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1

 土浦桜町、典型的な地方都市の歓楽街のすぐ横には川が流れていて土手がある。ネオンの明かりとは対照的に土手には外灯もなく、それぞれの店の真横にあたる場所に風俗嬢達の通勤用の車が停めてあるだけで、めったに人も通らない。また、小さな橋が一つ架かっているきりで、車が通るような大きな橋も近くにはない。とても静かだ。
 僕はその小さな橋の袂に腰掛け、口にタバコを咥えて、誰もいない対岸とその先に光る街の明かりを、見るともなしに眺めていた。もう四月なのに風が肌を刺して、驚くほどに寒い。この寒さのせいか、歓楽街にはほとんど人影もなくて、原色のネオンだけがギラついていた。
 午前中にバイト代が振り込まれて、懐が暖かくなると急に人肌が恋しくなって、いそいそと車に乗り込んだのであった。しかしいざやって来てみると、人のいない歓楽街は意気消沈していた。暇そうなキャッチのお兄さん達が世間話をしている。そんな閑散とした様子のせいか、僕もなにか躊躇する気持ちになって、近づくと(カモが来たとばかりに)熱心に声をかけてくるキャッチのお兄さん方から逃げる様にして、通りを抜けた。そうやって歩くうちに歓楽街の一角を外れてしまい、土手まで辿り着いたのである。
 躊躇してしまったのは、そういうお店に行った経験がなかったから怖気づいたという訳ではない。学生の身分であるから、そう頻繁に通うということは出来ないけれども、今日の様にバイト代が入った折などにはよく遊んだりもするのである。
 では何故今日に限って、店の前まで来ておきながら急に躊躇する気持ちが生じたのだろうか。それは、事が終って店を出た時の後悔が思い出されたからだろう。すっかり軽くなった財布もさることながら、スッキリと軽くなった腰まわりとは反対に、どうも気分の方はスッキリとはいかないのである。モヤモヤとしたやるせない感がちっとも晴れてはいないのである。いやそれどころか、来る前よりもさらに酷くなってしまっている様な有様である。ありきたりではあるけれども、やはり虚しいのだ。
「あーあ、何やってんだろうな、俺。」
そうぼやいて、もう二度と行くまいと心底から思うのである。
 しかし不思議なことに、金が入るとそんな事はすっかりと忘れてしまって、気づくとまたお店の暖簾をくぐってしまっているのである。僕は反省を糧にして成長するという事がまったくもってできないのである。
 ところが今日に限ってはどうした事だろうか、お店に入ろうと足を止める度にそんなアホウな自分の姿が思われて、惨めになってしまって踏み止まったのである。
「どうしたもんかなぁ。」
ため息と煙まじりにそうぼやいてみる。踏み止まったものの、ここまで来てしまっては僕の下半身の方は収まりがつかないのである。待ちきれずにやって来たものだから時刻はまだ早く、このまま六畳一間のアパートに帰ってみても、一人暮らし、帰りを待っていてくれる彼女はいない、それどころか一緒に酒を酌み交わす気心の知れた友人もいない。何もすることがない。一回盛り上がってしまった気分を鎮めるのはなかなか大変だろうし、もし鎮まったとしても、その後にやってくる寂しさが身に染みて、さぞかし辛いだろう。
 そもそも、なんで僕はそういうお店に行ってもスッキリとできないんだろうか、そう考えるに至る。性欲、精液が溜まっていて、それをピュッピュと解消したいという需要。そして、それに応えるべく供給があって、サービスと交換に料金をいただく。割り切り、ビジネス。その関係は単純で完結していて、その何処にもモヤモヤが生じるような隙間は存在しないはずではないか。
 ただ僕に限って言えば、その需要の部分が違っているんだ。僕はピュッピュではなくて、この寄る辺なさの解消を欲してしまっている。しかし、それは供給されるサービスとは質を異にする欲求であって、お門違いというものである。つまり、それは解消されるはずもなく、一方的な僕の勘違いであって、モヤモヤが生じてしまうのは当然の結果であろう。普通に考えるならば。
