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響きと怒り

訳者解題

 1950年代後半は、ここに触れられているように、世界各地で若者たちの反抗が相次ぎ、ジェームス・ディーン主演の『理由なき反抗』(1955年)やエルヴィス・プレスリー(54年デビュー)の世界的ヒットに見られるように、「反抗」の身振りがモードとまでなった時代だ。
 イギリスの「アングリー・ヤング・メン」は、1951年発表のL・A・ポールの自伝的小説『怒れる若者』に端を発するが、その後、1953年のジョン・ウェインの小説『急いで下りろ』、1956年のジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめて振り返れ』などによって、ブルジョワ社会の閉塞性に絶望的に反抗する労働者階級や中産階級の若者たちの姿を描き、一躍脚光を浴びた。合衆国でも、大衆消費社会の到来とともに、画一化された物質文化に背を向け、放浪とドラッグの生活に明け暮れ、一様にインドやチベットの精神文化や仏教に逃避する、「ビートニク」呼ばれるグループがカリフォルニアを中心に誕生していた。ジャック・ケルアックの小説『路上』(1957年)やアレン・ギンズバーグの詩『吠える』(56年)、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』(59年)は、いずれも、当時の若者たちに競って読まれ、60年代のヒッピーを予告する彼らの生活スタイルは多くの若者たちに真似された。
 こうした無軌道な反抗を気取る生活スタイルは、イギリスや合衆国より以前に、すでに、戦後すぐから50年代初めのパリのサン・ジェルマン・デ・プレの周辺に出現していたものであり、髪の毛を伸ばし、破れたズボンをはいた若者たちが、サルトルやカミュらの実存主義者が出入りするドゥー・マゴなどのカフェの周りにたむろしていた。ドゥボールらのレトリストは、こうした環境のなかで、通りへの落書きやスキャンダルの創出、都市の心理地理学的漂流といった活動を、集団で意識的に行い、混沌とした反抗の気分を状況の構築へと結び付けようとしたが、その運動スタイルの過激さは、サルトルのエピゴーネンとして反抗を気取る若者たちからは煙たがられたようである。例えば、当時の様子を伝えるエド・ファン・デル・エルスケンの写真集『サン・ジェルマン・デ・プレの恋』(1955年)には、こうした反抗的な若者のポートレイトが写されているが、その中の1つ「街でたむろする若者たち」(1953年)には若い男のカップルの一方のズボンに「シチュアシオニスト・インターナショナルを通すな」、「サドのための叫び」(これはドゥボールの映画のタイトル)などと落書きされている。こうした活動を経て生まれてきたシチュアシオニストにとってみれば、文学流派のひとつにすぎず、個人的反抗にすぎない「アングリー・ヤング・メン」や「ビート・ジェネレーション」はまったく時代遅れな反抗の身振りに見えたに違いない。




