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 やあ、皆さんこんにちは。これから僕が書こうと思っているのは、少し前に僕が体験した奇妙な体験についてだ。その体験は、なんだかあまりにも現実離れしたものであったから、これを皆さんに信じていただけるかどうか、正直に言って僕には自信がない。ただ、この経験について書くという事が現在の僕にとっては是非ともやらなければならない事のように感じられるのである。であるからして今、僕は書き始めている。
 また、今これを読んでくださっている皆さんにとってこの話を読むことが何の得になるのか、と考えてみると、考えるまでもなく「何も無い」と断言できる。だからして、これを読んでくれる皆さんがいささかなりとも「楽しんで」くれさえすれば、ただそう願うばかりである。
 そのための第一歩として、早速「本題」に入ってしまおうかと思う。長い前置きなんぞは退屈以外の何物でもないでしょうから。
 それでは皆さん、僕の体験した珍妙奇天烈な出来事のお話を、せいぜい楽しんでおくんなはれ。イヒッ。

 

 まずは僕の生い立ちについて少し話しておこうと思います。
僕の両親は、「いたって普通」である事が彼らの人生における最優先事項であり、その事に彼らは人生のよりどころを見出しているかのような人たちであった。
 しかしながら、そしてそれはとても残念なことに、僕は産まれついての性分からしてそれほど「いたって普通」な要素を持ち合わせてはいなかった。そのために僕は幼い頃から「いたって普通」ではいられなかった。
 小学校の時の僕は、学校中僕の名前を知らないものはいない、札付きの問題児であった。落ち着きが無い、先生の話を聞かない、のべつ幕なしに奇声を発する、掃除をサボる、身の回りの整理整頓ができない、思いやりに欠けている、女の子の髪の毛に糊を塗りたくる、校舎の壁に泥を擦り付ける、室内でボール遊びをして教室に飾ってあった花瓶を割る、等々、問題児であると思われるに至った理由を挙げればきりがない。先生に口答えをしては廊下に立たされ、座席は先生の目の前、監視の行届いた「特別席」の常連であった。
 そして、さらに残念極まりない事には、僕はそんな「問題児」であったにもかかわらず、自分が悪いことをしているという自覚が微塵もなかった。それゆえに、先生が何故そんなに怒っているのかが不思議でならなかった。今から思うと、その無自覚さがますます先生を苛立たせ、僕を「手に負えない子供」に仕立て上げていった様に思われる。
 僕が何か問題を起こす度に母親は学校に呼び出され、ペコペコと頭を下げ、先生に謝っていた。そして家に帰ると鬼のような形相で僕を叱り、折檻するのであった。「いたって普通」が信条の母親にとって、僕が学校で問題を起こすことはこの上もない「屈辱」であったのだろう。
 しかしながら、そんな母親の怒りや嘆きは、自覚のない僕にとっては反省を促すものではなく、ただ理不尽な苦痛でしかなかった。「先生もお母さんも、何でそんなに怒って僕を叱るのだろう、僕は何も悪いことはしていないのに。」幼き日の僕は常々そんな疑問を胸に抱いていた。
 そんな小学生時代の僕にとって最も辛かったものが「反省文」である。何の罪の意識もない少年が自分を省みて悔い改める事などできるはずもないのである。それでも、先生は書くまでは許してくれない、それを書かされるのは大抵放課後であったから、書くまでは帰れない、つまりは友達と遊べない、理不尽極まりないことであった。仕方がなく少年は筆を取り書き始める、真っ赤なウソを。その内容は以下の様なものであったように思う。

 

「反省文
 僕は今日、じゅぎょう中に友だちのたかしくんとおしゃべりをしていて先生におこられました。それでも、先生の話よりもたかしくんとおしゃべりをする方が楽しかったので、先生の言うことをむししてたかしくんとしゃべっていました。
 すると先生がぼくの所に来て、ぶちました。ぼくはなんでたかしくんはぶたないで、ぼくだけがぶたれなきゃいけないんだろうと思って、むかつきました。そして、せんせいに「さべつすんな」と言いました。
 すると、先生はもっと怒って「先生に対してそんな口の聞き方をするとはなんですか。」と言って、またぶちました。ぼくはいたくてむかついていたので、「体罰だ、教育委員会にうったえてやる。」と言いました。そしたら、先生はキレて僕をろうかに引っぱり出して、立たせました。
 先生にさからうのはいけない事だと思いました。今は反省しています。もうそんなことは二度としません。そして、明日からは先生の言うことにさからわない良い生徒になりたいと思います。」

 

 幼かった僕が自分を偽ることを強制された体験は、取り返しのつかないような傷となって心に残った。自分が自分のままでは社会からは受け入れられない、この体験は僕が初めて社会というものと遭遇した瞬間であったように思う。出た杭であった僕は完膚なきまでに打ち付けられ、幼き僕は抗う術を持たず、ただ打ち砕かれた自己を痛感し、その痛み悔しさをかみ締め、その心に反抗心というものを芽生えさせたのであった。
 そしてこの瞬間に、その後の僕の人間としての方向性のようなものが決定してしまったように思う。先生、親、友達、つまりその頃の僕にとっての社会というものは、僕にとっての敵であり、僕はただ一人でそれと戦わなければならない、という認識が出来上がったのである。そして、その認識は少年の心に今に至るまで続く強烈な孤独を植えつけたのである。その孤独はどこか飢餓感と似ている様に思う。

 その後、反抗的な問題児は中学生になり、その傾向にますます拍車をかけた。そして、学校という社会は僕を打ちのめし続け、僕は怒り、絶望、孤独、そういった痛みを刻印のように心に刻みつけ続けていった。
 しかし、悪いことだけではなかった。連戦連敗であった僕は一筋の光明を見出したのである。この世に抗う術、たった一つの武器と出会ったのである。それは一枚のCDであった。それはロックンロールミュージックであった。その音楽家の叫び声に、僕は自分をもう一人見つけたような気がした。その瞬間の喜び、歓喜に魂が打ち震えた。絶叫せずにはいられなかった。すぐに母親が飛んできて、怒って何かを言った。しかし、何も聞こえなかった。ああ、俺は一人じゃなかったんだ。こんなところに仲間がいた。ああ、負けやしない。俺は決して負けやしないぞ。そんな気分だった。
 その後も僕は「仲間」を探し続け、手当たり次第にありとあらゆる「表現」をあさった。そして、数多くの仲間と出会った。それはある時はパンクロックであったし、またある時は文学であった。その形態は何でもよかったのだ。そこに自分が抱えているのと同質の痛みが含まれていれば僕はそれに感動し、言いようのない喜びと親近の情を覚えた。
僕は「表現」というものに溺れた、他の多くの少年達がそうするのと同じように。何も特別じゃなかった、いたって普通であった。それなのに何故、僕は彼ら同世代の少年達と友情を深め、孤独を埋めることができなかったんだろう。どうして、音楽や文学の表現者達としか仲間になれなかったんだろう。それは多分、その頃の僕が自分に対して、自分の孤独に対して、非常に傲慢だったからだろう、と今になっては思う。
 