 しかし、今言ったこのズレ、そこから生じるこのモヤモヤ感、それこそがこの関係、商売を維持しているのではないだろうか。この関係は、客が感じるモヤモヤに依存している。そう思えてならない。モヤモヤは客をまた店に呼び戻すのだから。そして、お店で働く女の子達もそのことに気づいているのだろう。ほんの一瞬、満たされない心を埋めてあげる。客は喜ぶ。でもまたすぐに現実に引き戻される。寂しい。気づけばまたお店の前に立っている。その繰り返し。
 今述べたのは客側の心理であるが、では女の子達は何を思って身を売るのだろうか。それは分からないし、考えても意味の無い事なのかもしれない。でも僕はそれを知りたいと思う。自分がもし女だったら、出来ないと思う。毎日毎日、見ず知らずの男に舐めまわされる、想像しただけでぞっとする。だからこそ、彼女たちがそこに至るまでの心理を、知りたくてたまらないのである。ただそれを知りたいが為に、僕は娼婦を買うのかもしれない。

2

 「どうしたの、浮かない顔して。」
横を向くと、隣に綺麗なお姉さんが座っている。すっかり考え事に気をとられて、気付かなかった。
 濃いめの化粧にきつい香水の匂いが鼻を突く。服装は丈の短い黒のスカート、真っ赤な上着は胸元が大きく開いて、露になっている形の良い大きめのおっぱいはとてもセクシーだ。黒くて長い髪はクルクルと巻かれている。一目でこの街の住人であることが窺い知れる。僕より幾つ年上だろうか。
「いやあ、遊びに来たんですけど、なんか踏ん切りがつかなくて。」
「あら、ビビッちゃったの?もしかして童貞君?」
お姉さんはそう言いながら、バックからバージニアスリムの箱を取り出し、一本取り出して火を付けた。
「はは、しょっちゅう来るんですけど。なんか今日は変なんですよ。終わって家に帰った後の事とか考えちゃって。」
「そう、ウブなのね、坊やは。」
お姉さんはそう言って微笑んだ。その瞳は艶っぽくて、とてもカッコよかった。ドキドキとしてしまう。
「まったく、どうしちゃったんだろ、俺。」
「ウフフ、可愛いわね。」
「そんなこと言われると恥ずかしいっすよ、へへ。」
「アハハ」
照れ隠しにポリポリ頭を掻いた僕を見て、お姉さんがカラカラと笑った。セクシーとサッパリは共存できるものらしい。
「年は幾つ?」
「二十二です。」
「あら、私より随分若いのね。ここに来るのにはちょっと早すぎるんじゃない?」
「そうなんですけど、全然モテなくて。」
「ふーん、カワイイ顔してるのに不思議ね。落ち込んじゃ駄目よ。」
「俺も不思議でしょうがないんですけどね。まあ、何でモテないか分かったらとっくにモテてますよね。」
「それもそうね、納得。」
 お姉さんは本当に納得、という顔を作ってみせて、二本目のタバコを取り出して吸い始めた。
「お姉さんは、どうしたんですか?」
お勤めにきたのであろうから、こんな所で僕と油を売っていて大丈夫なのだろうか、と気になったのである。
「ん、アタシ?働いてんのよ、ここら辺で。」
「へえ、何処ですか?」
「通りに入ってすぐの○○。レミって言うの、よろしくね。」
「レミさん、素敵な名前ですね。僕はタクヤって言うんです。」
「タクヤ君、ね。覚えたわ。」
お互いに名乗り終えると、もう特に話すこともなくなってしまった。改めて僕は、レミさんと名乗るその女性を観察してみる。レミさんはタバコを吸うのも忘れてしまったみたいに、ぼーっと遠くを眺めている。すっかり短くなったタバコの先に灰が長くなってくっついている。吸い口には真っ赤な口紅の跡。風が吹いて、灰は飛ばされ、タバコの火が明るく光って、レミさんの黒い巻き髪がなびく。
 なんで、レミさんは僕に話しかけたのだろうか?お互い見ず知らず、特に話すこともないだろう。現にこうして、名乗り終えてしまって、もう何も話すことが無い。
「お店、行かなくていいんですか?」