 怒れる若者たちとか、今日の若者の怒りとかが、よく話題になる。人々は気軽にその話題を口にする。なぜならば、スウェーデンの青少年の理由なき暴動から、文学運動として続く気配のあるイギリスの「アングリー・ヤング・メン」が作成した声明文に至るまで、一様に、根本的には無害な性格、恐れるに足らぬ脆弱さが、見て取れるからである。支配的な思想と生活様式の解体の時代、自然に対する圧倒的な勝利が日常生活の現実的可能性の拡大に結びつかず、逆に、ときに粗暴に、そのための条件に反する方向に働いている時代から生まれた、これら若者の激昂は、おおざっぱにいって、シュルレアリスム的心情に相通ずるものである。しかし、彼らの激昂には、シュルレアリスム的心情が持っていた、文化に働きかける点も、革命的な希望も、欠けている。したがって、諦めが、このようなアメリカやスカンジナヴィアや日本の若者の自然発生的な否定主義のバックグラウンド・ミュージックになっている。サン・ジェルマン・デ・プレ*1は、かつて戦後まもなく、すでにこのような行動(マスコミは誤って実存主義的と名付けた)の実験室であった。そのことによって、現在のフランスにおけるこの世代の知的代表者たち(フランソワーズ・サガン=ドルーエ*2、ロブ=グリエ*3、ヴァディム*4、あのおぞましいビュッフェ)が皆、諦めを絵に描いたようなものだということの説明がつく。
 この知的世代が、フランスの外で、より多くの攻撃性を現しているとすれば、その世代がそれについて持つ意識は、単なる馬鹿馬鹿しさと、非常に不十分な反乱に対する早まった満足との間に位置づけられる。神という観念が放つ腐った卵の臭いは、アメリカの「ビート・ジェネレーション」の神秘主義的な馬鹿者どもをすっぽり覆い込んでいるし、また、「アングリー・ヤング・メン」の声明にさえ、ないわけではない(コリン・ウィルソン*5を参照のこと)。「アングリー・ヤング・メン」は、一般的にいって、30年遅れて、イングランドがその間完全に彼らに隠してきた体制転覆的な精神風土を発見し、自分たちが共和政支持者であると宣言することによって、スキャンダルの最先端に立とうと考える。ケネス・タイナン*6は次のように書いている。「人々はいまだに王室、帝国、教会、大学、上流社会といったものを畏れ敬っているという滑稽な考えに基づいた芝居が上演され続けている」。この言葉(いま引用した文)は、「アングリー・ヤング・メン」のこのグループのありきたりに文学的な観点を暴露している。彼らは、単に、幾つかの社会慣習について意見を変えるに至ったにすぎないのであって、今世紀のどの前衛芸術派のうちにも認められる、文化活動全体の場の変化を理解していないのである。「アングリー・ヤングメン」は、文学の実践に、特別の価値、すなわち贖いの意味を認めるという点で、部分的に反動的でさえある。つまり、彼らは今日、ヨーロッパでは1920年頃糾弾されたある欺瞞の擁護者になっている。そしてその欺瞞の存続は、英国王室の存続よりも重大な反革命的影響力があるのである。
 これら全てのざわめき、いわば革命表現の擬音は、シュルレアリスムの意味と重要性に気づかないという共通点をもつ(シュルレアリスムのブルジョワ芸術的成功は、もちろん、それらを歪曲するものであったが)。実際、もしもうまくシュルレアリスムに代わりうる新しいものが何もないとしたら、シュルレアリスムの継続こそが最も首尾一貫した態度であろう。しかしながらまさしく、シュルレアリスムの根源的な要求を知っていてしかもその要求と不動の似非-成功との間の矛盾を乗り越えられないがゆえにシュルレアリスムに加わる若者たちは、シュルレアリスムが成立以来もともと内包していた反動的な方面に逃避している(魔法とか、歴史における前方とは別のところにあるかもしれない黄金時代の存在を信じるとか)。結局、人は、戦闘の後じつに長い間、相変わらずシュルレアリスムの凱旋門のもとにいることに満足してしまい、そしてそこに、依然として伝統通り、ちょうどジェラール・ルグラン*7が誇らしげに言うように(『シュルレアリスム・メーム』*8誌 第2号)、「シュルレアリスムの本当の炎を絶やさないことに頑固なまでにこだわる若い人々の核……」のままでとどまるだろう。
 1924年のシュルレアリスム*9より以上に解放をめざす運動──ブルトンはもしそのような運動が現れたらそれに参加することを約束した──は、容易に生まれうるものではない。というのも、その解放運動としての性格は、いまや、現代世界のより優れた物質的手段の掌握に依拠しているからである。しかし、1958年のシュルレアリストたちは、そのような運動に参加する能力を失っており、そのような運動に反対して闘う決意さえしている。それゆえ、文化における革命運動が、シュルレアリスムによって主張された精神の自由、風俗習慣=暮し方の具体的な自由を、より効果的に自らのものにする必要性は、少しも減っていないのである。
 われわれにとって、シュルレアリスムは、文化における革命的実験の端緒にすぎなかった。その実験は、実践的にも理論的にも、ほとんど即座に頓挫してしまった。さらに先に進む必要がある。なぜ人はもはやシュルレアリストになりえないのか。それは、常に「前衛」に対してなされる、シュルレアリスムのスキャンダルとは袂を分かてという警告に従うためではない(誰しも、われわれが不断の斬新さを取り入れるのを見たいとは思わない。それもそのはずだ。いったい、われわれにどんな新たな方向を提示できるというのか。逆に、ブルジョワジーは、われわれが選びたくなるような退行を、拍手喝采で迎えるつもりである)。人がシュルレアリストでないのは、退屈したくないからである。
 退屈は、廃れかけているシュルレアリスムと、情報に乏しい怒れる若者たちと、気楽な青少年の展望はないが理由なしとは言えない反乱とに、共通の現実である。シチュアシオニストは、今日の余暇が彼らに対して言い渡す判決を執行するであろう。



