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新しい都市計画のための理論定式


陛下、私は別の国から来た者であります。

 おれたちは街で退屈している。太陽神殿はもう存在しない。通りすがりの女たちの股の間に、ダダイストならモンキーレンチを、シュルレアリストならクリスタルグラスを見つけたいと思ったことだろう。もうそんなものは無くなった。おれたちは、人々の顔の上にどんな約束でも読み取れる。それは最後の形態学。貼り紙の詩は20年来続いてきた。おれたちは街で退屈している。道路の看板にまだまだ神秘を見つけるためには、くたばるまで疲れ果てねばならない。それが最後のユーモアで、それが最後の詩なのだ。


        族長浴場
        肉切り機械
        ノートルダム動物園
        スポーツ薬局
        殉教者食品店
        半透明コンクリート
        黄金の手製材店
        機能回復[=機能主義回収]センター
        救急車サンタンヌ
*1
        5番街カフェ
        ポランティア延長街(リュ・デ・ヴォロンテール・ブロロンジェ)
        庭の家族ペンション
        外国人ホテル(オテル・デ・ゼトランジェ)
        野生通り(リュ・ソヴァージュ)

 それから、少女街(リュ・デ・フィエット)のプールに、出会い通り(リュ・デュ・ランデ・ヴ)のかどの警察署。金銀細工師河岸(ケ・デ・ゾルフェヴル)の外科医学クリニックと無料就職センター。太陽通り(リュ・デュ・ソレーユ)の造花。城の地下倉ホテルに太洋バー、往復運動(ヴァ・エ・ヴィアン)カフェ。時代ホテル(オテル・ドゥ・レポック)。
 夏の終わりの夜に浮かぶ、精神病者の恩人フィリップ・ピネル
*2博士の奇妙な銅像。パリを探険せよ。
 そして忘れられた女よ、ありとあらゆる悲嘆の声を上げる地球儀によって荒らされた思い出を持つ女よ、音楽も地理もない八里橋(パリカオ)*3の赤い地下倉に紛れ込んだ女よ、おまえはもう、植物の根が子供に思いをはせ、ワインがカレンダーのおとぎ話になって終わる大農場(アシエンダ)に出かけることはない。もう、ゲームは終わった。おまえが大農場を見ることもないだろう。そんなものは存在しないのだ。       
 大農場を建設せねばならない。


 どんな都市でも地質学的であり、それぞれの都市の伝説の威光を鎧のように身に付けた亡霊に出会うことなく、その中を3歩たりとも歩くことはできない。われわれは閉ざされた風景の中で進化し、その風景の目印はわれわれをたえず過去に引き戻す。常に形を変えるいくつかのアングル、果てしなく広がるいくつかのパースペクティヴのおかげで、われわれは空間の本来の把握の仕方を垣間見ることができるが、しかしそのヴィジョンも断片的なものにとどまる。フォルクローレのおとぎ話や、シュルレアリストの著作に書かれた魔法の場所に、それを探し求めねばならない。城、終わりのない壁、忘れられた小さなバー、マンモスの洞穴、カジノのウィンドウに。
 これらの滅びたイメージにはわずかな触媒の力が保存されている。だが、そうしたイメージも、蘇らせ、新しい意味を与えることなしには、象徴的都市計画のなかで使うことはほとんど不可能だ。古いキー・イメージに取り愚かれたわれわれの精神生活は、洗練された機械よりずっと遅れている。現代の科学を新しい神話のなかに統合しようとする様々な試みは、いまだ不十分なままである。それ以来、抽象があらゆる芸術を、とりわけ今日の建築を覆い尽した。逸話も生気も欠いた純粋状態の造形的事象が、人の眼を休め、凍り付かせている。他の断片的な美は別の場所にあり、約束された総合の大地はますます遠ざかるばかりだ。誰もが、感情のなかに生きている過去と今からすでに死んでいる未来の間でためらっている。

 われわれは、退屈な余暇に行き着く機械的な文明と冷たい建築を長引かせはしない。

 われわれは、常に変化する新たな舞台装置を発明することを提案しているのだ。(中略)

