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 生きよう、牛丼食べよう。そう思って部屋を後にした僕が今立っているのは、僕のアパートから程近い歓楽街の一角である。今俺は「立っている」と書いたが、正確には「立ち尽くしている」。途方にくれてしまっている。
「できない。できっこない。知らない女の人に声をかけるなんて、できっこないよ。」
ブツブツ、ブツブツ。そう、俺が部屋で考えついた方法とは「ナンパして飯をおごってもらう」というものだったのだ。「なんと安直な」とおっしゃる片がいらっしゃるかもしれないが、考えてみていただきたい。全てを奪われ、ただ美貌だけを与えられたこの僕が生き延びるために、他にどんな方法があるというのか。
 しかし、僕は一つの事を見落としていた。僕は全てを奪われたつもりでいたが、ただ一つ残されたものがあった。そして僕はそれを見落としていた。ただ一つ残されたもの、そう、それは他ならぬ僕自身である。そしてそれが今、このナンパ作戦を遂行する上での大きな問題になっているのである。
 しかしまたどうして、「僕」が問題であるのか、それを説明しなければならないであろう。まあ、これを説明しだすと長くなってしまうのだけれども、ここでそんなことを一々事細かに説明していても何も始まらないので、簡単に、大幅にはしょって話そう。
 つまり、だね。僕は齢二十一にして生粋の童貞である、とまあ、そういえば皆さんお分かりいただけるだろう。性にオープンなこの現代日本において、二十一にもなって未だに女を知らぬ、それはまあ大きな問題であり、そんな輩はひどく肩身が狭いどころか、社会からの風当たりはそれはまあたいそう強いなんてものではなくて、もはや「童貞は人にあらず」とでも言わんばかりの差別、辱めを受けるのである。巷ではうら若き乙女どもは童貞を見つけては
乙女①「ほら見て、あの人二十一にもなるのにまだ童貞なんですって。」
乙女②「いやん、うそぉ。信じられないぃ。ありえないぃ。きもいぃ。汚い。」
乙女①「あ、こっち来るわ。いや、なんか臭いわ。」
乙女②「いやん、臭いぃ。てゆーか、うつるわ、童貞がうつるわ。」
乙女①「そうね、うつるわね。逃げましょう。」
乙女②「いやん、来ないでぇん。うつるぅわん。」
というような会話をしているとかいないとか、とにかくまあそれ程の嫌われっぷりだそうである。もはや蝿一匹寄ってこない、そんな有様である。
 その様ないわれなき差別を受ける日本の童貞たるや、それはそれは悲惨なもので、もはやそんな状況で正常の精神状態を維持することなどほぼ不可能である。コンプレックス、世間への憎悪、溜まり続ける性欲、そんなこんながない混ぜになって、狂人一歩手前、それが童貞の現状である。
 そんな眼も当てられないような童貞、であった僕、それだけが残されてしまったのである。いくら上っ面だけをすげ替えようとも、そう簡単に女性と会話できようはずもないのである。いわんやナンパをは、である。婉曲である。もし、声をかけた女の人に「キモイ、死ね」何て言われて、冷たい侮蔑の視線を浴びせられたら、あぁ、そんな事されたらもう生きていけない。いやぁぁぁーー。
 しかし、そんなことも言っていられないのも事実である。ここでナンパできなければ俺は餓死するのみなのである。それに俺は昔の俺とは違う、何といっても容姿が美しくなったのである、もしかしたら上手くいくかもしれないではないか。いや、むしろ上手くいくだろ。世の中そんなもんだろ。いや、それよりも、今、俺は一回の成功失敗を問題にできる立場にないんだぞ。やるしかないんだ。そうだ。やるぞ。やったるぞー。うぉーー。
 グルグル、ぐるぐる、俺は心の中でアップダウンを繰り返しながら、なにか踏切りがつかず、ただブラブラと歩き、歩くうちに自然と公園にいた。ベンチに腰を下ろす。ポッケからハイライトのメンソールを取り出す。ライターで火をつける。一息吸えば、口の中に広がるメンソールの香り。ふぅ。これが一番落ち着くな。そう、落ち着かなければいけないんだよ。あ、でももう三本しか残ってねぇや。本当に何とかしないとなあ。
 