 今述べた「表現」との出会いが僕の人生にとっては最も強烈なものであり、今ある僕を決定的に形作ってきたものである。しかし、表現というものは僕が生きるための武器となったことはもう書いたが、それは同時に諸刃の剣でもあった。
 僕が出会った仲間達、表現者、とりたてて文筆家達が持っていた孤独、怒り、そういったものは、僕が持っていたものと同質のものであったが、僕のそれをはるかに凌駕する強烈なものであった。つまりは天才だったであった。そんな彼らに出会い、彼らの魂の燻りを垣間見る度、僕は圧倒され、打ち崩された。凄過ぎるのである。僕の持っているそれなんてものはお話にならないのである。仲間であると思った人達は、僕を置いて遥か先にいるのである。もはや同じ地平上に立っているのかも疑われる。悔しい、とも思えなかった。ただ、彼らに少しでも近づきたい、そう思うばかりであった。
 こうして僕はますます表現に没頭し、自分の孤独を磨き上げていった。そしてそのことは結果的に、僕と外部をさらに乖離させ、孤独を大きくした。負のフィードバック、悪循環である。行き着く先のない片道切符の道程、それが今僕の中にある記憶の全てである。

 そんな孤独の探求の過程で、僕はある思いに囚われる様になっていった。それはつまり、発狂、身の破滅、ということである。
 嘘をつかず、ただありのままでいようとするならば、社会と折り合いなどつくはずが無い。それは短いこのの人生の中でも十分に、嫌と言うほど思い知った。かといって、今更「すいません、私が間違っておりました。悔い改めますので仲間に入れてください。」なんぞとは口が裂けても言えない。もう引き返せない所まで来ているんだ。そしてそれすなわち、もうこの世の中では真っ当には生きられず、肉体の滅びるまで、破滅へと突き進むしか道はない、ということである。それは百も承知しているんだ。ただそこで問題になってくるのは、その途中かその果てに俺が一番に求めていたものに巡り逢えるか、ということなんだ。一目でもそれを拝めるならば、俺はもうなんの悔いもなく死ねる気がする。
 で、それが何か。それが分からないんだ。何で分からないんだろうか。多分それは俺がまだ自分が行く道の果てまで達していないからなんだろう。ただ、その果てに達するには何か越えなくちゃならない境界があるように思える。突破、逸脱だよ。そのためにはどうしても発狂ということが必要になってくるんじゃないだろうか、そう思えてならない。
 つまり、今の俺が何をしていいかも分からずうろうろと迷っているのは、中途半端に未練を引きずっているからであって、それを断ち切って己が求めることの極みに達するには発狂するほかに手立てはないんじゃなかろうか、ということである。
 その考えは恐ろしくもあったけれども僕を魅了した。「発狂」、なんと優美な響きであろう。

 しかし、それはあくまでも頭の中を蠢いている「こうあるべき」であって、現実はそれに伴わない。発狂寸前、しかし発狂しきれず、求めるも得られず、というなんとも中途半端な状態で、恐怖心が枷になってどうしてもそこから先に踏み切れないのである。それはとてもストレスフルな状態である。
 毎日毎日悶々悶悶として過ごし、徒に時をすごす。この世を、すべてを捨てなければ求めるものは得られない、でも恐い、本当は寂しい、誰かと仲良くしたい、幸せになりたい、でもそんなんではどこにも辿り着けない。ジレンマ、ジレンマ。果てることのない思考の堂々巡りが僕を蝕んで疲弊させる。


2

 そんな鬱々とした毎日が続いていた二十歳の夏のある日。生まれてから一貫して転がり続けてきた僕の人生は、毎日休まずにチクタクチクタクと刻まれてきたカウントダウンのアラームは、「チーン」と音を立てて鳴った。
 決心したのである。死を。
 「今まで二十年間、自分を騙し続けてここまでやってきたけれど、日々状況は悪化するばかり。もう耐えられん。いい事は何もない。ただ苦しいだけ。夢に魘され現実にも魘される。もう疲れた。やめよう。」そう思った訳だ。
 早速遺書を書いた。
 「愛するお父様、お母様。先立つ不幸をお許しください。生んでくださった事、感謝しています。あなた方はこんなしょうもない僕に全力の愛を注いでくださいました。ありがたいことです。でも、その愛が裏目に出たようです。毎日が地獄でした。息をするのが困難でした。もうやめます。僕がいなくなっても、どうか幸せに生きてください。一足先に天国で待っています。それでは、さようなら。」
 うん、なかなかの出来だ。これで何の悔いもなく死ねる。
 で、肝心の死に方であるが、これはもうずっと前から決めてあった。洗面器自殺である。僕は洗面器に水をはり、思いっきり息を吸ってから顔をつける。水の冷たさが気持ちいい。「ああ、これでやっと楽になれるんだな。思えば、俺の人生って本当にいいこと無かったなあ。せめて一回くらいセックスしたかった。でも、まあいいか。水のひんやり感が気持ちいいし。何となく、幸せかも。」
 50秒後。
 「っ、ブハァ。ゲホッ、ゲホッ。ギいやぁぁぁぁぁぁ。苦し!苦し!無理無理。こんなんしたら死ぬし。」
失敗。
 予想外であった。まさかこんなにも自分には忍耐力がないとは。これじゃあ子供の我慢比べでも勝てないわ。うむ。考えなければ、新しい方法を。我慢せず、コロッと、しかも痛くなく死ねる方法を。
 思案の末、思い至ったのが醤油自殺。致死量が分からなかったので、とりあえず家にあった未開封の500mlのペットボトルを使用する事にした。
 さあ今度こそ。キャプを開け、内蓋を取り外す。準備は整った。深呼吸を一つ。「エイ!」
 勢いをつけて口一杯に醤油を含んだ。
 「っ、ブハァ。ゲホッ、ゲホッ。ギいやぁぁぁぁぁぁ。しょっぱ!しょっぱ!無理無理。第一醤油って飲み物じゃないし。」
 失敗。

