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7

 カーテンのすき間から差し込む朝日が眩しい。隣にはレミさんがいて、小さな寝息を立てている。身を起こそうとすると身体は少し気だるく、それが昨夜の余韻のように感じられて、また穏やかな喜びを感じる。
 幸せ、充足、およそそういった類のものとはかけ離れた暮らしをしてきた自分ではあるが、それはこういった瞬間に感じるものなのではなかろうか。この瞬間を切り取って記憶として保存するならば、それは満ち足りていて、何一つ欠いているものは無い。
 しかし、僕が身を置いている今という連続性の中では、この瞬間も未来への予感というようなものを内包していて、それは今この瞬間とはいささか様相を異にしている。つまり、今が思い描きうる最高の瞬間であるというならば、それは時間の経過を経過という必定によって崩壊に向かう他に道は無いのだ、という予感である。
 そんな予感が僕の胸の内を掠めたその瞬間から、それは僕を捕らえ、心を侵食してゆく。予感は今まさに進行している現実に形を変え、止むことなく加速し、膨張していく。
 気づけばもう、何か決定的なものが既に失われた後であった。嘆き悲しむ暇も無い。ただ、僕がその変化を認識できているということだけが一つの救いなのかも知れない。何から何まで分かっている、次にしなければならないことも。それは喪失の確認、証明という作業である。
 身を起こし、ほんの少し前に感じていた優美な倦怠感が、文字通りに気の重さに変わり果ててしまっていることに絶望する。ベットから立ち上がり部屋の入り口の近くにある姿見の前に立つ。
 やはり。だが分かってはいても心はざわつくのだな。絶世の美男子はいなくなり、そこに立っていたのは元のままの自分自身であった。いや、待てよ。果たして、元の自分などというものが存在したのだろうか。ここに立っているのは本当に昔僕であった僕なのであろうか。そう考えると、美男子に変えられる以前の自分の姿というものははっきりと思い出すことはできない。となると、今ここに映し出されている男が誰なのかも分からなくなってくる。ああ、面倒くさい。一々定義づけすることに果たしてたいした意味があるのだろうか。確固としたものも持たずにただ瞬間ごとに蠢いている煩悩に名前をつける意味なんて無いのではないでしょうか。
 ここまで考えてから再び鏡を見てみれば、そこに立っていたのは見ず知らずの醜い男であった。ただ憎悪の対象としかならないような、そんな姿形であった。
「あーあ、魔法が解けちゃったのね。」
背筋が凍る。
「本物は汚いね。」
振り返って見れば、ベットに腰掛けていたのは言葉を絶するような醜女であった。しかし、そいつが先ほどの声の主であり、その声は紛れ無くもレミさんのそれであった。
 あまりのことに、何も考え付かず、何も言えない。ただ唖然として目前にある醜悪な物に眼をやるばかりである。果たしてこれがあの美しく優しいレミさんなのであろうか。他人の変化の方が自分の身に起こるよりも驚きが大きいようだ。ましてやそれが昨日自分が褒め称えたあの美しき方であったのならばなおのことである。
「ふふ、驚いているみたいね。」
 その醜い物は笑っていて、別段驚いた様子も無く落ち着いている様子である。僕の内には未だに何の感情も湧き上がってはこない。状況を、眼に映る光景を受け入れられないからだ。こんなものを受け入れたのならば、全てが壊れてしまう、苦悩の末に手に入れたものが僕の手の内から消えてしまう。
 そんな僕を見透かしたかのように、その醜い物は言葉をつなげる。
