むたびに、嫌でも自分の悲運に酔っている自分を発見する。そしてうんざりすると同時に、心底滅入ってしまう。自分は村上春樹や三島由紀夫じゃないんだ、そう思うと否が応でも空っぽの自分を発見してしまうからだ。
 気が滅入ったまま永遠の退屈は続いていく。それでもそんな物は放っておけば、その内僕は眠くなって、寝てしまうだろう。そして気づけば朝が来て、また新しい退屈が始まる。そうやって僕はぐるぐると永遠の中を行ったり来たりしている内に、年をとって、いつかは死ぬんだろう。そう、働きアリみたいに。性的カースト。
 そんな感傷ごっこで心を玩びながら、僕はキャメルに火をつけた。煙を吸い込むと、まずはメンソールの刺激が口を突き、その後に甘い味がして、最後にタバコの味がする。タバコが美味しい時はいつだって、そういう順番で味がするんだ。そうじゃない時はメンソールの後に、胸のほうでムッとした煙の嫌な味がする。そして「止めときゃ良かった」と思う。
 タバコなんて美味しくもなんともない。ただ吸っているだけだ。吸うという行為に何らかの感情やら、意味やらを見出すために吸っている訳というじゃない。
 「吸わなきゃやってられないよね」
 里香の言葉を思い出す。彼女は、僕が思うようには思っていなかったんだろう。僕はタバコそのものを必要としている、食べ物を食べるのと同じように。里香はタバコそのものというよりも、むしろ吸うという行為に意味を見出していたように思える。その気持ちは分からなくはない、けれど僕が彼女の気持ちを理解しようと思ったところでそれは出来ないだろうし、里香はそれを拒むだろう。
 吸わなきゃやってられない、と里香は僕に言った。なんでそんなことを言ったんだろう。それを言うことで彼女は僕に何を求めていたんだろう。彼女は特定の個人に対してそれを言ったのか、それともぬいぐるみに話しかけるのと同じような気持ちでそれ言ったのだろうか。
 女性は時として、自分の話し相手をに対して、ぬいぐるみや犬か何かに話し掛けているかの様に話をする。僕は最近になってそれを知った。僕は友人や気のある女性にものを言うとき、その人に対して話す。いや、そういう言い方は卑怯者のすることだ。僕だってよく人をぬいぐるみのように扱う事がある。そうすることで、ぬいぐるみや犬はひどく傷付くのだ、ということを僕は最近知った。それを知ったところで、僕も彼女も、互いの為に何かが出来るというわけではないのだけれど。
 なんだか話が三文小説みたいになってしまった。そんなのはうんざりだ、誰がやっても同じ結果になることを繰り返すのは。けれど結局、僕はそのような通俗的な人間に過ぎないのだ。思想や精神で人生を切り開けるような高尚な人間じゃないんだ。常軌を逸する為の自信、勇気、強さ、そのどれをも僕は持ち合わせていない。あるのは心の弱さと貧弱なプライドだけだ。それでも永遠の退屈は続いていく。僕の意思とは無関係に。だから、僕のすべき事はただ一つだ。自分の弱さにうんざりして傷付きながらも、柔なプライドのために、自分の思う美質の為に、自分の弱さを見つめ続けることだけだ。自分を憐れんだら、その時点でお終いなんだ。
 僕はちっぽけな自分をつなぎ止める為に、永遠の退屈の中であの夜の事について思い出し、考え始めた。