*1:サン・ジェルマン・デ・プレ パリ6区の地名。1950年代、この界隈のカフェは実存主義者や不良たちのたまり場として有名だった。

*2:フランソワーズ・サガン=ドルーエ フランスの小説家フランソワーズ・サガン(1935-)のこと。1954年にパリ大学在学中に発表した『悲しみよこんにちは』でデビュー。これはフランスで84万部、合衆国で130万部のベストセラーになり、東欧圏も含めて世界中で翻訳されて読まれた。1957年には、ハリウッドでオットー・プレミンジャー監督、ジーン・セバーグ主演によって映画化され好評を博した。ドルー工は、マスコミによって作られた作家サガンを、ヴィクトール・ユゴーが偏愛した女優ジュリエット・ドルー工になぞらえた言い方かもしれない。

*3:アラン・ロブ=グリエ(1922-) フランスの作家。1953年に発表した『消しゴム』によってヌーヴォー・ロマンの推進者となる。1961年にはアラン・レネの映画『去年、マリエンバートで』の脚本を書くが、これはシチュアシオニストからレネの映画の革新性を後退させたと激しく非難された。その後、映画作家として『不滅の女』(63年)などの作品を制作した。

*4:ロジェ・ヴァディム(1928-)フランスの映画監督。そのデビュー作『素直な悪女』(1956年、ブリジッド・バルドー主演)は、ステレオタイプの恋愛物語だったが、バルドーの小悪魔的魅力で興行的には大ヒットした。他に代表作『危険な関係』(59年)がある。ブリジッド・バルドーやジェーン・フォンダらと結婚したことでも有名。

*5:コリン・ウィルソン(1931-)イギリスの作家、批評家。1956年刊の『アウトサイダー』は「怒れる若者たち」を代弁するものとして話題を呼んだ。

*6:ケネス・タイナン(1927ー80年)イギリスの劇評家。

*7:ジエラール・ルグラン(1927-)戦後、シュルレアリスムに参加し、1950年代から60年代末まで、戦後のシュルレアリスムの最も積極酌な活動家として『クピュール』、『ビエフ』(1958一60年)などの雑誌の編集をする。ブルトンと共著で『魔術的芸術』(1957年)を著したことで有名。1963年以降、映画批評誌『ポジティフ』の発行にも深く関わっている。

*8:『シュルレアリスム・メーム』 1956年から59年まで発行されたシュルレアリストの雑誌。全5号。編集者はブルトンとシュステル。

*9:1924年のシュルレアリスム 1924年は、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』が発表され、『シュルレアリスム革命』誌が創刊、グルネル街15番地に「シュルレアリスム研究所」が開設された年で、この年を機に、ブルトンらは、ダダからシュルレアリスムヘと公式に移行した。


何を読むための自由? くだらないもの

訳者改題

 1956年のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判以降、東欧でも各国で政治の自由化に伴う文化・思想の自由化が現れた。ポーランドではポズナン暴動によって生まれたゴウムカ政権によって文化政策が緩和され、多くの新しい作家が作品を発表した。この記事に名前が出て来るマレク・フワスコもそうした1人で、他にも、ルポルタージュ小説で知られるノバコフスキや詩人のカルポビチ、風刺作家・戯曲作家のムロジェク、映画『尼僧ヨアンナ』の脚本で知られる作家・映画監督のコンビツキらがいる。ダダイストを自認した演出家カントルがクラクフで「新時代美術家グループ」を結成し、実験劇場「クリコ2」を創設したのもこの時期である。チェコスロヴァキアでの自由化は68年の「プラハの春」まで待たねばならないが、スロヴァキアのムニャチェコ、ベドナールら文学の領域で社会主義レアリズムのくびきを脱する試みが行われ、68年を準備するものとなっていった。
 東欧のこれらの地域では、1920年代から30年代に、表現主義やダダイスム、シュルレアリスムなどのアヴァンギャルド芸術が次々と生まれ、西ヨーロッパとは異なる独自の色彩を生み出していた。だが、56年以降の自由化の中では、こうした傾向を継続発展させる試みはごくわずかで、SF小説やスパイ小説が許容されたり、「意識の流れ」の手法を用いた小説が発表されたりといった程度だった。ジャンルや手法の自由化という点で、社会主義リアリズムの制約が緩んだにすぎず、シチュアシオニストが求めるような個々の芸術ジャンルの変革を超え、社会変革をも目指したアヴァンギャルドな文化運動に発展するには程遠かった。




