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映画とともに、映画に反して

訳者解題

 ここに主張されているような、「状況の構築」のための映画の積極的利用、またそのための実験映画への関心は、シチュアシオニストの前身であるコブラとレトリスト・インターナショナルの時代からすでに見られたものである。
 コブラは、1949年6月から7月にかけて、ベルギーで、ドトルモンが中心になって「国際実験映画フェスティヴァル」を開催し、1951年10月の、リエージュでの「第2回実験芸術家インターナショナル展」でも、ジャン・レーヌが組織して「抽象映画フェスティヴァル」を開催している。これらの映画フェスティヴァルでは、ハンス・リヒターやマン・レイなどのダダイストやシュルレアリストの映画だけでなく、フィルムに直接イメージを彫り込むカナダの実験映画作家ノーマン・マクラーレンの映画なども出品され、60年代のアンダーグラウンド・シネマをはるかに先取りしていた。また、リエージュのフェスティヴァルのために、コブラは自ら、『ペルセフォン』というタイトルの映画も作っている。これには、後にフランスのヌーヴェル・ヴァーグの後見人となるシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが協力し、ベルギーのコブラのメンバーが総出演している。ゼウスと大地の女神ディメテルの娘ペルセフォネをもじったタイトルのこの映画は、ドトルモンによると電話(テレフォン)を主題としたもので、人(ペルソンヌ)が喋るとその声が違って聞こえるという物語になっていたらしい。ベルギーのコブラのメンバーはみな、ガスマスクをかぶって出演した。
 これらの活動を中心的に行っていたベルギーのドトルモンやレーヌは、シチュアシオニスト・インターナショナルには参加しなかったため、SIの映画理論のもとになっているのはレトリストの映画である。レトリストはドゥボールらのレトリスト・インターナショナルにしても、それ以前のイズーのレトリスムにしても、映画への関心は並々ならぬものがあり、映像と文字・言葉・音を総合的に実験できる映画を実際に数多く作った。カンヌ映画祭で「アヴァンギャルド観客賞」などを獲ったイズーの『涎と永遠についての概論』(1951年)、ジル・ヴォルマンのシネマトクローヌ『アンチコンセプト』(51年)、ドゥボールの反映画『サドのための叫び』(52年)など、レトリストの映画は、何よりも、音をイメージの随伴物にせず、互いに独立したものとして扱い、そのために、フィルム上のイメーシに優先的な価値を与えず、シークエンスの不連続な接続や断絶の多用、既存の映画フィルムの使用、フィルムそのものへの直接の切り込み、といった傾向を持つことにおいて共通していた。これらは実験的というよりもむしろ、「反映画」と形容すべきものである。それは、第7芸術として多くの可能性をはらんでいた映画を、物語映画という固定したスタイルにおとしめ、スペクタクルとして受動的な観客に消費させる商業映画を解体しようとするものであった。またそれは、彼らが高く評価していたロシア革命当初にマヤコフスキーとジガ・ヴェルトフが行ったキノ・プラウダの試みを継承するものでもあった。ドゥボールは、レトリストの映画雑誌『イオン』第1号(1952年4月)の「未来の映画すべてへの前提原理(プロレゴメナ)」の中で自らの映画について次のように書いている。
 「写真の切り貼りと文字の使用(レトリスム)(与えられた要素としての)とは、ここでは、反逆の表現そのものと見なされる。(……)
 ナレーションは、ところどころ削除された文章──そこでは言葉を削除することによって弾劾されているのは反動的勢力だ(『理論的散文の破壊のためのアピール』を参照せよ)──と、より完全な解体の萌芽である1文字ずつ綴られた言葉によって、疑問にさらされる。
 この破壊は、映像とそれに随伴する音の重ね合わせによってなされる。すなわち、文章は視覚的にも音響的にもずたずたにされ、そこで写真映像は言語表現の中に乱入するのである。声と文字による対話は、その文章がスクリーン上に書き込まれるとともに、サウンド・トラックの上でも続き、次いで互いに応え合う。
 結局のところ、私は、2つの無意味(完全に意味のない映像と言葉)の関係、すなわち叫びを乗り越える関係によって、『支離滅裂な映画』の死に至りついたのである。
だがこれはすべて、すでに終わった時代、私にはもう何の関心もない時代に属するものである。(……)未来の芸術は状況を転覆するものとなるだろう。さもなくば無であるだろう。




