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 生きよう、牛丼食べよう。そう思って部屋を後にした僕が今立っているのは、僕のアパートから程近い歓楽街の一角である。今俺は「立っている」と書いたが、正確には「立ち尽くしている」。途方にくれてしまっている。
「できない。できっこない。知らない女の人に声をかけるなんて、できっこないよ。」
ブツブツ、ブツブツ。そう、俺が部屋で考えついた方法とは「ナンパして飯をおごってもらう」というものだったのだ。「なんと安直な」とおっしゃる片がいらっしゃるかもしれないが、考えてみていただきたい。全てを奪われ、ただ美貌だけを与えられたこの僕が生き延びるために、他にどんな方法があるというのか。
 しかし、僕は一つの事を見落としていた。僕は全てを奪われたつもりでいたが、ただ一つ残されたものがあった。そして僕はそれを見落としていた。ただ一つ残されたもの、そう、それは他ならぬ僕自身である。そしてそれが今、このナンパ作戦を遂行する上での大きな問題になっているのである。
 しかしまたどうして、「僕」が問題であるのか、それを説明しなければならないであろう。まあ、これを説明しだすと長くなってしまうのだけれども、ここでそんなことを一々事細かに説明していても何も始まらないので、簡単に、大幅にはしょって話そう。
 つまり、だね。僕は齢二十一にして生粋の童貞である、とまあ、そういえば皆さんお分かりいただけるだろう。性にオープンなこの現代日本において、二十一にもなって未だに女を知らぬ、それはまあ大きな問題であり、そんな輩はひどく肩身が狭いどころか、社会からの風当たりはそれはまあたいそう強いなんてものではなくて、もはや「童貞は人にあらず」とでも言わんばかりの差別、辱めを受けるのである。巷ではうら若き乙女どもは童貞を見つけては
乙女①「ほら見て、あの人二十一にもなるのにまだ童貞なんですって。」
乙女②「いやん、うそぉ。信じられないぃ。ありえないぃ。きもいぃ。汚い。」
乙女①「あ、こっち来るわ。いや、なんか臭いわ。」
乙女②「いやん、臭いぃ。てゆーか、うつるわ、童貞がうつるわ。」
乙女①「そうね、うつるわね。逃げましょう。」
乙女②「いやん、来ないでぇん。うつるぅわん。」
というような会話をしているとかいないとか、とにかくまあそれ程の嫌われっぷりだそうである。もはや蝿一匹寄ってこない、そんな有様である。
 その様ないわれなき差別を受ける日本の童貞たるや、それはそれは悲惨なもので、もはやそんな状況で正常の精神状態を維持することなどほぼ不可能である。コンプレックス、世間への憎悪、溜まり続ける性欲、そんなこんながない混ぜになって、狂人一歩手前、それが童貞の現状である。
 そんな眼も当てられないような童貞、であった僕、それだけが残されてしまったのである。いくら上っ面だけをすげ替えようとも、そう簡単に女性と会話できようはずもないのである。いわんやナンパをは、である。婉曲である。もし、声をかけた女の人に「キモイ、死ね」何て言われて、冷たい侮蔑の視線を浴びせられたら、あぁ、そんな事されたらもう生きていけない。いやぁぁぁーー。
 しかし、そんなことも言っていられないのも事実である。ここでナンパできなければ俺は餓死するのみなのである。それに俺は昔の俺とは違う、何といっても容姿が美しくなったのである、もしかしたら上手くいくかもしれないではないか。いや、むしろ上手くいくだろ。世の中そんなもんだろ。いや、それよりも、今、俺は一回の成功失敗を問題にできる立場にないんだぞ。やるしかないんだ。そうだ。やるぞ。やったるぞー。うぉーー。
 グルグル、ぐるぐる、俺は心の中でアップダウンを繰り返しながら、なにか踏切りがつかず、ただブラブラと歩き、歩くうちに自然と公園にいた。ベンチに腰を下ろす。ポッケからハイライトのメンソールを取り出す。ライターで火をつける。一息吸えば、口の中に広がるメンソールの香り。ふぅ。これが一番落ち着くな。そう、落ち着かなければいけないんだよ。あ、でももう三本しか残ってねぇや。本当に何とかしないとなあ。
 
