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シチュアシオニストとオートメーション

訳者解題

 元コブラの主唱者で、その後、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」(MIBI)を組織したアスガー・ヨルンのこの論文は、ここに初めて発表された後、1954年から58年にかけて書かれた他の9編の論文──「イマージュと形態」、「機能主義に反対して」、「形態と構造」、「悲惨と驚異」、「構造と変化」、「魅力とメカニック」、「運動と形態」、「形態と意味作用」、「脱出口」──とともに、インターナショナル・シチュアシオニストの編集・発行による『形態(フォルム)のために』のなかに再録された。
 コブラの時代から、古今東西の美術はもちろん、ヨーロッパの民衆芸術や北欧の人類学・民族学から言語学や哲学まで、広い領域にわたる膨大な著作を残しているこのルネッサンス的巨人は、これらの論文のなかで、人間の活動のなフォルムかに常に現れてきた「形態」というものを、人類学や言語学(意味論や記号論)、美術史、建築史、認識論、資本論、精神分析などを躯使して、様々な側面から考察している。ヨルンにとっての「形態」とは、主体と客体との相互関係のなかでとらえられたものであり、フォルマリスムや機能主義の固定した「形態」とは異なる。それは、「運動への抵抗」として事物の運動のなかに一瞬のあいだ形作られるものであり、運動によって初めて気づくことのできるものだとされる。「形態とは、観察の運動を凌駕する速度のことである」と定義されている(「形態と意味作用」)。
 また、これらの論文は、ヨルンがコブラの活動を終えた後に、さらに実験的な芸術運動として展開したMIBIの理念と、そこから「シチュアシオニスト・インターナショナル」へと変貌を遂げるにいたった思想的経緯を知るうえでも興味深い。簡単に言うなら、MIBIによってヨルンが当初めざしていたものは、マックス・ビルらの機能主義的バウハウス復活の企てに反対して、形態の自由な実験と集団での芸術活動を通した社会変革の試み(集団製作、環境実験など)であった。それゆえ、『形態のために』の論文は、過去の芸術運動(ウィリアム・モリスやラスキンからバウハウスにいたる工芸運動の流れ、ダダやシュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術運動など)や、同時代の現代芸術(アンフォルメルや抽象表現主義)を総括すると同時に、都市計画やインダストリアル・デザイン、広告産業などによる前衛美術の囲い込みにきわめて強い危機感を表明している。ヨルンがMIBIによって行おうとした社会的な芸術運動は、現実の社会が芸術を社会的なものにする時に無力なものになりかねない。芸術の領域に関わってより攻勢的に既存社会を転覆するためには、「イマジニスト・バウハウス」という家から外に出て、都市の中での「状況の構築」を掲げる「シチュアシオニスト」へと移行せざるを得なかったのである。




 現在まで、ほとんど誰ひとり、オートメーションについての思考をその最終的帰結までつきつめた者がいないというのはかなり驚くべきことである。まさにそれがゆえに、真の展望が見いだせないのである。むしろ、技術者も学者も社会学者も、オートメーションを社会のなかにこっそりと滑り込ませているような印象を受ける。しかし、オートメーションは今や、生産のみならず労働時間に対する余暇の優位までをも社会主義的に支配する問題の核心をしめる。まさにオートメーションの問題は、積極的可能性と消極的可能性のどちらもを、最大限に抱え込んでいるのである。
 社会主義の目的は豊かさである。最大多数の最大幸福という考えには、統計学的に、予期せぬものの出現を最低限に切り縮めることが前提とされている。幸福の数の増大はそれぞれの価値を切り縮めるのである。こうしてあらゆる人間的幸福の価値をいわば完壁な中和状態にまで低下させることが、社会主義の純粋に科学的な発展の避けがたい帰結となるだろう。多くの知識人が機械的再生産というこの考えを乗り越えることができないばかりか、無色で左右対称の未来社会に人間を適応させる準備に励んでいるのは残念なことだ。その結果、独自性の探求に専心する芸術家たちは、ますます多く、社会主義に敵意を抱き、それに背を向ける。逆に、社会主義を信奉する政治家たちは、芸術の力と独自性の現れにはことごとく不信感を持ち続けるのである。
 これらの芸術家も政治家も、それぞれに自らの順応主義的立場から一歩も出ずに、オートメーションヘのある種の不機嫌を表している。オートメーションというものは、彼らの経済と文化への理解を根底から問い直しかねないからだ。「前衛(アヴァンギャルド)」と呼ばれる潮流はすべて、オートメーションを悲観的に見ている。あるいは、せいぜいのところ、オートメーションの開始によって、その到来の近いことが突如として明らかになった未来の積極的な側面を過小評価している。一方で、反動的な勢力はばかばかしいまでの楽観論をひけらかしている。
 1つ意味深い逸話がある。去年、雑誌『第4インターナショナル』のなかで、マルクス主義者の活動家リヴィオ・マイタンが報告していたことだが、イタリアのある神父がかつて、自由時間の増大により日曜ミサをもう1日行う必要が生まれるだろうという考えを述べていた。マイタンはこれに答えてこう書いている。「誤りは、新しい社会の人間が現在の社会の人間と同じであると考えているところにある。実際は、それらの人間は、われわれには思いもつかないまったく多様な欲求と要求を持つようになるだろう」。だが、マイタンの誤りは、彼には「思いもつかない」新しい要求を漠然とした未来に委ねるところにある。精神の弁証法的役割は、可能性を望ましい形のものに向けることなのだ。マイタンは、「新しい社会を構成する要素はすべて古い社会のなかで形成された」という『共産党宣言』の言葉を、常に忘れている。新しい生の要素はすでにわれわれのなか──文化の領域において──で形成されているのであり、議論を活気付けるためにそれを用いるのはわれわれである。
 個人のエネルギーと能力の完全な解放を目指す社会主義は、オートメーションをそれ自体においては反進歩的な一傾向と見ざるをえないだろう。社会主義にとっては、オートメーションを人間の潜在的エネルギーを表出しうる新たな魅力と関連づけることではじめて、この反進歩的傾向を進歩的なものとすることができる。学者や技術者が主張するようにオートメーションが新しい人間解放の手段だとすれば、そこにはそれまでの人間の活動の乗り越えが前提とされているはずである。このことは必然的に、人間にオートメーションそのものの実現をも乗り越えることを想像させる。だが、人間をオートメーションの奴隷ではなく主人とするような、そうした展望はいったいどこに見いだせるというのか。
 ルイ・サルロン*1は『オートメーション』という研究のなかで、オートメーションというものは「進歩についてはほとんど常にそうであるように、何かと置き換わったり何かを取り除いたりする以上に何かを付け加える」と説明している。オートメーションは、それ自体において、人間の行動の可能性に何を付け加えるというのか。われわれはオートメーションが自らの領域で人間というものを完全に取り除いているということを学んできたではないか。
 産業化の危機は消費と生産の危機である。消費の危機は生産の危機に条件付けられているのであるから、生産の危機は消費の危機よりも重要である。個人の領域に移してみれば、このことは、物を貰うよりも与えるほうが、取り除くよりも付け加えることができるほうが満足だというテーゼに等しい。オートメーションはかくして2つの正反対の展望を持っている。それは、個人が進歩の凍結であるオートメーション生産に、何であれ個人的なものを付け加えることを妨げ、同時に、再生産的で非創造的な活動から大規模に解放された人間のエネルギーを節約するのである。それゆえ、オートメーションの価値は、オートメーションそのものを乗り越え、人間の新しいエネルギーをより高度な面に解放する企図に完全に依存している。
 この領域において、今日、実験的な文化活動はかつてなく盛んである。一方で、ここでの悲観的態度、時代の可能性に対する屈服は、かつてのアヴァンギャルドが、エドガール・モラン*2の書いているように、「過去の骨を噛る」ことを欲し続けていることの現れである。ベナユーン*3という名のシュルレアリストが、その運動の最後の表現である『シュルレアリスム・メーム』誌のなかで次のように言っている。「余暇の問題はすでに社会学者の頭を悩ませている。(……)技術者はもう要らない。これから必要なのは、道化師であり、チャーミングな歌手であり、バレリーナであり、ゴム人間だろう。週休6日制になると、真面目と軽薄、怠惰と勤勉の釣り合いが覆される恐れが大いにある。(……)暇をもてあました『労働者』は、考えに不足し、タレントを探して茶の間に侵入する、ひきつった顔のテレビによって蒙昧化されるだろう」。このシュルレアリストには、週休6日は軽薄と真面目の「釣り合いを覆す」のではなく、軽薄と真面目のどちらもの性質を変化させるようになるということがわかっていない。彼が期待しているものは思い違いも甚だしい。それは、古くさいシュルレアリスムのイメージで、決して変化せぬ一種のボードビルとして彼が理解している既存世界のなかでの滑稽な変化にすぎない。なぜ、その未来が下劣な現在を肥大させたものでなければならないのか。なぜ、そこには「考えが不足」していなければならないのか。その未来には、1936年になって修正された1924年のシュルレアリスト*4の考えが欠けているとでも言いたいのだろうか。たぶんそうだ。あるいは、シュルレアリスムの模倣者に考えが欠けているという意味なのだろうか。われわれにはそれはよくわかっている。
 新たな余暇は、現在の社会がでたらめなブリコラージユの偽の遊びをただひたすら増やすことで埋めようと思っている深淵のようにも思える。だがそれは同時に、かつて想像された最も偉大な文化的構築物を建設する基礎でもある。この目的は、明らかに、オートメーションの信奉者たちの狭い関心の輪の外にある。われわれは、それがオートメーションの直接的趨勢と敵対関係にあることさえ知っている。技師と議論しようと思うならば、彼らの関心領域に入って話さねばならない。ウルム*5で現在「造形大学」を運営しているマルドナドは、オートメーションの発達は危うい、なぜなら青少年のあいだに、総合的な展望を欠くオートメーションを目的とした専門家は別にして、理工系の道に自ら飛び込んでいこうとする熱意がほとんど見られないからだ、と説明している。だが、まさにその総合的な展望を示さねばならないはずのマルドナド自身が、次のことを完全に無視している。オートメーションが自らを確立したものと正反対の展望を目的として確立した時にはじめて、そしてまた、オートメーションの発達に応じてそのような総合的展望が実現されるようになる場合にはじめて、オートメーションは急速に発達するのである。
 マルドナドは逆のことを提案している。まず、オートメーションを確立し、次にその使い方を確立せよと。まさにオートメーションを目的としないならば、そのようなやり方を議論してもよいかもしれない。なぜなら、オートメーションとは、反行動を促すような1つの活動領域のなかでの一行動ではないからだ。それは、領域そのものを中和させ、矛盾した行動が同時に企てられない限りは、その外部の領域までも中和させてしまうであろう。
 ピエール・ドゥルアン*6は、1957年1月5日付の『ル・モンド』紙で、労働者がもはや専門的職業活動に対して行使できなくなった潜在的能力を実現するものとして「趣味(ホビー)」の普及があるのだと語り、どんな人間のなかにも「眠っている創造者がいる」と結論付けている。この古くさい陳腐な言い回しのなかには、われわれの時代の現実の物質的可能性にそれを結び付けて考えるならば、今日、輝くような真理がある。眠っている創造者は起こさねばならない。そして、その覚醒状態はシチュアシオニストと呼ぶことができる。標準化という考えは、最大多数の人間的欲求を最大の均質性へと切り縮め、単純化するための努力である。標準化によって、それが閉じ込める経験の領域よりも興味深い経験の領域が開かれることになるのか否かは、われわれにかかっている。結果次第で、人間の生の完全な愚鈍化に行き着くこともあれば、数々の新しい欲望を常に発見する可能性にたどり着くこともできる。だが、その新しい欲望は、われわれの世界の抑圧的な枠のなかでは、単独で姿を現すことはない。それを発見し、暴き、実現するために、共同の行動をとらねばならない。