 映画は現代社会の中心芸術である。映画の発展が、いろいろな新しい機械技術のたゆまぬ集積運動のうちに探求されているという意味においても、その通りである。それゆえ、映画は、逸話表現や形式表現としてのみならず、その物質的下部構造においても、いろいろな発明が無秩序に併置されている(有機的に組み合わされているのではなく、単に付け加わっている)時代を最もよく表しているものである。ワイド・スクリーン、ステレオ音響の登場、立体映像の試みの後に、米国は、「サーカラマ*1」という方式をブリュッセルの博覧会に出展した。『ル・モンド』紙4月17日付が報じているように、その方式によれば、「観客は、スペクタクルの真っただ中にいて、スペクタクルを生きている。というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから。車内にいくつもの撮影カメラを搭載した自動車がサンフランシスコの中国人街に飛び込むと、観客は、車の乗客のとっさの反応と興奮を味わえる」。他方、最新の噴霧スプレーの応用によって、においのする映画も実験されており、有無を言わせぬ迫真の効果が期待される。
 このように、映画は、現在可能な統一的芸術活動の受動的代用物という様相を呈している。映画は、いまだかつてない力を、参加なきスペクタクルという古くさい反動勢力に与える。くだらないスペクタクルの真っただ中に自由もなくいる「というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから」ということを理由に挙げて、観客は我々の知っている〔現実の〕世界に生きている、などと忌憚なく述べられている。しかし、生は、そんなものではないし、観客はいまだに世界に属していない。とはいえ、その世界を構築しようと望む人々は、映画において、状況の反-構築(奴隷の環境の構築、大聖堂の継承)を構成しようとする傾向と闘いつつも、同時に、それ自体において有効な新しい技術的応用(ステレオ音響、におい)の意義も認識しなければならない。
 芸術の現代的徴候の出現が映画において遅れている(例えば、形式に関して破壊的な幾つかの映画作品は、美術や文学においては2,30年前から受け入れられてきたことに相通ずるものなのに、まだシネ・クラブ*2においてさえ拒絶されている)原因はといえば、あからさまに経済的な軛や理想主義の粉飾をこらした軛(道徳的検閲)だけではない。現代社会における映画芸術の実際的重要性もまた、その原因である。映画のこの重要性は、映画が実行しうる優れた感化手段に依拠しており、それゆえ必然的に、支配階級による映画の管理強化を招くことになる。それゆえ、映画における真に実験的な部門を奪取するために闘わなければならない。
 われわれには、映画の利用法として、次の2つが考えられる。まず、プレ・シチュアシオニスト的過渡期における一種のプロパガンダとしての利用。次に、実現された状況を構成する要素としての直接的な利用。
 このように、万人の生における映画の今日的重要性の点で、また、映画に革新の道を閉ざしている諸限界の点で、しかしまた、映画が秘める革新の自由が持っているに違いない広大な影響力の点で、映画は、建築に比することができる。環境の心理学的機能に基づいて粗織された建築を見つけ出すことで、絶対酌機能主義の掃き溜めの中に隠された真珠を取り出せるのと同じように、商業映画の進歩的な側面を利用しなければならない。