 暗闇は照明の前に姿を隠し、季節はエアコンの効いた施設によって消されてしまった。夜も夏も魅力を失い、夜明けは消滅してしまった。都市の人間は宇宙的現実から遠ざかることばかり考え、それ以上のことは夢みもしない。理由は明らかだ。夢は現実のなかに出発点を持ち、現実のなかで実現するのである。
 最近の技術は、宇宙的現実の不快さをすべて取り除きつつ、個人と宇宙的現実との恒常的な接触を可能にした。ガラスの天井は、星も雨も透かして見せる。移動式の家は太陽とともに回る。レールの付いたその壁のおかげで、植物が生活のなかに入ってくる。家そのものもレールに乗って、朝には海まで進んで行き、夜になると森に帰ることもできるのだ。
 建築は空間と時問を分節し、現実を変形し、夢を見させるための最も単純な方法だ。とはいえ、束の間の美の表現である造形的な文節と変形だけが問題なのではない。人に影響を及ぼす変化が問題であり、この変化は人間の様々な欲望とそれらの欲望の実現における進歩とが描く永久曲線のなかに書き込まれている。
 明日の建築は、それゆえ、時間と空間の今日の理解の仕方を変更する方法となるだろう。それは、認識の方法にして行動の手段となる。
 建築物の集合体も変更しうる。その外観もそこに住む者の意志によって部分的に、あるいは完全に変化させうるだろう。(中略)
 過去の共同社会は、大衆に絶対的真理と議論の余地のない神話の例を提供していた。現代精神に相対性の概念が導入されたことによって、次の文明が実験的側面──実験的という語に満足するわけではないが──を持つことを予感することが可能になった。より柔軟な、「楽しい」言い方をしよう。この移動式の文明に基づいた建築は──少なくとも最初の段階では──、生を変化させるいくつもの方法を実験する手段であり、伝説的でしかありえない1つの総合をめざす。
 心の病が惑星全体に行き渡ってしまった。凡庸化という病だ。誰もが製品と快適な生活のとりこになっている。下水設備、エレベーター、浴室、洗濯機といった具合に。
 こうした現状は貧困への抗議から生まれたものだが、そのはるかな目的──物質的心配からの人間の解放──を越えて、今のところ強迫的なイメージとなってしまった。どの国の若者も、愛とオートマティックのダストシュートを秤にかけ、ダストシュートの方を選ぶ。精神を完全に一変しなければならない。忘れられた欲望を明るみに出し、まったく新たな欲望を作り出すことによって。そして、これらの欲望を讃える徹底的なプロパガンダを行うことによって。
 われわれはすでに、次の文明が築かれる基礎となる欲望の1つとして、状況を構築する必要を指摘した。この絶対的創造の必要は、これまで常に、建築、つまり時間と空間との戯れの必要と一体のものとなっていたのだ。(中略)
 建築の注目すべき先駆者の1人は、いぜんとしてキリコ
*4であろう。彼は時間と空間を通して不在と存在の問題に立ち向かったのである。
 よく知られていることだが、最初に訪れた時には意識にはっきりととどめられなかった事物が、次に訪れた時にその不在によっていわく言い難い印象を喚起することがある。時間のなかで再構築されることによって、事物の不在は感覚しうる存在に変化するのである。むしろこう言ったほうがよい──印象の質は一般的には漠然としたものではあるが、取り除かれた事物がどんな性質のものか、また訪問者がそれにどれほどの重要性を与えているかに従って、穏やかな喜びから激しい不安まで多岐多様なものとなる(まさにこの場合、気分の媒体が記憶であることは、われわれには重要ではない。私がこの例を選んだのは便宜上のことでしかない)。
 キリコの絵画(アーケードの時代)において、空虚な空間は満ち足りた時間を作り出している。このような建築家にわれわれが残す未来がどのようなものか、群衆に対する彼らの影響がどのようなものかを想像するのは容易い。こうしたモデルをいわゆる博物館に追いやってきた世紀は、今日、軽蔑するほかない。
 来るべき構築物の理論的基礎となるべき時間と空間のこの新しい見方は、今現在、整っているわけではない。その目的に合った都市で行動様式の実験を行わないうちは、それはこれからも決して完全に整えられることはないだろう。そうした都市には、最低限の快適さと、安全に不可欠な施設のほかに、喚起の力と影響力に富む建物、過去、現在、未来の欲望と力と出来事とを表す象徴的な建造物が体系的に集められるだろう。昔の宗教システム、古いおとぎ話、そしてとりわけ精神分析を、建築の利益のために合理的に拡張することは、情熱を抱く理由が消え去りゆくにつれて、日々、急を要するものになってきているのである。
 いわば、誰もが自分個人の「カテドラル」に住むことになるのだ。ドラッグを使うよりもずっとすばらしい夢を見せてくれる部屋や、ただひたすら愛を育むだけの家ができるだろう。旅人を惹きつけてやまない家も建つだろう……
 この計画を、だまし絵の効果を持った中国庭園や日本庭園──それらの庭園は中で完全な生活をするようにできていないということだけは別にして──や、パリの植物園にあるばかげた迷路──その入口には、ふざけたことに、「アリアドネー*5は失業中につき、迷路での遊びは禁止されています」と書いてある──になぞらえることもできる。
 この都市は、城や洞窟、湖などを恣意的に集めた姿とみなすこともできるかもしれない。認識の一手段と考えられた都市計画のバロック的段階かもしれない。だが、そうした理論局面はすでに乗り越えられた。われわれは、現代では、中世の城の姿をまったくとどめないにもかかわらず、<城>というものの詩的な力を保持し、増大させるようなビルを建築できる(最低限の建物の線の保存、他のいくつかの線の移動、出入り口の設定、地形上の状況、などによって)ということを知っている。この都市の各地区(カルティエ)は、われわれが日常生活で偶然に出会う様々に類別された感覚と対応しうる。
 <風変わり地区>──特に住居専用の<幸福地区>──<高貴で悲劇的な地区>(行儀のよい子供たちのための)──<歴史地区>(博物館、学校)──<有用地区>(病院、道具店)──<不吉地区>などである。それらに加えて、アストロレールが1つある。それは、星のリズムとの関係に従ってあらゆる植物種を集めた惑星規模の植物園で、天文学者トーマスが、ウィーンのローア・バーグという場所に建設することを提案しているものに比肩する。これは、住民に宇宙の意識を与えるために不可欠なものである。ほかにもおそらく、<死の地区>もできるだろう。そこで死ぬためにではなく、静かに生きるために。ここで私が考えているのは、メキシコや、無垢のなかの残酷さの原理である。それは、日々、私には高価なものになってゆく。
 例えば<不吉地区>はうまい具合に、かつてどの国の国民もがそれぞれの首都に持っていたあれらの穴、地獄の口の代わりになるだろう。それらは生の邪悪な力を象徴していたのだ。<不吉地区>では、罠や落し穴、坑道などの現実の危険を隠す必要はまったくない。そこへの進入路は錯綜し、町には恐ろしい装飾がなされ(甲高い笛の音、警報ベル、不規則な問隔で鳴る周期的サイレン、怪物の彫像、オートモビールと呼ばれるエンジン付きの移動機械)、夜の照明はほとんどなく、昼は反射現象の濫用によってまぶしいほどの光りに満ちている。街の中心には、「恐怖の移動機停止場」がある。市場に1つの製品が溢れると、その製品は安くなる。子供も大人も不吉な地区の探検によって、生の不安な表出を恐れるのではなく、それを楽しむことを学ぶだろう。
 住民の主要な活動は連続的な漂流となるだろう。刻一刻変化する風景が、日常からの完全な脱出の原因となる。(中略)
 やがて行動の摩滅というものが避けられなくなるが、その時には、この漂流は体験の領域を部分的に去り、表象の領域に入るだろう。(中略)
 経済的理由からの反論は、まったくもって議論に耐えない。ある場所が自由な遊びに充てられれば充てられるほど、ますますその場所は人の行動様式に影響し、その魅力はいっそう大きくなるのである。モナコ、ラスヴェガスの巨大な威光はそれを証明している。自由恋愛のカリカチュア、レノ*6もそうだ。しかし、これらの都市は、単なる金の遊びの問題でしかない。われわれのこの最初の実験都市は、観光を容認し管理することでかなりの収入を得ることになるかもしれない。アヴァンギヤルドの次の活動と生産は、おのずとそこに集中されるだろう。数年の間に、この都市は全世界の知識人の首都となり、あらゆるところでそのようなものとして認められるであろう。

ジル・イヴァン

 レトリスト・インターナショナルは1953年10月、都市計画に関するジル・イヴァンのこの報告を採用した。それは、実験的アヴァンギャルドによって当時取られた新しい方向の決定的要因となったものである。ここに発表したテクストはLIのアルシーヴに保存され、その後、シチュアシオニスト・アルシーヴの文書番号103および108になった2つの連続した草稿から作成されたものであり、わずかな書式の違いを伴う。


*1:サンタンヌ パリ14区にある有名な精神病院の名

*2:フィリップ・ピネル(1745ー1826年) フランスの医者。ビセートル収容院、ラ・サルペトリエール収容院での精神病者の治療活動を通して、近代的精神医学を確立した。精神病者を鉄鎖から開放したとして、ラ・サルペトリエール正門広場にはデュラン作の彼の立像が据えられている。

*3:ハ里橋(パリカオ) 中国、北京近郊の村。太平天国の乱の折、イギリス・フランス連合軍が攻撃したことで有名。

*4:ジョルジオ・デ・キリコ(1888?ー1976年) ギリシャのテッサリア地方に生まれ、アテネの工芸研究所、ミュンヒェンの美術学校に学び、二ーチェの影響を受ける。1911年から数年パリに行き、アポリネールや、ピカソ、ブラックらキュビスムの画家に惹かれる。イタリアに帰国後、メタフィジカルな絵画を唱えるカルロ・カッラらとともに不安定な遠近法を用いた神秘的・幻想的絵画を描く。1925年、第1回シュルレアリスム展に参加し、シュルレアリストらに接近するが、1933年以降は、現代絵画を否定して、古典的絵画に回帰する