 ゆっくりと、それでも確実に、行動の時は近づいてきているのが分かる。それにつれて、具体的な行動の形も決まってくる。まずは、あれだ、どんな女性に声をかけるのか。やはり、三十中頃、そのくらいに見える人に声をかけるのがいいだろう。で、上等な洋服、アクセサリーを身につけていて、背筋のシャンと伸びたのがいいだろう。そんな女性なら、お金に余裕もあるだろうし、僕にご飯を食べさせてくれる可能性は高いのではないだろうか。そんな気がする。
 で、そんな女性を見つけたら、何と声をかければよいのだろう。
「へい、カノジョ、俺にご飯おごってくれないかい。」
 うわ、駄目ですね、これは。うむん、分からないけれども、声をかけることができたならば、自然と後は上手くいくのではないかしらん。まあ、やってみましょう。
 こうやってやることを決めてしまうと、何だか意外とすっきりとしてしまって、妙に落ち着いた心持になった。
 公園を出て、再び街角に戻り、今度は街行く女性を観察して、吟味するまでに至った。太っている人、綺麗な人、地味な人、派手な人、足の太い人、不機嫌な顔をしている人、半笑いの人、巨乳、などなど。そこいらを歩いている、顔も知らない他人を観察する、思えばそんな事をしたのは初めてではないだろうか。この人たち一人ひとりは一体どんなことを考えて、何処に向かって歩いているのかしらん。
 そんな事を考えながら人間観察をしていると、なんだか楽しくなってきてしまって、肝心のご飯を食べさせてくれそうな女性を探すのが疎かになってしまい、お、これはいかん、気を引き締めなければ、というような具合に何度も仕切りなおさなければならなかった。
 観察、探索を始めてどれくらい経ったろうか、僕が探しているようなセレブリチイな女性はなかなか見つからず、いや、何度かはそんな女性も通りかかったのかもしれないが、声をかけることができず、観察にも飽きてきて、僕はもはやボォッと待ち行く人を眺めているだけの状態になってしまっていた。
「なかなかいないね。」
 そんな独り言をつぶやいてみたりして。いつもの癖で、ニキビでも潰そうとして頬に手をやってみるも、もはや僕の肌はツルツルの完璧でニキビなど一つもなく、手持ち無沙汰だったりして。
 と。突然に眼に映ったのだ。先ほどの条件にピッタリと当てはまりそうな奥方が。おそらくは30中頃、体はすらっと細く、華奢、すっと通った鼻筋、聡明そうでいてどこか挑発するようなその瞳、満ちあふれる自信とお色気、艶やかな輝きを放つ長い真っ直ぐな髪、シックで上品なお洋服、何だか見たことのある模様のついたバッグ。指輪やら時計やらもしているけれども、それはよく分からん、きっとお高いのでしょう。
 はあ、美しい。ため息が出るほどに。有閑マダム。僕はあなたのツバメになります。とまあ、何とか美しいご婦人を発見し、僕はその人にご飯を食べさせてもらうべく、声をかけるべく、ふらふらと吸い寄せられていったわけである。
 花にたかる蝶のごとく、ヒラヒラと舞い近づき、その距離2、3メートル位にまで近づいたのだろうか。薫る、熟女の芳香。甘く、酸い、ええ匂いじゃ。恍惚。
 が、ふと我に帰る。このご婦人に声をかけなければならんのじゃったわ。バクッ、バクン。急に動悸が激しくなってしまった。顔が上気する。いや、無理でしょうが。こんな美しいご婦人に声をかけるなんて、とても、とても。死んじまうわ。いや、でもやらにゃいかんのじゃった。あ、でも俺も美しいんだっけ。それ、本当か?いや、やっぱり無理。でも、そうしたら腹減って、アボボ。キヒィーン。
 思考停止。気づくと僕はそのご婦人を通せんぼするような格好で、目の前に立ちふさがってしまっていた。ご婦人、少し驚いたように僕を見る。ヤバイ、何か話さなくては。全身から噴出す、汗。真っ白、頭の中。
「ア、 あの、すいません。」
「はい?」
 僕をマジマジと見つめ、怪訝そうに少し首を傾げるご婦人、その口元が微かに笑ったように見えた。瞳に、吸い込まれる。
「いきなりで申し訳ないんですけれど、今僕、一円もお金がなくて、そのうえ戸籍もなくなっちゃって、働けないもんで、とても困ってしまっていましてですね、大変申し訳ないんですけれどもですね、あのですね、何か食べる物、そう、ご飯の方を奢って頂けないでしょうか?」
 しどろもどろ、めちゃくちゃな日本語で一気にまくし立てた。
 沈黙。
 ご婦人の瞳はまじまじと僕を見つめていた。僕もその瞳を見やり、映し出すものをうかがい知ろうとしたが、その瞳はただ黒く、見つめる程にその奥へ沈み込んでいく、それだけであった。
「いいわよ。」
 その瞳にばかり気をとられていた僕は、自分が頼み事をしていたのだということを忘れており、その声が唐突であるかのように思われて驚いてしまった。その隙に僕の視線はご婦人の深く真っ黒な瞳から外れてしまい、再び眼を戻すと、彼女のそれはいたずらをはらんだ物に変わっていた。
「坊やは何が食べたいの?」
 そうだ、私はこのご婦人に飯を奢ってくれと話しかけたのであった。そもそもがそんな前向きな返事を想定していなかったので、彼女の言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまったのだ。そして、遅ればせながらその内容を理解した途端に、驚き、急にドキドキとしてしまった。だって、想定外なのである。
「あ、あわ、本当にご飯食べさせてくれるんですか?」
上ずった声で聞き返してしまう。
「あら、だってあなたがお願いしたんでしょう?なんで聞き返すの?気が変わっちゃうわよ、ウフフ。」
ご婦人、僕の様子に可笑しそうである。
「いや、前向きな解答が得られるとはこれっぽっちも思っていなくって。それで面食らっちゃって。はい、すいません。」
「あなた、おかしな話し方するのね。ま、いいわ。坊やは可愛いから許してあげる。さ、行きましょうよ。」
「は、はい。」
 ご婦人は僕の腕を取り、すたすたと歩き出す。水を得た魚よろしく活き活きと輝いている。僕は何が何だか、困惑しきりで、借りてきた猫のように大人しくなり、ご婦人に引きずられて行くのであった。