 ゆっくりと、それでも確実に、行動の時は近づいてきているのが分かる。それにつれて、具体的な行動の形も決まってくる。まずは、あれだ、どんな女性に声をかけるのか。やはり、三十中頃、そのくらいに見える人に声をかけるのがいいだろう。で、上等な洋服、アクセサリーを身につけていて、背筋のシャンと伸びたのがいいだろう。そんな女性なら、お金に余裕もあるだろうし、僕にご飯を食べさせてくれる可能性は高いのではないだろうか。そんな気がする。
 で、そんな女性を見つけたら、何と声をかければよいのだろう。
「へい、カノジョ、俺にご飯おごってくれないかい。」
 うわ、駄目ですね、これは。うむん、分からないけれども、声をかけることができたならば、自然と後は上手くいくのではないかしらん。まあ、やってみましょう。
 こうやってやることを決めてしまうと、何だか意外とすっきりとしてしまって、妙に落ち着いた心持になった。
 公園を出て、再び街角に戻り、今度は街行く女性を観察して、吟味するまでに至った。太っている人、綺麗な人、地味な人、派手な人、足の太い人、不機嫌な顔をしている人、半笑いの人、巨乳、などなど。そこいらを歩いている、顔も知らない他人を観察する、思えばそんな事をしたのは初めてではないだろうか。この人たち一人ひとりは一体どんなことを考えて、何処に向かって歩いているのかしらん。
 そんな事を考えながら人間観察をしていると、なんだか楽しくなってきてしまって、肝心のご飯を食べさせてくれそうな女性を探すのが疎かになってしまい、お、これはいかん、気を引き締めなければ、というような具合に何度も仕切りなおさなければならなかった。
 観察、探索を始めてどれくらい経ったろうか、僕が探しているようなセレブリチイな女性はなかなか見つからず、いや、何度かはそんな女性も通りかかったのかもしれないが、声をかけることができず、観察にも飽きてきて、僕はもはやボォッと待ち行く人を眺めているだけの状態になってしまっていた。
「なかなかいないね。」
 そんな独り言をつぶやいてみたりして。いつもの癖で、ニキビでも潰そうとして頬に手をやってみるも、もはや僕の肌はツルツルの完璧でニキビなど一つもなく、手持ち無沙汰だったりして。
 と。突然に眼に映ったのだ。先ほどの条件にピッタリと当てはまりそうな奥方が。おそらくは30中頃、体はすらっと細く、華奢、すっと通った鼻筋、聡明そうでいてどこか挑発するようなその瞳、満ちあふれる自信とお色気、艶やかな輝きを放つ長い真っ直ぐな髪、シックで上品なお洋服、何だか見たことのある模様のついたバッグ。指輪やら時計やらもしているけれども、それはよく分からん、きっとお高いのでしょう。
 はあ、美しい。ため息が出るほどに。有閑マダム。僕はあなたのツバメになります。とまあ、何とか美しいご婦人を発見し、僕はその人にご飯を食べさせてもらうべく、声をかけるべく、ふらふらと吸い寄せられていったわけである。
 花にたかる蝶のごとく、ヒラヒラと舞い近づき、その距離2、3メートル位にまで近づいたのだろうか。薫る、熟女の芳香。甘く、酸い、ええ匂いじゃ。恍惚。
 が、ふと我に帰る。このご婦人に声をかけなければならんのじゃったわ。バクッ、バクン。急に動悸が激しくなってしまった。顔が上気する。いや、無理でしょうが。こんな美しいご婦人に声をかけるなんて、とても、とても。死んじまうわ。いや、でもやらにゃいかんのじゃった。あ、でも俺も美しいんだっけ。それ、本当か?いや、やっぱり無理。でも、そうしたら腹減って、アボボ。キヒィーン。
 思考停止。気づくと僕はそのご婦人を通せんぼするような格好で、目の前に立ちふさがってしまっていた。ご婦人、少し驚いたように僕を見る。ヤバイ、何か話さなくては。全身から噴出す、汗。真っ白、頭の中。
「ア、 あの、すいません。」
「はい?」
 僕をマジマジと見つめ、怪訝そうに少し首を傾げるご婦人、その口元が微かに笑ったように見えた。瞳に、吸い込まれる。
「いきなりで申し訳ないんですけれど、今僕、一円もお金がなくて、そのうえ戸籍もなくなっちゃって、働けないもんで、とても困ってしまっていましてですね、大変申し訳ないんですけれどもですね、あのですね、何か食べる物、そう、ご飯の方を奢って頂けないでしょうか?」
 しどろもどろ、めちゃくちゃな日本語で一気にまくし立てた。