*1:サーカラマ 原語 Circarama。不詳だが、全周(360度)映画のことか。

*2:シネ・クラプ 古典・前衛作品中心の映画上映会。通例、討論会や講演を伴う。



遊びのシチュアシオニスト的定義試論

 遊びという概念を取り巻く語彙的混乱と実際的混乱を免れるためには、遊びという概念をその運動の中で考察しなければならない。遊びのもともとの社会的機能は、2世紀にわたってたゆまぬ生産の理想化により否定され続けた後では、もはや退化した遺物という様相を呈しているのみであり、しかもそれに、そのような生産を現在のように組織するための諸要件に直接に起因する、より劣った諸形態が入り交じっている。しかし同時に、遊びの進歩的な諸傾向も、生産力の発展自体との関係において現れている。
 遊びの肯定の新段階は、競争の要素いっさいの消滅を特色とするべきだと思われる。現在まで遊戯活動とほとんど不可分である勝ち負けの問題は、財の占有をめぐる諸個人の間の緊張を表す他の全ての形態に結びついているように見える。遊びにおいて勝つことが重要だという感情は、実利的な満足感であれ、あるいはたいていの場合のように非実利的な満足感であれ、悪しき社会の悪しき産物である。そのような感情は、当然、あらゆる保守勢力に利用される。保守勢力は、自らが押しつけている単調でむごい生活条件を隠蔽するために、そのような感情を利用するのである。競争=試合形式のスポーツは、まさに英国においてマニュファクチャーの飛躍的発展とともに近代的な形のもとに幅をきかせてきたが、そのようなスポーツによって逸らされる[=転用される]あらゆる要求のことを思い浮かべるだけで十分だろう。群衆は自分をプロの選手やチームと同一視し、選手やチームは、群衆に代わって人生を享受する映画スターや決定を下す政治家と同じ神話的役割を担っているわけであるが、ただ単にそれだけではない。さらに、それらの試合の相次ぐ得点結果が、試合に注目する人々をわくわくさせるのである。遊び=ゲームへの直接の参加は、たとえそれがある程度の知的訓練を要するゲームの中から選ばれたものであっても、いざ、決められた規則の枠内で、競争それ自体のために競争=試合を受けて立つとなると、これまた、あまり面白いものではない。遊びの概念が含まれる現代的侮蔑の発露として、タルタコウェルの『チェスのバイブル』の冒頭の思い上がった確言ほどのものはない。いわく、「チェス・ゲームは、世界中で、遊びの王様として認められています」。
 競争という要素は、真に集団的な遊戯観のために、消滅するべきである。すなわち、精選された遊戯環境の共同創造、という遊戯観である。乗り越えるべき主要な区別とは、遊びと日常生活の間に立てられている区別、つまり、遊びを孤立した一時的な例外とみなすことである。ヨハン・ホイジンガ*1は次のように書いている。「遊びは、世界の不完全さと生活の混乱の中に、限られた一時的な完全さを実現する」。日常生活は、これまで生活の糧の問題によって条件づけられてきたが、合理的に支配されうるだろう──その可能性は、現代の全ての紛争の中心にある。そして、遊びは、限られた遊戯時間・空間との関係を根本的に断ち切って、生活全体を覆い尽くすべきである。完全さは、少なくともそれが生活に対立する停滞した構築を意味する限りにおいては、その目的になりえない。しかし、生活の美しき混乱を完全さの域にまで押し進めるようとすることはできる。かつてエウヘニオ・ドールス*2は、バロックを、最終的に限定して、「歴史の欠如」と形容したが、バロックおよび組織されたバロックの彼方は、余暇の来たるべき天下のうちに大きな位置を占めるであろう。
 このような歴史的展望において、遊び──遊びの新機軸の永続的な実験──は、けっして、倫理学の外、生の意味の問題の外に現れることはない。遊びに認めうる唯一の成功とは、遊びの環境の直接の成功であり、また、遊びの力の恒常的な増大である。遊びは、現在、凋落期の残滓と共存しているせいで、競争的な面を完全に免れることはできないが、たとえそうであるにしても、遊びの目的は、少なくとも、じかに生きるために好都合な条件をもたらすことでなければならない。その意味において、遊びは、さらに闘争であり、表現でもある。すなわち、欲望に相応する生活のための闘争であり、そのような生活の具体的な表現なのである。遊びは、仕事の過酷な現実に比べて副次的な存在であることから、仮構(フィクション)であると感じられている。しかしながら、シチュアシオニストの仕事は、まさに、来たるべき遊びの可能性を準備することである。それゆえ、人々は、シチュアシオニスト・インターナショナルに壮大な遊び=大ばくちの側面の幾つかを見てとる限りにおいては、シチュアシオニスト・インターナショナルを無視したくなるかもしれない。「しかしながら」とホイジンガは言う、「既に述べたように、『ただ遊ぶだけ』という観念は、この上なく厳粛にその『ただ遊ぶだけ』を実行する可能性を、まったく排除しないのである……」

   

*1:ヨハン・ホイジンガ(1872一1945年) オランダの文化史家。代表的な著作に『中世の秋』(1919年)、『ホモ・ルーデンス』(1938年)がある。後者は、1950年代初頭にフランス語に訳されている。

*2:エウヘニオ・ドールス(1882一1954年) スペインの哲学者、美術批評家。著書に『バロック論』など。なお、日本での姓の表記としては、ドールスの他に、オルス、デオルスなどとも記される。

状況の構築のための予備的諸問題 

 「状況の構築は、スペクタクル概念の現代的展開を越えたところに開始される。非一介入というスペクタクルの原理そのものが、古い世界の疎外といかに深く結び付いているかは容易に見てとれる。それとは逆に、文化における革命的探求のなかで最も価値あるものが、スペクタクルの観客のヒーローへの心理的同一化を破壊し、その観客を積極的な行動に引きずり込むようにどれほど努めてきたかもよく知られている。(……)状況とは、したがって、それを構築する者たちによって生きられるために作られるものである。そこでは、受動的とは言わないまでも少なくとも単に端役的なだけの『公衆』の役割は、常に減少することになる一方で、もはや役者ではなく、言葉の新しい意味において『生きる者』と呼ばれる者の関与するところが増大する。」 『状況の構築に関する報告』