 文学と芸術への逃避、昔のブルジョワ的観点に従って定義されたこれらの活動の重要性の過大評価は、ヨーロッパの労働者国家[=東欧共産圏諸国]において非常に広まっている考え方のようである。それらの国においては、世界の現実的変化の企ての警察的転用に対する反動として、失望した知識人たちは、結局、解体された西洋文化の亜流ないし繰返しに対して、無邪気な寛容さを示すに至っている。それは、議会民主制に関して彼らが再び見いだしている幻想と同種の幻想である。若いポーランド人作家マレク・フワスコ*1は、『レクスプレス』誌*2(1958年4月17日付)にインタビューされた際、彼が発した確かな意見によれば、ポーランドでは、生活は耐え難く、いかなる改善も不可能であるにもかかわらず、彼がポーランドに戻るつもりであることを、次のような唖然とする動機を持ち出して、説明している。「ポーランドは作家にとって常軌を逸した国です。その国で生活しそれを観察するために、あらゆる重大事態に耐えてみるだけの価値はあるでしょう。」
 西洋文化の終焉の最もくだらない面、つまり、もはや形式に関する解体の極限にはなく、純粋な中立性にたどりついた表現──例えば、サガン=ドルーエや、『ファーズ』誌*3の芸術的動機──が、チェコスロヴァキアやポーランドで遭遇している愚かな関心にもかかわらず、われわれは、ジダーノフ主義[=社会主義リアリズム理論〕の後退を惜しんだりはしない。われわれは、いまなお強力な社会主義リアリズム論に反対して、情報と創造の全面的自由を要求する必要を理解する。しかしながら、その自由は、いかなる場合にも、いま西欧で見いだされる「現代」文化への追随と混同されてはならない。その文化は、歴史的に、創造の正反対であり、一連の改竄の繰返しである。創造の自由を求めることは、環境のより優れた構築の必要を認めることである。労働者国家においてもここ西欧においても、本当の自由は同じものであり、また自由の敵も同一だろう。


*1:マレク・フワスコ(1934-69年) ポーランドの作家。

*2:『レクスプレス』誌  フランスの有名な大衆週刊誌。

*3:『ファーズ』誌 1954年から1975年まで、エドゥアール・ジャゲの編集によって出された商業的前衛美術雑誌。シュルレアリスム、コブラ、イマジニスモなどの動向をよく伝え、東側も含めて世界の各国で読まれた。