 沈黙。
 ご婦人の瞳はまじまじと僕を見つめていた。僕もその瞳を見やり、映し出すものをうかがい知ろうとしたが、その瞳はただ黒く、見つめる程にその奥へ沈み込んでいく、それだけであった。
「いいわよ。」
 その瞳にばかり気をとられていた僕は、自分が頼み事をしていたのだということを忘れており、その声が唐突であるかのように思われて驚いてしまった。その隙に僕の視線はご婦人の深く真っ黒な瞳から外れてしまい、再び眼を戻すと、彼女のそれはいたずらをはらんだ物に変わっていた。
「坊やは何が食べたいの?」
 そうだ、私はこのご婦人に飯を奢ってくれと話しかけたのであった。そもそもがそんな前向きな返事を想定していなかったので、彼女の言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまったのだ。そして、遅ればせながらその内容を理解した途端に、驚き、急にドキドキとしてしまった。だって、想定外なのである。
「あ、あわ、本当にご飯食べさせてくれるんですか?」
上ずった声で聞き返してしまう。
「あら、だってあなたがお願いしたんでしょう?なんで聞き返すの?気が変わっちゃうわよ、ウフフ。」
ご婦人、僕の様子に可笑しそうである。
「いや、前向きな解答が得られるとはこれっぽっちも思っていなくって。それで面食らっちゃって。はい、すいません。」
「あなた、おかしな話し方するのね。ま、いいわ。坊やは可愛いから許してあげる。さ、行きましょうよ。」
「は、はい。」
 ご婦人は僕の腕を取り、すたすたと歩き出す。水を得た魚よろしく活き活きと輝いている。僕は何が何だか、困惑しきりで、借りてきた猫のように大人しくなり、ご婦人に引きずられて行くのであった。

 

 ご婦人に連れられて入ったのはその入り口からして怖気怖づいてしまいそうな焼肉屋さんであった。今までに入ったこともないし、このままでは今後入ることもないだろう、そう思わせるお店であった。
座敷に通されて腰を落ち着けてもなんだか落ち着かない。どんな人がこんなお店に来るのだろうと思い、キョロキョロと周りを見渡して見たいものだが、あいにくと席が個室である。
 店員が水やらお絞りやらを持ってきた。その時ちらと僕を見て鼻で笑った気がする。まあ、仕方のないことだ。そういう店なのだから。そんな僕の様子が可笑しいのか、ご婦人はニヤニヤしながらお品書きを手渡してくれた。
「ここ、美味しいのよ。」
「いや、でも随分とお高いんじゃないでしょうか。カルビなんか一人分で3000円もしますけど。」
「あら、気にしなくていいのよ、そんなこと。」
「いや、でも。」
「ふふ、楽しみましょ。」
 ご婦人はお金持ちのようだ。店員を呼んで、とても二人では食べきれないような量を注文している。もし仮に見栄っ張りだったとしても、普通の人間にここまではできないだろう。
 運ばれてきたお肉はたいそうな代物であった。綺麗な桃色の赤みにきめ細かい霜が入っている。肉もここまでくると色気を放つと知った。
 そして、それからしばらくはあまり記憶が無い。口に入れると溶ける肉、タレではなく塩でいただく肉。食べているというよりも、まったく新しい刺激、それそのものを楽しむための行為であるかのようだった。
 ようやく満腹になった頃から記憶が再開する。
 顔をあげるとご婦人がニコニコと僕を見ている。ずっと僕の食べる様子を見ていたのだろうか。そういえば肉に夢中でろくに話もしていなかった。急に申し訳なくなって話しかける。
「すいません、あまりに美味しくて話すのも忘れちゃっていました。」
「ふふ、お腹一杯になった?」
「はい、今すごく満たされています。」
「それならよかった。君、名前は何ていうの?」
「ああ、そういえば名乗るのも忘れていましたね、すいません。僕は・・・、あれ?おかしいな・・・。」
 そう、名前が思い出せないのである。きっと、あの神と名乗るおっさんは名前もろとも僕の存在を消し去ってしまったのだろう。それにしても、自分の名前が無いとは困ったものだ。このままでは僕がご婦人に名前を教えたくないのだと勘違いされてしまう。うーむ、困った。美味しい焼肉までご馳走していただいたのに名乗りもしないなんて、なんとも失礼な話ではないか。