*5:アリアドネー ギリシャ神話で、ミノスの娘。怪物退治に行ったテセウスに糸を与えて、迷宮から脱出する道を教えた。

*6:レノ アメリカ合衆国ネヴァダ州の商業都市。結婚と離婚の手続きの迅速さを呼び物にしている。

文化革命に関するテーゼ

  1.  美学の伝統的目的は、剥奪と不在の状態において、芸術的媒介を通して、外観の混乱を免れたある種の過去の生の要素を感じ取らせることにある。外観とは、その場合、時間の支配をこうむるもののことである。美学的成功の度合いは、それゆえ、時間的持続と不可分で永遠を気取ることすらある美によって測られる。シチユアシオニストの目的は、意図的に整備された滅びやすい瞬間を変革することによって、生の情動的豊かさにただちに参画することにある。この瞬間が成功するとしても、それは、それらの瞬間の一時的な効果でしかありえない。シチュアシオニストは、全体性の観点から見た文化的活動を、日常生活の実験的構築の方法と考える。この日常生活なるものは、余暇の拡大と労働の分割[分業]の消滅(まず手始めに、芸術的労働の分割から)によって常に発展しうるものである。
  2.  芸術は諸感覚に関する関係であることをやめて、より高次の感覚の直接的組織化となることができる。われわれ自身を産み出すことが肝心であり、われわれを服従させるモノを産み出すことが問題なのではない。
  3.  マスコロ*1(『共産主義』)が、プロレタリア独裁体制による労働時間の短縮は「その革命の正当性について、それが与えうる最も確かな保証である」と言っているのは正しい。事実、「人間が1個の商品であり、彼がモノとして扱われ、人問どうしの関係総体がモノとモノとの関係であるとすれば、それは、人間から彼の時間を買うことができるからにほかならない」。しかしながら、マスコロが「自由に使われる人間の時間は」常にうまく使われ、「時間の売買だけが悪なのである」と結論づける時、彼はあまりに性急である。日常生活の構築のための近代的道具の所有なしには、時間の使用における自由は存在しない。そのような道具の利用こそが、ユートピア的革命芸術から実験的革命芸術への飛躍の印となるだろう。
  4.  シチュアシオニストの国際的結社は、文化の先進部門の労働者たちの団体とも考えられる。あるいは、より正確には、社会的諸条件によって今のところ妨げられている労働への権利を要求する者たちすべての団体である。したがって、それは、文化における職業的革命家たちの組織化の試みなのである。
  5.  われわれは、われわれの時代に蓄積された物質的力を現実に支配することから実際には切り離されている。共産主義革命は実現されていないのに、われわれはまだ古びた文化的上部構造の解体の枠内にいる。アンリ・ルフェーヴル*2は、この矛盾が進歩的個人と世界とのあいだのすぐれて現代的な不和の中心にあることを正しく見抜き、この不和に基礎を置く文化的傾向を革命的ロマン主義的と呼んでいる。ルフェーヴルの考えの不十分点は、不和の単純な表出を、文化における革命的行動の十分な基準としているところにある。ルフェーヴルは、解体の枠のなかではどのような形式をとっても表現しうる可能-不可能の(まだあまりにかすかな)意識という、ただひとつの内容で満足することによって、深い文化的変容の実験のすべてをあらかじめ断念しているのである。
  6.  古い既成秩序を、そのあらゆる側面において乗り越えようと思う者は、たとえ文化の圏内においてであっても、現在の無秩序にわが身を結び付けるわけにはゆかない。文化においても、もはや何も待ち受けることなしに、未来の揺れ動く秩序の具体的な出現のために闘わねばならない。われわれの間に既に存在しているその秩序の可能性こそが、既に知られている文化の形を取ったあらゆる表現の価値をなきものにするのである。あらゆる形態の疑似的コミュニケーションをその完壁な破壊にまで導かねばならない。いつの日か、直接的で現実的なコミュニケーション(高次の文化的手段の利用についてのわれわれの仮説では、それは構築された状況となる)に到達するために。勝利は、無秩序を愛することなくそれを作り出すことを知った者の手にあるだろう。
  7.  解体の世界においてわれわれは、われわれの力を試みることができるだけで、それを利用することはできない。世界とわれわれとの不和を乗り越える実践的任務、すなわち何らかの高次のものを構築することによって解体を乗り越える実践的任務は、ロマン主義的ではない。われわれが失敗するまさにそのとき、ルフェーヴルが言う意味において、われわれは「革命的ロマン主義者」となるだろう。

G=E・ドゥボール*3



*1:ディオニス・マスコロ(生没年不詳) 戦後共産党を除名され、『アルギュマン』誌に拠った共産主義者・哲学者。1958年から60年まで同誌編集委員をしながら非共産党の左翼を糾合する『7月14日』などの活動を行った。著書『共産主義』はガリマール社から1953年に刊行。戦争末期から戦後の一時期、作家のマルグリット・デュラスと暮らして子供をもうけ、その後、アウシュビッツから生還してきたデュラスの元の夫ロベール・アンテルムの3人で同居していたことが原因で共産党を除名されたことでも知られる。

*2:アンリ・ルフェーヴル(1901一91年) フランスの社会学者。1930年代にマルクス主義に接近し、58年にフランス共産党を除名されるまで、党の理論家の1人として活動。高度資本主義社会の日常生活を社会学的に研究し、正統派マルクス主義の変更を迫る大著『日常生活批判』(第1部、1958、第2部、61年。その『序説』は1947年に発表)や、スターリン主義を告発した『マルクス主義の当面の諸問題』(58年)により、左翼・知識人から芸術家までに大きな影響を与えた。

*3:G=E・ドゥボール(1931ー) フランスのシチュアシオニスト。パリに生まれ、1950年代初頭にレトリスム運動に参加、レトリスムの主唱者イジドール・イズーの神秘主義化に反対してレトリスト左派を結集した「レトリスト・インターナショナル」を創設、「転用」、「漂流」、「心理地理学」、「新しい都市計画」などの芸術批判・日常生活批判を軸としたアヴァンギャルド芸術運動を展開。1956年に「シチュアシオニスト・インターナショナル」(SI)を創設し、1972年にSIを解散するまで、一貫してその中心メンバーとして活動。著書に『スペクタクルの社会』(1967年、邦訳、1993年、平凡社)、 回想録』(59年)、『映画に反して』(64年)、『映画全作品集』(78年)、『「スペクタクルの社会」に関する注釈』(88年)、『称賛辞』(89年)、『イン・ジルム・イムス・ノクテ・エト・コンスミムール・イグニ(われわれは夜に俳掴しよう、そして、火で焼き尽くされんことを)』(90年)、『この悪しき評判……』(93年)など。映画作品に 『サドのための叫び』(52年)、『比較的短い時間単位内の数人の人物の通過について』(59年)、『分離の批判』(61年)、『スペクタクルの社会』(73年)、『イン・ジルム・イムス・ノクテ・エト・コンスミムール・イグニ』(78年)など

シチュアシオニストとオートメーション

訳者解題

 元コブラの主唱者で、その後、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」(MIBI)を組織したアスガー・ヨルンのこの論文は、ここに初めて発表された後、1954年から58年にかけて書かれた他の9編の論文──「イマージュと形態」、「機能主義に反対して」、「形態と構造」、「悲惨と驚異」、「構造と変化」、「魅力とメカニック」、「運動と形態」、「形態と意味作用」、「脱出口」──とともに、インターナショナル・シチュアシオニストの編集・発行による『形態(フォルム)のために』のなかに再録された。
 コブラの時代から、古今東西の美術はもちろん、ヨーロッパの民衆芸術や北欧の人類学・民族学から言語学や哲学まで、広い領域にわたる膨大な著作を残しているこのルネッサンス的巨人は、これらの論文のなかで、人間の活動のなフォルムかに常に現れてきた「形態」というものを、人類学や言語学(意味論や記号論)、美術史、建築史、認識論、資本論、精神分析などを躯使して、様々な側面から考察している。ヨルンにとっての「形態」とは、主体と客体との相互関係のなかでとらえられたものであり、フォルマリスムや機能主義の固定した「形態」とは異なる。それは、「運動への抵抗」として事物の運動のなかに一瞬のあいだ形作られるものであり、運動によって初めて気づくことのできるものだとされる。「形態とは、観察の運動を凌駕する速度のことである」と定義されている(「形態と意味作用」)。
 また、これらの論文は、ヨルンがコブラの活動を終えた後に、さらに実験的な芸術運動として展開したMIBIの理念と、そこから「シチュアシオニスト・インターナショナル」へと変貌を遂げるにいたった思想的経緯を知るうえでも興味深い。簡単に言うなら、MIBIによってヨルンが当初めざしていたものは、マックス・ビルらの機能主義的バウハウス復活の企てに反対して、形態の自由な実験と集団での芸術活動を通した社会変革の試み(集団製作、環境実験など)であった。それゆえ、『形態のために』の論文は、過去の芸術運動(ウィリアム・モリスやラスキンからバウハウスにいたる工芸運動の流れ、ダダやシュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術運動など)や、同時代の現代芸術(アンフォルメルや抽象表現主義)を総括すると同時に、都市計画やインダストリアル・デザイン、広告産業などによる前衛美術の囲い込みにきわめて強い危機感を表明している。ヨルンがMIBIによって行おうとした社会的な芸術運動は、現実の社会が芸術を社会的なものにする時に無力なものになりかねない。芸術の領域に関わってより攻勢的に既存社会を転覆するためには、「イマジニスト・バウハウス」という家から外に出て、都市の中での「状況の構築」を掲げる「シチュアシオニスト」へと移行せざるを得なかったのである。