 その後も、僕はありとあらゆる自殺方法を試みた。首にタオル巻きつけて両手で引っ張る自殺(五秒で何故か自然と手の力が緩んだ)、逆立ちからの一人パイルドライバー(ベッドの上でやったが首を痛めた)、コーラ一気飲み自殺(300ccでリバース)、飛び出して轢かれる自殺(交通量の少ない小道で一時間待って車が来なかったので断念)、マヨネーズ自殺(醤油と同様)、熱湯ぶっかけ自殺(人差し指を火傷)、金槌で頭割り自殺(ホームセンターで購入、たんこぶが出来た、1300円の出費)、リストカット自殺(すね毛を除毛)、鼻の穴に洗濯バサミでショック死自殺(涙が出た)、パッション式「ンーッ!」で心停止自殺(ンーッ!)・・・・・・。
 結論、死ぬの恐い。
 死にきれなかった僕は打ちひしがれ、絶望のあまりにとりあえず酒を飲む事にした。
 部屋に転がっていた焼酎をロックで3杯。僕は気持ちよく眠りに落ちた。


3

 ここまで読んでいただいた皆さん「全然奇妙でも面白くもないじゃん!」「ただの馬鹿じゃん!」「ふざけんな!」「早く死ね!」とお思いの事でしょう。お気持ち察しいたします。まあ、慌てなさんなって。ここからですよ、ここから。奇妙奇天烈摩訶不思議は今から始まるんです。

 たった3杯の焼酎で泥酔、気持ちよく眠りに堕ちた僕はその晩、とても不思議な夢を見た。その夢の内容とは以下のようなものである。

 まず、俺は夢の中で目覚めた。夜である、真夜中である。そんでもって、夢の中で目覚めた僕は当然それが夢である事に気づいていないわけで、さっきまでのうつつの続きのつもりな訳である。
 「酒飲んで寝ちまったか。」なんて思いつつ、目が暗さに慣れてきたので周囲を見渡す。ここで本来ならば、これは夢であるわけだから、見知らぬ原っぱの真ん中であったりして、でも夢であるがゆえにその異常を全然異常とも思わなかったりするのが定番であるわけなのだが、目の前に広がっていた光景は全くもって普通で、そこはいつも通りの汚らしい僕のアパートの部屋である。床には使用済みのティッシュや使用済みの綿棒やらが転がっている、汚らしい僕の部屋である。
 で、僕は台所に行き、コップに水道水を注ぎ、グビグビ飲み干す。ついでにトイレに入ってションベンをする。夢の中でションベンをするとうっかり本当に膀胱が緩んでしまって、つまり寝ションベンを垂らしてしまい、気づいて飛び起きるが後の祭り、なんて事が僕の場合は高校2年生くらいまでよくあったのだが、今回は大丈夫であった。
 夢だけで用を足し終えた僕は、再び部屋に戻り、布団に潜り込んだ。「明日こそはマジで死のう」なんて思いつつ、再び眠りに落ちていく。という感じでウツラウツラとし始めたその時である。

 「ガダン!!!」
 ものすごい音を立てて部屋の扉が開いた。当然びっくりした僕は扉の先に眼を向けて、扉を開けた主を確認しようとするわけである。
 そこに立っていたのはおっさんである。スーツを着て、髪を七三に分けている。無表情で立ち、じっと僕のほうを見ている。
 理解不能。沈黙、というよりも停止。しばらくの間、無言でおっさんと見つめあう。が、当然見つめ合ったからといって、なぜ僕の部屋の入り口におっさんが無表情で立っているのかは分かるはずもなく、理解不能は依然として理解不能である。
 どれぐらいだろう。二分程であろうか。僕は突然に部屋に侵入してきたおっさんと見詰め合っていた。しかしながら、依然としておっさんは無言を貫き、無表情で僕を見続けている。僕はといえば、ただ理解不能な状況を脱して、これはどうしたものなのであろうかと思案し始めていた。
 まあ、言うなればこんな真夜中にオッサンが勝手に人の部屋に入ってきて、その上無言、無表情だという状況はどう考えても通常ではなく、つまり異常であるわけで、ここで僕が理解不能で何の反応も出来ないでいるのは至極当然の事である。
 僕は、悪くない。が、奴の方はどうだろうか。こんな真夜中に人の部屋に、しかも全然知らない人の部屋に勝手に入ってきたわけで、そうした場合、当然何かそれなりのしかるべき理由があるはずであり、むしろ無いのであればそれはおかしいわけで、それならその理由とやらを部屋の主である僕にまず初めに話すのは道理であろう。が、このオッサン未だに無言、名乗りすらしない。おかしいではないか?
 そこまで考えが至ってくると、僕はだんだんおっさんのその無礼さに腹が立ってきた。ここで俺がこの沈黙に耐えかねて「あのぉ、どちら様でしょうか?」というような、それこそ典型的なリアクションをしてしまったら、それこそ奴の思う壺な訳であり、完全にあちらのペースに持っていかれるのは目に見えている。そうなれば完全に僕の負けである。
 そこで僕は考えた。それではこうしてみたらどうであろう、シカト。無かった事にしてそのまま寝る。うん、それにしよう。そうすれば奴も当然驚くと思っていた俺が無反応で寝たとなれば、あせるだろう。となればペースは完全にこっちのものである。
 で、俺は計画したとおりにオッサンをシカト、何事もなかったかのように再び眠りにつく、というアクションをやってのけた。やってしまうと実際、もうオッサンなんてどうでもよくなったという感じにもなってしまった。
 が、途端。
 寝た途端、である。
おっさんは突然に話し始めた。