新しい操作技術の管理のための闘い

 「今後は、人間の反応を、前もって決めておいた方向に確実に引き起こすことができるようになる」と、両世界大戦間に革命派とファシストが共に集団に対して使用した感化方法に関して、セルジュ・チャコティーヌ*1は書いた(『政治プロパガンダによる群衆の凌辱』ガリマール社)。以来、科学の進歩はたゆむことがない。行動のメカニズムについての実験的研究は進展している。既存の装置の新しい利用法が見つかり、また、新しい装置が発明されている。かなり前から、見えない広告(映画の筋の展開の中に、それとは別個の24分の1秒の映像を何度も挿入する。その映像は網膜には感知されるが、識閾下にとどまる)とか、聞こえない広告(超低周波音による)とかの試みが行なわれている。1957年にカナダ国防省の諜報局は、退屈についての次のような実験的研究を実施した。被験者を、何も起こりえないように調整された環境(壁には何の飾りもなく、照明は遮断されることがなく、家具は心地よいソファだけ、臭いも音も温度変化も全くない小部屋)の中に隔離したのである。研究者たちは、被験者の行動の広範な障害を確認した。脳は、感覚刺激がないと、正常な働きに必要な標準的興奮状態に保たれることができないのである。それゆえ、研究者たちは、退屈な環境が人間の行動に及ぼす有害な影響を結論として引き出し、またそれによって、オートメーションの普及とともに必然的に増えていく単調労働の際に突発する不慮の事故を説明することができた。
 ラヨシュ・ルフなる人物の証言によれば事態はもっと先に進んでいる。それはフランスのマスコミに取り上げられ、書籍としては1958年初めに書店に出た。彼の物語は、多くの点で疑わしいけれども、いかなる空想科学的な細部の描写も含んでいない。それは、1956年にハンガリーの政治警察が彼に施したとされる「洗脳」について記述している。ルフは、部屋の中に閉じこめられて6週間を過ごしたと述べている。そこでは、いずれもよく知られている諸手段の統一的な使用によって、彼が自分の外界知覚および自分の人格を信じられなくなるようにすることがめざされた──そして結局それに成功した。それらの手段とは次のようなものである。まず、その密室の徹底的に異様なインテリア(透明な家具、曲がったベッド)。照明は、毎夜外から入る光線によってなされ、そして、その光線が身体に及ぼす影響に気をつけろという警告がわざと彼に与えられているのだが、彼はその光線を避けることができない。また、日常会話の際に、医師により精神分析の諸技法が利用される。あるいはまた、様々な麻薬。そして、それらの麻薬のおかげで成功した初歩的なまやかし(彼はその部屋から何週間も出ていないと信じるだけの全く正当な理由があるにもかかわらず、あるとき目覚めてみると、服は濡れていて靴は泥まみれであったりする)。さらに、支離滅裂またはエロチックな映画が上映され、それはその室内で時おり起きる別のシーンとごっちゃになる。あげくに、訪問者が彼に、まるで彼が冒険物語──ハンガリーにおけるレジスタンス運動のエピソード──の主人公であるかのように話しかけ、別の一連の映画がその冒険物語を彼に見せる(細かな経緯がそれらの映画の中と現実の会話の中で再現され、彼はついにはその行動に加わる満悦感を感じることになる)。
 われわれはそこに、かなり複雑な段階に達した環境構築の弾圧的な使用を見て取らなければならない。非実利的な科学研究の発見は全て、これまで、自由な芸術家からは無視され、すぐさま警察によって利用されてきた。見えない広告は米国でいくらかの不安をかき立てたが、初めに放映された2つの宣伝コピーは誰にとっても危険がないだろうと告げられて、皆が安心した。それらのコピーは次の2つの方向へ影響づけるだろう。「もっとゆっくり運転しなさい」──「教会に行きなさい」。不可侵にして不変の人格という、人間主義的、芸術的、法的な観念全体が、いまや破綻している。その観念が躊躇せずに去っていくのを、われわれは目の当たりにしている。しかし、われわれは、これから、新しい操作技術の使用法の実験と開発をめざした、自由な芸術家と警察の問のスプリント競走に立ち会い、参加することになる、ということを理解する必要がある。その競走において警察はすでにかなり先行している。しかしながら、わくわくするような解放環境が出現するか、それとも、旧来の圧制と恐怖の世界という環境が強化される──科学的に管理され、突破口もなくなる──かは、その競走の結果次第である。われわれはいま自由な芸術家と言ったけれども、20世紀に蓄積された諸手段を奪取するまでは、芸術の自由はありえない。それらの手段は、われわれにとって芸術生産の真の手段であり、それらの手段を持たない人々は、この時代の芸術家たりえないのである。もしそれら新しい手段の管理が全面酌に革命的でないならば、われわれは、文明化された蜜蜂社会の理想の方へと導かれていきかねない。自然の支配は、革命的であるか、それとも過去の勢力の絶対的な武器になるか、いずれかであろう。シチュアシオニストは、忘却の必要性に奉仕する立場に立つだろう。シチュアシオニストにとって何かを期待できる唯一の勢力とは、理論的に言って過去を持たず常に全てを再発明せざるをえないプロレタリアート、つまり、かつてマルクスがプロレタリアートは「革命的であるか、それとも何ものでもないかである」と述べたが、まさにそのプロレタリアートである。そのようなプロレタリアートは現代にあるのか否か。その問題は、われわれの論題、すなわち、プロレタリアートは芸術を実現しなければならない、という論題にとって重大である。