2

 あの日は飲み会だった。チャリで一分足らずの友人のアパートが飲み会の会場だった。大学に入学してから一年が経つが、こうやって仲の良い友人(これ以外に適当な言葉が見当たらなかった)と飲むのは何回目だろうか。今日の飲み会のお題目は「一学期期末終了飲み」だそうだ。いつも通りの、同じ学類の友人たちが集まってくるのだろう。
 僕は夜九時という定刻より五分ほど遅れて会場に着いた。家主と客が一人、僕を入れても三人しかいない。みんな時間にルーズなんだ。そのうちに遅れて一人、また一人とやって来るだろう。
 二人とも飲み始めていたので、僕も自分で買ってきたビールを開けた。一口飲んで「っぷはー」と言っておく。ビールを飲んで無言というのもなんだから。ここでの暮らしには「っぷはー」と言うほどの物は何も見つけられないのだけれど。
 間接照明で照らされた薄暗い部屋で、男三人が黙ってビールを飲んでいる。特に何かを話す前にビールが空いたので、二本目の缶チューハイを開けた。誰かが何かを喋っては、他の誰かが二、三言返事をして、また静かになる。別に重苦しい空気でもないし、居づらい訳でもない、ただ単に話す事が無いだけだ。同じような繰り返しの毎日、その上みんな近くに住んでいるのから毎日のように顔を合わせる。飯を食うにしても、遊びに行くにしても、お酒を飲むにしてもいつも同じメンバーだ。そんな状況で話すべき目新しい話題なんてあるはずが無い。お互いに通い合うものがないのならば、それはなお更の事だ。
 缶チューハイが終わる頃に、もう一人やって来たが、状況は相変わらずだった。この四人目の参加者の名は隆二というのだが、僕は暇な時は大抵こいつと一緒にいる。マイペースで、批評家で、お調子者、それが彼の性格だ。一緒にいて疲れないし、隆二の生活も僕のそれと同じくらい暇なので、自然と一緒にいる時間も長くなるだろう。けれど、僕と隆二は本当の心の内や思いの丈をぶつけ合うような関係ではない。僕と彼は、馬鹿な事を一緒にやって下品に笑いあう、そういった間柄に過ぎないのだ。二人とも、お互いの関係に心の虚しさを分かち合うという様なものを求めてはいなかった。
 隆二に限った事ではなく、大学での僕の友好関係はおおむねそんなものだった。一人でいるには余りにも退屈だから、一緒にボーリングをしたり、飯を食いに行ったり、カラオケに行ったりする。お互いに、暇をつぶすための上っ面だけの関係。でもそれは仕方の無いことだと思う。僕のせいでも、彼達のせいでもない。お互いに求めるものが違うだけだ。価値観の相違だ。いや、それは違うな。僕のせいだ。僕が彼らと通じ合う事を拒んだのだ。「価値観の相違」と言うお手軽な文句で片付けてしまった。僕が彼らに、自分の存在を許してもらおうと努力しなかったから、彼らはその怠慢に気づき、僕を許そうとはしなかったのだ。こんな空虚な人間関係を作り上げたのは紛れもない僕自身なんだ。
 あの頃、僕はそう思おうと努めていた。自分の苦しさを誰のせいにもしたくはなかった。この苦しみは全部、甘ったれた自分の弱さのせいだと思いたかった。そうすることで、自分というものを自分という存在の範囲の中で完結させておきたかった。自分の人生が、自分の手で決めることのできる物だと思いたかった。自分の制御の効かない力というものを恐れていた。それでいて僕は、通じ合える友人を欲していたし、自分を求めてくれる女の人が欲しいと思っていた。世界に一人ぼっちである、ということがたまらなく寂しかった。自分の中に自分だけしかいない事が恐ろしかった。
 そういった二つの相反する感情が、同時に僕の中に存在し、互いに争いあって、僕を混乱させていた。
 その頃の僕は、自分の弱さとか、存在とか、そういった物を自分一人の力で支えるには余りにも未熟だったのだろう。自分に陶酔し切っていた。そこから脱却しようと足掻いていたが、どうにもそれが出来なかった。弱さに気づき、血を流しながらも、それを克服できなかった。八方塞がりに思えたし、どうすればいいかわからなかった。
 感情の負のフィードバックによる悪循環。そこからの脱出は不可能に思えた。追い詰められ、切羽詰った感情がどうなるのか、自分でも分からなかった。そんな時に僕は、飼育ケースに閉じ込められて、巣を掘り続けるアリを飼い始めたのだった。

 