4

 目覚める瞬間の感覚、起きているんだかまだ眠っているんだか、そのどっちにいるんだかよく分からないぐらいの時、僕はあの時が好きだ。宙ぶらりんで無重力な感じ、それを言葉にしてみようとしてみた所で、土台それは無理な話で少し歯がゆいが、きっと分かるでしょう?あの時の感覚、それをどう感じるか、体が感じるものがそのまま全てみたいなあの感じの感じ方、それは人それぞれ独自のものであるはず。だからして、僕が感じるあのドロドロ状態は僕だけのオリジナルドロドロ状態であるはずであって、そう考えるとなんかちょっと嬉しいような気もしてくる。
 とまあ、僕は今そのオリジナルドロドロ状態の後期にいる。つまり、覚醒してむくっと起き上がる一歩手前の状態、まだ起きたとは言えないけれど「うんむ、ぐぐぐ、・・・んむん」とかは言い初めている位のところだ。
 眠い。眠い、けれども、いつかは起きなければならない訳で、まあそうと決まった訳でもないかも知らんのだけど、でもね、どうしようか、ああ、眠いな、そろそろ起きてもいいんじゃないかな、てか今日は何曜日だっけ、昨日は学校行かなかったから今日はたぶん、でも俺最近学校行かないしなぁ、今日は何曜日だっけ、あ、携帯見ればいいじぁん、携帯どこだ?んんむ、手は動くな、あ、あったあった、パカッとな、ポケモンにポチッとなっていうセリフあったでしょ、今それ意識したんだよ、フムフム、今日は日曜日、現在午前10時14分、うむ、そろそろ起きてもいいな、今起きれれば一応「朝」起きた事になると思うし、でも眠いな、ってゆーか逆に、日曜日だからまだ寝ててもいいんじゃないのかな、うん、そうだな、いいと思う、イイトモー、は見れなくなっちゃうけれど、うん、寝よう。

 結局、僕が起きたのは午後三時ごろだった。あのファーストドロドロから、チョイ寝チョイ起きを繰り返しての結果だった。まあ、悪くはない。いつもの事だ。あのドロドロ状態の時には、僕は正常、論理的な判断に基づいて行動する事ができない。生理的欲求が最優先されてしまうのだ。悲しきかな堕落。
 しかしまあ、僕は今はもう起きた訳であるし、ということは少し遅くはあるけれどもこれから一日が始まるということなのだよ。くさくさしててもしょうがない。
 さて、何をしましょうか。一日の初めということだし、歯でも磨きましょうか。しかし、僕がこう思う事は、僕にとっては非常に珍しい事でもある。なぜなら、僕は基本的に歯を磨かないからだ。それどころか、あまり風呂も入らない。限界まで我慢する。面倒くさいし、必要性を感じないからだ。エコだよ、エコ。
 とは言いつつも、今起きてみて、気づけば口の中がすごくヌメヌメして臭い。そういえば、最後に磨いたのはいつだっけ?まあ、歯ぐらい磨いてもよかろう、という感じで先ほどの「歯を磨こう」と思うに至った訳だ。
 「うんしょ。」
 ベッドから起き上がって、床中に転がっている物と物の間を縫うようにして部屋を出る。部屋を出ればもうそこは台所兼出入り口と部屋を結ぶ通路だ。狭い部屋って便利ね、行きたいところにすぐ行けるんだもの。
 で、磨きました。グシュグシュ、ペッ、で歯ブラシの臭いを嗅ぐ、くさっ、どぶみたいな匂いする、はずなんだけど、あれ、しないぞ、おかしいな、いつもは物凄いくさい臭いするのにな、おかしいな、むしろちょっとシトラス的ないい匂いするぞ、調子狂うな、まっ、いいか。ってな感じで磨き終わった。
 次。何しようかな、次は。うん、小便。小便しよ。という事で、一歩歩いて便所へ。狭い家って本当に便利ね。ポチッとな、電気をつけて、扉を開けて、中に入って、おチンチンを出して、皮をむいて。

アレ。

あれ。

that.

アレ。

むけてる。ムケムケ。

いや、むけてるとかむけてないとかいう問題の前に、大きさが。おかしい。長さが。

倍になってる。

しかも右に曲がってたのも治ってる。

え、何で?

朝起きたらチンチンの皮がむけててしかも大きさ倍になってるってどういう事?

 という感じで、自らの体に起こった突然の変化に戸惑いながらも、とりあえず出すものは出さなければ、そう思い直し、僕は用を足した。まったくもって不可解である。一晩のうちに急に男性器だけが成長するなんて話は聞いたことがない。何で?まあ、ちょっと嬉しいけどさ。でも、変な病気だったら嫌だなあ。最近は風速行ってないんだけどな、金無いから。いや、まさかね。でも、万一って事もあるしな。潜伏してたのが発病したとか。病院に行ってみようかな。性病科ってどこかにあったっけな。でもまだ病気って決まった訳じゃないしな。別に痛くないし。もしかしたら、神様が俺にご褒美くれたのかな、普段の行いが良いからって。

神?

あ?

まさか、

あれ、夢じゃなかったのかな。

あのオッサン。


 と思い当たった僕であったが、その予想はまだにわかには信じがたいものであった。だってそうでしょう。常識的に考えて夜中にいきなり自称神が部屋に入ってきて、チンコだけデカクしてしまうって、それが現実に起こった事だと信じられる訳がないでしょう。ありえないでしょう。ってゆーか、どうせ願いを叶えてくれるんならお金くれるとかもっと他にやり方があったでしょうに、チンコでかくするって・・・、それが神のすることですかね。でもまあ・・・事実、でかいのである。仕方がない。

 とかなんとかグタグタと思いながらも小便を終え、部屋に戻った。
と、その時である。チラッ、と部屋にあった鏡に目をやった。

「!!!。」

 絶句したね。言葉が出なかったよ。だって、
鏡の中にはこれ以上無いって位に美しい男の人が立っていたんだもの、
汚らしい僕のパジャマを着てね。

 