 仕方が無いので僕はこれまでの経緯をご婦人に話して、名前まで無くなってしまった事を理解してもらうことにした。
 「・・・という訳でですね、その神とかいうおっさんのせいで僕は僕であるという証拠を全て消し去られちゃったんですよ。まあにわかには信じがたい話でしょうけれど。」
「ふーん、それは随分とお気の毒な話ね。でも、名前が無いと困るわね、私だって君のこと呼ぶのにいつまでも「君」っていうのも変だし。」
「そうなんです。」
 あまりにも現実離れした話なので、ご婦人は怒りだしてしまうのではないだろうかと心配していたのだが、ご婦人はあまり気にしていないようだったので、僕は少し安心した。
「うーん、じゃあ私が君に名前付けてあげるよ。」
「え、本当ですか?」
「えーっと、どんなのがいいかな。」
 ご婦人はしばらく考えてから、こう言った。
「うん、決めた。今日から君の名前はポチね。どう、いい名前でしょ?」
「なんか、犬みたいな名前ですね。まあ、いいですけど。」
 あんなに考えていたのに思いついた名前がポチだなんて、僕はすこしがっかりしてしまった。
「なに、あんまり気に入ってないみたいね。いいじゃない、名前なんて。あ、言ってなかったけど私はレミっていうの。よろしくね。」
 そういって、レミさんはニコッとした。その瞳の奥は何か嗜虐的な光があった様に僕には感じられた。
「はあ。」
 こうして僕の新しい名前はポチになり、ご婦人はレミさんになった。レミさんは僕にポチと名づけたことで何か満足したみたいで「ポチ、ポチ」なんて言いながら僕の頭を撫でたりしている。まあ、こんなに綺麗な人の犬にされるのだったら、そんなに悪い気はしない。お手でもしてやろうかしら。
「ねえポチ、あなたこれからどうするの。」
「いえ、僕はもう社会的に抹殺されちゃったみたいなんで、特に何にもすることはないですけど。」
「そう、暇ってことね。じゃあお酒のみに行きましょうよ。今日名前が付いたってことは、帰郷はあなたの誕生日なんだから、パァっとやりましょう。」
「でも僕、パァってやるようなお金ないですよ。こんなに高級な焼肉もご馳走してもらっちゃったし。」
「いいのよ、気にしないで。私、あなたのこと気に入ったから当分の間は面倒見てあげる。いいでしょ、ポチは暇なんだし。」
「はあ、なんかすいません。」
「いいのいいの。じゃあ、行こう。」
 この時点で、僕はレミさんの犬「ポチ」として飼われる事が決まった訳であるが、それもまあいいかなあ、そう思った。今までの僕という存在が消され、僕はもうこの世界に存在しないのと同じになってしまって、レミさんの言う通り「暇」になってしまった訳であるし。
 もし仮に、あの神とかいうおっちゃんが僕を消さなかったにしても、前の僕に特にこれといってやるべき事があったのだろうかと考えると、それもよく分からない。愛する人も友達もいなかったし、勉強にも興味が無かったし、かといって仕事があるわけでもなかった。何もしないで部屋に閉じこもってただ本を読み、鬱々と恨みと憎しみだけを心に溜め込んでいた。こんなはずじゃない、ここで終わるわけにはいかない、俺には何かがあるはずだ、他人には無い何かが、と。あの頃の僕は果たして生きていただろうか、社会的に存在していただろうか、果たして今と何か違っていただろうか。
 そう考えてみると、もしかしたらあのおっちゃんは本当の神だったのかもしれない、そう思えてきた。何もしない、ただ生きているだけ、行き着くあてのないコンプレックスと誰かと触れ合いたいというやるせなさとの永遠にも思える往復の繰り返し、それだけが感情の起伏。そんな俺に機会を与えたのかもしれない「じゃあ、まっさらになってやってみろや」と。
やってみよう。僕は今日からレミさんの犬「ポチ」になって、精一杯彼女を喜ばせよう。彼女の喜び、それが僕の喜びとなり、生きる糧となるように。
 そこまで考えて、席を立ってレジに向かうレミさんの後ろ姿を見た。長く真っ直ぐな髪が光を反射して輪のように輝いている、綺麗だ。
 視線に気がついたのか、レミさんは振り返り、僕を見てニコッと笑う、ニコッと。
「ねぇ、早く行こうよ。」
「はい。」
 僕は慌てて靴を履き、レミさんの後を追った。