 「構築された状況」についてわれわれが持つ理解は、環境の空間的-時間的拡がりと勢いがいかに大きかろうと、環境の構築に貢献する芸術的手段を統一的に利用することだけに限られるものではない。状況とは、同時に、時間のなかでの1つのまとまった行動でもある。それは、ある瞬間の生の舞台装置(デコール)のなかに含まれた一連の行為から成る。これらの行為は生の舞台装置とその行為そのものから生み出されたものである。そして、それらの行為がまた別の形の生の舞台装置と別の行為とを産み出すのである。これらの力をいかにして方向付けることはできるだろうか。機械的な挑発によって様々な驚きを産み出すことを期待するような環境実験の試みだけで満足するわけにはゆかない。シチュアシオニストの活動の真に実験的な方向は、程度の差こそあれはっきりと世に認められた種々の欲望から出発して、それらの欲望に好都合な当面の活動の場を作り出すことにある。それを作り出すことではじめて、原初の欲望が明らかになり、まさにシチュアシオニスト的構築によって構成された新しい現実に物質的に根づいた新しい欲望が無秩序に出現するようになるのである。
 それゆえ、シチュアシオニスト的目的にかなう一種の精神分析を考察せねばならない。この冒険に参加する各々の者は、環境に対する正確な欲望を、まさにそれを実現するために見つけ出さねばならないのであって、それはフロイト思想から生れた諸流派が追求している目的とは逆のものである。だれもが自分の愛するもの、自分を魅き付けるものを探さねばならない(そしてそこでもまた、現代のエクリチュールのある種の試み──例えばレリス*1──とは逆に、われわれにとって重要なことは、われわれの精神の個々の構造でもその形成過程を説明することでもなく、構築された状況のなかでそれを適用する可能性である)。この方法を用いて、建設すべき状況を構成する様々な要素、またそれらの要素の運動のための様々な計画を調査することができる。そうした探求は、状況の構築という方向で実践的に働いている諸個人にとってしか意味を持たない。彼らはみなその時、自発的にであれ、意識的かつ組織的なやり方でであれ、プレ・シチュアシオニストである。すなわち、1つの同じ文化欠如状態を通して、また自分たちに直接先行する実験的感性を同じように表現することを通して、この構築の客観的必要性を感じ取ってきた個人なのである。彼らは、1つの専門によって、また彼らの専門分野での1つの同じ歴史的前衛への帰属によって、互いに結び付けられている。それゆえおそらく、すべての者のうちに、シチュアシオニスト的欲望の共通のテーマを数多く見出すことができる。この欲望は、現実の活動局面に移るやいなや、常にそれまで以上に多様なものとなるだろう。
 構築された状況は、その準備段階においても実際の展開においても、必然的に集団的なものとなる。しかしながら、少なくとも初期の実験の時期には、ある与えられた状況で個人がある種のヘゲモニーを取らねばならないこともあるように思われる。つまり、その状況の演出者となるのである。状況の計画──それを探求する者たちのグループによって研究された──を立て、それを、例えば何人かでの一夜の感動的な集まりと組み合わせて行うようになると、おそらく、指揮者または演出者と、状況を生きる直接的な行為者と、受動的な観客とを区別しなければならなくなるだろう。指揮者は、生の舞台装置を構築するためにあらかじめ必要な要素を調整し、さらに、出来事のなかへのある種の介入を予見することも引き受ける(この後者のプロセスは、他の者の介入のプランをあまりよく知らない複数の責任者の間で分担されることもある)。状況を生きる直接の行為者は、集団での計画の創造に参加し、環境の実際の製作のために働いた者である。観客とは構築の仕事に無縁な者だが、その彼らを行動に走らせることが望まれる。
 当然、指揮者と状況を「生きる者」との関係は、それぞれの専門家どうしの関係となることはない。シチュアシオニストのグループ全体と孤立した実験の責任者との従属関係は単に一時的なものにすぎない。こうした展望、あるいはそのための仮の呼び方は、劇場の延長に関することだと思わせるようであってはならない。ピランデッロ*2やブレヒトは、演劇的スペクタクルの破壊と、それを超えたいくつかの主張を示して見せてくれた。状況の構築は、現実の生の構築が常にますます宗教に取って代わってきたという意味においてのみ、演劇に取って代わるだろうと言うことができる。明らかに、われわれが取って代わり成し遂げようとしている主たる領域は、詩の領域である。それは、現代の前衛のなかで自らを焼き尽くし、完全に消滅してしまったものである。
 個人の実際の成就は、シチュアシオニストが発見した芸術的実験の場合と同様、必然的に世界を集団的に支配することを通して行われる。この支配以前には、まだ個人というものは存在せず、他人から無秩序に与えられたモノに取り憑いた影しか存在しない。われわれは、偶然の状況において、偶然に行き交う1人1人に分離された個人に出会う。彼らの多岐多様な情動は中和され、退屈でびくともしない環境を維持している。われわれは、高等な遊びの狼煙をあちこちで上げることによって、この状態を粉砕するだろう。
 今日、技術の進歩の不可欠な表現である機能主義は遊びを完全に排除しようとやっきになり、「インダストリアル・デザイン」の信奉者たちは、人々がますます遊びに向かう傾向にあることで、自分たちの活動が悪化していると嘆いている。インダストリアル商業はこの傾向を浅ましいやり方で利用し、この上なく有益な成果もたちまちなきものとしてしまうため、遊びへの傾向は新たな姿を取ることを余儀なくされる。われわれは、冷蔵庫の形を芸術的な仕方で次々とリニューアルすることを薦めてはならないと考える。だが、説教好きな機能主義は、この点に関して何も行いえない。唯一の進歩的解決策は、それとは別の場で、さらに大規模に、遊びへの傾向を解放することである。それ以前には、インダストリアル・デザインの純粋な理論がもつ素朴な憤りは、例えば、個人の自動車は主として愚かな遊びであり、交通手段であるのは不随的なことにすぎないという深い事実を妨げることはできないだろう。常に反動の政治と結び付き、幼児段階に回帰するあらゆる退行的な形態の遊びに反して、革命的遊びの実験的形態を支持しなければならないのである。