 沈黙がつまみ代わりになったのか、お酒二缶でだいぶ酔いが回ってきた。入学したときと比べてだいぶ酒に弱くなったなあと思う。酒が入ったのに押し黙っている、という訳にもいかないので、僕は隣の友人につっかかってみた。管を巻いたり、泣いてみたり、僕は他人からすればだいぶ面倒くさい酔い方をするのだ。
「お前、最近どうだ?」
「どうって何が?」
「何かいいこと無いの?」
「別に無いけど」
「マジか、ヤバくない?」
「別にヤバくないけど、」
「お前、今のままでいいの?」
「別にいいよ」
「・・・、あっそ」
「ああ」
 隣の友人は明らかに面倒くさがっている。彼は、こんな酔っ払いの言うことに耳を傾けても何の得にもならない、という事を知っているからだ。僕は彼が僕を面倒くさがっている、ということに気づきながらも、あえてそれをやったのだ。酔っ払いが話すとき、それは相手に向かってではなく、自分に向かって話しているのだ。相手なんてそれこそぬいぐるみでも構わないのだ。そこに人間同士の繋がりなんて存在しない。人はみなそれを知っているから、酔っ払いの話し相手にされるのを面倒がるのだろう。
 そんなこんなで、僕が面倒くさい酔っ払いに成り下がって、迷惑を撒き散らしている間に、みんなも場の空気に慣れて好き気ままにやりだした。家主と隣の友人は、色々な飲み物を混ぜて怪しいカクテルを作り始めたし、隆二はエヴァンゲリオンのトレーディングカードについて何やらウンチクを垂れている。
 と、家主の携帯が鳴った。彼は電話に出る。みんなはさりげなく彼に意識を向ける。
「・・・うん、・・・うん、・・・分かった。じゃ、またね」
短い通話が終わる。
「もうじき里香来るって」
彼はみんなに報告する。
 いつものメンバーの一人がもうすぐ参加するという報告。ただの報告だ。言う方にとっても、聞く方にとっても。ただ僕だけが、その報告に特別な意味を感じている。里香が来る、彼女と同じ場に居合わせるという事が、この頃の僕にとっては繰り返される日常の一場面とは違った意味を持つ様になっていたのだ。
 僕は少しずつ酔いが醒めていくのを感じた。

 


3

 里香について少し話しておこうと思う。これは僕と里香についての話なのだから。
 まずは僕と里香が知り合うことになった経緯から話そうと思う。
 僕が大学に入学してから最初に仲良くなったのは隆二だった。入学式の後のオリエンテーションで、どちらからということなく話しかけ、その後の新歓行事にも一緒に参加した。その後も学類の新歓行事やら、授業やらで何人か気の合う輩が集まって、男女混合十人くらいの「仲良し」グループが出来た。入学したての頃は、一人暮らしの不安からか、みんなで集まってワイワイと「楽しく」やっていたのだ。その頃の僕らには、それが空虚であるかどうか、について考えているほどの余裕なんて無かったのだ
 そのグループの中に、いつも三人で行動している女の子達がいて、里香はその中の一人だった。小柄で、切れ長の目をしていて狐の様な顔立の女の子だった。目が細いからか、いつも意味ありげに薄っすらと微笑んでいるような印象を受けた。僕と隆二と、その女の子達三人は同じクラスだったこともあって、一緒に行動する時間が多かったような気がする。
