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あるフランスの内乱

訳者解題

 ここに緊急アピールのようなかたちで発表されたシチュアシオニストの文章は、5月13日に始まったアルジェリア駐留フランス軍とフランス人入植者(コロン)によるクーデタの試みを受けてのものである。
 アルジェリアでは、1954年からFLN(国民解放戦線)が武装蜂起を開始し、アルジェリア独立戦争が戦われていたが、FLNの戦いに対するヨーロッパ人入植者と軍、極右組織のテロ活動は熾烈を極めていた(56年のフランス軍によるベンベッラの誘拐、57年のアルジェの実質上の戒厳令化とFLNへの拷問・虐殺)。FLNを中心としたアルジェリア人民も57年の「アルジェの戦い」で知られるゲリラ戦を展開する一方で、「アルジェリア革命全国評議会」を全国に設置し、モロッコ、チュニジア領内に本拠を移し、そこから外交政治活動を強め、国際世論に訴えた。
 こうした中で、1958年5月13日、アルジェ市駐留フランス軍の降下師団司令官マシュー将軍を中心とする将兵グループと、ヨーロッパ人入植者のデモ隊3万人がアルジェリア政庁を占拠、マシューを長とする公安委員会の設置を宣言し、植民地を舞台としたクーデタを敢行した。同時に、コティ大統領に対しても、フランス本国に治安政府を設け、将軍ド・ゴールを指導者とするよう要求した。
 こうした動きに対して、かねてからFLNへの弾圧強化政策を進めてきた社会党ギーモレ首班の「共和戦線」内閣(社会党、急進社会党左派、ド・ゴール左派)は、まったく対応できなかった。議会左翼である共産党も、内閣のアルジェリア弾圧のための特別大権付与に賛成票を投ずるなど、政府のアルジェリア政策に追随するだけだった。また、56年総選挙で、反税・反権力を掲げて後進地域の商人や中小企業家の票を得て議席を伸ばしたブジャード党も、混乱に拍車をかけていた。こうした事態に対処するため、翌14日、モレ内閣に代わりフリムラン内閣が発足し、アルジェリア駐留フランス軍総司令官サラン将軍に反乱鎮圧を命じたが、サランは反乱軍に付き、「全アルジェリア公共治安委員会設立宣言」に署名し、アルジェリアはヨーロッパ人植民者による独立政権樹立の動きを強めた。さらに、24日には、コルシカ島でも陸軍降下部隊が実力行動に出て、ド・ゴール政権樹立を要求してフランス本土へ迫る勢いとなった。フリムラン首相はフランス本土の内戦の危機を国民に訴え、ド・ゴールに事態の収集を要請。29日、コティ大統領はド・ゴールに組閣を要請した。ド・ゴールは6月1日、国民議会で首相に選出され、2日にはフランス全土とアルジェリアの非常事態権限を得て、4日、アルジェに赴き、アルジェリアでの選挙の提案を行うのである。




 「私達の戸口にいるのはカティリナ*1ではなく死である。」
P・J・プルードン、ヘルツェン宛て、1849年

 この雑誌が印刷されようとしていた間に、重大な事件がフランスで突発した(5月13日~6月2日)。今後の展開次第ではこの事件はヨーロッパにおける生活の他の多くの様相に対しても、前衛文化の諸条件に対しても、重くのしかかることになるかもしれない。
 歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある*2というのが本当だとすれば、第4共和政末期の喜劇の中でたった今、繰り返されたのはスペイン戦争である。第4共和政の政治の基本は、ずっとこれまでその非現実性にあったが、今度のように流血を見ることなく迎えた共和政の死それ自体も非現実的だ。第4共和政は植民地に対するいつ終わるとも知れない戦争と不可分だった。フランス国民の利害・関心は戦争を停止することにあり、植民地主義を掲げる産業部門の利害・関心は戦争に勝つことにあった。議会はこのどちらの利害・関心に対しても無能であるように見えたが、実際は、まさしく植民地主義者たちと彼らに仕える軍隊との側に立って、ここ数年来いろいろ譲歩を重ね解散を繰り返してきたのであり、今また、その彼らの権力に対して席を譲る覚悟をしていたのだ。
 アルジェリア駐留軍が反乱をくわだてたとき、誰もが予期したように、共和国政府はほとんど犠牲をはらうこともなく、彼らをもとの規律に服させることができたはずで、月末には抵抗もまだ必要かつ容易だった。ところが、政府は当初、議会内左翼多数派を通じて国民に頼らねばならなかった。コルシカ島を征服され空艇部隊によるパリ攻撃の脅威に晒されるに及んで、政府は最後には、(かつて武装民兵を率いたカップによるベルリン暴動*3の当初の成功を無に帰せしめたのが、政府によるあのゼネスト組織であったように、今回もそのようなゼネストを組織することによって)動員された人民の実効力に頼るべきなのに、そうはしなかった。そうした革命過程には、召集兵や戦艦乗組員に対して、自分たちの反乱上官に反対して決起するよう訴えること、そしてとりわけアルジェリアの独立を承認することが含まれていたが、それは[政府には]ファシズムよりもずっと危険に思えたのだ。
 共産党はこの危機において議会体制の最上の擁護者以外の何ものでもなかった。ところが、当の体制は左翼多数派の中に共産党の票数を数えいれることをまさしく拒否することによって、崩壊点に達していたのである。相変わらず体制は、右翼少数派がこれまで自らの政策を押しつけるときに使ってきた無類の威嚇手法、すなわち、権力奪取にいそしむ共産党という神話の、徹底した犠牲者であった。権力奪取に全くいそしんでいなかった共産党はこうして、議会でただ1つの作戦も成功させることなく、大衆を失望させ、武装解除させていたのだった。それに議会のほうもまた、当の右翼少数派であるブルジョワジーの責任者たちに申入れを受け入れてもらうように、徹底して努めたのである。これらの責任者は彼らなりに石のように断固たる態度のままであったため、共産党員たちは議会で最初の成功を記すことができなかった。体制はその前に瓦解するだろうというわけだ。5月28日には、議会ではなく国全体を反ファシズム闘争に引き入れることが可能であるように見えた。ところが、5月29日の夕方、CGT(労働総同盟)は主な武器である無期限のゼネストに打って出ずに、6月1日のデモは純粋に形ばかりのものでしかなかった。
 大衆にしてみれば、どうでもよかった、なぜなら、大衆はこれまで久しく、議会内で右翼穏健派を支持するか、それとも、一種の穏健な人民戦線、といっても、非共産党議員から絶対に拒否されていたのでユートピアに等しいような人民戦線を支持するか、という誤った二者択一しか提供されてこなかったからである。政治に関心を示さない分子たちは大新聞とラジオによって眠り込まされていた。これらの情報手段をコントロールしてそれを最も上手に利用するような政府であったなら、充分な猶予期間を駆使して国に事態の重大さを知らせていただろうが、資本主義的な情報提供様式は、生来の傾向をなぞって、国民の大部分に対して体制の断末魔を隠しおおせたのである。政治に関心を示す分子たちは1945年以来、敗北の習慣を身につけていて、彼らがこのような「共和政擁護」の機会に対して懐疑的であったのは無理もない。しかしながら、何10万というデモ隊が5月28日パリにむけて一緒に行進していったことから分かるように、民衆の方こそ立派であり、土壇場で立ち上がったのだ。
 今までのところ、この嘆かわしい事態にはいかなる現代的な特徴も含まれていない。フランスでは、ファシズムは大衆党も綱領も持っていなかった。偏狭で人種差別主義的な植民地主義と、手に届く勝利としては他の勝利が見えなかった軍隊とから成る勢力だけが第1段階として国にド・ゴールを押しつけたわけだが、そのド・ゴールは17世紀フランスの国家的偉大さという、学校で習うような型にはまった観念を代表し、プジャード的*4=軍事的な道徳的秩序への移行を保証しているのだ。工業化を強力に押し進めたこの国では、労働者階級の決定的な行動というものはなかった。ブルジョワジーとプロレタリアートとが政治的に不在であるような段階に陥ったのであって、この段階では権力を決めるのは軍部クーデターなのである。
 われわれはどのような現状にいるのだろうか。労働者の諸組織はこの場合、手つかずである。民衆の一部は事態の重大さを知らされている。アルジェリア駐留軍は相変わらず戦闘を行っている。公式に指名しないうちから既にパリの歴代政府を指揮していた植民者たちは、アルジェでの統治を続けるために、今や、反対されることもなくフランスを統治せざるをえない。相変わらず彼らの目的は、自分たちの利益に資するべくフランスが国を挙げて戦争努力を強化することにあり、それには、現時点でこの国の民主主義が清算されてファシズムの権威が勝利することが必要である。まだ流れを逆転できるとすれば、フランスの民主主義勢力は、自らの態度をとことんまで突き進めざるをえないだろう。つまり、アルジェリアとフランスにおける植民者たちの権力を清算すること、すなわち、FLN*5によるアルジェリア共和制実現を承認することにまで突き進まざるをえないだろう。したがって、短期間の激しい衝突は避けられない。将軍兼大統領の個人的役割について無気力な幻想を抱いたり、統一行動に障害を持ち込んだり、闘争を開始すべきときにあたって新たに躊躇したりすれば、民衆をさらに弱体化し、裏切ることにさえなるかもしれないが、結末を遅らせることにはならないだろう。

1958年6月8日


*1:力ティリナ 古代ローマの政治家で時の権力に反逆したルシウス・セルギウス・カティリナ(前108?-前62年)のこと。一種のクーデタをたくらんだ彼を激しく非難するキケロの弾劾演説は有名で、カティリナは内戦によって道徳的に堕落した青年の典型とされている。

*2:歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』第1章の冒頭の言葉。

*3:カップによるベルリン暴動 ドイツの偏狭なナショナリスト、ウォルフガング・カップ(1858?-1922年)が1920年、ワイマール体制の転覆を図って行ったクーデタ暴動。暴動はベルリン市民の果敢なゼネストによって失敗に帰した。

*4:プジャード的 南仏の文房具店主ピエール・プジャード(1920-)が組織したプジャード運動(1953年、税制改革に反対する小売業者を組織してフランス商人職人防衛連合を創設して反税運動を展開し、翌年には、チュニジアを手放したマンデス・フランスから多国籍企業、哲学者・知識人、外国人まで祖国に背く者をすべて攻撃するファシスト的右派政党にまで発展し、56年の総選挙では52議席を獲得するまでに躍進した)にちなみ、プチブル層の生活保守意識に根ざした偏狭で排外主義的な感情的愛国主義意識をさして言う。

*5:FLN アルジェリアの「国民解放戦線」。フランス政府のアルジェリアに対する融和的な自治案に反発し、1954年11月、各地で独立を求めて武装蜂起を起こす。以来、アルジェリア独立を掲げ、フランス軍と植民者テロ組織の残虐な弾圧に抗して戦い、1962年の独立を勝ち取った。