 現在まで、ほとんど誰ひとり、オートメーションについての思考をその最終的帰結までつきつめた者がいないというのはかなり驚くべきことである。まさにそれがゆえに、真の展望が見いだせないのである。むしろ、技術者も学者も社会学者も、オートメーションを社会のなかにこっそりと滑り込ませているような印象を受ける。しかし、オートメーションは今や、生産のみならず労働時間に対する余暇の優位までをも社会主義的に支配する問題の核心をしめる。まさにオートメーションの問題は、積極的可能性と消極的可能性のどちらもを、最大限に抱え込んでいるのである。
 社会主義の目的は豊かさである。最大多数の最大幸福という考えには、統計学的に、予期せぬものの出現を最低限に切り縮めることが前提とされている。幸福の数の増大はそれぞれの価値を切り縮めるのである。こうしてあらゆる人間的幸福の価値をいわば完壁な中和状態にまで低下させることが、社会主義の純粋に科学的な発展の避けがたい帰結となるだろう。多くの知識人が機械的再生産というこの考えを乗り越えることができないばかりか、無色で左右対称の未来社会に人間を適応させる準備に励んでいるのは残念なことだ。その結果、独自性の探求に専心する芸術家たちは、ますます多く、社会主義に敵意を抱き、それに背を向ける。逆に、社会主義を信奉する政治家たちは、芸術の力と独自性の現れにはことごとく不信感を持ち続けるのである。
 これらの芸術家も政治家も、それぞれに自らの順応主義的立場から一歩も出ずに、オートメーションヘのある種の不機嫌を表している。オートメーションというものは、彼らの経済と文化への理解を根底から問い直しかねないからだ。「前衛(アヴァンギャルド)」と呼ばれる潮流はすべて、オートメーションを悲観的に見ている。あるいは、せいぜいのところ、オートメーションの開始によって、その到来の近いことが突如として明らかになった未来の積極的な側面を過小評価している。一方で、反動的な勢力はばかばかしいまでの楽観論をひけらかしている。
 1つ意味深い逸話がある。去年、雑誌『第4インターナショナル』のなかで、マルクス主義者の活動家リヴィオ・マイタンが報告していたことだが、イタリアのある神父がかつて、自由時間の増大により日曜ミサをもう1日行う必要が生まれるだろうという考えを述べていた。マイタンはこれに答えてこう書いている。「誤りは、新しい社会の人間が現在の社会の人間と同じであると考えているところにある。実際は、それらの人間は、われわれには思いもつかないまったく多様な欲求と要求を持つようになるだろう」。だが、マイタンの誤りは、彼には「思いもつかない」新しい要求を漠然とした未来に委ねるところにある。精神の弁証法的役割は、可能性を望ましい形のものに向けることなのだ。マイタンは、「新しい社会を構成する要素はすべて古い社会のなかで形成された」という『共産党宣言』の言葉を、常に忘れている。新しい生の要素はすでにわれわれのなか──文化の領域において──で形成されているのであり、議論を活気付けるためにそれを用いるのはわれわれである。
 個人のエネルギーと能力の完全な解放を目指す社会主義は、オートメーションをそれ自体においては反進歩的な一傾向と見ざるをえないだろう。社会主義にとっては、オートメーションを人間の潜在的エネルギーを表出しうる新たな魅力と関連づけることではじめて、この反進歩的傾向を進歩的なものとすることができる。学者や技術者が主張するようにオートメーションが新しい人間解放の手段だとすれば、そこにはそれまでの人間の活動の乗り越えが前提とされているはずである。このことは必然的に、人間にオートメーションそのものの実現をも乗り越えることを想像させる。だが、人間をオートメーションの奴隷ではなく主人とするような、そうした展望はいったいどこに見いだせるというのか。
 ルイ・サルロン*1は『オートメーション』という研究のなかで、オートメーションというものは「進歩についてはほとんど常にそうであるように、何かと置き換わったり何かを取り除いたりする以上に何かを付け加える」と説明している。オートメーションは、それ自体において、人間の行動の可能性に何を付け加えるというのか。われわれはオートメーションが自らの領域で人間というものを完全に取り除いているということを学んできたではないか。
 産業化の危機は消費と生産の危機である。消費の危機は生産の危機に条件付けられているのであるから、生産の危機は消費の危機よりも重要である。個人の領域に移してみれば、このことは、物を貰うよりも与えるほうが、取り除くよりも付け加えることができるほうが満足だというテーゼに等しい。オートメーションはかくして2つの正反対の展望を持っている。それは、個人が進歩の凍結であるオートメーション生産に、何であれ個人的なものを付け加えることを妨げ、同時に、再生産的で非創造的な活動から大規模に解放された人間のエネルギーを節約するのである。それゆえ、オートメーションの価値は、オートメーションそのものを乗り越え、人間の新しいエネルギーをより高度な面に解放する企図に完全に依存している。
 この領域において、今日、実験的な文化活動はかつてなく盛んである。一方で、ここでの悲観的態度、時代の可能性に対する屈服は、かつてのアヴァンギャルドが、エドガール・モラン*2の書いているように、「過去の骨を噛る」ことを欲し続けていることの現れである。ベナユーン*3という名のシュルレアリストが、その運動の最後の表現である『シュルレアリスム・メーム』誌のなかで次のように言っている。「余暇の問題はすでに社会学者の頭を悩ませている。(……)技術者はもう要らない。これから必要なのは、道化師であり、チャーミングな歌手であり、バレリーナであり、ゴム人間だろう。週休6日制になると、真面目と軽薄、怠惰と勤勉の釣り合いが覆される恐れが大いにある。(……)暇をもてあました『労働者』は、考えに不足し、タレントを探して茶の間に侵入する、ひきつった顔のテレビによって蒙昧化されるだろう」。このシュルレアリストには、週休6日は軽薄と真面目の「釣り合いを覆す」のではなく、軽薄と真面目のどちらもの性質を変化させるようになるということがわかっていない。彼が期待しているものは思い違いも甚だしい。それは、古くさいシュルレアリスムのイメージで、決して変化せぬ一種のボードビルとして彼が理解している既存世界のなかでの滑稽な変化にすぎない。なぜ、その未来が下劣な現在を肥大させたものでなければならないのか。なぜ、そこには「考えが不足」していなければならないのか。その未来には、1936年になって修正された1924年のシュルレアリスト*4の考えが欠けているとでも言いたいのだろうか。たぶんそうだ。あるいは、シュルレアリスムの模倣者に考えが欠けているという意味なのだろうか。われわれにはそれはよくわかっている。
 新たな余暇は、現在の社会がでたらめなブリコラージユの偽の遊びをただひたすら増やすことで埋めようと思っている深淵のようにも思える。だがそれは同時に、かつて想像された最も偉大な文化的構築物を建設する基礎でもある。この目的は、明らかに、オートメーションの信奉者たちの狭い関心の輪の外にある。われわれは、それがオートメーションの直接的趨勢と敵対関係にあることさえ知っている。技師と議論しようと思うならば、彼らの関心領域に入って話さねばならない。ウルム*5で現在「造形大学」を運営しているマルドナドは、オートメーションの発達は危うい、なぜなら青少年のあいだに、総合的な展望を欠くオートメーションを目的とした専門家は別にして、理工系の道に自ら飛び込んでいこうとする熱意がほとんど見られないからだ、と説明している。だが、まさにその総合的な展望を示さねばならないはずのマルドナド自身が、次のことを完全に無視している。オートメーションが自らを確立したものと正反対の展望を目的として確立した時にはじめて、そしてまた、オートメーションの発達に応じてそのような総合的展望が実現されるようになる場合にはじめて、オートメーションは急速に発達するのである。
 マルドナドは逆のことを提案している。まず、オートメーションを確立し、次にその使い方を確立せよと。まさにオートメーションを目的としないならば、そのようなやり方を議論してもよいかもしれない。なぜなら、オートメーションとは、反行動を促すような1つの活動領域のなかでの一行動ではないからだ。それは、領域そのものを中和させ、矛盾した行動が同時に企てられない限りは、その外部の領域までも中和させてしまうであろう。
 ピエール・ドゥルアン*6は、1957年1月5日付の『ル・モンド』紙で、労働者がもはや専門的職業活動に対して行使できなくなった潜在的能力を実現するものとして「趣味(ホビー)」の普及があるのだと語り、どんな人間のなかにも「眠っている創造者がいる」と結論付けている。この古くさい陳腐な言い回しのなかには、われわれの時代の現実の物質的可能性にそれを結び付けて考えるならば、今日、輝くような真理がある。眠っている創造者は起こさねばならない。そして、その覚醒状態はシチュアシオニストと呼ぶことができる。標準化という考えは、最大多数の人間的欲求を最大の均質性へと切り縮め、単純化するための努力である。標準化によって、それが閉じ込める経験の領域よりも興味深い経験の領域が開かれることになるのか否かは、われわれにかかっている。結果次第で、人間の生の完全な愚鈍化に行き着くこともあれば、数々の新しい欲望を常に発見する可能性にたどり着くこともできる。だが、その新しい欲望は、われわれの世界の抑圧的な枠のなかでは、単独で姿を現すことはない。それを発見し、暴き、実現するために、共同の行動をとらねばならない。