アスガー・ヨルン*7


*1:ルイ・サルロン フランスの経済学者。著書に『共有財産についての6つの研究』(1949年)、『企業における権威と命令』(79年)など。

*2:エドガール・モラン(1921ー) フランスの社会学者。特に文化とその伝達手段を研究し、映画やマスコミについての研究もある。1956年から62年にかけて雑誌『アルギュマン』誌の編集長を勤める。著書に、『スター』(57年)、フランス共産党を離党する契機となった『自己批判』(59年)など

*3:ロベール・ベナユーン(1928ー) モロッコに生まれ、1949年ブルトンと接触してシュルレアリストとなり、戦後のシュルレアリスム雑誌に協力。1951年、アド・キルーらと『映画時代』を、52年、映画雑誌『ポジティフ』を発行、シュルレアリストの中でも映画に造詣の深い人物として有名。ヌーヴェル・ヴァーグが現れた時には、アラン・レネだけを評価し、ゴダールやトリュフォーは無視するという独自の立場を取った。精神分析にも関心が深く、アーネスト・ジョーンズのフロイトの伝記に基づいた研究も著している。著書・訳書にエドワード・リアの『ナンセンスの本』など、映画作品に『パリは存在しない』(1972年)、『気持ち良いまでに真面目』(75年)などがあり、コラージュ作品も多い。

*4:1936年になって修正された1924年のシュルレアリスト 1924年は、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、同時に『シュルレアリスム革命』誌が発刊された年で、ブルトンらがダダイズムから離れてシュルレアリスム運動を公式に開始した年。1930年代に入り、国際共産主義運動の高揚と帝国主義間戦争の接近という情勢のなかで、シュルレアリストは当初からその思想に含まれていた全体的な社会革命の路線を強め、『革命に奉仕するシュルレアリスム』を創刊する。同時にコミンテルンと接近し、1935年にはジョルジュ・バタイユらとともに「革命的知識人闘争同盟」(機関紙『反撃(コントル・アタック)』の設立にも関わったが、1938年、トロツキーを擁護するブルトンらはスターリンの指導するコミンテルンと決裂し、バタイユらとも快を分かち、国際共産主義運動から離脱し、ロンドンで開催した「シュルレアリスム国際展」によって神秘主義化への第一歩を踏み出した。

*5:ウルム ドイツ南西部のドナウ川沿いの街。戦後、バウハウスの生き残りマックス・ビルが「造形大学」を設立し、バウハウスの継続を行った地。この新しいバウハウスは、かつてのバウハウスの創造性を失い、機能主義が支配する制度化された工芸大学になってしまった。1953年から「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を組織していたヨルンは、当初、この新しいバウハウスで、かつてのバウハウスにも欠けていた「絵画」部門を担当する提案をしていたが、ヨルンの構想していた文化による社会革命という考えは、マックス・ビルに受け入れられなかった

*6:ピエール・ドゥルアン(1921一) フランスのジャーナリスト。戦後、政府機関の法律顧問などをした後、『ル・モンド』の記者、編集次長などを勤める。

*7:アスガー・ヨルン(本名アスガー・オルフ・ヨルゲンセン 1914ー73年) デンマーク生まれの画家、思想家、人類学者。コブラの創設者として北欧・ベネルクス3国からイタリアまで戦後ヨーロッパの前衛芸術運動に大きな影響を与えた。ヨルンはデンマークのユトラント半島のシルケボアに生まれ、1930年代に、バウハウスに参加したデンマーク人ヴィルヘルム・ビィヤーケ・ぺーターセンや象徴主義的抽象絵画を唱えていたエイラー・ビレらが始めた前衛芸術運動『リニエン(線)』の影響を受ける。1936年にパリに行き、フェルナン・レジェの下で現代絵画を勉強し、ル・コルピュジエと共同で万国博覧会の建物の装飾などを行う。第二次大戦中は、デンマークに戻り、前衛芸術の雑誌ズルヘステン (地獄の馬)』に拠りレジスタンスの活動を行う。戦後、「革命的シュルレアリスム」に参加し、パリでオランダ人コンスタントと、ブリュッセルでドトルモンと出会う中から、1948年、シュルレアリスムと抽象表現芸術の両方を乗り越え、生の直接的表現をめざす前衛芸術運動「コブラ」を創設。1951年、結核に冒され、「コブラ」を解散した後、53年から57年までイタリアのアルビソラで、芸術活動を生活全体にまで拡大し、建築・都市計画・都市環境の装飾など日常生活の場そのものの実験をめざした「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を組織する。1957年、ドゥボールらとともにシチユアシオニスト・インターナショナルを創設、そのフランスーセクションで活動。61年にSIを脱退した後は、「比較ヴァンダリズム・スカンジナヴィア硫究所」を鍵点に芸術活動を続ける一方、故郷のシルケボアに象徴主義やシュルレアリスムからコブラ、シチュアシオニストに至るまでの作品と資料を収集した美術館を開設し、その運営を行った。

無益な寛大さはごめんだ

 われわれのような探求に従事している集団において、いわば知的で芸術的な体裁の協力関係を持つためには、多かれ少なかれわれわれのような日常生活の利用の仕方をせねばならないが、こうした協力関係には、常に何らかの友情が混ざっている。
 したがって、最初この合意に加わり、後にそこから除名された者たちのことを考える時、われわれは彼らもまたわれわれの友人であったと考えざるをえない。それは楽しいことであることもあれば、あきれ果て、困ったことであることもある。
 全体的に見て、われわれの非難に十分な根拠があったこと、彼らがわれわれと行動を共にしえなかったのは抗いがたい性質のものだったことは、その後の事実によって証明されている。彼らのうちで教会や植民地部隊に加わった者はわずかしかいなかったが、しかし結局、いたことはいたのである。他の者はインテリであることで満足している。彼らはそのまま年老いてゆくだろう。われわれの時代は、こういう者たちがそこで出世すらできない時代だからだ。フランソワーズ・ジルー*1は彼女の持ち場で完壁であり、そのジャンルが続く限りは、半分の才能しかない失業中の者たちが彼女に取って代わる理由などまったくないのである。そういうわけで、いくつもの偽名を使って正真正銘ポルノグラフィックな文学で仕事をしていたある男は、それに良い味付けをするために、「前衛芸術家」の身分を明かして、その種の新作を書いたり、昔の作品のいくつかを再版したりするようになった。もし彼が、たまたま巻き返しを計るとしても、その真面目な考えを表し、以前とは違うのだと信じさせるためには、隠れてそれを行わねばならないだろう。今度の人間は、おしゃべりたちのゴシップ話にある種の謎を提供して一躍有名になったあの男と同一人物ではなく、その男とごく親しい弟子だというわけである。しかし彼は、こうした野心から遠く離れ、人々からなおざりにされることを甘んじて受け入れた。その男とは、ベルギーの正直な理論家で、われわれの今の友人たちとかつて「実験芸術家インターナショナル*2」に加わったが、その後、青年期の趣味と思い出に閉じこもり、あるイデオロギー論争では愛国主義的な論拠を用いて議論するにいたった──もちろんベルギーを擁護してのことである。
 まだ何も実現せず、何も言わず、ただいくつかの漠然としたばかげた振る舞いをしただけの者に、われわれは極端な寛容さを示した。にもかかわらず、われわれに合流するまでに至らなかった個人はさらに多い。何かがそこで起こっているはずだとぼんやりと感じ、自分自身は人を惹き付けることはできないのに、それに惹き付けられて、周りをうろうろする者をわれわれはたくさん見てきた。彼らは結局、シュルレアリスムの防衛に当たる忠実な青年に倣っていただけで、柄のないナイフのように、彼らには何かが欠けていたのである。
 最近のシチュアシオニスト・インターナショナルの設立は、賛同と断絶の問題に新たな現代的光りを投げかけた。アルバでの会議*3に始まった、様々なグループの間での対等の議論と交渉の時期は、コシオ・ダローシャ*4で幕を閉じ、規律ある組織が生まれた。こうして新しい客観的条件が生まれた結果、公然の反対派は一種の日和見主義を強いられることになり、即座に除名された(イタリア・セクションの粛清)。他方で、一種の待機主義的態度が容認しえないものとなり、われわれの支持者だが即座にわれわれに参加せねばならないとは思わなかった者たちも、そのことによって、敵対者としての正体を現した。それ以来SIの大多数の者が発展させてきたプログラムにそって、いくつもの新しい要素がわれわれに加わったが、アルバ以降癒しえない衰弱を示してきた者たちと少しでも対話をすることを受け入れるならぱ、この新しい要素と、そしてとりわけ、将来にわれわれが出会うことになる要素と縁を切らなければならないおそれが出てくるだろう。
 われわれはより強くなり、それゆえ、より魅力的になった。われわれは常に、無害な関係は望まない。われわれの敵を利するような関係も望まない。マチュー*5は、われわれが彼についてどう考えているか知らないわけはないにもかかわらず、去る3月、その作品の1つを計画段階のシチュアシオニスト的環境の構築のなかに忍び込ませようとした。タピエ*6は、タイプライター売り場で略奪をはたらく猿の群れを思わせる方法で、こうまで言ったではないか。「情熱的なものというものは別のものなので、情熱のレヴェルではすべては行動様式の構造のなかで変化する。現在のレヴェルでの完全な作品とは、別の、したがって全体的な構造が少なくとも情熱に関する内容を超越するような作品である」(去る4月付の『極限的証明』)。だが、彼が1人で、そのパロディックな言葉のつながりに意味を見いだすことができるとはまったく思えないし、われわれが彼の言葉を受け入れることも絶対にありえない。こんな輩はすぐに消え去るがいい、そうすれば次に現れる者が彼よりましでないかどうかもすぐわかるだろう。
 はっきりと言っておく。シチュアシオニストはみな、最初に集まった時に持っていた敵意を遺産として持ち続けるだろう。そして、われわれが1度は軽蔑することを余儀なくされた者たちに、われわれのところに戻るチャンスはありえない。しかし、われわれは断絶について観念的、抽象的、絶対的な捉え方をしているのではない。具体的な集団的任務のなかでの1つの出会いが、いつ不可能になるかを見なければならない。だが、同時にまた、環境が変化すれば、かつては互いにある程度尊敬しあったことのある人物どうしの間で、その出会いがふたたび可能で望ましいものとなることはないのかも追求しなければならない。
 何人かの者──おそらく2、3人だ──は、われわれと知り合いになり、われわれとともに活動し、そして、われわれのところから出ていった、あるいはそうすることを望まれたが、それは今では乗り越えられた理由からだったのだ。彼らは、その後、何かに耐え忍ぶことを一切警戒してきた。少なくとも、われわれにはそう願うことが許されるだろう。彼らを知り、彼らの可能性がどのようなものであるかを知ったわれわれは、その可能性が今も前と同じかそれ以上のものであり、彼らが今もわれわれと同じ立場に立ちうると思っている。確かに、われわれが企て、実行してきたような共同作業は、友情を交えることなしには立ちゆかなかっただろう。それは最初に言った通りだ。しかし、その共同作業を友情と同一視することはできないし、友情と同じ弱さにも、同じ持続と緩みにも従うわけにはいかないということも、また確かなことなのだ。