 故郷から離れて、一人暮らしをする事の寂しさや不安から、一緒に集まって出来上がったグループであった為か、時間が経って大学生活に慣れた頃にはそのグループはバラバラになり、みんな思い思い、気の合う者同士で行動するようになった。主に僕は、隆二とその他二、三人で行動するようになったし、女の子三人組はいつの間にか、里香ともう一人の二人組みになっていた。僕はこの二人組みとは気が合い、グループがバラバラになった後も気の許せる友人として授業の後にダラダラと取り留めのない会話をしたり、一緒にご飯を食べたりした。そう、「気の許せる友人」として。
 僕は里香から、彼女が自分と他人との間に一定の距離を置くようにしている、という印象を受けた。彼女が何を話していても、その会話には内容が無く、意味や意図というものが見受けられなかった。言葉に感情が感じられないというか、里香が「楽しい」と言っても全然楽しそうに見えなかった。楽しそうな顔や仕草もしているのだが、それは作られた表情であり態度だった。彼女が話す姿からは、その相手に対して「伝えよう」という意思が感じられなかった。
 他人に対して、偽りの自分のイメージを作る、そんなことは誰だって少なからずやっている事だが、里香のそれにはすこし引っかかるところがあった。普通の人は、いくら外面を整えてみても、しばらく一緒にいれば、ちょっとした仕草や、表情、会話の語尾、などから、おのずとその人の人柄が分かってくるものだ。しかし里香の場合は全くそれが無かった。長い間自分を隠し、違う誰かを装い続けていたために、いつの間にかその嘘自体が自分の一部になってしまったのではないだろうか、と僕は思った。
 僕は時々、里香が話したり、笑ったりした後に、ほんの一瞬だけふっと時間が止まるような、隙間が出来たような、そんな空白のような物を感じることがあった。その空白に、本来ならば彼女の本当の姿、感情の動き、そういった物を垣間見ることができるはずなのだが、僕はそこに何も見出すことは出来なかった。文字通り「空っぽ」なのだ。ぎっしりと中身が詰まっているはずである卵の殻の中、でも彼女の殻の中は真っ暗で、空っぽで、その空気は冷たかった。それが、僕が里香から受けた印象だった。
 里香の持つ「空虚」に不可解さを感じ、気になりはしていたものの、知り合ってからしばらくの間、僕は里香に特別な感情を抱くことは無かった。僕は、里香から感じる距離感を「里香は俺には興味が無いんだなあ」と思ってやり過ごしていたし、向こうが拒んでいるのだから僕が何をしても分かり合えるはずが無いではないかと思って、僕の方も里香の距離にあわせる事にしていた。僕は、他人の立ち振る舞い方についてあれこれ言う事ほど厚かましいものはない、と言う意見の持ち主であったし、当時の僕は人間の持ち厚かましさというものを嫌悪していた。それに、僕はむしろ二人組みのもう一人の子の方が気になっていた。僕にとって里香は、何かがあると一緒に遊ぶ大学の友達の一人であった。