アスガー・ヨルン*7


*1:ルイ・サルロン フランスの経済学者。著書に『共有財産についての6つの研究』(1949年)、『企業における権威と命令』(79年)など。

*2:エドガール・モラン(1921ー) フランスの社会学者。特に文化とその伝達手段を研究し、映画やマスコミについての研究もある。1956年から62年にかけて雑誌『アルギュマン』誌の編集長を勤める。著書に、『スター』(57年)、フランス共産党を離党する契機となった『自己批判』(59年)など

*3:ロベール・ベナユーン(1928ー) モロッコに生まれ、1949年ブルトンと接触してシュルレアリストとなり、戦後のシュルレアリスム雑誌に協力。1951年、アド・キルーらと『映画時代』を、52年、映画雑誌『ポジティフ』を発行、シュルレアリストの中でも映画に造詣の深い人物として有名。ヌーヴェル・ヴァーグが現れた時には、アラン・レネだけを評価し、ゴダールやトリュフォーは無視するという独自の立場を取った。精神分析にも関心が深く、アーネスト・ジョーンズのフロイトの伝記に基づいた研究も著している。著書・訳書にエドワード・リアの『ナンセンスの本』など、映画作品に『パリは存在しない』(1972年)、『気持ち良いまでに真面目』(75年)などがあり、コラージュ作品も多い。

*4:1936年になって修正された1924年のシュルレアリスト 1924年は、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、同時に『シュルレアリスム革命』誌が発刊された年で、ブルトンらがダダイズムから離れてシュルレアリスム運動を公式に開始した年。1930年代に入り、国際共産主義運動の高揚と帝国主義間戦争の接近という情勢のなかで、シュルレアリストは当初からその思想に含まれていた全体的な社会革命の路線を強め、『革命に奉仕するシュルレアリスム』を創刊する。同時にコミンテルンと接近し、1935年にはジョルジュ・バタイユらとともに「革命的知識人闘争同盟」(機関紙『反撃(コントル・アタック)』の設立にも関わったが、1938年、トロツキーを擁護するブルトンらはスターリンの指導するコミンテルンと決裂し、バタイユらとも快を分かち、国際共産主義運動から離脱し、ロンドンで開催した「シュルレアリスム国際展」によって神秘主義化への第一歩を踏み出した。

*5:ウルム ドイツ南西部のドナウ川沿いの街。戦後、バウハウスの生き残りマックス・ビルが「造形大学」を設立し、バウハウスの継続を行った地。この新しいバウハウスは、かつてのバウハウスの創造性を失い、機能主義が支配する制度化された工芸大学になってしまった。1953年から「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を組織していたヨルンは、当初、この新しいバウハウスで、かつてのバウハウスにも欠けていた「絵画」部門を担当する提案をしていたが、ヨルンの構想していた文化による社会革命という考えは、マックス・ビルに受け入れられなかった

*6:ピエール・ドゥルアン(1921一) フランスのジャーナリスト。戦後、政府機関の法律顧問などをした後、『ル・モンド』の記者、編集次長などを勤める。

*7:アスガー・ヨルン(本名アスガー・オルフ・ヨルゲンセン 1914ー73年) デンマーク生まれの画家、思想家、人類学者。コブラの創設者として北欧・ベネルクス3国からイタリアまで戦後ヨーロッパの前衛芸術運動に大きな影響を与えた。ヨルンはデンマークのユトラント半島のシルケボアに生まれ、1930年代に、バウハウスに参加したデンマーク人ヴィルヘルム・ビィヤーケ・ぺーターセンや象徴主義的抽象絵画を唱えていたエイラー・ビレらが始めた前衛芸術運動『リニエン(線)』の影響を受ける。1936年にパリに行き、フェルナン・レジェの下で現代絵画を勉強し、ル・コルピュジエと共同で万国博覧会の建物の装飾などを行う。第二次大戦中は、デンマークに戻り、前衛芸術の雑誌ズルヘステン (地獄の馬)』に拠りレジスタンスの活動を行う。戦後、「革命的シュルレアリスム」に参加し、パリでオランダ人コンスタントと、ブリュッセルでドトルモンと出会う中から、1948年、シュルレアリスムと抽象表現芸術の両方を乗り越え、生の直接的表現をめざす前衛芸術運動「コブラ」を創設。1951年、結核に冒され、「コブラ」を解散した後、53年から57年までイタリアのアルビソラで、芸術活動を生活全体にまで拡大し、建築・都市計画・都市環境の装飾など日常生活の場そのものの実験をめざした「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」を組織する。1957年、ドゥボールらとともにシチユアシオニスト・インターナショナルを創設、そのフランスーセクションで活動。61年にSIを脱退した後は、「比較ヴァンダリズム・スカンジナヴィア硫究所」を鍵点に芸術活動を続ける一方、故郷のシルケボアに象徴主義やシュルレアリスムからコブラ、シチュアシオニストに至るまでの作品と資料を収集した美術館を開設し、その運営を行った。