 

 ご婦人に連れられて入ったのはその入り口からして怖気怖づいてしまいそうな焼肉屋さんであった。今までに入ったこともないし、このままでは今後入ることもないだろう、そう思わせるお店であった。
座敷に通されて腰を落ち着けてもなんだか落ち着かない。どんな人がこんなお店に来るのだろうと思い、キョロキョロと周りを見渡して見たいものだが、あいにくと席が個室である。
 店員が水やらお絞りやらを持ってきた。その時ちらと僕を見て鼻で笑った気がする。まあ、仕方のないことだ。そういう店なのだから。そんな僕の様子が可笑しいのか、ご婦人はニヤニヤしながらお品書きを手渡してくれた。
「ここ、美味しいのよ。」
「いや、でも随分とお高いんじゃないでしょうか。カルビなんか一人分で3000円もしますけど。」
「あら、気にしなくていいのよ、そんなこと。」
「いや、でも。」
「ふふ、楽しみましょ。」
 ご婦人はお金持ちのようだ。店員を呼んで、とても二人では食べきれないような量を注文している。もし仮に見栄っ張りだったとしても、普通の人間にここまではできないだろう。
 運ばれてきたお肉はたいそうな代物であった。綺麗な桃色の赤みにきめ細かい霜が入っている。肉もここまでくると色気を放つと知った。
 そして、それからしばらくはあまり記憶が無い。口に入れると溶ける肉、タレではなく塩でいただく肉。食べているというよりも、まったく新しい刺激、それそのものを楽しむための行為であるかのようだった。
 ようやく満腹になった頃から記憶が再開する。
 顔をあげるとご婦人がニコニコと僕を見ている。ずっと僕の食べる様子を見ていたのだろうか。そういえば肉に夢中でろくに話もしていなかった。急に申し訳なくなって話しかける。
「すいません、あまりに美味しくて話すのも忘れちゃっていました。」
「ふふ、お腹一杯になった?」
「はい、今すごく満たされています。」
「それならよかった。君、名前は何ていうの?」
「ああ、そういえば名乗るのも忘れていましたね、すいません。僕は・・・、あれ?おかしいな・・・。」
 そう、名前が思い出せないのである。きっと、あの神と名乗るおっさんは名前もろとも僕の存在を消し去ってしまったのだろう。それにしても、自分の名前が無いとは困ったものだ。このままでは僕がご婦人に名前を教えたくないのだと勘違いされてしまう。うーむ、困った。美味しい焼肉までご馳走していただいたのに名乗りもしないなんて、なんとも失礼な話ではないか。
 仕方が無いので僕はこれまでの経緯をご婦人に話して、名前まで無くなってしまった事を理解してもらうことにした。
 「・・・という訳でですね、その神とかいうおっさんのせいで僕は僕であるという証拠を全て消し去られちゃったんですよ。まあにわかには信じがたい話でしょうけれど。」
「ふーん、それは随分とお気の毒な話ね。でも、名前が無いと困るわね、私だって君のこと呼ぶのにいつまでも「君」っていうのも変だし。」
「そうなんです。」
 あまりにも現実離れした話なので、ご婦人は怒りだしてしまうのではないだろうかと心配していたのだが、ご婦人はあまり気にしていないようだったので、僕は少し安心した。
「うーん、じゃあ私が君に名前付けてあげるよ。」
「え、本当ですか?」
「えーっと、どんなのがいいかな。」
 ご婦人はしばらく考えてから、こう言った。