付録資料 状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告 1

現代文化における革命と反革命

 世界を変革しなければならない、われわれはまず、そう考える。われわれが閉じこめられている社会と生を最大限に解放する変革、それをわれわれは欲するのだ。この変革はそれに適した行動によって可能になることをわれわれは知っている。
 われわれの任務はまさに、ある種の行動手段を活用すること、そして新たな行動手段を発見することにある。それはどこよりも文化と風俗習慣の領域において容易に認められるものであるが、それらをあらゆる革命的変革の相互作用という展望のもとで活用しなければならない。
 人々が文化と呼ぶものは、ある社会における生の組織化の様々な可能性を反映するだけでなく、それをあらかじめ描き出すこともある。われわれの時代は本質的に、より高度に世界を組織化することを必要とする生産の現代的可能性の発展に対して、革命的な政治行動が遅れをとっているという特徴を持っているのである。
 われわれは歴史の本質的危機を生きている。そこでは、新しい生産諸力と一文明の形成とを世界規模で合理的に支配するという問題が年ごとに次第に明確に提出されている。しかしながら、搾取の経済的下部構造を前もって転覆することの成否がかかっている国際的な労働運動の行動は、いまだ地域的には半分の成功しか収めていない。資本主義は市場における統制経済、流通部門の増大、ファシスト的政府などの新たな闘争形態を発明している。それは労働者の指導部の退化に支えられ、種々様々な改良主義的戦略によって階級対立を覆い隠している。そうして、資本主義は現在まで、高度に産業化された国々の大半においては古い社会関係を維持し、社会主義社会からは不可欠な物質的基盤を奪い取ることができたのである。逆に、この10年来、帝国主義とのより初歩的な闘争に大規模に巻き込まれてきた低開発国や植民地国は、非常に大きな成功を克ち取るようになってきた。この国々の成功は、資本主義経済の矛盾を深刻なものとし、そして、主として中国革命の場合のように、革命運動全体の再生を促している。この革命運動の再生は資本主義諸国あるいは反資本主義国内部での改革にとどまらず、至る所で、権力問題を提出せずにはいない衝突を発展させるだろう。
 現代文化の破産は、混沌の極みにあるこれらの敵対諸力の──イデオロギー闘争の側面における──産物である。新たに定義されつつある新しい欲望は、不安定なままの状態で表明されている。時代の資源はそれらの欲望を実現可能にしているが、遅れた経済構造はこれらの資源を活用することができないのである。同時に、支配階級のイデオロギーはそのまとまりをすべて喪失してしまったが、その原因は、そうしたイデオロギーが、次々に現れる自らの世界観を軽蔑し、歴史に関する非決定論へと向かってきたこと、キリスト教と社会民主主義のように、原理的には敵対する反動思想を年代順に配置して共存させてきたこと、さらに、つい最近になってその価値が認められたばかりの、西洋現代に異質な多くの文明によってもたらされるものをでたらめに混ぜ合わせてきたことにある。支配階級のイデオロギーの主要目的は、したがって、混乱を生み出すことにあるのである。
 文化においては(文化という語を用いる場合、たとえ偉大な科学理論や一般的教育観のレヴェルでの混乱を明らかに感じさせることになるとしても、われわれはつねに、文化の科学的もしくは教育的側面は無視する。文化という語でわれわれが示すものは、美学と感情と風俗の複合体であり、それは日常生活に対して一時代が示す反応なのである。)、混乱を旨とする反革命の手法は、様々な新しい価値の部分的併合、巨大産業(小説、映画)の手段を用いた意図的な反文化的生産を同時並行的に進めるものであるが、それは学校と家庭における青年の無知蒙昧化の当然の帰結である。支配階級のイデオロギーは、体制転覆的な発見を凡庸化することを組織し、そうした発見に殺菌処理を施した上で大々的に普及させるのである。そうしたイデオロギーは、転覆的資質を持つ個人を利用するのに成功することさえある。死んだ個人に対しては、その作品を変造することによって、生きている個人に対しては、全体的なイデオロギー的混乱を利用して、支配階級が商う神秘思想のひとつで彼らを中毒させることによって。
 清算段階におけるブルジョワジーの矛盾の1つは、したがって、知的・芸術的創造の原理は尊重し、それによって創造されたものにはただちに反対し、次にそれを利用するというところにある。こうした矛盾が生じるのは、ブルジョワジーというものは少数派のなかに批判と探求の意味を保持しなければならないが、それはこうした活動を厳密に断片化された実用的専門分野へと方向付け、全体的な批判と探求を遠ざけるという条件下においてであるという理由からである。文化の領域においては、ブルジョワジーは、われわれの時代において彼らにとって危険な新しいものに対する嗜好を、ある種の堕落した形態の珍奇なもの、非攻撃的で混乱した珍奇なものへと逸らせることに努めている。文化的活動を支配している商業のメカニズムによって、前衛的傾向は自らを支えうるフラクション── 社会状況の全体によってすでに制限を加えられているフラクションであるが──から切り離されているのである。これらの傾向のなかですでに注目を集めている者たちは様々な断念の強制という犠牲を払い、一般的には、個人という資格でのみ認められる。主要な論点は、常に、全体的要求を断念し、様々な解釈を許す断片的作業を受け入れるという点にある。それこそが「前衛」というこの用語──結局のところ常にブルジョワジーによって操作された用語──に、どこかしら胡散臭いばかげた匂いを付与するものである。
 集団的前衛という概念そのものは、そこに含まれた闘争的側面と同様、歴史的諸条件の最近の産物である。この歴史的条件は、文化における首尾一貫した革命プログラムの必要性を産み出すと同時に、そのプログラムの発展を阻害する勢力と闘う必要性も産み出しているのである。そうした集団は、革命的政治によって作られたいくつかの組織方法を自らの活動領域に移し換えるよう導かれ、その行動も以後もはや政治批判と無関係には産み出され得ない。この点に関して、未来派、ダダイズム、シュルレアリスム、そして1945年以降に形成された諸運動のあいだでの進歩は著しい。しかしながら、これらの各段階に、変革に対する同一の普遍的意志が見出せる。そしてそれらは、現実世界を根底から変革することができなくなり教義的立場そのもの──その不十分さはつい最近、暴露されたばかりである──への決定的退却を余儀なくされた時にも、同じように素早く雲散霧消したのである。
 未来派は第一次世界大戦の前夜にイタリアからその影響力を広めたが、文学と芸術を一変させるという態度を採った。それは、数多くの形式的新しさをもたらしたが、しかし、機械的進歩の概念を極端に図式的に適用することに基づいていたにすぎない。技術に対する未来派の楽観主義の幼稚さは、それを支えていたブルジョワジーの幸福の時期が去ると同時に消え去ってしまった。イタリア未来派はナショナリズムからファシズムへと雪崩を打って崩れてゆき、当時の時代のより完全な理論的展望に到達することは決してなかったのである。
 チューリッヒとニューヨークで、第一次大戦の亡命者と脱走兵たちによって構成されたダダイズムは、ブルジョワ社会──その破産は誰の目にも明らかになったばかりだった──のあらゆる価値を拒絶する存在たらんとした。第一次大戦後のドイツとフランスでの彼らの激しい示威行動は、主として芸術と文化の破壊に関するものであり、副次的にある種の行動形態(見せ物、演説、わざとばかげたやり方でなされる散策)に関わることもあった。彼らの歴史的役割は、文化というものの伝統的捉え方に対して致命的一撃を加えたことにある。ダダイズムのほとんど即時の解体は、ダダイズムそのものの持つ完全に否定的な定義から必然的に生じたものである。だが、ダダの精神がその後に生まれたすべての運動をなにがしか決定付けたことは確かだ。また、歴史的にはダダイストのものであった否定的側面が、後の建設的立場を取るどのような運動にも再発見されねばならないことも確かである。腐り果てた上部構造の繰り返しを余儀なくさせる社会状況──その審判は知的な側面ではとっくに下されている──が力づくで一掃されないかぎりそうなのだ。
 シュルレアリスムの創始者たちは、フランスでダダの運動に参加した者たちだが、ダダイズムによって明らかにされた道徳的反逆と伝統的コミュニケーション手段の極度の衰退から、自らの建設的行動の領域を確定しようと努めた。シュルレアリスムは、フロイトの心理学を詩的に適用することから出発して、自らが発見した方法を、絵画や、映画や、日常生活のいくつかの局面に広げた。やがて、それらは拡散した形式のもとで、さらに広げられた。こうした性格の試みにとっては、絶対的にあるいは相対的に正しいかどうかが問題ではなく、一定の期間、その時代の欲望を結集できるかどうかが問題なのである。観念論の清算と弁証法的唯物論への賛同の時期と特徴づけられるシュルレアリスムの進歩の時代は、実際は1930年代の少し後に終ってしまっていた。だが、その退廃が誰の目にも明らかになったのは、ようやく第二次世界大戦の終わりになってからのことであった。シュルレアリスムはそれ以来、かなりの数の国に広がっていった。さらに、それは自らの規律を定めるにいたったが、その厳格さは過大に評価してはならず、さまざまな商業的配慮によってしばしばやわらげられたものだった。だがこの規律こそは、ブルジョワジーの攪乱戦術との闘いの有効な尺度だったのである。
 シュルレアリスムのプログラムとは、欲望と驚異の至上権を肯定し、生の新しい使い方を提案するものであるが、一般に考えられる以上に建設的な可能性に満ちたものである。
 確かに、実現のための物質的手段の不足によってシュルレアリスムの豊かさは大きく制限されたが、その最初の首謀者たちの交霊術への到達と、そしてとりわけそのエピゴーネンらの凡庸さを見ると、シュルレアリスムの理論の発展を否定するものは、まさにこの理論そのものの起源にあったのだと言わざるをえない。
 シュルレアリスムの根底に存在するものは、無意識の想像力が無限に豊かだという誤った考えである。シュルレアリスムのイデオロギー的失敗の原因は、無意識こそがついに発見された生の偉大な力だと確信したことにある。そして、それなりに思想史を再検討しながら、そこまででやめてしまったところにある。われわれは結局、無意識の想像力は貧しく、オートマティズムは単調であり、常に変わらぬシュルレアリスト的様相を典型的に示している「突飛な」種類のものがことごとく極端に驚きのないものであることを知っている。こうしたスタイルの想像力に形式的に忠実であると、最後には想像力の現代的諸条件と正反対のところにいってしまう。すなわち、伝統的神秘主義というやつだ。どれほどシュルレアリスムが無意識というその仮説に依存しつづけているかは、第2世代のシュルレアリストが試みている理論的深化の作業から読み取ることができる。カラス*1とマビーユ*2は、すべてをシュルレアリストの無意識実践から生じる2つの連続した局面に結びつける。前者にとっては、精神分析であり、後者にとっては宇宙的影響関係である。実際、無意識の役割の発見はそれ自体が1つの驚きであり、新たな事実だったのであり、将来の驚きと新たな事実についての法則などではなかったはずだ。フロイトが「全て意識されるものは古びてゆく。意識されないものは変化しないままにとどまる。だがそれも、いったんそこから自由にされると、瓦礫と化してしまうのではないだろうか」と書いたとき、彼も結局はこのことを発見していたのである。
 シュルレアリスムは、現実といまだに強く求められている諸価値との間の断絶が不条理にまで追いやられている明らかに非合理な社会に反対し、その社会に対して逆に非合理的なものを用いて、うわべだけの論理の価値を破壊しようとした。シュルレアリスムの成功そのものは、次の事実に負うところが大きい。すなわち、この社会のイデオロギーは、その最も現代的な面において、まがいものの価値の厳格なヒエラルキーを断念したが、逆に今度は自らが非合理的なものを公然と利用し、さらにそれを機会にシュルレアリストの遺物までをも利用しているという事実に、である。
 ブルジョワジーはとりわけ、革命的思想の新たな出発を阻止しなければならない。ブルジョワジーはシュルレアリスムの脅威的な性格をかつて意識していた。現在の美術市場のなかにそれを解体させることができた今となっては、彼らもシュルレアリスムが無秩序の極みに達したことを確認して悦に入っている。そのようにしてブルジョワジーはある種のノスタルジーを涵養すると同時に、どのような新たな探求も自動的にシュルレアリスムのデジャ・ヴュ──すなわち、ブルジョワジーにとって、もはや誰からも再検討されえなくなった敗北──へと導くことで、その権威を失墜させているのである。キリスト教道徳に基づいた社会の疎外を拒否することか原始社会の完全に非合理的な疎外を尊重するようになった人々もいる。だがそこまでだ。さらに前進しなければならない。そして世界をよりいっそう合理化せねばならない。それこそがこの世界を情熱にあふれたものにする第1の条件である。


*1:ニコラ・カラス(1907ー) スイス生まれのシュルレアリスト。1930年代後半、パリでシュルレアリストと交わり、大戦中は合衆国に渡りシュルレアリスムの雑誌『ヴュー』や『VVV』に協力する。その後、大学の美学教師になりポップ・アートの擁護者として美術批評を多く書く。代表作 『火元』(1938年)はシュルレアリストらに熱狂的に受け入れられた。

*2:ピエール・マビーユ(1902一52年) フランスのシュルレアリストの作家・医者。1930年代にシュルレアリスムの雑誌『ミノトール』の編集に携わり、精神分析や人類学、とりわけ「鏡」に関する多くの文章を発表。戦後は、雑誌『ネオン』に協力し、ブルトンとともに活動したが、1952年、急死した。代表作に『驚異の鏡』(1940年)