無益な寛大さはごめんだ

 われわれのような探求に従事している集団において、いわば知的で芸術的な体裁の協力関係を持つためには、多かれ少なかれわれわれのような日常生活の利用の仕方をせねばならないが、こうした協力関係には、常に何らかの友情が混ざっている。
 したがって、最初この合意に加わり、後にそこから除名された者たちのことを考える時、われわれは彼らもまたわれわれの友人であったと考えざるをえない。それは楽しいことであることもあれば、あきれ果て、困ったことであることもある。
 全体的に見て、われわれの非難に十分な根拠があったこと、彼らがわれわれと行動を共にしえなかったのは抗いがたい性質のものだったことは、その後の事実によって証明されている。彼らのうちで教会や植民地部隊に加わった者はわずかしかいなかったが、しかし結局、いたことはいたのである。他の者はインテリであることで満足している。彼らはそのまま年老いてゆくだろう。われわれの時代は、こういう者たちがそこで出世すらできない時代だからだ。フランソワーズ・ジルー*1は彼女の持ち場で完壁であり、そのジャンルが続く限りは、半分の才能しかない失業中の者たちが彼女に取って代わる理由などまったくないのである。そういうわけで、いくつもの偽名を使って正真正銘ポルノグラフィックな文学で仕事をしていたある男は、それに良い味付けをするために、「前衛芸術家」の身分を明かして、その種の新作を書いたり、昔の作品のいくつかを再版したりするようになった。もし彼が、たまたま巻き返しを計るとしても、その真面目な考えを表し、以前とは違うのだと信じさせるためには、隠れてそれを行わねばならないだろう。今度の人間は、おしゃべりたちのゴシップ話にある種の謎を提供して一躍有名になったあの男と同一人物ではなく、その男とごく親しい弟子だというわけである。しかし彼は、こうした野心から遠く離れ、人々からなおざりにされることを甘んじて受け入れた。その男とは、ベルギーの正直な理論家で、われわれの今の友人たちとかつて「実験芸術家インターナショナル*2」に加わったが、その後、青年期の趣味と思い出に閉じこもり、あるイデオロギー論争では愛国主義的な論拠を用いて議論するにいたった──もちろんベルギーを擁護してのことである。
 まだ何も実現せず、何も言わず、ただいくつかの漠然としたばかげた振る舞いをしただけの者に、われわれは極端な寛容さを示した。にもかかわらず、われわれに合流するまでに至らなかった個人はさらに多い。何かがそこで起こっているはずだとぼんやりと感じ、自分自身は人を惹き付けることはできないのに、それに惹き付けられて、周りをうろうろする者をわれわれはたくさん見てきた。彼らは結局、シュルレアリスムの防衛に当たる忠実な青年に倣っていただけで、柄のないナイフのように、彼らには何かが欠けていたのである。
 最近のシチュアシオニスト・インターナショナルの設立は、賛同と断絶の問題に新たな現代的光りを投げかけた。アルバでの会議*3に始まった、様々なグループの間での対等の議論と交渉の時期は、コシオ・ダローシャ*4で幕を閉じ、規律ある組織が生まれた。こうして新しい客観的条件が生まれた結果、公然の反対派は一種の日和見主義を強いられることになり、即座に除名された(イタリア・セクションの粛清)。他方で、一種の待機主義的態度が容認しえないものとなり、われわれの支持者だが即座にわれわれに参加せねばならないとは思わなかった者たちも、そのことによって、敵対者としての正体を現した。それ以来SIの大多数の者が発展させてきたプログラムにそって、いくつもの新しい要素がわれわれに加わったが、アルバ以降癒しえない衰弱を示してきた者たちと少しでも対話をすることを受け入れるならぱ、この新しい要素と、そしてとりわけ、将来にわれわれが出会うことになる要素と縁を切らなければならないおそれが出てくるだろう。
 われわれはより強くなり、それゆえ、より魅力的になった。われわれは常に、無害な関係は望まない。われわれの敵を利するような関係も望まない。マチュー*5は、われわれが彼についてどう考えているか知らないわけはないにもかかわらず、去る3月、その作品の1つを計画段階のシチュアシオニスト的環境の構築のなかに忍び込ませようとした。タピエ*6は、タイプライター売り場で略奪をはたらく猿の群れを思わせる方法で、こうまで言ったではないか。「情熱的なものというものは別のものなので、情熱のレヴェルではすべては行動様式の構造のなかで変化する。現在のレヴェルでの完全な作品とは、別の、したがって全体的な構造が少なくとも情熱に関する内容を超越するような作品である」(去る4月付の『極限的証明』)。だが、彼が1人で、そのパロディックな言葉のつながりに意味を見いだすことができるとはまったく思えないし、われわれが彼の言葉を受け入れることも絶対にありえない。こんな輩はすぐに消え去るがいい、そうすれば次に現れる者が彼よりましでないかどうかもすぐわかるだろう。
 はっきりと言っておく。シチュアシオニストはみな、最初に集まった時に持っていた敵意を遺産として持ち続けるだろう。そして、われわれが1度は軽蔑することを余儀なくされた者たちに、われわれのところに戻るチャンスはありえない。しかし、われわれは断絶について観念的、抽象的、絶対的な捉え方をしているのではない。具体的な集団的任務のなかでの1つの出会いが、いつ不可能になるかを見なければならない。だが、同時にまた、環境が変化すれば、かつては互いにある程度尊敬しあったことのある人物どうしの間で、その出会いがふたたび可能で望ましいものとなることはないのかも追求しなければならない。
 何人かの者──おそらく2、3人だ──は、われわれと知り合いになり、われわれとともに活動し、そして、われわれのところから出ていった、あるいはそうすることを望まれたが、それは今では乗り越えられた理由からだったのだ。彼らは、その後、何かに耐え忍ぶことを一切警戒してきた。少なくとも、われわれにはそう願うことが許されるだろう。彼らを知り、彼らの可能性がどのようなものであるかを知ったわれわれは、その可能性が今も前と同じかそれ以上のものであり、彼らが今もわれわれと同じ立場に立ちうると思っている。確かに、われわれが企て、実行してきたような共同作業は、友情を交えることなしには立ちゆかなかっただろう。それは最初に言った通りだ。しかし、その共同作業を友情と同一視することはできないし、友情と同じ弱さにも、同じ持続と緩みにも従うわけにはいかないということも、また確かなことなのだ。

ミシェル・ベルンシュタイン*7


*1:フランソワーズ・ジルー(1916一) フランスの評論家・政治家。第二次戦後、ジャーナリズムの世界で活躍し、女性誌『エル』の編集長を務めた後、1953年に週刊誌レクスプレス』の共同創刊者となった。その後、政界に進出し、1974年から77年まで、女性相大臣、文化大臣を務めた。

*2:「実験芸術家インターナショナル」 「コブラ」運動の正式名称。

*3:アルバでの会議 1956年9月、イタリア北部の都市アルバで、「イマジニスト・バウハウスのための国際運動(MIBI)」のアスガー・ヨルンとピノ=ガッリツィオの呼びかけで行われた「第1回自由芸術家世界会議」のこと。この会議には、1年後にシチュアシオニスト・インターナショナルを結成するMIBIと、ドウボールらのレトリスト・インターナショナルのほか、元コブラのメンバーのコンスタント、ミラノの「アルテ・ヌクレアーレ(核芸術)」のエンリコ・バイら、8か国の前衛芸術家たちが集まり将来のシチュアシオニスト・インターナショナルヘの組織統一に向けて議論を行った。