沈黙をやぶった僕の言葉に、レミさんははっとした様に我に帰り、僕を見て笑う。止まっていた彼女の時計がまた動き出したみたいに、さっきまでの快活なお姉さんの表情に戻っていく。
「いいのいいの。辞めちゃおうかと思って。」
そう言ってまた笑う。でもその笑顔はちょっと弱々しい。
急に、胸が締め付けられた。会ったばかりで、まだ何を話したわけでもない。それなのに、何でだろう。不思議なことだ。
「やっぱり、つらいですか?」
「うーん、何て言うのかな。人を相手にする仕事でしょ。しかも、身体を触れ合わせて。そうするとね、相手をしてるその人の色々なものが入ってくるの、私の中に。その人のことが分かっちゃうって言うか、見え過ぎちゃうんだ。でね、それってやっぱり、ずっとやってると結構しんどいんだよね。」
「どんなことが見えちゃうんですか、差し支えなければ。」
「別に具体的なものじゃないの、上手く言えないけど。ただね、その人が奥深くに抱えてるもの、おそらくは誰にも見られたくないもの、それが私の中に入ってくる。そういうものがありありと見えちゃうのって、恐い事だったりするんだよ。」
 僕はゾッとしてしまって、言葉が出ない。何と答えればいいんだろう。毎日、何人もの見知らぬ男達の人間そのものが自分の中に入ってくる、想像もつかないことだけれども、少し考えただけで身の毛がよだつ。
「なるほど・・・、ちょっと想像しただけでゾッとしちゃいました。」
「ゾッと、か。あなた、なかなか正直にものを言う人ね。」
「あれ、僕何かおかしな事言っちゃいました?」
「別に、変じゃないけど。こういう時って同情したり慰めたりする人が多いから。」
「だって、僕はレミさんの事を何も知りませんから。そんな僕が何か言える筋合いじゃないと思ちゃうんです。」
「筋合いって、また面白い言い方するのね。」
そう言って噴出す。レミさんには僕の言い方の一々が可笑しく思えるようだ。でも彼女はその可笑しさを前向きに捉えてくれている、そう思えて、僕も嬉しくなる。
「その時々に適切な言葉を選ぶのって、僕にはとても難しい事に思えるんですよね。どの言葉も、拾い上げたその瞬間に自分の言いたかった事ではなくなっちゃうような気がして、違和感を感じるんです。」
僕の感じる違和感、モヤモヤ。それを話したところで、いつも皆困ったような顔をするだけだった。「ナニヲイッテイルンダ、コイツ。」彼らの顔にはそう書いてあるように思われた。そしていつも僕は申し訳ないような、情けないような、苛立たしいような、そんな色々な気持ちがごっちゃになって、胸の内を打ち明けたことを後悔するのであった。
 だから、思うことを素直に口にした事に、自分でも少し驚いた。恐れる気持ちでレミさんを見やると、彼女は僕を見ている。その眼は何かを考えている。僕の話したことを、その意味することを考えてくれている、そう受け取れた。そして、それはまた僕にとっての驚きだった。
「きっと言葉に真摯なんだね、君は。」
レミさんはやっと探し出したと言う風に、大切そうに言った。そう言える彼女こそ、言葉に真摯なのだろう。彼女の反応の仕方に興味が湧いてくる。
「レミさんも、面白いですね。」
「そうでしょ。一応、お話のプロでもあるんだから。」
レミさんの笑みがイタズラの気を帯びる。秘密を共有した者に感じる連帯感のような、そんな親近感をレミさんに感じる。一つ言葉が通じ合えば、後の多くは言葉を必要としない。
「ねえ、これから私の家に来ない?これも何かの縁ってことで。」
「もっとよく知るために?」
僕は含みを持たせて言う。
「そう、そのために。」
レミさんも含みに応える。
「いいですね。」
「じゃ、決まりね」
 レミさんはそう言うと、すたすたと土手を降りて何台か車の停めてある方に歩き出していってしまったので、僕は慌てて後を追った。

3