ブルジョワ思想の最高段階としての解体

 いわゆる現代文化は、パリとモスクワをその2つの主要中心地とする。パリから発する流行──その作成においてフランス人は多数派を形成するわけではないが──は、ヨーロッパとアメリカ、そして日本のような資本主義地帯の他の先進国に影響を与える。モスクワによって行政的に押し付けられた流行は労働者国家の全体に影響し、わずかに、パリとその影響のおよぶヨーロッパ地域に逆に作用する。モスクワの影響は直接的に政治的な起源を持つものである。未だに保たれているパリの伝統の影響力を説明するには、様々な職業の集中によって獲得されたパリの優位性を考えなければならない。
 ブルジョワ思想は体系的な混乱のなかで見失われ、マルクスの思想は労働者国家のなかで根底から変質し、西も東も主として文化と風俗の領域で保守主義が君臨している。この保守主義は、モスクワでは、19世紀のプチブルジョワジーに典型的な態度をとりつつ大手を振って歩き、パリではアナキズムやシニスム、あるいはまたユーモアといった形で偽装を凝らしている。どちらの支配的文化もわれわれの時代の現実の問題を取り入れることにかけてはまったく不適格であるが、経験という点については西側のほうがはるかに遠くまで推し進めてきたと言える。一方、モスクワの支配地域はこの分野での生産については後進国の様相を呈している。
 全体として知的自由が許容されてきたように見えるブルジョワ支配地域では、様々な思想の動きが認識され、環境の多様な変化が漠然と展望されているおかげで、制御しえない動機に衝き動かされた現在の大変動もたやすく意識することができる。支配的な感受性は、最終的には自らにとって必ず有害となる新たな変化を阻止しつつそれに適応しようと試みている。遅れた諸潮流が同時に提案している解決策は、必然的に次の3つの態度に帰着する。ダダ-シュルレアリスム危機がもたらした流行を引き伸ばすこと(その危機とは、過去の生活スタイルが終わり、その時まで認められていた生の理由が崩壊した時に、いたるところで自発的に現れ出た精神状態を入念に練り上げて文化的に表現したものにすぎなかった)、精神の廃墟のなかにとどまること、そしてはるかな過去への回帰である。
 現在もなお続いている流行に関して言えば、あらゆる場所でシュルレアリスムを薄めた形態のものに出会うことができる。そこにはシュルレアリスムの時代の趣味はすべてあるが、その思想は何1つない。反復こそがその美学なのである。正統派シュルレアリストの運動の生き残りたちは、この老いぼれた神秘主義の段階において、イデオロギー的立場を取ることもできなければ、何であれ発明することもできないでいる。彼らは、常にますます卑俗なものになってゆくいかさまを支持し、さらに別のいかさまを求めるのである。無のなかにとどまる態度は、第二次大戦に続く時期に最も精力的に自らの認知につとめた文化的解決策であった。それは、それまで数多く示されていた2つの可能性のどちらかを選ぶに任せる。都合のいい言いわけを言って虚無のなかに隠れるか、無神経にそれを肯定するかである。
 最初の選択肢は、実存主義文学以来とりわけ有名になった。それは、借り物の哲学のかげで、それまでの30年間の文化の進歩のなかで最も凡庸な面を再生産し、マルクス主義あるいは精神分析の偽造によって、さらには、行き当たりばったりに政治的参加と断念を繰り返すことによって、本来は広告的関心にすぎなかった自らの関心を弁護してきたのである。これらの手法は非常に数多くの追従者──公然のあるいは密かな──を生んだ。抽象絵画と、抽象絵画を定義する理論家がたえずひしめき合っているのも、同じ性質の、それに比肩しうる規模の事実である。完璧な精神的無を喜んで肯定する態度は、最近の新文学において、「右翼青年小説家のシニスム」と呼ばれる現象の1つである。それは、右翼の者たちをも、小説家をも、彼らを支持する半青年層をも越えて広がっている。過去への回帰を要求する初潮流のなかで、社会主義レアリスムの教義は最も大胆な態度を示している。なぜなら、革命運動の結論に依拠すると言いながら、それは文化の創造という領域では擁護しようのない立場を取るからである。1948年のソヴェト音楽家大会で、アンドレイ・ジダーノフ*1は彼が行っていた理論的抑圧の争点を示してこう言った。「われわれが古典絵画の宝庫を維持し、絵画の清算者たちを壊走させたのは正しかったであろうか?る『流派』を生き残らせることをもって、絵画の清算を意味したのではないだろうか?」こうした絵画の清算や、そして他の多くのものの清算を眼の当たりにすると、進化した西側のブルジョワジーなら、彼らのすべての価値体系が崩壊したことを確認し、イデオロギーの完全な解体の上に、絶望的反応と政治的日和見主義に陥る。しかしジダーノフは逆に、──成り上がりもの特有の趣味によって──前世紀の文化的価値の解体に反対するプチ・ブルジョワのなかに自らの姿を認め、それらの価値を権威主義的に復興する以外、何も試みようとはしないのである。歴史がそれぞれの時代にさまざまな問題から引き出した結論をすべて仮説によって排除した後で、すでに乗り越えられた問題の研究をやりなおすことを強制して、一時的で地域的なものにすぎない政治情勢によって時代全体の問題を回避する力を与えられたと信じるのは、かなり非現実的である。
 宗教機関、主にカトリックの伝統的プロパガンダには、その形態とその内容のいくつかの面において、この社会主義レアリスムと近いものがある。常に変わらぬプロタガンダによって、カトリックは、過去の諸勢力のなかで彼らだけがいまだに所持している全体的イデオロギー構造を防衛する。だが、彼らの影響を逃れてゆく部門──その数は次第に増えているが──を再び捕えるために、カトリック教会は、伝統的プロパガンダに平行して、主として、アンフォルメルと呼ばれる絵画などのように、理論的混乱を抱えた無の支配下にあるもののあいだで、あらゆる形式の現代文化を支配することを追求している。カトリック反動派は、恒久不変の価値のヒエラルキーを確信しているだけに、他のブルジョワ潮流とくらべて、彼らが異彩を放っている分野において、解体を嬉々として貫徹することがいっそう容易である。そういう利点が彼らにはあるのである。
 現代文化の危機の現段階での帰結とは、イデオロギーの解体である。この廃墟の上にはもはや何も新しいものを建設することはできない。そして、あらゆる判断が他の判断と衝突し、誰もが役立たずになった全体的システムの残骸や個人的感情の至上命令に意見を仰ぐなかで、批判精神の単純な行使は不可能になっている。
 解体はすべてにおいて勝利した。大量に使用される商業広告が文化的創造に関する判断によりいっそうの影響を与えることを見ることももはやなくなった。それは昔のプロセスだったに過ぎない。今やイデオロギーの不在の地点に到達したのであり、そこではただ広告活動だけが作用し、前もってなされた批判的判断はすべて排除されている。しかしだからといって、条件反射的な批判的判断がなくなったわけではない。販売技術の複雑なゲームが、自動的に、そして専門家たちがみな驚くことに、文化についての議論の擬似的主題を作り出すにいたっている。それこそが、サガン=ドルーエ現象の社会学的重要性である。この現象は最近3年間にフランスで最も大きな成功を治めた経験であり、その反響はパリを中心とした文化圏の境界を越えて、労働者国家のなかでも関心を呼び覚ましただろう。文化の専門的審判らは、サガン=ドルーエ現象を眼の当たりにして、自分たちが見逃していたメカニズムの予期せぬ成果を感じ取って、この現象はサーカスの宣伝のような手法によるものだと異口同音に説明した。だが彼らは、職業柄、実体のない批評によってこの実体のない作品(どこが面白いのか説明不能な作品こそが、そもそも混乱を旨とするブルジョワ批評の最も豊かな主題となるのだ。)に反対せざるをえない。彼らは、外部のメカニズムがこの空虚を搾取しにやってくるずっと以前から、批評という知的メカニズムがこの空虚を搾取しにやって来るずっと以前から、批評という知的メカニズムそのものが自分たちのもとを離れてしまっていたという事実を、全く意識できないままである。彼らは、サガン=ドルーエが、表現手段全般が日常生活における行動手段というものに変化した事実を滑稽なまでに裏返した姿にすぎないことを決して認めようとはしない。この止揚のプロセスは、作者の生をその作品にくらべてますます重要なものとした。次いで、重要な表現など究極的にはなくてもよくなった時代になると、重要な可能性は作者の人物のなかにしか残らなくなった。この作者というものはもはや、まさに、その年令と、流行の悪徳と、風変わりな古い職業よりほかに何も注目に値するものは持ちえなかったのである。
 イデオロギー的解体に反対して今統一すべき反対派はそもそも、詩や小説のような助かる見込みのない形式のなかで産み出されているガラクタの批判に専心してはならない。批判せねばならないのは、未来の重要な活動であり、われわれが利用すべき活動である。建築における機能主義理論が社会と道徳についてのもっとも反動的な理解に基づいているという事実は、現在のイデオロギー的解体のより重大なしるしである。つまりそこには、初期のバウハウスやル・コルビュジエの流派の一時的に有効だった部分的寄与に、生と生の枠組みについての明らかに後退した観念がこっそり付け加わっているのである。
 とはいえ、1956年以来われわれが新たな闘争の段階に入ったこと、そして革命的勢力の高まりが、あらゆる戦線でこの上なく厄介な障害にぶつかりながらも、以前の時代の諸条件を変革し始めていることは、すべてが示している。同時にわれわれが眼にするものは、社会主義レアリスムが、反資本主義陣営の国々で、そもそもそれを産み出したスターリニストの反動とともに退却しはじめたという事実であり、サガン=ドルーエ的文化がブルジョワジーの退廃のおそらく乗り越え不可能な段階を記しているという事実であり、結局は、西側で第二次大戦終結以来ずっと役に立ってきた文化的急場しのぎの策が尽きてしまったことが相対的に意識されはじめたという事実である。積極的な価値を再発見できるのは、まさに前衛的少数派だけである。


*1:アンドレイ・ジダーノフ(1896ー1948年) ソ連の政治理論家。正統派スターリン主義の擁護者として活動。『文学、哲学、音楽について』(1947年)によって芸術領域での社会主義レアリスムに理論的根拠を与えたことで有名である。