ミシェル・ベルンシュタイン*7


*1:フランソワーズ・ジルー(1916一) フランスの評論家・政治家。第二次戦後、ジャーナリズムの世界で活躍し、女性誌『エル』の編集長を務めた後、1953年に週刊誌レクスプレス』の共同創刊者となった。その後、政界に進出し、1974年から77年まで、女性相大臣、文化大臣を務めた。

*2:「実験芸術家インターナショナル」 「コブラ」運動の正式名称。

*3:アルバでの会議 1956年9月、イタリア北部の都市アルバで、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動(MIBI)」のアスガー・ヨルンとピノ=ガッリツィオの呼びかけで行われた「第1回自由芸術家世界会議」のこと。この会議には、1年後にシチュアシオニスト・インターナショナルを結成するMIBIと、ドウボールらのレトリスト・インターナショナルのほか、元コブラのメンバーのコンスタント、ミラノの「アルテ・ヌクレアーレ(核芸術)」のエンリコ・バイら、8か国の前衛芸術家たちが集まり将来のシチュアシオニスト・インターナショナルヘの組織統一に向けて議論を行った。

*4:コシオ・ダローシャ イタリア北西部インペリア県の小村。1957年7月27日、この村にMIBIのヨルン、オルモ、ピノ=ガッリツィオ、シモンド、ヴェッローネ、レトリスト・インターナショナルのドゥボール、ベルンシュタイン、ロンドン心理地理学委員会のラルフ・ラムネイが集まりシチュアシオニスト・インターナショナルの結成大会を開催した。

*5:ジョルジュ・マチュー(1921ー) フランスの画家。銀行家の息子として牛まれ、高校の英語教師、ユナイテッド・ステイッ・ラインの広報担当を勤めた後、1947年以来、〈叙情的抽象(アプストラクシオン・リリック)〉を組織する。1950年代前半には、アンフォルメル運動の最も目立った画家として活動。異様な服装での公開製作で有名。50年代末からは世界各地で展覧会を開く一方で、産業界と行政権力と結び付いた活動(セーヴル陶器、公園・記念碑設計、テレビ放送への協力など)によって「新しいルネッサンス」の旗手とされている。

*6:ミシェル・タピエ(1909ー87年) フランスの美術批評家。1948年、ブルトン、ジャン・ポーランと「生の芸術(アール・ブリユット)商会」を設立し、大戦直後から画家のデュビュッフェが実践していた「生の芸術」(幼児、精神疾患者、アマチュアの作品)の収集活動を推進する。それと平行して、デュビュッフェ、ヴォルス、フォートリエら大戦後の前衛的な非具象絵画を「アンフォルメル(非定形)」芸術と命名し、この運動の推進者にして中心的理論家として活動。著書にアンフォルメルのマニュフェストである『もう1つの芸術』(1952年)。

*7:ミシェル・ベルンシュタイン(1932ー) 1952年、ドゥボールと共にレトリスト・インターナショナルの活動に参加した後、シチュアシオニスト・インターナショナル設立後は、フランス・セクションのメンバーとして活動。1967年に脱退。著書に自伝的回想『王のすべての馬』(1960年)、『夜』(1961年)などがある。現在は、日刊紙『リベラシオン』で書評を担当。

インターナショナル・ニュース

シチュアシオニスト的騒擾のための出版物

 1958年1月1日、ミュンヒェンにおいて、「心を落ち着けろ! 実験はもう要らない!」というタイトルでSIドイツ・セクションの最初の宣言が発表された。文化の偽の新しさの悲惨をかなり激しく告発したこのパンフレットは、そこからの脱出口を示すことも忘れてはいない。「諸君、挑発されないようにしたまえ。これは最後の闘いだ!──いつ新たな統一の椅子がやってくるのか。1つの幽霊が世界を彷徨っている、シチュアシオニスト・インターナショナルという幽霊が。」
 そのすぐ後に、フランス・セクションはパンフレット「文化における新たな作戦地域」とアピール「現代芸術の生産者たちへ」を出版した(君たちが解体派の作品を真似するのに飽きたら、そして、みんなから期待される断片的な言葉の繰り返しが時代遅れになってしまったと思えるならば、周囲の環境を改造する新しい力をより高い次元で組織するためにわれわれと接触を取りたまえ)。
 『ポトラッチ』は、第28号までレトリスト・インターナショナル*1の機関紙であったが、統一されたわれわれの組織の管理下に移り、フランス・セクションが随時発行し続けることになった。6月に、パリで、『形態のために』と題されたアスガー・ヨルンの著書がSIによって発行されたところである。この本は、1953年から1957年にかけて様々な言語で発表された文章の選集で、<イマジニスト・バウハウスのための国際運動*2>──それもまた新しいインターナショナルに統合された──が果たした理論面での貢献のエッセンスを提供している。
 ベルギーでは、われわれの同志が、前衛芸術画廊「タプトー」*3──それは、1957年2月の心理地理学的な示威行動によって終わりを告げた──の歴史に捧げられた1冊の本のなかで、「コブラ」運動(1949ー1951年)の以前と以後での実験芸術の変化の意味についてのヨルンのインタヴューと、「状況の構築に関する報告*4」の第2版を発表した。われわれのイタリア・セクションによるこの報告の翻訳は、5月にトリノで発行された(ノティツィエ書店*5)。
 SIベルギー・セクションはさらに、オランダの雑誌『ガルト・シヴイック』第11号のために書かれた、シチュアシオニスト・インターナショナルの起源と現在のプログラムに関するワルター・コールン*6の研究によって、そのプロパガンダをオランダにまで拡大した。

SI第2回大会

 シチュアシオニスト・インターナショナルの第2回大会は、コシオ・ダローシャでの組織統一大会(1957年7月)の6ヶ月後、1月25、26日にパリで開催され、北欧とドイツでの活動の発展、出版活動、無線での連絡網を用いて複数のグループで同時多発的な実験的漂流を実行すること、いくつかの環境構築の最初の適用の可能性について、特に話し合われた。大会はイタリア・セクションの粛清を行った。イタリア・セクションにおいては、あるフラクションが観念的で反動的なテーゼを支持し、その後、多数派によって論破され糾弾されてからも一切の自己批判を怠っていた。大会はしたがって、W・オルモ、P・シモンド、E・ヴエッローネ*7を除名する決定を下した。

ヴェネツィアはラルフ・ラムネイ*8を打ちのめした

 1957年の春からヴェネツィアでいくつかの心理地理学的探査を行っていたイギリスのシチュアシオニスト、ラルフ・ラムネイは、最終的にこの都市を体系的に探検することを目標として定め、1958年の6月頃には完壁な報告書を提出できると思われていた(『ポトラッチ』第29号の予告を参照)。その企ては最初、かなりうまく進んだ。ラムネイは、ヴェネツィアの地図の基本要素──その表記技術はそれまでのすべての心理地理学的地図作成法を凌駕していた──を確立するにいたり、自分が発見したことや最初の結論、希望などを同士らに伝えていた。1958年の1月頃、彼のニュースは悪いものに変わった。無数の困難と闘っていたラムネイは、次第に自分が通過しようとしていた環境につなぎ止められるようになってゆき、自らの探求の路線を1つまた1つと捨て去り、最後には、3月20日の感動的なメッセージでわれわれに伝えていたように、完全に静止した位置に連れ戻されてしまったのである。
 昔の探検家たちは、犠牲者を1パーセント増やすことによって、客観的な地理を認識することができるようになるという状況を経験した。だから、社会空間とその新しい利用法の探検家である新たな探求者のあいだにも犠牲者が出ることは覚悟しなければならなかった。賭けられているものがかつてとは別の性質のものであるのと同様に、罠も別の種類のものである。生の情熱的な利用方法に到達せねばならないのである。退屈の世界のあらゆる防衛線とぶつかるのは当然である。かくして、ラムネイは姿を消した。彼の父もまだその捜索に出発していない。ヴェネツィアのジャングルはこの上なく強力だった。それは将来を約束された1人の青年の上で再び閉じてしまった。彼は消え、われわれのたくさんの思い出のなかに溶解してしまったのである。