 レミさんの黒塗りの外車に乗せられて、土手を下りて川を渡る。レミさんの家は対岸の住宅街のマンションの一室だった。敷地内の駐車場にはほとんど車が止まっていなかったが、ポツリポツリと停まっている車はどれも、レミさんのそれと同じように勤め人が一生かかっても買えそうにない様な高級車ばかりだ。ここは対岸の歓楽街の人間が住むマンションなのかもしれない。
 オートロックのエントランスを抜けて、エレベータで5階まで上がる。前を歩くレミさんは501号室のドアの前で立ち止まる。
「ここ。」
そう言うとレミさんはバックの中をまさぐって、テンプルキーを取り出してドアを開ける。
「どうぞ。」
 招き入れられて、中に入る。ワンルームの間取りの部屋の中は、思っていたよりも簡素なものに感じられた。まず物が少ない。黒のシングルベッドにテーブル、クローゼット、それと小さな本棚に化粧台、一通りの家具以外にはほとんど何も置かれていない。レミさんは僕に座布団を渡してくれて、自分はベッドに腰掛ける。
「ずいぶんさっぱりとしてますね。」
「そうかしら、どんなの想像してたの?」
「なんかこう、もっとゴテっとしてるのかなって。」
「ふーん。イメージってやつね。派手なのは身なりだけ。私の商売道具はこの身体一つだけだから。部屋に余計な物があるのって嫌いなのよね。」
「なるほど、そんなもんなんですかね。」
やっぱり、さっぱりした人なんだな、と思う。
「家にいるときは、リラックスしたいから。部屋には本当に気に入った物しか置かないの。部屋にはほとんど人を入れないし。だからそう、あなたは珍しいお客さんね。」
「はあ。」
「これも意外?」
「まあ、そうですね。」
そう答えながら、この人は一人で部屋にいる時には何をしているんだろう、何を考えるんだろう、と気になった。
「タクヤ君の部屋は、どんな?」
「僕ですか。僕の部屋は、汚いですね。散らかってます、気にしないから。自分以外誰も来ませんしね。でも、僕も飾りとか余計な物はないですかね。自分のための場所というか、散らかっているけど、その方が落ち着くんです。」
僕は一人暮らしの男の部屋が綺麗であることの方が不思議に思う。僕の部屋は入ると変な臭いがする程だけれども、なんだかその臭いまでが自分の為だけの空間である事の「しるし」のような気がして、落ち着くのだ。他者の存在を排した、完全に個人的な空間、自分という領域の一部。そんな事が伝えたかったのだけれども、上手く伝わっただろうか、と不安になる。僕にとってこの種の不安は今回に限った事ではなく、他人に何か自分に関することを説明する時には常に付きまとう。
「らしいわね。」
レミさんは僕の話を聞きながらタバコに火をつけ、煙を吐き出してから、一言そう言って、テーブルに置かれた灰皿に灰を落とす。
「らしい、って?」
問い返す僕に微笑むレミさん。その表情は僕を誘い込むような色がある。
「あなたがどんな人間なのか、だいぶ分かってきたってこと。職業柄、ぱっと一目見た瞬間に、その人がどんな人かって大体分かっちゃうんだけど、あなたの話し方を見てたら、やっぱり思った通りだな、と思ったの。」
「どんな風に、思った通りだったんですか?」
「うん、やっぱりこれじゃモテないなって。」
「え、褒めてくれるんじゃないんですか?」
いささか落胆した僕をみて喜ぶレミさん。
「まあ、最後まで聞きなって。なんでモテないか、教えてあげるから。君はね、他人からしたら危険なのよ。常に相手の根っこを捕まえようとするから、たとえそれが相手にとって都合の悪いものであっても。きっと、君と話してると相手は不安になるんだと思う。自分でも認めたくないような、そんな自分自身が掘り起こされちゃいそうな気がするから、みんな身を守るの。君は知りたがりで、恐い物も、痛い事も好きだけど、君が掘り出そうとしている物はちょっと他の人には刺激が強すぎるのよ。」
 レミさんが描いた僕の姿に、ただ驚くしかなかった。彼女の言った事、それは僕が僕自身に対して日々抱えている葛藤の種そのものであった。でもそれは他人に対してと言うよりは、自分の内面での葛藤であった。できれば自分の弱みから眼を逸らせてしまいたいと思う自分、でもそれに囚われて傷口を広げずにはいられない自分もいる、二つの自分の間での鬩ぎ合い。レミさんの言葉は、そんな僕の内部の一側面を正確に捉えていた。