退潮の時代における少数派潮流の役割

 世界的革命運動の退潮は1920年ののち数年して姿を現し、1950年が近づくにつれて次第に顕著になっていったが、それに5、6年ずれて、文化と日常生活の解放をもたらす新しい事物を肯定しようと試みていた運動の退潮が生じた。そうした運動は、イデオロギー的、物質的重要性を絶えず減少させてゆき、社会において完全に孤立した状態にまで至っている。彼らの行動は、より好都合な条件下でなら、情動的環境を突如として刷新することも可能であるのに、保守的傾向によって公式文化のいかさまゲームのなかに直接入りこむ余地を完全に奪い取られた状態にまで弱められている。これらの運動は、新しい価値の創造においてそれが果たすはずの役割から排除され、ブルジョワジーが自らのプロパカンダに新機軸のニュアンスを付け足してくれるような個人を引っ張りだすための知的労働の予備軍となり果てている。
 この分解の地点において、社会における実験的前衛派の重要性は、変革の意志を掲げる苦労をまったく担わずに、世間に認められた文化の現代的側面を大々的に代.表する疑似モダニスト潮流の重要性よりも、一見劣るように見えるかもしれない。しかしながら、現代文化の実際の生産においてそれなりの位置を占め、その文化の生産者として自らの利害を──否定的立場に追いやられているだけにいっそう強く──そこに見出すすべての者は、これらの所与の事実から、終末を迎えつつある社会のモダニストのコメディアンには必然的に欠けている1つの意識を発展させるのである。世間に認められた文化の貧困と、そうした文化による文化的生産の手段の独占に比例して、前衛派の理論と表現の貧困が産み出される。だが、文化についての新しい革命的理解を徐々に産み出しうるのは、この前衛派をおいて他にない。支配的文化と反対文化の萌芽が互いの分離と互いの無力感の頂点に達した時に、この新しい文化理解が明確にならねばならないのである。
 革命の退潮の時代における現代文化の歴史は、かくして、刷新の運動の理論と実践が、少数派潮流との分離と解体派の全面的支配にまで切り縮められてきた歴史である。
 1930年から第二次世界大戦までの間、人々は革命勢力としてのシュルレアリスムの衰退と同時に、シュルレアリスト自身のコントロールを超えてシュルレアリスムの影響が拡大する状況にも立ち合ってきた。戦後の時期になり、1930年ごろの彼らの発展をたたき壊す2つの要素によって、シュルレアリスムは急速に清算されていった。その2つの要素とは、理論的更新の可能性の欠如と、労働運動における政治的・文化的反動によって示された革命の退潮である。この第2の要素は、例えば、ルーマニアでのシュルレアリスト・グループ*1の消滅を直接規定している。逆に、フランスとベルギーでの〈革命的シュルレアリスト〉*2の運動に素早い分解を余儀なくさせたのは、これら2つの要素のうち特に第1のものである。シュルレアリスムから生まれたフラクションが有効な実験的立場の上に維持されていたベルギーを除き、世界中に散らばったシュルレアリストの潮流のすべてが神秘主義的観念論の陣営に加わったのである。
 1945年から1951年にかけて、革命的シュルレアリスト運動の一部を再結集させた「実験芸術家インターナショナル」──それは雑誌『COBRA』 (コペンハーゲンーブリユッセルーアムステルダム)を発行した──が、デンマーク、オランダ、ベルギーで作られ、次いでドイツに広がった。このグループの長所は、今日の問題の複雑さと広さはそうした組織を必要としているということを理解した点にあった。だが、イデオロギー的厳密さが欠如していたこと、彼らの探求が主として造形芸術の面にあったこと、そしてとりわけ、彼らの実験の条件と展望に対する全体的理論がなかったことによって、彼らはばらばらになってしまった。
 レトリスムは、フランスにおいて、既知の美術運動──まさに彼らはそれらが常に衰退していくことを分析していた──のすべてに完全に反対する立場から出発した。あらゆる領域で新しい形態をたえず創造することを自らに課したレトリスム・グループは、1946年から1952年まで有益な活動を行ない続けた。だが、美学分野は昔のものとよく似た一般的枠組みのなかで新たな出発をしなければならないとこぞって認めるという観念論的誤りを犯したため、その後、彼らの産み出すものはいくつかの荒唐無稽な実験に限られてしまった。 1952年、レトリスト左派が「レトリスト・インターナショナル」を組織し、時代遅れのフラクションを除名した。レトリスト・インターナショナルにおいて、諸潮流との激しい闘争を通して、日常生活への新しい介入の手法が追求されたのである。
 イタリアでは、1955年に〈イマジニスト・バウハウスのための国際運動〉というこの上なく強固なセクションを形成した反機能主義の実験集団を除き、古びた芸術的展望にしがみついた前衛集団を形成しようという試みは理論的表現にも到達していなかった。
 この間、合衆国から日本まで、西洋文化への追従が支配していた。それも、西洋文化が持つどうでもよい卑俗さを追い求めていたのである(パリのアメリカ人コロニーに集まることを習慣とする合衆国の前衛派は、パリにいて、イデオロギー的・社会的観点からも生態学的観点からさえも切り離されて、最も平板な順応主義に陥っている)。いまだに文化的植民地主義──しばしば政治的抑圧によって引き起こされた──に服している国民が産み出すものは、それぞれの国では進歩的であっても、先進的な文化の中心地では反動的役割を果たす。というのも、古い創造システムとともに乗り越えられてしまった基準に自らの活動の場を結びつけてきた批評家たちは、自分の気分に応じて、ギリシャ映画やグァテマラ小説に新しさを見出すふりをするからである。彼らはそうして、エグゾティスムに依拠するのだが、ことは別の国で遅れて活用される古い形式の再出現に関わる以上、そのエグゾティスムは反エグゾティスムである。だがそれでも、それはエグゾティスムの主な機能は備えている。すなわち、生と創造の現実的諸条件の外に逃げだすという機能である。
 労働者国家では、ブレヒトがベルリンで進めた実験だけが、スペクタクルの古典的概念を疑問に付すその態度により、今日われわれにとって重要な構築物と近いものを持っている。ブレヒトだけが権力を保持した社会主義レアリスムの愚かさに抗うことに成功したのである。
 社会主義レアリスムが崩壊した今となっては、労働者国家の知識人たちが現代文化の真の問題に革命的なやり方で乱入してくることにすべてを期待できる。ジダーノフ主義が、労働運動の文化的退化だけでなくブルジョワ世界の文化的保守主義の立場をも、最も純粋に表現するものであったとするならば、今日この瞬間に東側でジダーノフ主義に反対して立ち上がっている人々は、その主観的意図がどうであれ、例えばコクトーのような者だけが持つような大きな創造的自由のために立ち上がるわけにはいかないだろう。ジダーノフ主義の否定が持つ客観的な意味とは、「清算」のジダーノフ的否定の否定である。ジダーノフ主義を乗り越える唯一可能な方法は、現実的自由の行使であり、それは現在の必要を認識することなのである。
 ここでも同様に、過ぎ去ったばかりの年月は、せいぜいのところ、懐旧的愚かさによる混乱した支配に対して混乱した反抗をした時代にすぎなかった。われわれはそれほど多くいたわけではない。だが、われわれは、この時代の趣味やちっぽけな発見にいつまでもかかずらわっていてはならない。文化の創造の問題は、世界的規模での革命の新たな前進と関連してはじめて解決されるだろう。


*1:ルーマニアのシュルレアリスト・グループ ルーマニアでは1928年に詩人のサシャ・パナ(1902ー81年)がシュルレアリスムの雑誌『ウナ』を拠点に夢や無意識を重視する幻想的なシュルレアリスムを開始した。1931年には『ウナ』は終刊におちいるが、1930年代に入って次々と刊行された『ウルムズ』、『アルゲ』、『ムジ』などの新しい雑誌によって、シュルレアリスム活動は活況を呈する。こうした中で、パナよりも過激に合理主義そのものに反対し、言語の解体を実践するゲラシム・ルカ(1913ー)、ポール・パウン(1915?)らが頭角を現してくる。第二次大戦中、これらのシュルレアリストの活動は停滞を余儀なくされるが、大戦終結後の1945年、ルーマニアのシュルレアリストは、ゲラシム・ルカと画家のドルフィ・トロスト(1916ー66年)の名で『弁証法の弁証法』を発表し、シュルレアリスムの再生を世界に訴え、ルーマニア・シュルレアリストの復活を果たす。シュルレアリスム自体の革命を訴え、フロイトの無意識理論を踏襲するのではなく「新しい欲望」の創出をめざすこの宣言以降、ルカ、トロスト、パウンらによる「新しいシュルレアリスム」の理論・実践活動が活発に行われるが、1948年、ルーマニアの社会主義体制が確立し、社会主義リアリズムが採用されると、国策に賛同したかつてのシュルレアリスト、セナを除き、ルーマニアのシュルレアリストは全員沈黙を強いられた。ルカとトロストはやがてパリに脱出し、その後、ルカは言語破壊を実践する作品を書き続け、ジル・ドゥルーズから「フランスで最も偉大な詩人」と評されている。

*2:革命的シュルレアリスト 1947年、ブリュッセルでクリスチアン・ドトルモン、パリでノエル・アルノーによって創設されたグループ。大戦中に共産主義者としてレジスタンスを戦った者たちが中心になり、1930年代のシュルレアリストがめざした社会革命と芸術の革命的探究を結合させようとした。グループとしての寿命は18ヶ月と短く、1948年には解体し、その間、『シュルレアリスム革命』誌と『シュルレアリスム革命国際会報』をそれぞれ1号、2回の展覧会とそのカタログ、いくつかのパンフレットを出しただけだが、これらへの参加者・協力者は、ルネ・マグリット、ポール・ヌージェ、マルセル・マリエン、レイモン・クノー、トリスタン・ツァラらフランスとベルギーのシュルレアリストから抽象表現芸術の作家、ベルクやウェーベルンら現代音楽家、実験映画作家まで多岐にわたり、ヨルン、アペル、コルネイユら後にドトルモンとともに「コブラ」を結成する<オランダ実験グループ>のメンバーも含まれていた。





付録資料 状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告2 

暫定的反対の基本方針

  文化における革命的行動は、生を翻訳したり説明したりすることを目的とするのではなく、それを拡大することを目的とせねばならないだろう。いたるところで 不幸を退散させねばならない。革命とは、重工業がどのような生産水準にあるか、だれがその主人かというようなことを問うことにあるのではない。人間の搾取とともに、それによって産み出された情動や代償行為、習慣も死に絶えねばならない。今日の可能性と関連して、新しい欲望を定義せねばならない。現在の社会 とその社会を破壊しようとしている勢力との闘いのさなかに、より高度な環境の構築と新しい行動様式の条件となる最初の要素をすでに見出ださねばならないのである。それも実験的なやり方で、プロパガンダとして行なうのである。残りのものはすべて過去に属するものであり、過去に仕えるものである。
  今や、日常生活を一変させるあらゆる手段を統一的に使用することをめざした、組織された集団的作業を企てなければならない。すなわち、われわれはまず、それらの手段が、より大きな自然支配、より大きな自由という展望のなかで、相互に依存し合っていることを認めなければならない。われわれは、新たな行動様式 の成果であると同時にその道具でもあるような新しい環境を構築せねばならない。そのために、最初は、現在存在している日常的手段と文化形態を試行錯誤的に利用しつつも、それらの本来の価値に異議を唱えなければならない。新しさの基準自体が、形式に関する発明の基準自体が、個々の芸術、すなわち不十分な断片的手段の伝統的枠組みのなかで、その意味を失ってしまった。そうした芸術は、部分的な更新すらあらかじめ無効となってしまっており、更新そのものが不可能 なのである。
  われわれは現代文化を拒否するのではなく、それを否定するためにそれを奪い取らねばならない。われわれが直面している文化革命を認めない革命的知識人などというものはありえない。創造的知識人は、どれほど独自の方法でであろうと、1つの党の政策をただ単に支持することで革命的にはなりえず、すべての党の横 で、文化的上部構造すべての必要な変革を実行することによって革命的となるのである。同様に、ブルジョワ知識人の質を最終的に決定するものは、彼らの社会 的出自でも、1つの文化に対する認識──それは確かに批評と創造の共通の出発点だが──でもなく、歴史的にブルジョワ的な諸形態の文化の生産において彼らが果たす役割である。政治について革命的な意見を持つ作家は、ブルジョワ的な文芸批評に称賛されたなら、どんな誤りを自分が犯したか探してみるべきだろ う。
 文化における革命的戦線のために数多くの実験的潮流の統一が、1956年、イタリアのアルバでの会議によって開始された。その前提となっているものは、われわれが3つの重要な要因を無視しなかったということである。
  まず第1に、この統一行動に参加する個人と集団の完全な同意が必要であり、それらの者がそのことによって生じるいくつかの結果を見ようとしないことを許してこの同意をやりやすくしてはならないということである。いいかげんな考えの者や、この方法によって無意識に成功することを欲している出世主義者は、そこから遠ざけておかねばならない。
  第2に、実際に実験的な態度はすべて有用であるとしても、この実験的という語の濫用はたいていの場合、現在の構造のなかでの芸術的行動、すなわちあらかじめ他人によって発見された芸術的行動を正当化しがちだ、ということを忘れてはならない。唯一の有効な実験的手段は、現存の諸条件に対する正確な批判と、その条件を意図的に乗り越えることに基づいている。他人によって作られた方法的枠組みのなかでの個人的な表現にすぎないものを、創造と呼ぶことはできない。 そのことをはっきりと断言せねばならない。創造とは事物や形式のアレンジではない。それは、そのアレンジについての新しい法則を発明することなのである。
  最後に、われわれのなかからセクト主義を清算せねばならない。それは限られた目的のために、同盟の可能性のある者との行動の統一に反するからだ。レトリス ト・インターナショナルは、いくつかの必要な組織浄化の後、1952年から1955年まで、常に一種の絶対的厳格さへと向かってきた。それは、同じように絶対的な孤立と無能へと道を開き、最終的にはある種の現状維持と、批評と発見の精神の退化を助長した。現実的行動のために、こうしたセクト主義的行動を決定的に乗り越えなけれぱならない。われわれが同志を糾合するか離反させるかは、ただこの基準に則してのみ行なわねばならない。当然のことながら、このことは、みんながわれわれに勧めるように、断絶を放棄せねばならないということを意味するのではない。われわれは逆に、習慣や個人との断絶を今以上に推し進めねばならないと考える。
 われわれはわれわれのプログラムを集団的に定義し、芸術的なものであろうとなかろうと、あらゆる手段を使って、規律あるやり方でそれを実現しなければならないのである。