国際芸術批評家総会に反対するベルギー行動

 ブリュッセルでの国際芸術批評家総会の会合の2日前の4月12日、シチュアシオニストはその総会に向けて糾弾の文書を広範囲にわたって配付した。SIのアルジェリア、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、スカンジナヴィア各セクションの名において、ハティプ*9、プラチェク*10、コールン、ドゥポール、ピノ=ガッリツィオ、ヨルンの署名で出されたこの文書の文面は次のとおりである。
 「ここで行われることは、きみたち全員にとって単に退屈なだけのように見える。しかし、シチュアシオニスト・インターナショナルは、ブリュッセル見本市のアトラクションとしてこれほど多くの芸術批評家が群れ集まったことを愚かで重大な意味を持つと考える。
 現代思想は、文化に関するかぎり、この25年間、完全に停滞し続けてきた。これまで何も理解せず、何1つ変革してこなかった一時代の全体が、自らの失敗を自覚している。そのかぎりにおいて、この時代の責任者たちは、自らの活動を制度化しようとしている。その結果、彼らは、あらゆる点で時代遅れにもかかわらずいまだ物質的には世の中を支配している社会集団──たいていの場合、彼らはその良き番犬だ──から、公式に認知されることを求めるにいたった。現代の芸術批評が無力だというのは主要に、それが文化の全体性を着想することも、批評を常に乗り越えてゆく実験的運動の諸条件を着想することもできなかったということである。現在、自然に対する支配が拡大された結果、生の構築のためのより優れた力を利用することが可能になっただけでなく、それは必要とされている。そこにこそ、今日の問題がある。にもかかわらず、知識人は、ある種の存在形態およびそれから生まれた観念がすべて覆されることを恐れ、古い世界のどうでもよい細部のチャンピオンとして、非合理なやり方で互いにぶつかり合っているだけだ。この古い、終わってしまった世界の意味すら、彼らは理解していなかったのだ。それゆえ、芸術批評家は集まって、彼らの無知と懐疑のかけらを交換しようというわけだ。われわれの知るところでは、目下、新しい探求を理解し支持しようと努めている何人かの者が、ここに来て、大多数の凡庸なやつらの仲間入りをすることに同意した。彼らがわれわれにとって少しでも興味あることを持ち続けたいと思うなら、こうしたやつらと縁を切るしかないということを警告しておく。
 芸術批評家よ、部分的で、首尾一貫せず、分裂した馬鹿者たちよ、おまえたちは消えてなくなれ! 偽の出会いのスペクタクルを見せてもむだだ。おまえたちに共通に課せられた役目は1つしかない。この市場で、解体された1つの文化についてのおまえたちの混乱した空虚な無駄口という、数ある西洋の商売のうちの1つを陳列するだけだ。歴史がおまえたちを断罪してくれる。おまえたちの大胆さですら、もはや何も産み出さない過去のものなのだ。
 芸術批評家の屑どもよ、芸術の断片の批評家どもよ、解散せよ。未来の統一的芸術活動が組織されるのは、今やシチュアシオニスト・インターナショナルのなかだけだ。おまえたちに、言うべきことはないのだ。
 シチュアシオニスト・インターナショナルは、おまえたちにいかなる場所も残さない。われわれはおまえたちを飢えさせてやる。」
 その場で必要な反対行動を展開するのは、われわれのベルギー・セクションの役目だった。討議の開会の前日である4月13日以降、アメリカ人スウィーニィーを主宰者とする両世界の芸術批評家たちは、ブリュッセルに迎え入れられていた一方で、シチュアシオニストの主張を載せた文書が様々な方法で彼らこ知らされた。大勢の批評家に、郵便で、あるいは直接の手渡しで、この文書が渡された。電話でこの文書の全体、あるいは一部を読み上げられた批評家もいる。われわれのあるグループは、批評家たちが招かれていたプレス・センターに押し入り、そこにいた者にパンフレットを撒いた。それは建物の上階や車からや公道にも撒かれた。プレス・センターの事件の後、芸術批評家たちのなかには、そのパンフレットが通行人の好奇の的にならないように、通りまで出て回収した者もいた。結局、批評家がこの文書を知らないことのないように、あらゆる手段が取られた。問題にされている批評家たちは警察に通報することもいとわなかった。そして、彼らの見本市と彼らの思想の威光を傷つける文章が新聞に引用されるのを邪魔するために、この万国博に関係する利害によって彼らに保証されていた多くの手段を取ったのである。われわれの同志コールンは、この示威行動での彼の役割を理由に、司法当局の追及を受けている。


少年少女たち、

自己超越と遊びへの嗜好をわずかでも持つならば、

特別の知識はなくても、

とても賢く美しい君たちは、

シチュアシオニストとともに

歴史の方向に進むことができる。

電話はしないでくれたまえ。手紙を書いてくれ。

住所は、パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地


*1:レトリスト・インターナショナル 1952年、ギー・ドゥボール、ジル・ヴォルマン、セルジュ・ベルナ、ジャン=L・ブロー、アンドレ=フランク・コノール、ジャック・フィヨン、ムハンマド・ダフ、パトリック・ストララン、ミシェル・ベルンシュタインらのレトリスト左派が、イズーらの神秘主義化と美学至上主義に反発して結成した集団。「状況の構築」、「転用」、「漂流」、「心理地理学」など、シチュアシオニスト・インターナショナルの主な理論は、このレトリスト・インターナショナルのなかで既に提出されており、彼らの機関誌「ポトラッチ』には、これらの理論に基づいた活動が数多く報告されている。機関誌『ポトラッチ』は、1954年から1959年まで、全30号刊行、1957年11月発行の第29号からは、SIの内部誌になった。また、『ポトラッチ』発行以前に機関誌『アンテルナシオナル・レトリスト』が第4号まで出された。

*2:イマジニスト・バウハウスのための国際運動 1950年にマックス・ビルが構想した機能主義的な新バウハウスの試みに反対し、1953年、アスガー・ヨルンが設立した国際運動。1955年からは、イタリアのアルビソラに「実験工房」を開設し、絵画、陶芸、建築、音楽など多分野にわたるイマジニストの活動の実験を行った。

*3:前衛芸術画廊「タプトー」 ワルター・コールンが運営していたブリュッセルの画廊。1956年夏にコブラ解散以降初めてのコブラ展(ドトルモンが組織)を開催するなど、ベルギーの前衛芸術運動の拠点となっていた。

*4:「状況の構築に関する報告」 1957年イタリアのコシオ・ダローシャで開催された、シチュアシオニスト・インターナショナルの設立のための会議にドゥボールが提出した討議資料で、SI発足時の綱領的文書。正式なタイトルは「状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告」。

*5:ノティツィエ書店 トリノのノティツィエ画廊に付属した書店。

*6:ワルター・コールン SIベルギー・セクションのメンバー。1958年秋に除名。

*7:ワルター・オルモ、ピエロ・シモンド、エレーナ・ヴェッローネ 3人とも、設立時からのSIイタリア・セクションのメンバーで、それまでは、ヨルンとともにイタリアに本拠を置いた「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」(MIBI)に参加していた。同運動の雑誌『エリスティカ』第2号(1956年)には、シモンドの論文「具象芸術の一般理論のために」、ヴェッローネの論文「民主主義的目的の建築の役割」がある。ワルター・オルモは、MIBIのアルバの実験工房で、音楽の実験を行った。3人とも、1958年1月に除名

*8:ラルフ・ラムネイ 〈ロンドン心理地理学委員会〉のメンバーとしてSIの設立に参加した後、SIイタリア・セクションのメンバーとして活動。1958年3月除名。

*9:アブドゥルハフィド・ハティブ 135ぺージの注を参照

*10:ハンス・プラチェグ SIドイツ・セクションのメンバー。1959年2月除名

あるフランスの内乱

訳者解題

 ここに緊急アピールのようなかたちで発表されたシチュアシオニストの文章は、5月13日に始まったアルジェリア駐留フランス軍とフランス人入植者(コロン)によるクーデタの試みを受けてのものである。
 アルジェリアでは、1954年からFLN(国民解放戦線)が武装蜂起を開始し、アルジェリア独立戦争が戦われていたが、FLNの戦いに対するヨーロッパ人入植者と軍、極右組織のテロ活動は熾烈を極めていた(56年のフランス軍によるベンベッラの誘拐、57年のアルジェの実質上の戒厳令化とFLNへの拷問・虐殺)。FLNを中心としたアルジェリア人民も57年の「アルジェの戦い」で知られるゲリラ戦を展開する一方で、「アルジェリア革命全国評議会」を全国に設置し、モロッコ、チュニジア領内に本拠を移し、そこから外交政治活動を強め、国際世論に訴えた。
 こうした中で、1958年5月13日、アルジェ市駐留フランス軍の降下師団司令官マシュー将軍を中心とする将兵グループと、ヨーロッパ人入植者のデモ隊3万人がアルジェリア政庁を占拠、マシューを長とする公安委員会の設置を宣言し、植民地を舞台としたクーデタを敢行した。同時に、コティ大統領に対しても、フランス本国に治安政府を設け、将軍ド・ゴールを指導者とするよう要求した。
 こうした動きに対して、かねてからFLNへの弾圧強化政策を進めてきた社会党ギーモレ首班の「共和戦線」内閣(社会党、急進社会党左派、ド・ゴール左派)は、まったく対応できなかった。議会左翼である共産党も、内閣のアルジェリア弾圧のための特別大権付与に賛成票を投ずるなど、政府のアルジェリア政策に追随するだけだった。また、56年総選挙で、反税・反権力を掲げて後進地域の商人や中小企業家の票を得て議席を伸ばしたブジャード党も、混乱に拍車をかけていた。こうした事態に対処するため、翌14日、モレ内閣に代わりフリムラン内閣が発足し、アルジェリア駐留フランス軍総司令官サラン将軍に反乱鎮圧を命じたが、サランは反乱軍に付き、「全アルジェリア公共治安委員会設立宣言」に署名し、アルジェリアはヨーロッパ人植民者による独立政権樹立の動きを強めた。さらに、24日には、コルシカ島でも陸軍降下部隊が実力行動に出て、ド・ゴール政権樹立を要求してフランス本土へ迫る勢いとなった。フリムラン首相はフランス本土の内戦の危機を国民に訴え、ド・ゴールに事態の収集を要請。29日、コティ大統領はド・ゴールに組閣を要請した。ド・ゴールは6月1日、国民議会で首相に選出され、2日にはフランス全土とアルジェリアの非常事態権限を得て、4日、アルジェに赴き、アルジェリアでの選挙の提案を行うのである。