 人は誰かに自分のコンプレックスを捕まれた時、その人に恋をするんだと思う。その人の虜にされるんだと思う。レミさんの人を見抜く眼の鋭さに、僕はただ脱帽するしかなかった。
「さすがですね。」
「ね、外れてないでしょう。」
「牧師かカウンセラーとしても十分通用しそうですね。」
「あら、それは駄目ね。私は人の泣き所は分かっちゃうんだけど、それを治したり導いたりしよう、っていう気は毛頭無いんだもの。傷なんて、一生引きずって生きればいいのよ。でね、その途中でどうしようもなくボロボロになっちゃった時、その時に一時間だけ、まやかしの街で優しく抱きしめてあげる、それが私の仕事なの。」
 真っ裸にされたうえに、レミさんの自負と誇り、それを見せ付けられて、それを目の前にしては何も言葉が出てこなかった。伝えたい事は溢れそうな程に沢山あって、この人の事をもっと知りたい、そんな気持ちで一杯なのに。喉元で突っ掛かって、出てこない。きっとこんなもどかしさの事を、「優美だ」って言うんだろう。ただ精一杯、僕の気持ちが伝わって欲しくて、はにかみながらレミさんを見つめた。でもたぶん、こんな気持ちも、レミさんには手に取るように分かってしまうのかもしれない。レミさんは、こんな時の為に用意された様な、そんな優しい表情を作って、
「こんな時に黙っちゃう所、いいと思うよ。」
そう言う。止め処なく感情が湧き上がってくる。
「どうして、今の仕事を始めたんですか?」
搾り出した言葉。
「知りたい、私の事?」
「今、丸裸にされて、あなたの事をとても知りたいと思いました。」
「そう・・・、いいわ。じゃあ、教えてあげる。」
そう言ってから、レミさんはゆっくりとタバコを取り出し、火をつけ、長い時間をかけて吸い込み、吐き出す。煙が沈黙の中を漂う。暫くの間をおいて、そして話し始めた。

4

 「レイプされたの。」
「・・・。」
「親父に。」
「・・・。」
 静けさの中に、ポツリと言葉が置かれた。それから、レミさんは途切れながらも言葉を続けた。
「一六の時にね。それから一年間、家を飛び出すまでずっと、私は実の父親に犯され続けたの。毎晩毎晩。」
 それきりまた、長い間があく。
 そして、レミさんはタバコをもみ消すと、今度は淡々と、しかし途切れることなく語りだした。
「飲んだくれでね、ろくでもない奴だった。飲んでは怒鳴り散らして、暴れまわって、母さんと私を殴りつけた。
 私が一六の時、母さんは耐えかねて若い男と家を出てった。私は置いていかれて、親父と取り残された。
 母さんがいなくなったその晩、親父は逃げられたショックでいつも以上に荒れた。家中の物に当り散らして、私は顔の形が変わるくらいまで殴られた。
 でね、疲れ果てた親父は突然黙り込んで、それから大声出して泣き出したの。私は殴られすぎて、頭がボーっとしてて、ただ床に座り込んでそれを眺めてた。
 どれくらいの間泣いてたのか分からないけど、気づくと親父は私の前に立ってて、泣き腫らした顔で私を見てた。その後、私の事抱きしめて、言ったの。「ごめんな。ごめんな。」って。「お前がいなくなったら、俺もう一人ぼっちになっちゃうよ。そしたらとてもじゃないけど、生きていけないよ。」って。アイツ、泣きながらそんな言葉を繰り返して、私の服を脱がせていった。で、私の事を犯したの。」
 話の途中から、レミさんは泣きだしていた。嗚咽しながらそこまで言い終わると、ベッドの脇においてあったティッシュをとって鼻をかんだ。そしてまた続ける。
「私、何も考えられなかった、恐くて。
 母さんに置いて行かれて、こんな親父と二人、家に取り残されて、親父に犯されてる。明日も、明後日も、ずっとこのままなんだ。今日と何も変わる事もなく、ずっとこれが続くんだ。そう思うと、もう何も思えなかった、悔しいとか、悲しいとか。泣く事も出来ないで、ただ真っ直ぐに天井を眺めてた。