シチュアシオニスト・インターナショナルに向けて

  われわれの中心理念は、状況の構築という理念である。すなわち、生の瞬間的環境を具体的に構築すること、そして、それらをより高次の情動的質を備えたもの に変形することである。そのためには、生の物理的な舞台装置(デコール)と、この舞台装置によって引き起こされるとともにそれを激しく揺さ振りもする行為という、常に相互に関連し合った2つの大きな構成要素から成る複雑な要因に対して、秩序立ったやり方で介入する方法を確立せねばならない。
  生の舞台装置に対するわれわれの行動の展望は、その最終的発展段階では、統一的都市計画という概念に行き着く。統一的都市計画とは、まず第1に、環境の完全な構築に与する手段としての芸術と技術の全体の活用と定義される。この芸術と技術の全体というものは、伝統的芸術に対して旧来の建築が持つ支配力とか、 生態学に見られるような専門的な技術や科学的探求を、無秩序な都市計画に偶然に適用することに比して、無限に広く捉えなければならない。統一的都市計画 は、例えば、種々様々な飲み物や食べ物の配達も、音の環境も、同じようにうまく掌握せねばならないだろう。それは建築と都市計画の新しい形態の創造と既知 の形態の転用──さらにまた、古い詩や古い映画の転用も──の両方を包含するものでなくてはならない。これまでしばしば語られてきた総合芸術なるものは、 都市計画のレヴェルでしか実現できなかった。だが、それはもはや、美学についてのいかなる伝統的定義にも対応しなくなるだろう。統一的都市計画は、その実験的都市のそれぞれにおいて、いくつかの数の力場を通して展開される。われわれは仮にそれを区域(カルチエ)という古典的な言葉で呼ぶことができる。それぞれの区域はその内部で正確な調和を奏で、隣接する諸区域の調和と断絶することもできるだろうし、また、内的調和が可能な限り破壊される方向に働きかける こともできるだろう。
  第2に、統一的静市計画はダイナミックなもの、すなわち、人々の行動スタイルとの緊密な関係のなかに置かれたものでなくてはならない。統一的都市計画の最小の構成単位は家ではなく、建築物の複合体である。この建築複合体は、ある1つの環境もしくは一連の不調和な環境を、構築された状況のレヴェルに合わせて条件づけるあらゆる要因の集合である。空間的発展は、実験都市によって決定されることになる情動的現実を考慮せねばならない。われわれの同志のある者は、 心理状態が地区に対応する理論を提唱した。それによると、都市の各々の地区は1つの単純な感情を引き起こすようになり、主体は事情をわきまえたうえでそれ にさらされることになるということである。この計画により、偶発的な初期感情を軽視する動きから様々な当を得た結論を導き出すことができ、この計画の実現によってこの動きを加速させることができるように思われる。新しい建築、自由な建築を求める同志たちは、この新しい建築というものが、まず何より、自由な、詩的な線と形態──今日、「叙情的抽象(アブストラクシオン・リリック)」絵画の唱える意味においての──に働きかけるのではなく、むしろ部屋や廊下、街路などの雰囲気、建築のなかに含まれた人々の身振りと結び付いた雰囲気が持つ効果に働きかけるものであることを理解せねばならない。建築は、感動的な形態よりもむしろ感動的な状況を素材として持つことによって進むべきである。そして、このような素材から出発した実験は、未知の形態へと導かれるだろ う。心理地理学的な探求、すなわち「意識的に整備された環境かそうでないかにかかわらず、地理的環境が諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その厳密な法則と正確な効果を研究する」探求は、それゆえ、今日の都市集合体を積極的に観察することと、シチュアシオニスト的な都市の構造についての 仮説を確立することという二重の意味を持つ。心理地理学の進歩は、その観察方法を統計学的に拡大することにかなり大きく依存しているが、主要には、都市計画への具体的介入という手段による実験によるところが大きい。この段階までは、心理地理学の初期データについての客観的真理を確信することはできない。だ が、たとえそのデータが誤ったものであったとしても、それは真の問題に対する誤った解答というにすぎないだろう。
  行動様式に対するわれわれの行動は、風俗習慣における革命の他の望ましい諸側面と結びついたものであるが、簡潔に言って、それは新しい本質を持った遊びの介入と定義されるだろう。その最も一般的な目的は、生の非凡な部分を拡大し、生の無価値な瞬間を可能な限り減少させることにある。したがって、それは、現在研究されている生物学的手法よりもはるかに真面目な、人間の生の量的増大の企てとして語ることもできよう。まさにその点において、その企ては、どれだけ発展するか予見できない質的増大をも含むのである。シチュアシオニスト的な遊びは、遊戯の競争的性格と日常生活からの分離を根底的に否定するというまさに その点において、遊びの古典的把握と区別される。それとは逆に、シチュアシオニスト的遊びは、自由と遊びが支配する未来世界を保証するものを支持する道徳的選択としてしか現れてこない。このことは明らかに、われわれの時代が到達した生産力の水準において、余暇が持続的かつ急速に増大するという確信と結びついている。また同時に、それは、余暇をめぐる闘争──その階級闘争における重要性はこれまで十分に分析されてきたとは言えない──がわれわれの眼前で展開 されているという事実の認識とも深く結びついている。今日、支配階級は、革命的プロレタリアートが彼らから奪い取った余暇を、支配階級自身のために使うことに成功し、巨大な余暇産業部門を発展させている。この余暇産業なるものは、大衆をたぷらかすブルジョワジーのイデオロギーと趣味の副産物によるプロレタ リアートの愚鈍化の比類なき道具と化している。おそらく、アメリカの労働者階級が政治化されない理由の1つは、テレビによる大衆の低次元化が大規模になされていることに求めねばならないだろう。プロレタリアートは、集団的圧力によって、自らの労働の価格をその労働の生産に必要な最低限価格よりもほんの少しだけ高くすることができるようになったために、その闘争能力を拡大しただけでなく、闘争の領域まで拡大したのである。その時、経済と政治に直接関わる争いに平行して、この闘争の様々な新しい形態が生まれた。革命的プロパガンダは、現在までのところ、先進的産業の発展がそうした闘争形態を必然的に産み出してきたすべての国で、闘争の形態としては常に抑えられてきたと言える。下部構造の必要な変化が上部構造レヴェルでの過失や弱点によって遅らせられることがあるということ、それこそは、20世紀のいくつかの経験が不幸にも示してきたことである。余暇の戦場に新たな勢力を投入しなければならない。われわれはそこでわれわれ自身の場を占めることだろう。
  新しい行動様式の初歩的試みが、われわれが漂流と名付けたものによって既に成し遂げられている。漂流とは、環境の素早い変化による情動の逸脱(デペイズマ ン)の実践であると同時に、心理地理学とシチュアシオニスト的心理学の研究方法でもある。だが、遊戯的創造に対するこうした意志の適用は、人間関係の既知 の形態すべてに拡大し、そして、例えば、友情や愛情のような感情の歴史的進化に影響を与えるものとせねばならない。どう考えようと、われわれの探求の本質 が賭られているのは、まさに状況の構築という仮説になのである。
  1人の人間の生は偶発的な状況の連続である。そして、それらの状況のどれ1つとして他のものと厳密に同じではないとしても、少なくともそれらの状況は、多 くの場合、あまりに互いに区別がつかず輝きのないものなので、完全に同じものであるという印象を与える。こうした事情の当然の帰結として、1人の生におけ る魅力ある既知の状況がその人の生を完全に固定し制限することになる。われわれは状況の構築、すなわち、集団的環境の構築、ある瞬間の質を決定する印象の 全体の構築を試みねばならない。ある定められた時間に諸個人からなるグループの統合という単純な例を挙げるなら、われわれが持っている知識と物質的手段とを考慮しつつ、どのような場の組織化、どのような参加者の選択、どのような事件の挑発が望ましい環境に適したものかを研究すべきだろう。確かに、1つの状況の力は、統一的都市計画の実現やシチュアシオニスト世代の教育によって、時間的にも空間的にもかなり拡大されるだろう。だが、状況の構築は、スペクタクル概念の現代的破綻のかなたに開始される。非-介入というスペクタクルの原理そのものが、古い世界の疎外といかに深く結び付いているかは容易に見てとれる。それとは逆に、文化における革命的探求のなかで最も価値あるものが、スペクタクルの観客のヒーローへの心理的同一化を破壊し、自分の生を一変させる能力を引き出すことによって、その観客を積極的な行動に引きずり込むようにどれほど努めてきたかもよく知られている。状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの「公衆」の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者ではなく、言葉の新しい意味において「生きる者」と呼ばれる者の関与するところが増大する。
  言わば詩的な客体と主体とを拡大せねばならない。これらのものは現在は、不幸にもあまりにわずかなため、ほんの少しでも見つかればその感情的重要性が誇張 される。こうした詩的客体のなかで詩的主体の遊びを組織せねばならない。それこそが、本質的に過渡的な、われわれのプログラムのすべてである。われわれの状況は未来なき場、移行の場となるだろう。芸術であろうと他の何であろうとその不変的性格なるものは、われわれの真剣な考察の対象ではない。永遠の観念 は、人間が自らの行為について持ち得る観念のなかでも最もおぞましいものなのである。
  シチュアシオニスト的技術は、まだこれから発明されねばならない。だが、われわれは、どのような任務であれ、それが出現するのは、その実現に必要な物質的条件がすでに存在するか、少なくとも形成途上にあるところだけである、ということを知っている。われわれは小規模な実験段階から始めねばならない。おそらく、そのためのシナリオとして、状況のプラン──当面はその不十分性は避けられないが──を準備せねばならない。したがって、記号表現のシステムを普及さ せねばならないだろう。その正確さは、われわれが構築の実験を重ね、いっそうよくそれを理解するにつれて増してゆく。シチュアシオニスト的感動を、行為の極端な集中あるいは極端な拡散(前者のケースの近似的イメージを与えるものは古典悲劇であり、後者のそれは漂流である)に応じて決定する法則のような様々な法則を発見し、検証せねばならないだろう。状況の構築は、明確な目的に用いられる直接的手段に加え、その肯定的段階において再生産技術の新しい適用をコントロールすることになるだろう。例えば、ある状況のいくつかの側面を別の状況のなかに直接映し出すことによって変化と干渉を引き起こすテレビを構想する こともできる。だが、より単純なやり方としては、ニュース映画と呼ばれる映画が、ニュース〔=新しいもの〕という名に値しはじめることもできるだろう。そ のような映画は、状況を構成する要素がまだ異なる状況を引き起こすようになる以前に、その最も意義深い瞬間をシチュアシオニストの記録文書のために定着することに専心する新しいドキュメンタリーの流派を形成するのである。状況の体系的構築によって以前には存在していなかった感情が産み出されるはずである。 そうでそうである以上、映画はその新しい情動の普及において最大限の教育的役目を見出すだろう。
  シチュアシオニストの理論は、生の非連続性という考えを断固として支持する。統一性という概念は、全人生──そこにおいては、生は不死の魂への信仰と、結局のところ、労働の分割〔=分業〕に基づいた反動的欺購である──というパースペクティヴから、生のばらばらな諸瞬間というパースペクティヴ、シチュアシオニスト的手段の統一的利用によって各々の瞬間を構築するというパースペクティヴヘと置き換えられねばならない。階級なき社会では、もはや画家は存在しな いだろう。存在するのは、何よりも絵画を作るシチュアシオニストだけである。
  欲望とそれに敵対する現実との絶えざる衝突の後で、生の主要な感情的ドラマはまさに時間の流れの感覚だけであるように思える。シチュアシオニスト的態度と は、感動の固定化をめざしてきた美学的手法とは逆に、時が過ぎ行くことに賭けることにある。感動と時間とが過ぎ去ることに対するシチュアシオニストの挑戦は、遊びと感動的な時期を増大させることにおいて常により遠くまで行くことによって、変化に対して常に勝ちをおさめる賭けだろう。今この瞬間のわれわれにとって、そのような賭をすることは明らかに容易なことではない。しかしながら、1000度それに敗けることになろうとも、われわれには他の前進方法を選ぶことはできない。
  少数派シチュアシオニストは、まずレトリスト左派のなかで、次にこの左派が最終的に支配したレトリスト・インターナショナルのなかで、潮流として構成され てきた。これと同じ客観的運動によって、最近の多くの前衛的グループが同じ次元の結論に達した。われわれは全員で、近い過去の遺物をすべて除去せねばならない。今日われわれは、文化における革命的前衛の統一された行動のための同意は、そうしたプログラムの上になされるべきだと考えている。われわれには決まったやり方も、決定的な成果もない。われわれはただ、われわれが現在決定しているいくつかの方向と、まだこれから決定せねばならない他の方向において、 集団的に実行すべき実験的探求を提起しているだけである。シチュアシオニストの最初の成果に到達する困難そのものが、われわれが入っていこうとしている領 域の新しさを証明している。われわれの街路の見方を変えるものは、われわれの絵画の見方を変えるものよりも重要である。われわれの作業仮説は、どこから訪れるか分からぬ未来の激動の度ごとに再検討されるであろう。
  趣味の問題について一種の無能力に甘んじている革命的知識人・芸術家の側から主として、この「シチュアシオニスム」というものはまったく不快であるという言葉が聞こえてくる。彼らは、われわれは美しいものは何も作らなかったとか、ジッドについて話したほうがましだとか、われわれに興味を持つ理由は誰にも はっきり解らないとか言っているようだ。これまで既に十分すぎるほどのスキャンダルを引き起こしてきた数々の態度──それはただ目立ちたいがためのものにすぎない──をただ繰り返しているだけだと言ってわれわれを非難し、言葉を濁している。距離を保ちあるいは再び取るために、いくつかの折りにわれわれが採用せねばならないと思った手法に対して、彼らは憤慨しているようでもある。われわれの答えはこうだ。これが君たちの興味を引くかどうかはどうでもいい。文化の創造の新しい諸条件のなかで君たち自身が興味を引く存在になることができるかどうかが問題なのだ。
  革命的知識人と芸術家よ、君たちの役目は、われわれが自由の敵と歩みを同じくするのを拒む時に、自由が侮辱されたと喚きたてることではない。君たちは、既成のものは自分たちを困惑させないという理由ですべてを既成のものに連れ戻そうとしてきたブルジョワ耽美主義者を模倣すべきではない。いかなる創造も決して純粋ではないことを君たちは知っている。君たちの役目は、国際的な前衛が作るものを探しだし、そのプログラムを構成する批判に参加して、それを支持することを呼びかけることなのだ。