「まだしがみ付いていたいのね、玩具みたいな昨日の夢に。そんなに嬉しかったの?哀しい男。ねえ、そんなもの初めから無かったのよ。今あなたは現実を眼にして驚いているみたいだけど、子供みたいにイヤイヤって首を振っているけれど、今目の前に移っている私もあなたも、昨日と何一つ変わっていないのよ。いえ、昨日の私たちも本当はこんなに汚かったと言うべきかしら。ただあなたが見ていなかっただけなのよ。」
「・・・そんなの、ウソだ。」
 それだけ言うのが精一杯であった。そして、僕の内にはじめて湧きあがってきた感情、それは嫌悪、どす黒い粘々とした嫌悪であった。それはあっという間に僕を飲み込み、僕は息ができなくなって、苦しくなった。
 それでもあいつは言葉を続ける。
「あら、随分と苦しそうね。そんなに嫌かしら、醜いということが。そんなに辛いかしら、自分の求めるものが手に入らないということが。可哀相な男、もう少しあなたのオママゴトの相手をしてあげてればよかったのかしら。」
「や、やめろ・・・。」
「でもね、あなたも判っていた筈よ。あれがウソだってことも、こうなるということも。だって、これが現実なんだもの。そして、あなたも私もこの汚くて何の望みも無い世界に生きているんだもの。いつまでもウソはつけないわ。いずれ、見なくちゃいけないのよ。そして決めなくちゃいけないの、どうするかを。だって、生きてるんだもの。」
「あ・・、うう。痛いよぅ。苦しいよぅ。」
レミさんは優しく僕の頭を撫でてくれる。
「ねぇ、死にたい?殺してあげようか?」
「ああ、死にたい。君に、殺してほしい。」
「そう、あなたの望むものは何一つ手に入らなくて、あなたの内にあるのは最も嫌悪しているものだけなのならば、もう生きていたくないの?それを見なくちゃいけないなら死んじゃうの?」
「ああう、やめてくれ。いじめないで。」
「そうね、そんな奴、死んだ方がいいかもね。そんなに弱いんじゃ、このまま生きてても、意味無いもの。私、あなたに失望したわ。残念だわ。勝手に死んで。さよなら。」
「ああ、待って。置いてかないで。」
 見上げるとそこには昨日のレミさんがいて、レミさんは哀しそうに僕を見て泣いていた。
「ねえ、わたし嬉しかったのよ。昨日あなたが声をかけてくれて、あなたを見た時、あ、この人なら大丈夫かもしれない。あれを見ても生きることができるかもしれない。そう思ったのよ。あなたの瞳には孤独がたくさんあって、それでも生きたい、っていう強い光があった。だから、信じたのよ。なのに、なんで逃げるの?なんで眼をつぶろうとするの?見つめなさいよ、この世界を。睨み付けなさい、心を憎しみで燃やしてでも。そして生きなさいよ、血反吐をはきながらでも。それがあんたのやり方でしょうが。それがあんたのただ一つの武器なんでしょうが。」
 全身が不思議な感動に包まれていた。どうしてだろう、どうしてこんなに大事なことを見失ってしまっていたんだろう。レミさんが僕に言ったこと、それはいつもあの一人ぼっちの部屋の中で考え続けていたことだったじゃないか、これだけは決して忘れまいと思って。思うとおりにならない現実、悪意に満ちた世界、何者でもない自分、それを直視することは痛みをともなう。しかし、その痛みは僕の生きる糧になり、僕の存在を研ぎ澄ましてくれる。そして僕は僕という磨きぬかれた刃でこの世界を切り裂く。そう、生き抜くんだ。
 レミさんがその両手で僕の顔を包み、見つめている。愛しい人、僕を励ましてくれる人、僕に気づかせてくれる人。切なさがこみ上げてきて、僕は彼女をひしと抱きしめる。