 「私達の戸口にいるのはカティリナ*1ではなく死である。」
P・J・プルードン、ヘルツェン宛て、1849年

 この雑誌が印刷されようとしていた間に、重大な事件がフランスで突発した(5月13日~6月2日)。今後の展開次第ではこの事件はヨーロッパにおける生活の他の多くの様相に対しても、前衛文化の諸条件に対しても、重くのしかかることになるかもしれない。
 歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある*2というのが本当だとすれば、第4共和政末期の喜劇の中でたった今、繰り返されたのはスペイン戦争である。第4共和政の政治の基本は、ずっとこれまでその非現実性にあったが、今度のように流血を見ることなく迎えた共和政の死それ自体も非現実的だ。第4共和政は植民地に対するいつ終わるとも知れない戦争と不可分だった。フランス国民の利害・関心は戦争を停止することにあり、植民地主義を掲げる産業部門の利害・関心は戦争に勝つことにあった。議会はこのどちらの利害・関心に対しても無能であるように見えたが、実際は、まさしく植民地主義者たちと彼らに仕える軍隊との側に立って、ここ数年来いろいろ譲歩を重ね解散を繰り返してきたのであり、今また、その彼らの権力に対して席を譲る覚悟をしていたのだ。
 アルジェリア駐留軍が反乱をくわだてたとき、誰もが予期したように、共和国政府はほとんど犠牲をはらうこともなく、彼らをもとの規律に服させることができたはずで、月末には抵抗もまだ必要かつ容易だった。ところが、政府は当初、議会内左翼多数派を通じて国民に頼らねばならなかった。コルシカ島を征服され空艇部隊によるパリ攻撃の脅威に晒されるに及んで、政府は最後には、(かつて武装民兵を率いたカップによるベルリン暴動*3の当初の成功を無に帰せしめたのが、政府によるあのゼネスト組織であったように、今回もそのようなゼネストを組織することによって)動員された人民の実効力に頼るべきなのに、そうはしなかった。そうした革命過程には、召集兵や戦艦乗組員に対して、自分たちの反乱上官に反対して決起するよう訴えること、そしてとりわけアルジェリアの独立を承認することが含まれていたが、それは[政府には]ファシズムよりもずっと危険に思えたのだ。
 共産党はこの危機において議会体制の最上の擁護者以外の何ものでもなかった。ところが、当の体制は左翼多数派の中に共産党の票数を数えいれることをまさしく拒否することによって、崩壊点に達していたのである。相変わらず体制は、右翼少数派がこれまで自らの政策を押しつけるときに使ってきた無類の威嚇手法、すなわち、権力奪取にいそしむ共産党という神話の、徹底した犠牲者であった。権力奪取に全くいそしんでいなかった共産党はこうして、議会でただ1つの作戦も成功させることなく、大衆を失望させ、武装解除させていたのだった。それに議会のほうもまた、当の右翼少数派であるブルジョワジーの責任者たちに申入れを受け入れてもらうように、徹底して努めたのである。これらの責任者は彼らなりに石のように断固たる態度のままであったため、共産党員たちは議会で最初の成功を記すことができなかった。体制はその前に瓦解するだろうというわけだ。5月28日には、議会ではなく国全体を反ファシズム闘争に引き入れることが可能であるように見えた。ところが、5月29日の夕方、CGT(労働総同盟)は主な武器である無期限のゼネストに打って出ずに、6月1日のデモは純粋に形ばかりのものでしかなかった。
 大衆にしてみれば、どうでもよかった、なぜなら、大衆はこれまで久しく、議会内で右翼穏健派を支持するか、それとも、一種の穏健な人民戦線、といっても、非共産党議員から絶対に拒否されていたのでユートピアに等しいような人民戦線を支持するか、という誤った二者択一しか提供されてこなかったからである。政治に関心を示さない分子たちは大新聞とラジオによって眠り込まされていた。これらの情報手段をコントロールしてそれを最も上手に利用するような政府であったなら、充分な猶予期間を駆使して国に事態の重大さを知らせていただろうが、資本主義的な情報提供様式は、生来の傾向をなぞって、国民の大部分に対して体制の断末魔を隠しおおせたのである。政治に関心を示す分子たちは1945年以来、敗北の習慣を身につけていて、彼らがこのような「共和政擁護」の機会に対して懐疑的であったのは無理もない。しかしながら、何10万というデモ隊が5月28日パリにむけて一緒に行進していったことから分かるように、民衆の方こそ立派であり、土壇場で立ち上がったのだ。
 今までのところ、この嘆かわしい事態にはいかなる現代的な特徴も含まれていない。フランスでは、ファシズムは大衆党も綱領も持っていなかった。偏狭で人種差別主義的な植民地主義と、手に届く勝利としては他の勝利が見えなかった軍隊とから成る勢力だけが第1段階として国にド・ゴールを押しつけたわけだが、そのド・ゴールは17世紀フランスの国家的偉大さという、学校で習うような型にはまった観念を代表し、プジャード的*4=軍事的な道徳的秩序への移行を保証しているのだ。工業化を強力に押し進めたこの国では、労働者階級の決定的な行動というものはなかった。ブルジョワジーとプロレタリアートとが政治的に不在であるような段階に陥ったのであって、この段階では権力を決めるのは軍部クーデターなのである。
 われわれはどのような現状にいるのだろうか。労働者の諸組織はこの場合、手つかずである。民衆の一部は事態の重大さを知らされている。アルジェリア駐留軍は相変わらず戦闘を行っている。公式に指名しないうちから既にパリの歴代政府を指揮していた植民者たちは、アルジェでの統治を続けるために、今や、反対されることもなくフランスを統治せざるをえない。相変わらず彼らの目的は、自分たちの利益に資するべくフランスが国を挙げて戦争努力を強化することにあり、それには、現時点でこの国の民主主義が清算されてファシズムの権威が勝利することが必要である。まだ流れを逆転できるとすれば、フランスの民主主義勢力は、自らの態度をとことんまで突き進めざるをえないだろう。つまり、アルジェリアとフランスにおける植民者たちの権力を清算すること、すなわち、FLN*5によるアルジェリア共和制実現を承認することにまで突き進まざるをえないだろう。したがって、短期間の激しい衝突は避けられない。将軍兼大統領の個人的役割について無気力な幻想を抱いたり、統一行動に障害を持ち込んだり、闘争を開始すべきときにあたって新たに躊躇したりすれば、民衆をさらに弱体化し、裏切ることにさえなるかもしれないが、結末を遅らせることにはならないだろう。

1958年6月8日


*1:力ティリナ 古代ローマの政治家で時の権力に反逆したルシウス・セルギウス・カティリナ(前108?-前62年)のこと。一種のクーデタをたくらんだ彼を激しく非難するキケロの弾劾演説は有名で、カティリナは内戦によって道徳的に堕落した青年の典型とされている。

*2:歴史は悲劇であったものを笑劇としてやり直す傾向がある マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』第1章の冒頭の言葉。

*3:カップによるベルリン暴動 ドイツの偏狭なナショナリスト、ウォルフガング・カップ(1858?-1922年)が1920年、ワイマール体制の転覆を図って行ったクーデタ暴動。暴動はベルリン市民の果敢なゼネストによって失敗に帰した。

*4:プジャード的 南仏の文房具店主ピエール・プジャード(1920-)が組織したプジャード運動(1953年、税制改革に反対する小売業者を組織してフランス商人職人防衛連合を創設して反税運動を展開し、翌年には、チュニジアを手放したマンデス・フランスから多国籍企業、哲学者・知識人、外国人まで祖国に背く者をすべて攻撃するファシスト的右派政党にまで発展し、56年の総選挙では52議席を獲得するまでに躍進した)にちなみ、プチブル層の生活保守意識に根ざした偏狭で排外主義的な感情的愛国主義意識をさして言う。

*5:FLN アルジェリアの「国民解放戦線」。フランス政府のアルジェリアに対する融和的な自治案に反発し、1954年11月、各地で独立を求めて武装蜂起を起こす。以来、アルジェリア独立を掲げ、フランス軍と植民者テロ組織の残虐な弾圧に抗して戦い、1962年の独立を勝ち取った。