われわれの当面の任務

  われわれは、労働者の党あるいはそこに存在する急進的潮流に対して次のような必要性を主張しなければならない。すなわち、先進資本主義のプロパガンダ方法 の影響力と情動レヴェルで闘うため、首尾一貫したイデオロギー的行動を検討すること、資本主義的生活様式の反映に反対して、具体的に、あらゆる機会に、望ましい別の生活様式を対置すること、ハイパー・ポリティックなあらゆる手段によって、幸福のブルジョワ的観念を破壊すること、である。同時に、社会の支配階級のなかには、退屈から、あるいはまた新しさへの欲求から、最終的にはこの社会の消滅を引き起こすことになるものを求めて常に競い合ってきた要素が存在 することを考慮して、われわれは、われわれに欠けている莫大な資源のいくつかを持っている人々に、科学的でありかつ収益性のある研究に投入できる融資と同様の融資によって、われわれの実験を実現する手段を与えてくれるよう促さねばならない。
  われわれは、いたるところで、支配的文化に対する革命的代案を提出せねばならない。今この瞬間に全体的展望なしに行われているあらゆる探求を調整しなければならない。批判とプロパガンダによって、すべての国の最先端の芸術家と知識人が、共通の行動のためにわれわれと接触するよう導かねばならない。
 われわれは、われわれの行動の前段階に関与し、まだわれわれに合流することのできる者たちすべてと、このプログラムをもとにいつでも議論を再開できることを表明しなければならない。
 われわれは、統一的都市計画、実験的行動様式、ハイパー・ポリティックなプロパガンダ、環境の構築という合い言葉を前面に押し出さねばならない。情動の解釈はもう十分になされてきた。今なすべきことは、別の情動を発見することである。


解説 いま現在の運動へつらなるラディカリズム 小倉利丸

 シチュアシオニストは様々に語られてきた。少なくとも、欧米諸国ではそういえる。欧米の思想や運動をいち早く紹介することに長けているこの国に於いて、シチュアシオニストへの注目の少なさは、特筆すべき興味深い問題である。*1戦前戦後を通じて、この国のマルクス主義の「発達」は、国際的にもよく知られていた。アカデミズムも含めて、左翼の影響力は非常に大きなものがあった。にもかかわらず、シチュアシオニストがほとんど注目を集めなかったのには大きく3つの理由があるように思われる。1つは、シチュアシオニストの出自に関わる。ギー・ドゥボール、ラオール・ヴァネイジェム、アスガー・ヨルン、アティラ・コタンニなどの主要なメンバーのいずれもが政治活動家であったり、マルクス主義の知識人であったりしたわけではなかった。彼らは、後に述べるように戦前のダダ、シュールレアリスムの運動、戦時中のレジスタンスなどに関わってきたり、影響を受けてきたアーティストだった。従って、いわゆる政治運動やマルクス主義の文脈からは彼らの運動や存在は見えなかったに違いないということが言える。第2に、かれらの出自であるアヴァンギャルドの芸術運動のなかで、彼らが占めた位置がこれまた日本における理解の周縁部分に位置するものだったということができる。アヴァンギャルド運動の日本での捉え方によれば、戦前のダダ、シュールレアレスムの運動を戦後に媒介する最も重要な人物がアンドレ・ブルトンであったということになる。このこと自体は決して誤りとはいえないが、しかし、アヴァンギャルド運動の多様性がブルトンの名声の影にくかくされてしまった感がなくもない。シチュアシオニストたちは、特に戦後のブルトンの運動には批判的であり、ブルトンとは別の道をたどった。戦時中亡命していたブルトンと、ナチス支配地域でレジスタンスに参加していたシュールレアリストたちの間で、政治への認識の隔たりがあり、それは戦後のアヴァンギャルト芸術運動の政治との関わりに関して大きな食い違いを生ずる原因ともなった。SIの前身のひとつであるCOBRAの運動は、神秘主義に傾斜したブルトンのシュールレアリスムへの反発として結成されたものであった。こうした事情が彼らの紹介を遅らせたことになる。そして、最後に、彼らの問題意識がいわゆる「芸術」の枠を超えてた社会変革への欲求に支えられていたことがあげられる。そのことが芸術プロパーからのアプローチを試みる人々にとっては、むしろ逸脱とみなされ、芸術や文化の運動というよりはむしろ政治運動とみなされた。しかし、政治運動の側から見れば、シチュアシオニストが社会変革の中心的な「場」として設定したのが、都市空間と日常生活であったことは、労働者階級と工場に拠点を築こうとしてきた伝統的な左翼やマルクス主義の問題意識と大きくずれることになった。 60年代は、都市空間の中で、文化と政治を横断し、労働と生活を横断し、更に、プロテスタンティズムも労働倫理も異化する大衆の自立的な欲望の噴出した時代であった。シチュアシオニストは、この時代の意識をもっともよく体現した運動になり得たのは、彼らが変革の拠点を日常生活と消費にかかわる商品経済とメディアに据えたからに他ならない。68年の5月革命はそのことを端的に表明する運動であった。
 シチュアシオニストの位置は、1968年のパリ5月革命をきっかけに大きく変化した。それは、5月革命だけに原因があったということではなく、60年代末くらいから資本主義のありようと反体制運動の流れがはっきりと1つの転換期を迎えたということに関係している。つまり、工場労働者を中心とする階級構成が拡散し、労働組合を中心とする運動の形態が徐々に後退し、既成の左翼政党の指導に従わない、自立した小集団が簇生し、働く権利よりも働かなくても生活できる権利を、労働の尊厳よりも労働から解放された多様な文化と生活の様式への権利を主張し始めた。こうした傾向が必然的に工場よりも都市空間そのものを反体制運動やカウンター・カルチャーの運動の主要なアリーナとすることになったのは当然のことといえた。
 ギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』に見られるように、シチュアシオニストの視野に工場労働者も入っていた。しかし、工場労働者が明確に運動の主体として理解されるのは、マルクス主義の影響がはっきりする後のことだ。むしろ本分冊に収録されている初期の文章には労働者階級といった「労働」を参照点とした人々の分類はそれほど明確には現れなていない。このことは、シチュアシオニストの議論に少なからぬ矛盾を持ち込むことになったと思う。というのは、ドゥボールの『スペクタクルの社会』がルカーチやマルクスに影響されたことをあまりに強調することはかえってこの本やドゥボールのおもしろさを半減させてしまうかもしれないからだ。『スペクタクルの社会』は、ドゥボールがレトリスト、コブラ、イマジニスト・バウハウスといったシチュアシオニストに先行するいくつかのアヴァンギャルドの運動のなかから継承してきた観点とマルクス主義やアナルコ・サンディカリズムから受け継いだ観点が共存はしているものの両者の有機的な結びつきを実現するには至っていないからだ。とはいえ、ドゥボールのこの本の意義は、従来のマルクス主義者──多分、アンリ・ルフェーブルを例外として──が試みなかった消費社会としての資本主義批判を、アヴァンギャルド芸術運動のなかで蓄積された資本主義批判の方法と観点を継承して展開したところにある。マルクス主義やその運動史の記述は、必ずしもオーソドクスとは言えないとしても、全く斬新なものというわけでもない。この本をこうしたマルクス主義の文脈の部分で代表させるとすれば、評議会社会主義派のマルクス主義という以外に新しいものは見いだせないかもしれない。ところが、すでに今世紀はじめのロシア革命、ドイツ革命やイタリアの評議会運動のなかで繰り返し提起されてきた工場評議会の思想は、当時からひとつの大きな問題をかかえていた。それは、革命の拠点を工場におくことによって、生産的労働者の生産組織と政治的意志決定の組織を有機的に結びつけることを構想するものであった反面、工場の外で主として遂行される〈労働力〉再生産過程を労働者が自立して担い、そこに関わる政治的意志決定のための組織を、工場と同様のレベルで理解することができなかったということである。失業者や子ども、高齢者、病者、そして多くの場合、女性もこうした評議会運動の中心ではなく周辺に追いやられざるを得なかった。こうした帰結は、工場を中心とする労働運動と生産的労働に高い評価を置くマルクス主義の伝統と無関係ではなかった。この意味でも、ルフェーブルが都市という空間に注目した意義は大きいのである。そして、このルフェーブルの観点をふまえて消費社会を全面に押し立てられたのは、最初から工場労働者といった集団性からは除外されていたアーティストという立場にいたドゥボールたちの位置のもつ意義が大きかった。
 商品の生産ではなく、消費様式に着目して、スペクタクル化された社会が生み出す受動的な大衆像がマルクス主義につけ加えられたことによって-──たとえ、そのつなぎ目が必ずしも完璧ではないとしても-──、マルクス主義そのものが変わりうる可能性を示したこと、その意味で、『スペクタクルの社会』は、私には刺激的なのだった。しかもシチュアシオニストは、SIの解体にもかかわらず、イタリアのアウトノミア運動とともに、70年代以降のラディカルな思想と運動のアンダーグラウンドを支える非常にユニークな位置を占め続けた。