「うん、決めた。今日から君の名前はポチね。どう、いい名前でしょ?」
「なんか、犬みたいな名前ですね。まあ、いいですけど。」
 あんなに考えていたのに思いついた名前がポチだなんて、僕はすこしがっかりしてしまった。
「なに、あんまり気に入ってないみたいね。いいじゃない、名前なんて。あ、言ってなかったけど私はレミっていうの。よろしくね。」
 そういって、レミさんはニコッとした。その瞳の奥は何か嗜虐的な光があった様に僕には感じられた。
「はあ。」
 こうして僕の新しい名前はポチになり、ご婦人はレミさんになった。レミさんは僕にポチと名づけたことで何か満足したみたいで「ポチ、ポチ」なんて言いながら僕の頭を撫でたりしている。まあ、こんなに綺麗な人の犬にされるのだったら、そんなに悪い気はしない。お手でもしてやろうかしら。
「ねえポチ、あなたこれからどうするの。」
「いえ、僕はもう社会的に抹殺されちゃったみたいなんで、特に何にもすることはないですけど。」
「そう、暇ってことね。じゃあお酒のみに行きましょうよ。今日名前が付いたってことは、帰郷はあなたの誕生日なんだから、パァっとやりましょう。」
「でも僕、パァってやるようなお金ないですよ。こんなに高級な焼肉もご馳走してもらっちゃったし。」
「いいのよ、気にしないで。私、あなたのこと気に入ったから当分の間は面倒見てあげる。いいでしょ、ポチは暇なんだし。」
「はあ、なんかすいません。」
「いいのいいの。じゃあ、行こう。」
 この時点で、僕はレミさんの犬「ポチ」として飼われる事が決まった訳であるが、それもまあいいかなあ、そう思った。今までの僕という存在が消され、僕はもうこの世界に存在しないのと同じになってしまって、レミさんの言う通り「暇」になってしまった訳であるし。
 もし仮に、あの神とかいうおっちゃんが僕を消さなかったにしても、前の僕に特にこれといってやるべき事があったのだろうかと考えると、それもよく分からない。愛する人も友達もいなかったし、勉強にも興味が無かったし、かといって仕事があるわけでもなかった。何もしないで部屋に閉じこもってただ本を読み、鬱々と恨みと憎しみだけを心に溜め込んでいた。こんなはずじゃない、ここで終わるわけにはいかない、俺には何かがあるはずだ、他人には無い何かが、と。あの頃の僕は果たして生きていただろうか、社会的に存在していただろうか、果たして今と何か違っていただろうか。
 そう考えてみると、もしかしたらあのおっちゃんは本当の神だったのかもしれない、そう思えてきた。何もしない、ただ生きているだけ、行き着くあてのないコンプレックスと誰かと触れ合いたいというやるせなさとの永遠にも思える往復の繰り返し、それだけが感情の起伏。そんな俺に機会を与えたのかもしれない「じゃあ、まっさらになってやってみろや」と。
やってみよう。僕は今日からレミさんの犬「ポチ」になって、精一杯彼女を喜ばせよう。彼女の喜び、それが僕の喜びとなり、生きる糧となるように。
 そこまで考えて、席を立ってレジに向かうレミさんの後ろ姿を見た。長く真っ直ぐな髪が光を反射して輪のように輝いている、綺麗だ。
 視線に気がついたのか、レミさんは振り返り、僕を見てニコッと笑う、ニコッと。
「ねぇ、早く行こうよ。」
「はい。」
 僕は慌てて靴を履き、レミさんの後を追った。