付録資料 状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告 1

現代文化における革命と反革命

 世界を変革しなければならない、われわれはまず、そう考える。われわれが閉じこめられている社会と生を最大限に解放する変革、それをわれわれは欲するのだ。この変革はそれに適した行動によって可能になることをわれわれは知っている。
 われわれの任務はまさに、ある種の行動手段を活用すること、そして新たな行動手段を発見することにある。それはどこよりも文化と風俗習慣の領域において容易に認められるものであるが、それらをあらゆる革命的変革の相互作用という展望のもとで活用しなければならない。
 人々が文化と呼ぶものは、ある社会における生の組織化の様々な可能性を反映するだけでなく、それをあらかじめ描き出すこともある。われわれの時代は本質的に、より高度に世界を組織化することを必要とする生産の現代的可能性の発展に対して、革命的な政治行動が遅れをとっているという特徴を持っているのである。
 われわれは歴史の本質的危機を生きている。そこでは、新しい生産諸力と一文明の形成とを世界規模で合理的に支配するという問題が年ごとに次第に明確に提出されている。しかしながら、搾取の経済的下部構造を前もって転覆することの成否がかかっている国際的な労働運動の行動は、いまだ地域的には半分の成功しか収めていない。資本主義は市場における統制経済、流通部門の増大、ファシスト的政府などの新たな闘争形態を発明している。それは労働者の指導部の退化に支えられ、種々様々な改良主義的戦略によって階級対立を覆い隠している。そうして、資本主義は現在まで、高度に産業化された国々の大半においては古い社会関係を維持し、社会主義社会からは不可欠な物質的基盤を奪い取ることができたのである。逆に、この10年来、帝国主義とのより初歩的な闘争に大規模に巻き込まれてきた低開発国や植民地国は、非常に大きな成功を克ち取るようになってきた。この国々の成功は、資本主義経済の矛盾を深刻なものとし、そして、主として中国革命の場合のように、革命運動全体の再生を促している。この革命運動の再生は資本主義諸国あるいは反資本主義国内部での改革にとどまらず、至る所で、権力問題を提出せずにはいない衝突を発展させるだろう。
 現代文化の破産は、混沌の極みにあるこれらの敵対諸力の──イデオロギー闘争の側面における──産物である。新たに定義されつつある新しい欲望は、不安定なままの状態で表明されている。時代の資源はそれらの欲望を実現可能にしているが、遅れた経済構造はこれらの資源を活用することができないのである。同時に、支配階級のイデオロギーはそのまとまりをすべて喪失してしまったが、その原因は、そうしたイデオロギーが、次々に現れる自らの世界観を軽蔑し、歴史に関する非決定論へと向かってきたこと、キリスト教と社会民主主義のように、原理的には敵対する反動思想を年代順に配置して共存させてきたこと、さらに、つい最近になってその価値が認められたばかりの、西洋現代に異質な多くの文明によってもたらされるものをでたらめに混ぜ合わせてきたことにある。支配階級のイデオロギーの主要目的は、したがって、混乱を生み出すことにあるのである。
 文化においては(文化という語を用いる場合、たとえ偉大な科学理論や一般的教育観のレヴェルでの混乱を明らかに感じさせることになるとしても、われわれはつねに、文化の科学的もしくは教育的側面は無視する。文化という語でわれわれが示すものは、美学と感情と風俗の複合体であり、それは日常生活に対して一時代が示す反応なのである。)、混乱を旨とする反革命の手法は、様々な新しい価値の部分的併合、巨大産業(小説、映画)の手段を用いた意図的な反文化的生産を同時並行的に進めるものであるが、それは学校と家庭における青年の無知蒙昧化の当然の帰結である。支配階級のイデオロギーは、体制転覆的な発見を凡庸化することを組織し、そうした発見に殺菌処理を施した上で大々的に普及させるのである。そうしたイデオロギーは、転覆的資質を持つ個人を利用するのに成功することさえある。死んだ個人に対しては、その作品を変造することによって、生きている個人に対しては、全体的なイデオロギー的混乱を利用して、支配階級が商う神秘思想のひとつで彼らを中毒させることによって。
 清算段階におけるブルジョワジーの矛盾の1つは、したがって、知的・芸術的創造の原理は尊重し、それによって創造されたものにはただちに反対し、次にそれを利用するというところにある。こうした矛盾が生じるのは、ブルジョワジーというものは少数派のなかに批判と探求の意味を保持しなければならないが、それはこうした活動を厳密に断片化された実用的専門分野へと方向付け、全体的な批判と探求を遠ざけるという条件下においてであるという理由からである。文化の領域においては、ブルジョワジーは、われわれの時代において彼らにとって危険な新しいものに対する嗜好を、ある種の堕落した形態の珍奇なもの、非攻撃的で混乱した珍奇なものへと逸らせることに努めている。文化的活動を支配している商業のメカニズムによって、前衛的傾向は自らを支えうるフラクション── 社会状況の全体によってすでに制限を加えられているフラクションであるが──から切り離されているのである。これらの傾向のなかですでに注目を集めている者たちは様々な断念の強制という犠牲を払い、一般的には、個人という資格でのみ認められる。主要な論点は、常に、全体的要求を断念し、様々な解釈を許す断片的作業を受け入れるという点にある。それこそが「前衛」というこの用語──結局のところ常にブルジョワジーによって操作された用語──に、どこかしら胡散臭いばかげた匂いを付与するものである。
 集団的前衛という概念そのものは、そこに含まれた闘争的側面と同様、歴史的諸条件の最近の産物である。この歴史的条件は、文化における首尾一貫した革命プログラムの必要性を産み出すと同時に、そのプログラムの発展を阻害する勢力と闘う必要性も産み出しているのである。そうした集団は、革命的政治によって作られたいくつかの組織方法を自らの活動領域に移し換えるよう導かれ、その行動も以後もはや政治批判と無関係には産み出され得ない。この点に関して、未来派、ダダイズム、シュルレアリスム、そして1945年以降に形成された諸運動のあいだでの進歩は著しい。しかしながら、これらの各段階に、変革に対する同一の普遍的意志が見出せる。そしてそれらは、現実世界を根底から変革することができなくなり教義的立場そのもの──その不十分さはつい最近、暴露されたばかりである──への決定的退却を余儀なくされた時にも、同じように素早く雲散霧消したのである。
 未来派は第一次世界大戦の前夜にイタリアからその影響力を広めたが、文学と芸術を一変させるという態度を採った。それは、数多くの形式的新しさをもたらしたが、しかし、機械的進歩の概念を極端に図式的に適用することに基づいていたにすぎない。技術に対する未来派の楽観主義の幼稚さは、それを支えていたブルジョワジーの幸福の時期が去ると同時に消え去ってしまった。イタリア未来派はナショナリズムからファシズムへと雪崩を打って崩れてゆき、当時の時代のより完全な理論的展望に到達することは決してなかったのである。
 チューリッヒとニューヨークで、第一次大戦の亡命者と脱走兵たちによって構成されたダダイズムは、ブルジョワ社会──その破産は誰の目にも明らかになったばかりだった──のあらゆる価値を拒絶する存在たらんとした。第一次大戦後のドイツとフランスでの彼らの激しい示威行動は、主として芸術と文化の破壊に関するものであり、副次的にある種の行動形態(見せ物、演説、わざとばかげたやり方でなされる散策)に関わることもあった。彼らの歴史的役割は、文化というものの伝統的捉え方に対して致命的一撃を加えたことにある。ダダイズムのほとんど即時の解体は、ダダイズムそのものの持つ完全に否定的な定義から必然的に生じたものである。だが、ダダの精神がその後に生まれたすべての運動をなにがしか決定付けたことは確かだ。また、歴史的にはダダイストのものであった否定的側面が、後の建設的立場を取るどのような運動にも再発見されねばならないことも確かである。腐り果てた上部構造の繰り返しを余儀なくさせる社会状況──その審判は知的な側面ではとっくに下されている──が力づくで一掃されないかぎりそうなのだ。
 シュルレアリスムの創始者たちは、フランスでダダの運動に参加した者たちだが、ダダイズムによって明らかにされた道徳的反逆と伝統的コミュニケーション手段の極度の衰退から、自らの建設的行動の領域を確定しようと努めた。シュルレアリスムは、フロイトの心理学を詩的に適用することから出発して、自らが発見した方法を、絵画や、映画や、日常生活のいくつかの局面に広げた。やがて、それらは拡散した形式のもとで、さらに広げられた。こうした性格の試みにとっては、絶対的にあるいは相対的に正しいかどうかが問題ではなく、一定の期間、その時代の欲望を結集できるかどうかが問題なのである。観念論の清算と弁証法的唯物論への賛同の時期と特徴づけられるシュルレアリスムの進歩の時代は、実際は1930年代の少し後に終ってしまっていた。だが、その退廃が誰の目にも明らかになったのは、ようやく第二次世界大戦の終わりになってからのことであった。シュルレアリスムはそれ以来、かなりの数の国に広がっていった。さらに、それは自らの規律を定めるにいたったが、その厳格さは過大に評価してはならず、さまざまな商業的配慮によってしばしばやわらげられたものだった。だがこの規律こそは、ブルジョワジーの攪乱戦術との闘いの有効な尺度だったのである。
 シュルレアリスムのプログラムとは、欲望と驚異の至上権を肯定し、生の新しい使い方を提案するものであるが、一般に考えられる以上に建設的な可能性に満ちたものである。
 確かに、実現のための物質的手段の不足によってシュルレアリスムの豊かさは大きく制限されたが、その最初の首謀者たちの交霊術への到達と、そしてとりわけそのエピゴーネンらの凡庸さを見ると、シュルレアリスムの理論の発展を否定するものは、まさにこの理論そのものの起源にあったのだと言わざるをえない。
 シュルレアリスムの根底に存在するものは、無意識の想像力が無限に豊かだという誤った考えである。シュルレアリスムのイデオロギー的失敗の原因は、無意識こそがついに発見された生の偉大な力だと確信したことにある。そして、それなりに思想史を再検討しながら、そこまででやめてしまったところにある。われわれは結局、無意識の想像力は貧しく、オートマティズムは単調であり、常に変わらぬシュルレアリスト的様相を典型的に示している「突飛な」種類のものがことごとく極端に驚きのないものであることを知っている。こうしたスタイルの想像力に形式的に忠実であると、最後には想像力の現代的諸条件と正反対のところにいってしまう。すなわち、伝統的神秘主義というやつだ。どれほどシュルレアリスムが無意識というその仮説に依存しつづけているかは、第2世代のシュルレアリストが試みている理論的深化の作業から読み取ることができる。カラス*1とマビーユ*2は、すべてをシュルレアリストの無意識実践から生じる2つの連続した局面に結びつける。前者にとっては、精神分析であり、後者にとっては宇宙的影響関係である。実際、無意識の役割の発見はそれ自体が1つの驚きであり、新たな事実だったのであり、将来の驚きと新たな事実についての法則などではなかったはずだ。フロイトが「全て意識されるものは古びてゆく。意識されないものは変化しないままにとどまる。だがそれも、いったんそこから自由にされると、瓦礫と化してしまうのではないだろうか」と書いたとき、彼も結局はこのことを発見していたのである。
 シュルレアリスムは、現実といまだに強く求められている諸価値との間の断絶が不条理にまで追いやられている明らかに非合理な社会に反対し、その社会に対して逆に非合理的なものを用いて、うわべだけの論理の価値を破壊しようとした。シュルレアリスムの成功そのものは、次の事実に負うところが大きい。すなわち、この社会のイデオロギーは、その最も現代的な面において、まがいものの価値の厳格なヒエラルキーを断念したが、逆に今度は自らが非合理的なものを公然と利用し、さらにそれを機会にシュルレアリストの遺物までをも利用しているという事実に、である。
 ブルジョワジーはとりわけ、革命的思想の新たな出発を阻止しなければならない。ブルジョワジーはシュルレアリスムの脅威的な性格をかつて意識していた。現在の美術市場のなかにそれを解体させることができた今となっては、彼らもシュルレアリスムが無秩序の極みに達したことを確認して悦に入っている。そのようにしてブルジョワジーはある種のノスタルジーを涵養すると同時に、どのような新たな探求も自動的にシュルレアリスムのデジャ・ヴュ──すなわち、ブルジョワジーにとって、もはや誰からも再検討されえなくなった敗北──へと導くことで、その権威を失墜させているのである。キリスト教道徳に基づいた社会の疎外を拒否することか原始社会の完全に非合理的な疎外を尊重するようになった人々もいる。だがそこまでだ。さらに前進しなければならない。そして世界をよりいっそう合理化せねばならない。それこそがこの世界を情熱にあふれたものにする第1の条件である。


*1:ニコラ・カラス(1907ー) スイス生まれのシュルレアリスト。1930年代後半、パリでシュルレアリストと交わり、大戦中は合衆国に渡りシュルレアリスムの雑誌『ヴュー』や『VVV』に協力する。その後、大学の美学教師になりポップ・アートの擁護者として美術批評を多く書く。代表作 『火元』(1938年)はシュルレアリストらに熱狂的に受け入れられた。