ああ。

「レミさん。思い出したよ。僕は生きなくちゃいけないんだ。這い蹲って。僕はこの世界を睨め付け続ける瞳だった。ありがとう。」
「そう、もう忘れないで。」
「うん、もう迷わない。」
生きた身体の温もりを抱き、もう迷わぬ、そう心に誓いながらも、ふと思う。僕はどうして自分を見失ってしまったんだろう?幸福を押しのけて疑念が嵩を増してくる。
「ねえ、レミさん。」
「なあに?」
「でも、どうして僕は一番大事なことを見失ってしまったのだろうか?」
 抱き止めてレミさんを見れば、もうそこにいるのは彼女ではなく、あの醜い物である。そしてそれは冷たく笑っている、今頃気づいたかとでも言うように。
「それは、お前が人間だからだよ。お前がその瞳に映ったものしか見ることができないからだよ。」
僕は石のように固まって、脆くも無音のまま、崩れ落ちていく。
「ふふ、それがお前の限界なんだよ。お前は迷い、矛盾を越えられない。何処にも辿り着けない。だって、生きてるんだもの。」
「じゃあ、やっぱり、駄目なのか。」
目の前にいた醜いものは、いつの間にかあの神とかいうおっさんに変わっていた。しかし、どこか荘厳な雰囲気が漂っている。そんなおっさんが口を開く。
「まあ、早まるなって。一つだけ、方法がある。お前がお前のまま、この世界に染まらずに世界を見つめる術が。」
「ああ、教えてくれ。俺は、もう何も失いたくない。傷付きたくないんだ。」
「そうか、分かった。じゃあ、そうしてあげよう、お前の望むままに。」
「あ、ありがとうございます。で、ど、どうすればよろしいんですか?」
おじさんは僕が今まで誰の表情からも窺ったことの無い種類の優しさを僕に向けている。これが慈愛の念というのかもしれない。そして、その手をそっと僕の眼に当てて、目蓋を閉じさせる。
「私に身を委ねなさい。全てを、委ねなさい。」
その声は僕の奥底の響いて、中心部に凝り固まっていたしこりを解きほぐしていく。
「お前のこの瞳を取り去ってあげよう。」
 そう言うと、おっさんは僕の目蓋に指を突っ込んで目玉を取り出してしまった。まずは左目、次に右目、両方の目玉を取り出すのには十秒もかからなかった。取り出した目玉は視神経でぶら下がっていて、頬の辺りに垂れ下がっている。次におっさんは爪を立ててその視神経を千切った。
 こうして、僕は光を失ったが、不思議と痛みは無かった。もう何も見えない。けれども、目の前にいたおっさんがいつの間にかレミさんに代わっているのが分かった。
「レミさん、そこにいるんだね。」
「ええ、もう何処にも行かないわ。ずっと、あなたのそばにいる。」
「ああ、嬉しい。僕ももう迷わなくていい。レミさんだけを見ていることができる。」
二人はひしと抱き合う。
 漆黒の闇の中、二つの純白な魂が輝き、それらは次第に近づき、やがて一つになる。一つに。もう二度と、離れることもなく、永遠に闇を照らす。


8

 急に眼を覚ます。ガバッと起き上がって周囲を見渡す。見慣れた自分の部屋。隣には誰もいない。
 夢だったのだろうか?それにしてはあまりにも、何といえばよいのだろうか鬼気に迫り過ぎていた気がする。いや、あれは本当に僕の身に起こったのだ、と思う。僕とレミさんはお互いが失われたもう片方を見つけ、かっちりとはまって一つになった。ただそれが故、レミさんは僕になって、いなくなってしまったんだろう。何だかやっぱり悲しかった。
 苦悩の果てに、人生で一番に必要としていたもの、共鳴する女性を見つけ、喜びに噎び、二人が一つになることを望み、身体を摺り寄せて交わり、終にはそれを果たした。しかし、その結果また一人になってしまった。
 分かり合おうと望みながら、お互いが別であり個である間にしかそれを分かち合うことができない。なんと皮肉なことであろう。
「だって、生きてるんだもの。」
二人が始めて交わったときに、レミさんが僕に言った言葉。それが哀愁をもって僕に染み渡る。
 ああ、これからどうして生きよう。そう思って拳を握り締める。と、その拳に何かがあることに気がつく。果たしてそれはクシャクシャになった紙切れであった。開いて皺を伸ばすと、そこには文字が書き付けられている。それを読む。と、読んだ先から止め処なく涙があふれ出てくるのを禁じえなかった。
 以下がその紙切れに書かれていた言葉である。そして、これをもってこの話を終わりにする。

 

「ポチ、目覚めましたか。隣に私がいなくてびっくりしたかも知れません。でも、許してください、それは致し方のないことなのです。そして、そんな事とは何の関係もなく、あなたの時間は進み続けます。ですから、あなたの見たくない物はこれからも止め処なく、あなたの瞳に映り続けます。そのためにあなたは血を流し続けるのです。さらに残酷なことにはあなたはもう二度と、私とあなたがそうした様には、誰かと交わり溶け合うことはできないかもしれません。でも、嘆き悲しまないでください。だって、そんな現実が、その痛みそのものが、希求するその過程こそが、生きることであり、あなたなんですから。あなたがこれからの人生でほんの一瞬でも幸せを感じられたらと、心から願っています。さようなら。レミ。」


奥付




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著者 : オパーリン
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発行所 : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
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