 資本主義が市場経済の「無政府性」と工場内分業における資本家の権威主義的な管理に二分されているというのは、必ずしも正しくない。経済学が長年なじんできたこの二分法は、資本主義が地理的な空間の上に配置された機構であるということをすっかり忘れている。都市計画が近代社会においてどのような意味と位置を占めているのかがこうした空間的な概念の欠如したオーソドクスな経済学──もちろんマルクス主義のそれも含めてだが──には理解できない。シチュアシオニストは、都市批判の方法と実践に関して、いくつかの重要な概念を提起した。「統一的都市計画」「心理地理学」「漂流」そしてスペクタクル批判という観点そのものがこの都市の風景とそこに込められた商品化の意識下での強制への鋭い批判だった。「1950年代末の統一的都市計画」(本書所収)に、シチュアシオニストの都市論の観点が表明されている。「統一的都市計画」は、日本語のニュアンスからすると非常に堅苦しい、計画化の発想をよりいっそう押し進めるような印象──たとえば、資本主義の無政府性を超克する社会主義的な計画経済といった印象──を与える。しかし、そうではない。統一的都市計画は、「都市計画批判」であり、学説ではないばかりでなく、「機能主義の乗り越え」「情熱的な機能的環境に到達すること」をめざす「未来都市の社会空間のための実験場を目指している」というのである。
 資本主義の都市は機能主義を追求している一方で、資本主義なりの非機能主義的な側面を常に都市の中に残す。たとえば、教会建築がそれだ。教会は、資本主義的な機能主義にとって無用のものなのではなく、教会は資本主義を、あるいはスペクタクルの受動的な参加を支える「心理的-機能的現実」を体現しているのである。資本主義が必ずしも経済的合理性や近代合理主義の枠組みにがんじがらめに縛られた制度だとはみていないこうしたシチュアシオニストの観点は、彼らの戦略的な対抗領域についての目の付け所のラディカルさと結びついている。つまり、合理主義では処理できない人々の心理的、情動的な諸要素を資本主義はそれなりの方法で──たとえば、教会、映画、ショッピング街、そして現在ならば、テレビやビデオ、そして日本ならば教会の代わりに皇室がその役割を担っているといえよう──処理しているのである。こうした資本主義の「状況」に対して、次のように、積極的、主体的な状況の構築を可能とする実践が第一の課題とされたのだ。「統一的都市計画[UU]は、住宅問題と同様、美的問題とも区別される。統一的都市計画は、われわれの文化の原理である受動的スペクタクルに対抗するものである。われわれの文化においては、人間の介入手段が増した分途方もないまでにスペクタクルの組織化が拡大している。今日、ガラス張りの観光バスで遊覧する旅行者にとっては、都市そのものが嘆かわしいスペクタクル、美術館の補足物と化している。これに対してUUは、都市環境を参加による遊びの場とみなすのである」「都市環境を参加による遊びの場」とすることを主張するシチュアシオニストの観点は、単に都市における居住環境の改善といった発想とは根本的に異なったものを持っている。多くの良心的な都市計画家が意図せざる結果として加担する事になる快適な居住環境=資本にとっての最適な〈労働力〉の再生産という結びつきが少なくとも「遊び」というキーワードによって切断されている。
 しかし、都市の遊技施設や文字どおりのスペクタクルの装置の蔓延を前にして、「遊び」という概念がはたしてどれだけの有効性を持つものなのなのかという疑問が当然生ずるだろう。シチュアシオニストたちは、資本主義の消費都市の機能としての遊びを無視していたのだろうか。彼らは、都市をもっぱら「工業都市」「生産都市」としてとらえていたのだろうか。いや、そうではない。上の引用でもわかるとおり、「ガラス張りの観光バスで遊覧する旅行者にとっては、都市そのものが嘆かわしいスペクタクル」であることを指摘している。都市がスペクタクルの機能を持つのは、それが消費と結びつく場合である。観光は、観光産業によって組織され、ショッピングと結びつけられる。盛り場で遊ぶということは、金を使うということと同義である。シチュアシオニストのいう「遊び」はこれとは正反対の性格を持つものだ。
 「漂流」はシチュアシオニストの重要な状況の構築のための実践を意味している。受動的なスペクタクルに対して、積極的に環境に関与し、環境を変える実践であり、同時に、資本主義のスペクタクルが生み出した労働や遊戯のカテゴリーを異化し、「遊戯的=創造的行動を肯定すること」であった。*2シチュアシオニストたちは、都市の持つ欲望喚起の環境の危険性をよく知っており、「漂流」の実践にいくつかのガイドラインすら設けた。「同一の認識に達した2、3人の少グループが数多く存在する」こととか、「2つの睡眠時間に挟まれた時間という意味での1日」とか、といった注意を与えている。漂流は、「たむろする」という日本語が持つある種のいかがわしさとより目的意識的な都市空間の利用を、戦略的、集団的に組み込んだものといえるかもしれない。
 「一貫性に乏しい生活様式、(略)いかがわしいと見なされながらも、われわれの周りで常に人気を博してきたある種の悪ふざけ──たとえば、夜中に取り壊し中の建物に入り込んだり、交通ストの時に、でたらめな方向に車を走らせて混乱を悪化させる目的で、パリの街をひっきりなしにヒッチハイクして回ったり、侵入を禁じられているパリの地下納骨場[カタコンブ]の地下道をさまよい歩いたりすること──までもが、まさに漂流の感覚以外の何者でもない、より一般的な感覚に属する行為となりうる」
 こうなると、漂流は、ストリートのサブカルチャーと非常に近しいものとなる。パンクスや黒人の若者文化のライフスタイルに同様の傾向を見て取ることは難しくない。
 都市はパラマーケットの空間的な構築物である。市場経済なるものが流通させる商品の本体や貨幣を取りまく商品に関する情報は都市の街路や都市を行き交う人々のコミュニケイション、マスメディアという情報神経系によって初めて人々の欲望のシナプスを刺激することになる。都市はこの意味で資本主義が仕組んだ欲望の生産工場でもあるのだ。消費は、それ自体としては何も刺激的なことではない。むしろ、商品を取得するために自らの欲望を高め、貨幣を手放す瞬間を迎えるまでのプロセスが重要なのだ。まるで、セックスで絶頂期を迎えたり、射精の瞬間を迎えるために、そのプロセスを楽しむように。欲望の「絶頂期」とは、消費者が貨幣を支出する瞬間である。そして、貨幣を支出し終わった消費者は、都市の街路から姿を消してゆく。都市は、まさにこうした消費のトランス状態を提供する空間である。「漂流」は、この都市に仕組まれたコードから逸脱し、マニュアル化された欲望の高まりと貨幣と商品に集約される行為に背を向ける実践だといえる。それは、消費を制度化するパラマーケットに、対抗的な情報の回路を組み込み、あるいは自らの身体を駆使して、パラマーケットの回路図を作り替える実験でもあるのだ。
 こうしたシチュアシオニストの実践は、心理地理学とともに、ダダイズム、シュールレアリスムやレトリストの試みを受け継ぐものだろう。しかし、フロイトの無意識に依拠したシュールレアリスムによる自動筆記や都市の遊歩に着想の一端を得ていたとしても、最終的にシチュアシオニストが試みようとしたのが、個人の自己変革ではなく、社会そのものの変革にあったということ、つまり、状況の構築にあったということ、この強固な社会性が芸術や文化の領域に意図的に、しかも挑戦的に持ち込まれたために、シチュアシオニストの運動は、個人主義的なアーティストとの対立を常にはらみ、また、前衛芸術も含む「芸術」のカテゴリーとは最初からずれた位相を抱え込みつつ、しかしなおかつ文化・芸術運動であり続けようともしたということ、このことがシチュアシオニストの興味深い点でもあり、戦後の前衛芸術運動の中ですら余り積極的に評価されないできた理由でもあったといえよう。そして、50年代から60年代にかけてのビート族とか実存主義のカウンターカルチャーに対して、そうした都市のボヘミアン的なライスタイルをも脱構築しようとする発想を持っている。多分、こうした「漂流」はドゥルーズ=ガタリが「ノマド」に与えたラディカリズム*3やホームレスやスクウォッターによる意図的な街路の住居化とも通底するものだといえよう。
 スペクタクルとしての都市への批判が、実践的なレベルにまで高められたのが68年のパリ5月革命だとよく言われる。確かにパリの5月の運動にシチュアシオニストが果たした役割は大きかったようだ。*4だがすでに彼らは60年代のはじめに、今後の10年を見通すような分析を提示している。機関誌の7号に掲載された「不運な時代の終わり」ではスペクタクルの拡大とともに、それに抵抗する運動も拡がり、労働現場では労働の秩序そのものに対抗し、労働者を資本主義に統合する装置と成り下がった労働組合を敵に回す大衆的な労働者が出現しつつあることを、具体的ないくつかの自立した労働者たちの闘争のなかに見て取っている。しかも、労働者達の闘争を単に労働現場における労働者の闘争ではなく、工場の壁を超えた拡がりを含意した社会的な闘争と捉えていた。たとえば、1961年1月にリエージュのストライキの労働者たちによる新聞『ラ・ミューゼ』の印刷機の破壊は、政府や社会主義政党、労働組合の官僚が独占するメディアが山猫ストの労働者達の闘争を歪曲する情報操作が労働者の運動にとって深刻な問題になっていることを背景としたものだった。2月のナポリでの路面電車のストライキに端を発した労働者達の叛乱は、「通勤時間に対する直接的な叛乱」であると捉えられている。シチュアシオニストは、都市やメディアといった従来のマルクス主義が闘争のアリーナの主題としえなかった課題をむしろ全面に据えた。そして、共産主義の構想を単なる生産様式の革命ではなく「実現されたアートの社会」「生活の諸事象の自由な構築」であるとみたのである。これは、ちょうど同じ時期に、徐々に姿を整えつつあったイタリアの非共産党系のマルクス主義者達アントニオ・ネグリやセルジオ・ボローニャ、そして共産党内にいたマリオ・トロンティなどが、党と労働組合から自立した労働者の闘争に注目し、後にアウトノミアと呼ばれるような運動へとつながってゆく思想の流れを創り出した時期と重なる。イタリアでもこの時期、労働の拒否、社会的工場といった概念へと結びついてゆくいくつかの新しい概念が提出つれ、生産的労働者主義を批判するようになっていったのである。
 「消費」というカテゴリーが資本主義の転覆と結びつくラディカルな領域を形成するということは、生産点に重点を置く既成の左翼にとってはにわかに肯定しがたい事実であったに違いない。都市の叛乱は常に工場の内部や党、組合の官僚組織によって制度化され、「生活」の革命は、「生産」の革命にとって換えられようとしてきた。この意味で、不定形な都市の路上での叛乱、暴動は、こうした組織された左翼の運動に利用できる限りで評価されたにすぎない。
 多分、シチュアシオニストが示したワッツ暴動に対する評価ほどこうした既成の左翼との立場の違いを鮮明にしたものはないかもしれない。機関誌の10号に掲載された「スペクタクル商品経済の衰退と没落」のなかで、ワッツ暴動を「労働者-消費者がヒエラルキー的に商品価値に従属させられる商品世界に反対する商品に対する叛乱である」と述べている。公民権運動の枠を超えて、都市の叛乱に向かったアメリカ合衆国の黒人の闘争の中に、シチュアシオニストは「合衆国の黒人の問題」を見いだしたばかりでなく、彼らがスペクタクルの商品経済の中に置かれた位置を通してはっきりしてきた「アメリカの問題」、つまり「階級的な叛乱」を見出そうとした。
 「アメリカの黒人は近代産業の産物である。ちょうどエレクトロニクス、広告、あるいはサイクロトロンのように。そして彼らはその矛盾を体現しているのである。彼らは、スペクタクル的なパラダイスが統合しなければならないと同時に排除しなければならない人々でもあるが、その結果として、スペクタクルと人間的な行動の敵対が全体的に彼らを通じて明らかにされるのである。スペクタクルは、商品と同じように普遍的である。しかし商品の世界が階級対立に基づいているので、商品そのものもヒエラルキー的なのである。商品の必要は──そして従ってその役割が商品世界を周知させるスペクタクルの必要は──同時に、至る所でヒエラルキー的に、普遍的なヒエラルキー化をたらすのである」従って、「これは、人種暴動ではない」のであって、攻撃された白人は、商品のための積極的なしもべである警官たちであり、黒人の連帯は、黒人の商店主やドライバーまで拡がらなかったと指摘している。そして、商店の略奪行為は、ある種の「ポトラッチ的破壊」であり、自然で人間的な豊かな社会ではなく、商品の豊かな社会へのごく「自然な反応」だという観点から支持を表明した。多分、こうした黒人暴動に対して、既成の左翼は「貧困」の問題として理解しようとするだろう。それに対して、シチュアシオニストはむしろ「貧困」という「欠如」の概念ではなく、「商品の拒否」「スペクタクルの拒否」という積極的な意味を与えた。合衆国の白人達がこのスペクタクル商品経済に参与し、その奴隷となっているのに対して、黒人達は最初からこのスペクタクル商品へのアクセスを拒否された存在であった。そのことをむしろ積極的に評価し、そこに生み出されるオルタナティブな生活様式の可能性を最大限に評価しようとしたのだ。ここには、「貧困」と呼ばれるネガティブなライフスタイル──たとえそれが強制されたものであれ──を商品経済の豊かさで解決するのではない、別の道への可能性を見ようとする意志が働いている。