 さっきからじっと立ちつくして、鏡に映る見知らぬ美しい男を眺めている。どうやら、昨日夢に出てきた神と名乗るあのおっさんによって、僕の容姿はこの美しい男に変えられてしまった。しかし、心というか人格というか、そういった中身の部分はそっくりそのまま、僕のままであるらしい。
今、この状況から判断できる事は、分かることはそれだけである。それ以上でもそれ以下でもない。余りに唐突に過ぎるので、そこから何の感情もわきあがってこない。ただ、昨日の夢の内容を思い出してみると、あのおっさんはたしか「願いを叶えてあげる」とか何とか言っていた。とすると、俺の願いというのが、こうなることだったのだろうか。分からん。
確かに俺は、まったくもって女には相手にされず、そのことを嘆いてはいた。しかしだね、その問題を解決するとなれば、ただ単に女が寄ってくるようにすれば良い訳であって、なにもこのような変身をさせなくたってよいのではないだろうか。
それはまあ、僕の容姿は美しいほうではなかったかもしれない。うん、美しくはなかった。そして、これといった特徴のない顔たちだったことは認めよう。しかし、しかしだね、そんな顔ではあるけれども、僕は二十年以上あの顔と一緒に、あの顔を僕として生きてきたわけであるよ。それを何の了解もなく、心の準備もなく、一夜のうちにまったく別の顔に変えられちまったとなるとだね、それはその顔がいくら美しいくても、おまけにおちんちんまで立派になったとはいってもだね、やっぱりなんかしっくりとしないし、寂しい気持ちがしないでもないんだよ。うん。

とか何とか云々といった具合に、僕は鏡の前に立ちつくして、ゴチャゴチャと何処かに行きつくあてもない考えを頭の中にめぐらせていたのである。しかし、段々とあほらしくなってきた。冷静に考えてみれば、朝起きたらいきなり姿形が変わってしまっているというそのこと自体が、まったくもって常軌を逸した珍事であって、そんなことに対して「何でだろう、どうしよう」とウジウジ悩んでみても、分かるはずも、どうにかできるはずもなく、意味が無いのである。
ではこうなってしまった今、俺が真に考えるべきこと、行うべきことは何であろうか。これは明白である。
まず次のことを調べてみなければならない。容姿以外に何か変わってしまっていることはないか。そして、僕のもともとの知り合いは、僕のことを見てどんな反応を見せるのか、つまり、親なんぞはこの変わり果てた姿を見て、果たして僕であると分かるだろうか。甚だ不安である。これはまず真っ先に確かめなければならない。
「よっこらせ。」
机の上においてある携帯電話を手にとり、電話帳を開く。
うむ。
電話帳のメモリーは0件です、という旨の表示がされている。
次。その横においてある財布を調べてみる。
うむ。
保険証、学生証、銀行のカード、その他一切俺が俺であるということを証明する物は無くなってしまっている。財布に入っていたのは現金785円、それっきりである。
 つまりだ、冷静に、冷静に考えるならば、俺が俺であると認識しているこの俺の心、それ以外の俺に関するものは全て、一つ残らずこの世から消し去られてしまったというわけか。そういうことかな、冷静に考えればね。
 あれ、でもそしたら、俺が今いるこのアパートは誰が借りてることになっているんだろうか。だって、俺はこの世にいないことになっているわけだし、親とか友達は消えちまったかどうかは分からないけれども、少なくとも俺とは無関係な人間として存在しているわけだろ、たぶん。ちょっと気になるな。
 てな訳で、押入れの奥から不動産屋の契約書を引っ張りだしてきた。契約者の欄を見てみる。
「契約者、神。」
そう書いてあった。あのおっさん、とことんやってくれるな。まあ、これでもう俺がこの世から抹消されてしまったということは、かなりはっきりとしてしまった。
 自分の存在がこの世からなくなってしまった。分かった。口に出して言う言葉では、
「ああそうか、俺は消えたのね」
と、その事実は理解できる。でもやっぱり、その実感というか、それで俺はどんな気持ちなのか、というようなところがいまいちよく分からない。にわかには信じがたい、といったところだ。そりゃね、何しろいきなりの事だしね。
だけどね、何だかぼんやりとした、漠然とした、なんだろうこの気持ち、不安、恐怖なのか、自分が水面にポツンと浮かぶ小さな葉っぱになってしまったような、よくわかんないけど、あんまりいい気分じゃないよ。うん、どうしよう。自分はもう何処にもにも存在していないという事実を突きつけられて、せっかくクールに前向きになっていた気持ちが、シュンとしぼんでしまって、また元の「どうしよう、どうしよう」という状態に戻ってしまった。

途方にくれてベッドに腰掛けて、なんとなくまた鏡に眼をやる。何度見てもそこには見慣れない美しい男がいて、不思議そうな、なんとなく困ったような顔をして僕を見ている。彼のそんな顔でさえも、とてもこの世のものとは思えない、美の極みである。いつまで経っても、その美しい顔がいつもの見慣れたあまり美しくない自分自身の顔に戻ることはない。僕は美しい彼を眺めるのにも飽きて、うんざりして、使い慣れた自分のベッドに寝転がる。
「あーあ、やんなっちゃうな。どうしよう。」
この世から消されてしまえば、もうやることは何にもない。二度寝、ふて寝である。理不尽に変えられてしまった現実から眼をそむけるべく、僕は眠りに引きずり込まれていった。もう、起きるもんか、そう思いながら。

 