*1:ミシェル・レリス(1901一90年) フランスの作家・民族学者。若くしてシュルレアリスムに参加した後、民族学研究を続けながら、『成熟の年齢』(1939年)など一連の自伝的作品で注目を集める。ここでは、後に『ゲームの規則』全4巻を構成する一連の著作、『ビフユール』(1948年)、『フルビ』(1955年)のなかで、言語を通して個人の生の深層を探る試みを続けるレリスの文学が示唆されている。

*2:ルイジ・ピランデッロ(1867一1936年)イタリアの劇作家。『作者を捜す六人の登場人物』(1921年)によって、従来の劇の制度に変革をもたらしたことで有名。1934年、ノーベル文学賞。

定義

  • 構築された状況  統一的な環境と出来事の成り行きを集団的に組織することによって具体的かつ意図的に構築された生の瞬間。
  • シチュアシオニスト(状況派・状況派の)  状況の構築の理論もしくはその実践活動に関すること。状況を構築することに努める者。シチュアシオニスト・インタナショナルのメンバー。
  • シチュアシオニスム(状況主義)  上の用語から派生して誤って作られた無意味な語。シチュアシオニスムなど存在しない。そんなものは、既存の事実に対する解釈の教義を意味するにすぎないだろう。シチュアシオニスムという概念はあきらかに反シチュアシオニストらの着想した概念である。
  • 心理地理学  意識的に整備された環境かそうでないかにかかわらず、地理的環境が諸個人の情動的な行動様式に対して直接働きかけてくる、その正確な効果を研究すること。

  • 心理地理学的  心理地理学に関係するもの。情動に対する地理的環境の直接的作用を示すもの。
  • 心理地理学者  心理地理学的現実を探求し、それを伝える者。
  • 漂流  都市生活の諸条件に結び付いた実験的な行動様式、すなわち、変化に富んだ環境のなかを素早く通過する技術。より特殊には、この実験を連続的に行う期間を指すこともある。
  • 統一的都市計画  様々な実験的行動とダイナミックに結び付いた環境の完全な構築に与する芸術および技術の全体の利用の理論。
  • 転用  前もって作られた美的要素の転用、という言い方を省略して用いられる。現在のまたは過去の芸術生産物を環境のより高度の構築に統合すること。この意味では、シチュアシオニストの絵画やシチュアシオニストの音楽というものはありえず、ただこれらの手段のシチュアシオニスト的使用があるだけだ。より原始的な意味では、昔の文化の諸領域の内部での転用は、プロパガンダの方法であり、それはこれらの芸術領域の衰弱と重要性の喪失のあかしである。
  • 文化  それぞれの歴史的瞬間において、日常生活を組織する様々な可能性を反映し、予示するもの。美的なもの、感情、風習の複合体。それによって、共同社会は、その経済が自らに客観的に与えている生活に対応する。(われわれはこの用語を、諸価値の創造という展望においてのみ定義するのであって、それらの価値の教育という展望において定義するのではない。)
  • 解体  より優れた文化の構築を可能にすると同時にそれを要求しもするより優れた自然支配の手段の出現の結果、伝統的な文化形態が自ら解体するプロセス。古い上部構造の実際の破壊という、解体の積極的段階──それは1930年ごろに終る──と、それ以来ずっと優勢である反復の段階とを区別せねばならない。解体から新しい構築への移行の遅れは、資本主義の革命的清算の遅れと結び付いている。

新しい都市計画のための理論定式


陛下、私は別の国から来た者であります。

 おれたちは街で退屈している。太陽神殿はもう存在しない。通りすがりの女たちの股の間に、ダダイストならモンキーレンチを、シュルレアリストならクリスタルグラスを見つけたいと思ったことだろう。もうそんなものは無くなった。おれたちは、人々の顔の上にどんな約束でも読み取れる。それは最後の形態学。貼り紙の詩は20年来続いてきた。おれたちは街で退屈している。道路の看板にまだまだ神秘を見つけるためには、くたばるまで疲れ果てねばならない。それが最後のユーモアで、それが最後の詩なのだ。