*1:セルジュ・チャコティーヌ 不詳。『政治プロパガンダによる群衆の凌辱』は1952年刊。

映画とともに、映画に反して

訳者解題

 ここに主張されているような、「状況の構築」のための映画の積極的利用、またそのための実験映画への関心は、シチュアシオニストの前身であるコブラとレトリスト・インターナショナルの時代からすでに見られたものである。
 コブラは、1949年6月から7月にかけて、ベルギーで、ドトルモンが中心になって「国際実験映画フェスティヴァル」を開催し、1951年10月の、リエージュでの「第2回実験芸術家インターナショナル展」でも、ジャン・レーヌが組織して「抽象映画フェスティヴァル」を開催している。これらの映画フェスティヴァルでは、ハンス・リヒターやマン・レイなどのダダイストやシュルレアリストの映画だけでなく、フィルムに直接イメージを彫り込むカナダの実験映画作家ノーマン・マクラーレンの映画なども出品され、60年代のアンダーグラウンド・シネマをはるかに先取りしていた。また、リエージュのフェスティヴァルのために、コブラは自ら、『ペルセフォン』というタイトルの映画も作っている。これには、後にフランスのヌーヴェル・ヴァーグの後見人となるシネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワが協力し、ベルギーのコブラのメンバーが総出演している。ゼウスと大地の女神ディメテルの娘ペルセフォネをもじったタイトルのこの映画は、ドトルモンによると電話(テレフォン)を主題としたもので、人(ペルソンヌ)が喋るとその声が違って聞こえるという物語になっていたらしい。ベルギーのコブラのメンバーはみな、ガスマスクをかぶって出演した。
 これらの活動を中心的に行っていたベルギーのドトルモンやレーヌは、シチュアシオニスト・インターナショナルには参加しなかったため、SIの映画理論のもとになっているのはレトリストの映画である。レトリストはドゥボールらのレトリスト・インターナショナルにしても、それ以前のイズーのレトリスムにしても、映画への関心は並々ならぬものがあり、映像と文字・言葉・音を総合的に実験できる映画を実際に数多く作った。カンヌ映画祭で「アヴァンギャルド観客賞」などを獲ったイズーの『涎と永遠についての概論』(1951年)、ジル・ヴォルマンのシネマトクローヌ『アンチコンセプト』(51年)、ドゥボールの反映画『サドのための叫び』(52年)など、レトリストの映画は、何よりも、音をイメージの随伴物にせず、互いに独立したものとして扱い、そのために、フィルム上のイメーシに優先的な価値を与えず、シークエンスの不連続な接続や断絶の多用、既存の映画フィルムの使用、フィルムそのものへの直接の切り込み、といった傾向を持つことにおいて共通していた。これらは実験的というよりもむしろ、「反映画」と形容すべきものである。それは、第7芸術として多くの可能性をはらんでいた映画を、物語映画という固定したスタイルにおとしめ、スペクタクルとして受動的な観客に消費させる商業映画を解体しようとするものであった。またそれは、彼らが高く評価していたロシア革命当初にマヤコフスキーとジガ・ヴェルトフが行ったキノ・プラウダの試みを継承するものでもあった。ドゥボールは、レトリストの映画雑誌『イオン』第1号(1952年4月)の「未来の映画すべてへの前提原理(プロレゴメナ)」の中で自らの映画について次のように書いている。
 「写真の切り貼りと文字の使用(レトリスム)(与えられた要素としての)とは、ここでは、反逆の表現そのものと見なされる。(……)
 ナレーションは、ところどころ削除された文章──そこでは言葉を削除することによって弾劾されているのは反動的勢力だ(『理論的散文の破壊のためのアピール』を参照せよ)──と、より完全な解体の萌芽である1文字ずつ綴られた言葉によって、疑問にさらされる。
 この破壊は、映像とそれに随伴する音の重ね合わせによってなされる。すなわち、文章は視覚的にも音響的にもずたずたにされ、そこで写真映像は言語表現の中に乱入するのである。声と文字による対話は、その文章がスクリーン上に書き込まれるとともに、サウンド・トラックの上でも続き、次いで互いに応え合う。
 結局のところ、私は、2つの無意味(完全に意味のない映像と言葉)の関係、すなわち叫びを乗り越える関係によって、『支離滅裂な映画』の死に至りついたのである。
だがこれはすべて、すでに終わった時代、私にはもう何の関心もない時代に属するものである。(……)未来の芸術は状況を転覆するものとなるだろう。さもなくば無であるだろう。