 午後六時、目覚める。全身がだるく、頭が痛い。寝過ぎた為である。今日は十時ごろに目覚めて、変身させられていることに気づいて、不貞腐れてまたすぐに寝てしまって、一体どれくらい寝たのだろうか。何にもしたくないのにこれ以上寝れないってなかなか辛いことだな、なんて思いながらも、そろそろ起きて何かしなければなるまい。
 この前確かめて判ったとおりに、自分で死のうと思って死ぬのはなかなか難しいことで、勝手に変身させられて社会的に抹殺されてしまっても、こうして息している以上は何とかして飯食って生きていかなけりゃならん。このまま、寝て、起きて、不貞腐れて、寝て、を繰り返すだけだったら、そのうち腹が減ってしまう。腹が減って死ぬっていうのは、それはとても辛く苦しいもので、前に一度「俺は何日食わないでいられるのか」試して見たことがあるのだけれど、記録は18時間だったな。牛丼屋に駆け込んで、飲む様にして牛丼を食べたなぁ。あの牛丼はたいそう美味しかったっけ、はは、懐かしいな。
 って、ノスタルジアはいかんよ。それはいかん。今、俺がまずしなくちゃならないことは、考えることでしょうが、これからどうするかを。ほら、そんなことを考えていたら、何だか腹が減ってきたぞ、うん、お腹空いたなあ、そういや朝から何も食べてないもんな。あ、でも俺、一円も持ってないぞ、冷蔵庫に何か残ってなかったっけ。
 冷蔵庫の中を確認してみたけれど、やはり、というべきか、何も入っていなかった。神は徹底している。さて、困ってしまったね、本格的にね。俺にはもう親もいない、友達も知り合いもいない、戸籍もない、働けない。どうしよう。考えなくちゃ。あれ、何だかグルグルと廻って帰ってきてしまったぞ。まずいな、このグルグルはまずい兆候だ。しっかりしろ、冷静に、筋道たてて考えるんだ。
 考えることしばし。俺は結論に達した。それは以下の通りである。
 つまり、だ。俺は突然に、そして理不尽に、神によって俺が今まで持っていたもの全てを奪われた。そしてそれと引き換えに、ただ一つこの人間離れした美しい容姿だけを、だけを与えられた。その上まだ生きている、つまりまだ死ねない、生きなければならない。
 以上のことをふまえ、神が俺に与えたもうたメッセージを予測するならば、それは、
「生きろ、俺が与えたものだけを使って。」
ということだろう。うん、そういうことだろう。実にシンプルだ。そしてもう俺に選択の余地は与えられていない。
 分かった。理解した。十分に悟ったよ、神よ。クヨクヨしている暇もないって事ですね。牛丼、牛丼。
 僕は部屋を出た。


5

 生きよう、牛丼食べよう。そう思って部屋を後にした僕が今立っているのは、僕のアパートから程近い歓楽街の一角である。今俺は「立っている」と書いたが、正確には「立ち尽くしている」。途方にくれてしまっている。
「できない。できっこない。知らない女の人に声をかけるなんて、できっこないよ。」
ブツブツ、ブツブツ。そう、俺が部屋で考えついた方法とは「ナンパして飯をおごってもらう」というものだったのだ。「なんと安直な」とおっしゃる片がいらっしゃるかもしれないが、考えてみていただきたい。全てを奪われ、ただ美貌だけを与えられたこの僕が生き延びるために、他にどんな方法があるというのか。
 しかし、僕は一つの事を見落としていた。僕は全てを奪われたつもりでいたが、ただ一つ残されたものがあった。そして僕はそれを見落としていた。ただ一つ残されたもの、そう、それは他ならぬ僕自身である。そしてそれが今、このナンパ作戦を遂行する上での大きな問題になっているのである。
 しかしまたどうして、「僕」が問題であるのか、それを説明しなければならないであろう。まあ、これを説明しだすと長くなってしまうのだけれども、ここでそんなことを一々事細かに説明していても何も始まらないので、簡単に、大幅にはしょって話そう。
 つまり、だね。僕は齢二十一にして生粋の童貞である、とまあ、そういえば皆さんお分かりいただけるだろう。性にオープンなこの現代日本において、二十一にもなって未だに女を知らぬ、それはまあ大きな問題であり、そんな輩はひどく肩身が狭いどころか、社会からの風当たりはそれはまあたいそう強いなんてものではなくて、もはや「童貞は人にあらず」とでも言わんばかりの差別、辱めを受けるのである。巷ではうら若き乙女どもは童貞を見つけては
乙女①「ほら見て、あの人二十一にもなるのにまだ童貞なんですって。」
乙女②「いやん、うそぉ。信じられないぃ。ありえないぃ。きもいぃ。汚い。」
乙女①「あ、こっち来るわ。いや、なんか臭いわ。」
乙女②「いやん、臭いぃ。てゆーか、うつるわ、童貞がうつるわ。」
乙女①「そうね、うつるわね。逃げましょう。」
乙女②「いやん、来ないでぇん。うつるぅわん。」
というような会話をしているとかいないとか、とにかくまあそれ程の嫌われっぷりだそうである。もはや蝿一匹寄ってこない、そんな有様である。
 その様ないわれなき差別を受ける日本の童貞たるや、それはそれは悲惨なもので、もはやそんな状況で正常の精神状態を維持することなどほぼ不可能である。コンプレックス、世間への憎悪、溜まり続ける性欲、そんなこんながない混ぜになって、狂人一歩手前、それが童貞の現状である。
 そんな眼も当てられないような童貞、であった僕、それだけが残されてしまったのである。いくら上っ面だけをすげ替えようとも、そう簡単に女性と会話できようはずもないのである。いわんやナンパをは、である。婉曲である。もし、声をかけた女の人に「キモイ、死ね」何て言われて、冷たい侮蔑の視線を浴びせられたら、あぁ、そんな事されたらもう生きていけない。いやぁぁぁーー。
 しかし、そんなことも言っていられないのも事実である。ここでナンパできなければ俺は餓死するのみなのである。それに俺は昔の俺とは違う、何といっても容姿が美しくなったのである、もしかしたら上手くいくかもしれないではないか。いや、むしろ上手くいくだろ。世の中そんなもんだろ。いや、それよりも、今、俺は一回の成功失敗を問題にできる立場にないんだぞ。やるしかないんだ。そうだ。やるぞ。やったるぞー。うぉーー。
 グルグル、ぐるぐる、俺は心の中でアップダウンを繰り返しながら、なにか踏切りがつかず、ただブラブラと歩き、歩くうちに自然と公園にいた。ベンチに腰を下ろす。ポッケからハイライトのメンソールを取り出す。ライターで火をつける。一息吸えば、口の中に広がるメンソールの香り。ふぅ。これが一番落ち着くな。そう、落ち着かなければいけないんだよ。あ、でももう三本しか残ってねぇや。本当に何とかしないとなあ。
 