        族長浴場
        肉切り機械
        ノートルダム動物園
        スポーツ薬局
        殉教者食品店
        半透明コンクリート
        黄金の手製材店
        機能回復[=機能主義回収]センター
        救急車サンタンヌ
*1
        5番街カフェ
        ポランティア延長街(リュ・デ・ヴォロンテール・ブロロンジェ)
        庭の家族ペンション
        外国人ホテル(オテル・デ・ゼトランジェ)
        野生通り(リュ・ソヴァージュ)

 それから、少女街(リュ・デ・フィエット)のプールに、出会い通り(リュ・デュ・ランデ・ヴ)のかどの警察署。金銀細工師河岸(ケ・デ・ゾルフェヴル)の外科医学クリニックと無料就職センター。太陽通り(リュ・デュ・ソレーユ)の造花。城の地下倉ホテルに太洋バー、往復運動(ヴァ・エ・ヴィアン)カフェ。時代ホテル(オテル・ドゥ・レポック)。
 夏の終わりの夜に浮かぶ、精神病者の恩人フィリップ・ピネル
*2博士の奇妙な銅像。パリを探険せよ。
 そして忘れられた女よ、ありとあらゆる悲嘆の声を上げる地球儀によって荒らされた思い出を持つ女よ、音楽も地理もない八里橋(パリカオ)*3の赤い地下倉に紛れ込んだ女よ、おまえはもう、植物の根が子供に思いをはせ、ワインがカレンダーのおとぎ話になって終わる大農場(アシエンダ)に出かけることはない。もう、ゲームは終わった。おまえが大農場を見ることもないだろう。そんなものは存在しないのだ。       
 大農場を建設せねばならない。


 どんな都市でも地質学的であり、それぞれの都市の伝説の威光を鎧のように身に付けた亡霊に出会うことなく、その中を3歩たりとも歩くことはできない。われわれは閉ざされた風景の中で進化し、その風景の目印はわれわれをたえず過去に引き戻す。常に形を変えるいくつかのアングル、果てしなく広がるいくつかのパースペクティヴのおかげで、われわれは空間の本来の把握の仕方を垣間見ることができるが、しかしそのヴィジョンも断片的なものにとどまる。フォルクローレのおとぎ話や、シュルレアリストの著作に書かれた魔法の場所に、それを探し求めねばならない。城、終わりのない壁、忘れられた小さなバー、マンモスの洞穴、カジノのウィンドウに。
 これらの滅びたイメージにはわずかな触媒の力が保存されている。だが、そうしたイメージも、蘇らせ、新しい意味を与えることなしには、象徴的都市計画のなかで使うことはほとんど不可能だ。古いキー・イメージに取り愚かれたわれわれの精神生活は、洗練された機械よりずっと遅れている。現代の科学を新しい神話のなかに統合しようとする様々な試みは、いまだ不十分なままである。それ以来、抽象があらゆる芸術を、とりわけ今日の建築を覆い尽した。逸話も生気も欠いた純粋状態の造形的事象が、人の眼を休め、凍り付かせている。他の断片的な美は別の場所にあり、約束された総合の大地はますます遠ざかるばかりだ。誰もが、感情のなかに生きている過去と今からすでに死んでいる未来の間でためらっている。

 われわれは、退屈な余暇に行き着く機械的な文明と冷たい建築を長引かせはしない。

 われわれは、常に変化する新たな舞台装置を発明することを提案しているのだ。(中略)