*4:コシオ・ダローシャ イタリア北西部インペリア県の小村。1957年7月27日、この村にMIBIのヨルン、オルモ、ピノ=ガッリツィオ、シモンド、ヴェッローネ、レトリスト・インターナショナルのドゥボール、ベルンシュタイン、ロンドン心理地理学委員会のラルフ・ラムネイが集まりシチュアシオニスト・インターナショナルの結成大会を開催した。

*5:ジョルジュ・マチュー(1921ー) フランスの画家。銀行家の息子として牛まれ、高校の英語教師、ユナイテッド・ステイッ・ラインの広報担当を勤めた後、1947年以来、〈叙情的抽象(アプストラクシオン・リリック)〉を組織する。1950年代前半には、アンフォルメル運動の最も目立った画家として活動。異様な服装での公開製作で有名。50年代末からは世界各地で展覧会を開く一方で、産業界と行政権力と結び付いた活動(セーヴル陶器、公園・記念碑設計、テレビ放送への協力など)によって「新しいルネッサンス」の旗手とされている。

*6:ミシェル・タピエ(1909ー87年) フランスの美術批評家。1948年、ブルトン、ジャン・ポーランと「生の芸術(アール・ブリユット)商会」を設立し、大戦直後から画家のデュビュッフェが実践していた「生の芸術」(幼児、精神疾患者、アマチュアの作品)の収集活動を推進する。それと平行して、デュビュッフェ、ヴォルス、フォートリエら大戦後の前衛的な非具象絵画を「アンフォルメル(非定形)」芸術と命名し、この運動の推進者にして中心的理論家として活動。著書にアンフォルメルのマニュフェストである『もう1つの芸術』(1952年)。

*7:ミシェル・ベルンシュタイン(1932ー) 1952年、ドゥボールと共にレトリスト・インターナショナルの活動に参加した後、シチュアシオニスト・インターナショナル設立後は、フランス・セクションのメンバーとして活動。1967年に脱退。著書に自伝的回想『王のすべての馬』(1960年)、『夜』(1961年)などがある。現在は、日刊紙『リベラシオン』で書評を担当。

インターナショナル・ニュース

シチュアシオニスト的騒擾のための出版物

 1958年1月1日、ミュンヒェンにおいて、「心を落ち着けろ! 実験はもう要らない!」というタイトルでSIドイツ・セクションの最初の宣言が発表された。文化の偽の新しさの悲惨をかなり激しく告発したこのパンフレットは、そこからの脱出口を示すことも忘れてはいない。「諸君、挑発されないようにしたまえ。これは最後の闘いだ!──いつ新たな統一の椅子がやってくるのか。1つの幽霊が世界を彷徨っている、シチュアシオニスト・インターナショナルという幽霊が。」
 そのすぐ後に、フランス・セクションはパンフレット「文化における新たな作戦地域」とアピール「現代芸術の生産者たちへ」を出版した(君たちが解体派の作品を真似するのに飽きたら、そして、みんなから期待される断片的な言葉の繰り返しが時代遅れになってしまったと思えるならば、周囲の環境を改造する新しい力をより高い次元で組織するためにわれわれと接触を取りたまえ)。
 『ポトラッチ』は、第28号までレトリスト・インターナショナル*1の機関紙であったが、統一されたわれわれの組織の管理下に移り、フランス・セクションが随時発行し続けることになった。6月に、パリで、『形態のために』と題されたアスガー・ヨルンの著書がSIによって発行されたところである。この本は、1953年から1957年にかけて様々な言語で発表された文章の選集で、<イマジニスト・バウハウスのための国際運動*2>──それもまた新しいインターナショナルに統合された──が果たした理論面での貢献のエッセンスを提供している。
 ベルギーでは、われわれの同志が、前衛芸術画廊「タプトー」*3──それは、1957年2月の心理地理学的な示威行動によって終わりを告げた──の歴史に捧げられた1冊の本のなかで、「コブラ」運動(1949ー1951年)の以前と以後での実験芸術の変化の意味についてのヨルンのインタヴューと、「状況の構築に関する報告*4」の第2版を発表した。われわれのイタリア・セクションによるこの報告の翻訳は、5月にトリノで発行された(ノティツィエ書店*5)。
 SIベルギー・セクションはさらに、オランダの雑誌『ガルト・シヴイック』第11号のために書かれた、シチュアシオニスト・インターナショナルの起源と現在のプログラムに関するワルター・コールン*6の研究によって、そのプロパガンダをオランダにまで拡大した。

SI第2回大会

 シチュアシオニスト・インターナショナルの第2回大会は、コシオ・ダローシャでの組織統一大会(1957年7月)の6ヶ月後、1月25、26日にパリで開催され、北欧とドイツでの活動の発展、出版活動、無線での連絡網を用いて複数のグループで同時多発的な実験的漂流を実行すること、いくつかの環境構築の最初の適用の可能性について、特に話し合われた。大会はイタリア・セクションの粛清を行った。イタリア・セクションにおいては、あるフラクションが観念的で反動的なテーゼを支持し、その後、多数派によって論破され糾弾されてからも一切の自己批判を怠っていた。大会はしたがって、W・オルモ、P・シモンド、E・ヴエッローネ*7を除名する決定を下した。

ヴェネツィアはラルフ・ラムネイ*8を打ちのめした

 1957年の春からヴェネツィアでいくつかの心理地理学的探査を行っていたイギリスのシチュアシオニスト、ラルフ・ラムネイは、最終的にこの都市を体系的に探検することを目標として定め、1958年の6月頃には完壁な報告書を提出できると思われていた(『ポトラッチ』第29号の予告を参照)。その企ては最初、かなりうまく進んだ。ラムネイは、ヴェネツィアの地図の基本要素──その表記技術はそれまでのすべての心理地理学的地図作成法を凌駕していた──を確立するにいたり、自分が発見したことや最初の結論、希望などを同士らに伝えていた。1958年の1月頃、彼のニュースは悪いものに変わった。無数の困難と闘っていたラムネイは、次第に自分が通過しようとしていた環境につなぎ止められるようになってゆき、自らの探求の路線を1つまた1つと捨て去り、最後には、3月20日の感動的なメッセージでわれわれに伝えていたように、完全に静止した位置に連れ戻されてしまったのである。
 昔の探検家たちは、犠牲者を1パーセント増やすことによって、客観的な地理を認識することができるようになるという状況を経験した。だから、社会空間とその新しい利用法の探検家である新たな探求者のあいだにも犠牲者が出ることは覚悟しなければならなかった。賭けられているものがかつてとは別の性質のものであるのと同様に、罠も別の種類のものである。生の情熱的な利用方法に到達せねばならないのである。退屈の世界のあらゆる防衛線とぶつかるのは当然である。かくして、ラムネイは姿を消した。彼の父もまだその捜索に出発していない。ヴェネツィアのジャングルはこの上なく強力だった。それは将来を約束された1人の青年の上で再び閉じてしまった。彼は消え、われわれのたくさんの思い出のなかに溶解してしまったのである。