 ゆっくりと、それでも確実に、行動の時は近づいてきているのが分かる。それにつれて、具体的な行動の形も決まってくる。まずは、あれだ、どんな女性に声をかけるのか。やはり、三十中頃、そのくらいに見える人に声をかけるのがいいだろう。で、上等な洋服、アクセサリーを身につけていて、背筋のシャンと伸びたのがいいだろう。そんな女性なら、お金に余裕もあるだろうし、僕にご飯を食べさせてくれる可能性は高いのではないだろうか。そんな気がする。
 で、そんな女性を見つけたら、何と声をかければよいのだろう。
「へい、カノジョ、俺にご飯おごってくれないかい。」
 うわ、駄目ですね、これは。うむん、分からないけれども、声をかけることができたならば、自然と後は上手くいくのではないかしらん。まあ、やってみましょう。
 こうやってやることを決めてしまうと、何だか意外とすっきりとしてしまって、妙に落ち着いた心持になった。
 公園を出て、再び街角に戻り、今度は街行く女性を観察して、吟味するまでに至った。太っている人、綺麗な人、地味な人、派手な人、足の太い人、不機嫌な顔をしている人、半笑いの人、巨乳、などなど。そこいらを歩いている、顔も知らない他人を観察する、思えばそんな事をしたのは初めてではないだろうか。この人たち一人ひとりは一体どんなことを考えて、何処に向かって歩いているのかしらん。
 そんな事を考えながら人間観察をしていると、なんだか楽しくなってきてしまって、肝心のご飯を食べさせてくれそうな女性を探すのが疎かになってしまい、お、これはいかん、気を引き締めなければ、というような具合に何度も仕切りなおさなければならなかった。
 観察、探索を始めてどれくらい経ったろうか、僕が探しているようなセレブリチイな女性はなかなか見つからず、いや、何度かはそんな女性も通りかかったのかもしれないが、声をかけることができず、観察にも飽きてきて、僕はもはやボォッと待ち行く人を眺めているだけの状態になってしまっていた。
「なかなかいないね。」
 そんな独り言をつぶやいてみたりして。いつもの癖で、ニキビでも潰そうとして頬に手をやってみるも、もはや僕の肌はツルツルの完璧でニキビなど一つもなく、手持ち無沙汰だったりして。
 と。突然に眼に映ったのだ。先ほどの条件にピッタリと当てはまりそうな奥方が。おそらくは30中頃、体はすらっと細く、華奢、すっと通った鼻筋、聡明そうでいてどこか挑発するようなその瞳、満ちあふれる自信とお色気、艶やかな輝きを放つ長い真っ直ぐな髪、シックで上品なお洋服、何だか見たことのある模様のついたバッグ。指輪やら時計やらもしているけれども、それはよく分からん、きっとお高いのでしょう。
 はあ、美しい。ため息が出るほどに。有閑マダム。僕はあなたのツバメになります。とまあ、何とか美しいご婦人を発見し、僕はその人にご飯を食べさせてもらうべく、声をかけるべく、ふらふらと吸い寄せられていったわけである。
 花にたかる蝶のごとく、ヒラヒラと舞い近づき、その距離2、3メートル位にまで近づいたのだろうか。薫る、熟女の芳香。甘く、酸い、ええ匂いじゃ。恍惚。
 が、ふと我に帰る。このご婦人に声をかけなければならんのじゃったわ。バクッ、バクン。急に動悸が激しくなってしまった。顔が上気する。いや、無理でしょうが。こんな美しいご婦人に声をかけるなんて、とても、とても。死んじまうわ。いや、でもやらにゃいかんのじゃった。あ、でも俺も美しいんだっけ。それ、本当か?いや、やっぱり無理。でも、そうしたら腹減って、アボボ。キヒィーン。
 思考停止。気づくと僕はそのご婦人を通せんぼするような格好で、目の前に立ちふさがってしまっていた。ご婦人、少し驚いたように僕を見る。ヤバイ、何か話さなくては。全身から噴出す、汗。真っ白、頭の中。
「ア、 あの、すいません。」
「はい?」
 僕をマジマジと見つめ、怪訝そうに少し首を傾げるご婦人、その口元が微かに笑ったように見えた。瞳に、吸い込まれる。
「いきなりで申し訳ないんですけれど、今僕、一円もお金がなくて、そのうえ戸籍もなくなっちゃって、働けないもんで、とても困ってしまっていましてですね、大変申し訳ないんですけれどもですね、あのですね、何か食べる物、そう、ご飯の方を奢って頂けないでしょうか?」
 しどろもどろ、めちゃくちゃな日本語で一気にまくし立てた。
 沈黙。
 ご婦人の瞳はまじまじと僕を見つめていた。僕もその瞳を見やり、映し出すものをうかがい知ろうとしたが、その瞳はただ黒く、見つめる程にその奥へ沈み込んでいく、それだけであった。
「いいわよ。」
 その瞳にばかり気をとられていた僕は、自分が頼み事をしていたのだということを忘れており、その声が唐突であるかのように思われて驚いてしまった。その隙に僕の視線はご婦人の深く真っ黒な瞳から外れてしまい、再び眼を戻すと、彼女のそれはいたずらをはらんだ物に変わっていた。
「坊やは何が食べたいの?」
 そうだ、私はこのご婦人に飯を奢ってくれと話しかけたのであった。そもそもがそんな前向きな返事を想定していなかったので、彼女の言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまったのだ。そして、遅ればせながらその内容を理解した途端に、驚き、急にドキドキとしてしまった。だって、想定外なのである。
「あ、あわ、本当にご飯食べさせてくれるんですか?」
上ずった声で聞き返してしまう。
「あら、だってあなたがお願いしたんでしょう?なんで聞き返すの?気が変わっちゃうわよ、ウフフ。」
ご婦人、僕の様子に可笑しそうである。
「いや、前向きな解答が得られるとはこれっぽっちも思っていなくって。それで面食らっちゃって。はい、すいません。」
「あなた、おかしな話し方するのね。ま、いいわ。坊やは可愛いから許してあげる。さ、行きましょうよ。」
「は、はい。」
 ご婦人は僕の腕を取り、すたすたと歩き出す。水を得た魚よろしく活き活きと輝いている。僕は何が何だか、困惑しきりで、借りてきた猫のように大人しくなり、ご婦人に引きずられて行くのであった。

 