 映画は現代社会の中心芸術である。映画の発展が、いろいろな新しい機械技術のたゆまぬ集積運動のうちに探求されているという意味においても、その通りである。それゆえ、映画は、逸話表現や形式表現としてのみならず、その物質的下部構造においても、いろいろな発明が無秩序に併置されている(有機的に組み合わされているのではなく、単に付け加わっている)時代を最もよく表しているものである。ワイド・スクリーン、ステレオ音響の登場、立体映像の試みの後に、米国は、「サーカラマ*1」という方式をブリュッセルの博覧会に出展した。『ル・モンド』紙4月17日付が報じているように、その方式によれば、「観客は、スペクタクルの真っただ中にいて、スペクタクルを生きている。というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから。車内にいくつもの撮影カメラを搭載した自動車がサンフランシスコの中国人街に飛び込むと、観客は、車の乗客のとっさの反応と興奮を味わえる」。他方、最新の噴霧スプレーの応用によって、においのする映画も実験されており、有無を言わせぬ迫真の効果が期待される。
 このように、映画は、現在可能な統一的芸術活動の受動的代用物という様相を呈している。映画は、いまだかつてない力を、参加なきスペクタクルという古くさい反動勢力に与える。くだらないスペクタクルの真っただ中に自由もなくいる「というのも、スペクタクルの一部になりきっているのだから」ということを理由に挙げて、観客は我々の知っている〔現実の〕世界に生きている、などと忌憚なく述べられている。しかし、生は、そんなものではないし、観客はいまだに世界に属していない。とはいえ、その世界を構築しようと望む人々は、映画において、状況の反-構築(奴隷の環境の構築、大聖堂の継承)を構成しようとする傾向と闘いつつも、同時に、それ自体において有効な新しい技術的応用(ステレオ音響、におい)の意義も認識しなければならない。
 芸術の現代的徴候の出現が映画において遅れている(例えば、形式に関して破壊的な幾つかの映画作品は、美術や文学においては2,30年前から受け入れられてきたことに相通ずるものなのに、まだシネ・クラブ*2においてさえ拒絶されている)原因はといえば、あからさまに経済的な軛や理想主義の粉飾をこらした軛(道徳的検閲)だけではない。現代社会における映画芸術の実際的重要性もまた、その原因である。映画のこの重要性は、映画が実行しうる優れた感化手段に依拠しており、それゆえ必然的に、支配階級による映画の管理強化を招くことになる。それゆえ、映画における真に実験的な部門を奪取するために闘わなければならない。
 われわれには、映画の利用法として、次の2つが考えられる。まず、プレ・シチュアシオニスト的過渡期における一種のプロパガンダとしての利用。次に、実現された状況を構成する要素としての直接的な利用。
 このように、万人の生における映画の今日的重要性の点で、また、映画に革新の道を閉ざしている諸限界の点で、しかしまた、映画が秘める革新の自由が持っているに違いない広大な影響力の点で、映画は、建築に比することができる。環境の心理学的機能に基づいて粗織された建築を見つけ出すことで、絶対酌機能主義の掃き溜めの中に隠された真珠を取り出せるのと同じように、商業映画の進歩的な側面を利用しなければならない。