6

 気がつくと、巨大なベットの上にいた。部屋を照らしているのは隅にある小さな間接照明だけで薄暗い。ここは何処だろう。そう思って体を起こす。頭がぼんやりしている。酔っ払っているんだろう。ここが何処で、何でここにいるのかも思い出せない。
 レミさんと焼肉屋さんを出た後、小さなバーに入ってしこたま飲んだんだっけ。酒の味は高くても変わらないもんだなあ、と思った記憶がある。で、そこからは何も憶えていない。
ガチャ。
 扉の開く音。そのすき間から黄色い光が漏れる。黒い人影。立っていたのはレミさんだった。体にバスタオルを巻いていて、黒い髪は濡れている。入浴後、という感じだ。
 ほのかに笑みを浮かべ、僕を見つめながら歩いてくる。ベットまでくると僕の横に腰掛けた。シャンプーのいい匂いが鼻に香る。
「起きたんだ。」
「はい。ここ、何処ですか?」
「ホテル。」
ホテル。僕は何と答えればいいんだろう。僕はレミさんを見た。レミさんも僕を見ている。
 レミさんは黙ったまま手をのばして僕の髪を触る。その指先は頬を伝って、唇をなぞり、僕の口の中に入る。舌は彼女の指先を知覚する。舐めてみるとレミさんの指もそれに答える。暫く僕の舌と戯れた指はそっと口から出てゆき、また手に戻って僕の目蓋を閉ざした。
 柔らかな感触が唇に触れる。恐る恐る舌を伸ばし触れてみると、その柔らかな物も濡れていて、それがレミさんの唇だと分かる。彼女の口の中に下を入れると、そこにも舌があって、同じだ、と思って安心する。
 顔を離して眼を開けると、レミさんが僕を見ている。彼女は今何を思っているのだろう、それが知りたくなって、瞳を覗き込んでみる。でもそこには何も映ってはいなくて、僕には何も分からなかった。
 レミさんが笑っている。体を寄せ、僕の耳元でそっと話しかける。
「今まで、こういう事したことある?」
「・・・、少しは。」
「ウソつき。」
ゾク、僕は芯まで剥きはがされてしまった気がして、急に恥ずかしくなった。絶望、それに近い。また僕の眼を見る彼女。
「私には分かるの。何でも分かるの。瞳を見れば分かるの。」
彼女は僕を抱きしめて、そっと頭を撫ぜてくれる。そしてまた耳元でささやく
「寂しかったのね、恐かったのね、痛かったのね。もういいのよ。もう大丈夫よ。あなたの、そのままでいいんだからね。」
 急に、僕の中で湧き上がってくるものがあって、抗し難く、僕はレミさんを押し倒し、貪り付いた。体に巻きつけられた白いバスタオルを引きはがすと、重みを湛えた白い乳房が剥き出しになる。それに吸い付き、細い体を強く抱きしめる。彼女が呻く。レミさんの中でも僕と同じ物が湧き上がっているんだ、そう思うと嬉しくて、より一層に自分の中が彼女を求める気持ちで一杯になっていくのであった。
 衝動に溺れる中で、また不安な気持ちが顔を出して膨らんできたので、体を起こして彼女を見てみる。艶のある潤んだ瞳が僕を見ていた。ああ、彼女もまた僕を求めている、僕がそうするのと同じように。
 が、そこまでであった。急に心に薄い膜が張ったようになって、僕を隔てた。僕は息ができなくなって苦しさを感じた。そしてそこにいた彼女が急にいなくなってしまったように思えた。目の前にあるのは残された抜け殻、肉の塊。
 それはとても辛いことのように思われ、今一度彼女の核心にありつきたくて、僕は彼女の身体を弄ってそれを探した。しかし、一度消えてしまったそれは、もう何処にも見つからなかった。彼女はまだ潤んだ眼で僕を見つめていたし、僕を求めてくれていることは分かったけれど、もうどうにも駄目だった。
 何が変わったんだろう?変わったのは彼女ではなくて僕の方だろう。結局のところ、次にどうすればよいのか分からなかったのかもしれない。欲求が湧き上がるのは一瞬の事で、僕たちはすかさずそれを捕まえて、二人で次々と昇華させてゆかなければならなかったのではないだろうか。でも、僕は未熟であったから、それと知らず、持続するものと思い込んで取り逃がしたのだ。
 僕は精一杯困った顔をして、彼女に笑いかけるしかなかった。こうなるともう、言葉というものは出てこないものなんだなあ。瞳で、仕草で、伝えるしかないんだなあ。
 彼女も僕がそれを取り逃がした事に気がついたようで、とても優しく、僕を包み込もうと微笑み、身を起こして僕を抱き、口付けをしてくれた。その所作は僕にこう語りかける。
「やりたいようにやってみたけれど、駄目だったのね。見失って迷ってしまったのね。いいのよ、それでも。何も変わりはしない、何も失ってはいないわ。ただそのままでいいのよ。今度は私がしてあげるから。」
 それは口で発せられたものではなくて、彼女を通して直に僕に伝えられた。そんなことは初めてで、それはとても心地よかった。僕は落ち着きを取り戻して、彼女に身を任せ、その中でまた彼女を求めたいと思った。そんな僕を彼女は導いてくれる。
 レミさんは、優しく、ゆっくりと、しかし迷うことなく昂ぶり、僕を昂ぶらせていった。こじれた紐を解いていく様に。
 そして、その時が来る。僕はベットに寝かされ、跨るレミさんを見上げる。彼女は我が子を抱く母親のように微笑む。ゆっくりと腰を沈め、僕は彼女の中に帰る。
「あったかい。」
「だって、生きてるんだもの。」
彼女はそういって僕を慈しんだ。
 ゆっくりと、規則的に、押し寄せる波。その一回一回が僕を溶かし、僕は段々と海と混じり合ってゆく。その中で頂が見えてくる、あそこが僕の往きつく先だ。そこには彼女がいて、僕を待っている。波に揺られて、ゆっくりと近づいていく。
もう少し、
もう少しだ。
ああ、
もう待ちきれない。
 僕は駆け出して、彼女を抱きしめる。
 まばゆい光が差し込み、目の前が真っ白になって、何も分からなくなった。