 ご婦人に連れられて入ったのはその入り口からして怖気怖づいてしまいそうな焼肉屋さんであった。今までに入ったこともないし、このままでは今後入ることもないだろう、そう思わせるお店であった。
座敷に通されて腰を落ち着けてもなんだか落ち着かない。どんな人がこんなお店に来るのだろうと思い、キョロキョロと周りを見渡して見たいものだが、あいにくと席が個室である。
 店員が水やらお絞りやらを持ってきた。その時ちらと僕を見て鼻で笑った気がする。まあ、仕方のないことだ。そういう店なのだから。そんな僕の様子が可笑しいのか、ご婦人はニヤニヤしながらお品書きを手渡してくれた。
「ここ、美味しいのよ。」
「いや、でも随分とお高いんじゃないでしょうか。カルビなんか一人分で3000円もしますけど。」
「あら、気にしなくていいのよ、そんなこと。」
「いや、でも。」
「ふふ、楽しみましょ。」
 ご婦人はお金持ちのようだ。店員を呼んで、とても二人では食べきれないような量を注文している。もし仮に見栄っ張りだったとしても、普通の人間にここまではできないだろう。
 運ばれてきたお肉はたいそうな代物であった。綺麗な桃色の赤みにきめ細かい霜が入っている。肉もここまでくると色気を放つと知った。
 そして、それからしばらくはあまり記憶が無い。口に入れると溶ける肉、タレではなく塩でいただく肉。食べているというよりも、まったく新しい刺激、それそのものを楽しむための行為であるかのようだった。
 ようやく満腹になった頃から記憶が再開する。
 顔をあげるとご婦人がニコニコと僕を見ている。ずっと僕の食べる様子を見ていたのだろうか。そういえば肉に夢中でろくに話もしていなかった。急に申し訳なくなって話しかける。
「すいません、あまりに美味しくて話すのも忘れちゃっていました。」
「ふふ、お腹一杯になった?」
「はい、今すごく満たされています。」
「それならよかった。君、名前は何ていうの?」
「ああ、そういえば名乗るのも忘れていましたね、すいません。僕は・・・、あれ?おかしいな・・・。」
 そう、名前が思い出せないのである。きっと、あの神と名乗るおっさんは名前もろとも僕の存在を消し去ってしまったのだろう。それにしても、自分の名前が無いとは困ったものだ。このままでは僕がご婦人に名前を教えたくないのだと勘違いされてしまう。うーむ、困った。美味しい焼肉までご馳走していただいたのに名乗りもしないなんて、なんとも失礼な話ではないか。
 仕方が無いので僕はこれまでの経緯をご婦人に話して、名前まで無くなってしまった事を理解してもらうことにした。
 「・・・という訳でですね、その神とかいうおっさんのせいで僕は僕であるという証拠を全て消し去られちゃったんですよ。まあにわかには信じがたい話でしょうけれど。」
「ふーん、それは随分とお気の毒な話ね。でも、名前が無いと困るわね、私だって君のこと呼ぶのにいつまでも「君」っていうのも変だし。」
「そうなんです。」
 あまりにも現実離れした話なので、ご婦人は怒りだしてしまうのではないだろうかと心配していたのだが、ご婦人はあまり気にしていないようだったので、僕は少し安心した。
「うーん、じゃあ私が君に名前付けてあげるよ。」
「え、本当ですか?」
「えーっと、どんなのがいいかな。」
 ご婦人はしばらく考えてから、こう言った。
「うん、決めた。今日から君の名前はポチね。どう、いい名前でしょ?」
「なんか、犬みたいな名前ですね。まあ、いいですけど。」
 あんなに考えていたのに思いついた名前がポチだなんて、僕はすこしがっかりしてしまった。
「なに、あんまり気に入ってないみたいね。いいじゃない、名前なんて。あ、言ってなかったけど私はレミっていうの。よろしくね。」
 そういって、レミさんはニコッとした。その瞳の奥は何か嗜虐的な光があった様に僕には感じられた。
「はあ。」
 こうして僕の新しい名前はポチになり、ご婦人はレミさんになった。レミさんは僕にポチと名づけたことで何か満足したみたいで「ポチ、ポチ」なんて言いながら僕の頭を撫でたりしている。まあ、こんなに綺麗な人の犬にされるのだったら、そんなに悪い気はしない。お手でもしてやろうかしら。
「ねえポチ、あなたこれからどうするの。」
「いえ、僕はもう社会的に抹殺されちゃったみたいなんで、特に何にもすることはないですけど。」
「そう、暇ってことね。じゃあお酒のみに行きましょうよ。今日名前が付いたってことは、帰郷はあなたの誕生日なんだから、パァっとやりましょう。」
「でも僕、パァってやるようなお金ないですよ。こんなに高級な焼肉もご馳走してもらっちゃったし。」
「いいのよ、気にしないで。私、あなたのこと気に入ったから当分の間は面倒見てあげる。いいでしょ、ポチは暇なんだし。」
「はあ、なんかすいません。」
「いいのいいの。じゃあ、行こう。」
 この時点で、僕はレミさんの犬「ポチ」として飼われる事が決まった訳であるが、それもまあいいかなあ、そう思った。今までの僕という存在が消され、僕はもうこの世界に存在しないのと同じになってしまって、レミさんの言う通り「暇」になってしまった訳であるし。
 もし仮に、あの神とかいうおっちゃんが僕を消さなかったにしても、前の僕に特にこれといってやるべき事があったのだろうかと考えると、それもよく分からない。愛する人も友達もいなかったし、勉強にも興味が無かったし、かといって仕事があるわけでもなかった。何もしないで部屋に閉じこもってただ本を読み、鬱々と恨みと憎しみだけを心に溜め込んでいた。こんなはずじゃない、ここで終わるわけにはいかない、俺には何かがあるはずだ、他人には無い何かが、と。あの頃の僕は果たして生きていただろうか、社会的に存在していただろうか、果たして今と何か違っていただろうか。
 そう考えてみると、もしかしたらあのおっちゃんは本当の神だったのかもしれない、そう思えてきた。何もしない、ただ生きているだけ、行き着くあてのないコンプレックスと誰かと触れ合いたいというやるせなさとの永遠にも思える往復の繰り返し、それだけが感情の起伏。そんな俺に機会を与えたのかもしれない「じゃあ、まっさらになってやってみろや」と。
やってみよう。僕は今日からレミさんの犬「ポチ」になって、精一杯彼女を喜ばせよう。彼女の喜び、それが僕の喜びとなり、生きる糧となるように。
 そこまで考えて、席を立ってレジに向かうレミさんの後ろ姿を見た。長く真っ直ぐな髪が光を反射して輪のように輝いている、綺麗だ。
 視線に気がついたのか、レミさんは振り返り、僕を見てニコッと笑う、ニコッと。
「ねぇ、早く行こうよ。」
「はい。」
 僕は慌てて靴を履き、レミさんの後を追った。



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