*2:ピエール・マビーユ(1902一52年) フランスのシュルレアリストの作家・医者。1930年代にシュルレアリスムの雑誌『ミノトール』の編集に携わり、精神分析や人類学、とりわけ「鏡」に関する多くの文章を発表。戦後は、雑誌『ネオン』に協力し、ブルトンとともに活動したが、1952年、急死した。代表作に『驚異の鏡』(1940年)


ブルジョワ思想の最高段階としての解体

 いわゆる現代文化は、パリとモスクワをその2つの主要中心地とする。パリから発する流行──その作成においてフランス人は多数派を形成するわけではないが──は、ヨーロッパとアメリカ、そして日本のような資本主義地帯の他の先進国に影響を与える。モスクワによって行政的に押し付けられた流行は労働者国家の全体に影響し、わずかに、パリとその影響のおよぶヨーロッパ地域に逆に作用する。モスクワの影響は直接的に政治的な起源を持つものである。未だに保たれているパリの伝統の影響力を説明するには、様々な職業の集中によって獲得されたパリの優位性を考えなければならない。
 ブルジョワ思想は体系的な混乱のなかで見失われ、マルクスの思想は労働者国家のなかで根底から変質し、西も東も主として文化と風俗の領域で保守主義が君臨している。この保守主義は、モスクワでは、19世紀のプチブルジョワジーに典型的な態度をとりつつ大手を振って歩き、パリではアナキズムやシニスム、あるいはまたユーモアといった形で偽装を凝らしている。どちらの支配的文化もわれわれの時代の現実の問題を取り入れることにかけてはまったく不適格であるが、経験という点については西側のほうがはるかに遠くまで推し進めてきたと言える。一方、モスクワの支配地域はこの分野での生産については後進国の様相を呈している。
 全体として知的自由が許容されてきたように見えるブルジョワ支配地域では、様々な思想の動きが認識され、環境の多様な変化が漠然と展望されているおかげで、制御しえない動機に衝き動かされた現在の大変動もたやすく意識することができる。支配的な感受性は、最終的には自らにとって必ず有害となる新たな変化を阻止しつつそれに適応しようと試みている。遅れた諸潮流が同時に提案している解決策は、必然的に次の3つの態度に帰着する。ダダ-シュルレアリスム危機がもたらした流行を引き伸ばすこと(その危機とは、過去の生活スタイルが終わり、その時まで認められていた生の理由が崩壊した時に、いたるところで自発的に現れ出た精神状態を入念に練り上げて文化的に表現したものにすぎなかった)、精神の廃墟のなかにとどまること、そしてはるかな過去への回帰である。
 現在もなお続いている流行に関して言えば、あらゆる場所でシュルレアリスムを薄めた形態のものに出会うことができる。そこにはシュルレアリスムの時代の趣味はすべてあるが、その思想は何1つない。反復こそがその美学なのである。正統派シュルレアリストの運動の生き残りたちは、この老いぼれた神秘主義の段階において、イデオロギー的立場を取ることもできなければ、何であれ発明することもできないでいる。彼らは、常にますます卑俗なものになってゆくいかさまを支持し、さらに別のいかさまを求めるのである。無のなかにとどまる態度は、第二次大戦に続く時期に最も精力的に自らの認知につとめた文化的解決策であった。それは、それまで数多く示されていた2つの可能性のどちらかを選ぶに任せる。都合のいい言いわけを言って虚無のなかに隠れるか、無神経にそれを肯定するかである。
 最初の選択肢は、実存主義文学以来とりわけ有名になった。それは、借り物の哲学のかげで、それまでの30年間の文化の進歩のなかで最も凡庸な面を再生産し、マルクス主義あるいは精神分析の偽造によって、さらには、行き当たりばったりに政治的参加と断念を繰り返すことによって、本来は広告的関心にすぎなかった自らの関心を弁護してきたのである。これらの手法は非常に数多くの追従者──公然のあるいは密かな──を生んだ。抽象絵画と、抽象絵画を定義する理論家がたえずひしめき合っているのも、同じ性質の、それに比肩しうる規模の事実である。完璧な精神的無を喜んで肯定する態度は、最近の新文学において、「右翼青年小説家のシニスム」と呼ばれる現象の1つである。それは、右翼の者たちをも、小説家をも、彼らを支持する半青年層をも越えて広がっている。過去への回帰を要求する初潮流のなかで、社会主義レアリスムの教義は最も大胆な態度を示している。なぜなら、革命運動の結論に依拠すると言いながら、それは文化の創造という領域では擁護しようのない立場を取るからである。1948年のソヴェト音楽家大会で、アンドレイ・ジダーノフ*1は彼が行っていた理論的抑圧の争点を示してこう言った。「われわれが古典絵画の宝庫を維持し、絵画の清算者たちを壊走させたのは正しかったであろうか?る『流派』を生き残らせることをもって、絵画の清算を意味したのではないだろうか?」こうした絵画の清算や、そして他の多くのものの清算を眼の当たりにすると、進化した西側のブルジョワジーなら、彼らのすべての価値体系が崩壊したことを確認し、イデオロギーの完全な解体の上に、絶望的反応と政治的日和見主義に陥る。しかしジダーノフは逆に、──成り上がりもの特有の趣味によって──前世紀の文化的価値の解体に反対するプチ・ブルジョワのなかに自らの姿を認め、それらの価値を権威主義的に復興する以外、何も試みようとはしないのである。歴史がそれぞれの時代にさまざまな問題から引き出した結論をすべて仮説によって排除した後で、すでに乗り越えられた問題の研究をやりなおすことを強制して、一時的で地域的なものにすぎない政治情勢によって時代全体の問題を回避する力を与えられたと信じるのは、かなり非現実的である。
 宗教機関、主にカトリックの伝統的プロパガンダには、その形態とその内容のいくつかの面において、この社会主義レアリスムと近いものがある。常に変わらぬプロタガンダによって、カトリックは、過去の諸勢力のなかで彼らだけがいまだに所持している全体的イデオロギー構造を防衛する。だが、彼らの影響を逃れてゆく部門──その数は次第に増えているが──を再び捕えるために、カトリック教会は、伝統的プロパガンダに平行して、主として、アンフォルメルと呼ばれる絵画などのように、理論的混乱を抱えた無の支配下にあるもののあいだで、あらゆる形式の現代文化を支配することを追求している。カトリック反動派は、恒久不変の価値のヒエラルキーを確信しているだけに、他のブルジョワ潮流とくらべて、彼らが異彩を放っている分野において、解体を嬉々として貫徹することがいっそう容易である。そういう利点が彼らにはあるのである。
 現代文化の危機の現段階での帰結とは、イデオロギーの解体である。この廃墟の上にはもはや何も新しいものを建設することはできない。そして、あらゆる判断が他の判断と衝突し、誰もが役立たずになった全体的システムの残骸や個人的感情の至上命令に意見を仰ぐなかで、批判精神の単純な行使は不可能になっている。
 解体はすべてにおいて勝利した。大量に使用される商業広告が文化的創造に関する判断によりいっそうの影響を与えることを見ることももはやなくなった。それは昔のプロセスだったに過ぎない。今やイデオロギーの不在の地点に到達したのであり、そこではただ広告活動だけが作用し、前もってなされた批判的判断はすべて排除されている。しかしだからといって、条件反射的な批判的判断がなくなったわけではない。販売技術の複雑なゲームが、自動的に、そして専門家たちがみな驚くことに、文化についての議論の擬似的主題を作り出すにいたっている。それこそが、サガン=ドルーエ現象の社会学的重要性である。この現象は最近3年間にフランスで最も大きな成功を治めた経験であり、その反響はパリを中心とした文化圏の境界を越えて、労働者国家のなかでも関心を呼び覚ましただろう。文化の専門的審判らは、サガン=ドルーエ現象を眼の当たりにして、自分たちが見逃していたメカニズムの予期せぬ成果を感じ取って、この現象はサーカスの宣伝のような手法によるものだと異口同音に説明した。だが彼らは、職業柄、実体のない批評によってこの実体のない作品(どこが面白いのか説明不能な作品こそが、そもそも混乱を旨とするブルジョワ批評の最も豊かな主題となるのだ。)に反対せざるをえない。彼らは、外部のメカニズムがこの空虚を搾取しにやってくるずっと以前から、批評という知的メカニズムがこの空虚を搾取しにやって来るずっと以前から、批評という知的メカニズムそのものが自分たちのもとを離れてしまっていたという事実を、全く意識できないままである。彼らは、サガン=ドルーエが、表現手段全般が日常生活における行動手段というものに変化した事実を滑稽なまでに裏返した姿にすぎないことを決して認めようとはしない。この止揚のプロセスは、作者の生をその作品にくらべてますます重要なものとした。次いで、重要な表現など究極的にはなくてもよくなった時代になると、重要な可能性は作者の人物のなかにしか残らなくなった。この作者というものはもはや、まさに、その年令と、流行の悪徳と、風変わりな古い職業よりほかに何も注目に値するものは持ちえなかったのである。
 イデオロギー的解体に反対して今統一すべき反対派はそもそも、詩や小説のような助かる見込みのない形式のなかで産み出されているガラクタの批判に専心してはならない。批判せねばならないのは、未来の重要な活動であり、われわれが利用すべき活動である。建築における機能主義理論が社会と道徳についてのもっとも反動的な理解に基づいているという事実は、現在のイデオロギー的解体のより重大なしるしである。つまりそこには、初期のバウハウスやル・コルビュジエの流派の一時的に有効だった部分的寄与に、生と生の枠組みについての明らかに後退した観念がこっそり付け加わっているのである。
 とはいえ、1956年以来われわれが新たな闘争の段階に入ったこと、そして革命的勢力の高まりが、あらゆる戦線でこの上なく厄介な障害にぶつかりながらも、以前の時代の諸条件を変革し始めていることは、すべてが示している。同時にわれわれが眼にするものは、社会主義レアリスムが、反資本主義陣営の国々で、そもそもそれを産み出したスターリニストの反動とともに退却しはじめたという事実であり、サガン=ドルーエ的文化がブルジョワジーの退廃のおそらく乗り越え不可能な段階を記しているという事実であり、結局は、西側で第二次大戦終結以来ずっと役に立ってきた文化的急場しのぎの策が尽きてしまったことが相対的に意識されはじめたという事実である。積極的な価値を再発見できるのは、まさに前衛的少数派だけである。