国際芸術批評家総会に反対するベルギー行動

 ブリュッセルでの国際芸術批評家総会の会合の2日前の4月12日、シチュアシオニストはその総会に向けて糾弾の文書を広範囲にわたって配付した。SIのアルジェリア、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、スカンジナヴィア各セクションの名において、ハティプ*9、プラチェク*10、コールン、ドゥポール、ピノ=ガッリツィオ、ヨルンの署名で出されたこの文書の文面は次のとおりである。
 「ここで行われることは、きみたち全員にとって単に退屈なだけのように見える。しかし、シチュアシオニスト・インターナショナルは、ブリュッセル見本市のアトラクションとしてこれほど多くの芸術批評家が群れ集まったことを愚かで重大な意味を持つと考える。
 現代思想は、文化に関するかぎり、この25年間、完全に停滞し続けてきた。これまで何も理解せず、何1つ変革してこなかった一時代の全体が、自らの失敗を自覚している。そのかぎりにおいて、この時代の責任者たちは、自らの活動を制度化しようとしている。その結果、彼らは、あらゆる点で時代遅れにもかかわらずいまだ物質的には世の中を支配している社会集団──たいていの場合、彼らはその良き番犬だ──から、公式に認知されることを求めるにいたった。現代の芸術批評が無力だというのは主要に、それが文化の全体性を着想することも、批評を常に乗り越えてゆく実験的運動の諸条件を着想することもできなかったということである。現在、自然に対する支配が拡大された結果、生の構築のためのより優れた力を利用することが可能になっただけでなく、それは必要とされている。そこにこそ、今日の問題がある。にもかかわらず、知識人は、ある種の存在形態およびそれから生まれた観念がすべて覆されることを恐れ、古い世界のどうでもよい細部のチャンピオンとして、非合理なやり方で互いにぶつかり合っているだけだ。この古い、終わってしまった世界の意味すら、彼らは理解していなかったのだ。それゆえ、芸術批評家は集まって、彼らの無知と懐疑のかけらを交換しようというわけだ。われわれの知るところでは、目下、新しい探求を理解し支持しようと努めている何人かの者が、ここに来て、大多数の凡庸なやつらの仲間入りをすることに同意した。彼らがわれわれにとって少しでも興味あることを持ち続けたいと思うなら、こうしたやつらと縁を切るしかないということを警告しておく。
 芸術批評家よ、部分的で、首尾一貫せず、分裂した馬鹿者たちよ、おまえたちは消えてなくなれ! 偽の出会いのスペクタクルを見せてもむだだ。おまえたちに共通に課せられた役目は1つしかない。この市場で、解体された1つの文化についてのおまえたちの混乱した空虚な無駄口という、数ある西洋の商売のうちの1つを陳列するだけだ。歴史がおまえたちを断罪してくれる。おまえたちの大胆さですら、もはや何も産み出さない過去のものなのだ。
 芸術批評家の屑どもよ、芸術の断片の批評家どもよ、解散せよ。未来の統一的芸術活動が組織されるのは、今やシチュアシオニスト・インターナショナルのなかだけだ。おまえたちに、言うべきことはないのだ。
 シチュアシオニスト・インターナショナルは、おまえたちにいかなる場所も残さない。われわれはおまえたちを飢えさせてやる。」
 その場で必要な反対行動を展開するのは、われわれのベルギー・セクションの役目だった。討議の開会の前日である4月13日以降、アメリカ人スウィーニィーを主宰者とする両世界の芸術批評家たちは、ブリュッセルに迎え入れられていた一方で、シチュアシオニストの主張を載せた文書が様々な方法で彼らこ知らされた。大勢の批評家に、郵便で、あるいは直接の手渡しで、この文書が渡された。電話でこの文書の全体、あるいは一部を読み上げられた批評家もいる。われわれのあるグループは、批評家たちが招かれていたプレス・センターに押し入り、そこにいた者にパンフレットを撒いた。それは建物の上階や車からや公道にも撒かれた。プレス・センターの事件の後、芸術批評家たちのなかには、そのパンフレットが通行人の好奇の的にならないように、通りまで出て回収した者もいた。結局、批評家がこの文書を知らないことのないように、あらゆる手段が取られた。問題にされている批評家たちは警察に通報することもいとわなかった。そして、彼らの見本市と彼らの思想の威光を傷つける文章が新聞に引用されるのを邪魔するために、この万国博に関係する利害によって彼らに保証されていた多くの手段を取ったのである。われわれの同志コールンは、この示威行動での彼の役割を理由に、司法当局の追及を受けている。


少年少女たち、

自己超越と遊びへの嗜好をわずかでも持つならば、

特別の知識はなくても、

とても賢く美しい君たちは、

シチュアシオニストとともに

歴史の方向に進むことができる。

電話はしないでくれたまえ。手紙を書いてくれ。

住所は、パリ5区、モンターニュ=ジュヌヴィエーヴ街32番地


*1:レトリスト・インターナショナル 1952年、ギー・ドゥボール、ジル・ヴォルマン、セルジュ・ベルナ、ジャン=L・ブロー、アンドレ=フランク・コノール、ジャック・フィヨン、ムハンマド・ダフ、パトリック・ストララン、ミシェル・ベルンシュタインらのレトリスト左派が、イズーらの神秘主義化と美学至上主義に反発して結成した集団。「状況の構築」、「転用」、「漂流」、「心理地理学」など、シチュアシオニスト・インターナショナルの主な理論は、このレトリスト・インターナショナルのなかで既に提出されており、彼らの機関誌「ポトラッチ』には、これらの理論に基づいた活動が数多く報告されている。機関誌『ポトラッチ』は、1954年から1959年まで、全30号刊行、1957年11月発行の第29号からは、SIの内部誌になった。また、『ポトラッチ』発行以前に機関誌『アンテルナシオナル・レトリスト』が第4号まで出された。

*2:イマジニスト・バウハウスのための国際運動 1950年にマックス・ビルが構想した機能主義的な新バウハウスの試みに反対し、1953年、アスガー・ヨルンが設立した国際運動。1955年からは、イタリアのアルビソラに「実験工房」を開設し、絵画、陶芸、建築、音楽など多分野にわたるイマジニストの活動の実験を行った。

*3:前衛芸術画廊「タプトー」 ワルター・コールンが運営していたブリュッセルの画廊。1956年夏にコブラ解散以降初めてのコブラ展(ドトルモンが組織)を開催するなど、ベルギーの前衛芸術運動の拠点となっていた。

*4:「状況の構築に関する報告」 1957年イタリアのコシオ・ダローシャで開催された、シチュアシオニスト・インターナショナルの設立のための会議にドゥボールが提出した討議資料で、SI発足時の綱領的文書。正式なタイトルは「状況の構築とシチュアシオニスト・インターナショナル潮流の組織・行動条件に関する報告」。

*5:ノティツィエ書店 トリノのノティツィエ画廊に付属した書店。

*6:ワルター・コールン SIベルギー・セクションのメンバー。1958年秋に除名。

*7:ワルター・オルモ、ピエロ・シモンド、エレーナ・ヴェッローネ 3人とも、設立時からのSIイタリア・セクションのメンバーで、それまでは、ヨルンとともにイタリアに本拠を置いた「イマジニスト・バウハウスのための国際運動」(MIBI)に参加していた。同運動の雑誌『エリスティカ』第2号(1956年)には、シモンドの論文「具象芸術の一般理論のために」、ヴェッローネの論文「民主主義的目的の建築の役割」がある。ワルター・オルモは、MIBIのアルバの実験工房で、音楽の実験を行った。3人とも、1958年1月に除名

*8:ラルフ・ラムネイ 〈ロンドン心理地理学委員会〉のメンバーとしてSIの設立に参加した後、SIイタリア・セクションのメンバーとして活動。1958年3月除名。

*9:アブドゥルハフィド・ハティブ 135ぺージの注を参照

*10:ハンス・プラチェグ SIドイツ・セクションのメンバー。1959年2月除名


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