 アイツがイッちゃって、私の上でぐぅぐぅ鼾かいて寝ちゃってからも、ずっと天井を見つめてた。
 しばらく経ってから、そっと起き上がって風呂場に行って、身体を洗い流したの。アソコからドロッと白いのが流れ落ちて、それ見て初めてぞっとした。急に悔しくなって、情けなくなって、涙が止まらなくなった。殺してやりたい、そう思った。でも結局、最後まで出来やしなかった。
 それから毎晩、私は親父に犯され続けた。その度に身体を洗い流し続けた。そんなのが一年近く続いたの。その間中ずっと、私は何も考えず、人形みたいに、ただぼーっとして暮らした。何か考えたら壊れちゃうって分かってたから。そうでもしなくちゃ生きていられなかった。
 でもね、そんな日々も一年で終わった。つまりね・・・、妊娠したの。
 数ヶ月前から生理が止まってて、おかしいなとは思ってたんだけど、何も考えないようにしてたから、気づかないふりをしてたの。でもね、無理だった。毎日毎日、そのことしか考えられないようになってた。私のお腹で心臓が脈打って、その音が聞こえるみたいな気がして、恐くて恐くて、その音が頭から離れなくて、私はどんどん追い詰められていった。
 そしてついには限界を超えちゃったの。その時、妊娠の疑いが確信に変わったの。蹴られたの。私のお腹を蹴ったの、その子が。まだ、お腹も膨れていなかったし、そんな訳ないはずなんだけどね。でもその時、確かに蹴られたの。その瞬間、プツンって切れちゃったの、緊張の糸が。
 そのまま家を飛びたしたわ。それから、今に至るまで、二度と家には帰ってない。
 家から逃げ出して、一人になった。やっと。その時の私にとって、まず何よりも必要だった物。それは、金だった。腹の子を堕ろす金、一人で生きていく為の金。たいした金額じゃない。けど、たったそれだけの金を手にするという事が十七歳の私に要求したもの、それは、私という一人の娼婦の始まりだったって訳。」

5

 レミさんが話し終えて、彼女のすすり泣くその音だけが静かな部屋に響いていた。僕はただレミさんの話した事に圧倒されて、どんな言葉も発することが出来なかった。こんな時に何を言うことが良いのか、どうすれば彼女の心を抱きしめてあげられるのか、僕には見当がつかなかった。
 彼女に近づきたい、そう切に思いながらも、ただ気持ちだけが昂ぶって、もどかしく、胸が締め付けられる。それでも、何か言いたい、彼女に僕を発したい、手を伸ばして触れる様に言葉を差し伸べたい。駆り立てられ、言葉にならなかった音の無い吐息が喉を震わす。 そして、出た言葉。
「・・・、こんな時、何て言えばいいんですかね・・・。」
 俯いて泣いていたレミさんが顔を上げて、僕を見つめる。その瞳からは絶え間なく、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちている。レミさんの顔がクシャクシャに歪む。
「バカ・・・。黙って抱きしめてよ。」
 熱いものが腹の奥底を突き上げてきて、僕は沸き立って、がむしゃらにレミさんを抱きしめる。強く抱えたその腕の中には、熱を持った人間がいて、その存在を確かに感じて僕は驚愕する。レミさんも僕を強く抱きしめている。互いに相手の存在を確認して、心は溢れ、歓喜して呻く。
 渦に呑まれ、昂ぶって、僕はどんどんと剥き出しの感性そのものになっていき、もう何も考えられなくなる、もう何も分からなくなる。
 ああ、俺はいる、確かにいる、ここにいるぞ。
 こんな風に心が震える、この瞬間の為に僕は生れてきたんだ。今僕のこの腕の中に傷ついた一人の女がいて、僕に全てを委ねている、その歓喜。一体この世の中に、他に何があると言うんだろう、これ以上の何が。
 でもそんな事すらもうどうでもよかった。僕はただ感じるだけのものになって、彼女の中に溺れたのだった。


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