 

 


7

 カーテンのすき間から差し込む朝日が眩しい。隣にはレミさんがいて、小さな寝息を立てている。身を起こそうとすると身体は少し気だるく、それが昨夜の余韻のように感じられて、また穏やかな喜びを感じる。
 幸せ、充足、およそそういった類のものとはかけ離れた暮らしをしてきた自分ではあるが、それはこういった瞬間に感じるものなのではなかろうか。この瞬間を切り取って記憶として保存するならば、それは満ち足りていて、何一つ欠いているものは無い。
 しかし、僕が身を置いている今という連続性の中では、この瞬間も未来への予感というようなものを内包していて、それは今この瞬間とはいささか様相を異にしている。つまり、今が思い描きうる最高の瞬間であるというならば、それは時間の経過を経過という必定によって崩壊に向かう他に道は無いのだ、という予感である。
 そんな予感が僕の胸の内を掠めたその瞬間から、それは僕を捕らえ、心を侵食してゆく。予感は今まさに進行している現実に形を変え、止むことなく加速し、膨張していく。
 気づけばもう、何か決定的なものが既に失われた後であった。嘆き悲しむ暇も無い。ただ、僕がその変化を認識できているということだけが一つの救いなのかも知れない。何から何まで分かっている、次にしなければならないことも。それは喪失の確認、証明という作業である。
 身を起こし、ほんの少し前に感じていた優美な倦怠感が、文字通りに気の重さに変わり果ててしまっていることに絶望する。ベットから立ち上がり部屋の入り口の近くにある姿見の前に立つ。
 やはり。だが分かってはいても心はざわつくのだな。絶世の美男子はいなくなり、そこに立っていたのは元のままの自分自身であった。いや、待てよ。果たして、元の自分などというものが存在したのだろうか。ここに立っているのは本当に昔僕であった僕なのであろうか。そう考えると、美男子に変えられる以前の自分の姿というものははっきりと思い出すことはできない。となると、今ここに映し出されている男が誰なのかも分からなくなってくる。ああ、面倒くさい。一々定義づけすることに果たしてたいした意味があるのだろうか。確固としたものも持たずにただ瞬間ごとに蠢いている煩悩に名前をつける意味なんて無いのではないでしょうか。
 ここまで考えてから再び鏡を見てみれば、そこに立っていたのは見ず知らずの醜い男であった。ただ憎悪の対象としかならないような、そんな姿形であった。
「あーあ、魔法が解けちゃったのね。」
背筋が凍る。
「本物は汚いね。」
振り返って見れば、ベットに腰掛けていたのは言葉を絶するような醜女であった。しかし、そいつが先ほどの声の主であり、その声は紛れ無くもレミさんのそれであった。
 あまりのことに、何も考え付かず、何も言えない。ただ唖然として目前にある醜悪な物に眼をやるばかりである。果たしてこれがあの美しく優しいレミさんなのであろうか。他人の変化の方が自分の身に起こるよりも驚きが大きいようだ。ましてやそれが昨日自分が褒め称えたあの美しき方であったのならばなおのことである。
「ふふ、驚いているみたいね。」
 その醜い物は笑っていて、別段驚いた様子も無く落ち着いている様子である。僕の内には未だに何の感情も湧き上がってはこない。状況を、眼に映る光景を受け入れられないからだ。こんなものを受け入れたのならば、全てが壊れてしまう、苦悩の末に手に入れたものが僕の手の内から消えてしまう。
 そんな僕を見透かしたかのように、その醜い物は言葉をつなげる。