 暗闇は照明の前に姿を隠し、季節はエアコンの効いた施設によって消されてしまった。夜も夏も魅力を失い、夜明けは消滅してしまった。都市の人間は宇宙的現実から遠ざかることばかり考え、それ以上のことは夢みもしない。理由は明らかだ。夢は現実のなかに出発点を持ち、現実のなかで実現するのである。
 最近の技術は、宇宙的現実の不快さをすべて取り除きつつ、個人と宇宙的現実との恒常的な接触を可能にした。ガラスの天井は、星も雨も透かして見せる。移動式の家は太陽とともに回る。レールの付いたその壁のおかげで、植物が生活のなかに入ってくる。家そのものもレールに乗って、朝には海まで進んで行き、夜になると森に帰ることもできるのだ。
 建築は空間と時問を分節し、現実を変形し、夢を見させるための最も単純な方法だ。とはいえ、束の間の美の表現である造形的な文節と変形だけが問題なのではない。人に影響を及ぼす変化が問題であり、この変化は人間の様々な欲望とそれらの欲望の実現における進歩とが描く永久曲線のなかに書き込まれている。
 明日の建築は、それゆえ、時間と空間の今日の理解の仕方を変更する方法となるだろう。それは、認識の方法にして行動の手段となる。
 建築物の集合体も変更しうる。その外観もそこに住む者の意志によって部分的に、あるいは完全に変化させうるだろう。(中略)
 過去の共同社会は、大衆に絶対的真理と議論の余地のない神話の例を提供していた。現代精神に相対性の概念が導入されたことによって、次の文明が実験的側面──実験的という語に満足するわけではないが──を持つことを予感することが可能になった。より柔軟な、「楽しい」言い方をしよう。この移動式の文明に基づいた建築は──少なくとも最初の段階では──、生を変化させるいくつもの方法を実験する手段であり、伝説的でしかありえない1つの総合をめざす。
 心の病が惑星全体に行き渡ってしまった。凡庸化という病だ。誰もが製品と快適な生活のとりこになっている。下水設備、エレベーター、浴室、洗濯機といった具合に。
 こうした現状は貧困への抗議から生まれたものだが、そのはるかな目的──物質的心配からの人間の解放──を越えて、今のところ強迫的なイメージとなってしまった。どの国の若者も、愛とオートマティックのダストシュートを秤にかけ、ダストシュートの方を選ぶ。精神を完全に一変しなければならない。忘れられた欲望を明るみに出し、まったく新たな欲望を作り出すことによって。そして、これらの欲望を讃える徹底的なプロパガンダを行うことによって。
 われわれはすでに、次の文明が築かれる基礎となる欲望の1つとして、状況を構築する必要を指摘した。この絶対的創造の必要は、これまで常に、建築、つまり時間と空間との戯れの必要と一体のものとなっていたのだ。(中略)
 建築の注目すべき先駆者の1人は、いぜんとしてキリコ
*4であろう。彼は時間と空間を通して不在と存在の問題に立ち向かったのである。
 よく知られていることだが、最初に訪れた時には意識にはっきりととどめられなかった事物が、次に訪れた時にその不在によっていわく言い難い印象を喚起することがある。時間のなかで再構築されることによって、事物の不在は感覚しうる存在に変化するのである。むしろこう言ったほうがよい──印象の質は一般的には漠然としたものではあるが、取り除かれた事物がどんな性質のものか、また訪問者がそれにどれほどの重要性を与えているかに従って、穏やかな喜びから激しい不安まで多岐多様なものとなる(まさにこの場合、気分の媒体が記憶であることは、われわれには重要ではない。私がこの例を選んだのは便宜上のことでしかない)。
 キリコの絵画(アーケードの時代)において、空虚な空間は満ち足りた時間を作り出している。このような建築家にわれわれが残す未来がどのようなものか、群衆に対する彼らの影響がどのようなものかを想像するのは容易い。こうしたモデルをいわゆる博物館に追いやってきた世紀は、今日、軽蔑するほかない。
 来るべき構築物の理論的基礎となるべき時間と空間のこの新しい見方は、今現在、整っているわけではない。その目的に合った都市で行動様式の実験を行わないうちは、それはこれからも決して完全に整えられることはないだろう。そうした都市には、最低限の快適さと、安全に不可欠な施設のほかに、喚起の力と影響力に富む建物、過去、現在、未来の欲望と力と出来事とを表す象徴的な建造物が体系的に集められるだろう。昔の宗教システム、古いおとぎ話、そしてとりわけ精神分析を、建築の利益のために合理的に拡張することは、情熱を抱く理由が消え去りゆくにつれて、日々、急を要するものになってきているのである。
 いわば、誰もが自分個人の「カテドラル」に住むことになるのだ。ドラッグを使うよりもずっとすばらしい夢を見せてくれる部屋や、ただひたすら愛を育むだけの家ができるだろう。旅人を惹きつけてやまない家も建つだろう……
 この計画を、だまし絵の効果を持った中国庭園や日本庭園──それらの庭園は中で完全な生活をするようにできていないということだけは別にして──や、パリの植物園にあるばかげた迷路──その入口には、ふざけたことに、「アリアドネー*5は失業中につき、迷路での遊びは禁止されています」と書いてある──になぞらえることもできる。
 この都市は、城や洞窟、湖などを恣意的に集めた姿とみなすこともできるかもしれない。認識の一手段と考えられた都市計画のバロック的段階かもしれない。だが、そうした理論局面はすでに乗り越えられた。われわれは、現代では、中世の城の姿をまったくとどめないにもかかわらず、<城>というものの詩的な力を保持し、増大させるようなビルを建築できる(最低限の建物の線の保存、他のいくつかの線の移動、出入り口の設定、地形上の状況、などによって)ということを知っている。この都市の各地区(カルティエ)は、われわれが日常生活で偶然に出会う様々に類別された感覚と対応しうる。
 <風変わり地区>──特に住居専用の<幸福地区>──<高貴で悲劇的な地区>(行儀のよい子供たちのための)──<歴史地区>(博物館、学校)──<有用地区>(病院、道具店)──<不吉地区>などである。それらに加えて、アストロレールが1つある。それは、星のリズムとの関係に従ってあらゆる植物種を集めた惑星規模の植物園で、天文学者トーマスが、ウィーンのローア・バーグという場所に建設することを提案しているものに比肩する。これは、住民に宇宙の意識を与えるために不可欠なものである。ほかにもおそらく、<死の地区>もできるだろう。そこで死ぬためにではなく、静かに生きるために。ここで私が考えているのは、メキシコや、無垢のなかの残酷さの原理である。それは、日々、私には高価なものになってゆく。
 例えば<不吉地区>はうまい具合に、かつてどの国の国民もがそれぞれの首都に持っていたあれらの穴、地獄の口の代わりになるだろう。それらは生の邪悪な力を象徴していたのだ。<不吉地区>では、罠や落し穴、坑道などの現実の危険を隠す必要はまったくない。そこへの進入路は錯綜し、町には恐ろしい装飾がなされ(甲高い笛の音、警報ベル、不規則な問隔で鳴る周期的サイレン、怪物の彫像、オートモビールと呼ばれるエンジン付きの移動機械)、夜の照明はほとんどなく、昼は反射現象の濫用によってまぶしいほどの光りに満ちている。街の中心には、「恐怖の移動機停止場」がある。市場に1つの製品が溢れると、その製品は安くなる。子供も大人も不吉な地区の探検によって、生の不安な表出を恐れるのではなく、それを楽しむことを学ぶだろう。
 住民の主要な活動は連続的な漂流となるだろう。刻一刻変化する風景が、日常からの完全な脱出の原因となる。(中略)
 やがて行動の摩滅というものが避けられなくなるが、その時には、この漂流は体験の領域を部分的に去り、表象の領域に入るだろう。(中略)
 経済的理由からの反論は、まったくもって議論に耐えない。ある場所が自由な遊びに充てられれば充てられるほど、ますますその場所は人の行動様式に影響し、その魅力はいっそう大きくなるのである。モナコ、ラスヴェガスの巨大な威光はそれを証明している。自由恋愛のカリカチュア、レノ*6もそうだ。しかし、これらの都市は、単なる金の遊びの問題でしかない。われわれのこの最初の実験都市は、観光を容認し管理することでかなりの収入を得ることになるかもしれない。アヴァンギヤルドの次の活動と生産は、おのずとそこに集中されるだろう。数年の間に、この都市は全世界の知識人の首都となり、あらゆるところでそのようなものとして認められるであろう。