*1:サーカラマ 原語 Circarama。不詳だが、全周(360度)映画のことか。

*2:シネ・クラプ 古典・前衛作品中心の映画上映会。通例、討論会や講演を伴う。



遊びのシチュアシオニスト的定義試論

 遊びという概念を取り巻く語彙的混乱と実際的混乱を免れるためには、遊びという概念をその運動の中で考察しなければならない。遊びのもともとの社会的機能は、2世紀にわたってたゆまぬ生産の理想化により否定され続けた後では、もはや退化した遺物という様相を呈しているのみであり、しかもそれに、そのような生産を現在のように組織するための諸要件に直接に起因する、より劣った諸形態が入り交じっている。しかし同時に、遊びの進歩的な諸傾向も、生産力の発展自体との関係において現れている。
 遊びの肯定の新段階は、競争の要素いっさいの消滅を特色とするべきだと思われる。現在まで遊戯活動とほとんど不可分である勝ち負けの問題は、財の占有をめぐる諸個人の間の緊張を表す他の全ての形態に結びついているように見える。遊びにおいて勝つことが重要だという感情は、実利的な満足感であれ、あるいはたいていの場合のように非実利的な満足感であれ、悪しき社会の悪しき産物である。そのような感情は、当然、あらゆる保守勢力に利用される。保守勢力は、自らが押しつけている単調でむごい生活条件を隠蔽するために、そのような感情を利用するのである。競争=試合形式のスポーツは、まさに英国においてマニュファクチャーの飛躍的発展とともに近代的な形のもとに幅をきかせてきたが、そのようなスポーツによって逸らされる[=転用される]あらゆる要求のことを思い浮かべるだけで十分だろう。群衆は自分をプロの選手やチームと同一視し、選手やチームは、群衆に代わって人生を享受する映画スターや決定を下す政治家と同じ神話的役割を担っているわけであるが、ただ単にそれだけではない。さらに、それらの試合の相次ぐ得点結果が、試合に注目する人々をわくわくさせるのである。遊び=ゲームへの直接の参加は、たとえそれがある程度の知的訓練を要するゲームの中から選ばれたものであっても、いざ、決められた規則の枠内で、競争それ自体のために競争=試合を受けて立つとなると、これまた、あまり面白いものではない。遊びの概念が含まれる現代的侮蔑の発露として、タルタコウェルの『チェスのバイブル』の冒頭の思い上がった確言ほどのものはない。いわく、「チェス・ゲームは、世界中で、遊びの王様として認められています」。
 競争という要素は、真に集団的な遊戯観のために、消滅するべきである。すなわち、精選された遊戯環境の共同創造、という遊戯観である。乗り越えるべき主要な区別とは、遊びと日常生活の間に立てられている区別、つまり、遊びを孤立した一時的な例外とみなすことである。ヨハン・ホイジンガ*1は次のように書いている。「遊びは、世界の不完全さと生活の混乱の中に、限られた一時的な完全さを実現する」。日常生活は、これまで生活の糧の問題によって条件づけられてきたが、合理的に支配されうるだろう──その可能性は、現代の全ての紛争の中心にある。そして、遊びは、限られた遊戯時間・空間との関係を根本的に断ち切って、生活全体を覆い尽くすべきである。完全さは、少なくともそれが生活に対立する停滞した構築を意味する限りにおいては、その目的になりえない。しかし、生活の美しき混乱を完全さの域にまで押し進めるようとすることはできる。かつてエウヘニオ・ドールス*2は、バロックを、最終的に限定して、「歴史の欠如」と形容したが、バロックおよび組織されたバロックの彼方は、余暇の来たるべき天下のうちに大きな位置を占めるであろう。
 このような歴史的展望において、遊び──遊びの新機軸の永続的な実験──は、けっして、倫理学の外、生の意味の問題の外に現れることはない。遊びに認めうる唯一の成功とは、遊びの環境の直接の成功であり、また、遊びの力の恒常的な増大である。遊びは、現在、凋落期の残滓と共存しているせいで、競争的な面を完全に免れることはできないが、たとえそうであるにしても、遊びの目的は、少なくとも、じかに生きるために好都合な条件をもたらすことでなければならない。その意味において、遊びは、さらに闘争であり、表現でもある。すなわち、欲望に相応する生活のための闘争であり、そのような生活の具体的な表現なのである。遊びは、仕事の過酷な現実に比べて副次的な存在であることから、仮構(フィクション)であると感じられている。しかしながら、シチュアシオニストの仕事は、まさに、来たるべき遊びの可能性を準備することである。それゆえ、人々は、シチュアシオニスト・インターナショナルに壮大な遊び=大ばくちの側面の幾つかを見てとる限りにおいては、シチュアシオニスト・インターナショナルを無視したくなるかもしれない。「しかしながら」とホイジンガは言う、「既に述べたように、『ただ遊ぶだけ』という観念は、この上なく厳粛にその『ただ遊ぶだけ』を実行する可能性を、まったく排除しないのである……」

   

*1:ヨハン・ホイジンガ(1872一1945年) オランダの文化史家。代表的な著作に『中世の秋』(1919年)、『ホモ・ルーデンス』(1938年)がある。後者は、1950年代初頭にフランス語に訳されている。

*2:エウヘニオ・ドールス(1882一1954年) スペインの哲学者、美術批評家。著書に『バロック論』など。なお、日本での姓の表記としては、ドールスの他に、オルス、デオルスなどとも記される。


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