4

 そんな僕の感情に変化が生じたのは、入学して一年が経った頃だった。
 二年生の四月、新しく入学してくる一年生を歓迎するために、二年生の間では新歓委員なる者が選ばれ、活動を開始していた。そして、暇人の僕や隆二、里香などの一連の「仲良し」グループの面々も、もれなくその活動に参加していた。その頃の僕達の大学生活は「退屈の極み」に達しており、何か刺激がありさえすればそれが何であれ、とりあえずは首を突っ込んでおこう、というような状態になっていた。新歓委員の間で「ガチ飲み」なる飲み会が企画された。居酒屋で飲み放題のコースを予約し、新入生歓迎のためのコールの練習をするのだそうだ。
 二時間の間、大量のアルコールが僕の胃の中を出たり入ったりした。馬鹿騒ぎをする時、僕は前線に立って真っ先に馬鹿をやる性質なのだが、その最中もその後も、僕の胸の内はいつも虚しさが充満していた。他人が僕に求めていることを察しその要求を満たす事が、僕が自分を取り巻く世界の中で存在しているということなのだ。自分がしたいようにするのではなく、世界が求める様にする。そんなことは分かっているし、本物とキャラクターとの差に苦しむような年齢も過ぎた。それでも、自分を取り巻く世界の中で生きていくことに感じる虚しさに変わりは無いし、「あぁ、馬鹿らしい」と思ってしまうのだ。そして、世界に馴染めない感傷的な主人公という役柄に陶酔している自分の陳腐さに、嫌悪感を感じるもう一人の自分がいたりする。飲み会という社交の機会の度に、色々の感情の渦巻を飲み干す様に、僕は酒を飲むのだ。
 飲み会の途中で僕はタバコを吸いに店の外に出た。学類の人は吸う人はいないし、店の中にいたらコールをかけられてすぐに吐き出すであろう大量のアルコールをしこたま胃の中にぶち込まれるからだ。
 火を着けながら、ゆっくりと一口目を吸い込む。そしてゆっくりと吐き出す、退屈と一緒に。酒を飲んで酔っている時にタバコを吸うとなんだか余計にボーっとして脱力してしまう。この時もまさにそれであった。焦点を合わせずにぼんやりと周りを眺めるのが楽しい。店の外には大量の自転車が停めてある。隣の店から数人のグループが飲み終わって出てきた。僕は店の出口の横でタバコを吸っていたのだが、その反対側のスペースでは十人ちょっと位の人たちが溜まって何やら騒いでいる。よくある酔っ払いとよくある光景だ。
 僕はぼんやりとすぐ横の酔っ払いたちを眺めていたのだが、すぐにその集団が持つ尋常ならざる物に気づいた。見たところ、彼らは飲みすぎた友人を介抱しているようだった。ここで「ようだった」と書いたのは、僕の目に映った光景やその様子は、まさにそれとしか言いようの無い光景であったからだ。しかし、何かがおかしい、何かが普段のそれとは異なっている。
 彼らは大声で話し、互いに意思疎通している。しかし、その声は僕にも聞こえるのだが、一言も意味を持った言葉として僕の耳に入ってくることは無かった。それに気づいて何語だろうと思い、僕は彼らの言葉に耳を傾けた。彼らは東洋人に見えたが、彼らの話す言葉の強弱の具合は中国語にも韓国語にも聞こえなかった。それは言葉と言うよりもむしろ、心から何のフィルターも介さずに発せられる「呻き」の様に聞こえた。
 僕はそれから五秒間ほど彼らの様子を注意して見聞きしていたのだが、彼らはどうやら耳の不自由な人たちであるらしいことが分かった。彼らの声は大きく感情的であるように聞こえた。彼らは話すときに、互いの顔を近づけ見詰め合って話していた。そして、手を握ったり抱き合ったり、体の一部を接触させながら話していた。何も知らない人が見たら、酔っ払った男女が少なからず度を越した接触を行っているように見えただろう。
 僕は惹きつけられた様に彼らの様子に見入ってしまった。壁際にいる女の首の後ろに両手を回して、その女何やら語りかけている男。その男と女の顔は十五センチくらいしか離れていないのではないだろうか。男が何やら語りかけているが、女は斜め下を見て視線をそらしている。泣いているようにも見える。そのすぐ横にも似たような男女の組が二、三ある。その他には酔っ払いを介抱する人、手持ち無沙汰な人、等等がいるのだが、その絡み合っている男女の組に好奇の視線を送るでもなく淡々と自分のすべきことをしているように見える。
 僕も少なくない数の酔っ払いを見てきたつもりだが、あの絡まり方、距離、両者の間にある性的な肉感は見たことが無かったし、異様さを感じた。酔っ払って引っ付きあっていると言う感じではないのだ。あの絡まり方はもっと個人的なのだ。親密な男女が部屋で二人きりになって、互いの目を探る様にして見詰め合い、音の無い会話を楽しむ、いわば秘密を共有するように。そんな個人的な会話を飲み屋の前でやっている。しかも何組も。それをあたかも普通に話しているかのようにスルーする彼らの仲間たち。彼らにとってはそれが日常なのであろうか。
 そんな光景を目の当たりにして、僕の中には戸惑いとともに、何故だか言い知れぬ罪悪感が沸いてくるのであった。見てはいけない物を見てしまった時の様なバツの悪さである。しかしそれと同時に、僕は自分の心の奥が、微かに燃え始め、熱を帯び始めている事に気づいた。何故このタイミングでそうなるのか、自分でもよく分からなかった。けれども、互いに見詰め合い触れ合いながら、痛みを吐き出すようにして呻きながら語り合っている彼らを見ると、僕の心は燃えるように熱くなるのだった。
 その一団の発する声は、どうしても僕にはもがき苦しみ、呻いている人の声のように聞こえた。苦しみ、血を流しながらも、彼らは何のフィルターも介さずに向き合い触れ合っている。その光景を目の当たりにした後、ふと戻ってきた意識で自分を見詰めたが故に、僕は何とも言えぬ惨めな気がしたし、心が燃えた様になってしまったのだろう。
 親指にも熱を感じて手元を見ると、タバコが根元まで燃えて短くなっていた。僕はそれを踏み消して店内に入った。