ジル・イヴァン

 レトリスト・インターナショナルは1953年10月、都市計画に関するジル・イヴァンのこの報告を採用した。それは、実験的アヴァンギャルドによって当時取られた新しい方向の決定的要因となったものである。ここに発表したテクストはLIのアルシーヴに保存され、その後、シチュアシオニスト・アルシーヴの文書番号103および108になった2つの連続した草稿から作成されたものであり、わずかな書式の違いを伴う。


*1:サンタンヌ パリ14区にある有名な精神病院の名

*2:フィリップ・ピネル(1745ー1826年) フランスの医者。ビセートル収容院、ラ・サルペトリエール収容院での精神病者の治療活動を通して、近代的精神医学を確立した。精神病者を鉄鎖から開放したとして、ラ・サルペトリエール正門広場にはデュラン作の彼の立像が据えられている。

*3:ハ里橋(パリカオ) 中国、北京近郊の村。太平天国の乱の折、イギリス・フランス連合軍が攻撃したことで有名。

*4:ジョルジオ・デ・キリコ(1888?ー1976年) ギリシャのテッサリア地方に生まれ、アテネの工芸研究所、ミュンヒェンの美術学校に学び、二ーチェの影響を受ける。1911年から数年パリに行き、アポリネールや、ピカソ、ブラックらキュビスムの画家に惹かれる。イタリアに帰国後、メタフィジカルな絵画を唱えるカルロ・カッラらとともに不安定な遠近法を用いた神秘的・幻想的絵画を描く。1925年、第1回シュルレアリスム展に参加し、シュルレアリストらに接近するが、1933年以降は、現代絵画を否定して、古典的絵画に回帰する

*5:アリアドネー ギリシャ神話で、ミノスの娘。怪物退治に行ったテセウスに糸を与えて、迷宮から脱出する道を教えた。

*6:レノ アメリカ合衆国ネヴァダ州の商業都市。結婚と離婚の手続きの迅速さを呼び物にしている。


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