 この観点が重要なのは、このワッツの叛乱から四半世紀以上たって再び引き起こされた同じロサンゼルスにおける黒人の暴動の分析にもそのまま通用するからである。マイノリティの黒人がマイノリテイのコリアンと敵対したということが暴動の本質なのではない。この暴動の背後にスペクタクル商品経済の構造を見出すこと、あるいは「消費という麻薬」を見出すことが必要であり、シチュアシオニストのこの観点はそのための重要な問題提起となっている。そしてさらに重要なのは、スペクタクル商品経済のヒエラルキーの最底辺に位置するすべての人々を、人種や性別を超えて連帯しうる観点を提供したことだろう。都市の暴動が必ず商店の略奪、車への放火といったきまりきったパターンをたどるのは、何もそこに商店があり、車があるからではない。いや、都市という空間が商店や車によって支配されていること、人々の生活の空間が、商品と〈労働力〉や消費者の移動の機械によって占領されているということ、普段は意識すらされないこのごく当たり前の風景を都市の暴動は自覚化させるのである。そしてここにも、アウトノミア運動のなかでの集団万引き(インフレによる実質賃金の低下に対して、生活手段価格を「ゼロ」にすることで対抗しようとしたもの)の発想との共通性を見出すことができる。そして、また、生活の基本的な基盤である住宅の商品化に対して、スクウォッターの運動が世界中の大都市で現在まで大量に引き起こされていることのなかにもこのシチュアシオニストのスペクタクル商品経済批判の観点から見いだせる意義は非常に大きいといえる。
 こうした労働者たちは、既成の政治的な文脈からすれば、明らかに脱政治化され、あるいは犯罪的な集団であった。シチュアシオニストは、こうした労働者の「犯罪化」を18世紀末から19世紀はじめに出現したラダイトたちが当時被った批判に近しいものがあるとみている。ただし、かれらが「人々から仕事を奪う生産機械を破壊することを目的としていた」とすれば、現代の運動は「我々から確実に我々の生活を奪う消費の機械に対する破壊の最初の波」であると捉えられている。
 シチュアシオニストの思想的な起源として繰り返し指摘されるのは、ダダ、シュールレアリスムの流れをくむアヴァンギャルド芸術運動、ルフェーブルによる日常生活批判としての資本主義批判、そして「社会主義か野蛮か」のグループによるスターリン主義的な官僚主義的社会主義批判と評議会社会主義の思想であろう。これらの異なる出自がシチュアシオニストの運動の中で最初から矛盾なく共存したわけではないし、ルフェーブルや「社会主義が野蛮か」のグループとの関係も決して友好的なものではなかったようだ。遊戯や漂流といったリバタリアン的なイメージの強い概念を掲げながらもシチュアシオニストは必ずしもこの運動に参加する人々を自由なままにしていたわけではなく、商品経済に荷担したと思われる者や、個人主義的でアートの実践を優先させ、状況の構築という課題に必ずしも積極的でなかったとみなされるアーティストたちを次々に除名していった。この過程でドゥボールがふるった指導力──あるいはもしかたらそれは文字どおり「権力」といっていいのかもしれない──は非常に大きなものであったように思われる。
 私が興味深く思うのは、こうしたどの運動、組織にもある除名や内部抗争、そしてそれが敵対的な感情を喚起するという決定的な段階に到るという政治的な内ゲバ状態が、シチュアシオニストたちの運動の中には比較的希薄であるように見える点である。私が接する情報が一面的なせいもあるのだろうが、批判され除名された人々は、そのことによってシチュアシオニストであることをやめようとはしなかったばかりでなく、本家争いをするわけでもなく、自分なりのシチュアシオニストの道を選択しているのがおもしろいのだ。そして、ドゥボールらによるシチュアシオニストの運動が最も盛んであったと思われるフランスでは、SIの解散にともなって、運動としては70年代の前半で終止符を打ったにもかかわらず、それ以外の除名者を出した諸国では、多様な「状況の構築」を試みる自律的な運動が継続する。最も有名なのが、イギリスのパンク・ムーブメントだろう。すでにセックス・ピストルズの仕掛人であったマルコム・マクラレンとシチュアシオニストとの関わりについては幾つかの言及があるので、ここでは詳しいことはのべない*5が、イギリスのシチュアシオニストの運動を理解するためには、60年代の前半からすでに形成されているキングモブなどの除名者たちによる独自のシチュアシオニストの運動の流れがあったこと、その結果、SIの解体の影響を受けることなく、イギリスでは独自の運動としてその後も影響力を行使しえたということをふまえておく必要があろう。イギリスの70年代アヴァンギャルド文化運動は、独自のシチュアシオニストの影響だけでなく、ダダ、未来派、フルクサスからの影響も深く受けていた。パンクムーブメントの中心をなすアーティストたちがおしなべてアートスクールの出身であることの意味は、実はこうした背景と結びついたものだったのだ。*6
 アメリカ合衆国では、シチュアシオニストの運動がある種のオカルティズムと結びついているということが当時から批判されていた。これは、アメリカ合衆国のカウンターカルチャー全体がもつ「伝統」のようなものと関係があるかもしれない。ビート・ジェネレーションからヒッピー・ムーブメントといった流れの中に常に見えかくれするアメリカニズムの極端な合理主義への反発、都市と自然の極端な対立の構図のなかで揺れる社会観、プロテスタンティズムに対するマイノリティの民族が持ち込む多様なキリスト教、イスラム教、仏教などの諸宗派。オカルティズムや黒魔術といった非合理主義への隠れた欲望は、個人主義的なアナキズム(それは、日本におけるアジア主義のように、極右と極左に共通する反エスタブリッシュメントの土壌である)とともに合衆国のカウンターカルチャーの不可欠なエネルギー源なのだ。合衆国のシチュアシオニストの系譜は、こうしたカウンターカルチャーの環境のなかで理解すべきである。*7
 イギリスも合衆国も、シチュアシオニストの運動は、確実に現在でも一定の影響力を持ちつづけている。イギリスでは90年前後のネオイストやアートストライキの運動で主要な発言者でありつづけたスチュアート・ホームや、『スペクタキュラー・タイムズ』をだし続けてきたラリー・ロウらは明らかにシチュアシオニストの立場をとっている。合衆国では、SIの機関誌のアンソロジーなどを英訳したケン・クナッブのビューロー・オブ・パブリック・シークレットが湾岸戦争に反対する声明を発表したし、労働の拒否、投票の拒否、あるいはアナキストであり、エゴイストを主張するボブ・ブラックはまた、シュアシオニストの積極的な支持者でもある。*8また、アウトノミア運動の紹介でも積極的な役割を果たしているニューヨークの出版社、オートノメディアが積極的にシチュアシオニストの運動を紹介し続けているし、たいていのカウンターカルチャー系の半合法的な書籍、ビデオなどのディストリビューターのカタログには必ずと言っていいほど「シチュアシオニスト」が独立の項目で扱われている。それは、目に見える潮流となっているというよりは、合衆国のカウンターカルチャーの活動家や読者たちにとっては共通の「伝統」として浸透しているといったほうがいいだろう。それは、多分、もはやドゥボールが納得する形のものではないだろう。しかし、それが合衆国の「状況の構築」に有効な力を発揮するのであれば、その正統性の是非などという問題はどうでもいいことである。
 もう1つ、シチュアシオニストの影響として欠かせないのが、アーティストたちへの影響である。皮肉なことに、68年のパリ、5月革命から20年を経た80年代末には、SIの回顧展がフランスはじめ各国で行われた。*9芸術を「状況の構築」のなかに解体しようとしたシチュアシオニストは結局美術館の制度の中に呑み込まれてしまったのだろうか。そうともいえるし、そうではないともいえる。多分、今、そのきわどい綱引きのなかにシチュアシオニストの問題意識を受けとめようとしているアーティスト達は置かれているといえる。ビルボードを用いる政治的、社会的なメッセージアートのバーバラ・クルーガー、ジェニー・ホルツァーやアート・アタックの運動を展開したロビー・コナルなど、美術の制度を超えて、都市の環境そのものを変える実験に取り組むアーティストたちは、彼ら、彼女らの主観とは別に明らかにシチュアシオニストの問題意識の延長線上に位置づけることができる。
 こうしてみたとき、シチュアシオニストの影響力は、ポストモダニズムの消費社会批判の言説の世界よりもむしろ、パンクロックやパブリック・アートといった文化的な実践や、意図すると否とにかかわらず、労働の尊厳を支える仕組みに背を向ける人々の生活様式や欲望、スクウォッターや海賊放送、ハッカーやアンダーグラウンドなメディア・ネットワークといった中に見いだせそうである。日本の70年代以降の運動がシチュアシオニストやあるいはイタリアのアウトノミア運動の影響を受けることが少なかったということは、日本における「68年」の総括が、文化運動の側においてなされておらず、逆に、政治運動は60年の全学連運動にまでさかのぼる「新左翼」という名のマルクス主義のエスタブリッシュメントが引き起こしたスターリニスト顔負けの内ゲバによって、政治と社会の接点を再検討するエネルギーを奪われてしまった。今、シチュアシオニストを紹介する意味があるとすれば、それは、過去の埋もれた運動の「発見」のためではなく、今現在の運動へと連なるラディカリズムの手がかりとしてである。このことは、都市の運動としてのラディカリズムをこの国で展開する上で決して無駄なことではない。


*1:シチュアシオニストに注目したいくつかの文献として、次のものがある。江口幹『評議会社会主義の思想』三一書房、1977年157ページ以下、海老坂武「〈5月革命〉における表現の問題」『講座20世紀の芸術6 政治と芸術』岩波書店、1989年

*2:ドゥボール「漂流の理論」

*3:『ミル・プラトー』第12章参照

*4:たとえば、次の文献を参照。Rene Vienet, Enrages and Situationists in the Occupation Movement, France, May '68, Autonomedia, 1992.

*5:たとえば、次の文献を参照。クレイグ・グローンバーグ『セックス・ピストルズを操った男--マルコム・マクラーレンのねじけた人生』林ひめじ訳、ソニー・マガジンズ、Greal Marcus, Lipstick Traces, Harverd University Press, John Savage, England Dreaming, Sex Pistols and Punk Rock, Fiber & Fiber.

*6:次の文献を参照のこと。STEWART HOME, THE ASSAULT ON CULTURE, AK PRESS, 1991. JON SAVAGE, ENGLAND' DREAMING, FABER AND FABER, 1991.

*7:多分、合衆国には正統派のSIといえるグループがあるのかどうかはっきりしない。シチュアシオニストの機関誌のアンソロジーをいち早く出版したケン・クナップのビューロー・オブ・パブリック・シークレットが最も正統派に近いように見えるが、ドゥボールの主著『スペクタクルの社会』やよく読まれているパンフレット『学生生活の貧困』はデトロイトの非常に小さな出版社ブラック・アンド・レッドから出版されている。ブラック・アンド・レッドはアナルコ・サンディカリズム的な色合いの濃い出版物やイタリアのボルディーガ主義者のものなどを出しており、シチュアシオニストというよりはアナキズムに近く、文化、芸術運動よりも労働運動の比重の大きい出版社である。合衆国で最も興味深いのは、出版社オートノメディアの存在だろう。日本でも『GS』のネタ本として知られた『セミオ・テクスト』の発行元であり、イタリアのアウトノミア運動の支援グループや「家事労働に賃金を」のアメリカのグループとも重なる人間関係を持ち、ボードリヤールやネグリらのテクストの翻訳でも知られている。同時にオートノメディアは、シチュアシオニストの文献のひとつルネ・ヴェネットの『68年フランス、5月運動』や合衆国のシチュアシオニスト(?)ボブ・ブラックの著作などを出版している。なかでもハキム・ベイのテンポラル・アナキズム・ゾーン(T.A.Z.)はアウトノミア、シチュアシオニストそしてアナキストの考え方をカウンターカルチャーの運動として提起しており、興味深い。Hakim Bay, T.A.Z, Autonomedia, 1985参照

*8:Bob Black, The Right To Be Greedy, Theses On The Practical Necessity Of Demanding Everything, Loompanic Unlimitted.

*9:On the Passage of a Few People Through a Rather Brief Moment in Time. MIT Press, 1991参照。

この本の内容は以上です。


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