「まだしがみ付いていたいのね、玩具みたいな昨日の夢に。そんなに嬉しかったの?哀しい男。ねえ、そんなもの初めから無かったのよ。今あなたは現実を眼にして驚いているみたいだけど、子供みたいにイヤイヤって首を振っているけれど、今目の前に移っている私もあなたも、昨日と何一つ変わっていないのよ。いえ、昨日の私たちも本当はこんなに汚かったと言うべきかしら。ただあなたが見ていなかっただけなのよ。」
「・・・そんなの、ウソだ。」
 それだけ言うのが精一杯であった。そして、僕の内にはじめて湧きあがってきた感情、それは嫌悪、どす黒い粘々とした嫌悪であった。それはあっという間に僕を飲み込み、僕は息ができなくなって、苦しくなった。
 それでもあいつは言葉を続ける。
「あら、随分と苦しそうね。そんなに嫌かしら、醜いということが。そんなに辛いかしら、自分の求めるものが手に入らないということが。可哀相な男、もう少しあなたのオママゴトの相手をしてあげてればよかったのかしら。」
「や、やめろ・・・。」
「でもね、あなたも判っていた筈よ。あれがウソだってことも、こうなるということも。だって、これが現実なんだもの。そして、あなたも私もこの汚くて何の望みも無い世界に生きているんだもの。いつまでもウソはつけないわ。いずれ、見なくちゃいけないのよ。そして決めなくちゃいけないの、どうするかを。だって、生きてるんだもの。」
「あ・・、うう。痛いよぅ。苦しいよぅ。」
レミさんは優しく僕の頭を撫でてくれる。
「ねぇ、死にたい?殺してあげようか?」
「ああ、死にたい。君に、殺してほしい。」
「そう、あなたの望むものは何一つ手に入らなくて、あなたの内にあるのは最も嫌悪しているものだけなのならば、もう生きていたくないの?それを見なくちゃいけないなら死んじゃうの?」
「ああう、やめてくれ。いじめないで。」
「そうね、そんな奴、死んだ方がいいかもね。そんなに弱いんじゃ、このまま生きてても、意味無いもの。私、あなたに失望したわ。残念だわ。勝手に死んで。さよなら。」
「ああ、待って。置いてかないで。」
 見上げるとそこには昨日のレミさんがいて、レミさんは哀しそうに僕を見て泣いていた。
「ねえ、わたし嬉しかったのよ。昨日あなたが声をかけてくれて、あなたを見た時、あ、この人なら大丈夫かもしれない。あれを見ても生きることができるかもしれない。そう思ったのよ。あなたの瞳には孤独がたくさんあって、それでも生きたい、っていう強い光があった。だから、信じたのよ。なのに、なんで逃げるの?なんで眼をつぶろうとするの?見つめなさいよ、この世界を。睨み付けなさい、心を憎しみで燃やしてでも。そして生きなさいよ、血反吐をはきながらでも。それがあんたのやり方でしょうが。それがあんたのただ一つの武器なんでしょうが。」
 全身が不思議な感動に包まれていた。どうしてだろう、どうしてこんなに大事なことを見失ってしまっていたんだろう。レミさんが僕に言ったこと、それはいつもあの一人ぼっちの部屋の中で考え続けていたことだったじゃないか、これだけは決して忘れまいと思って。思うとおりにならない現実、悪意に満ちた世界、何者でもない自分、それを直視することは痛みをともなう。しかし、その痛みは僕の生きる糧になり、僕の存在を研ぎ澄ましてくれる。そして僕は僕という磨きぬかれた刃でこの世界を切り裂く。そう、生き抜くんだ。
 レミさんがその両手で僕の顔を包み、見つめている。愛しい人、僕を励ましてくれる人、僕に気づかせてくれる人。切なさがこみ上げてきて、僕は彼女をひしと抱きしめる。