*1:アンドレイ・ジダーノフ(1896ー1948年) ソ連の政治理論家。正統派スターリン主義の擁護者として活動。『文学、哲学、音楽について』(1947年)によって芸術領域での社会主義レアリスムに理論的根拠を与えたことで有名である。


退潮の時代における少数派潮流の役割

 世界的革命運動の退潮は1920年ののち数年して姿を現し、1950年が近づくにつれて次第に顕著になっていったが、それに5、6年ずれて、文化と日常生活の解放をもたらす新しい事物を肯定しようと試みていた運動の退潮が生じた。そうした運動は、イデオロギー的、物質的重要性を絶えず減少させてゆき、社会において完全に孤立した状態にまで至っている。彼らの行動は、より好都合な条件下でなら、情動的環境を突如として刷新することも可能であるのに、保守的傾向によって公式文化のいかさまゲームのなかに直接入りこむ余地を完全に奪い取られた状態にまで弱められている。これらの運動は、新しい価値の創造においてそれが果たすはずの役割から排除され、ブルジョワジーが自らのプロパカンダに新機軸のニュアンスを付け足してくれるような個人を引っ張りだすための知的労働の予備軍となり果てている。
 この分解の地点において、社会における実験的前衛派の重要性は、変革の意志を掲げる苦労をまったく担わずに、世間に認められた文化の現代的側面を大々的に代.表する疑似モダニスト潮流の重要性よりも、一見劣るように見えるかもしれない。しかしながら、現代文化の実際の生産においてそれなりの位置を占め、その文化の生産者として自らの利害を──否定的立場に追いやられているだけにいっそう強く──そこに見出すすべての者は、これらの所与の事実から、終末を迎えつつある社会のモダニストのコメディアンには必然的に欠けている1つの意識を発展させるのである。世間に認められた文化の貧困と、そうした文化による文化的生産の手段の独占に比例して、前衛派の理論と表現の貧困が産み出される。だが、文化についての新しい革命的理解を徐々に産み出しうるのは、この前衛派をおいて他にない。支配的文化と反対文化の萌芽が互いの分離と互いの無力感の頂点に達した時に、この新しい文化理解が明確にならねばならないのである。
 革命の退潮の時代における現代文化の歴史は、かくして、刷新の運動の理論と実践が、少数派潮流との分離と解体派の全面的支配にまで切り縮められてきた歴史である。
 1930年から第二次世界大戦までの間、人々は革命勢力としてのシュルレアリスムの衰退と同時に、シュルレアリスト自身のコントロールを超えてシュルレアリスムの影響が拡大する状況にも立ち合ってきた。戦後の時期になり、1930年ごろの彼らの発展をたたき壊す2つの要素によって、シュルレアリスムは急速に清算されていった。その2つの要素とは、理論的更新の可能性の欠如と、労働運動における政治的・文化的反動によって示された革命の退潮である。この第2の要素は、例えば、ルーマニアでのシュルレアリスト・グループ*1の消滅を直接規定している。逆に、フランスとベルギーでの〈革命的シュルレアリスト〉*2の運動に素早い分解を余儀なくさせたのは、これら2つの要素のうち特に第1のものである。シュルレアリスムから生まれたフラクションが有効な実験的立場の上に維持されていたベルギーを除き、世界中に散らばったシュルレアリストの潮流のすべてが神秘主義的観念論の陣営に加わったのである。
 1945年から1951年にかけて、革命的シュルレアリスト運動の一部を再結集させた「実験芸術家インターナショナル」──それは雑誌『COBRA』 (コペンハーゲンーブリユッセルーアムステルダム)を発行した──が、デンマーク、オランダ、ベルギーで作られ、次いでドイツに広がった。このグループの長所は、今日の問題の複雑さと広さはそうした組織を必要としているということを理解した点にあった。だが、イデオロギー的厳密さが欠如していたこと、彼らの探求が主として造形芸術の面にあったこと、そしてとりわけ、彼らの実験の条件と展望に対する全体的理論がなかったことによって、彼らはばらばらになってしまった。
 レトリスムは、フランスにおいて、既知の美術運動──まさに彼らはそれらが常に衰退していくことを分析していた──のすべてに完全に反対する立場から出発した。あらゆる領域で新しい形態をたえず創造することを自らに課したレトリスム・グループは、1946年から1952年まで有益な活動を行ない続けた。だが、美学分野は昔のものとよく似た一般的枠組みのなかで新たな出発をしなければならないとこぞって認めるという観念論的誤りを犯したため、その後、彼らの産み出すものはいくつかの荒唐無稽な実験に限られてしまった。 1952年、レトリスト左派が「レトリスト・インターナショナル」を組織し、時代遅れのフラクションを除名した。レトリスト・インターナショナルにおいて、諸潮流との激しい闘争を通して、日常生活への新しい介入の手法が追求されたのである。
 イタリアでは、1955年に〈イマジニスト・バウハウスのための国際運動〉というこの上なく強固なセクションを形成した反機能主義の実験集団を除き、古びた芸術的展望にしがみついた前衛集団を形成しようという試みは理論的表現にも到達していなかった。
 この間、合衆国から日本まで、西洋文化への追従が支配していた。それも、西洋文化が持つどうでもよい卑俗さを追い求めていたのである(パリのアメリカ人コロニーに集まることを習慣とする合衆国の前衛派は、パリにいて、イデオロギー的・社会的観点からも生態学的観点からさえも切り離されて、最も平板な順応主義に陥っている)。いまだに文化的植民地主義──しばしば政治的抑圧によって引き起こされた──に服している国民が産み出すものは、それぞれの国では進歩的であっても、先進的な文化の中心地では反動的役割を果たす。というのも、古い創造システムとともに乗り越えられてしまった基準に自らの活動の場を結びつけてきた批評家たちは、自分の気分に応じて、ギリシャ映画やグァテマラ小説に新しさを見出すふりをするからである。彼らはそうして、エグゾティスムに依拠するのだが、ことは別の国で遅れて活用される古い形式の再出現に関わる以上、そのエグゾティスムは反エグゾティスムである。だがそれでも、それはエグゾティスムの主な機能は備えている。すなわち、生と創造の現実的諸条件の外に逃げだすという機能である。
 労働者国家では、ブレヒトがベルリンで進めた実験だけが、スペクタクルの古典的概念を疑問に付すその態度により、今日われわれにとって重要な構築物と近いものを持っている。ブレヒトだけが権力を保持した社会主義レアリスムの愚かさに抗うことに成功したのである。
 社会主義レアリスムが崩壊した今となっては、労働者国家の知識人たちが現代文化の真の問題に革命的なやり方で乱入してくることにすべてを期待できる。ジダーノフ主義が、労働運動の文化的退化だけでなくブルジョワ世界の文化的保守主義の立場をも、最も純粋に表現するものであったとするならば、今日この瞬間に東側でジダーノフ主義に反対して立ち上がっている人々は、その主観的意図がどうであれ、例えばコクトーのような者だけが持つような大きな創造的自由のために立ち上がるわけにはいかないだろう。ジダーノフ主義の否定が持つ客観的な意味とは、「清算」のジダーノフ的否定の否定である。ジダーノフ主義を乗り越える唯一可能な方法は、現実的自由の行使であり、それは現在の必要を認識することなのである。
 ここでも同様に、過ぎ去ったばかりの年月は、せいぜいのところ、懐旧的愚かさによる混乱した支配に対して混乱した反抗をした時代にすぎなかった。われわれはそれほど多くいたわけではない。だが、われわれは、この時代の趣味やちっぽけな発見にいつまでもかかずらわっていてはならない。文化の創造の問題は、世界的規模での革命の新たな前進と関連してはじめて解決されるだろう。


*1:ルーマニアのシュルレアリスト・グループ ルーマニアでは1928年に詩人のサシャ・パナ(1902ー81年)がシュルレアリスムの雑誌『ウナ』を拠点に夢や無意識を重視する幻想的なシュルレアリスムを開始した。1931年には『ウナ』は終刊におちいるが、1930年代に入って次々と刊行された『ウルムズ』、『アルゲ』、『ムジ』などの新しい雑誌によって、シュルレアリスム活動は活況を呈する。こうした中で、パナよりも過激に合理主義そのものに反対し、言語の解体を実践するゲラシム・ルカ(1913ー)、ポール・パウン(1915?)らが頭角を現してくる。第二次大戦中、これらのシュルレアリストの活動は停滞を余儀なくされるが、大戦終結後の1945年、ルーマニアのシュルレアリストは、ゲラシム・ルカと画家のドルフィ・トロスト(1916ー66年)の名で『弁証法の弁証法』を発表し、シュルレアリスムの再生を世界に訴え、ルーマニア・シュルレアリストの復活を果たす。シュルレアリスム自体の革命を訴え、フロイトの無意識理論を踏襲するのではなく「新しい欲望」の創出をめざすこの宣言以降、ルカ、トロスト、パウンらによる「新しいシュルレアリスム」の理論・実践活動が活発に行われるが、1948年、ルーマニアの社会主義体制が確立し、社会主義リアリズムが採用されると、国策に賛同したかつてのシュルレアリスト、セナを除き、ルーマニアのシュルレアリストは全員沈黙を強いられた。ルカとトロストはやがてパリに脱出し、その後、ルカは言語破壊を実践する作品を書き続け、ジル・ドゥルーズから「フランスで最も偉大な詩人」と評されている。

*2:革命的シュルレアリスト 1947年、ブリュッセルでクリスチアン・ドトルモン、パリでノエル・アルノーによって創設されたグループ。大戦中に共産主義者としてレジスタンスを戦った者たちが中心になり、1930年代のシュルレアリストがめざした社会革命と芸術の革命的探究を結合させようとした。グループとしての寿命は18ヶ月と短く、1948年には解体し、その間、『シュルレアリスム革命』誌と『シュルレアリスム革命国際会報』をそれぞれ1号、2回の展覧会とそのカタログ、いくつかのパンフレットを出しただけだが、これらへの参加者・協力者は、ルネ・マグリット、ポール・ヌージェ、マルセル・マリエン、レイモン・クノー、トリスタン・ツァラらフランスとベルギーのシュルレアリストから抽象表現芸術の作家、ベルクやウェーベルンら現代音楽家、実験映画作家まで多岐にわたり、ヨルン、アペル、コルネイユら後にドトルモンとともに「コブラ」を結成する<オランダ実験グループ>のメンバーも含まれていた。






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