5

 飲み会が終わった後、僕と隆二と女の子二人組みはいつもの様に店の外でグタグタと喋り始めた。通りかかった人が見れば若者達が語り合っているように見えたのだろう。でも実際は文字通りにグタグタしているだけなのだ。いつもと同じ、何の意味も答えも無い事を繰り返し言い合っているに過ぎないのだ。お互いがお互いの話なんて聞いていないし、お互いに自分の言いたい事を、思いついたままに吐き出しているだけなのだ。
 その日、里香は落ち込んでいて自虐的になっていた。里香がそうなるのは珍しいことではない。いつもの事だ、と言ってもいいかもしれない。彼女は慢性的に鬱状態であったし、自分の生活に不満を抱えているらしかった。里香は「あーぁ」「何か良い事ないかなぁ」「どうせ駄目だよ」といったことを繰り返していた。そして、自分は誰にも理解されていないと嘆いていた。皆はいつもの事だと言うように適当に合いの手を入れて流していたが、僕は何故だか里香の言葉と態度に苛立ちを覚えた。他人を拒んでおいて、そのくせ自分が理解されないと嘆くのは身勝手だと思った。そんな里香に意地悪を言って苛めてやりたくなった。
「お前、まだ男が出来ないの?」
「・・・」
「じゃあ、俺も彼女いないしちょうど良いから俺と付き合いなよ。」
「結構です」
「あそ、俺、結構君の事好きだよ」
「女の子はそんなすぐに誰にでも好きって言う様なやつは嫌いなの。」
「ふーん、じゃあこれからどうすんの、大学生活あと三年もあるし。やばいんじゃない?」
「ふん」
 里香ただ「うん、そうだね」と言って相槌を打ってもらいたかっただけなのかもしれない。それでも何だか僕は里香を言い立てずにはいられなかった。
 そうしているうちに、里香は本当に落ち込んでしまって半べそをかき出してしまった。何を言っても聞かず、「私なんかもう駄目なんだ」「私、本当に男運が無いんだ」と言うようなことを繰り返すばかりだ。
 そうなっても、いつもなら「あぁ、面倒くさいなあ」と思うだけなのだが、この日の里香は何だかいつもと違って見えた。彼女は本当に追い詰められていて、今にも壊れてしまいそうに見えた。この里香は殻の奥の本物の里香であるように思えた。冷たい殻の中。その暗闇の奥をじっと目を凝らして見つめると、少女が一人でひざを抱えて寂しそうに座っている。その目には涙が一杯に溜まっていた。
 急に里香が愛しく思えた。傷付いて弱りきっている里香は、今にもバラバラに壊れてしまいそうで、誰かの助けを必要としていた。そんな里香は余りにも小さく、いじらしかった。抱きしめたい衝動が沸き起こった。しかし、僕はそんな自分の感情に驚き、怖気づき、ただ黙り込むだけであった。新たに沸き起こった里香を慈しむ感情を押さえ込むように、恐れが大きくなり、僕を支配したのだろう。どんなに僕が助けたいと思っても、里香が求めているのが僕ではないなら、どうすることもできないじゃないか。そう思うことで、自分の恐れをごまかした。
 目の前に傷付き弱っている女がいて、自分は彼女必要とされていない。膨れ上がる感情に胸を押され、僕はやりきれない不条理に言葉が詰まった。これが僕にとっての愛しさなんだ、行き場の無いそれに呑まれて息ができなくなり、胸が苦しい。何処にもたどり着けない思い、その熱に浮かされ恍惚となる。その快感のために僕は女を愛しいと思うのだ。
 里香を愛でていたはずの感情が、それを内に仕舞い込もうとした為に、いつの間にか自己陶酔に変わろうとしていた。しかしその時、さっきの呻くように話す人たちの姿が頭に浮かんだ。そして、それを見たときの言い知れぬ惨めさも胸の内によみがえって来た。真っ直ぐな彼ら。黙り込む僕。僕が見ていた里香が持つ心の壁、あれはもしかしたら僕の壁なのかもしれない。   
 愛しいやら、もどかしいやら、怖いやら、惨めやら、色々な気持ちが僕の中で膨れ上がり、はち切れんばかりになっていた。一杯になった気持ちが、言葉になる前にそのままの形で溢れ出てきてしまいそうだった。何で抑えてるんだろう。彼らみたいに吐き出してしまえばいい。そう思う僕と、何故かは分からないけれど必死で自分を押さえ込んでいる僕とが、壁一枚を隔てて押し合いをしている。その壁は里香の壁、そして僕の壁だ。二人を隔てる壁。
 膨れ続ける感情の圧力に耐えかねて、壁に亀裂が生じたように思えた。
 ポン。僕は里香の頭の上に手を置いて撫でた。
「元気出せよ。んじゃね」
 そして、僕は隆二と帰った。

 



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