ああ。

「レミさん。思い出したよ。僕は生きなくちゃいけないんだ。這い蹲って。僕はこの世界を睨め付け続ける瞳だった。ありがとう。」
「そう、もう忘れないで。」
「うん、もう迷わない。」
生きた身体の温もりを抱き、もう迷わぬ、そう心に誓いながらも、ふと思う。僕はどうして自分を見失ってしまったんだろう?幸福を押しのけて疑念が嵩を増してくる。
「ねえ、レミさん。」
「なあに?」
「でも、どうして僕は一番大事なことを見失ってしまったのだろうか?」
 抱き止めてレミさんを見れば、もうそこにいるのは彼女ではなく、あの醜い物である。そしてそれは冷たく笑っている、今頃気づいたかとでも言うように。
「それは、お前が人間だからだよ。お前がその瞳に映ったものしか見ることができないからだよ。」
僕は石のように固まって、脆くも無音のまま、崩れ落ちていく。
「ふふ、それがお前の限界なんだよ。お前は迷い、矛盾を越えられない。何処にも辿り着けない。だって、生きてるんだもの。」
「じゃあ、やっぱり、駄目なのか。」
目の前にいた醜いものは、いつの間にかあの神とかいうおっさんに変わっていた。しかし、どこか荘厳な雰囲気が漂っている。そんなおっさんが口を開く。
「まあ、早まるなって。一つだけ、方法がある。お前がお前のまま、この世界に染まらずに世界を見つめる術が。」
「ああ、教えてくれ。俺は、もう何も失いたくない。傷付きたくないんだ。」
「そうか、分かった。じゃあ、そうしてあげよう、お前の望むままに。」
「あ、ありがとうございます。で、ど、どうすればよろしいんですか?」
おじさんは僕が今まで誰の表情からも窺ったことの無い種類の優しさを僕に向けている。これが慈愛の念というのかもしれない。そして、その手をそっと僕の眼に当てて、目蓋を閉じさせる。
「私に身を委ねなさい。全てを、委ねなさい。」
その声は僕の奥底の響いて、中心部に凝り固まっていたしこりを解きほぐしていく。
「お前のこの瞳を取り去ってあげよう。」
 そう言うと、おっさんは僕の目蓋に指を突っ込んで目玉を取り出してしまった。まずは左目、次に右目、両方の目玉を取り出すのには十秒もかからなかった。取り出した目玉は視神経でぶら下がっていて、頬の辺りに垂れ下がっている。次におっさんは爪を立ててその視神経を千切った。
 こうして、僕は光を失ったが、不思議と痛みは無かった。もう何も見えない。けれども、目の前にいたおっさんがいつの間にかレミさんに代わっているのが分かった。
「レミさん、そこにいるんだね。」
「ええ、もう何処にも行かないわ。ずっと、あなたのそばにいる。」
「ああ、嬉しい。僕ももう迷わなくていい。レミさんだけを見ていることができる。」
二人はひしと抱き合う。
 漆黒の闇の中、二つの純白な魂が輝き、それらは次第に近づき、やがて一つになる。一つに。もう二度と、離れることもなく、永遠に闇を照らす。


8

 急に眼を覚ます。ガバッと起き上がって周囲を見渡す。見慣れた自分の部屋。隣には誰もいない。
 夢だったのだろうか?それにしてはあまりにも、何といえばよいのだろうか鬼気に迫り過ぎていた気がする。いや、あれは本当に僕の身に起こったのだ、と思う。僕とレミさんはお互いが失われたもう片方を見つけ、かっちりとはまって一つになった。ただそれが故、レミさんは僕になって、いなくなってしまったんだろう。何だかやっぱり悲しかった。
 苦悩の果てに、人生で一番に必要としていたもの、共鳴する女性を見つけ、喜びに噎び、二人が一つになることを望み、身体を摺り寄せて交わり、終にはそれを果たした。しかし、その結果また一人になってしまった。
 分かり合おうと望みながら、お互いが別であり個である間にしかそれを分かち合うことができない。なんと皮肉なことであろう。
「だって、生きてるんだもの。」
二人が始めて交わったときに、レミさんが僕に言った言葉。それが哀愁をもって僕に染み渡る。
 ああ、これからどうして生きよう。そう思って拳を握り締める。と、その拳に何かがあることに気がつく。果たしてそれはクシャクシャになった紙切れであった。開いて皺を伸ばすと、そこには文字が書き付けられている。それを読む。と、読んだ先から止め処なく涙があふれ出てくるのを禁じえなかった。
 以下がその紙切れに書かれていた言葉である。そして、これをもってこの話を終わりにする。

 

「ポチ、目覚めましたか。隣に私がいなくてびっくりしたかも知れません。でも、許してください、それは致し方のないことなのです。そして、そんな事とは何の関係もなく、あなたの時間は進み続けます。ですから、あなたの見たくない物はこれからも止め処なく、あなたの瞳に映り続けます。そのためにあなたは血を流し続けるのです。さらに残酷なことにはあなたはもう二度と、私とあなたがそうした様には、誰かと交わり溶け合うことはできないかもしれません。でも、嘆き悲しまないでください。だって、そんな現実が、その痛みそのものが、希求するその過程こそが、生きることであり、あなたなんですから。あなたがこれからの人生でほんの一瞬でも幸せを感じられたらと、心から願っています。さようなら。レミ。」


奥付




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著者 : オパーリン
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